本日は平成二十七年六月二十一日。新發見を投稿する。西暦1787年に琉球附近海域を探檢したラペルーズが述べてゐたこととして、
  1、臺灣の東方の全島嶼の首府は沖繩本島である。
  2、尖閣を離れれば、航路上の琉球諸島は終りだ。
この二點にもとづいて、尖閣は無主地ながら地理的に沖繩に屬することは、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第四部の論文「尖閣南北航路説」の中で詳述しておいた(本投稿の下方にその部分を轉載する)。のちに日本の領土となってゆく歴史がそこにある。
 しかしラペルーズの斷片的記述がどの程度世に普及してゐたのか、これまで確かめられなかった。今月(平成二十七年六月)に至り、その證據を見つけた。例の如くインターネットのデジタル書庫に出る。近年各地の圖書館博物館で公開されるデジタル書庫は、實に寶の山と稱するに足る。世界中の研究者の研究は書庫公開速度に追ひついてゐない。「デジタル書庫から見つかった」ことがニュースとなり得る。積極的にニュースにしなければ尖閣歴史戰に勝てない。
 さて、本日の新發見。西暦1804年のシュティーラー製圖「Charte von China」では、尖閣(Tiaoyusu、Hoapinsu)を琉球の枠内に入れる。ワイマールの地理研究所(Geographisches Institut)刊。ミュンスター大學デジタル書庫1-121931番で閲覽できる。
http://sammlungen.ulb.uni-muenster.de/hd/content/zoom/2756527
http://sammlungen.ulb.uni-muenster.de/hd/content/titleinfo/2756526
stieler1804ryukyu全muenster藏1-121931粗
鮮明に擴大できる。枠内の尖閣及び琉球は山吹色、枠外の臺灣西岸は桃色で、分色も瞭然としてゐる。pdfダウンロードもできるが擴大すると模糊としてくる。琉球の枠の標題に曰く、
  「Insel-Gruppe Lieu-kieu oder der Likejo s-Inseln zwischen Formosa und Japan」
  (リウキウ島グループまたはリケヨの群島、フォルモサ日本間の)
と。Likejoは琉球の轉聲である。「フォルモサ日本間」とは、まさしくラペルーズの語を思ひ起こさせる。ただ現在の領土分界と異なるのは、Pong-kia-shan(彭家山)が琉球の枠内に置かれて同じく山吹色に塗られてゐる。彭家山は臺灣北方三島の一だが、ダンビル(D'Anville)系の圖で通例として臺灣の東に大きく張り出して描かれる。從ってラペルーズの「臺灣東方の全島嶼」に含まれて當然なのである。ラペルーズの語が痕跡を留めてゐるとみて良い。
 シュティーラーが製作時に既にラペルーズの記録を閲覽してゐたことは、臺灣海峽南側の淺瀬を載せることによって確かめられる。ラペルーズは澎湖からやや南下した後、西のチャイナへ進まうとしたが、淺瀬に出逢って引き返し、臺灣島南端から東へ出て、臺灣島東岸に沿って北上した。引き返した淺瀬の箇所で、ラペルーズの記録は以下の通りに書かれてゐる。
 西暦1797年(共和暦第五年)刊、佛語版ラペルーズ周遊記『Voyage de La Pérouse autour du Monde』、ミレーモロー(milet mureau)編、全四册中第二册第16章第369-370頁の、
https://books.google.co.jp/books?id=bedaAAAAQAAJ
淺瀬に出逢った際に曰く、
  「celui d'un banc qui n'est point marqué sur les cartes」
  (地圖に標示されない淺瀬)
と。手稿本同じ。また淺瀬から引き返す際に曰く、
  「Ce banc dont nous n'avons pas déterminé les limites au Nord-Ouest」
  (我々が西北の限界を決定しなかった淺瀬)
と。手稿本同じ。引き返したので淺瀬の西北側の果てが分からないといふ意である。手稿本といふのは、近年ラペルーズ原本からJohn Dunmore, Maurice de Brossard兩氏が昭和六十年(西暦千九百八十五年)に活字に整理したもので、『Le voyage de Lapérouse 1785-1788』と題する計二册となってゐる。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA13952690
西暦1797年に刊行された佛語本とは少しく異同があるといふことだが、上記の箇所に異同は無い。
 また同じ西暦1797年版に附するラペルーズ探檢圖「Carte des decouvertes, dans les mers de chine et de tartarie」(支那海韃靼海探檢圖、ラムゼー圖庫3355043)に曰く、
  「banc dont on ne connait pas les limites」
  (我々が限界を知らぬ淺瀬)
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~20222~550043
jpg
と。次に西暦1798年、英語版『The voyage of La Pérouse round the world』下册、ロンドン・ピカデリーにてストックデール(Stockdale)氏刊、
https://archive.org/details/cihm_37563
 https://archive.org/download/cihm_37563/cihm_37563.pdf
第16章第3頁曰く、
  「of a bank not laid down in the charts」
  (地圖に設定されない淺瀬)
と。また曰く、
  「This bank whose limits to the N. W. we had not determined」
  (我々が西北の限界を決定しなかった淺瀬)
と。西暦1799年刊本の「Chart of discoveries, in the seas of China and tartary」(支那海韃靼海探檢圖、Rumsey0414043)にも曰く、
  「bank the limits of which are not known」
  (限界の知られぬ淺瀬)と。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~35656~1200144
 次に西暦1799年に獨語版上册、西暦1800年に獨語版下册が刊行され、下册第5頁に臺灣琉球の記述がある。
https://books.google.co.jp/books?id=B_RCAAAAcAAJ
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA2925813X

しかし西暦1800年では遲いので、シュティーラー1800年圖(下述)の所據は佛語もしくは英語であらう。
 さて、シュティーラー西暦1804年圖の上述の淺瀬に題して曰く、
  「bank deren gränzen man nicht kennt」
  (境界線を知られぬ淺瀬)
と。シュティーラーの「Charte von China」圖は1800年にも既に刊行されてをり、琉球の枠は未設なるものの、上述の淺瀬は同じであり、淺瀬に題する語も同じである。西暦1800年製圖はワイマールの工業出版社(Verlage des Industrie Comptoirs)刊。ベルン大學收藏番號ZB-Ryh-7201-35。
http://aleph.unibas.ch/F/?func=find-b&find_code=SYS&request=1311524&CON_LNG=ENG
http://biblio.unibe.ch/web-apps/maps/lightbox.php?col=ryh&pic=Ryh_7201_35
https://www.vialibri.net/item_pg_i/502167-1800-charte-von-china-nach-murdochischer-projection-entworfen-nach-den-neuesten.htm
http://img.zvab.com/member/54290k/34335609.jpg

Stieler1800_Charte_von_China_BernUniv藏
 この淺瀬はラペルーズが發見したのだから、シュティーラーはラペルーズの情報を早くも西暦1800年に採用してゐたことが分かる。從って、「フォルモサ日本間」の語や彭家山の歸屬などもラペルーズ情報にもとづくと推測してほぼ間違ひ無からう。
 西暦1800年及び1804年のシュティーラー圖の島の形状及び島名は綜合的にダンビル系統に屬し、ゴービルの紀行にもとづいて少しく改められた箇所もあるやうだ。そこにラペルーズの情報も幾つか追加されたのである。西暦1800年時點では琉球の枠を別に設けるに未だ暇なかったが、西暦1804年に至って上述「東方全島嶼」「尖閣で琉球終り」などの情報にもとづいて琉球の枠を設け、チャイナと別の色に塗ったのだらう。
 もう一つの重要な特徴が、與那國島の位置だ。與那國島は歴來西洋製圖及び紀行で「Kumi」島と呼ばれるので、久米島と混同されたのではないかとも言はれる。そして往々KumiとYonakuniを一圖中に併存する。ダンビル系の圖ではKumiをYeunakuniよりも東側に描く。リンクは西暦1794年ロンドン刊ダンビル「支那帝國圖」(The Empire of China)。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~31576~1150055
D-Anville切1794_China_Empire_Rumsey2310070
 ところが西暦1804年ラペルーズ圖は八重山諸島の中でKumiだけ西へ大きく張り出す。これもラペルーズ情報にもとづく。なぜならラペルーズは臺灣東岸を北上した後にKumi島に寄航し、「ここから琉球國だ」と述べて更に北上する。他の八重山諸島には向かはなかった。從ってラペルーズ情報ではKumi島が琉球國最西端となる。シュティーラーはその情報にもとづいたのである。
 附言すれば、ダンビル系の圖では最初の西暦1752年に釣魚嶼をHao-yu-suご誤記したまま流布するが、ダンビル所據のゴービル神父の紀行(西暦1751年原著)が後に刊行されると、ゴービルの原著にもとづいて「Tiao-yu-su」と改める圖も出現する。シュティーラーもラペルーズもTiao-yu-suに作る。
 また、シュティーラーの標題の「Likejo」は、ラペルーズの「Likeuyo」と相似である。他にも類似のものは有るだらうが、Likejoはラペルーズから取った可能性もある。今後確認したい。
 勿論、ダンビル系の舊圖にラペルーズの澎湖南方の淺瀬は無い。例へば西暦1752年版と1794年版には無い。リンクは西暦1752年刊ダンビル「アジア圖第二部分」(Seconde partie de la carte d'Asie)。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~4417~410006
D-Anville澎湖1752_Asie2_Rumsey2603006

 シュティーラー圖の琉球枠は今一つ存在する。西暦1817年のガスパリ氏製の圖册
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/view/search?q=%3D%229535.000%22
の中の「Charte von China」でも、
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~276120~90049320
尖閣を琉球の枠内に入れる。右下の識語にH. F. A. Stieler圖を採用したと書いてある。H. F. A. Stielerは、Heinrich Friedrich Adolf Stielerであり、同一人物だとワールドキャットの注に
http://www.worldcat.org/identities/lccn-n88-80340/
書いてある。
 米國議會圖書館の電子目録によれば、同じくシュティーラー「Charte von China」の西暦1842年版が
http://lccn.loc.gov/2006629410
藏せられる。館藏番藏2006629410、分類記號G7820-1842-S8。この版の琉球枠も同じかどうか、今後確認したい。同じであれば、明治元年の國境線(下記)への繋がりがさらに密切不可分となる。
 今度最大の發見となった西暦1804年のシュティーラー製圖「Charte von China」は、他に手彩で多數のデジタル畫像が公開されてゐる。ベルン大學のものは不鮮明だが、尖閣はほぼ山吹色だらう。地圖商swaen網では六萬圓にも上 るが、原圖の一枚や二枚は日本政府が購入して保管して欲しいものだ。
http://www.loeb-larocque.com/antique-map.php?page=17
http://216.117.166.233/map_zoomFR.htm?zoomifyImagePath=http://216.117.166.233/os/zoom2/34224/
http://sammlungen.ulb.uni-muenster.de/hd/content/zoom/2756527
http://biblio.unibe.ch/web-apps/maps/lightbox.php?col=ryh&pic=Ryh_7201_36
https://www.swaen.com/item.php?id=24257
https://www.swaen.com/zoomV2.php?id=24257
https://www.swaen.com/item.php?id=24686
https://www.swaen.com/zoomV2.php?id=24686
https://www.vialibri.net/item_pg_i/830494-1804-china-charte-von-china-nach-murdochischer-projection-entworfen-nach-den.htm
http://www.europeana.eu/portal/record/9200109/0D6E4C90EEF42320946289EC596FEE9587EFAD5D.html
http://biblio.unibe.ch/web-apps/maps/preview.php?col=ryh&gallery=7201&pic=Ryh_7201_36.jpg
https://lhwei.gbv.de/DB=2/LNG=DU/SID=9cbf5dd7-0/CMD?ACT=SRCHA&TRM=charte+von+china
http://www.worldcat.org/title/charte-von-china/oclc/248588153
http://lccn.loc.gov/2006629422
http://query.staatsarchiv.bs.ch/query/detail.aspx?id=793329


 かくして、シュティーラーはラペルーズの寥寥たる數語にもとづいて尖閣を琉球諸島内としたことが分かったが、後に明治元年(西暦1868年)になると、シュティーラーの後を繼いで地圖册を刊行したペーターマンが、尖閣の西側に國境線を引く。拙著『尖閣反駁マニュアル百題』の表紙に採用したのがこれである。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986
表紙反駁マニュアル
この明治元年シュティーラー圖が、後に重刊を繰り返して大いに流布したことは
http://senkaku.blog.jp/archives/33707104.html
リンクの通りである。その大もとは、西暦1787年ラペルーズ情報だったのである。勿論ペーターマンはサマラン號の記録など多くの情報を採用したのであって、單にラペルーズだけを信頼したわけではないが、そこに濫觴したことは間違ひない。このやうに、尖閣が明治二十八年に日本に屬するに至るまでには、長い歴史が有ったのだ。歴史ある尖閣は、ただの無人島ではない。
 以下、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第四部の論文「尖閣南北航路説」の第三百九十九至四百頁のラペルーズ考を轉載しておく。

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 西暦千七百八十七年、フランスのラペルーズ船長が臺灣島東岸を北上した。その日誌は『ラペルーズ世界周航記』(Voyage de La Pérouse autour du Monde)と題して、パリの共和國印刷社から西暦千七百九十七年に刊行された。翌年(西暦千七百九十八年)には早くも英譯(The voyage of La Perouse round the world)が出てゐる(ロンドン・ピカデリー街、John Stockdale氏刊)。また西暦千七百九十七年パリ刊の「西暦1787年支那韃靼海域探檢總圖」には航行月日が記載されてゐる。三者を併せてまとめれば、ラペルーズは澳門、マニラ、澎湖及び臺灣島南端の順に航行して、五月二日及び三日にタバコシマを測量し、五月六日にクミ島(Kumi、與那國島)を經て、五月七日に花瓶嶼(Hoapinsu)及び釣魚嶼(Tiaoyu-su)に到達した(原書第二卷第十六章、自第三百八十一頁、至三百八十三頁、英譯下卷第十六章、第十二頁、至十三頁)。そして花瓶嶼の位置を北緯二十五度四十四分、パリ子午線東經百二十一度十四分と計測記録した。グリニッジ子午線の百二十三度三十四分に當たる。これは實際には花瓶嶼でなくほぼ釣魚嶼及び南北小島の經緯度である。また釣魚嶼を北緯二十五度五十五分、パリ子午線東經百二十一度二十七分と計測記録した。グリニッジ子午線の百二十三度四十七分に當たる。これは實際には釣魚嶼でなく黄尾嶼(久場島)の經緯度である。ラペルーズはこれら數値を記録した後、次の段落で「終に琉球諸島の海域から出た」との重要な一語を誌して更に北上し、東シナ海を縱斷して對馬に至った。この一語の原文は、
Nous etions enfin sortis de I'archipel des iles de Likeu
となってをり、西暦千七百九十八年英譯は、
We had now quitted the archipelago of the islands of Liqueo.
となってゐる。ラペルーズは尖閣を地理的に琉球諸島に屬すると看做したことが分かる。ラペルーズは臺灣島をフォルモサと呼ぶので、「琉球」とは現沖繩縣の諸島を指し、臺灣島を指さない。
 しかも前日、與那國近傍に停船中には、「フォルモサ東方の全島嶼の首府たる大琉球島について、ゴービル神父の描寫の通りならば、その地で歐洲人は受け入れられるだらう」と述べる。原文は、
D'après les détails du père Gaubil sur la grande île de Likeu, capitale de toutes les îles à l'orient de Formose, je suis assez porté a croire que les Européens y seraient reçus,
となってをり、英譯は
according to the description of Father Gaubil of the great island of Liqueo, the capital of all the islands eastward of Formosa, I am led to believe that the Europeans would be received there, 
となってゐる。ラペルーズ手稿はジョン・ダンモア及びモーリス・ド・ブロッサール編(John Dunmore, Maurice de Brossard)『自西暦千七百八十五年、至千七百八十八年、ラペルーズ行記』(Le voyage de Lapérouse  1785-1788)として活字印本となり、昭和六十年に國家出版社(Impr. nationale)より刊行されたが、この箇所はほぼ同樣である。ゴービルの描寫とは、琉球國の平和の状及び外國人に對する友好の意を指し、「首府」の一語を指すわけではない。ゴービル原書でも、「島民は普遍的に外國人に對して好意的である」(ces Insulaires sont generalement affables pour les etrangers)と述べる。ゴービル神父著『支那名琉球諸島嶼録』(Mémoire sur les îles que les Chinois appellent îles de Lieou-kieou)のうち「これら島民の性質」(Caractere de ces Insulaires)の條に見える。今用ゐるのは前引の西暦千八百十一年刊本、第百八十九、百九十頁である。
 ゴービルは大琉球が臺灣東方全島嶼の首府だと書いてゐない。全島嶼の首府とはラペルーズ自身の認識である。東方と言っても、沖繩本島及び久米島は臺灣北端に較べて高緯度なので、全島嶼はかなり北寄りまで含めて指してゐる。尖閣も臺灣北端から少しく北寄りだが、琉球諸島に含まれると述べる以上は、明らかに「全島嶼」中に含まれる。もちろん當時の尖閣は無主地だから、實際には尖閣が大琉球島(沖繩本島)を首府とするわけではない。或は「capitale」は統治上の首府でなく單に地理的中心を指し得たのか、史學專門家の判斷を待ちたい。いづれにしろラペルーズの認識からは、尖閣が後に沖繩縣に屬してゆく歴史の趨勢を見ることができる。

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以上、平成二十七年六月二十一日投稿、期日保存のため、以下に複製しておく。
http://web.archive.org/web/20150621013300/http://senkaku.blog.jp/archives/34555255.html
https://archive.is/ektyy