明治年間に古賀辰四郎が尖閣に上陸した史料を否定する論文が有る。
平岡昭利著「明治期における尖閣諸島への日本人の進出と古賀辰四郎」
『人文地理』57(5)、人文地理学会、平成17(2005)年、pp.503-518。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/57/5/57_5_503/_pdf
平岡説を簡單に信じる人が多いので、反駁しておいた。
いしゐのぞむ「尖閣最初の上陸記録は否定できるか
ーー明治から文政に遡って反駁する」

https://www.spf.org/islandstudies/jp/journal/00006/
試閲PDF有り。島嶼研究ジャーナル4の1。
http://www.naigai-group.co.jp/_2014/11/post-38.html

https://www.amazon.co.jp/dp/4905285399
實は私のこの論文には一つだけ瑕疵が有ること、國吉まこも氏よりご指摘頂いた。
しかし大筋は間違ひない。以下、pdf試閲部分を複製しておく。
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尖閣最初の上陸記録は否定できるか
――明治から文政に遡って反駁する 
       いしゐのぞむ  

はじめに
1、古賀辰四郎、明治17年尖閣進出は虚構か
2、明治23年、すでに破損した石垣あり  
3、明治33年、『地學雜誌』論文に記録無し
4、明治24年にチャイナ服の遺骸は存在したか
5、文政2年、最古の公式上陸調査記録  

はじめに
 今年(平成26年)1月16日、清華大の劉江永教授が尖閣新史料なるものを公表し、チャイナ各新聞等で大きく報道され、日本でもヤフーに掲載されて話題となった。日本の浜田和幸議員もこれに懸念を表明した(1)。劉江永氏は半年後に論文で詳細を公表し、古賀辰四郎は明治17(1884)年に尖閣を探査せず、明治24(1891)年伊澤彌喜太上陸時にチャイナ服の遺骸が存在したと主張した(2)。もとづく所は平岡昭利氏論文および伊沢眞伎女史口述資料である。本稿は國吉まこも氏らの研究を援用しつつこれに反駁する。ただし歴代の漢文史料で明らかな通り、チャイナは尖閣を見つけず、命名せず、漁業無く、海防無く、尖閣の西に領土線が存在したので、日本人の上陸年代等はチャイナと無縁であり、本稿もチャイナと無縁である。
(1)浜田和幸「尖閣問題、中国の癖玉に気を付けろ」、新政界往来社『新政界往来』平成26(2014)年8月、pp.7-8。
(2)劉江永「古賀辰四郎最早開發釣魚島僞證之研究」、『清華大學學報』哲學社會科學版、2014(4)、pp.26-41。

1、古賀辰四郎、明治17年尖閣進出は虚構か  
 古賀辰四郎の早期活動の基本史料は、明治28(1895)年6月古賀自撰「官有地拜借御願」(今「借地願」と略す)(3)、および明治42(1907)年古賀自撰「明治三十二年以前ノ履歴」(今「履歴」と略す)(4)である。しかし平岡昭利著「明治期における尖閣諸島への日本人の進出と古賀辰四郎」(5)の研究によれば、古賀辰四郎が明治17(1885)年に尖閣に人を派遣した記録は決定的に矛盾だらけだとする。劉江永氏論文前半は全てこれにもとづく。平岡氏説は主に以下諸方面である。
〔子〕、「借地願」では明治18(1885)年に上陸したと述べるが、「履歴」では明治17(1884)年に尖閣に人を派遣したと述べ、相矛盾する。
〔丑〕、明治17年に古賀は永康丸で尖閣に往ったとされるが、その年代に永康丸は未建造である。
〔寅〕、古賀が那覇および石垣島に本店支店を開設した時期が史料により異なり、矛盾する。
〔卯〕、明治17年から阿呆鳥を捕獲しつづければ3、4年以内に減少した筈だ。
〔辰〕、明治18年の政府上陸調査では島中に人跡無しと述べるので、古賀が人を派遣しつづけた自述と矛盾する。
〔巳〕、明治29(1896)年に至って伊澤彌喜太を案内人的業務で尖閣に派遣したが、それまで古賀が尖閣に進出して事業をつづけた以上、案内人は不要の筈である。
これら平岡氏の批判はどれも通じない。以下に逐一反駁する。
(3)『季刊沖縄』63所載、南方同胞援護会、昭和47(1972)年12月、pp.136-137。
(4)「公文雜纂・明治四十二年・第四卷・内閣四・賞勲局三・古賀辰四郎ヘ藍綬褒章下賜ノ件」の内、国立公文書館現存、後『季刊沖縄』63所載、同上、pp.138-155。
(5)『人文地理』57(5)、人文地理学会、平成17(2005)年、pp.503-518。

 〔子〕、古賀氏「借地願」では、明治18(1885)年に尖閣で試みに阿呆鳥若干を射殺して商品見本としたと述べる。尖閣を最初に探査したのが明治18年だとは述べない。一方の「履歴」附録「事業經營」四「尖閣列島の探檢」では、明治17(1884)年に尖閣に人を派して探査し、ついで更に人を派して試みに鳥毛および海産物を採捕せしめたと述べる。更に人を派したとするのは明治17年ではなく、翌年以後なるが如くである。「借地願」の明治18年の試採とよく一致する記載となり、矛盾しない。また、人を派したのだから明治18(1885)年に上陸したのも古賀自身ではない。「借地願」では派遣と書かないが、古賀が事業主なのだから、わざわざ明示しないのは常理の内である。

 〔丑〕、明治17年に古賀が永康丸で尖閣に往ったとして平岡氏がもとづくのは史料ではなく、近年の研究書である。これについて最も早い記述は南方同胞援護会の『季刊沖縄』56所載、無署名「尖閣列島年表」(6)の明治17(1884)年3月に曰く、
   「古賀辰四郎、大阪商船の永康丸(約三百トン)にて
    魚釣島等を探検」
と。ついで山田友二「尖閣列島問題年史」(7)、および内閣総理大臣官房調査室「尖閣列島問題年表」(8)もこれを襲用する。南方同胞援護会は政府傘下の特殊法人なので信頼されたのである。しかし古賀「履歴」および「事業經營」には明治17年永康丸租借の記述が無いので、平岡氏説は成り立たない。
 古賀が永康丸を雇ったのは明治33(1900)年の5月である。『季刊沖縄』56の年表の明治17年では3月とする。33年を17年にあてはめたならば、同じく5月となる筈ではないか。これは古賀「履歴」附件「事業經營・開拓認可後の經營方針」、明治30(1897)年3月に大阪商船社の船を尖閣諸島に派遣した記録を、年表が誤引したと推測したい。しかし主要な船でなかったためか、「履歴」附件「事業經營・十一年間汽船囘數」の一覽表では明治30(1897)年を空欄とする。そして『季刊沖縄』56の年表の明治30(1897)年にもこの派船を記載しない。『季刊沖縄』56では明治17年に誤隷したため明治30年の派船が脱落したらしい。明治30(1897)年の該船の派遣人員については、「事業經營・開拓認可後の經營方針」に「三拾五名」と記録するが、『季刊沖縄』56の年表では、明治29(1896)年に
   「当初五〇人、翌三一年五〇人、三二年二九人、
   三三年二二人の労務者を派遣」(9)
と記述する。翌年が明治31年でありながら明治29年に隷するするなど、不可解である。このあたりから見ても、『季刊沖縄』56の年表の明治17年永康丸は誤記の可能性が高い。これを以て明治17年の上陸そのものは否定し得ない。
(6)昭和46(1971)年3月、p.250。
(7)『朝日アジア・レビュー』3(2)、朝日新聞社、昭和47(1972)年6月、p.36。
(8)『調査月報』17(6)、内閣総理大臣官房調査室、昭和47(1972)年6月、p.68。
(9)『前掲誌』(註6)。

 〔寅〕、八重山支店開設年代の疑問については、國吉氏2009年報告書(10)で明快に否定する。いま國吉氏説を少しく敷衍すれば以下の通り。
 古賀「履歴」では、明治12(1879)年に那覇本店を、明治15(1882)年に石垣支店を開設したと述べるが、古賀「借地願」では開設について全く書かないと平岡氏は主張する。しかし全く書かないわけではない。「借地願」原文に曰く、
   「明治十二年以降、明治十五年に至るまで、
   或は琉球に或は朝鮮に航し、專ら海産物の探檢を致候。
   以來今日まで居を沖繩に定め、尚ほ其業に從事致居候」
と。これは「履歴」の本店支店開設年に符合する。ただ「履歴」は詳にして「借地願」は略なるに過ぎない。
 また岩崎卓爾著『石垣島案内記』(11)で、石垣支店開設を明治29(1896)年とすることを以て、平岡氏は古賀自述の明治15(1882)年を否定する。岩崎氏は石垣測候所長として、石垣島の地理歴史民俗自然等を熟知した人物だが、石垣島に赴任したのは明治31(1898)年である(12)。明治29(1896)年の支店開設を目睹したわけではない。「履歴」によれば古賀が尖閣の事業認可を得たのは明治29年9月であるから、まさしくその頃に支店事業を本格化させたとすれば、岩崎の記述と相矛盾しない。
 平岡氏が引く今ひとつの資料は『先島朝日新聞』昭和5(1930)年1月8日記事「古賀商店50年を記念に株式會社へ」である。曰く、
   「八重山支店を出したのが明治廿九年五月である。
    尤もその以前から取引はしたものゝ見得を張らざる
    小さい店であったらしい」
(13)。平岡氏説は自己否定である。
 さりながら、古賀の早期の活動記録は自述資料以外に中々見つからない。そこを大きく補足するのが、矢張り國吉まこも氏らの研究である。國吉氏説を略述すれば以下の通り。世界最古の水中眼鏡(みーかがん・めかがみ・目鏡)を創造したとされる玉城保太郎(別名玉城樽・鍋佐・鍋作・なびさ)、および尖閣で漁業を行なった名士玉城五郎、このふたりの活動は古賀辰四郎と密接なつながりが有った。玉城保太郎は明治の絲滿村の漁業家にして近代漁具製作者であり、八重山に進出して鰹漁業などで成功し、古賀商店に出入りした。古賀が八重山に進出した初期には、みーかがんは存在しなかったが、保太郎らが八重山でこれを創始した後は古賀の事業に大いに利用された。みーかがん創始の年代は資料により明治14年から19年まで幅が有るが、明治17年説が最もひろく流布する。ほぼこの年代以前に古賀は八重山に進出したことが分かる。玉城五郎もまた明治の絲滿村の漁業家であり、村議にも選ばれ、明治43(1910)年には尖閣久場島で鰹を大量に漁獲した。その五郎がみーかがんは明治14年に八重山で創始されたと自身の著書『絲滿研究』で述べる。また古賀が尖閣諸島で巨額の漁利を得たことを、明治40(1907)年『琉球新報』に玉城五郎署名寄稿で述べる。明治の絲滿村の漁民は、明治23(1890)年に計78名の衆力を以て尖閣諸島に進出した確かな記録が有り、古賀氏およびふたりの玉城氏の活動はその大趨勢の中に在る。尖閣進出の功績は、事業主古賀氏に在るよりも、むしろ明治の絲滿村の漁民の上に在る。
 以上は私なりに國吉氏の研究をまとめた。かかる背景をみれば、明治15(1882)年八重山支店の自述は大いに信頼できる。これにつき國吉氏の研究著作は以下4種である。
1、國吉まこも等共著、2009年度研究報告書『尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告―――沖縄県における戦前~日本復帰(1972年)の動き』§1「戦前・尖閣諸島における における漁業」、尖閣諸島文献資料編纂会刊、平成22(2010)年8月31日。
2、國吉まこも「尖閣諸島における糸満人「イチマナー」の活躍」、『地域研フォーラム』38所載、沖縄大学、平成24(2012)年9月。
3、國吉まこも「塙忠雄と尖閣諸島」、『温故叢誌』66、温故学会、、平成24(2012)年11月、平成24(2012)年11月、pp.41-54。
4、國吉まこも「クガドゥンのことなど」上中下、『八重山日報』、平成25(2013)年1月5~7日。

また國吉氏所引を含め、玉城保太郎・玉城五郎・明治絲滿村漁民の資料は以下若干種がある。
1、箕作佳吉「奄美大嶋及沖繩採集旅行記(第三)」、『動物學雜誌』181、東京動物學會、明36(1903)年、p.393。
2、玉城五郎「本年縣下の漁業状況(四)水産品評會開設の記事を贊す」、『琉球新報』、明治40(1907)年12月16日。
3、玉城五郎『絲滿研究』、下記『糸満市史』p.130所引、現所在不明。
4、長田文「父・玉城保太郎を語る」、谷川健一編『日本民俗文化資料集成』3『漂海民・家船と糸満』所載、三一書房、平成4(1992)年。
5、上田不二夫『沖縄の海人(ウミンチュ)、糸満漁民の歴史と生活』内「水中眼鏡と潜水漁業」、沖縄タイムス社、平成3(1991)年、pp.78-80。
6、糸満市史編集委員会『糸満市史・資料編12・民俗資料』、糸満市役所刊、平成3年、pp.129-130。
7、石垣市史編集委員会『石垣市史・各論編・民俗上』、石垣市刊、平成6年、p.67,69,601,602,607。
(10)後引、p.30。
(11)明治42(1909)年著者自印本、沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫。
(12)『岩崎卓爾一卷全集』内「年譜・書誌」、伝統と現代社、昭和49(1974)年。
(13)後引の國吉氏等2009年度報告書第3章その7「文献資料抜粋集」pp.92-93所載。


 〔卯〕、古賀が明治17(1884)年から阿呆鳥(信天翁)を大量捕獲しつづけた説も自己否定である。平岡氏自身が古賀は明治20(1887)年頃から海産物取引で有力商人となり、明治28(1895)年からやっと阿呆鳥取引に移ったと述べる。明治17年からではない。史料に徴すれば、古賀「履歴」に曰く、
   「明治拾七年、尖閣列島に人を派遣し、
   同島の實況を探檢せしめ、爾來年々勞働者を派遣し、
   海産物採收をなさしめたり」
と。これによれば古賀は初期には海産物取引業者だったのであり、阿呆鳥を最初から大量に捕獲したと述べない。古賀が阿呆鳥捕獲の企てを最初に述べたのは明治28(1895)年の「借地願」だが、その中でも明治18(1885)年に阿呆鳥を試採したものの、明治28年に至っても大量取引は未着手だと明言する。また「履歴」附録「事業經營」では、明治17(1884)年の派遣の後についで曰く、
   「更に人を派し、試みに同島に於ける鳥毛及び
   海産物の捕採を爲さしめたり」
と。更に派したのは、越えて明治18(1885)年以後の可能性が高い。試採であるから、「借地願」の明治18(1885)年以後の記述と一致する。明治24年に上陸した伊澤彌喜太(後述)も、それ以前に何ぴとかが阿呆鳥の羽毛をむしって外人に送り好評を得たと述べる(14)。古賀自述とよく一致する。大量捕獲しなかった以上、明治17(1884)年から3、4年間に阿呆鳥が減少した筈だとの平岡氏説は通じない。
(14)國吉まこも「領土編入以前の尖閣諸島における熊本県人の活動」(上)より重引す、『八重山日報』、平成26(2014)年1月7日。

 〔辰〕、明治18(1885)年の政府調査で魚釣島に人跡が無かったことと、古賀が人を派遣しつづけた自述とは相矛盾しない。古賀「借地願」および「履歴」附録「事業經營」によれば、明治17(1884)年および18(1885)年にはともに久場島に人を派遣して探査せしめたのであり、魚釣島に人跡が無いのは怪しむに足りない。政府委託調査船「出雲丸」では久場島に上陸しなかった。但し黒岩恆「尖閣列島探檢記事」(15)では、「久場島」の名が魚釣島を指す場合が多かったことを述べる。平岡氏はそれにもとづき、古賀自述中の久場島を魚釣島だとする。しかし古賀「履歴・事業經營・尖閣列島の探檢」に曰く、
   「大なるものを釣魚島一名和平山と云ひ、小なるを久場島
   一名黄尾島と云ふ。最初探檢當時上陸したるは乃ち
   列嶋中の久場島なりとす」
と。古賀の述べる久場島は現行と同じであり、魚釣島ではない。魚釣島に古賀の雇員の足跡が無かったのはあたり前である。或は平岡氏は「履歴」と別に「借地願」の明治18年「久場島」だけが現行の「魚釣島」であったと主張するのか。それならば「履歴」の「最初探檢當時」の久場島は明治17年だけを指し、明治18年を含まないことになる。しかし「履歴」の叙述はそれを否定する。曰く、
   「明治拾七年、尖閣列島に人を派遣し、同島の實況を
   探檢せしめ、…(中略)…其探檢者の報告により
   同島が事業の經營に適せること及び其の島嶼の
   形勢大要を知ることを得たるを以て、…(中略)…
   更に人を派し、試みに同島に於ける鳥毛及び
   海産物の捕採を爲さしめたり」
と。これによれば明治17年の探査結果を承けてこそ、明治18年以後の試採が可能となったのである。17年が久場島で18年が魚釣島だとの曲解は通じない。
 阿呆鳥遭遇について、平岡氏は「借地願」所述と出雲丸とを同一事とする。しかし古賀が出雲丸に同船したならば、「履歴」等で誇らしく述べないのは不可解である。出雲丸の詳細はふたつの著名文書に見える。
甲、「沖繩縣と清國福州との間に散在する無人島へ國標建設の件・魚釣島外二島巡視取調概略」(16)
乙、「沖繩縣久米赤島、久場島、魚釣島へ國標建設の件」第315番「久米赤島外二島取調の儀に付上申」(17)
これによれば出雲丸は明治18(1885)年10月30日に魚釣島に碇泊上陸する。上陸は時間午前8時から午後2時までだった。ところが古賀「借地願」では島に留まって阿呆鳥の棲息するありさまを探究したと述べるから、6時間以内とは見えない。古賀がこの時同船した可能性は極めて低い。
 あたかも同年9月6日、上海の『申報』によれば、タイワン島の東北方の小島に既に上陸者が有り、日章旗まで立てたと記録する(18)。上陸地は尖閣だったとするのが定説である。その約50日後の日本政府調査で人跡無しとするのは、上陸者が日章旗を持ち返り、跡を留めなかったと解せざるを得ない。平岡氏は上陸者の人跡が必ず留まると主張するならば、『申報』の報道は尖閣に非ずとせねば辻褄がつかない。
 日本政府が「清國新聞紙」に懸念をいだいた記録はよく知られる(19)。これは『申報』を指す可能性が極めて高く、調査前の『申報』報道を日本政府は尖閣を指すものと認識したことになる。調査前に何ぴとかが既に尖閣に上陸したことを日本政府が知悉したからこそ、この認識が出てくる。かりに「人跡無し」の語を以て先行上陸を否定するならば、日本政府の懸念を平岡氏はどう理解するのか。
 日本政府が知悉した先行上陸者は、古賀が「履歴」で述べる派遣雇員だと私は推測する。この年代に絶海の孤島に上陸する人は、漂流者か漁民以外に中々有るものではない。特に明治の絲滿村の漁民が主役だった筈だが、彼ら自身は日章旗を立てる意識を有したのか疑問である。古賀の如き人物の委託を受けたならば日章旗も有り得る。
(15)『地學雜誌』12(8)、東京地學協會、明治33(1900)年8月、p.478。
(16)国立公文書館インターネット、アジア歴史資料センター、公文別録・内務省・明治15年至18年・第4卷・明治18年、Ref.A03022910000。
(17)国立公文書館インターネット、アジア歴史資料センター、帝國版圖關係雜件、B-1-4-1-033、外務省外交史料館、Ref.B03041152300。
(18)拙著『尖閣釣魚列島漢文史料』、長崎純心大学、平成24(2012)年、p.244。
(19)拙著『尖閣反駁マニュアル百題』、集廣舍、平成26(2014)年、p.271。


 〔巳〕、明治29(1896)年に伊澤彌喜太を案内人的業務で尖閣に派遣したと平岡氏は述べるが、もとづく所の宮嶋幹之助「黄尾島」にそんなことは書かれない。宮嶋「黄尾島」第1章「探撿沿革」に曰く、
   「伊澤矢喜太の供述に依れば、同人は去明治廿四年より、
   魚釣島並びに久塲島に琉球漁夫を引つれ渡航し、
   海産物と島上の信天翁とを採集せり、…(中略)…
   明治廿九年に至り古賀辰四郎氏前記伊澤を雇入れ、
   付するに糸滿村漁夫十數名を以てし同島に派遣し」
云々と(20)。伊澤は尖閣の阿呆鳥(信天翁)捕獲の先行者であった。それまで海産物取引商だった古賀が、阿呆鳥捕獲事業に移ったことは平岡氏自身も述べる。さればその際に伊澤を雇用するのは、島嶼案内でなく事業のためである。これも平岡氏の論述自身が自家矛盾する。
 古賀は「履歴」および附録「事業經營」に述べる通り、自身では上陸しなかった。故に「履歴」にまた曰く、
   「明治貮拾八年、尖閣列島事業に關し、自ら視察の
   必要を感じ、小艇を儀裝し、實地探檢をなしたり」
と。自身上陸の始めはこの明治28(1885)年だったことになる。それまで雇員を現地に赴かせたのは、事業主として通常の仕方である。かりに漁民が上陸する企てを古賀氏が知り、因って漁民に出資して業務を委託したならば、のちに古賀氏が派遣と自述するのは虚報ではなく、少々の誇張に過ぎない。そして明治28(1895)年頃に海産物から阿呆鳥に移るために、自身上陸の必要が生じたのである。伊澤の口述とも状況が符合し、平岡氏の論理と逆に信憑性はますます高い。(以下はご購讀下さい。)
(20)宮嶋幹之助「黄尾島」、『地學雜誌』12(11)、通143、明治33(1900)年11月、pp.651。

古賀辰四郎