西暦1871年(同治十年)の『淡水廳志』卷二「疆界」に曰く、
「至大鷄籠祖山、沿海極北之道止。」
(大鷄籠祖山に至り、沿海極北の道止まる)
と。これは臺灣の最北端を示してをり、
尖閣が臺灣の外に在った證據とされて來た。
間違ひではないが、あまり良い史料でもない。
そのわけを述べよう。
この部分の上文には、淡水廳といふ行政區域の
最北端が三貂だと書かれてをり、それに續いて
鷄籠(基隆)祖山は西岸沿海の最北端といふ扱ひだ。
三貂が鷄籠よりも北にあることになる。
實際には三貂よりも鷄籠の緯度が高いのだが、
とにかく三貂は行政區域の最北端と記載され、
鷄籠は西海岸の最北端との扱ひである。
尖閣が界外の地であった史實を示すには、
西海岸の最北端を記述したものではなく、
行政領域の最北端を述べた史料こそ根據となる。
そのため拙著『尖閣反駁マニュアル百題』
http://lib.kurume-u.ac.jp/mylimedio/search/search.do?mode=comp&ncid=BB1584128X
ではこれを採用しなかった。
もちろん實際に鷄籠は臺灣府の行政領域の最北端であるから、
決して誤りではない。ただ最善ではないので採用しなかった。

また西暦1737年(乾隆二年)の『臺海使槎録』卷二に曰く、
「鷄籠・澹水、乃臺灣極北之島、突處海中、毘連番社。」
(鷄籠・澹水は乃ち臺灣極北の島にして、海中に突處し、蕃社に毘連す)
と。この「島」とは大きな臺灣島を指してゐる。
臺灣本島の最北端が鷄籠・淡水だといふに過ぎない。
尖閣のやうな離島は「嶼」「山」と呼ばれるので別物である。
やはり根據として今一つである。
海中に「突處」するといふ記述も、離島でなく大きな臺灣島の
北端が突き出てゐることを形容してゐる。
蕃社(臺灣島の東部)に毘連するといふのも離島ではないことを示す。
そのため拙著『尖閣反駁マニュアル百題』
http://lib.kurume-u.ac.jp/mylimedio/search/search.do?mode=comp&ncid=BB1584128X
ではこれを採用しなかった。
勿論、清國臺灣府の行政區に離島は含まれないので、
この記述でも少しは根據となるのだが、不充分である。

富貴角