- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。


『那覇市史  資料篇』 第1巻 家譜資料第三册。首里系。那覇市企画部市史編集室, 1982年。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01541373 
長崎純心大學藏。
向氏家譜・具志川家。
那覇市史向氏家譜2

那覇市史向氏家譜1

那覇市史5
以上書影は長崎純心大學藏本。以下は論文から關聯部分。
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いしゐのぞむ「尖閣最初の上陸記録は否定できるか
ーー明治から文政に遡って反駁する」

https://www.spf.org/islandstudies/jp/journal/00006/
島嶼研究ジャーナル4の1。
http://www.naigai-group.co.jp/_2014/11/post-38.html

https://www.amazon.co.jp/dp/4905285399
5、文政2年、最古の公式上陸調査記録  
 國吉まこも「尖閣諸島の琉球名と中國名のメモ」(註32) によれば、嘉靖24(1819)年、即ち文政2年、具志川家『向姓家譜』・「十二世尚鴻基」に尖閣の俗名「ユクンクバジマ」の記録が有る。曰く、
「嘉慶二十四年己卯年四月初六日、太守樣の中將の位に升るを慶賀する事のため、命を奉じて使者となる。…(中略)…五月初六日、恭しく國翰を捧げて舟に登る(此れ薩州の船なり。)七月十五日、那覇より開船す。十八日、風の不順により、運天港に到り抛泊す。…(中略)…駛せて鳥島の西洋に到り、風雨猛起し、船帆、風に吹損せらる。針路冥冥として去向を知らず。…(中略)…九月初一日、鴻基、掌上に膏を焚き、聞得大君を望んで願を許す。…(中略)…十七日に至り、天氣方に晴れ、高山を看得たり、猶ほ地名を知らず(後に聞く、此の山、俗に「魚根久場島」と呼ぶなり)。十八日、駛せて該山の下に到り灣泊し、用水を汲まんと欲すれど、並びに泉の湧く無し。一連三日、彼の處に風を候す。忽然として暴風大いに作こり、抛つ所の碇索、ことごとく海浪に磨斷せらる。船隻、風に隨ひて海洋を漂蕩し、船上の人數頻りに神佑を求む。幸ひに二十三日に至り、又た遠く高山を看る、二十四日、漸く其の山に近づく。只だ看る山上に一個の人有り(此の人、八重山島の奉公人、安里仁屋なり)、手を舉げて船を招く。又た五六人有り、旗を搖らし港を示す。即ち船人をして高聲に其の地名を問はしむるに、答へて曰く「與那國島」と(此の時、安里仁屋、村人五六名を率同して杉板に坐駕し、來りて該處の地名を告ぐ)、是に於いて方(まさ)に本國の屬島なりと知る。…(下略)…」(註33)
と。これは薩摩に往く船であり、「鳥島」は琉球最北端の硫黄鳥島に擬すべきである。そこから暴風雨に流されて、魚根久場島に到達する。國吉氏はこれを「ユクンクバジマ」の島名の最古の記録だとする。次にヨナクニ島に到達することから見ても、確かに尖閣諸島中の一島である。かつ「高山」であるから、標高117mの久場島でなく、362mの魚釣島であった可能性が高い。飲み水が無かったわけは、魚釣島に流れる尾瀧溪・小溪・大溪・道安溪は全て島の北側に在り、南側の和平泊附近から上陸したならば飲み水を得られない。嘗て上陸した佐々木類氏(産經新聞)のお話によれば、地形峻峭のため南北間を歩いて繞るのは困難だとのことである。
 但し、淡水が全く無い久場島の可能性もある。宮島幹之助「黄尾島」第2章「地理及地質」(註34)および上引伊沢眞伎女史口述には久場島に流水湧水の無いことを述べる。ただ久場島からヨナクニ島に到達する前に大きな魚釣島を望見しないのは少々不可解だ。
 ベルチャー『サマラン艦航海記』(Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang)第9章「バターン・花瓶山・琉球」(註35)によれば、西暦1845年6月16日、Tia-usu(ここでは久場島)の洞窟に遭難者の臨時ベッドが有り、刳り舟や棕櫚葺き屋根などの材料で作成されたものだと述べる(註36)。向鴻基らが留めた痕跡を26年後にベルチャーらが目撃した可能性もあるが、向鴻基の船は刳り舟ではあるまい。刳り舟を操る琉球漁民の痕跡の可能性が高い。
 これが慶良間諸島の久場島であった可能性は無い。なぜなら該島から慶良間島まで約2kmに過ぎず、歴々目視できるので方向喪失は有り得ない。されば尖閣諸島中の一島であることほぼ確かであり、これを「魚根久場島」を呼ぶ人々が存在した。尖閣諸島で碇泊した最古の記録である。碇泊のみならず、三日間上陸して淡水をさがした可能性も極めて高く、イギリス人よりも早い最古の上陸記録としてほぼ疑義は無い。向鴻基の次の日本人(含琉球人)上陸は古賀氏の明治17(1884)年であるから、65年引き上げることになる。幕末に魚釣島に碇泊した大城永保は上陸しなかった。チャイナ人の上陸記録はひとつも無い。
 清朝への朝貢船であれば、ほぼ毎年尖閣海域を航行するので、尖閣に無知だとは想像しにくい。しかしこの船は薩摩太守(藩主島津齊宣)の官位昇進を慶賀するために北航して漂流したのだから、船員は尖閣に無知だったのである。向鴻基(今歸仁朝英)は琉球王族であり、この漂流の一件は『中山世譜』附卷五尚灝王嘉慶25年にも去年の事として略載されるが、尖閣にまでは言及しない。王族の公務中として法的意義の有無は不明だが、しかし歴史認識は大きく改まる。期せずして最古の公式上陸調査となったのである。
 鞠德源『日本國竊土源流・釣魚列嶼主權辨』(註37)では、魚根久場島を尖閣以外の不明島嶼だとする。理由はふたつ。「後に聞く」は不確かであること。硫黄鳥島から魚根久場島までの間に漂流22日間であり、長過ぎること。
 鞠氏説には反駁できる。後に聞いた事を疑問無く記載したのは、逆に外間の普遍的認識にもとづいたことを示す。個人の記録よりも信頼性は幅ひろい。ヨナクニ島の案内人の周到ぶりをみても、北からの漂流者を受け容れる態勢が存在し、尖閣諸島の地形植生水流等は多くの漂流者から聞いて熟知した筈である。上引サマラン艦航海録の前段でも(註38)、魚釣島を指す「Hoa-pin-san」(花瓶山)について「八重山の水先案内人若干名は、この島名を以ては知らなかった」(註39)、また「今までこの附近の諸地名の認定は急ぎ過ぎた」(註40)と述べて、八重山の船のりが別の島名で尖閣を熟知したことを示す。
 次に、漂流すれば時間が長いのはあたり前だが、向鴻基は9月21日に魚根久場島を離れて更に漂流し、早くも23日にヨナクニ島を望見する。僅か漂流2日間だからヨナクニ島から遠くないと分かる。この附近海域中、無人の孤島にして高さが有り水が無いのは、尖閣以外に基隆北方の彭佳嶼だけだが、昔も今も彭佳嶼には草本しか生育せず(註41)、クバ(即ち蒲葵)は無いので、クバジマと誤認する可能性は極めて低い。鞠德源氏は他にそれらしい島を指定できない筈だ。
 歴代冊封使録からは那覇久米村三十六姓が尖閣を熟知したことが分かるが、向鴻基の記録からは八重山諸島の人々と尖閣とのつながりが分かる。大きく取り上げるべき史料だ。

(註32)『地域研フォーラム』40、沖縄大学地域研究所、平成25(2013)年1月。
(註33)もと漢文、今書き下す。『那覇市史・家譜資料・首里系』活印本、那覇市企画部市史編集室、昭和57(1982)年、p.280所載。ほぼ同文はp.285にも見える。
(註34)『地學雑誌』12(12)、通144、明治33(1900)年12月、pp.692-693。
(註35)ロンドン、Reeve, Benham, and Reeve刊、1848年、p.319。
(註36)原文:Some distressed beings had evidently visited this island, not Europeans, as their temporary beds were constructed of materials which belonged to canoes, palmetto thatch, &c. 
 (註37) 首都師範大學出版社、平成13(2001)年、上册、pp.568-569。
 (註38) Belcher, supra note 34, p.315 
 (註39) 原文:not known by this name by our Pa-tchung-san pilots. 「Pa-tchung-san」は八重山。
 (註40) 原文:the names assigned in this region have been too hastily admitted.
 (註41) 川上瀧彌「彭佳嶼(あじんこーと島)ノ植物」、『植物學雜誌』236、東京植物學會、明治39(1906)年9月、pp.193-206。



尚鴻基譜の原寫本は下記論文に卷影を載せる。
「琉球尖閣近著雜録」第187頁。
 Miscellany of Latest Works on Ryukyu and Senkakus
        いしゐ のぞむ        純心人文研究 (21), 232-187, 2015        長崎純心大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/40020360401


八重山日報。
http://senkaku.blog.jp/2017050970833586.html
八重山毎日新聞。
http://senkaku.blog.jp/2016043059187100.html



0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


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八重山毎日新聞

尖閣上陸最古は琉球王族 長崎純心大の石井准教授が発表
    2015年05月16日 社会・経済 ,  地域・教育
http://www.y-mainichi.co.jp/news/27452/
http://web.archive.org/web/20160430032813/http://www.y-mainichi.co.jp/news/27452/
http://archive.is/r90ZI


 【那覇】長崎純心大学の石井望准教授(49)が15日午後、県政記者クラブで会見し、琉球王族が1819年、尖閣諸島に淡水調査で上陸したのが日本人最古だとする研究成果を発表した。昨年末に論文で発表していた。

 石井准教授は、那覇市歴史博物館所蔵の具志川家「向姓家譜」・「十二世尚鴻基」などの史料を調査。先行研究した沖縄大学地域研究所の國吉まこも特別研究員が、史料の中にある「魚根久場島」は尖閣の琉球名「ユクンクバジマ」と特定したことに着目し、前後の文章を精査した。

 史料には、公務で薩摩上りに往く琉球王族尚鴻基の船が、暴風雨で南西方向に流され、「魚根久場島」に到達。3日間、飲み水を求めたが得られず、さらに暴風雨で漂流し、3日後に与那国島に到達したと書かれているという。

 石井准教授は、「魚根久場島」について「魚釣島」か「久場島」を指すと指摘、与那国島に近い無人の孤島でクバが繁殖するのは尖閣以外にないことなどを根拠に挙げた。

 石井准教授は「水を探すのに海上からは見えない。99%上陸したことは間違いない。王族の公務中であることから最古の上陸調査記録といえる。尖閣は琉球人による命名である可能性が極めて高い」と述べた。

 これまでの日本最古の上陸は、尖閣諸島開拓者の古賀辰四郎氏の派遣員による1885年とされていたが、それよりも66年前に琉球王族が上陸していたことになる。

八重山毎日石井
史料を示し琉球王族による日本人最古の尖閣諸島上陸を説明する長崎純心大学の石井望准教授=15日午後、県政記者クラブ

八重山毎日2015年0516粗

參照:同日の八重山日報。
http://senkaku.blog.jp/2017050970833586.html


參考論文:尖閣最古の上陸記録を二十六年引き上げ 
http://senkaku.blog.jp/2017050970835706.html
向氏家譜・具志川家 西暦千八百十九年

ついでに。
0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


尖閣上陸、日本人最古か 石井望氏 1819年に琉球王族
2015年5月16日 八重山日報
http://archive.fo/FzRPh
 長崎純心大學比較文学科の石井望准教授が15日、県庁記者クラブで記者会見し、史料具志川家の「向姓家譜」「十二世尚鴻基」から1819年に琉球王族が尖閣諸島の久場島もしくは魚釣島の淡水調査を行った記録を発見したと発表した。事実であれば、1885年の日本人最古の上陸記録が65年繰り上がり、1819年となる。
 史料によると、1819年9月18日、公務で薩摩に向かっていた王族の尚鴻基の船が暴風雨に流され、無人で高さのある「魚根久場島(ユンクバジマ)」に到達し、3日間飲み水を求めたが得られなかった。その後さらに暴風雨で漂流し、3日後に与那国島に到達した経緯が記されている。(下略)
▼全文は「新聞オンライン.com」で
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

八重山2015年0516

參照:同日の八重山毎日新聞。
http://senkaku.blog.jp/2016043059187100.html


參考論文:尖閣最古の上陸記録を二十六年引き上げ 
http://senkaku.blog.jp/2017050970835706.html
向氏家譜・具志川家 西暦千八百十九年


ついでに。

0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説

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昨日、外のブログで尖閣古史について大間違ひをごちゃごちゃ書いてゐるのを見つけて
http://senkaku.blog.jp/2017050770806885.html
コメントを書き入れたのだが、それについて分かり易くグーグル地圖を載せて置かう。まづ明治初期の「臺灣全島之圖」。公文書館藏。田中邦貴氏ホームページより拜借。赤色は今添加した。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/taiwanallmap-1873/
同じ圖は臺灣大學田代文庫、臺灣國立中央圖書館、東京國立博物館などにもある。
http://cdm.lib.ntu.edu.tw/utils/ajaxhelper/?CISOROOT=Tashiro&CISOPTR=61366&action=2&DMSCALE=15&DMX=512
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Map_of_whole_Taiwan_c1873.jpg
http://image.tnm.jp/image/1024/C0084031.jpg
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0084031
クリックで擴大。
臺灣全島之圖北方三島内閣文庫赤
件のブログの人は、この「臺灣全島之圖」の彭佳山(方形赤枠)までが臺灣だから、その東北側の二島(圓形赤枠)は尖閣であり、尖閣が臺灣附屬島嶼だった證據になるのだと主張してゐる。下は、同じ部分の現代グーグル圖に現在の島名を加へてGIF動畫にした。
臺灣全島之圖北方三島内閣文庫動畫

よくお分かりの通り、この三島は現在の臺灣北方三島であり、尖閣とは無縁だ。面白くも何ともないのだが、これが尖閣だとか言ひ出す人がゐるので、面白い。




0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


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季刊 沖縄     特集 尖閣列島  
第五十六号 昭和四十六年三月二十五日発行



http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=1

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=2

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=3

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=4

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=5

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=6
http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=7

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=8

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=9

http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=10


http://kikan-okinawa.jugem.jp/?eid=11

季刊沖繩56表紙


季刊沖繩56表紙2







外のブログが尖閣古史のデマを流してゐるので、コメントを書きいれました。

http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/17647996.html
 最古の1534年記録より前について、極めて低い可能性を、やたらと可能性が高い高いと持ち上げはいけませんね。先行研究を讀んでからにして下さい。

 鄭和はイスラム航海士に頼って印度洋を渡ったので、琉球とは關係ありませんよ。こじつけないで下さい。といふより鄭和を根據とするならば、印度洋ではイスラム航海士、尖閣では琉球航海士、と推測されてしまふのです。そして實際、1534年以後は近代に至るまでずっと琉球航海士に頼ったことが明記されてゐます。

 楊載は琉球情報が無いので册封が遲れたことは史料に明らかな定説です。そして楊載が日本人から琉球航路を教はった可能性が高いことも先行研究があります。勿論尖閣史料出現以前の歴史ですから、誰でも推測しかできないわけですが。元朝末年から大陸沿岸に倭寇が多數群がってゐて、同年代の琉球にはわづか一人二人の福建人だけしか確認できないわけです。可能性としては壓倒的な差です。出土品はどの地域の商人が持ち込んだのか、全然確定されてません。

 「二重国籍を禁じるまでは二重国籍を保有していた」といふのも成り立ちません。そもそも海禁の法は洪武年間に定められたので、二重國籍が發覺した時に、「それはもともと違法だ」と、嘉靖皇帝が確認しただけです。嘉靖皇帝が立法して禁じたのではありません。いちいちこんな細部まで何故私が言はねばならないのか。少し常識で勉強して下さい。面倒なんですよ。 

 「琉球はチャイナに册封されたので、琉球職員の發見はチャイナに屬する」とのお説、それは琉球がチャイナに屬するか否かの問題であって、尖閣だけ單獨でチャイナに屬するのではありません。三十六島の明細が記録されたのは、後の清國時代のことです。そもそも琉球(除臺灣)そのものの最古の記録が洪武實録ですから、記録イコール發見イコール領有だすれば、琉球は永遠にチャイナ領土だとなります。また倭國そのものの最古の記録も後漢書ですから、記録イコール發見イコール領有だすれば、日本國は永遠にチャイナ領土だとなります。しかし1461年から1873年まで、チャイナは大陸海岸及び臺灣海岸に國境線を引き續け、同時に尖閣航路の西の入口の馬祖列島に海防線を引き續け、要するに尖閣はチャイナ國外だと宣言し續けるのです。

 1534年の時に、古文書が既に燒けてゐた件について。陳侃の原文をよく讀んで下さい。造船過海と、海道交際と、二種に分けて書いてあります。古文書が無くても、造船及び過海については故老から聞き出すことができて、海道及び交際については誰も知らなかったと、分けて書いてあります。つまり海道について福建の故老はもともと知らないのです。

 基本的にこのブログは先行研究を無視してゐるので、讀む人は信じてはいけません。どちらが誤りといふ判斷は、みなさん先行研究で確認して下さい。このブログを私がいちいち直してゐたら切りがありません。とにかく先行研究ですよ。先行研究・最新研究が反映されなければ、全然無意味です。以上私が書いたコメントも全て先行研究にもとづいてゐるので、學術的に引用する人はこのコメントから引用せず、しっかり先行研究から引用して下さい。
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html

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更に三つコメントを書き入れました。
http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/12625402.html
『台海使槎録』の近海港口は反時計回りだとの話はどこから出たか存じませんが、これは中ー南ー北といふ順序です。先行研究に出てます。そもそも最重要の三縣名「臺灣・鳳山・諸羅」を何故無視してゐるのですか。先行研究ですよ先行研究。研究を無視したいのなら、最初からこのブログ全體の斷定的な態度は宜しくありませんね。


http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/13579776.html
ちょっと待って下さい。臺灣部分で描かれてゐないのは、釣魚嶼だけでなく、臺灣中央山脈以東は全部描かれてません。鷄籠から東側の三貂角も葛瑪蘭(宜蘭)も描かれてません。描いたのは清國領域内だけ。描かなかったのは清國領域外。當り前です。


http://blog.livedoor.jp/masanori_asami-board/archives/16304180.html
 「臺灣全島之圖」の彭佳山は、今の花瓶嶼の北緯25度25分27秒、東經121度56分47秒にぴたり合致します。その東北側の無名の二島も、經緯度は今の綿花嶼・彭佳嶼に合致します。全て臺灣北方三島であって、尖閣とは無縁です。
 また『臺灣水路誌』には尖閣が臺灣附屬諸島と分けて別途記載されてゐます。しかも出兵先の牡丹社に近い附屬の七星岩が記載されてゐません。また『臺灣水路誌』は他の南島水路誌や日本水路誌と併せて全體を成すための編纂途中のものであり、全體は英軍水路誌にもとづきます。英軍水路誌は臺灣卷にも尖閣を併載しますが、主な記述は尖閣を日本卷に載せてゐます。これらは八重山日報連載『尖閣獺祭録』で細かく論じ、有料電子版も全世界向けに出してます。先行研究ですよ先行研究。
 どうもこのブログは、讀む人が細部を確認せず「何となく道理がありさうだな」と見えてしまふことを前提としてゐますね。



參考:リンク先に使はれてゐる「皇輿全覽分省圖」及び「康煕皇輿全覽圖」から、臺灣最北端。米國議會圖書館藏。
皇輿全覽分省圖臺灣北congress
https://www.loc.gov/resource/g7821fm.gct00232/?sp=6
https://www.loc.gov/resource/g7820m.gct00265/?sp=30


安倍さんは尖閣常駐も奪還も何もやりません。やらないといふことが産經記事に明示されてるわけです。
http://senkaku.blog.jp/2015112949020018.html
日本にできる有効な方法は世界輿論を大きく轉換させることだけ。内外の輿論の九割が常駐支持となり、常駐しない安倍さんが強い批判にさらされれば、安倍さんは常駐します。支持率で動く人ですから。では輿論はどうしたら轉換するか。ルトワックさんとやらに良い智慧がありますか。多分ありません。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることです。
http://senkaku.blog.jp/2017022769624302.html
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1617年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できます。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではありません。

 昨日安倍首相は、國の交戰權を認めないままで自衞隊の存在を憲法に明記する方針を明らかにしました。これは矛盾ではありません。何故なら現在の政府解釋では自衞權は交戰權と別だからです。その解釋にもとづいて自衞權を明文化するだけのことです。從って改憲後もポジティブリストとかさういった問題は何も變はりません。つまり改憲する意味はゼロ。なので改憲より先に自衞隊法などを改正すること、悠久の尖閣史を明らかにすること、
http://senkaku.blog.jp/2017050470763234.html
そして尖閣常駐。これらは先にやるべき課題です。改憲に力を使ってもほとんど効果ありません。

 そもそも輿論調査によれば改憲の機運は高まらない。しかし時間も無い。ではどうすべきか。工夫が必要です。先に自衞隊法などの改正です。ポジティブリストだとかいふあれです。でも何より最優先は悠久の尖閣史です。
http://senkaku.blog.jp/2016050559510733.html
憲法どうでもいいです。かりに憲法の無い日本と、國土の無い日本、どちらが望ましいか。國土は絶對なので憲法を捨てます。教育でも憲法大切といふのをやめて、國土大切に切替へるべきです。新憲法だらうが改憲だらうがどうでも良いです。

米軍は臺灣に駐留すべきだ。
http://www.sankei.com/premium/news/170501/prm1705010006-n6.html
こんな當り前のことを言ふ人が少ない。リンクの産經野口裕之氏にしても、この當り前のことを言ふためにマニアックな軍事解説を長々と開陳する。必要ないだらう。兵法は自衞隊に任せればよい。一般市民向けの新聞紙面を大きく使ふ事ではない。そんな紙面があれば悠久の尖閣史を語って欲しい。産經が一流新聞になれない原因はこのあたりに在る。

ルトワック

ついでに。

0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


内閣官房報告書表紙

内閣官房領土室では、毎年二度づつ尖閣史料委託調査結果を公表する。
平成二十八年度の調査結果もそろそろ發表される時期だらう。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
去年該室から公表された明治26年(1993年)胡馬島史料については、
日本國内で全く反應が無かったが、
國外では大きな反響があった。以下に囘顧して置かう。
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27/3/2 1993年胡馬島(尖閣)史料につき池袋で記者會見。
産經と週刊ポストだけ報導。
http://www.news-postseven.com/archives/20150331_312811.html
http://www.sankei.com/politics/news/150319/plt1503190039-n1.html
http://senkaku.blog.jp/archives/25939401.html
國外では報導多數。
http://senkaku.blog.jp/archives/34102117.html

28/4/15  内閣官房より資料公表。1993年胡馬島史料を含む。
日本國内で報導は簡略。
http://senkaku.blog.jp/20160415583758888.html

28/4/17頃から 臺灣チャイナなどで次々に報導。
http://senkaku.blog.jp/2016041858587058.html
http://senkaku.blog.jp/2016041958587752.html
http://senkaku.blog.jp/2016041858586027.html

28/4/19 チャイナ外交部が反駁。
http://senkaku.blog.jp/2016kobashima.html

28/4/21 日本安全保障戰略研究所で外交部に反駁。内外報導無し。
http://senkaku.blog.jp/2016kobashima.html

28/5/3 人民日報で清華大學教授が反駁。報導多數。
http://www.diaoyudao.org.cn/2016-10/28/content_39588905.htm
http://www.sh.xinhuanet.com/2016-05/03/c_135330180.htm
http://news.youth.cn/gj/201605/t20160513_7994433.htm
http://world.huanqiu.com/hot/2016-05/8847303.html
http://news.ifeng.com/a/20160503/48658801_0.shtml
http://world.huanqiu.com/hot/2016-05/8846749.html
http://fj.people.com.cn/n2/2016/0503/c350394-28258828.html

28/5/15 臺灣『風傳媒』でいしゐが清華大學に反駁。
http://senkaku.blog.jp/2016052160307016.html

28/5/13 人民日報で社會科學院が反駁。報導多數。
http://paper.people.com.cn/rmrbhwb/html/2016-05/13/content_1678578.htm
http://news.china.com/domestic/945/20160513/22638866_all.html

28/6/15 臺灣『民報』でいしゐが社會科學院に反駁。
http://senkaku.blog.jp/2016071763600172.html




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明治26年(1893年)、日清往復公文に尖閣の記載。
内閣官房第二囘報告書に採用。
http://senkaku.blog.jp/2017050370747070.html


平成27年年3月 日清往復構文の解釋
長崎純心大學言語文化センター研究紀要第四號
第六十二頁「尖閣胡馬島日清往復公文詳解竝雜録」。
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/research/LCC_Journal04_v2.pdf

平成27年年3月31日
週刊ポスト「尖閣は日本と認めた清國公文書を發見」 
http://senkaku.blog.jp/archives/25939401.html

平成27年4月15日、19日 
尖閣史料 内閣官房領土室で發表 無主地時代の外國關聯史料は初めて採用
http://senkaku.blog.jp/20160415583758888.html



最近、政府周邊から次々に媚中發言が出てゐる。
安倍氏の指示で、輿論の反應を見てゐるのだらう。
國民から反對の大合唱が起こらなければ、
安倍氏は支持率低下の虞れ無しと判斷して、
アジア投資銀行加入に踏み切るだらう。

當然ながら、安倍氏は尖閣に自衞隊を常駐する
氣などさらさら無い。
それでも國民から反對の聲が揚がらないのは、
悠久の尖閣史を國民が理解してゐないからである。

もう尖閣は駄目だらう。尖閣を救ふ唯一の道は、
尖閣の歴史を全國民全世界に理解させることだ。
右翼だけでなく左翼にも幅廣く支持させる。
それに必要なのは、NYタイムズの第一面で
尖閣連載100囘を實現することだ。
さうすれば朝日新聞、岩波書店、マグロウヒル社、
CNN、NHK、BBC、讀賣、文藝春秋、全部ついて來る。
NHKスペシャルでも悠久の尖閣史全10囘で放送するだらう。
それが實現しない限り、日本の負けだ。
尖閣史研究について「マニアックだ」「趣味だ」
などと輕く見てゐるやうでは尖閣喪失は避けられない。
以下報導。


日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁は2日、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に多くの国が参加している現状について「良いことだ」と述べた。横浜市での講演後の質疑に答えた。
http://www.asahi.com/articles/ASK523JLSK52ULFA00F.html
黒田日銀




田久保忠衞氏
「早急に中国にアプローチし、戦略的互恵関係を再確認することが求められる。
安倍さん自らが訪中して話をつけるべく接触すべきです。沖縄返還をにらみ常にワシントンを見て、ニクソン訪中に対処し、日中国交正常化の下地をつくった佐藤栄作元首相に倣って、中国と融和・協調路線に持っていったほうがいい。」
https://dot.asahi.com/wa/2017032100085.html?page=3
田久保



自民党の二階俊博幹事長は29日までに、香港フェニックステレビの取材に応じ、中国主導の国際金融機関アジアインフラ投資銀行(AIIB)への日本の参加について「可能性もある」と述べた。
二階氏は「一帯一路」構想について、日本として今後「最大限の協力をしていく」と強調し、その上で、「日中友好を心から願っており、その道に間違いはない。妨害は許されない」とまで発言した。
http://www.sankei.com/world/news/170429/wor1704290055-n1.html


關聯:
http://senkaku.blog.jp/2015112949020018.html

http://senkaku.blog.jp/archives/14985414.html

http://senkaku.blog.jp/archives/15358153.html

http://senkaku.blog.jp/archives/15857481.html

https://www.youtube.com/watch?v=iRp7JDGEvP0


0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


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