クールベ2
      ▲クールベ提督

 『島嶼研究ジャーナル』第四卷第二號

http://islandstudies.oprf-info.org/jp/wp/wp-content/uploads/2015/04/4-2_sample_ishii.pdf
http://www.amazon.co.jp/dp/4905285453/
寄稿した論文が公刊された。三月九日の時點では、
http://senkaku.blog.jp/archives/24306478.html
「明治26年、尖閣における日本人の動向を
記録した唯一の清朝公文」
と題してゐたのだが、三月十日に提出した最終校正で、
題目を
「明治26年、尖閣渡航に異議なし
 ――日清往復公文の共通認識」

と書き換へた。全文ご購入はこちら。
http://www.naigai-group.co.jp/_2015/04/post-41.html
http://www.amazon.co.jp/dp/4905285453/

 この論文の中で、明治十八年に日本政府が
尖閣編入を延期した原因について鄙説を提示した。
【左翼の先行説】
尖閣が清國領土なので、盜取すべく別の機會を待った。
【左翼以外の通説】
上海『申報』で尖閣に上陸した日本人について報じ
られたので、清國の疑惑を招かぬやう愼重を期した。
【今度の鄙説】
そもそも清國は尖閣について疑念を抱いたのではない。
清佛戰爭でフランスが臺灣北部の基隆を占領し、
日本軍も共同で臺灣を占領する噂があったため、
清國は臺灣東北方海域に疑念を抱いてをり、
それが『申報』の報道として表現されたのである。
日本側は尖閣そのものについて清國の疑惑を恐れたの
でなく、敏感な時期で敏感な海域に近いから恐れた。
『申報』で報じられた日本人上陸は、尖閣でなく
臺灣北方三島の一つだった可能性がある。

 以上に述べた通説と鄙説とは大差ないやうだが違ふ。
清國は臺灣東北方海域に對する警戒心を常に深く抱い
てゐたわけではなく、清佛戰爭から數年を經て、日清間
の敏感海域は基隆附近に限定されぬやうになってゐた。
日本は日清戰爭の混亂に乘じて尖閣を編入したの
ではなく、清佛戰爭が遠くなったから編入したのである。
歴史からみても時勢としても、チャイナ當局は國境線に
近い海域の島嶼に對しては常に警戒し、かりにその島
が領土であれば益々警戒する筈だが、尖閣については
日清戰爭の直前でありながら警戒しなかったことが
今度の史料から分かる。
 どちらにしろ尖閣の西方に清國國境線が存在したこと
は、前から明治政府も分かってゐたから大差ない
のだが、ただ「日清戰爭の混亂に乘じて」と決めつける
ことはできなくなった。

さて論文執筆時點では不勉強だったのだが、
その後、以下の事柄を確かめた。
清佛戰爭でフランスが臺灣北部の基隆を占領した際に
基隆に入港してフランス軍と協商した日本軍とは、
東郷平八郎率ゐる軍艦天城であった。
明治政府内にはフランス軍と同盟して清佛戰爭に參戰
する議論が有ったが、反對者もゐた。

明治十八年九月六日に『申報』の報じた著名な消息、
日本人が上陸して日章旗を建てた島とは、
臺灣北方の彭佳嶼(アジンコート)であった可能性がある。
伊能嘉矩「彭佳嶼調査報告書」
(王世慶譯、『臺灣文獻』季刊第二十卷第三期、
 第百十八至百二十四頁、民國五十八年九月、
 西暦千九百六十九年)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AN10497241
によれば、彭佳嶼には咸豐年間から居住民が有り、
光緒十年(西暦千八百八十四年、明治十七年)の
清佛戰爭の際に全島民は基隆に避難した、とのことだ。
されば明治十八年には、フランス軍も居住民も去った
ばかりの彭佳嶼に日本人が上陸しようと企圖するのは
さもありなんとなる。史料を搜す必要がある。

清佛戰爭と尖閣編入との關はりは、これまでも少しは
語られて來たが、具體的ではなかった。
以上のやうに具體的となれば隨分と話が違ってくる。

 さて、明治十八年に『申報』が報じた臺灣東北方の
小島の上陸者として、もう一つの可能性は田代安定だ。
田代安定「駐臺三十年自敘誌」によれば、明治十七年に
フランス軍が臺灣北部から進んで八重山を占領しようと
企圖してゐるとの噂を、田代安定はフランスの新聞で知り、
急ぎ翌年に八重山の調査に乘り出したといふ。
これについては、中生勝美「田代安定伝序説」
(東洋英和女学院大学現代史研究所『現代史研究』7, pp.129-164, 2011)
http://id.nii.ac.jp/1093/00000451/
及び國吉まこも「1885年田代安定の八重山調査と沖縄県の尖閣諸島調査」
 (沖繩大學地域研究所『地域研究』10, pp.11-24, 2012)
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005369439
などの論文が既に論及してゐる。田代の八重山調査報告
は明治十九年(西暦1886年)に完成し、數十册にも上ると
いふから、そこに尖閣情報が含まれる可能性は極めて高い。
中生氏論文ではこれを『八重山調査報告書』50册とし、
國吉氏論文ではこれを『復命書』38册とする。田代の傳記
などに據るのであらうが、現所在は分かるのだらうか。
臺灣大學田代文庫には多數の田代安定遺著が電子化
されてをり、八重山調査復命書の斷片らしきものも多い。
中には「各島實測圖・西表島」などが有る。
http://cdm.lib.ntu.edu.tw/cdm/compoundobject/collection/Tashiro/id/34982/rec/2
田代自著以外にも江戸時代の「南島海路略圖」などが有る。
http://cdm.lib.ntu.edu.tw/cdm/compoundobject/collection/Tashiro/id/66138/rec/1
しかし臺灣大學内で閲覽するやう制限されてゐる。
かりに「各島實測圖・魚釣島」と題するものが有っても、
中華民國側が公開するかどうか、懸念される。他にも
成城大學民俗學研究所柳田文庫、東大、沖繩縣立圖書館
http://cdm.lib.ntu.edu.tw/cdm/about/collection/Tashiro
http://www.lib-finder.net/seijyo/index2.html
などに田代安定資料が散在してゐるさうだ。これらを徹底調査
して尖閣の記録を見つけねばなるまい。私の專門外であり、
時間も費用も無いので、ここに誌して有志の奮起を望みたい。
間接的情報としても、八重山古賀商店、八重山の絲滿漁民、
八重山のみいかがん(水鏡、水中眼鏡)などの記述が含まれる筈だ。
幸ひ沖繩縣立圖書館デジタル書庫で、下の史料が見られる。
  甲川宝凾 1集    田代 安定∥著        1877(明治10).2
  沖縄鹿児島両県下幾那樹繁殖意見書    田代安定1882年
  沖縄諸島植物譜(稿本)     田代 安定∥編       
  田代安定履歴書     田代 安定∥著       
  駐台30年自叙史     田代 安定∥著
  http://archive.library.pref.okinawa.jp/

 さて『申報』の臺灣島東北方の小島に日章旗を建てた
記録は英字新聞で朝鮮からの消息を轉載したものである。
英字新聞が朝鮮の消息を載せるのは巨文島事件
(Port Hamilton Incident)の關聯だらう。丁度この明治
十八年(西暦1885年)四月、英軍は朝鮮半島南側の
巨文島を占領し始めた。その英軍が朝鮮まで往來の
航程で、彭佳嶼もしくは尖閣に飜る日章旗を目にし、
消息を西洋の新聞に傳へ、輾轉として『申報』の報道
となった可能性がある。樣樣な英字新聞を調べねば
なるまい。幸ひ英字新聞のデジタルデータは世界の
あちこちに有る。これまで少々調べた限りではまだ
見つからないが、精査を要する。有志の奮起を望む。
http://www.newspapers.com/
http://www.britishnewspaperarchive.co.uk/search/advanced
http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn88064499/issues/1885/
https://news.google.com/newspapers
http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:List_of_online_newspaper_archives
http://trove.nla.gov.au/newspaper/search?adv=y

http://www.britishnewspaperarchive.co.uk/
http://www.findmypast.co.uk/
http://gale.cengage.co.uk/times.aspx/

http://hcl.harvard.edu/libraries/harvard-yenching/collections/newspapers/query.cfm?SORT_DIRECTION=1&START_ROW=1&region=1&SORT_COLUMN=years

また、當時朝鮮は甲申政變直後であり、清國及び日本
からの情報にも何か含まれる可能性は少しばかり有る。
明治十七年までの『漢城旬報』を確認せねばなるまい。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA43689710
甲申政變で燒けてしまひ、明治十八年は停刊ださうだ。
また明治十五年から釜山で刊行された『朝鮮新報』は
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA1232529X
明治十七年、十八年の版が現存しない。
「光緒朝硃批奏摺」第112輯: 外交・中朝 中日 琉球
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN15651959
は念のため確認したが光緒十年の附近島嶼の記載は見つからなかった。

以上、私一人の手にあまるが、有志が奮起すれば
尖閣編入の正當性は益々明らかになるばかりだ。


明治二十六年史料原文の詳細な解釋はこちら。
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/research/LCC_Journal04.pdf
長崎純心大學言語文化センター研究紀要第四號
第六十二頁「尖閣胡馬島日清往復公文詳解竝雜録」。