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日本戰略研究フォーラム季報、第五十六號、平成二十五年四月、

「チャイナの尖閣主張、繰り返す類型あり」 (二) いしゐのぞむ

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

  
郭汝霖の東限の記録  
 類型の種明かしの前に、しばし類型の罠にはまって見せよう。同じ郭汝霖の渡航記録『重編使琉球録』をみると、福州を出航してから赤嶼に至るまでの間、どこで明の東限の外に出たとも書かない。尖閣まで明の領内だから書かないのだとチャイナ側は主張する。日本側は明の領土記録が無いのだから無主地だと主張する。
 あちらさんはチャイナ東限が記録されない限り全てチャイナ領土だといふ論法だから、こちらは逆に琉球西限を記述しない別史料を以て「東シナ海全域が琉球の領海だ」と主張できるだらう。しかし記録の無い議論をすれば水掛け論になる。議論になることによりチャイナ側にも一理有るかのやうに見えてしまふ。
 そんな議論をしなくても、東限の記録は確然と存在する。勅撰『大明一統志』の福建福州府の一節に曰く、
   東至海岸一百九十里。
〔東のかた海岸に至る一百九十里〕
と。福州府(福建の首府)は尖閣のほぼ正西方向にあたり、府境は尖閣航路への出航地である。明の地誌上の190里は西洋の約40kmか50kmほどにあたる。グーグル・マップでみると福州から正東方向に海岸までの距離は約45kmなのでこれと一致する。尖閣は更に正東に約300kmなので、領外の無主地と確定する。
 『大明一統志』で領土を「海岸まで」と明記するのは、福州以外の福建各地でも浙江省でも同じである。『大明一統志』以外の官製地誌も全て同じである。あまりにもあたり前すぎるので、昭和40年代からの尖閣の議論中に引用されることはなかった。昨年10月5日に『佐賀新聞』が鄙説を報じたのが最初の筈である。
 地誌諸本に明記される通り、「領土は海岸まで」といふのがこの時の人々の共通認識だったので、使節郭汝霖は航路上でわざわざ「領外に出た」と記録しなかった。出航したと記録すれば即領外に出た記録に等しいのである。附言すれば、もっと後の時代になると福建沿岸島嶼までチャイナ勢力は進出し、上述の東沙山などを東限と看做すやうになる。
 さらに同じ郭汝霖『重編使琉球録』では、復路で浙江の陸地の見える前日に曰く、
   漸有清水、中國山將可望乎。
〔漸く清水有り、中國山(明の陸地)まさに望むべからんとす〕
と。「中國」とは、ここでは明を中心と看做す敬語である。尖閣よりもはるかに西側の黒潮支流を出て、大陸附近の淡い海色を以て明が近いと認識したのである。この時は尖閣を通らなかったが、郭汝霖自身も東シナ海を明の領外と看做してゐたことはこれで確認できる。

戰略forum圖
チャイナ東限を無視する論法  
 罠にはまって見せようと言ひながら、あっさり論破してしまったわけだが、チャイナ側は常に尖閣の東側の琉球西限だけを大きく取り上げて、明・清の東限を無視する。昭和40年代からの類型的論法である。日本側は奥原敏雄・喜舍場一隆・尾崎重義といった論客が明及び清の東限の史料を早くから提示して決着をつけたのだが、それと同時にチャイナの論法にも逐一正面から反駁したので、議論が白熱してゐるやうに見えてしまった。文化大革命を生き延びたチャイナ人に、善良な日本人が勝つのは至難である。我々は尖閣の東側の史料に反駁せず、西の史料だけを大きく扱ふべきである。さうすれば東西二者の間は無主地だと子供にも分かる。
 『産經』報道の件に戻れば、郭汝霖『石泉山房文集』もまた尖閣の東側の史料である。これを報道に出したことは、私自身もチャイナ側論法にのる形を作って仕舞ったに等しい。チャイナ側の前述四氏は早速いつものやうに尖閣の東側の諸史料をならべ立てて反駁してきた。ならべた史料と主張を例示すれば、
○明・陳侃『使琉球録』
古米山(久米島)から琉球に這入ると記録するから、そのすぐ西の赤嶼まで明の領土だ。
○明・夏子陽『使琉球録』
那覇から福建への復路で、黒潮を離れると「中國之界」だと記録するから、古米山・赤嶼附近の黒潮から西側はチャイナである。
○清・汪楫『使琉球雜録』
赤嶼の東で「中外之界」を記録するから、赤嶼と古米山との間がチャイナと琉球との分界だ。
○琉球・程順則『指南廣義』
古米山を「琉球の西南方の界上の鎭山」と記録するから、そのすぐ西の赤嶼まで清の領土だ。
……といった具合である。これら琉球西限の記述を、チャイナ側は明・清の東限だと勝手に決めつけて、福建沿岸の東限を無視するのである。念のためこの四史料を解説すれば下の通り。
 陳侃と程順則(正しくは徐葆光)は、ともに古米山と赤嶼附近の琉球西限の記述であって、その議論につき合ってはならない。『大明一統志』などのチャイナ東限を示せば話は終る。
 夏子陽については、福建を望見する前日の記述であるから福建附近の黒潮支流である。それをチャイナの主張では勝手に移動して琉球附近の黒潮にすり替へたに過ぎない。
 汪楫の「中外(内外)の界」も、琉球の内外であってチャイナの内外ではない。琉球の西限とほぼ同じ古米山・赤嶼の海域での話だから、琉球の内外と看做すのがあたり前なのだが、チャイナ側は清の東限だと決めつける。徐葆光に「中山(琉球)の大宅、中央に居す」との漢詩もあり、琉球を中とするのは自然である。
 以上の如く、尖閣の東側の琉球西限の議論になると、そこをチャイナ東限だと決めつけ、次々に誤った史料をならべて、まるでチャイナ側が優勢であるかの如き虚相を造り出す。逐一反駁すればすむのだが、外野からみればチャイナ側にも一定の理が有るかに見えてしまふ。

  (つづく)

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http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm