劉江永氏が古賀辰四郎・伊澤彌喜太・伊澤真伎に關する怪しげな史料を宣傳してゐるので、
http://big5.news.cn/gate/big5/news.xinhuanet.com/world/2014-03/03/c_126211752_2.htm
それを否定するために明治十八年(西暦千八百八十五年)の尖閣を繞る動向を勉強してゐた處、國吉まこも氏の論文に出逢ひ、新たな知見を得ることができた。尖閣史に新たな記述を加へる必要が有りさうだ。

「1885年田代安定の八重山調査と沖繩縣の尖閣諸島調査」
        國吉 まこも      
地域研究(10), 頁11-24, 2012-09     沖繩大學地域研究所

http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/11562
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005369439
この論文の尖閣關聯の主旨を私なりにまとめれば以下の通り。
 明治十二年、十三年の間、宮古八重山諸島を清國に割讓する「分島改約案」が有り、明治十七年、清佛戰爭の最中にフランスは臺灣の港灣を封鎖した。八重山諸島は敏感な政治的状況の中に在った。
 まさにその最中、八重山諸島の調査開發を志した熱血の鹿兒島人が田代安定氏である。田代安定は八重山調査を中央政府高官にたびたび訴へたが變人扱ひで相手にされなかった。日本政府は敏感な島嶼調査に消極的だった。
 しかし田代は念願かなって明治十五年に八重山で個人調査を實現し、更に明治十八年には沖繩縣令西村捨三が田代安定の建策を容れて、これに八重山調査を委任し、沖繩縣廳の石澤兵吾の部下とした。その西村捨三及び石澤兵吾こそが、同じ明治十八年十月末に日本政府として初の尖閣上陸調査を行なった立役者である。そこには田代安定の熱血の志が後推ししてゐたと推測できる。
 日本政府は同じ明治十八年の八月に大東島を調査したが、そこに田代安定が關はった記録が有る。とすれば大東島以外にも一連の無人島調査には田代安定が關はってゐた筈だ。
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以上が論文の主旨である。國吉氏は明言しないが、要するに
大東島に續く明治十八年十月末の尖閣調査には、
田代安定も出雲丸に同船して上陸した可能性が高い。ただ記録が無いだけである。
田代安定は早期の沖繩學の功勞者の一人となり、
その後沖繩諸島を調査した學者らにたびたび助言を與へてゐる。
田代安定2
田代安定