南京事件がユネスコ世界記憶遺産に登録されたさうだ。私は南京の所謂人數について研究したことが無いので、何も發言權が無い。ただ毎日新聞の追跡記事を見ると、氣になることが書いてある。
http://mainichi.jp/shimen/news/20151011ddm003040064000c.html
中国外務省が申請を発表した昨年6月以降、政府は大使館を通じて再三、中国側に抗議。提出資料の開示や日本の専門家による調査を求めてきた。ユネスコに対しても首相や岸田文雄外相が慎重審査を要請したほか、国際諮問委員会の専門家14人に政府関係者が個別に接触し、懸念を伝えた。
 しかし、諮問委には各国の公文書館長など文書管理の専門家が多く、「政府の働きかけに不快感もあった」(外務省幹部)といい、登録回避の有効な手立てはなかったのが実情だ。
 (毎日新聞平成27年10月11日)


 公文書館長に對して政治方面が働きかけたら、それは逆にうまく行くまい。それよりも日本側は徹底的な學術的論戰をユネスコに申し込むべきであった。必ずしもユネスコでなくて良い。國際輿論に一字一句まで見える形で、アメリカなど第三國で、百日討論を繰りひろげる。史料の虚實が根本問題なのだから、一史料につき半日を費やすべきだ。
 過去に「日中歴史共同研究」も有ったが、共同で研究する必要は無く、ただ各研究者が各史料について言ひたいことを言へば良い。そのまま結論を出す必要は無い。逆に結論を出してはならない。學術の結論は「出す」ものではなく、「出る」ものだ。議論の結果を白日の下に曝せば、結論は自然に出る。もしくは結論出ずといふ結論が出る。
 今、「歴史戰」といふ言葉が喧しい。私にとっては願はしい趨勢であるが、今度のユネスコの件で思ったのは、歴史戰と稱して歴史を政治化するならば、逆効果だ。歴史の議論で威勢の良い側が勝った負けたの話ではなく、史料の虚實こそが問題となってゐるのだ。これは歴史戰でなく「史料戰」と呼ぶべきだ。
 これを最終解決できるのは、學術の力以外に無い。私自身が研究者なので、言ひにくいことではあるが、世間は研究者を輕んじてゐる。特に史料研究者を輕んじてゐる。どの研究者の議論が正しいのか、大學名や學會閥などで決まることではない。地位や知名度を全く度外視して、史料の徹底討論で勝ちぬいた研究者こそ重んじられるべきだ。さうしないと日本は負ける。それにはまづ、長時間の公開討論を國内外で繰り返し繰り返し進めるべきだ。
 チャイナ政府の決めた研究者を招いてゐるやうでは事實が明らかにならない。史料を掌握してゐるチャイナの基層研究者こそ招くべきだ。また、日本政府が直接議論すべきではない。音頭を取って討論の場(費用と事務作業)を政府が提供すべきだ。議論は完全に自由且つ公開だ。アメリカ政府の協力を求めるのも必要だ。
 尖閣も同じことだ。

南京事件