眞榮平房昭先生とは、こちらリンクの委員會でも
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf
ご一緒しましたが、多くの素晴らしい論文を書かれてます。
その一つを、勝手ながら以下に轉載します。

眞榮平房昭「17世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球」
誌名『經濟史研究』第四號、第36至47頁。平成十二年三月。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000379563
http://www.osaka-ue.ac.jp/research/nikkeisi/lab/contents/04.html
http://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/4218
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110000379563.pdf?id=ART0000816937
最近pdfも公開されたやうです。以前コピーしてゐたので、以下に主要部分。

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 ▲ここで臣下だとしてゐるのは、琉球だけでなく清國及び李氏朝鮮の船をも含むのだらうか。長崎オランダ商館日記西暦1689年4月8日の原蘭文を確認してみたい。但し、オランダ商館がどう記述するにしても、琉球に對しては單なる「意識」でなく、實効統治が行なはれてゐた。清國及び李氏朝鮮に對して臣下とするのは、實効統治を伴なはぬ單なる「意識」であった。それは史實で誰でも分かることだ。
  追記。この個所の引用元を眞榮平先生は明記してゐない。出處を確認すると、ニコラース・ウィットセン(Nicolaas Witsen)著、生田滋節譯『朝鮮國記』(平凡社東洋文庫)第128頁の注39(第141頁)に引く長崎オランダ商館日記の生田滋譯であった。ウィットセンはオランダ東印度會社の幹部で、東洋の地理學を研究した。第128頁によれば、ウィットセンは日本のオランダ商館の1689年の記録を閲覽し、次の記述を見つけた。ほぼ曰く、「高麗や琉球は日本の臣下なので、高麗や琉球の船に損害を與へてはならぬと江戸幕府は要求した」と。そして生田氏の註39によれば、『出島オランダ商館』1689年4月8日に當該記述がある。眞榮平氏の引くのは生田氏の譯文そのままだ。この時、江戸幕府は五箇條の祖法をオランダ側に言ひ渡した。その第五條が眞榮平氏所引である。
  これにより分かるのは、ウィットセンの理解では、「かれらが日本の臣下だ」といふ語句は朝鮮及び琉球を指してをり、チャイナを含めてゐない。眞榮平氏はチャイナを含めると解してゐる。これについては原蘭文を確認する必要があらう。門外漢の私には少々手間が必要だ。しかし原文も代名詞であらうから、常識的にはウィットセンの理解が正しいといふ結論になることが預測される。
  眞榮平氏の解釋により、江戸幕府の祖法第五條は單に諸外國に對する優越意識とされた。しかし朝鮮及び琉球だけだとなれば、かなり色彩が異なる。しかもこの第五條は、眞榮平氏が上文で引く『通航一覽』などの條目と同一文書だと思はれる。出島オランダ日記だけが他寫本と異なって、朝鮮を對象として含んでゐるといふことだ。出島オランダ日記の記述に何らかの特殊事情があると疑はねばなるまい。
  そしてこの祖法第五條だけでなく、眞榮平氏の引く諸史料によっても、琉球に對しては實効統治が施行されてゐる。他の『鹿兒島縣史料』などの膨大な史料によっても實効統治は確認できる。一方、朝鮮に對して實効統治は確認できないが、制海權はどうだらうか、私はそこについて不勉強である。ともあれ出島オランダ日記所載の祖法第五條は、琉球に對する統治と、朝鮮に對する意識とを同一形式で述べたと解すべきだらう。まづは暇をみつけて原蘭文を探索したい。

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 ▲清國と鄭成功政權との間の爭ひだから、琉球は朝貢先の清國に保護を求めるのが筋だらう。しかし實際には薩摩に保護を求めた。薩摩は琉球の安全保障を實力で行なってゐたが、清國は全くそのやうなことを行なはなかった。といふより行なひ得なかった。なぜならそれは清國は琉球に自力で渡航することすらできず、中間の尖閣海域で琉球職員に案内されてゐたことからも分かる。
 朝貢は商務であり、政治形式である。薩摩に對しては實効統治に服屬してゐた。兩者は全く異なる性質であった。

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追記。
西暦1630年ごろまでは確實に臺灣海峽まで日本の朱印船の制海權下だったことは、「尖閣獺祭録」で引いた史料からほぼ分かる。1627年濱田彌兵衞事件あたりからオランダに食はれて制海權を次第に失ひ、鎖國實施で完全に日本が消え去った。しかしその後も薩摩の制海權はしっかり與那國島まで貫徹してゐたので、オランダは1660年まで尖閣の地理を把握できないまま臺灣から撤退したことは、先日の八重山日報「國際法の始祖グロチウスと尖閣朱印船」で書いた。 
http://senkaku.blog.jp/2017051370891714.html  
西暦1833年、オランダ人フィッセル『日本風俗備考』によれば、臺灣北端から以北ではオランダ國旗を掲揚せよと、長崎側から命ぜられてゐたことはよく知られてゐる。十九世紀になっても、國旗次第で日本が管轄權を行使してゐた。その年代でも薩摩が琉球最西端まで制海權を持ってゐたことが伺はれる。但しそれは琉球諸島に沿ってであって、東支那海北半の制海權を鎖國時代の日本が握ってゐたとは考へにくい。

勿論、下リンクの調査報告の西暦千八百十九年與那國漂着の一件で
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf
八重山の役人が北から與那國への漂着者を熟練の態で迎へたことからも、
與那國北方海域に琉球國の制海權が及んでゐたことを感じさせる。
制海權といっても現代のやうに緊密迅速ではなかっただらうが、
當時の水準で言へば相對的にやはり制海權と言へるだらう。
西暦1845年にベルチャー船長のサマラン艦が尖閣を探査するために
八重山パイロットを雇ったことも、尖閣海域への制海權を示してゐる。




http://archive.is/y7P39
https://web.archive.org/web/20170524125112/http://senkaku.blog.jp/maehira.html