尖閣を守れ! 原田義昭政治研究會 平成28年6月27日 自民黨本部704室 配布資料

「日清戰爭どさくさ編入説」否定する二史料~~併せて歐洲の認識を論ず いしゐのぞむ

【略年表】
○明治四年 
宮古島民遭難事件。清國は琉球を自國領土と主張。
○明治七年
英軍水路誌、尖閣宮古八重山を「臺灣東北方諸島」とする。
○明治十一年
フィンドレー(英)水路誌、尖閣宮古八重山を「臺灣東北方諸島」とする。
○明治十二年
「分島改約の議」。宮古八重山を清國に割讓する談判。
○明治十三年
分島改約の議、合意に達せず中斷。
○明治十八年四月
朝鮮巨文島を英軍が占領。
○九月六日
上海『申報』に引く上海英人紙『文匯報』:「朝鮮からの情報によれば、臺灣東北側の島に日本人が國旗を立ててゐる。」
○九月二十二日 
『大阪朝日新聞』に引く『文匯報』:
「臺灣の東の宮古八重山に日本人が國旗を插してゐる。北京の反應や如何に。」
朝日記者は「五年前に解決したことを英人は蒸し返す勿れ」と憤激。
○十月二十一日
外務卿井上馨から山縣有朋へ密書:「尖閣は清國國境に接近。日本が臺灣近傍の島を占領するとの風説を、清國新聞紙が掲載。尖閣編入は清國の猜疑を招く。」
○明治二十二年
清・傅雲龍『遊歴日本圖經』。尖閣を琉球に入れて、琉球を日本の外とする。
○明治二十六年六月
熊本縣人井澤彌喜太、八重山から「胡馬島」に渡航中、暴風で福建に漂着。
○七月
福建沿岸で二度強盜に遭ひ、全財物を喪失。清國當局及び現地日本人が援助。
○八月
福建當局は井澤の供述書を添へて、日本駐上海領事館に井澤を送還。
○十二月  
外務大臣陸奧宗光の命で福建當局に感謝状送付。文面に「沖繩縣八重山島」と。
福建當局から返信に日本側の「沖繩縣八重山島」をそのまま引き、問題視せず。
○明治二十七年
官製『日本水路誌』の南西諸島に尖閣を記載。經緯度あり。公開。
日清開戰。
○明治二十八年一月
時勢は十年前と異なるとして、尖閣編入を閣議決定。非公開。
○五月
下關條約、臺灣を日本に割讓。
○八月
ロングマン社(米)の地名辭典に「尖閣は日本に屬する」。但し編入前の情報。

【現在までの定説】
 上海『申報』の臺灣東北の島とは尖閣である。尖閣編入に清國が異議を呈することを日本政府は恐れた。十年後、日清戰の勝利ほぼ確定的情勢により「時勢は異なる」として尖閣を編入できた。
左派:尖閣は清國領土だと日本政府は知ってゐて、日清戰を利用して詐取した。
右派:無主地を編入する時、隣國から異議が出ぬやう愼重を期するのは當然だ。

【本日の論點】
〔1〕上海『申報』で臺灣の東北としたのは、水路誌にもとづく朝鮮英軍からの情報であり、尖閣を指すのではない。
〔2〕新出『大阪朝日』により、日本政府が憂慮したのは宮古八重山歸屬問題であって、尖閣そのものは問題でなかったと分かった。
〔3〕日清往復胡馬島公文により、「沖繩縣八重山」を清國が問題視しないといふ心證を日本政府は得たであらう。
〔4〕兩史料を併せみれば、明治政府内部で「時勢が異なる」としたのは、宮古八重山歸屬問題がいつの間にか雲散霧消してゐたことを指すと分かる。
〔5〕假に日清戰の勝利ほぼ確定的情勢により編入するならば、終戰の條約締結を待って編入すれば良い。
〔6〕尖閣編入を日清戰の勝利と結びつける定説は完全に否定される。

【國吉まこも氏コメント】(談、いしゐ筆記)
「これら史料から分かることは、八重山と別に尖閣だけが日清間で問題となったことは一度も無かった。問題の焦點は「琉球」の扱ひであった。當時、田代安定・笹森儀助ら「愛國志士」が八重山諸島を調査し、八重山防衞の重要性を大聲疾呼していた。その運動が最終的に尖閣編入につながったことを、諸史料の間から讀み取ることができる。」
〔國吉まこも氏役職〕
尖閣諸島文獻資料編纂會研究員。
内閣官房領土主權對策企劃調整室委託、沖繩平和協力センター事業『沖繩縣における尖閣諸島に關する資料調査及び資料編纂』主任研究員。

【近年の論戰】
○平成二十五年十二月
國吉まこも氏、明治二十六年日清往復「胡馬島」公文を發見。
○平成二十七年二月
原田義昭議員、國會質疑で西暦1969年尖閣地圖を提示。
○三月
石井、明治二十六年日清往復「胡馬島」公文の新史實を公表。
チャイナ外交部、原田議員に對し「百枚千枚の地圖を提示できる」と主張。
○七月頃
國吉まこも氏、明治十八年九月二十二日大阪朝日新聞記事を發見。
○八月末
國吉・石井(聯名)、大阪朝日新聞記事につき初の論説を八重山日報に寄稿。
○平成二十八年四月十五日 
内閣官房より民間委託調査の成果として尖閣資料多數公開、
日清往復「胡馬島」公文が入選する。
○四月十九日
チャイナ外交部、内閣官房の史料に對し「斷章取義」として反撥。
○五月三日
人民日報、清華大學國際政治學院副院長の長文反駁を掲載。
○五月十三日
人民日報、社會科學院日本研究所所長の長文反駁談話を掲載。
○五月十五日
臺灣『風傳媒』、清華副院長に對する石井反駁を掲載。
○六月十五日
臺灣『民報』、社會科學院所長に對する石井反駁を掲載。

【日清戰直前の歐米の認識例】
チザム氏編『ロングマン世界地名辭典』 
(Longman's Gazetteer of the World)
編者:George Goudie Chisholm
刊行者:Longmans, Green, and Company(ニューヨーク)
チザム氏自序の末尾に1895年8月25日と署す。
p.705 Hwapinsu(尖閣魚釣島):「日本に屬する」(圖1)
下關條約よりも前の情報か、後の情報か。
日本が編入した「魚釣島」をHwapinsuと同一と判斷する材料を、歐米地理學界はまだ持たなかった。よって「日本に屬する」のは編入以前の認識。
p.538 Formosa(臺灣島):「1895年に日本に割讓」(圖2)
 下關條約後の状態が末尾に反映されてゐる。
p.1534 臺南府:「條約港である。」(圖3)
 清國の開港地を指す。日本に割讓される以前の状態。
 他にも臺灣各地は割讓前の状態で記述される。
p.1294 Riukiu:「西暦17世紀初から實質日本に屬し、西暦1876年に併合された。」(圖4)
西暦19世紀前半まで、琉球はチャイナに屬すると誤解されてゐた。幕末までに琉球に渡來する歐米人が増加すると、日本に屬してゐると正しく認識されるやうになる。

西暦19世紀前半、歐洲の通例的認識:
「尖閣は琉球、尖閣は宮古八重山、そして琉球はチャイナに屬する。」
西暦19世紀後半(幕末)、歐洲でひろまった認識:
「尖閣は琉球、尖閣は宮古八重山、そして琉球は日本に屬する。」
下關條約の年度に至り、ロングマン辭典で初めて「尖閣は日本」。何故か。
分島改約の議が中斷してから年數を經て、日本の直轄地としての認識が辭典に反映したと思はれる。
 
 圖1                
圖1_1895_Longman_Gazetteer_Worldカリフォル大藏p705Hwapinsu


圖2 Formosa 
圖2_1895_Longman_Gazetteer_Worldカリフォル大藏p538Formosa


圖3
圖3_1895_Longman_Gazetteer_Worldカリフォル大藏p1534臺南府


圖4
圖4_1895_Longman_Gazetteer_Worldカリフォル大藏p1294Riukiu
1895 Longman's Gazetteer of the World
カリフォルニア大學藏本。archive.org 
編者チザム氏はイギリスの地理學者。



明治26年、福建海防道員(海防長官)陳氏から日本側への返信。
  「沖繩縣八重山島」を問題視してゐない。外務省外交史料館藏。
1893福州覆函切



明治26年、福建通商總局の文書(寫)。外務省外交史料館藏。
  漂流人井澤の供述を引く。胡馬島が臺灣に近いとする。
  八重山を出航して臺灣に近い島と想定できるのは尖閣以外に無い。
福建通商總局井澤供切




1895Bartholomew_Gallica
西暦1895年「バーソロミュー氏支那日本高麗特製圖」
フランス國家圖書館インターネット ark:/12148/btv1b53029128q 
原題:「Bartholomew's special Map of China, Japan and Korea」
出版者: J. Bartholomew (Edinburgh)
TSUBO:中部。  OKUBU:北部  
琉球を日本と區別せず、尖閣を日本に入れる。
同年のロングマン版辭典と同じく認識段階であらう。
臺灣は未だ日本に割讓されてゐない。

八重山20160607-39




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尖閣を守れ! 原田義昭政治研究會
 平成二十八年六月二十七日 自民黨本部七百四室

追加資料【福建海防線は尖閣航路の西口まで】

清・陳倫炯『海國聞見録』卷上「天下沿海形勢録」に曰く、
「閩之海、内自沙埕・南鎭・烽火・三沙・斗米・北茭・定海・五虎、而至閩安。
外自南關・大嵛・小嵛・閭山・芙蓉・北竿塘・南竿塘・東永、而至白犬。
爲福寧・福州外護、左翼之藩籬。」
   (乾隆五十八年馬俊良序重刻本)
(閩の海は、内つかた沙埕・南鎭・烽火・三沙・斗米・北茭・定海・五虎よりして閩安に至る。
外つかた南關・大嵛・小嵛・閭山・芙蓉・北竿塘・南竿塘・東永よりして白犬に至る。
福寧・福州の外護、左翼の藩籬となす)

陳倫炯は臺灣總兵。福建の地勢を熟知。
内線はほぼ沿岸に伸び、明國『籌海圖編』の海岸防衞線と類似。
外線はやや遠い島嶼を列し、『皇明實録』西暦千六百十七年八月の島嶼防衞線と類似。
外護・藩籬は海防線。

特に竿塘・東永などは尖閣航路の西の入口。東方の尖閣は海防外。

下圖~陳倫炯『海國聞見録』附圖内「沿海全圖」
呉省蘭『藝海珠塵』石集第十册所收  國會圖書館藏
藝海珠塵海國聞見録福建圖國會藏米印



間違ひだらけの反駁法