西暦一六八三年の册封琉球大使汪楫は、尖閣最東端の赤嶼(大正島)附近で船員から「中外之界」を告げられた。船中の琉球人が告げた言葉であることは、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』などで既に述べてある。根據は第一に、他の記録で臺灣海峽以東の水先案内人は琉球人であること。第二に汪楫自身の船は、臺灣海峽で一度はチャイナ人の主張する針路を採用したが、誤導したため已むを得ず琉球人の主張する針路を採用したこと。
 それ以上に深く考へてゐなかったのだが、よく考へれば汪楫自身の『中山沿革志』に次の語が有る。曰く、
「但有彼國嚮導、便可按期出洋。」
(ただ彼の國の嚮導あれば、すなはち期に按じて洋に出づべし)
と。これは出航前に、禮部の議論で「琉球からの朝貢使節を待って出航せよ」とされたのだが、その年度は朝貢使節が來てゐないので、「琉球の水先案内人だけゐれば出航できる」と汪楫が主張した語である。琉球の水先案内人無くしては出航できない。されば尖閣の東の中外之界は琉球人が告げた可能性がほぼ十割だ。琉球人が告げたならば中外の「中」は首里だと考へて何ら不都合無い。そして他の風水記録と併せて觀れば、中の首里から外の尖閣までならべて統一解釋できることも既に述べた。
 まあ小さな記述であるから、論文に書く前にブログで書いて置かう。

汪楫像
  ▲汪楫像

https://archive.is/aIa3R
http://web.archive.org/web/20150722085152/http://senkaku.blog.jp/archives/37320674.html

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