「中外の界」は、遠く清の領外なること自明。

 

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日本戰略研究フォーラム季報、第五十六號、平成二十五年四月、

「チャイナの尖閣主張、繰り返す類型あり」 (三) いしゐのぞむ

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

 

論法にのせられないために  

 この汪楫の名は『産經新聞』報道の中にも出てゐたことにご注目頂きたい。汪楫は漢詩集の中で「東沙山(馬祖列島)までが清だ」と述べるのだから、その同じ本人がはるかに東の赤嶼附近で記録した「中外の界」は、遠く清の領外なること自明である。「中外の界」まで全て清の領土だとする主張は成り立たなくなった。
 汪楫の東沙山の語は、昨年(平成24年)3月の拙著『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心刊)の中に載せてあり、極めて重要なので報道して欲しかったのだが、報道各社にどう持ち込んだら良いか分からず、忙しさにも紛れて抛置してゐた。7月に至り『石泉山房文集』に附録する形で報道されたことは幸ひであった。
 汪楫の東沙山の重要性は、「中外」の歪曲を否定したのみならず、尖閣への航行中の記録として述べたことに在る。他にも尖閣の西のチャイナ東限史料は多いが、航行中の記述は少ない。かくも重要な東沙山の記述だが、上述のチャイナ側四氏は全く反駁しなかった。尖閣の西側だから無視したのである。そして、いつもの論法で尖閣の東の『石泉山房文集』上奏文だけが大きな反響を呼ぶこととなった。

戰略forum圖
尖閣の西側の史料いろいろ  
 ここまで尖閣の西側のチャイナ東限史料を幾つか例示したが、他に主なものを解説しよう。
○明・黄承玄『盟鷗堂集』
   國王嚴禁し、一草一粒をも犯すを許さず。
〔長崎代官は明の領土を犯すなと禁じた〕
○明・曹學佺『湘西紀行
   大明の境界に入らず。〔明に進入しない〕
この二つは、元和2年(西暦1616年)日本から派遣された使節明石道友が、明の領土に侵入するのを禁じられた上で東湧島に到達し、自ら明の官員に向かって「明に侵入しません」と述べたものである。東湧の東側は明の領土でないと確認してゐたことが分かる。明治に尖閣を無主地と確認するよりも280年前の確認である。東湧は今の馬祖列島中の東端で、福建沿岸から僅か約40kmに位置する。
 280年の間に繋がりは無いのか。答へは、有る。まづ福州から那覇へ約30年に一度づつ渡航した遣使船では、福州出航直後は福建人が針路役をするが、タイワン島の西北側海域から早くも琉球人と交替する。かりにチャイナ領内もしくは勢力下であるならば、交替するのは不自然である。琉球側ではそこから先を無主地であると常に確認してゐた可能性が高い。
 第二に明治7年、日本がタイワン島に出兵した際、清側はタイワン島全部を領有してゐると主張し、日本側はタイワン島東部が無主地だと指摘した。明石道友と同じやうに清の領土を犯さぬための確認を明治政府も行なったのである。この談判の中で、官製地誌『臺灣府志』及び稀少漢籍『臺灣番社紀略』などが議論の材料になった。明治政府は代表的地誌のみならず稀少本まで研究してゐたと分かる。後述の『重纂福建通志』にも書かれる通り、地誌にはタイワン島内の清の領土がどこまでと明記してあり、尖閣は領外である。維新から間もない頃、早くもこのやうに清の領域を確認した以上、とりも直さず尖閣を無主地と確認したに等しい。それから21年後に確認の上で領有した際にも、明治7年の調査結果を利用しない筈が無い。明石道友と明治政府が同じことをしたのは決して偶然ではなく、尖閣の西側にチャイナ東限が存在したことは時代を超えた共通認識なのである。

  (つづく)

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http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm