下のJapan In-depthの文章の論旨は二つ。
1、學會入會資格及び研究發表資格の閉鎖性。
2、英語に對する閉鎖性。
http://japan-indepth.jp/?p=22978

鄙見。
1、學會入會資格及び研究發表資格の閉鎖性ついては論旨に贊同。學會分野ごとに排他的にできあがってをり、漢文研究者が尖閣について、地理學や國際法や日本史で氣輕に投稿及び口頭發表できない。といっても多くの分野の學會に入會しては費用も精力も足りない。文部省が指導してこれを全部開放させれば、一遍に變はる。お上に弱い日本だから。
 ついでながら、文字書法も閉鎖的で、投稿規程で現代かな現代漢字と定められてゐるので私は投稿できない。これは歐米でも同じで、現代チャイナ式ローマ字を使はないと受け容れられなかったりする。

2、英語に對する閉鎖性については論旨に反對。言論の自由として最も重要なのが言語選擇の自由だ。世界で唯一英語に抵抗する日本といふのは貴重な存在だ。ガラパゴスには違ひないが。逆に西洋式社會科學も日本人は拒否してしまへば良い。私自身はずっと英語も西洋流も拒否して來た。西洋流を拒否したがゆゑに成し遂げた獨自研究の結晶が今の私だ。私が選擇する言語は漢文だ(チャイナ語ではない)。チャイナや日本の現代口語はおつきあひで書いてゐるに過ぎない。
 しかしここ三年、尖閣だけは西洋先進國に理解してもらはないと日本が不利なので、英譯して欲しいと思ってゐる。私の研究の價値の高さは自負してゐる。私が費用をかけて英譯しなくても、英譯したいといふ要請が來なければをかしい。
 なほ、文中のFといふ編輯者は、日本人に論文を依頼するのだから、英語で書けとは傲慢だ。しかも主題は和辻哲郎だ。日本の思想文化に關する論文で日本語を使はないやうでは、水準の低さが知れる。著者に和文で書いてもらって英譯すれば良いではないか。チャイナ語の論文が翻譯掲載されるのはしばしば見掛ける。同じことだらう。

以下原文。
http://japan-indepth.jp/?p=22978
Japan In-depth    投稿日:2015/11/11
[渡辺敦子]【「日本の」社会科学不要論】〜海外から見た乗り越え難い壁~
以前、研究仲間で、Palgrave Macmillan社が発行するブックシリーズGlobal Political Thinkersのエディターを務めるFから、日本の政治思想について執筆できる研究者はいないか、と相談を受けた。

Fの専門は、国際関係論の政治思想史である。この分野は近年、西欧中心主義からの脱却という流れの中で、西欧以外の思想への興味が広がっている。従来のポストコロニアル、ポストモダンの文脈に加え、現実主義的なアプローチとして、より建設的な国際政治のありかたを求めて多様な政治思想から答えを模索しようという流れである。今回は、Fの相談から、例の大学改革により不要論かまびすしい日本の社会科学について、考えてみたい。

近代日本は、近代西欧政治思想をいち早く取り入れ、さらにそれを近隣諸国に輸出してきた。このことは、国際政治思想の中の日本を特殊な存在としている。また日本には、思想史研究には長い伝統がある。それを紹介する機会に協力できるのは光栄だが、英語で書ける人物でなければいけないため、なかなか困難な相談だった。Fには何人かの日本人研究者を提案したが、まずメールアドレスを探すのに苦労し、さらに連絡してもなしのつぶてだったらしい。日本人から探すのは困難との結論に達し、最終的に在日外国人研究者に頼むことになったという。ちなみに英米の研究者は大学のHPから連絡先がわかり、大物にメールを送っても気軽に返事をくれたりする。当然、コラボも進みやすい。

今回扱う思想家は和辻哲郎だという。彼の社会思想は現在の国際社会へ示唆するところ多いが、欧米の社会科学では日本研究以外では無名に近く、特に国際関係論で取り上げられることはほぼ皆無だ。もちろん日本人以外にも優れた日本思想の研究者はいるのだが、この分野における最初のまとまった形での和辻の紹介が、日本人の手によらないことはやはり残念だ。

海外にいると、日本の学術界の閉鎖性を時に痛感する。先日は、「国際」と名のつく日本のとある学会で、日本政治思想に関する共同研究の発表を行おうと問い合わせをしたら、「まず学会員であることが前提」と言われた。入会には会員2名の推薦が必要で、しかも英語での発表は交渉が必要だ、という。ちなみに英語圏の学会は通常推薦人不要で、完全にオープンである。学会発表は、審査に通ればよい。ドイツ人である共同研究者にそうした日本の事情を説明したら、苦笑された。これでは海外の研究者が参加するのは不可能に近い。

こんなこともあった。この分野では大物である某国立大学名誉教授の英語論文を読んでいたら、福沢諭吉についての引用が「Yukichi, 1976」などとなっている。これはもちろん「Fukuzawa, 1976」でなくてはならない。同様の間違いが同じ論文に大量にあり、誤植というよりむしろ読まれないことを前提としているのかと疑いたくなる。断っておくが、査読論文である。これでも平気なのはおそらく、日本の国際関係論は欧米の学者主導のため、日本の歴史や文化の正確な知識は問われにくい構造になっているからだろう。

社会科学とは、福沢の訳によれば「人間交際(society)」を研究する学問である。だから交際を阻む社会科学は意味がないし、グローバルな議論に参加しない国際政治学など存在してはならない。もちろん、進んで交際を外部に求めてきた優れた先達、同輩は多くいるし、高度な英語力が求められる社会科学の国際化のハードルは、実は自然科学に比べはるかに高い。しかしこの「壁」は語学以前の問題だ。国際化が学問の全てでないのはもちろんだが、日本の社会科学に不要論が出るのはやむを得ぬことなのか、と嘆息せずにはいられない。


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