vanikoro2005
  ▲平成十七年、ヴァニコロ島の海底

(以下の内容は平成二十八年十一月十五日火曜と十七日木曜『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭録」第八十五囘、八十六囘に掲載します)
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html


ジュールベルヌ作『Histoire générale des grands voyages et des grands voyageurs』第四册『Les navigateurs du 18. siècle』 (ベルヌ著、歴年遠征傳略、十八世紀大航海家傳)第二部。
グーグル公開、國立フィレンツェ中央圖書館藏本。刊行年を著しないが、該館目録では疑西暦1878年刊とする。
http://opac.bncf.firenze.sbn.it/opac/controller?action=search_byidnsearch&query_fieldname_1=bidtutti&query_querystring_1=NAP0371985
https://archive.org/details/bub_gb_gVQqF4TdYAkC
https://books.google.co.jp/books?id=gVQqF4TdYAkC
今一つ、グーグルで西暦1789年版とするものあり。
https://books.google.co.jp/books?id=YIkvm578BiMC
第一章「フランスの航海家」(Les Navogateurs Français)の第二節(第五十四頁以下)はラペルーズである。ラペルーズと言へば、尖閣だ。早速第82頁、臺灣島南岸を繞って北上する段を見てみる。下はフィレンツェ藏の疑西暦1878年版グーグル電子畫像。
1878年ベルヌHistoire_generale_des_grands_voyages尖閣

 後に西暦1887年刊行の英譯が有る。
『The Great Navigators of the Eighteenth Century』
Jules Verne著、紐育Charles Scribner's Sons刊。
https://books.google.co.jp/books?id=oH-TQtsqgT0C
ベルヌ尖閣英譯_Great_Navigators_of_18
段落譯意。
(西暦1787年四月)21日。ラペルーズはフォルモサ(臺灣島)を目にして、そのまま海峽に這入った。チャイナとフォルモサとを分け る海峽である。そこで彼は船乘りの知らぬ危險な暗礁(今の臺灣堆)を見つけ、水深と進入路とを愼重に調査した。古へのゼーランディアのオランダ城寨の灣口を過ぎると、そこは島の首府臺灣であった。
 フォルモサ海峽を北上するに適した季節風ではないため、ラペルーズはフォルモサ東岸航行を決意した。彼は樣々な形状の岩礁群たる澎湖諸島の位置を修正した。航海家未上陸のボトルタバコシマを偵察した。琉球王國の一部を形成するKinin(Kumi)島(もと西表の古見だがここでは與那國島)に接近航行した。その住民はチャイナ人でもなく日本人でもなく、兩人種の混合のやうに見えた。そしてHoaPinsuとTiaoyu-suとを目撃した。後者(尖閣)は琉球諸島を構成する島々である。琉球諸島はイエズス會士ゴービル(Gaubil)の通信によってのみ知られてゐた。
 帆船は東チャイナ海に這入り、チャイナを日本から分ける海峽に針路を向けた。ラペルーズはカナダ東部のラブラドール半島沿岸で滿ちてゐると同じ程の濃霧及び劇しく變動する潮流に遭遇した。
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この中で、尖閣は「qui font partie de l'archipel de Likeu」(英語form part of the Likeu Archipelago(琉球諸島の一部を形づくる)。既刊の和譯は『ラ・ペルーズの大航海』(第三部のみ)、榊原晃三譯、NTT出版、平成九年刊。榊原晃三氏第四十六頁の和譯に曰く「これらの島は琉球列島の一部で」と。
  ラペルーズ原文は尖閣のHoapinsu(和平嶼、花瓶嶼)とTiaoyusu(釣魚嶼)を離れる時に「これで琉球諸島が終る」と短く述べるが、それが シュティーラーの西暦1804年圖、1868年圖に採用されて尖閣は琉球に配屬された。同じやうにジュールベルヌもラペルーズの短かな一語から「尖閣は琉球諸島を構成してゐる」と解したのである。ベルヌ自身の理解である。
 但しベルヌは與那國を琉球國(royaume)内として、尖閣を琉球諸島(archipelago)内として分けてゐる。ラペルーズは臺灣島東方の全島嶼の首府が琉球本島だとしてゐたから、ベルヌはラペルーズの語と微かに異なる。全島嶼の首府なる語に尖閣は含まれず、琉球諸島には含まれる、といふ解釋となってゐる。これより先、シュティーラーの西暦1804年圖、1868年圖ともにラペルーズにもとづいて政治的區分として尖閣を琉球に入れてゐるので、ベルヌの認識はシュティーラーの地圖とも異なる。ベルヌは深く考へずに琉球國と琉球諸島とを分ける形でラペルーズの語を理解したのだらう。
 しかし思慮を以て分けた可能性も有る。西暦1878年の史實としても尖閣はまだ琉球沖繩の統治下に編入されてゐない。ベルヌは後述の通り特に絶海の小島に關心を持ってゐた。ラペルーズ以後の航海記録(サマラン號など)や、日本の臺灣出兵關聯報道などから最新情報を得て、このやうに分けた可能性も無きにしもあらず。ベルヌが尖閣にも關心を持ち、事と次第では小説の題材にしたかも知れないと空想すれば面白い。

 スペイン語版『十八世紀大航海家傳』(los grandes navegantes del siglo XVIII)もある。
https://www.worldcat.org/oclc/829263834
http://www.europeana.eu/portal/record/9200376/BibliographicResource_3000100208930.html
スペイン國家圖書館藏の西暦1880年刊本が、スペインデジタル圖書館で公開されてゐる。全文ダウンロードはこちら。
http://bdh-rd.bne.es/viewer.vm?pid=d-3420236
第三部「フランスの航海家」(Tercera parte Los Navegantes Franceses)の第二章がラペルーズ。第31頁の電子畫像。
ジュールベルヌ・ラペルーズ

(スペイン語)El 21, La Perouse avistó la isla Formosa y entró inmediatamente en el canal que separa la isla de la China. Allí descubrió un banco muy péligroso, desconocido de los navegantes, y levantó con cuidado el plano de los sondeos y de sus inmediaciones. Poco despues pasó delante de la bahía del antiguo fuerte holandés de Zelanda, donde está situada la ciudad de Taguan, capital de esta isla.
 No siendo la vorable la monzon para subir por el canal de Formosa, se determinó á pasar al Este de esta isla. Rectificó la posicion de las islas de los Pescadores, conjunto de rocas que presentan toda especie de figuras; reconoció la isleta de Botol-Tabaco-Xima, á donde jamás habia puesto el pie ningun viajero; costeó la isla de Kimú, que forma parte del reino de Likeu, cuyos habitantes, ni son chinos, ni japoneses, pero parecen una mezcla de los dos pueblos, y vió las islaś Hoa-Pinsú y Tiaoyu-su que forman parte del archipiélago de Likeu, conocida tan solo por las cartas del padre jesuita Gaubil.
 Las fragatas entraron entonces en el mar oriental y se dirigieron hácia la entrada del canal que separa la China del Japon. La Perouse encontró allí nieblas tan espesas como en las costas del Labrador, y corrientes variables y violentas.

 獨逸譯文もある。
Jules Verne: Die großen Seefahrer des 18. Jahrhunderts. Bekannte und unbekannte Welten. Abenteuerliche Reisen von Julius Verne, Band XXXIII–XXXIV, Wien, Pest, Leipzig 1881.
http://www.zeno.org/nid/20005849373
http://www.zeno.org/Literatur/M/Verne,+Jules/Geographie/Die+gro%C3%9Fen+Seefahrer+des+18.+Jahrhunderts/2.+Band/1.+Capitel/2.
  Am 21. bekam Lapérouse Formosa in Sicht und steuerte sofort in die Wasserstraße ein, welche jene Insel von dem Festlande trennt. Er entdeckte hier eine bisher noch unbekannte gefährliche Sandbank und nahm dieselbe ihrer, Form und Lage nach sorgfältig auf. Bald darauf kam er vor der Bai eines alten holländischen Forts, Zeland, vorüber, an der auch Taywan, die Hauptstadt der Insel, gelegen ist.
  Da der ungünstige Mousson die Fahrt durch den Kanal von Formosa verhinderte, beschloß Lapérouse, im Osten der Insel hinzugehen. Er berichtigte dabei die Position der Pescadoren-Inseln, einer Ansammlung von Felsen der verschiedensten Formen, untersuchte die kleine Insel Baeol-Tabaco-Nina, an der noch kein Seefahrer gelandet war, fuhr längs des Ufers von Kimu hin, das zum Königreich Likeu gehört und dessen Bewohner weder Chinesen noch Japanesen sind, sondern die Mitte zwischen beiden Völkern zu halten scheinen, und bekam auch die Inseln Hoa-Pinsu und Tiao-yu-su zu Gesicht, welche zu dem, nur aus den Briefen eines Jesuiten, des Pater Gabriel, bekannten Archipel von Likeu gerechnet werden.
  Jetzt durchpflügte die Fregatte schon das ostchinesische Meer und steuerte auf den Eingang des Kanals zwischen China und Japan zu. Hier litt Lapérouse unter ebenso dichten Nebeln, wechselnden und heftigen Strömungen wie in der Nähe der Küste Labradors.

 デンマーク譯本も有るが、やや簡略になってをり、「一部を構成する」から「屬する」に改められてゐる。『Det attende aarhundredes store Sømaend, Jordens Opdagelses historie anden afdeling』(十八世紀大航海家、地球探檢史別册)。
譯者:B. Geelmuyden。ノルウェー・デンマーク公式版。
西暦1880年、コペンハーゲン府クリスチャニア區刊。
https://books.google.co.jp/books?id=2WsrAAAAYAAJ
Jordens opdagelseshistorieベルヌ尖閣デンマーク譯頁300
段落譯意:
……ボトルタバコシマといふ小島を見つけた。ラペルーズ以前に誰もそこへ行ったことが無い。そしてKimu島(Kumi、古見、ここでは與那國)を通過した。琉球國に屬してをり、住民はチャイナ人でも日本人でもなく、兩者の混合であった。同じくHoapin-suとTiaoyu-suも琉球諸島に屬し、ゴービル神父の通信によって知られるのみであった。
デンマーク語:
opdagede lille Ø Bottol-Tabako-Xima hvor ingen før han havde vaeret, gik forbi Øen Kimu, som hører til Liu-Kiu Riget, hvis Indbyggere hverken er Chinesere eller Japanesere, men en Mellemting mellem begge, samt saa Øerne Hoa-Pinsu og Tiaoyu-Su, der hører til Liu-Kiu Gruppen, som man kun kjender fra en Jesuit pater Gaubils Breve.
デンマーク語で「hører til」は屬する、「samt saa」は同じく。

 さて、このベルヌ著書そのものは如何に位置づけられてゐるか。こちらのリンクの説明によると、
http://www.ecured.cu/index.php/Los_Grandes_Navegantes_del_Siglo_XVIII
『十八世紀大航海家傳』はジュールベルヌの作としては唯一虚構(小説、フィクション)ではないのださうだ。確かにラペルーズの航海日記を簡略にまとめたものであって、小説的要素は無い。こちらのリンクでも、
https://julesgverne.wordpress.com/norge-b%C3%B8kene/jordens-opdagelse/
ベルヌの作品中で特殊な地位を占めるといふ。虚構ではないので「驚異の旅」系列に配屬されず、ただ當時の地理知識を傳へるだけだとする。

 ベルヌは西暦1870年の『海底二萬海里』の中で、ラペルーズについて一章を費やして述べる。章中、航海史上の著名な物語としてラペルーズが南太平洋で失踪し、後に附近のヴァニコロ(Vanikoro)島でフランス銘青銅鐘などの遺物が發見されたことが紹介され、潛水艦ノーチラス號はそのヴァニコロ島を巡航する。ここが南太平洋に於けるノーチラス號の主要目的地となってゐる。ベルヌが如何にラペルーズ航海録を愛好してゐたか分かる。
 西暦1872年の『八十日間世界一周』では、使用人パスパドゥは香港から横濱に渡航する汽船カルナティック號に乘ったが、主人フォッグは香港から上海を經由して横濱に渡航した。パスパドゥの乘った船は尖閣海域を航行したかも知れないが、小説中では別段經由島嶼を記載しない。
 しかし明治元年に日本で堺事件に遭遇したフランス軍艦デュプレクスの艦長デュプティ・トゥアールは、その紀行で香港から横濱への航路を述べ、途次にHoa-pinsu(和平嶼)を目撃した可能性が高い。
(après avoir longé la côte Est de Formose, remontent directement vers la pointe Sud du Japon, sans entrer dans le canal qui sépare les Meji-co-Sima des iles Hoa Pinsu. )
『Annales hydrographiques』(水路年報)第32册。M. A. Le Gras著。西暦1869年、パリ、Imprimerie Administrative de Paul Dupont刊。(ポール・デュポン行政印刷所)
第218頁開始、「Traversée de la corvette le Dupleix entre la France et le Japon」(コルベット艦デュプレクス、日佛間の旅)、副題:「Extrait du Rapport du capitano de fregate Dergasse du Petit-Thouars」(デュプティ・トゥアール艦長の報告より摘録)、第223頁にHoa-pinsu(和平嶼)。
https://books.google.co.jp/books?id=5skQAQAAMAAJ
http://senkaku.blog.jp/archives/45975500.html
佛蘭西の艦長アベル・デュプティ・トゥアール(Abel Bergasse Dupetit-Thouars)の率ゐるコルベット艦デュプレクスは、西暦1868年二月十日に横濱に到着し、三月八日に堺事件を引き起こす。その前の香港から横濱への海路を述べるのが本段である。一月二十日に香港を離れてから、デュプレクス艦は琉球弧の内側を進むか外側を進むか選擇肢が有り、艦 長は内側を選擇する。黒潮に出逢ひ、臺灣島の東側に沿って進み、宮古八重山諸島(Majico-sima)と尖閣(Hoa-pinsu)との中間の水道に 這入ることなく、日本の最南端に直航した。尖閣の北側の東支那海を鹿兒島まで突っ切ったのである。ほぼ間違ひなく尖閣を西側から目撃したであらう。
 その四年後、假にベルヌが『八十日間世界一周』の中で香港横濱航路を細述したならば、Hoapinsuに一語及んだ可能性が想像できる。デュプレクス艦の日本行は、明治維新と堺事件に遭遇したこともあり、フランスにとって一大事件であったから、報導を通じてベルヌも知ってゐたであらう。但し殘念ながらベルヌと該艦紀行との間に接點を示す載籍は見つからない。
 石橋正孝著『驚異の旅、または出版をめぐる冒險、ジュール・ヴェルヌとピエール・ジュール・エッツェル』(左右社平成二十五年刊)第一部「インタルード、驚異の旅といふ運動」によれば、西暦1872年以前にベルヌは地中や北極や月界など至高點としての極地を描く空想小説を著したが、1872年に『八十日間世界一周』を刊行してからは、ベルヌの「地球の描寫」の年代が始まり、世界各地を題材とする小説を次々に發表したとのことである。その讀者としては、百科事典をひろげつつ小説を手にするやうな人々が想定されたといふ。されば西暦1878年に刊行された『十八世紀大航海家傳』は、それまで人氣を集めた『海底二萬海里』及び『八十日間世界一周』の讀者に、一歩進んで地球探檢史の知識を分かり易く提供する書だったと言へよう。(附記:石橋氏の該著書の卷末書誌では、十八世紀が十七世紀とされてゐる。誤植であらう。)
 後の西暦1888年の『十五少年漂流記』で、
http://jv.gilead.org.il/biblio/voyages.html
少年らが漂着したのは南太平洋の無人島である。島には西暦1807年にフランス士官が漂着して死亡してをり、少年らはその遺留したフランス銘の高級銀時計等を五十三年後に見つけたと設定されてゐる。西暦1787年のラペルーズ航海からわづか二十年後であるから、ラペルーズが遭難したヴァニコロ島を聯想させる。
 ただし小説の後半では、この島が南米大陸南端にほど近いハノーバー島であったことを少年らが知って驚くといふ設定になってゐる。ベルヌは後半に少年らが救助されるといふ敘述の都合で、大陸に近い島に設定を變更したのであらう。
 さればラペルーズが遭難したヴァニコロ島は、『海底二萬海里』から『十五少年漂流記』まで着想の源泉となったのである。讀者にその知識を提供する『十八世紀大航海家傳』は、中々の重要作品といふことになる。この種の啓蒙書は、後になると高い評價を得られないのを常とするが、當時としては版を累ねて讀まれたのである。
 田邊眞人氏は十五少年の島に暗擬されたのはニュージーランド東方のチャタム島だったが、明文としてはハノーバー島が採用された、との新説を唱へた(田邊眞人「十五少年漂流記の舞台となった島、チャタム島に秘めたジュール・ベルヌのメッセージ」、誌名『ニュージーランド研究』第9卷、平成十四年刊、第三十九至四十八頁)http://nzssj.sakura.ne.jp/2012%20review.html
その主旨は、
1、小説と同じくチャタム島中には大きな湖が有る。
2、當時子午線をめぐる英佛の爭ひで東西經度百八十度附近のチャタム島が話題となった。
3、ハノーバー島附近は航行する船が多いので、少年が救助を得易い。
4、ベルヌは西暦1878年に啓蒙書『大航海及び大航海者の歴史』(歴年遠征史略)を刊行し、子午線などに關心を抱いてゐた。
などである。田邊氏は『歴年遠征史略』に論及しながら、惜しくもラペルーズと『十五少年漂流記』との關聯性には論及しない。
 『十五少年漂流記』刊行前のチャタム島圖は下の通り。
「Map of the Chatham Islands、from surveys by S. P. Smith & John Robertson、1868 & 1883」
西暦千八百八十七年刊。
Auckland City Library Heritage Images、收藏號NZ-Map42。
http://www.aucklandcity.govt.nz/dbtw-wpd/HeritageImages/images/maps/maps250f/42.jpg
切1887Map_of_Chatham_from_surveys_by_Smith_and_Robertson

「Chatham Islands, compiled from a plan by M. Fournier, 1840」
西暦千八百四十二年刊。
Auckland City Library Heritage Images、收藏號NZ-Map3965。
http://www.aucklandcity.govt.nz/dbtw-wpd/HeritageImages/images/maps/maps110f/3965.jpg
切1842刊Chatham_Islands_compiled_from_plan_by_Fournier1840

 田邊氏は誠に根據充分だが、今一つ附言するならば、そもそも島中に湖を持つやうな小説的に面白い島を南太平洋で搜しても他に中々有るものではない。ヴァニコロ島もあまり面白い地形ではない。
 田邊氏説を換言すれば、前半はチャタム島、後半はハノーバー島といふことになる。ベルヌが敘述の都合で換へたのである。フランス士官の遺物の部分は、ヴァニコロ島を想定したものであらう。小説中で三つの島を想定したのである。
 後に椎名誠著『十五少年漂流記への旅』(新潮社、平成二十年刊)では、遠くチャタム島現地に赴いてチャタム島説とハノーバー島説とを檢討し、田邊説に贊同する。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA86021992
また、岩波少年文庫『二年間の休暇』(平成二十四年刊)の私市保彦解説では、ハノーバー島はマゼランらの大航海を少年らに教へるために選ばれたとする。田邊説を補強するものである。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB08371936

下はヴァニコロ島圖。
「Polynesia or Islands in the Pacific Ocean」
册名『Letts's Popular Atlas』
西暦1883年、倫敦Letts, Son & Company刊。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~31494~1150450
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~31358~1151136

切Vanikoro_Polynesia_1883_Rumsey5371143

 以上の通り見て來ると、ベルヌの三名作とラペルーズとの關はりの深さが分かる。ベルヌがTiaoyu-su(釣魚嶼)を小説に使はなかったのが殘念と言ひたい處だ。しかしベルヌはTiaoyu-suが琉球諸島の内だと認識してゐたので、漂着してもすぐに琉球人に助けられる設定となってしまひ、絶海の孤島などの物語が成立しない。畏友伊井茂氏にこれを話すと、氏はTiaoyu-su漂着者 と琉球人との新たな物語を作れば良いと提案した。面白い。

 『十八世紀大航海家傳』佛蘭西文には、他のパリ刊本のグーグル電子版もあり、pdfファイル97枚目。
https://books.google.co.jp/books?id=ZHYLAAAAQAAJ
西暦1870年刊とグーグルは注記するが、原書には1870と書いた個所が見あたらない。標題下方に「quatrième édition」(第四版)と書いてあるので、あまり早期の版ではない筈だ。
 西暦1888年マドリード版は、
https://books.google.co.jp/books?id=9-g5AQAAIAAJ
グーグルブックスのpdfファイルで476枚目から。

參考:ベルヌ年譜。
http://www.misheila.sakura.ne.jp/verne-note.html



(以上の内容は平成二十八年十一月十五日火曜と十七日木曜『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭録」第八十五囘、八十六囘に掲載します)
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html


https://archive.is/zD1rC
https://web.archive.org/web/20151031130157/http://senkaku.blog.jp/archives/271101.html