琉球新報に寄稿した小文が、五月九日木曜の同新報の文化面に掲載されました。尖閣の最古の記録にもとづいて現在の沖繩人に一つの提言をしてゐます。インターネット電子版はございません。お近くの圖書館などでご覽下されば幸ひです。

 保守派の私の文章が琉球新報に採用されたことは何を意味するのか、興味深いところです。

 琉球新報2013年0509

 5月10日に記念行事を  琉球人が導いた尖閣航路 

明代史料が示す「海洋的文化圏」

 まもなく5月10日、それは尖閣史上最古の日――。1月14日、尖閣諸島開拓の日(石垣市制定)は明治28(1895)年に日本が尖閣を正式に領土に編入した日である。480年になんなんとする尖閣史上の重要な節目だ。しかし尖閣史上にはもう一つ重要な日が有る。西暦1534年陰暦5月10日、琉球人が隣邦の客を導いて尖閣海域を渡航した最古の記録の日である。

 近代以前、尖閣を熟知するのは琉球人だった。その最古の記録が「陳侃三喜」である。明の使節陳侃は、福州から出航前、未知の琉球への渡航を畏れた。そこに琉球の貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだのが一喜。次に琉球から迎接船が入港したので、琉球への先導船になると喜んだのが二喜。次に迎接船が針路役及び水夫を派遣して陳侃と同船させ、琉球までの指導を申し出たのが三喜である。そして出航した使節船は、琉球の役人の操舵のもと、陰暦五月十日に尖閣列島の釣魚嶼(魚釣島)を通過する。尖閣は最初から琉球王が公式に遠方の客を導く航路として記録されたのであった。陳侃の「使琉球録」に歴々と書いてある。

最初から琉球文化圏  

 この日から尖閣は有史の時代になる。歴代史料では、尖閣の西に明と清の界線が記録され、同じく東に琉球の界線が記録される。東西二界の間の尖閣列島は二邦にとって共に外側の無主地であった。無主地ながら常に琉球人が針路を司る航路上の要地でもあった。海洋的琉球文化圏だったことは明白である。中華人民共和国の領有主張では、陳侃が釣魚嶼を記録したことだけを取り上げて、琉球人が針路を司ったことを長年にわたり無視しつづける。

 日本の論壇では、明治の領有以前の漢文史料において我が方が不利であるかの如き誤解があるが、原文をよく見れば全く逆である。特に要注意は「釣魚嶼」(釣魚島)なる漢文名である。「中国名」ではない。命名者は不明だが、琉球人の案内のもとで漢文名が記録されたのだから、琉球人の命名である可能性が極めて高い。今これを「中国名」と呼ぶことは、琉球の先人の功績をなみすることに外ならない。漢文は東アジアの共通語であって、西洋のラテン語と同じである。

前提は琉球が主人    

 きたる西紀2014年は尖閣有史480周年である。那覇や石垣などで記念行事を開催することを提言したい。そこには三つの意義がある。第一に、領有以前の尖閣史は文化的に琉球のものだと世界に宣言すること。第二に、最初に記録された釣魚嶼が「中国名」でないと世界に知らせること。第三に、歴史では日本不利だとの印象を一掃すること。記念行事により、これらの意義が自然と明らかになる。

 ただし前提とすべきは、歴史に忠なることである。「日中友好」などを合言葉に記念日を無原則に利用すべきでない。記念日名としては「尖閣三喜の日」もしくは「釣魚嶼みちびきの日」を提案したい。開催趣旨には無主地にして琉球文化圏だったと明記することが必須である。那覇や石垣の皆さんにご考慮いただきたい。