國頭村役場

沖繩本島では、かなり古くから北部が國頭、南部が島尻である。北を上位とする「内地」「本土」概念が古くから有ったわけだ。考古學によれば、平安時代中期から南九州人が南下して沖繩人の主體となったらしい(高宮廣土氏らの研究)。だから血統は繩文人が中心である。
 新井白石も『南島志』自序で「國頭居北爲首、島尻居南爲尾」と述べる。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i13/i13_00907/i13_00907_0030/i13_00907_0030_p0009.jpg

 上下の例外としては沖繩本島最北端に「奧」といふ集落が有る。
http://www.hainumikaze.com/kunigami/oku.html
疑ふらく、北部の國頭郡の西南寄りの國頭村(舊國頭間切)が古代人の上陸地であり、そこから見れば東北の隅が奧集落なのだらう。そして國頭村の南側には「奧間」といふ地名が有る。奧集落も奧間も、ともに國頭郡内での中心と邊縁の位置づけを示すかの如くである。
 今一つの例外が、琉球風水である。これについては
『ことばと人間形成の比較文化研究』所收「尖閣釣魚列島雜説七篇」
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12817507
『島嶼研究ジャーナル』第三卷第一號所收「華夷秩序に無主の地あり――琉球、尖閣、くにのかたち」
http://www.amazon.co.jp/dp/4905285283/
『八重山日報』平成二十七年二月十七日第五面「特設サイトの虚構を暴く」連載第七囘
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamanippo.html
などに既に書いた。西が外・前であり、東が内・後となってゐる。首里宮殿は西に向かひ、首里を中心として東の辨岳が後ろ、西の慶良間諸島が前となる。久米島が外であり、尖閣は更に外にある。風水だからといってチャイナは中心でなく、チャイナ側は尖閣の更に外なのである。首里宮殿が西に向くわけは、阪倉篤秀氏論文で、首里の砦で西から來る外敵を迎へ撃つのが起源だと鋭く論じてゐる。
 風水の俗はチャイナから來たが、チャイナを内地・本土としなかった。儒教式に南を前ともしなかった。沖繩は日本の内であり、チャイナではない。
fusui



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以下は、或るブログより。

http://blog.goo.ne.jp/gs15yone/e/549876085bb2e3a0712abc08a518f3d9
沖縄は北の国からはじまった?
2011年08月13日 | 文化
九州から、とから列島・南西諸島の島の呼び方として
近い島々のことを「口」といいますよね。
「口之島(とから列島)」「口永良部島」があり
その島よりも遠いのが「沖」になってきます。
ななわち「沖永良部島」とか「沖縄」になります
この「沖」よりも遠いところにあるのが「先」になってくる。先の島々です!
今でも、宮古・石垣(八重山諸島)のことを「先島」とよんでいます。
そして「先の島々」よりも先は「果て」
最南端に「波照間島」=ハテルマがあり、これも果てのさんご礁の島。
さんご礁のことを、うるまと言います。
もひとつ、南西諸島の島々には、その島の北に「国頭(上)」
南には「島尻」という地名を多くみます。
沖縄にきてドライブを楽しむために奥(沖縄北端)方面に向かってました
途中で見つけた学校です!その学校名を見て感動いたしました。。。。
なんとそれは、沖縄から想像もできない校名でした
それは「北国小中学校」でした。
これも正確には「北頭村立北国小中学校」といいます
奥へのドライブ途中に、是非寄ってみてはいかがですか
近くに「茅打パンダ」という、高所の絶景もありますよ!!
種子島の北部に「国上」徳之島南部に「島尻間切」。
沖縄本島には、国頭・中頭・島尻があります。
南西諸島には、こうした多くの「国頭上」「島尻」があり
こうした名前(地名)をつけた、大昔(太古)のひとが北方を「上」
下南部に「尻」をつけたのかと思えばおもしろい。
逆にいえば、北方に祖先がいたことになります。
南西諸島・琉球列島には九州から南下し、与那国、波照間などの
島々に移住し定住したとおもえます。