Wytfliet_1605_Lequio_India_Orientalis

 琉球(流求)を葡萄牙人がレキオ(Lequios、Lequeos、レキオス)と讀んだのはいかにもチャイナ東南部的な字音である。一般常識的には以下五點を感じるのが普通である。

1、流は日本語でRにもLにもなるが、チャイナではほとんどLばかりである。
2、流の「 i 」は脱落し勝ちで、廣東でLauとなるのが最もよく知られてゐる。福建でもLauが多い。
3、求はKyuよりも緩やかな音で、中世以來の等韻で尤侯は開口に屬する。Kieu, Kiouあたりが普通である。
4、最初のトメ・ピレス「東方諸國記」は、チャイナ東南部の情報で琉球について書いてゐるから多分チャイナ字音だらう。
5、早期の歐洲人はチャイナから日本情報を得た。Japan,Japon, Iaponは廣東字音Yatpunと酷似してゐる。
Royaume_du_Iapon

以上五點はわざわざ書くまでもなく、多分先人の論文にも出てゐるだらうが、私は特段に研究してゐない。葡萄牙史料のレキオがチャイナ東南部字音から來たとするには、常識的にこれだけで充分である。

 

Malaka : le Malāyu et Malāyur Gabriel Ferrand。Société asiatique (France)Journal asiatiqueSer 11 (tome 12)page126-133  Imprimerie nationale, 1918  

https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k93293x

  127頁「Le Likyu de Sulayman et le Likiwu de Ibn Madjid sont une transcription aussi approchée que possible du Chinois 流求」

 やや特別な情報は、私にとって親しい蘇州・崑山の字音である。流は蘇州で唇をすぼめてレイと讀む。崑山ではそのままレイである。LieuとかLiouにならない。
 この特徴は太湖の北側から東北側へ、常州、無錫、蘇州、崑山あたりに廣がってゐる。この地帶で「求」の今音はジウとなるが、明國時代まではギウであった。よってこの地帶の明國中葉の音はLei Giouとなる。ポルトガル式に書けばLeguioだらう。
https://www.wugniu.com/search?char=%E6%B5%81%E6%B1%82&table=wuxi_zi
https://www.wugniu.com/search?char=%E6%B5%81%E6%B1%82&table=chongming

 問題はこの地帶の字音が明國中期の葡萄牙人に受け容れられるか否か、歴史的相關の問題である。嘉靖年間にポルトガル人は寧波の雙嶼に進出したが、時期が晩い上に寧波字音ではLeguioにならない。
 可能性があるとすれば、崑山の隣の太倉がモンゴル時代に「六國碼頭」と呼ばれ貿易で榮え、明國初葉の鄭和も太倉から出航してイスラム世界に向かった。しかし殘念ながら鄭和の航海書では地名に福建南部字音が採用され、太倉の字音が廣まった可能性は高くない。また太倉の隣の崑山以西の音が葡萄牙人に廣まった可能性は更に低い。
 
 以上は前々から思ってゐたこと。以下は今日の考察。
 そもそもレキオは葡萄牙が最古なのか否かも全く確證が無い。葡萄牙進出以前、イブン・バットゥータのやうなイスラム教徒が琉球をどう讀み傳へたかといふ問題を避けられない。中島樂章「ゴーレス再考」(『史淵』所載)によれば、15世紀イブン・マージドの航海術書で、琉球をジャワ人がLikiwuと呼んでゐたことを記録してゐるさうだ。となると、ポルトガル人のLequioもイスラムから轉訛したもので、常州無錫崑山との類似は重要ではなくなる。ただ、イスラムのLikiwuから葡萄牙のLequeoまで、一貫してLが用ゐられるのは、矢張りチャイナ字音だらう。Likiwuは琉球人自身の口からイブン・マージドが音を聞いたのではない。

中島樂章「ゴーレス再考」、『史淵』150、平成25年。

 さらに中島氏によればゴーレスは、イブン・マージドの航海術書など15世紀イスラム史料でAl-Ghurとなってゐる。その語源について中島氏は結論を得てゐない。私の新たな見解としては、廣東語の琉球Lau KauからAl Ghurに訛ったのではないか。LauがAl、KauがGhurである。少し無理があるか。
 また、イブン・マージドの航海術書で既に「ゴーレスは鐵劍を佩びてチャイナと勇鬪してゐる」と述べてゐて、中島氏は前期倭寇と混同した情報だらうとしてゐる。私は混同ではなからうと思ふ。宮古八重山には前期倭寇らしき遺跡が複數あり、
福建側史料でも明國初期に福建倭寇が記録されてゐる。されば前期倭寇と宮古八重山とを結びつける根據となるのがイスラム史料のゴーレスではないか。宮古八重山から福建までは前期倭寇と琉球人の海域だといふことになり、尖閣は既に日本の勢力圏内だった。だからこそ、1534年に琉球人が陳侃を案内して尖閣海域を渡航できたのではないか。
 琉球人ゴーレスが東南アジアで交易した「琉球大航海時代」。しかしゴーレスは大小二刀を插した武士であったから、琉球を根城とする倭寇であらう。「世界に羽ばたいた琉球は凄い!」といふには少し都合の惡い話だ。
 以上の考察後半は、八月十六日八重山日報談話連載に掲載見込み。



「琉球王国は誰がつくったのか」 吉成直樹  七月社 -- 2020  
第一章 グスク時代開始期から琉球国形成へ──通説の批判的検討
三 グスク時代初期の交易ネットワーク
四 十三世紀後半以降の中国産陶磁器の受容
六 琉球の貿易システムの転換──中国との交易の開始
七 琉球を舞台とする私貿易
九 倭寇の拠点としての「三山」
【補論②】『おもろさうし』にみる「日本」の位置づけ
https://www.7gatsusha.com/books/498/



北谷(後兼久原遺跡)の砂鐵。

喜界島の製鐵遺跡。



『世界興廃大戦史・東洋戦史』 第25巻 (太平洋近代史)
仲小路彰     戦争文化研究所    昭和17
  第77頁から、「ゴーレス人」。




岡本良知「所謂ゴーレス問題への一寄与」 ( 『歴史地理』六〇巻四号、一九三二年) 。



Georg Schurhammer S. I., "O descobrimento do Japão pelos Portugueses no ano de 1543," Primeira Parte, 9. ' Léquios e Gores (1462-1544), ' in Georg Schurhammer, Orientalia, Lisboa: Centro de Estudos Históricos Ultramarinos, 1963.
(レキオス・ゴーレスの史料について重要。)



『大航海時代の海域アジアと琉球ーレキオスを求めて』
中島楽章     2020年09月    ISBN    978-4-7842-1989-6
本書ではこれまで十分に活用されてこなかったヨーロッパの文献、地図などを縦横に用いることで、海域アジアの全体状況、ヨーロッパにおける地理認識の変化、さらに漢籍等の公式的な史資料からではとらえきれない古琉球期の琉球王国の活動を多角的に解明する。
【第Ⅰ部 世界図と東アジア】
第1章 世界図の発達と東アジア
    ―プトレマイオス図からカヴェロ図まで
第2章 フランシスコ・ロドリゲスの地図(一)
    ―ポルトガルの海域アジア進出と世界図
第3章 フランシスコ・ロドリゲスの地図(二)
    ―最初のポルトガル系東アジア図
第4章 ジパングとパリオコ
    ―大航海時代初期の世界図と日本
【第Ⅱ部 ゴーレスとレキオス】
第5章 ゴーレス再考(一)―アル・グールとゴーレス
第6章 ゴーレス再考(二)―その語源問題をめぐって
第7章 マラッカの琉球人(一)―『歴代宝案』にみる
第8章 マラッカの琉球人(二)―ポルトガル史料にみる
【第Ⅲ部 レキオスを求めて】
第9章 レキオスは何処に
    ―ポルトガル人の琉球探索と情報収集
第10章 マゼランとレキオス
    ―スペインのアジア進出と琉球認識
第11章 レキオス到達(一)
    ―一五四二年、ポルトガル人の琉球漂着
第12章 レキオス到達(二)
    ―新たな地理認識とその影響


上里隆史氏ブログより。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/02/post-d0ab.html
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/02/post-bdb9.html
1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります(※)。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が起きています(『朝鮮世宗実録』)。

1431年、琉球は朝鮮に再び使節を派遣します。その時、琉球使節とともにいたのは、何と対馬海賊の頭目、早田六郎次郎でした。おそらく早田氏は対馬での琉球船襲撃事件にも関与していたと考えられます。この時の琉球使節は朝鮮国王に対し、こう述べています(『朝鮮世宗実録』13年11月)。

    「我が琉球は武寧・思紹王の頃より朝鮮と友好の礼を互いに行ってきました。しかしその後、倭人(倭寇)が(通交を)妨害し、ひさしく修好を行なえませんでした。対馬の賊首・六郎次郎の商船(1隻)が琉球に滞在していたので、それに便乗してやって来ました」

六郎次郎の船は「商船」として琉球(おそらく那覇港)に停泊していた。「琉球使節はたまたま商倭の船とともに来た」(『朝鮮世宗実録』)とあるように、対馬船は交易を目的としてたまたま琉球に滞在していただけで、琉球使節の便乗は偶発的な出来事。

これは海賊衆の「警固(けいご)」と呼ばれる中世の慣行に近い。警固とは海賊衆が自分の縄張りの範囲に航行する船の安全を保障するため、報酬をもらって「ガイド兼パイロット」の役を担当する行為。警固方式は雇い主の船に海賊が乗り込むか(上乗り)、あるいは海賊船が伴走するなど様々だったようですが、琉球使節の対馬船への便乗はこの警固の一種であったのはほぼ間違いないと思います。当時、日本の遣明船や日本へ向かう朝鮮使節など外交使節船にも海賊衆による警固が適用されていたことから、不自然なことではありません。

朝鮮へ向かう要所の対馬海域はまさに六郎次郎の縄張り。この「海のヤクザ」ともいうべき賊の頭目・六郎次郎に「みかじめ料」を払って味方につけ水先案内をさせれば、これほど安全なことはありません。
六郎次郎は当時の慣行にのっとりきわめてビジネスライクに琉球と取引したのであって(契約すれば保護する、そうでなければ襲う)。

この便乗・委託方式は以後も踏襲され、那覇港で交易活動をしていた博多商人の道安(どうあん)や佐藤信重などが「琉球使節」として朝鮮と通交しています。彼らは琉球国王の代理として一時的に臣下となると同時に、自らの交易品も朝鮮に持ち込み商売をしたのです。やがて博多商人たちはこの外交ノウハウを活用(悪用?)し、偽の琉球使節を仕立てて朝鮮貿易を行ってしまいます。

ちなみに1501年に朝鮮へ向かった琉球使節の乗った船は、4隻で470人の大使節団でしたが、何と琉球人はたったの22人だけ!あとはすべて「倭人」だったようです(『朝鮮燕山君日記』)。このように第二尚氏の時代になっても琉球は船を直接派遣せず、便乗・委託方式は対朝鮮通交の基本スタイルだったことがわかります。



東方諸国記   Pires, Thomé トメ・ピレス [著] ; 生田滋  岩波書店, 1966.10
    Suma Oriental que trata do Maar Roxo ate os Chins

http://www.library.mcgill.ca/hostedjournals/000775148.html

https://archive.org/details/McGillLibrary-136385-182