史料原文の公式解釋はこちら。
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/research/LCC_Journal04_v2.pdf
長崎純心大學言語文化センター研究紀要第四號
第六十二頁「尖閣胡馬島日清往復公文詳解竝雜録」。

以下は平成二十七年三月九日ブログ公布。
https://archive.is/KeS7n
https://web.archive.org/web/20150318220115/http://senkaku.blog.jp/archives/24306478.html

 三月二日午後六時半より池袋の勤勞福祉會館で開催した記者會見の配布資料を、ここに全文公開する。『純心人文研究』第二十二號などに全文掲載するつもりだが、それまで當面の間、引用される場合は本ブログ平成二十七年三月九日掲載と明記して頂きたい。著作權上、引用を私に通知する必要は無いが、ブログは著作權が不明確になり勝ちなので、できればご通知いただきたい。もちろん全文轉載には私いしゐのぞむの同意を要する。活字原文史料の前に幾枚目と書いてあるのは、アジア歴史資料センターの畫像の枚數である。記者會見の際に附言し忘れてしまった。
 なほ、この史料について確かな學術的解説文は、既に「明治26年、尖閣における日本人の動向を記録した唯一の清朝公文」と題して『島嶼研究ジャーナル』第四卷第二號に寄稿した。三月末に刊行される。

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尖閣編入の二年前、日清間の往復公文に新事實 井澤彌喜太漂流事件
  平成二十七年三月二日午後六時半 記者發表用配布資料 いしゐのぞむ作成

明治二十六(1893)年
  六月  八重山島から胡馬島(尖閣)に向けて出航。浙江省の平陽縣に漂着。
  七月  南下して福州府に漂着。清國官吏取調べの公文あり。
       井澤は胡馬島で暴風を避けたと口述(畫像十三・十四枚目)。
  八月  上海へ護送。福州から上海へ公文(陰暦六月)。
       井澤が胡馬島で暴風を避けた口述を引述(畫像十一・十二枚目)。
  九月  上海を經て日本に送還。
  十二月 駐上海領事館から福州海防官に謝意の公文(畫像二十二・二十三枚目)。
       井澤は胡馬島に向かって航行したと日本側は説明。
  同月  福州海防官から返信。日本領事館の往信全文を引用し、その通り
       に處理して各地方官に謝意を傳達すると返答(畫像二十五・二十六枚目)。
明治二十七(1894)年
  一月  福州海防官からの返信を日本政府が受理。
明治二十八(1895)年
  一月  日本政府、尖閣諸島の魚釣島・久場島を領土に編入。
  五月  下關條約。

【井澤の漂流關聯公文綴りにつき、現在までの先行情報】
1、國立公文書館インターネット(原史料は外務省外交史料館藏)
2、國吉まこも氏ブログ(平成二十五年十二月二十七日)
3、田中邦貴氏ホームページ(平成二十七年二月十二日)
國吉氏は未公開論文も有り。いづれも現在まで附録清國公文に論及せず。

【預測されるチャイナ側(及び「親中派」論客)の見解】
井澤は胡馬島が清國領土だと知ってゐたため、密獵を口述せず欺瞞した。

【想定すべき反駁】
一、チャイナ國境線は尖閣の西方に存在。四百年間の記録多數。←最重要
二、かりに井澤が懸念したなら、清國に近いためで、清國領土にあらず。
三、井澤が欺瞞したのでなく、清國官吏の誤記の可能性が高い。
四、明治十八(1885)年、上海「申報」が尖閣の日章旗を報道した以上、
  尖閣附近の自國領を意識してゐれば、井澤が侵犯したと申し入れた筈。
 

【尖閣の西側の清國領土線の一證】
西暦1871年『重纂福建通志』(國立公文書館藏)
重纂福建葛瑪蘭色2

葛瑪蘭(宜蘭)の領域は「三貂」まで。
尖閣はその東北方に百七十キロメートル。
宜蘭略圖

尖閣の西方はチャイナ國境線・海防線。
尖閣の東側は琉球國の國境線。    →中間の尖閣は無主地。
他に尖閣の西方の國境線・海防線史料多數は、
拙著『尖閣反駁マニュアル百題』參照。
(平成二十六年、集廣舍刊、ISBN:9784916110985)
 

(解説文・短)
尖閣研究家發見の新史料  
  尖閣の日本人について日清間で往復文書が有った
       いしゐのぞむ著
  示現舍「さうだったのか沖縄」印本所載、平成二十七年二月二十八日刊行

 最近尖閣研究家田中邦貴氏は、國立公文書館藏の公文書「伊澤彌喜太外二名、清國へ漂流したる節、救助したる同国地方官へ謝意傳達之件」の寫眞(しゃしん)をインターネットに公開した。同館アジア歴史資料センターのインターネットでも以前から公開してゐる。その附録別紙第一號及びさらに末尾の別紙は清國側の公文であるが、これまで論及されたことが無かった。私は一閲のもと重大な史實を見いだして驚愕した。
 別紙第一號は明治二十六年に福建通商總局から上海道(兵備道)に宛てた公文である。趣旨は日本人伊澤彌喜太らが浙江から福州に漂着したため、上海の日本領事館に伊澤らを移送するやう、上海道員に委託してゐる。同じ趣旨を軍憲(駐防將軍)及び督憲(總督)にも申し送ってあるとする。兩職は各省の最高官であり、疑ふらくここでは閩浙總督及び福州將軍を指す。伊澤漂着の情報を省の最高官が共有してゐたことを示す。
 この公文の中で、伊澤は「九州から八重山に向かふ途中、胡馬島(こばしま・くばしま)で暴風を避けた後に、やむを得ず附近の臺灣(たいわん)に行かうとして浙江に漂流した」と口述してゐる。同船者二名にも同じ趣旨を確認したと公文は記録する。胡馬島は尖閣諸島の魚釣島もしくは久場島を指す。尖閣に關する日本人の動向を記録した唯一の清國公文である。
 日本側の公文ではこれと異なり、伊澤らは先に胡馬島で鳥毛を採集してをり、このたび八重山から胡馬島に向かふ途中で大陸に漂流したと記録する。今後チャイナ側から「伊澤らは胡馬島が清國領土だと知ってゐたので、福州では虚僞の口述をして係官を欺瞞した」と反駁して來ることが預測される。しかしこの時伊澤らは胡馬島に到達できずに漂流したのだから、欺瞞したければ胡馬島に停泊したと口述する必要が無い。
 明治十八年以來、日本政府は尖閣について清國の猜疑を惹起することを懸念してゐた。伊澤らも同じく懸念して明確な言及を避けた可能性はある。異國で自由の身に戻れるか否か不安感を抱く中で、猜疑を招く事は詳しく言はないのが常である。しかし清國の領土線は臺灣島東北端で明確に規定されてゐたから、かりに伊澤らが日本政府と同じ懸念を持ったとしても、清國に近いがゆゑに過ぎず、清國に屬するわけではない。
 末尾の別紙は、事後に外務大臣陸奧宗光の命により、上海の日本領事館から清國の福寧・福州の海防官へ感謝を述べた公文、及び海防官からの返信である。往信中では伊澤らが胡馬島を目的地として出航したことに言及してをり、それが清國領土を侵犯することになるとは思ってもゐない。外務大臣の認識かくの如し。海防官も日本からの往信をそのまま引用した上で「此れに准ず」(その通り處理する)と返信した。胡馬島に向かったことに何の異議も無いのである。福州は古來尖閣航路への出航地であるから、清國官員が尖閣に留意するならばこの海防官を舍(お)いて他は無い。
 勿論(もちろん)清國側は胡馬島といふ島名を知らなかったらう。しかし八重山から臺灣に近い無人島であるから、諸島嶼間の距離方向を理解してゐれば、尖閣もしくは臺灣北方の棉花嶼・花瓶嶼のいづれかだと氣づく筈である。省の高官も海防官も氣づかなかったのは、そこに領有地が存在するといふ認識が無かったからである。
 この八年前の明治十八年、上海の大新聞「申報」は、臺灣の東北方の島に日本人が日章旗を立てたと報じた。かりに尖閣が清國の領土ならば、報道を承けて伊澤らの侵犯について清國から日本へ何か申し入れをする筈である。しかし上述の公文二件の中では些かの申し入れも無い。日本政府は何の申し入れもして來ない清國公文を廻覽し、保管した。所謂「十年間の無主地確認」がここでもまた裏づけられる。  (1600字)

三月二日附記
 本史料は國立公文書館のインターネットに出てゐるため、國立公文書館の所藏だと思ってをりましたが、正しくは外務省外交資料館藏です。

 


明治二十六年清國公文解説(長文) 平成二十七年三月二日石井望作成 報道用 

 明治十八(西暦1885)年から十年間、尖閣が無主地だと確認したことだけは日本政府も公式見解としてゐる。十年間の史料は國吉まこも氏(尖閣資料保存會)がことごとく明らかにして來たが、今私も聊か附け加へることがある。  
 十年間の多くの上陸者中で目立つ一人が井澤彌喜太(やきた)である。井澤は明治二十六(西暦1893)年に浙江・福建へ漂流したが、その送還について日清間に往復公文が存在する。日本側は井澤が尖閣に向かって航行中に漂流したと説明し、保護送還について各地方官に謝意を傳達(でんたつ)して欲しいと清國側に求めた。清國側はこれに同意し、その通りに傳達すると返信した。尖閣を目的地として航行したことを清國は領土侵犯と看做(みな)さなかったのである。清國外なのだから侵犯と思ふ筈(はず)が無い。

日本が編入する二年前  
 この清國公文を附録として含む計九件の公文書は、一まとめに「井澤彌喜太外二名、清國へ漂流したる節、救助したる同国地方官へ謝意傳達之件」と題して外務省外交史料館に藏せられてゐる。國立公文書館アジア歴史資料センターのインターネットでも該文書の畫像を見ることができる。國吉まこも氏はこの公文書に幾度か論及して來た。ただ附録の清國公文の寫(うつ)しについてだけは、誰も論及したことが無かった。九件中の二件目「別紙第一號」、三件目「計粘抄一紙」及び七件目(上海の日本領事館より照會)、九件目(福州道員陳氏より照復)である。
 「別紙第一號」の公文は、明治二十六年に福建通商總局から上海兵備道に宛てる。兵備道とは、省から派遣されて防衞を巡察監督する高官である。趣旨は日本人井澤彌喜太らが浙江から福州に漂着したため、上海の日本領事館に井澤らを移送するやう、上海道員に委託してゐる。同じ趣旨を軍憲(駐防將軍)及び督憲(總督)にも申し送ってあるとする。軍督兩憲は各省の最高官であり、疑ふらくここでは福建の閩浙總督及び福州將軍を指す。上海を管轄する兩江總督及び江寧將軍かも知れないが、私は史學專攻外なのでそこまで判斷がつかない。いづれにしろ井澤漂着の情報を省の最高官が共有してゐたことを示す。

唯一の清國公文   
 この公文の中で、井澤は「熊本から鹿兒島を經て八重山に向かふ途中、胡馬島で暴風を避けた後に、やむを得ず附近の臺灣(たいわん)に行かうとして浙江に漂流した」と口述してゐる。同船者二名にも同じ趣旨を確認したと公文は記録する。胡馬島は「こばしま」乃至「くばしま」と讀(よ)み、沖繩方言では「こ」と「く」とを區別しない。尖閣諸島の魚釣島もしくは久場島を指す。胡馬島は他の史料にも出現し、國吉まこも氏がよく研究してゐる。ともあれこれは尖閣に關する日本人の動向を記録した唯一の清國公文であり、しかも日本が尖閣を編入する僅か二年前だから、領有の正義不義を問はず一つの史事として重大な價値(かち)を持つ。
 日本國内の公文(九件中の一件目、明治二十六年百三號)ではこれと異なり、井澤らは先に八重山近傍の諸島で鳥毛を採集してをり、このたび胡馬島の出稼ぎ人を迎へ取る目的で八重山を出帆したが、途中で大陸に漂流したと記録する。出稼ぎ人の業務も同じく鳥毛採集だと日本政府は理解した筈(はず)だが、さして重要でないためか公文はそこまで言及しない。

島の距離を把握せず
  
 尖閣は避難地なのか目的地なのか、日本國内文書と清國内文書との間に相違が生じた原因として、三つの可能性が考へられる。第一に井澤は言語不通で拙い筆談に頼ったため、福建當局が誤解した可能性が最も大きい。なぜなら公文二件目「別紙第一號」で、福建の高官は井澤らの船を實檢(じっけん)し、この小船で遠洋を航行するのは不可能だと述べる。ところが公文三件目「計粘抄一紙」では鹿兒島から八重山まで二百七十里だと井澤は述べる。これは和里とすれば一里が約四キロメートルに當るから、千キロあまりの距離となり、現代的地理認識に合致する。しかし清國の里數では一里が約半キロに當り、且つこの時の清國では未だ直線距離の計測法が普及してをらず、道程距離で計測するため、地誌に記録された各地の里數は常に直線距離の倍ほどである。從って二百七十里は現代の直線距離で七十キロほどの感覺で清國人に理解された筈である。さうであれば、井澤らが小船で鹿兒島から八重山へ向かふ途中だったと清國人が誤解するのもむべなることだらう。

圖一 外務省外交史料館藏 B-3-6-7-1-3-017
「困難船及漂民救助雜件・帝國之部・第十七卷」より、
「井澤彌喜太外二名、清國へ漂流したる節、救助したる同国地方官へ謝意傳達之件」
の内、福建通商總局公文・部分。傍線はいしゐのぞむが添加。

解説圖一
 
 第二の可能性は、福建に盜賊が多く、井澤らは船中の米を奪はれさうになり、ついで官吏の強い勸(すす)めにより船を繋留したまま陸上の宿舎で一夜を過ごした處(ところ)、船中の財物を全て盜まれてしまった。國吉まこも氏が詳しく研究する「九州日日新聞」明治二十六年十月八日より十三日まで所載の井澤「漂流談」に述べられてゐる。善良な井澤らはそれでも福建當局に感謝してゐるが、しかし清國の國情から言へばこれは官吏と盜賊とが結託してゐたのだらう。いづれにしろ賊の多い國から日本に歸國(きこく)できるか否か不安の中で井澤らは過ごしてをり、大きな利潤を生む鳥毛採集について福建現地でわざわざ言はないのは當(あた)り前である。かりに無主地尖閣の鳥毛採集に福建人が參入すれば競爭が劇しくなることも預見できる。

史料の歪曲をゆるすな  
 第三の可能性は大きくないが、領土的猜疑を避ける意識が働いたのかも知れない。明治十八年以來、日本政府は尖閣について清國の猜疑を惹起することを懸念してゐた。井澤らも同じく懸念して明確な言及を避けた可能性が無いとは言へない。異國で自由の身に戻れるか否か不安感を抱く中で、鳥毛採集など猜疑を招く事は詳しく言はないのが常である。
 今後チャイナ側から「井澤らは胡馬島が清國領土だと知った上で密獵してゐたので、福州では虚僞の口述をして係官を欺瞞した」と反駁して來ることが預測される。しかしこの時井澤らは胡馬島に到達できずに漂流したのだから、欺瞞したければ胡馬島で暴風を避けたと口述する必要が無い。

清の國境線は尖閣の西  
 そもそも大前提として、清國の領土線が臺灣島東北端で明確に規定されてゐたことは、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』(平成二十六年、集廣舍刊)の中で詳説しておいた。かりに井澤らが日本政府と同じ懸念を持ったとしても、清國に近いがゆゑに過ぎず、清國に屬するわけではないし、密獵でもない。明治十八年以來の日本政府の文書でも、尖閣は「清國に近い島」と述べられてゐる。清國の外だから「近い」のである。この點(てん)はチャイナ側及び日本國内の反日勢力に大いに歪曲利用されること必定なので、先に釘をさしておきたい。兩國に近い無主地を一方が先に取る時、他方を刺激しないやう留意するのは當然だらう。
 以上はまだ最重要ではない。それよりも七件目と九件目の日清間往復公文は決定的な事實(じじつ)を示してゐる。井澤が送還されて以後に外務大臣陸奧宗光の命により、上海の日本領事館から清國の福寧・福州の道員(海防長官)へ感謝を述べた往信、及び道員からの返信である。往信中では井澤らが胡馬島を目的地として出航したことに言及してをり、それが清國領土を侵犯することになるとは日本側は思ってもゐない。外務大臣の認識かくの如し。福州道員も日本からの往信をそのまま引用した上で「此れに准ず」と返信した。往信の通り處理(しょり)する意である。胡馬島は避難地でなく目的地だといふことで何の異議も無いのである。福州は古來尖閣航路への出航地であるから、清國官員が尖閣に留意するならばこの海防長官を舍(お)いて他は無い。

清は自然に受け容れた  
 勿論(もちろん)清國側は胡馬島といふ島名を知らなかったらう。しかし八重山から臺灣に近い無人島であるから、諸島嶼間の距離方向を理解してゐれば、胡馬島が尖閣もしくは臺灣北方の棉花嶼・花瓶嶼のいづれかだと氣づく筈である。省の海防長官も氣づかなかったのは、そこに領有地が存在するといふ意識が無かったからである。
 この八年前の明治十八年、上海の大新聞「申報」は、臺灣の東北方の島に日本人が日章旗を立てたと報じた。尖閣史上で著名な史料である。かりに尖閣が清國の領土ならば、報道を承けて井澤らの侵犯について清國から日本へ何か申し入れをする筈である。しかし上述の明治二十六年公文の中では些かの申し入れも無い。その附近に自國の領土が存在するといふ意識すら無いのである。日本政府は何の申し入れもして來ない清國公文を囘覽し、保管した。そして一年あまり後の明治二十八年一月に尖閣を編入する際には、井澤をめぐる日清往復公文も無主地確認の一環として閣僚の意識の片隅に置かれてゐた筈である。所謂「十年間の無主地確認」の最後の仕上げがここで裏づけられる。
圖二 外務省外交史料館藏 B-3-6-7-1-3-017
「困難船及漂民救助雜件・帝國之部・第十七卷」より、
「井澤彌喜太外二名、清國へ漂流したる節、救助したる同国地方官へ謝意傳達之件」
の内、福州道員返信・部分。傍線はいしゐのぞむが添加。
解説圖二
(終)
 
【原文活字化、及び書き下し】
〔九件中二件目、畫像五枚目〕
福建通商總局司道、爲移知事。
据署福防同知朱清澤禀称、
『本年六月十八日、准閩安協派撥弁兵、送到外國難民三人、
詢係「日本國熊本縣人、一名井澤弥喜太、一名有川岩助、一名満石良。
先由本地開舩、欲往八重山嶼、侢運煤炭、中途遭風吹入胡馬島暫避。
因知離台湾相近、拟即前往、再圖囘國。
不意又遭颶風、桅柁篷帆倶行損失、漂至浙江平陽縣古鰲頭埠内。
報由地方官給予移文、飭赴福建福鼎縣投逓。
復因不識路徑、駛入霞浦縣三沙海口、當經該處巡検指點、令其進省。
隨于昨日駛至五虎門口内。
蒙武營派兵護送前來、懇乞代爲修理原船、資遣囘國」等語。
並据閩安巡検、報同前情。
据此、卑職當即親赴江干査勘、該難民原來之船、
僅長二丈有零、並無篾篷房艙。即桅杆尾柁、亦係抄小雜木爲之。
本不過在于内洋地面載販柴炭等貨、萬難飄洋過海。
何況日本國相離閩省甚遠、即使爲之修整完固、亦恐未能逕駛囘國。
詳詢該難民、亦毫無成見、但求資遣帰国。情詞迫切、殊堪憫惻。
理合据情禀請察核。應如何酌遣之處、俯賜批示祗逓』、等由。
並送供招一扣到局。
据此當經飭令該廳、先行妥爲安頓去後、査各國遭風難民、
應就近送交領事官、遣送囘國。
現在日本並無領事在閩、自應援照前辦成案、送由貴道、就近照送日本領事遣囘。
惟該難民原來小船、既無篷艙、即桅柁又係抄小雜木、断難飄洋過海。
詢之該難民等、均称情願就地変賣。
因即由局派員、商同在閩之日本商人小倉錦泰、估變價銀七元、業交該難民收領、
並毎名另給卹賞番銀十二元。
飭委招商局委員、分發浙江補用同知王叔蕃、附輪帶送貴道衙門、
就近轉送日本領事官、收遣囘國、以示懷柔。
除詳請軍督憲會咨外、合就移請。爲此、合移貴道、請煩査照。
一俟招商局委員將該難民送到、即希照送日本領事査收、見復施行。
須至移者。
   
〔釋語〕
司道:日本領事館からの照會では局長に作る。
移知:役所の間の平行の通知。
福防同知:日本領事館からの照會では福防廳長に作る。福防廳は福建の海防廳。
閩安協:福州の閩江の河口の閩安鎭の海防官。琉球國に渡航する船を福建沿岸島嶼まで護送するなどの任務が有った。
詢は訊の混用。
据は據の略字。
侢は字典では戴の別體とされるが、ここは載だらう。
平陽は浙江最南端の縣。
福鼎・霞浦は福建最北部の縣。
五虎門は福州の河口の岩礁。
祗遞は下吏が公文を傳達すること。
一扣は一綴り、一束。
當經は、すぐにし終へた意。
閩安巡檢は、福州の閩安鎭附近で沿岸海中を巡邏する武官。
變價銀は不要物を賣り拂ふ價格。
七元は七圓の略字。
分發はもと外地の諸職に派遣すること、ここでは單に派遣すること。
輪はタービンを持つ船、即ち汽船。
招商局は輪船招商局、清末最大の國營海運企業。
軍憲は鎭防將軍の別名、ここでは福州將軍もしくは江寧將軍。
督憲は總督の別名、ここでは閩浙總督もしくは兩江總督。
須至は公文の成語、清の翟灝「通俗編」によれば、當時から意味不明の慣用句であった。

〔書き下し〕
福建通商總局司道、移知する事の爲なり。署福防同知朱清澤の禀稱するに據れば、
『本年六月十八日、閩安協に准ずれば、弁兵を派撥し、外國難民三人を送到す。たづぬるに、
「日本國熊本縣人、一は名井澤弥喜太、一は名有川岩助、一は名満石良に係る。先づ本地より開船し、八重山嶼に往きて、煤炭を載運せんと欲し、中途に風に遭ひ胡馬島に吹き入れられて暫く避く。臺灣を離るること相近しと知るに因り、即ち前み往き、再び國に囘るを圖らんと擬す。意はざりき又た颶風に遭ひ、桅柁篷帆ともに損失を行なふ、漂ひて浙江平陽縣古鰲頭の埠内に至る。報じて地方官より移文を給予し、飭して福建福鼎縣に赴いて投遞せしむ。復た路徑を識らざるに因り、駛せて霞浦縣三沙の海口に入る、當(たう)に該處の巡檢の指點して、其れをして省に進ましむるを經て、隨って昨日に於いて駛せて五虎門の口内に至る。武營の派兵して、護送して前み來たるを蒙る。懇ろに乞ふ、代りて爲めに原船を修理し、資遣して國に囘らしめよ」、
等の語あり。並びに閩安巡檢に據れば、報ずること前情に同じ。此れに據り、卑職當即に親ら江干に赴き査勘するに、該難民原來の船、僅かに長きこと二丈有零、並びに篾篷房艙無し。即ち桅杆尾柁も亦た小雜木を抄してこれを爲すに係る。本より内洋の地面に在りて柴炭等の貨を載販するに過ぎず、萬も洋に飄ひて海を過ぎ難し。何ぞ況や日本國、閩省を相離るること甚だ遠し、即ちこれに修整完固を爲さしむるも、亦た恐らく未だ逕ちに駛せて國に囘る能はず。
詳しく該難民に詢(はか)るに、亦た毫も成見無く、但だ資遣して國に歸らしむるを求む。情詞迫切にして、殊に憫惻に堪ふ。理として合(まさ)に情に據り察覈を禀請すべし。應に如何に酌遣すべきやの處は、俯して批示して祗遞せしむるを賜へ』、
等の由あり。並びに供招一扣を送りて局に到る。
此れに據り、當(たう)に該廳に飭令し、先づ行きて妥に安頓をなさしむるを經て去りて後、査(しら)ぶるに各國の遭風の難民、應に近きに就きて領事官に送交し、遣送して國に囘らしむべし。
現在日本、並びに領事の閩に在る無し、自ら應に前辦の成案を援照し、送りて貴道より、近きに就きて日本領事に照送し遣はし囘らしむべし。
惟だ該難民原來の小船、既に篷艙無く、即ち桅柁も又た小雜木を抄するに係る、斷じて洋に飄して海を過ぎ難し。
これを該難民等に詢(はか)るに、均しく情として地に就きて變賣するを願ふと稱す。
因って即ち局より員を派し、在閩の日本商人小倉錦泰に商同し、變價銀七元なりと估し、業(すで)に該難民に交して收領せしむ、
並びに毎名另(れい)に恤賞番銀十二元を給す。
招商局委員に飭委し、浙江補用同知王叔蕃に分發し、輪に附して貴道の衙門に帶送せしめ、近きに就きて日本領事官に轉送し、收遣して國に囘らしめ、以て懷柔を示さしむ。
軍督憲の會咨を詳請するを除くの外、合(まさ)に就きて移請すべし。此れがため、合に貴道に移し、査照を煩はすを請ふべし。
一に招商局委員の該難民を將(と)りて送到するを俟ち、即ち希(ねが)ふ、日本領事に照送して査收せしめ、施行を復せられんことを。
須べからく移するに至るべし。

〔現代語譯〕
福建通商總局長より通知。代理福建海防廳長の朱清澤の報告によれば、
『本(1893)年陰暦六月十八日、閩安協(海防官)から兵士を派遣し、外國難民三人が送り屆けられた。たづねてみると、「日本國熊本縣人であり、一人は井澤弥喜太、一人は有川岩助、一人は滿石良といふ名であった。先づ本籍地より出航し、八重山島に行って、石炭を運搬するつもりだったが、中途で風に遭ひ胡馬島に吹き入れられて暫く避難した。臺灣(たいわん)まで近いと知ったので、そのまま臺灣に行ってから歸國(きこく)を目指さうと考へた。ところがまた暴風に遭ひ、帆柱も舵桿も苫の覆ひもみな失ひ、漂流して浙江省平陽縣古鰲頭の埠頭に這入った。報告して地方官から通知文を給されて、福建省北部の福鼎縣で提出するやう命ぜられた。また海路が分からず、霞浦縣三沙の灣に航し至った。すぐにその地の巡檢官が省府に這入るやう指示して、ついで昨日、五虎門の灣内に航し至った。武官が派兵して護送してきて下さった。お願ひしたいのは、代りに原船を修理し、費用を下さって歸國させて頂くことです」、
等の口述である。同時に閩安鎭の巡檢官によれば、閩安協の報告と同じだった。これにもとづき、本官(福建の海防廳長)はすぐに閩江の河畔に赴き踏査した。この難民の乘って來た船は僅かに長さ二丈あまり、笘の覆ひも船室も無い。帆柱及び船尾の舵桿も小さな雜木を集めて作ってゐる。もともと内洋で薪や炭などの貨物を載せて販賣するに過ぎず、大洋に出て渡海することはほとんど無理だ。まして日本國は福建省から遠く、船をしっかり修理してもそのまま航行して歸國することはできない。詳しくこの難民に相談しても、全く決まった意見は無く、ただ費用を給して歸國させることを求めるだけだ。事情も言葉も切迫してをり、實に憐れである。實情の通りに確認して報告し要請するのが道理である。どのやうに斟酌して送還するかは指示を傳達して頂きたい』
などの説明である。同時に供述書一束を通商總局に送って來た。これにもとづき、すぐに海防廳に訓令し、先づ妥當に休息宿泊させ、それから調べてみると各國の漂流民は附近の領事館に送致し、本國に送還する通例である。
現在日本は福建に領事が無く、前例を援用して上海道員から附近の日本領事に通知送致し送還させるべきである。但しこの難民のもとの小船は苫も船室も無く、帆柱及び舵桿も小雜木を集めたもので、決して大洋を渡航できない。これをこの難民等に相談しても、ともに當地で賣り拂って換金したいと述べる。そこで通商總局から人員を派遣して、在福建の日本商人小倉錦泰の協力同行を求め、七圓に換金できると見積もり、既にこの難民に交付して受領させた。同時に一人づつ慰問金外國圓十二圓を給した。招商局委員(海運社員)に命じ、浙江の高官王叔蕃のもとに派遣し、汽船に便乘して上海道員の役所まで同伴させ、附近の日本領事館に轉送し、收容送還させ、それにより恩惠を示すやうにさせる。省の將軍及び總督に合議して頂くほか、實務上も通知要請する必要がある。このため上海道に通知し、確認を要請する。海運社員がこの難民を送り屆けたら、日本領事館に通知送致して確認收容させ、結果を返信して頂きたい。以上通知する。

 
〔九件中三件目、畫像六枚目〕
計粘抄一紙。
據難民井澤弥喜太供、「年三十七歳、係日本國熊本縣吉村人。自置小船、向在八重山嶼侢運煤炭生意、已經八年。此番由家起行五十里、先至鹿兒島、又由島行二百七十里、可至八重山嶼。因途中突遇暴風、避在胡馬嶼内。因拟就近前去台湾、再圖囘國。不料又被颶風吹至浙江平陽縣界。由平陽縣給與移文、飭赴福鼎縣投逓。因不識路徑、駛入霞浦縣三沙地方、經向彼處巡検官報明、承爲指點、開駛入五虎口。蒙彼處武営派兵護送進省。這有川岩助、係是僱來船夥。滿石良係属搭客。今蒙査訊、所供是寔、乞賜資遣囘國、就沾恩了。」
据有川岩助供、「年三十六歳、係日本國鹿兒島縣人。此番經井澤弥喜太僱爲船夥、欲往八重山嶼、去侢運煤炭。因途中遭風、輾轉漂至閩省。乞恩資遣囘國。」餘同前。
据滿石良、「年三十六歳、係日本鹿兒島縣人。搭坐井澤弥喜太便船、欲往八重山嶼。因途中遭風、轉輾漂至閩省。乞恩資遣囘國。」餘供同前。

〔釋語〕
生意:商賣。チャイナ語。
沾恩了:恩を受ける。官府でお願ひする意に使ふ口語。

〔書き下し〕
計するに一紙を粘抄す。
難民井澤弥喜太の供に據れば、「年三十七歳なり、日本國熊本縣吉村人に係る。自ら小船を置(ち)し、向(さき)より八重山嶼に在りて煤炭を載運するの生意、已に八年を經たり。此の番、家より起行して五十里、先づ鹿兒島に至り、又た島より行くこと二百七十里にして、八重山嶼に至るべし。途中突として暴風に遇ふに因り、避けて胡馬嶼の内に在り。因って近きに就きて臺灣に前み去り、再び國に囘るを圖らんと擬す。料らずも又た颶風を被り吹かれて浙江平陽縣の界に至る。平陽縣より移文を給與し、飭して福鼎縣に赴き投遞せしむ。路徑を識らざるに因り、駛せて霞浦縣三沙地方に入る。彼の處の巡檢官に向かひ報明するを經て、指點を爲すを承はり、開駛して五虎口に入る。彼の處の武營、派兵護送して省に進ましむるを蒙る。這の有川岩助は、是れ僱ひ來たる船夥に係る。滿石良は搭客に屬するに係る。今査訊を蒙り、供する所は是れ寔なり、乞ふ資遣して國に囘らしめよ、就ち恩に沾(うるほ)ひ了はんぬ。」と。
有川岩助の供するに據れば、「年三十六歳なり、日本國鹿兒島縣人に係る。此の番、井澤弥喜太の僱ひて船夥と爲すを經て、八重山嶼に往き、去りて煤炭を載運せんと欲す。途中風に遭ふに因り、輾轉として漂ひて閩省に至る。恩を乞ふ、資遣して國に囘らしめよ」と。餘、前に同じ。
滿石良に據れば、「年三十六歳なり、日本鹿兒島縣人に係る。井澤弥喜太の便船に搭坐し、八重山嶼に往かんと欲す。途中風に遭ふに因り、轉輾として漂ひて閩省に至る。恩を乞ふ、資遣して國に囘らしめよ」と。餘供は前に同じ。

〔現代語譯〕
 合計で紙一枚を抄録貼附する。
 難民井澤弥喜太の供述によれば、「年齡は三十七歳、日本國熊本縣吉村の人である。自ら小船を購入し、もともと八重山島で石炭を運搬する取引で既に八年になる。此のたび、家から出發して五十里すすみ、先づ鹿兒島に至り、また鹿兒島といふ島から二百七十里すすめば八重山島に至る見込であった。途中突然暴風に遇ったので、胡馬嶼の内で避難した。そこで附近の臺灣に往き、さらに歸國を目指さうと考へた。ところがまた臺風に吹かれて浙江省平陽縣の域内に至った。平陽縣から通知文を給せられ、福鼎縣へ行って提出するやう命ぜられた。海路を知らないため、航行して霞浦縣三沙地方に這入った。現地の巡檢官に報告して、ご教示を賜はり、五虎口まで航行した。現地の武官が省府福州まで派兵護送してくれた。そして有川岩助は、雇用した船員である。滿石良は乘客である。今訊問を受けて、實の通り供述した。費用を支給して國に送還して頂ければ感謝にたへない」とのことだ。
 有川岩助の供述によれば、「年齡は三十六歳、日本國鹿兒島縣人である。此のたび、井澤弥喜太に船員として雇はれ、八重山島に往き、石炭を運搬しようとした。途中で風に遭ったので、あちこち漂流して福建省に至った。費用を支給して國に送還して頂くやう伏してお願ひします」と。他は井澤と同じである。
 滿石良によれば、「年齡は三十六歳、日本鹿兒島縣人である。井澤弥喜太の便船に搭乘し、八重山島に往かうとした。途中で風に遭ったため、あちこち漂流して福建省に至った。費用を支給して國に送還して頂くやう伏してお願ひします」と。他の供述は前に同じ。


〔九件中六件目、畫像十枚目〕(近藤祐康氏のご教示により釋字修正あり)
廿六年十二月二十七日接受
第百四十參號         送第一三五七二號  
 本邦漂流人返還に關し、清國官吏へ致謝の件。
本件に付、十二月七日附、送第一一六号貴信を以て小官より清國官僚へ謝意傳達可致旨、御訓令の趣、敬承。然るに該官僚へ對し各自直接に謝状を送るよりは、寧ろ上司の手を經て挨拶を通ずる方可然樣被存候に付、別紙の通り福州道台陳氏へ宛、照會依頼致置候故、御是認相成度、此段囘答申進候也。
明治廿六年十二月廿一日   
在上海總領事館事務代理  山座圓次郎
外務大臣陸奧宗光殿

〔かな添加〕
本邦漂流人返還に關し、清國官吏へ致謝の件。本件につき、十二月七日づけ、「送第一一六號」貴信を以て、小官より清國官僚へ謝意傳達致すべき旨、ご訓令の趣、敬承す。然るに該官僚へ對(たい)し、各自直接に謝状を送るよりは、むしろ上司の手を經(へ)て挨拶を通ずる方、然るべきやう存ぜられ候ふにつき、別紙の通り福州道台陳氏へ宛て、照會依頼致し置き候ふ故、ご是認相成りたく、この段囘答申し進め候ふなり。)

〔釋語〕
道台は別名道員・兵備道・分巡道、即ち省から派遣されて防衞を巡察監督する高官。


〔九件中七件目、畫像十一枚目〕
大日本駐箚上海、兼管鎮江・寧波、弁理本國通商事務、署總領事館事務山座、爲照會事。
照得茲奉我國外務大臣陸奧 札文、内開『據報、「熊本縣益城郡住吉村十番戸、井澤彌喜太等三名、由冲繩縣八重山島、向胡馬島航往之際、遭風漂到清國沿海、當蒙該國平陽縣知縣・霞浦縣知縣・閩安協・福防廳長・福州通商局長等各官、優加保護照料」等因。本大臣聞報之下、寔深感謝、合行札令貴官査照、即煩將此謝意、轉致清國各官可也』等因。本署總領事館事務奉此、理合備文照會
貴道査照。請煩將前因、轉達上開各官知照爲荷。
須至照會者。
右照會
大清欽命布政使銜、弁理通商事務、福建分巡寧海道陳
明治廿六年十二月廿一日。

〔書き下し〕
大日本、上海に駐箚し、鎭江・寧波を兼管し、本國の通商事務を辦理す、署總領事館事務山座、照會の事のためなり。
照し得たり、
茲に我が國外務大臣陸奧の札文を奉ず、内に開す『報に據れば「熊本縣益城郡住吉村十番戸、井澤彌喜太等三名、冲繩縣八重山島より胡馬島に向かひ航往するの際、風に遭ひ漂して清國沿海に到るに、當(たう)に該國平陽縣知縣・霞浦縣知縣・閩安協・福防廳長・福州通商局長等各官、優に保護照料を加ふるを蒙る」等の因なり。本大臣、聞報の下、寔に感謝深し、合(まさ)に札令を貴官に行して査照せしむべし、即ち此の謝意を將(と)りて、轉じて清國各官に致するを煩はして可なり』等の因なり。本署總領事館事務、此れを奉じ、理として合に文を備へ貴道に照會して査照せしむべし。請ふ煩はしくも前因を將りて、上開各官に轉達して知照せしむるを荷と爲す。
須らく照會に至るべし。
右、大清欽命布政使銜、弁理通商事務、福建分巡寧海道、陳に照會す。
明治廿六年十二月廿一日。

〔釋語〕
札令は札飭に同じ。訓令を指す。
分巡寧海道は福寧・福州の海防兵備道を略したものと思はれる。福州道員にして福寧道員を兼ねる。

〔現代語譯〕
大日本、上海駐在、鎭江・寧波を兼任し、本國の通商事務を執り行ふ、總領事館事務代理山座よりお知らせ。
お知らせする。
このたび我が國外務大臣陸奧の訓令を受けた。内に述べる。『報告によれば「熊本縣益城郡住吉村十番戸、井澤彌喜太等三名、冲繩縣八重山島より胡馬島に向かひ航行した際、風に遭ひ清國沿海まで漂流した。すぐにその國の平陽縣知縣・霞浦縣知縣・閩安協・福建海防廳長・福州通商局長等の各官から十二分の保護と世話を受けた」
等のことである。本大臣は報告を聞き、まことに深く感謝する。
貴官に訓令して確認の上、この謝意を清國各官に傳達して頂きたい』等のことである。本總領事館事務代理はこれを受領したので、公文を作成して上海道員に通知して確認する必要がある。宜しく以上の趣旨を、上述各官に傳達して受理して頂きたい。
以上、お知らせする。
右を大清欽命の名譽布政使、通商事務擔任、福建の福寧(と福州)の海防の道員、陳氏にお知らせする。
明治二十六年十二月廿一日。

 
〔九件中八件目、畫像十二枚目〕
廿七年二月二日接受   主管 通商局
第十二號    送第一一二二號
 本邦漂流人返還に關し清國官吏へ致謝の件。
該件に付ては昨年十二月廿一日附第百四十三號公信を以て福州道台へ對し照會差送候旨、報告致置候處、此程該道台より右照會に對し各地方官等へ貴意轉達可致旨、別紙寫の通り囘答申越候。
右具報候也。
明治廿七年一月廿五日  在上海總領事館事務代理  山座圓次郎。
外務次官林董殿。

〔かな添加〕
該件については昨年十二月二十一日づけ第百四十三號公信を以て福州道台へ對(たい)し照會差し送り候ふ旨、報告致し置き候ふ處(ところ)、この程該道台より、右照會に對し、各地方官等へ貴意轉達致すべき旨、別紙うつしの通り囘答申し越し候ふ。右、具報し候ふなり。


〔九件中九件目、畫像十三枚目〕
大清欽命布政使銜、辦理通商事務、福建分巡寧福海防兵備道陳、爲照復事。
准貴總領事照會、「照得茲奉我國外務大臣陸奧 札文、内開『據報熊本縣益城郡住吉村十番戸、井澤彌喜太等三名、由冲繩縣八重山島、向胡馬島航往之際、遭風漂到清國沿海、當蒙該國平陽縣知縣・霞浦縣知縣・閩安協・福防廳長・福州通商局長等各官、優加保護照料等因。本大臣聞報之下、寔深感謝、合行札令貴官査照、即煩將此謝意、轉致清國各官可也』等因。本署總領事館務奉此、理合備文照會査照。請煩將前因、轉達上開各官知照爲荷」等由。准此、査貴國民人遭風援救、乃地方官分内之事、遠承謙謝、紉佩殊深。茲准前由、除呈報移行外、合就照復貴總領事査照。須至照復者。
右照覆
大日本駐箚上海、兼管鎮江・寧波、弁理本國通商事務、署總領事館務山座。
光緒十九年十二月初七日。
我廿七ナリ、一月廿三日接。

〔書き下し〕
大清欽命布政使の銜、通商事務を辦理す、福建の寧福を分巡する海防兵備道陳、照復の事のためなり。
貴總領事の照會するに准ずれば、「照し得たり、茲に我が國外務大臣陸奧の札文を奉ず、内に開す『報に據れば熊本縣益城郡住吉村十番戸、井澤彌喜太等三名、冲繩縣八重山島より胡馬島に向かひ航往するの際、風に遭って漂して清國沿海に到る、當(たう)に該國平陽縣知縣・霞浦縣知縣・閩安協・福防廳長・福州通商局長等の各官の優に保護照料を加ふるを蒙る等の因なり。本大臣聞報の下、寔に感謝深し、合(まさ)に札令を貴官に行して査照せしむべし、即ち煩しくも此の謝意を將(と)りて、轉じて清國各官に致して可なり』等の因なり。本署總領事館務、此れを奉じ、理として合に文を備へて照會査照すべし。請ふ煩はしくも前因を將りて、上開各官に轉達して知照せしむるを荷と爲す」等の由なり。此れに准じ、査するに貴國の民人、風に遭ふに援救するは、乃ち地方官分内の事なり、遠く謙謝を承はり、紉佩すること殊に深し。茲に前由に准じ、呈報移行するを除くの外、合に就ち貴總領事に照復して査照せしむべし。須らく照復するに至るべし。
右、大日本、上海に駐箚し、兼ねて鎮江・寧波を管し、本國の通商事務を辦理す、署總領事館務山座に照覆す。
光緒十九年十二月初七日。
我が廿七なり、一月廿三日接す。

〔釋語〕
札令は札飭に同じ。訓令を指す。
當は即刻の意。
寧福は福寧州及び福州府。陳氏が福州道員と福寧道員を兼ねる。日本側公文では福州道台に作る。通例では布政使などの銜(肩書き)を名目上で與へられる。

〔現代語譯〕
大清欽命の名譽布政使、通商事務擔任、福建の福寧・福州を分巡する海防兵備道陳より返信する。
日本の上海總領事からのお知らせによれば、「お知らせする。このたび我が國外務大臣陸奧の訓令を受けた。内に述べる。『報告によれば、熊本縣益城郡住吉村十番戸、井澤彌喜太等三名、冲繩縣八重山島より胡馬島に向かひ航行した際、風に遭ひ清國沿海まで漂流した。すぐにその國の平陽縣知縣・霞浦縣知縣・閩安協・福建海防廳長・福州通商局長等の各官から十二分の保護と世話を受けた等のことである。本大臣は報告を聞き、まことに深く感謝する。貴官に訓令して確認の上、この謝意を清國各官に傳達して頂きたい』等のことである。本總領事館事務代理はこれを受領したので、公文を作成して上海道員に通知して確認する必要がある。宜しく以上の趣旨を、上述各官に傳達して受理して頂きたい」
等のことである。これにもとづき、調べてみれば貴國の人民が暴風に遭った時、救援するのは地方官の職務内の事である。遠くから謙虚な謝意を承はり、深く敬服する。
ここに上述の趣旨の通り、(各地方官に)報告及び通知するほか、貴總領事に返信して確認して頂く。以上返信する。
右を大日本、上海駐在、鎮江・寧波を兼任し、本國の通商事務を擔任する、總領事館務代理山座に返信する。
光緒十九(明治二十六)年十二月初七日。
日本の二十七日である。一月二十三日に受理した。
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以上が三月二日の記者會見で配布した資料だが、九件目の文書(アジア歴史センター畫像十三枚目)の書き下し・現代語だけは本日(三月九日)までに微調整した。それ以外は三月二日のまま、微調整もしてゐない。