昨日のセンター試驗漢文。
http://www.toshin.com/center/kokugo_mondai_4.html
「陸文定公集」といふ大變な稀少書から出題されました。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/kanseki?record=data/FASONKEIKAKU/tagged/4710001.dat
しかし通行書「晩明二十家小品」などにも收められてゐました。

大學入試の漢文の水準は高過ぎます。漢文嫌ひを増やす原因となってゐます。
繭栗、瀹、茹介茶荈など、教員でも字典を檢索するやうな古語が多過ぎて、
問題文の左に注釋するのが通例となってます。注釋を要しない出題を望みたい。
注釋を要する漢字を出題するくらゐならば、もっと平易な文を正字體で出題して欲しい。
今囘も「独・当・巌・収」など略字が使はれてゐます。

長崎純心大學の二年生の授業ではこんな高難度の漢文でなく、
もっと平易な漢文を、自分でしらべて讀ませるやうにしてゐます。
日本の平均的學生が自分でしらべられる水準の漢文を搜してきて教材にします。
特別に平易な教材の場合は、白文で讀ませます。
但し文の傍らに日本漢字音を注して、訓讀の前に直讀から始めます。
附言すれば尖閣漢文史料は純心教材より難しく、大學入試出題よりも易しい。
竹筍
さてセンター試驗問題文。陸樹聲「苦竹記」
江南多竹、其人習於食筍。毎方春時、苞甲出土、頭角繭栗、率以供採食。
或蒸瀹以為湯、茹介・茶荈、以充饋。好事者目以清嗜、不靳方長。
故雖園林豐美、複垣重扃、主人居常愛護、及其甘於食之也、剪伐不顧。
獨其味苦而不入食品者、筍常全。毎當溪谷巖陸之間、
散漫於地而不收者、必棄於苦者也。而甘者至取之或盡其類。
然甘者近自戕、而苦者雖棄、猶免於剪伐。
夫物類尚甘、而苦者得全。世莫不貴取賤棄也、然亦知取者之不幸、而偶幸於棄者、
豈「莊子」所謂「以無用為用」者比耶。

〔和訓〕(書き下し文)
江南に竹多し、其の人筍を食らふに習ふ。春時に當たるごとに、苞甲土より出で、
頭角は繭栗にして、率ね以て採食に供ふ。
或は蒸瀹して以て湯(たう)と爲し、茹介と茶荈(ちゃせん)と、以て饋に充つ。
好事者目するに清嗜を以てし、方に長ずるををしまず。
故に園林豐美にして、複垣重扃、主人居常に愛護すと雖も、
其のこれを食らふを甘しとするに及んでは、剪伐して顧りみず。
獨り其の味苦くして食の品に入らざる者のみ、筍常に全し。
つねに溪谷巖陸に間に當たり、地に散漫して收めざる者は、
必ず苦きに棄てらるる者なり。而して甘き者はこれを取りて或は其の類を盡くすに至る。
然れども甘き者は自ら戕するに近し、而して苦き者は棄てらるると雖も、猶ほ剪伐を免る。
夫れ物類は甘きをたっとび、而して苦き者全きを得。
世は貴ければ取り賤しければ棄てざるなし、然れども亦た取る者の不幸にして
偶に棄つる者の幸なるを知る。
豈に「莊子」の所謂「無用を以て用と爲す」者の比ならんか。

〔釋辭〕(字典より。)
頭角繭栗:小説「中山狼傳」に曰く「われ頭角の繭栗なりし時」と云々。
       范成大「桂海虞衡志」に「繭栗角」(けんりつかく)と云々。
       古語「天地を祭るの牛は、角、繭栗なり」にもとづく。
瀹:(茶を)煮る。
湯:あつもの。漢文でなくチャイナ語習。中華料理屋で馴染みです。
茹介:不明だが字義で解すれば柔らかな皮。
茶荈:茶。

出題文中の「其人習於食筍」が、「晩明二十家小品」などでは「其民習於食筍」となってゐます。
出題者は「陸文定公集」の原文を確認した上のやうです。

ついでながら現代文でも齋藤稀史「漢文脈と近代日本」
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA80875361
著者も多分監督業務が有り、「何でこれが出題されるんだよ」と思ったでせう。