- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。

200萬示威以後、地下鐵(元朗)、飛行機場、新狀況。香港之鬪爭、暗示21世紀全人類之未來。

https://www.youtube.com/watch?v=4dafoYHEhio











 公然露出。

元朗白衣集團


Bloom berg videos








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 長崎。これほんと。巨額の投資したんですよ。經濟研究所が黒字預測を議會に報告して。そのままに議會が通した。
https://news.yahoo.co.jp/byline/nakamuratomohiko/20190712-00133858/

豪華客船にお金持ちは乗って来なかった~クルーズ船寄港地の憂鬱
中村智彦  | 神戸国際大学経済学部教授
7/12(金) 6:30

・百害あって一利なし
「百害あって一利なしだ。」長崎市であった中小企業経営者のある集まりで、地元の中小企業製造業経営者が厳しく批判するのは、海外からのクルーズ船の寄港だ。別のサービス業経営者も「これ以上、税を投入して国際航路のバースを大型化するなどというのには疑問を持っている」と批判的だ。
 彼らが批判的な意見を述べるのには、もちろん理由がある。その日も大型客船が長崎港に寄港していた。「これだけの船が三日とおかず寄港するのですから、地元には貢献しているでしょう」と話を向けると、その場にいた経営者たちが苦笑して、「とんでもない」と言い、そして先ほどの批判になったのだ。

・誘致の効果は絶大だったが
 日本ではこの10年ほど、各地の自治体や商工団体などが主導して、国際線クルーズ船の寄港誘致が繰り広げられた。富裕層が優雅な船旅を楽しみ、寄港地では地元に滞在することで、観光地だけではなく商店街などでも経済効果があると期待されたのだ。
 長崎県でも、クルーズ客船誘致による産業振興を目的として、2009年に県内の関係市町や商工関係者で組織する「長崎県クルーズ振興協議会」が設立され、国内外の客船運航会社への営業活動や展示会などへの出展など、活発なポートセールスが行われてきた。2011年には、国土交通省により長崎港松が枝地区旅客船ターミナル整備事業が行われ、10万総トン級に対応した国際観光船ターミナルが完成した。
 こうした取り組みの成果は、2017年には267隻、2018年には220隻のクルーズ船が長崎港に寄港するようになった。それに伴い、2010年頃には10万人にも満たなかった乗客数も2017年に77万人、2018年には70万人と大幅な増加を見せている。
グラバー園からも大型客船は目立つ存在だ(画像・筆者撮影)

・三日に一回の入港
 中国国内の景気の悪化などから2018年以降、微減しているとはいえ、ほぼ3日に一回、大型のクルーズ船が寄港している。1隻あたりの乗船客は小さいものでも1500名、大きいものになると4千名近くになる。停泊している大型客船は、遠くからみると巨大なホテルが現れたかのようにも見える。客船が入港すると、多くの外国人観光客が下船してくる。

・期待外れ
 国際観光地長崎にとっては、大きな経済波及効果が期待されていたはずだが、中小企業経営者たちのみならず、商店街の飲食店や物販店の経営者や従業員に話を聞いてみても、ほとんどの人たちが苦笑いして、「ほとんど効果などない。」と答える。客船から降りてくる外国人観光客の多くは、旗を持ったガイドを先頭にずらりとならんだ観光バスに吸い込まれていく。客船のちょうど前にあるグラバー園や路面電車を利用してでかける観光客もいるにはいるが少数のようだ。
 タクシー運転手の一人は、「最初は期待したんだけどね、タクシーなんて誰も乗らないよ。儲かっているのは船から買い物客を連れていく観光バスの会社くらいじゃないの。諫早にある免税品店に向かうんだ。」と言う。観光客たちが目指すのは、観光バスで約30分ほどの諫早市貝津にある大型免税品店だ。運営しているのは、全国に外国人観光客向けの免税店を展開する韓国系企業だ。「諫早まで連れて行かれて、買物して、あとは中国系が経営する家電量販店に寄ったら、長崎市内を観光している時間なんてないよ」とタクシー運転手は笑う。
 確かに長崎市内の商店街や観光地を見ても、思いのほか外国人観光客は少なく、修学旅行生のグループや女性同士の旅行グループが中心だ。「人ばかりたくさん来てもらっても、地元に金が落ちないなら迷惑なだけですよ」と土産物を扱う店の従業員も辛辣だった。
長崎の観光名所めがね橋でも中心は日本人観光客

・午前到着し、夕方出発
 長崎市中心部の飲食店経営者も、「船が着くのがお昼前でしょ。そして出航するのが夕方6時頃。宿泊もしなければ、飲食もしない。賑わっているのは100円ショップくらいですよ」と話す。
 ほとんどのクルーズ船は、午前中に到着し、夕方には次の目的地に向かって出航する。効率よく観光をして廻るためには、夜間の移動が一番だ。しかし、そうなると滞在時間は昼間の5時間から6時間程度。乗客たちは、夕食を寄港地で食べることはない。

・豪華客船にお金持ちがくるはずだったのだが
 クルーズ船というとクイーンエリザベス二世号など豪華客船で乗客も富裕層だという発想が根強い。しかし、この10年ほどで状況は大きく変わり、東南アジアや中国を発着とした低価格で一般層でも利用しやすいクルーズツアーが多く発売されるようになった。日本向けのツアーでも宿泊と飲食代が含まれて、安いものであれば一人10万円程度からある。家族で旅行するのであれば、航空機を利用しホテルに宿泊するよりもずっとお得である。さらに、「飛行機だと買い物するものを考えないと超過料金を取られてしまいますが、船旅だと気にしなくて良いのも人気の原因です」と中国人の留学生は話す。豪華客船には、もはやお金持ちばかりが乗っているのではないのだ。

・寄港地での消費をいかに喚起するか
 クルーズツアーが庶民のものとなった現在、過去に富裕層が大量に来るのだと考えて作られてきた計画は、もう一度練り直す必要があるだろう。寄港地での消費を喚起するためには、日帰り停泊の寄港料を上げ、逆に宿泊を伴う停泊の方を大幅に安くするなどの補助策にメリハリを付けたり、地元商店街や観光地への観光が組み込まれていないツアーへの補助をカットするなど乗船客の誘導を図る方策が必要だろう。地元経済界も、高知市のひろめ市場のように、短時間でも名産品や酒など飲食が楽しめるような施設を充実させるなど、民間は民間なりの工夫も必要だろう。

・量より質へと迅速に転換を
 行政側も、ただ寄港回数や上陸客数を競うのではなく、富裕層、優良観光客の誘致という量よりも質へのシフトを図る段階である。上陸許可に関しても、2015年1月からクルーズ船誘致を目的に、法務大臣が指定するクルーズ船の外国人乗客を対象として、簡易な手続きで上陸を認める「船舶観光上陸許可」制度を実施してきた。しかし、ビザなしで簡易な審査で入国できることを利用して、全国の寄港地でクルーズ船の乗客の失踪事件が相次いでおり、長崎でもそうしたことによる治安の悪化に不安を指摘する意見も聞いた。
 行方不明者を多く出した旅行代理店、観光業者やクルーズ会社に対して、ペナルティを課すなど厳しい対応も求められる。問題があまりにも多いのであれば、現在1時間ほどで発給している上陸ビザの手続きに関しても見直しを行うべきだろう。それらを早急に進めなければ、地元住民から税金投入の意義を問われ、せっかくのインバウンド観光促進に水を差す結果となりかねない。
 急激な人口減少時代を迎えた日本にとっては、海外からの観光客は重要なお客様だ。しかし、人数ばかりが増えて、お金が落ちないというのでは地元の理解は得られない。政府や地元自治体の迅速な対応が求められる。

長崎豪華客船

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ニミッツ元帥、沖繩戰發令。そのとき尖閣は。八重山日報、今日だけ特別無料公開。談話連載「尖閣大航海時代」84に今朝(令和元年7/21日曜)載りました。新聞オンライン有料。
http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamahontoban0190721.html
 できるだけ上リンクの有料でご覽下さい。

010721yaeyama84

連載84_salt-lake-tribune-19450302-p4_map


福岡の岸田芳郎氏から教へて頂いた話。
日本武尊の息子、稚武彦王(わかたけひこ)は、
三韓征伐の後に海の守りとして、
唐津の呼子の加部島の田島神社に留められた。

その田島神社は西北微西方向に向かってゐる。
すなはち朝鮮半島西南部を睨みつけてゐる。
この神社には、知られざる古墳もあるのだとか。
現在は立ち入り禁止となってゐる。

唐津加部島田島神社

唐津加部島田島神社2

 以上、岸田氏のお話。
古代の神々の歴史は中々複雜で分かりにくい。
 任那日本府との時代の前後關係も難しい。
なにはともあれ、任那日本府をNHK大河ドラマにすべく、
愛國的な小説家が脚本に仕立てて欲しい。
脚本中には、任那ー鬱陵島ー竹島ー隱岐ー青谷の
航路も入れて欲しい。時代は青谷の方がかなり早い。
青谷遺跡の年代は三世紀。
任那西方の前方後圓墳群は五世紀。
つまり青谷遺跡は、任那が日本統治下に在った年代を
かなり早めてゐる。任那は日本が進出した地ではなく、
もともと日本であった可能性が高まってゐる。

連載83竹島隱岐青谷

關聯:

鬱陵島ー竹島ー隱岐ー青谷、彌生時代の航路。

父系は繩文、母系は彌生。最新DNA研究。

鳥取の青谷遺跡の繩文Y染色體の最新研究 

第七章「父系でたどる人類の旅路」(Y染色體)を削除。

皇室親族からも繩文系か否かほぼ確定できる。

律令の禁令。女帝は皇族としか結婚できない。女性宮家は禁を犯す。

小室圭氏に對する一億總苛めをやめて欲しい。 
http://senkaku.blog.jp/2019042779694039.html
別系藤原氏。皇帝輪流做、明年到我家。

皇室史專門家・所功氏が科學を惡用してゐる。

ブログ 朋庵・茶噺、繩文人の嫁取り
http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-744.html

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https://www.newsweekjapan.jp/youkaiei/2019/07/post-43.php
 楊海英 ユーラシアウォッチ
「キム・カーダシアンの「キモノ」に怒った日本人よ、ジンギスカンの料理名を変えて」
2019年07月16日(火)

モンゴルの楊海英氏がチャイナのファシズムを
あばく研究と言論に私は常に敬意をいだいてゐるが、
ちょっとこの論説は、ネタ切れにでもなったのかと心配だ。

「たちまち日本から「総攻撃」に遭った」といふのは違ふだらう。
米國内の自稱マイノリティらが騷ぎ、
それが日本で報じられただけのことで、
日本では贊否あり、否定派が優勢だった、
ただそれだけに過ぎない。
私は別段構はないが、商標登録となると
今後きものを使へなくなるのかどうか、そこだけ心配だ。

かつて日本でトルコ風呂といふのが有った。
批判を受けて、多くの日本人はみづから恥ぢ、
たちまち公募を經てソープランドと改名された。

今度のは下着なので、まあどうだらうか。私は氣にならない。
たかが下着に負ける日本ではないからだ。
しかし流石にトルコ風呂はまづかった。

ジンギスカン鍋があれば、シーザーサラダもある。
カエサルサラダではなく英語讀みだ。
ワシントン靴店はワシントンを足で踏みつける。
鍋くらゐで目鯨を立てると、
逆にモンゴル人の格が落ちるのではないかと心配だ。

後醍醐鍋とか神武鍋とかは構はない。
實際、ゴダイゴといふロックバンドもあり、
神武景氣だとか濫用されてゐる。
ソープランドとはわけが違ふし、下着でもない。
私個人は下着までならテンノウでも平氣だ。

權力者ならば德川タイクーン(Tycoon、大君)が
やくざの親分として使はれてゐる。まあ構はない。
私は私でタイクーンを將軍の字義に用ゐるだけのことだ。
お互ひ干渉し過ぎない方が良い。
つまりポリコレは良くない。

しかし天皇像に落書きは駄目だらう。
天皇像だけでなく、横綱北の湖像に外人が落書きを
するのも駄目だ。鍋の名前とはわけが違ふ。
だからコロコロコミックでジンギスカン像
に落書きしたのも駄目だ。

「ウランバートル市内に『テンノウ焼き』や
『テンノウ揚げ』という料理を出したら
日本人はどう考えるのか。担当編集者は
「テンノウだけはやめて」と連絡してきて、」云々と。

私は實際にテンノウ燒きテンノウ揚げが存在しても構はない。
實際多分存在するのではないか。早速グーグル先生。
https://elainetravels.wordpress.com/2017/10/09/tenno-in-little-tokyo/
https://www.yelp.com/biz/tenno-sushi-los-angeles-3
https://www.zomato.com/bandung/tenno-ramen-house-cicendo
https://www.tenno-sushi.de/
實際存在する。こんなものに目鯨を立てるだらうか。
日本人は誇り高いので、一緒に樂しく天皇鍋を食べる。

「仕返しにテンノウ燒きテンノウ揚げと言ってやる」
みたいなのは、私も怒りを覺える。
つまり批判の題材に使ふのと、ただ品物や店を出すのとは全然違ふ。
編輯者が苦情を言ったのはそこだらう。
つまりテンノウ鍋で日本人を脅す評論はまづいだらう。
鍋を出すのと、評論の題材として脅すのとは違ふ。
tenno-japanese-restaurant


楊海英 ユーラシアウォッチ
キム・カーダシアンの「キモノ」に怒った日本人よ、ジンギスカンの料理名を変えて
2019年07月16日(火)11時15分
<米タレントの矯正下着名を撤回させた日本人が、他民族の英雄を料理の名前に冠するのはダブルスタンダードではないか>

どんな体形にもフィットする矯正下着ブランドに「Kimono」というブランド名を付けて販売する予定だ──と、アメリカの有名タレント、キム・カーダシアンが6月25日に1億4000万人ものフォロワーを持つ自身のインスタグラムで表明すると、たちまち日本から「総攻撃」に遭った。

まず日本の伝統文化の拠点であり、着物産業を抱える京都市が門川大作市長名で「着物は日本の伝統的な民族衣装であり、暮らしの中で大切に受け継がれ、発展してきた文化だ」と再考を促した。

政治家も黙っていなかった。世耕弘成経済産業相が「しっかりと審査するよう米国特許商標庁に伝えている」と呼応。ネットでは商標登録申請に反対する署名の数がうなぎ上りに増えて13万人を超え、ついにカーダシアンは「慎重に考えた末、ブランドは別の新しい名前で申請する」と、ブランド名の撤回に追い込まれた。

私は今回の「キモノ騒動」で声を上げた日本の一般人と識者に対して、実に素晴らしい行動を取った、と最大の賛辞を送る。それと同時に、来年の東京オリンピック・パラリンピック開催を控え、他者の文化に敬意を払う機運が高まってきている日本で、ぜひこれを機に見直してほしい食べ物の名称がある。日本にしかない名物料理「ジンギスカン」だ。

コロコロコミック事件

料理は至ってシンプルで、羊肉を鉄鍋で焼いて食べるだけ。問題はその名である。ジンギスカンことチンギス・ハンはモンゴル帝国の始祖で、世界帝国を建立した英雄だ。日本の大相撲で活躍する横綱らを輩出するモンゴル国は、「チンギス・ハンの国」だと自他共に認められている。中国のモンゴル族もまた「チンギス・ハンの子孫」を称しているし、中国政府もそれを認めている。

モンゴルだけではない。中央ユーラシアのトルコ系諸民族であるカザフ人やウズベク人もまたチンギス・ハンの後継者を名乗っており、「ジンギスカン」という言葉もトルコ語なまりに由来するとの説がある。

そして、モンゴル人もトルコ系の人々もただ単に「チンギス・ハンの子孫」を血統上の理念に即して自任しているのではない。彼らは「チンギス・ハン」という言葉を聞いただけで胸が躍り、精神的高揚感に包まれる。1917年のロシア革命、そして1949年に中華人民共和国が成立するまで、ユーラシア各地の遊牧民はほぼ例外なく「チンギス・ハンの子孫」たちに統括されてきた。

端的に言えば、モンゴル人にとってのチンギス・ハンは、日本人にとっていわば「万世一系」の存在である天皇家と全く同じであり、料理の名前にしてはいけない神聖な存在なのだ。

2005年4月、私はある日本の全国紙に「〈ジンギスカン〉料理名変えて」と投書した。その際、私の原稿には「もし、モンゴル人がウランバートル市内に『テンノウ焼き』や『テンノウ揚げ』という料理を出したら日本人はどう考えるのか」と書いた。担当編集者は「テンノウだけはやめて」と連絡してきて、結局「日本人が尊敬する歴史上の人物の名がついた料理が出されたらどう思うか」と変えて掲載された。

これほど、日本人は自国の文化、自国の歴史をこよなく愛している。それにもかかわらず、ユーラシアの人々が同様に敬愛し、尊敬する人物の名を焼いて食べる料理に冠している。これこそ典型的なダブルスタンダードではないか。

昨年2月に発売された小学館の漫画誌「コロコロコミック」に、チンギス・ハンの肖像画にいたずら書きをする一コマがあった。この件に元横綱の朝青龍が激怒し、在日モンゴル人たちは出版社前で抗議デモを行い、在日モンゴル大使館も外務省に申し入れをした。

下着名に「キモノ」を使おうとするのは「文化の盗用だ」と言うなら、日本人もモンゴルからチンギス・ハンを奪わないでほしい。

<2019年7月23日号掲載>


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 篠田謙一先生の『日本人になった祖先たち』、平成19年版では第七章「父系でたどる人類の旅路」でY染色體を大きく扱ってます。素晴らしい。
 ところが、平成31年新版では一章まるごと削除してます。Y染色體については前後の章でばらばらに扱ってます。何故?
 そして代りに第八章で憲法を護れと説いてます。あまりにも政治的な書。研究を政治利用してゐます。
 まあ折角研究して下さるので批判したくありません。

篠田日本人になった祖先たち平成19

篠田日本人になった祖先たち新版平成31


關聯:

鬱陵島ー竹島ー隱岐ー青谷、彌生時代の航路。

父系は繩文、母系は彌生。最新DNA研究。

鳥取の青谷遺跡の繩文Y染色體の最新研究 

皇室親族からも繩文系か否かほぼ確定できる。

律令の禁令。女帝は皇族としか結婚できない。女性宮家は禁を犯す。

小室圭氏に對する一億總苛めをやめて欲しい。 
http://senkaku.blog.jp/2019042779694039.html
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因幡と伯耆の境目にある「青谷」(あをや)の彌生遺跡。母系は彌生だが、しかし父系は繩文人である。繩文の出雲を避けて、彌生女子を任那日本府から運んで來た海路として想定可能なのは、竹島航路だけである。
連載83竹島隱岐青谷
 繩文出雲の大國主が、彌生因幡の八上姫を娶ったのは、まさに青谷遺跡に外ならない。仲介者は因幡の白兎。鬱陵島・竹島・隱岐をピョンピョンと跳んで來た。神話を冗談と思ふなかれ。古代の竹島を取り戻すことは、皇室の繩文父系Y染色體を守ることに外ならない。全てが繋がった。
 この新説を八重山日報にお話しして、談話連載「尖閣大航海時代」83に今朝(令和元年7/14日曜)載りました。新聞オンライン有料。
http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamahontoban0190714.html
 
 隱岐の福浦港から、松島(今の竹島)、竹島(今の鬱陵島)を結ぶ航路は、江戸時代初期1618年から早くも記録がある。この航路が古代から續いてゐた可能性が、青谷彌生人骨によって高まった。福浦竹島航路は、談話連載「尖閣大航海時代」82に令和元年7/7日曜に載りました。新聞オンライン有料。

八重山日報20190714-83竹島隱岐一直線白兎繩文Y染色體

八重山日報20190707-82貼日本分國圖竹島古航路史


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父系は繩文、母系は彌生。最新DNA研究。

鳥取の青谷遺跡の繩文Y染色體の最新研究 

皇室親族からも繩文系か否かほぼ確定できる。

律令の禁令。女帝は皇族としか結婚できない。女性宮家は禁を犯す。

小室圭氏に對する一億總苛めをやめて欲しい。 
http://senkaku.blog.jp/2019042779694039.html
別系藤原氏。皇帝輪流做、明年到我家。

皇室史專門家・所功氏が科學を惡用してゐる。

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【轉載二則】保釣運動的起源和傳承 (2010年)

這是《三聯生活周刊》記者土摩托(袁越)10年去台灣採訪保釣運動的幾位前輩之後所寫的文章,供參考。

導言
從錶面上看,保釣運動是中國和日本爭奪釣魚島主權的運動,但實際上它是發生在中國人圈子裡的一場民間抗議運動,和日本的關系已經不大了。
正文
大陸所稱的釣魚島,在台灣人那裡被叫做釣魚台。保衛釣魚台的口號最早是在1970年由一群在美國留學的台灣學生提出來的,其中大部分人都是理工科學生。40年後,本刊記者專程前往臺北,採訪了保釣運動的5位重要見證人。關於保釣運動的起源,還是讓他們親自來說吧(其中有些矛盾的地方原文保留)。
人物簡介:
 
姚琢奇:前《中國時報》攝影科科長,最早登上釣魚島的中國記者之一。他和同事們40年前從釣魚島發回的報道被公認為是保釣運動的導火索。
 
王曉波:前臺灣大學哲學系講師,保釣運動台灣部分的發起人之一,也是台灣民主運動的重要見證人。
 
胡卜凱:臺大物理系畢業生,保釣運動的發起人之一,現任中華保釣協會的發言人。
 
林孝信:臺大物理系畢業生,《科學月刊》的創辦人,保釣運動最關鍵的人物。
 
劉源俊:臺大物理系畢業生,前東吳大學校長,現任中華保釣協會理事長。
姚琢奇:我1928年出生於上海,1949年2月底來到台灣,當時我剛剛參加了國民黨青年軍,在207師服役。因為我從小喜歡攝影,對新聞也有興趣,戰爭結束後便做了攝影記者。1970年時我已是《中國時報》的攝影科科長,同時兼任美國合眾國際社的攝影師。
我第一次看到釣魚台的時間大約是在1968年前後,當時有艘掛巴拿馬國旗的“銀鋒號”報廢船在駛往台灣準備拆解的途中被台風刮到了釣魚台附近擱淺,我們報館包了架小飛機飛到釣魚臺上空拍照片。記得當時我看到附近海域有一艘美國航空母艦,還向我們的飛機發過警告信號。
不過,當時無論是大陸還是台灣都不知道釣魚台底下有石油,因此很少有人關註這個島,大家都沒把它當回事。大約在1970年年初的時候,美國打算將琉球群島的管理權交還給日本,附帶包括尖閣列島(釣魚島的日本名字),台灣這才開始關註釣魚台問題。不過我記得當時台灣民眾還不知道釣魚臺下面有石油,大家關註的只是釣魚台的主權問題。
消息出來後,我們報紙的採訪部主任汪祖貽提議派記者上島考察,這個提議很快得到了老闆餘紀忠的認可。餘紀忠可是個不簡單的人,他早年留學英國,回國後給胡宗南當過英文秘書,後來擔任了國民黨東北行轅的政治部主任,30幾歲就當上了中將。來台灣後他開始辦《中國時報》,並靠這份報紙發了財。
我們決定派人上島的動機與其說是宣示主權,不如說是為了打敗競爭對手。當時台灣報業的競爭非常激烈,各家報紙都在搶新聞,力爭獨家。所以我們做了這個決定後一直對外保密,只有少數高層知道。
因為這件事的性質相當於報館自己製造新聞,有些越界,所以餘紀忠還是很小心的,生怕惹來太大的麻煩。比如,在人選方面就頗費了一番周折,最後選定的4人都可算是“根紅苗正”。我是青年軍出來的,和國民黨黨部秘書長張寶樹有私交。文字記者宇業瑩是抗日遺族(烈士)子弟,在南京的遺族學校長大,填表時家長欄填的是蔣宋美齡,另一位文字記者劉永寧的父親是國民黨立法委員,這兩人的後台顯然都很硬。唯一沒有後台的是蔡篤勝,但他是我們報紙駐基隆記者站的記者,他的任務就是負責找船,所以肯定得去。
1970年9月1日晚上,我們一行4人乘坐水產試驗所的一艘木船從基隆港出發了,同行的還有十幾位漁民和水產學校的畢業生。那天晚上天氣很好,我們一路上沒看到任何船隻,非常順利。第二天一大早船到達了釣魚台,我們4個記者和4位漁民換乘一艘小船駛進了島邊一個天然形成的狹長水道,並從那裡登上了釣魚台。
上島後,我們4人立刻按照原定計劃,用一根事先準備好的5米多長的竹竿把青天白日旗插在島上宣示了主權,然後又用紅油漆在一塊較平坦的岩壁上寫下了“蔣總統萬歲”和“中華民國萬歲”,又在對面一塊岩石上寫下了“中國時報”和我們4人的名字。那塊岩壁很高,最後還是身體健壯的蔡篤勝甘當人梯,馱著瘦高個劉永寧才夠著的。
 
完成任務後我們在四周轉了一下,我平時喜歡研究軍事,便以軍人的視角考察了一下釣魚台。這個島很小,幾乎沒有樹,植被低矮,顯然夏天的台風和冬天的東北季風很強。我沒發現水源,沒有補給的話很難生存下來。島上人工痕跡極少,我發現了一個日本人用水泥做的圍牆,我判斷這是用來搭建臨時帳篷用的。還有一個看上去較新的四方形的樁子,上面有塊木質銘牌,用日中英三種文字寫到:尖閣列島為琉球列管,任何人不得侵占,否則將依法處置。
 
因為島上幾無平地,地上石頭尖利,很難行走,再加上我們找不到目的物,所以只待了兩個多小時就離開了。我們9月3日返回基隆,4號文章見報。據說外交部長沈昌煥拿著這份報紙去總統府告狀,蔣介石看完後嘆了口氣說:“他們也是為了愛國呀!”餘紀忠當初之所以囑咐我們寫下“蔣總統萬歲”這5個字,就是為了保護我們。
 
日本方面看到這個新聞後也很緊張,立刻派人上島清除了字跡,並把青天白日旗取了下來,洗好疊好,送還給了台灣駐日本大使館。這件事是我們報紙駐日本記者站的記者親眼看見的,後來坊間傳說日本方面把青天白日旗撕碎了,這不符合事實。可惜這面旗子如今早已不知去向,我曾多次請求政府保護好這面旗子,但未果。
文章刊出當天一早我就去國民黨中央黨部看望張寶樹,向他詳細描述了事件經過,並建議軍方立刻派一個班上島,構建防禦工事,由海軍定期派補給船接應。我認為當時日本正在申請重返聯合國,需要台灣支持,只要美國人不說話,日本人就不敢動。但是蔣介石沒有採納這個建議,我猜部分原因是當時的總統府秘書長張群,他畢業於日本士官學校,專門負責對日關系,是個親日派,而且他是蔣介石的同學,說話很有分量。
不管到底是什麼原因,中華民國政府沒有採取任何動作,失去了拿回釣魚台的最佳時機。
王曉波:我於1943年出生在江西省鉛山縣,父親是軍人,全家人1948年來台灣。1970年年初的時候傳出消息說聯合國某資源單位發現東海有豐富的石油資源,接著美國人就宣佈要把釣魚台送還給日本,日本於是開始驅趕台灣漁民。當時我們沒怎麼吭聲,但很快有學者發現釣魚台在大陸棚(架)上,沒有釣魚台的話日本就不能獨占東海石油。恰在此時,《中國時報》幾個記者到釣魚臺上插了一面中華民國國旗,日本人把國旗還給駐日大使的時候旗子的右上角被撕裂,當然這也許是因為風的緣故,但我們看到這個消息都很氣憤。
當時我已經從臺大哲學系畢業,正在念研究生,同時為一些學生社團寫寫文章。我看了《中國時報》的報道後非常激動,就寫了篇文章,投給了胡秋原先生主辦的《中華雜志》。文章里我引述了五四運動的兩句話:“中國的土地可以徵服,而不可以斷送;中國的人民可以殺戮,而不可以低頭。”這兩句話後來成了臺大保釣運動的口號。
胡卜凱:我的父親胡秋原可以算是國民黨的一位元老,1970年時擔任國民黨立法委員。他一生都致力於保護中國傳統文化,為此還專門辦了一份《中華雜志》,刊登過不少有影響力的文章。
1960年代台灣學生流行學理工科,我也念了臺大物理系,但因為父親的關系,我從小就喜歡寫文章,交友圈比一般理工科學生大。當時台灣學生有個“自覺運動”,臺大出現了一批學生刊物,比如《新青年》和《大學新聞》等,我經常為它們寫文章,因此認識了王曉波。他大我一歲,但因為他小時候混“太保”(意為打架惹事的小混混),耽誤了功課,因此反而比我低一屆。
我1967年去美國費城的坦普爾大學讀物理。我有一個從小就是鄰居的朋友郭譽先也在美國,他善於交際,認識很多路子比較野的人。郭譽先介紹我認識了在美國學工程的徐篤,他是成大(成功大學)畢業的,當時在新澤西州做事,屬於草莽英雄。通過郭譽先的關系,我們幾個同樣喜歡政治的人相互認識了,一起成立了政治社團“大風社”,第一任社長就是徐篤。那時我們每個月都會在普林斯頓學生李德怡的家中開會,討論國事。我們還出版了一本《大風季刊》,但發行量很小,基本上屬於自娛自樂。不過“大風社”後來在美國建立了十幾個據點,一共發展了將近100名成員,是保釣運動的兩大主力之一。許多成員後來都擔任了保釣運動的領導人,比如伯克利大學的保釣領袖郭松棻和劉大任都是大風社的主力乾將。
記得在1970年年初我就從報紙上得知美國要把釣魚台送給日本的消息,但當時只是茶餘飯後的談資,沒放在心上。那年11月7日我收到父親寄來的《中華雜志》,看到曉波兄的文章,這才第一次感到我們這些留學生不能袖手旁觀。正好11月中旬“大風社”開例會,我便把這篇文章拿給大家看,號召大家為保釣做點事情。那個時候台灣正是白色恐怖時期,台灣留學生都是乖孩子,能想到的辦法無外乎是寫請願書,但來自香港的物理系學生沈平把我們好好奚落了一頓。他在美國讀的本科,比我們都有經驗,他說:“你寫情願書,人家大不了回你一封信就沒了下文。一定要上街游行,在美國,3個人在路上走沒人理你,3個人拿塊牌子在路上走,電視台就來了。”當時正值美國反戰運動進入高潮,我們耳濡目染,都受到了影響,便同意了沈平的建議,決定組織一次全美留學生保釣游行。
游行需要動員更多的人,可我們“大風社”只有不到100名成員,人數不夠,我立刻想到了我的中學和大學同學林孝信,他為辦《科學月刊》建設了一個北美留學生聯絡網。於是我立刻給林孝信打電話請求幫忙,他又和好友劉源俊商量,得到了劉的支持,於是答應幫忙。事後證明《科學月刊》是保釣運動的另一個主力,而我正好認識兩邊的人,可以算是保釣運動的發起人之一吧。
林孝信:我是台灣本省人,從小就喜歡物理,後來考上了臺大物理系,和胡卜凱劉源俊都是同班同學。大學期間我就聯絡了一批同學為《新生報》辦了一份《中學生科學周刊》,因此結交了很多朋友。
大學畢業後我當了一年兵,然後於1967年去芝加哥大學物理系留學。一起辦雜志的很多朋友也都出國了,分散在美國的各個大學里。當時沒有網際網路,打電話又很貴,為了保持聯絡,我們發明瞭一種“循環信”,就是第一個人寫一段話,寄給第二個人,他再寫一段話寄給第三個人,這樣循環一圈後大家就都看到了,提高了信息傳播的效率。後來大家嫌一封循環信太慢,同時弄了好幾個循環信,最多時同時有12封循環信同時進行,每個循環包括6-10人左右,循環一圈後再重新組合。
那時我們學理工科的都有獎學金,日子比較好過。1968年我通過了博士資格考試,日子就更清閑了,於是打算辦一本《科學月刊》,由留美學生負責寫稿,送回台灣印刷發行。我辦《科學月刊》不僅僅是想介紹科學知識,更希望以此來啟迪民智,培育科學的態度,為健全的理想社會奠定基礎。我這麼做是因為我親眼目睹了美國的強大,非常希望台灣快點追上來。我從1968年年底開始,用搭便車的方式走訪了很多學校,聯繫到300多個留學生,請大家捐款並幫忙尋找作者。
 
為了保持大家的熱情,我又決定出一份《科學月刊工作通報》,向大家匯報工作進展。頻率高的時候我每個禮拜出一期,每次都要寄幾百封信。那時候還沒有復印機,我就請我的同學兼室友曹亮吉幫我刻鋼板。過了半年以後復印機開始普及,就改成復印。雲門舞集的林懷民當時還在密蘇里大學念新聞,他聽說我們在辦雜志,就專門跑來芝加哥幫我們貼郵票,後來還寫了一篇介紹我們的文章登在台灣的《中央日報》副刊上,引起很多人的關註。
《科學月刊》1969年9月出了“第零期”試印本,反響不錯。1970年1月1日正式出刊,作者大都是在美國的台灣學者和留學生,其中還包括沈君山。台灣清華大學物理系教授李怡嚴和臺大心理系老師楊國樞擔任了《科學月刊》在台灣的合夥人,負責在台灣的印刷和發行工作。
劉源俊:因為受到楊振寧李政道的影響,1960年代的台灣學生流行學物理,我也受這股風潮的影響念了臺大物理系,和劉林孝信胡卜凱是同班同學,也和他倆一樣於1967年出國,在紐約哥倫比亞大學念物理。一年後我通過了博士資格考試,林孝信提出大家一起辦一本《科學月刊》。他的動機很單純,一方面他覺得我們都在台灣受的教育,應該回饋社會,為台灣做點事,另一方面他想通過辦雜志把台灣留學生團結起來,當時台灣留學生思想分歧嚴重,親共反共親美台獨等等分成很多派別,整天吵來吵去,他覺得與其爭吵不如合作,大家團結在科學的旗幟下,一起做一件有意義的事情。我和他在大學期間就是好朋友,這次更是義不容辭,擔任了《科學月刊》物理組的負責人。
我在哥倫比亞上學的時候正值反戰運動高潮,紐約是反戰運動中心,1968年上半學期我們學校就沒怎麼上過課,學生把校長室都占領了,最後警衛從地下室沖進去把學生們打得頭破血流,這件事給我留下了很深的印象。另外,當時美國流行左派,紐約大街上到處貼滿了毛澤東頭像,很多來自香港的留學生非常親共,動不動就指責“蔣幫”如何如何,這些事給了台灣留學生很大的沖擊。這就是保釣運動的土壤。
林孝信:記得當時除了胡卜凱之外,還有2-3個人找過我,想利用《科學月刊》的聯絡網當做保釣的聯絡工具。我覺得保釣關繫到國家命運,不應拒絕,但《科學月刊》似乎不應該涉及政治,我拿不準,就給20幾個主要聯絡人打電話徵詢意見,結果除了一人有保留之外,其餘全部贊同。於是我把1970年12月的《工作通報》變成了《釣魚台事件專號》,寄給了300多個《科學月刊》聯絡員,他們分佈在50多個美國大學,通過他們能聯繫到上千個台灣留學生。後來《釣魚台專號》又連續出了兩期,反響熱烈,台灣學生們很快就在很多學校成立了保釣分會,醞釀在美國舉行保釣大游行。我印象當中各個保釣分會的領導人至少有一半以上都是《科學月刊》的人,而且絕大部分都是學理工科的,只有伯克利大學例外,他們的3位主要領導人劉大任、郭松棻和傅運籌都是念文科的。
劉源俊:到1970年12月的時候,美國各地留學生都發動起來了,大家商定要在1971年的1月30日舉行大游行。當時參加保釣的除了台灣留學生之外還有不少香港學生和華僑,香港學生大都是在美國讀本科,比我們這些研究生有游行經驗,所以負擔了很多組織工作。不過有不少香港學生比較左,他們說如果台灣學生打出青天白日旗的話,他們就要打五星紅旗,最後大家商定不帶任何旗子,保持保釣的中立性質。
胡卜凱:剛開始的時候,大風社在各地的成員態度都很積極,唯有伯克利的劉大任比較消極。他原是寫小說的,在台灣的時候就和陳映真一起辦讀書會,宣揚民主自由,後來有人告密,陳映真和讀書會的其他十幾個人被判刑。在此之前劉大任出國讀書,逃過一劫。我找了個機會去三藩市“串聯”,和他聊了半天我才明白,他不肯承認民國政府,所以不願意參加游行。但過了年之後他的態度突然來了個180°大轉彎,不但答應參加游行,還出了一個《戰報》,模仿五四運動,提出了“內除國賊外抗強權”的口號。不過,他們堅持要在1月29日舉行游行,暗指當年的一二九運動。這個做法實際上就是借機打擊一下國民黨政府,所以我有點懷疑當時有人給了他某種暗示。
林孝信:第一次保釣大游行一共包括6個城市,除了三藩市是在1月29日之外,紐約、芝加哥、華盛頓、西雅圖和洛杉磯都是在1月30日。參加游行的台灣學生大都和《科學月刊》有關系,這倒不全是因為我的聯絡網的緣故,而是因為《科學月刊》讓大家有了一種難得的信任感。保釣運動有一定的政治因素,而政府一直警告我們不要搞政治,說共匪在利用你們,所以台灣學生膽子很小,不大敢參與政治活動,因此這種信任感非常重要。
胡卜凱:參加游行的以理工科學生居多,除了《科學月刊》的原因外,理工科學生大都有獎學金,畢業後留美國的機會也大。而文科學生很多都是靠政府獎學金出來的,畢業後還要回台灣工作,因此不願得罪政府。另外,千萬別忘記當時台灣的白色恐怖,學生不願出頭和白色恐怖有關系,但國民黨的教育同時也一遍一遍地灌輸了國家民族的概念,讓我們這些學生覺得國家利益高於一切。所以我覺得保釣運動反而是拜國民黨的愛國主義教育之賜,這種教育方式是一把雙刃劍,用共產黨的話來說就是所謂“辯證關系”。
林孝信:第一次游行沒有達到目的,於是大家就計劃在1971年4月10號舉行第二次游行。那天美國西海岸的三藩市、洛杉磯和西雅圖各自有游行,但整個東部的人都聚集到美國首都華盛頓,舉行了一次規模很大的游行,我估計人數至少有2500人,也有人說有4000人之多。大家最先游行到美國國會,遞交了一封抗議信,但美國人的回答還是老一套,說釣魚台是琉球的一部分,按照協議將還給日本。有些女學生聽到這個回答都哭了,我們受到的教育讓我們一直認為美國是這個世界上最主持正義的國家,沒想到美國背叛了我們的信任。但我們很快又意識到美國畢竟是第三方,我們應該去自己的國家尋求幫助,就又去了台灣駐美使館,以為會聽到一些鼓勵的話。當時台灣駐美大使名叫周書凱,他已經被任命為新的台灣外交部長,我們聽說他為了把海外留學生的意見帶回國,所以一直留在美國沒走。結果我們游行到大使館門口,一遍一遍地喊:“周書凱出來!周書凱出來!”但他卻始終沒有出來見學生。這是大家第一次清楚地意識到台灣政府根本不想保釣,非常失望。
劉源俊:保釣運動從一開始就分成了左右兩派,兩派名義上都支持保釣,但左派同時還支持共產黨,右派則支持國民黨。另外還有一個台獨派,從道理上講也應該保釣,但他們卻沒有參與,我覺得這件事正好說明台獨的本質不是愛台灣,而是美日的傀儡。我本人是無黨派,從來沒有加入國民黨,但我也不願看到保釣運動變成反對國民黨的運動,所以我一方面批評國民黨不保釣,另一方面也反對左派引入政治元素,破壞保釣。
我記得1月30號游行之後,政治氣氛就變了。有消息靈通人士從加拿大中共大使館得到消息,美國政策要變,打算在1971年9月支持中華人民共和國進入聯合國。後來大家才知道1970年12月基辛格秘密訪問大陸,和周恩來敲定了這件事。從此之後左派勢力大振,主宰了此後的保釣運動。他們想把保釣運動的性質轉變為支持中國進聯合國的運動,但顯然很多人不同意這麼做。我認為這些左派是破壞保釣的罪人,就退出了保釣運動。4月10號華盛頓大游行雖然還是堅持沒打國旗,但游行結束後大約有200多人在馬利蘭大學開會,兩派終於公開吵了起來。我認為這次會議標志著第一波保釣運動結束了。
林孝信:4月10日的大游行之後大家都很迷茫,不知道今後應該如何保釣。此後不久,我記得大概是7月9號下午6點鐘的黃金時間,美國所有電視台和廣播全部插播新聞,尼克鬆宣佈即將訪華。我們突然意識到還有一個中國政府在那邊,而且好像蠻強大的,就連美國總統都要去拜訪,說不定中國政府會保釣,於是便掀起了一股重新認識中國的風潮。那時大陸正處於文革時期,雖然文革本身很可能有問題,但起碼從對外宣傳來看,文革很有理想主義色彩,對保釣人士有很強的號召力,於是很多人變成了左派。
還有很多人通過保釣,開始反思台灣歷史,以及和過去的盟友美國日本的關系。不少人心中開始有了疑問,難道我們從教科書上學到的中國近代史都是錯的?台灣的歷史教科書在談到敗給共產黨這段歷史時都是含含糊糊的,只是一味地說共黨如何如何可惡,但真正的原因卻又不講,老師也不說。我們學理工科的以前也沒深究,但保釣運動一下子把這些疑問勾起來了,大家便紛紛回去重新學習中國近代史。美國很多大學有很好的中文圖書館,很多人便藉此機會閱讀了很多過去沒有讀過的書籍,終於明白國民黨為什麼不肯保釣了,原來國民黨以前賣國已經賣了很多次了!九一八就沒抵抗嘛,更何況一個區區釣魚台?
記得當時我和一個朋友聊天,談到一個問題,那就是台灣教科書都把共產黨領導人描述成邪惡的人,那大陸是怎麼看待我們的國父孫中山的呢?於是我便去芝加哥大學的中文圖書館找大陸的書,驚訝地發現大陸對待孫中山還是很尊敬的。我終於意識到我原來對大陸的認識太錯誤了,應該重新認識社會主義。後來讀了很多書後我發現社會主義的原則不錯,應該讓台灣實現社會主義。
胡卜凱:我的數學基礎一直不好,考了兩次博士資格考試都沒有過,丟了獎學金,於是在參加完第二次保釣大游行後就離開學校,跑到拉斯維加斯鬼混去了,因為在那裡吃住都不要錢。1971年9月保釣領導人們又在密歇根州的安娜堡(Ann Arbor,密歇根大學所在地)召開了一次大會,左右兩派正式決裂。我沒有參加,但聽說左派全面控制了那次大會,保釣運動正式向左轉。
這個轉變是有道理的,因為國民黨不保釣,因此支持共產黨的左派便有了正當性。國民黨一直試圖控制保釣運動,但沒有成功。真正有控制力的是林孝信劉源俊等人,他們因為辦《科學月刊》的緣故,贏得了大多數學生們的信任。國民黨慘敗後覺得很丟臉,便開始報復。林孝信因為是本省人,國民黨一直自動地把他劃為台獨,也不能忍受他成為一個有正當性的民間組織的領袖,而他宣揚社會主義這一點在國民黨聽起來也很刺耳,便把他納入黑名單,弔銷了他的護照。其實林孝信學習很好,拿個博士學位找個好工作是沒問題的,但沒有護照他就成了非法居民,再也沒辦法繼續學業了。後來還是因為他夫人的關系才拿到了綠卡。
我在拉斯維加斯混了一年後我姐姐找到我,把我帶回加州做事,從此很長一段時間我就再也沒管保釣的事情了。
王曉波:保釣運動大約是在1971年4月份左右才在臺大開始鬧起來的。一開始是以僑生為主,他們膽子比較大,後來台灣學生也跟著鬧起來了。那時候臺大校園里貼滿了標語,還有人把“中國的土地可以徵服,而不可以斷送;中國的人民可以殺戮,而不可以低頭。”這句話做成幾米長的條幅從宿舍樓頂上掛下來,一進臺大校門就能看見。
一開始臺大校方想管,但學生情緒太激動,管不住,只好允許學生們在臺大體育館舉行了一次保衛釣魚臺大會。那天會場塞得人山人海,有人當場提議成立“臺大保衛釣魚台委員會”,但在當時的台灣,成立組織是很忌諱的事情,現場爭議很大,於是我跑上主席台搶過麥克風說:“臺大保衛釣魚台委員會即時成立,贊成的請鼓掌!(笑)”臺下一片掌聲,於是就成立了。
 
不久後美國宣佈要在1971年6月17日和日本正式簽約,把琉球和釣魚台送還日本,於是臺大學生決定在那天舉行示威游行。游行前一天晚上,大家正在製作標語,一個教官跑來跟我們說,明天誰敢上街就逮捕誰。屋子裡的空氣一下子凝固了,大家都很緊張,這時有個來自韓國的僑生站起來說:“是我主張要上街的,你來逮捕我吧。”之後學生們一個一個都站了起來,教官一看勢頭不對,趕緊和上面聯系。當時蔣經國派張德浦來臺大處理這個事情,他算是國民黨里的開明派,說游行可以去,但要遵循3個原則:人數越少越好,時間越短越好,路程越短越好。於是第二天校方專門包車把我們送到美國大使館,我們從那裡走到日本大使館,再坐包車返回學校。後來陳水扁以此為藉口,指責我們這次游行是臺大組織的,屬於官方默許的行為,實在是很沒道理。
但是這次游行沒起什麼作用,釣魚台還是沒拿回來。不過美國埋了一顆地雷,說:“我交還給日本的只是行政權,主權的爭論由爭論的各方和平解決。”當時臺大學生有個口號:給我們發槍,讓我們上釣魚台!要知道,台灣學生都是軍訓過的。後來解密的台灣外交部檔案里發現,當時有很多人都主張過武裝占領,但台灣因為聯合國席位的問題正需要依靠日本幫忙,因此不敢得罪日本政府。
此後蔣經國把馬鶴凌派到臺大處理學生保釣運動,他是國民黨北區知識青年黨部書記長,也算是一個比較開明的官員。他的兒子就是馬英九,當時就在臺大法律系讀書,住在我隔壁,經常來我這里抽煙喝酒,算是保釣的一個活躍分子。後來馬英九去哈佛大學留學,他的博士畢業論文就是關於釣魚台的,標題叫做《怒海油爭:東海海床劃界及外人投資之法律問題》。
在那次游行之後,臺大接連舉辦了“言論自由在臺大”、“民主生活在臺大”大型座談會,可以說保釣運動煽起了臺大學生追求民主自由的政治熱情。還有一部分學生認為愛國首先要愛民,於是臺大又發起了“百萬小時奉獻”運動,成立了“臺大社會服務團”,在那一年暑假組織了農村調查隊、山地調查隊、工人調查隊和私娼調查隊等等去社會各地調查,所以說保釣也促成了台灣“社會運動”的興起。
保釣方面,臺大出現了兩派聲音,一派認為日本人之所以敢於欺負我們,就是因為國家分裂,因此中國必須團結起來才有力量,開始有統一的聲音和想法出來。另一派則認為不能接受共產黨那一套,台灣自己應該先實行民主,於是台獨的聲音就出現了。1972年12月4日,臺大學生舉辦民主主義座談會,請兩派學者上臺發言,結果統派聲音壓倒一切。會議結束後台獨團體寫文章攻擊統派,開始了戰後台灣校園內的第一次統獨論戰。
林孝信:當年有5個保釣領導人曾經去大陸訪問,我們叫它“保釣第一團”。團長李我焱是紐約保釣的領導人,他早年在大陸時就參加過讀書會,去台灣後開始反對國民黨,被判過刑。後來他上了清華大學物理系,受到去台灣訪問的吳健雄的賞識,這才得以出國讀書。團員王正方來自費城,念電機系,現在在搞電影。陳治利也是念理工科的,現在在加州做事。陳恆次是念法律的,後來擔任中國駐聯合國代表團的法律顧問,不幸在出差非洲時死於飛機失事。最後一個王春生我忘記了(記者註:王春生是讀社會學的一位女士,現住美國)。
這個團受到了周恩來的接見。周恩來對保釣評價很高,稱其為“海外的五四運動”,不過我覺得保釣的影響不如五四運動大,畢竟是發生在海外,沒法影響更廣泛的國內民眾。
海外的保釣運動正式左轉之後,國民黨一看情勢不好,便轉了方向,開始用懷柔的辦法,希望有影響的人物站出來替他們講話。有人找到了我,讓我出來替國民黨說幾句好話,被我拒絕,於是國民黨就將我列入黑名單,弔銷了我的護照。沒了護照我就成了非法居留,學也不能上工也不能打,就這樣我被逼上梁山,只好繼續保釣,變成了海外極少數的職業革命家(笑)。直到1987年台灣解嚴之後我才開始重新申請護照,申請了3次才獲批準。1988年10月,我終於回到了闊別21年的台灣。
王曉波:到了1973年,國民黨開始抓人了。當時我已經是臺大的講師,和同在臺大哲學系任教的陳永祥、陳鼓應一起被抓,理由是親共,這就是著名的“臺大哲學系事件”。我只被關了一天就被釋放了,但我也因此被臺大解聘。我覺得第一波保釣運動到這里就算正式結束了。
談到保釣的歷史功績,馬英九曾經說:釣魚台之所以沒有完全給日本,保釣有很大功勞。而我覺得保釣運動標志著中國民族主義的復興,為台灣後來的民主運動儲備了人才,就像五四運動為後來的抗戰儲備了人才一樣。
 
附:採訪手記
我在臺北只待了4天,所有採訪對象都是去了之後才聯繫上的,但他們全都非常配合,否則採訪不可能順利完成。
和姚琢奇的採訪約在了他的家中。他家坐落在臺北市北部的一個非常安靜的老小區,門前綠樹成蔭,令人心曠神怡。老人今年82歲了,身體硬朗,聲音洪亮,仔細聽還能聽出一點上海口音。姚先生至今依然保持著每天早上游泳半小時的習慣,那天專門為了接待我縮短了時間。
姚先生早已退休,但仍然閑不住,仍然擔任著軍事新聞研究會的會長。他很得意地給我看一張照片,是他當年駕駛噴氣式戰鬥機在空中拍下來的。可惜的是他拍的釣魚島照片的底片都留給《中國時報》了,只留下了幾張從報紙上掃描下來的模糊的復印件。
和劉源俊的採訪約在了東吳大學。這所大學位於山清水秀的外雙溪,距離臺北故宮只有一站地。劉教授自1996年起擔任東吳大學校長,做了8年後退下來,但仍然在物理系教書。採訪約在周五的下午,他上完最後一節課後匆匆趕回辦公室和我見面。也許是因為說了一天話的緣故,採訪一開始他的聲音很輕,嗓子有點啞,但越說聲音越大,語速也越快。
劉教授多年來一直致力於為保釣做實事,他在擔任東吳大學校長的時候,利用職務之便委托東吳大學出版社出版了兩本關於釣魚島歷史、地理和法律的研究論文集。他相信保釣也許還要再保40年才能成功,需要幾代人共同努力。
和王曉波的採訪約在了忠孝東路的一座大樓內,那天晚上正好是“中國統一聯盟”開例會的時間,會議室里聚集了十幾位致力於中國統一的學者,大家看到一位來自大陸的記者都很激動,鼓掌歡迎。王曉波身體微胖,講話聲音洪亮,中氣十足。他今年67歲了,但也還沒退休,依然在中國文化大學哲學系任教。
和胡卜凱的採訪約在了中正紀念堂旁邊的台灣國家劇院,那天劉源俊也在,他們幾位在劇院底樓的一間餐館設宴歡迎一位從美國回來探親的老同學,吃完飯後胡先生在旁邊一間咖啡廳單獨接受了我的採訪。胡先生身著西裝,留著好看的鬍子,很有學者風度。他1993年從美國回到台灣,在西門子公司臺北分公司上班,直到2001年退休。他至今仍喜歡寫作,之所以這麼早退休,就是為了能有更多的時間從事自己喜歡做的事情。
最難約的人是林孝信,他平時住在臺南,幸好在我離開台灣的前一天來臺北公乾,和我約在台灣國立科學教育館見面。那天在科教館有個科普活動,台灣科普界幾乎所有有名的人都到場了。顯然大家都非常尊重這位前輩,林先生也一直在滔滔不絕地向同行們提各種建議,態度熱切而又誠懇。
林先生年輕的時候就以精力充沛而聞名,那時朋友們都叫他“和尚”,因為他像個苦行僧,很少吃東西卻又乾勁十足。如今林先生已經66歲了,依然很瘦,留著一頭很久沒有打理的白發,活像一個亞洲版的愛因斯坦。他目前的正式身份是臺北一家學校的老師,那段時間正和幾個朋友籌劃舉辦一系列活動,紀念《科學月刊》誕生40周年。這本月刊自誕生之日起一直做到現在,一期都沒有落下,可算是台灣科普界的一個奇跡。林先生送給我一本《試刊號》,一本《創刊號》,這是我此次台灣之行收到的最珍貴的禮物。
 


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保釣運動的傳承
下面是2010年記者、科普作者土摩托去台灣採訪保釣運動新一代領導人後寫的報道全文。因為眾所周知的原因,很多話是沒辦法直說的,大家需要從字里行間慢慢品味。總之一句話:保釣運動不是大家想象的那樣簡單,那樣純潔。
導言
第二波保釣運動的參與者大都是政治家,他們的動機各不相同,但目的只有一個,那就是協助政府收回釣魚島的主權。
正文
1971年10月25日,聯合國大會投票通過了2758號決議,恢復了中華人民共和國在聯合國的合法席位,從此,第一波保釣運動就算基本結束了。第二年,劉源俊拿到哥倫比亞大學的物理學博士學位回到台灣,發現台灣人心惶惶,大家似乎都還沒有從失去聯合國席位的事實中緩過神來。“那幾年台灣人心裡想的都是怎樣保住台灣,哪有心思保衛釣魚台啊?”現任中華保釣協會理事長的劉源俊回憶到:“只有少數左派人士還在保釣,可沒過幾年他們就親眼目睹了粉碎四人幫事件,然後就是大陸改革開放,引入市場經濟,這些變化把大家驚得目瞪口呆,更沒心思保釣了。”
這一停就是20多年。
這幾年台灣也沒閑著,從蔣經國過渡到李登輝,從解嚴發展到台獨勢力冒頭,每一次變化都刺激著台灣人的神經。1996年3月,李登輝在第一次台灣“總統直選”中勝出,並宣佈將於3個月後赴美參加康奈爾大學畢業典禮。在此期間,大陸在台灣海峽接連進行了兩次軍事演習並試射導彈,由此爆發了“臺海危機”。正是在這種情況下,日本右翼分子於1996年7月14日登上釣魚島“修理燈塔”,此消息傳到香港後立刻引起媒體強烈關註,從此拉開了第二波保釣運動的序幕。
登上釣魚島
“司機,我要去永和市德和路245號。”這是臺北縣議員金介壽給我的地址。司機猶豫著發動了車子,幾分鐘後,路邊出現了一排排競選彩旗,上面印著一個中年男人的頭像,以及“金介壽”這3個大字。“你要找金議員啊?早說啊!”司機如釋重負地一踩油門,一會兒就到達了目的地。
這是一個繁華的商住兩用小區,著名的“永和豆漿”就發源於此。金介壽專門為這次選舉租下了一個沿街的門臉作為臨時競選總部,屋子裡有幾個人正在接電話。一位工作人員把我讓進裡屋,立刻有人倒上茶水。我註意到牆上貼著一張巨大的彩色照片,照的是一個穿著潛水服的男人站在一塊岩石上揮舞青天白日旗。幾分鐘後,這個男人出現在我面前。他面容英俊,身材魁梧,發型考究,說話聲音很有磁性,中氣十足:“我就是金介壽,歡迎來台灣。”
 
採訪一開始,這位新一代保釣運動的代表性人物就向我介紹起他的出身和籍貫,這似乎成了採訪保釣人士的慣例:“我祖籍安徽省桐城縣,父親是抗日老兵。我1951年出生在台灣,算是外省人第二代。我大學學的是水利,畢業後當過1年零10個月的憲兵。之後我開補習班,在補習屆小有名氣。再後來我選上了臺北縣永和市的市民代表,正式進入政界。”
在台灣老的行政構架里,只有臺北市屬於直轄市。臺北市周圍被臺北縣所包圍,金介壽做了4年臺北縣永和市市民代表後又當選了臺北縣議員,並且連續當選了4屆,也就是說,他至今已做了20年的職業政治家。今年台灣改製,臺北縣升級為“新北市”,和臺北、臺中、臺南和高雄平級,共稱為“五都”。11月底即將舉行的“五都選舉”實際上就是選出新5都的市議員,如果選上的話級別又提高了一級。
“我讀書的時候家境貧寒,平時要打工,根本沒時間參與保釣,這一點和馬英九他們那批高官子弟有著天壤之別。”金介壽繼續說到:“參與保釣是在我當臺北縣議員的時候,而且完全是一次意外,屬於無心插柳柳成蔭。”
故事要從1992年說起。那時還是李登輝執政時期,一部分國民黨黨員看清了其台獨本質,脫離國民黨成立新黨,金介壽便是其中之一。他一直比較反叛,喜歡搞街頭運動,被老百姓稱為“街頭小霸王”。1996年釣魚島燈塔事件出來後,李登輝控制下的台灣媒體沒怎麼報道,金介壽一直不知道此事。那年暑假,新黨開設的廣播電台“新黨之音”需要一位政客來播音室主持“與民有約”節目,可新黨高官們都出國度假去了,主持人只好臨時把金介壽找去救火。那天恰好有位聽眾打電話進來,說香港民眾已經鬧起來了,質問新黨為什麼不參與保釣。金介壽當即允諾要立即行動。幾天后金介壽為此召開新聞發布會,結果沒有一家台灣媒體出現在發布會現場。但這件事被香港《蘋果日報》的人知道了,就刊登了一則消息,被香港立法局議員劉千石看到了,主動跟他聯絡,雙方一拍即合,決定聯手保釣。
金介壽不愧是“街頭小霸王”,行動力超強。他立刻成立了“台灣保釣行動小組”,花4萬元新台幣租了條漁船直奔釣魚島,結果中途被日本海上保全廳的軍艦攔了回來。
“台灣的漁船排水量通常只有幾十噸,而且船身是用玻璃纖維做的,怕撞,日本人的船都是鋁合金的,排水量上千噸,一左一右把我們夾在中間,前面再來一艘船橫著一擋,我們就沒辦法前進了,只有後退。”
正說話間,前屋來了一位問路的老人,金介壽聽到聲音,立刻走出去和老人寒暄,又擺出為老人指路的姿勢方便我拍照。拍好後我們再回到裡屋繼續聽他講故事。
第一次保釣行動經媒體報道後引來香港立法局議員何俊仁的關註,他是“香港保釣行動委員會”的召集人,屬於香港保釣界的右派。當時香港保釣的主力是親共的“全球華人保釣大聯盟”,總指揮名叫陳毓祥,是一位參加過第一波保釣運動的“老保釣”。由於當時海峽兩岸正鬧“臺海危機”,使得台灣民眾大都對香港發起的新一波保釣運動有些抗拒。但何俊仁不存在這個問題,他邀請金介壽赴港參加“九一五”港島保釣大游行,兩人商定了第二次登島行動方案。此時金介壽也正需要香港人的支持,因為台灣漁民已經把漁船的租金漲到了每艘10萬元,金介壽沒有這麼多錢,但香港人民捐款踴躍,何俊仁可以提供這筆經費。
9月22日,何俊仁從香港飛到臺北,當晚就和金介壽等人一道乘坐3艘保釣船從深澳漁港出海,向釣魚島方向駛去。就在同一天,陳毓祥也率領一班人馬搭乘一艘貨船輪,從香港出發前往釣魚島。從此,新一代保釣運動的左右兩派之爭進入了白熱化階段,釣魚島變成了這場競爭的桂冠,誰第一個登島插旗,誰就是這一波保釣運動的盟主。
位於基隆的深澳漁港距離釣魚島只有200公裡左右,金介壽這支艦隊第二天一早就到達了釣魚島附近海域,但卻遭到21艘日本軍艦的攔截,再次無功而返。3天之後,陳毓祥等人乘坐的“保釣號”貨輪也到達了距離釣魚島只有10海裡的地方,但由於風浪大,再加上日本軍艦的攔截,貨輪沒法前進,船長下令返航。但陳毓祥不甘心,帶領4名保釣人士身穿救生衣跳進大海,試圖用游泳的方式宣示主權。但陳毓祥體重過大,不幸溺斃,另外一名保釣人士受傷,被緊急運往距離最近的日本石垣島醫院搶救,這才保住了性命。
陳毓祥是保釣運動20多年來的第一個犧牲者,此事傳到台灣後立刻引起了台灣民眾的廣泛關註,“一堆錢就進來了!”金介壽總結了前兩次的失敗教訓,認為必須採用人海戰術,讓日本軍艦顧此失彼。於是他和何俊仁商定,雙方各負責15艘船,再加上10艘媒體船,組成了一隻龐大的“保釣艦隊”,於10月6日晚上分別從各個海港出發,直奔釣魚島。
出發前金介壽還租了幾艘海上摩托艇,組織了一次向媒體公開的搶灘演習。臨行前臺灣海上邊防警察以安全為由不準摩托艇上船,金介壽當著警察們的面把摩托艇放下來,等警察們簽字放行後又大搖大擺地把摩托艇重新裝上船去,而且全部放在甲板上,一點也不避諱。
“我甚至找了一個玩航模的,運了一架遙控直升飛機過去,飛機下面綁上一面國旗,準備用這個辦法把旗子空降到釣魚台宣示主權。”金介壽對我說。
其實,以上這些都是金介壽佈下的一個疑陣,為的就是讓日本間諜誤以為保釣人士打算駕駛摩托艇登島。等主力部隊都出發後,金介壽自己偷偷登上一艘名為“自立6號”的磯釣船從深澳港出發,船上只有10名船員,沒有摩托艇。
“我這艘船是深澳港唯一的一艘磯釣船,是專門用來從事岩壁海釣的。”金介壽解釋說:“磯釣船的船頭是平的,綁了很多舊輪胎,靠上岩壁的時候可以起到緩沖作用。”
磯釣船速度很慢,一直跟在大部隊的後面。先頭部隊很快就遇到了日本軍艦,據估計大概有80艘左右,雙方在海上展開了一場圍追堵截的大戰。
“我後來聽說日本橫須賀海軍總部停止了國家演戲,把所有的軍艦都從本島調來保護釣魚台。”金介壽說:“那天的釣魚臺海域相當於第二次中日戰爭的戰場。”
不過,這大概是歷史上最奇特的一場海戰。資料顯示,那天台灣海巡署的軍艦就在附近不遠的地方待命,但沒有一艘敢於上前護航。包括路透社在內的多家國際媒體租用了直升飛機在上空拍照片,台灣的一家電視台甚至從沖繩首府那霸市租用了一架直升飛機飛到釣魚島上空,拍下了很多珍貴的影像資料。
最後,老謀深算的金介壽成了最大的贏家。“自立6號”在4艘普通漁船的掩護下順利突圍,成功靠岸,金介壽和另一名香港保釣人士陳裕南跳上釣魚島,爬到了6米高的地方。可惜他們爬上的是釣魚島前面的一塊礁岩,和本島之間隔著一條2-3米寬的海溝,沒法前進。此時日本軍艦因為體積太大,不敢靠的太近,只能放下幾艘小艇前來阻擋,被船員們用長矛擋住。眼看沒法繼續前行,金介壽便取出早已準備好的青天白日旗,插到了岩石上。陳裕南則先是按計劃插上一面寫有“中國領土釣魚台”字樣的黃色旗幟,又從懷里拿出一面五星紅旗,也插到了島上。這大概是海峽兩岸的旗幟第一次在同一塊場地上同時飄揚。
“我們事先都說好了,不準帶五星旗,陳裕南把旗子藏在懷里,我們都不知道。”金介壽解釋說。
“自立6號”是早上6點一刻登島的,15分鐘後,另一艘名為“全家福號”的海釣船在船長游明川的操控下也成功突圍,駛到了距離釣魚島15米遠的地方。保釣人士賴福明、王光華、李覺民和呂文瑞穿著潛水衣跳進大海,游上了釣魚島。4人在島上逗留了將近半個小時,甚至還打算登上最高峰,但終因坡度太陡而作罷。
根據一名在場的台灣記者事後的描述,金介壽和陳裕南插在島上的3面旗子10分鐘後就被風吹倒,而此時兩人早已回到船上,卻沒有再派人上去重新扶正國旗。7點鐘的時候,金介壽通過對講機下令全體撤退,大家安全地回到了台灣。
這次登島行動以5艘台灣漁船被撞壞為代價,最終讓6人成功登島,但也導致很多沒有上島的人怨聲載道,香港演員黃秋生就是其中的一位,他對香港記者抱怨金介壽太自私,自己登島之後就迅速下令撤退,沒給其他人留機會。
“他一定是誤解我了!”金介壽的語氣顯得很無奈:“我把最豪華的船都留給香港人了啊,我自己坐的是最破的船。”
不管怎樣,這次登島行動讓金介壽成了明星,他在島上揮舞青天白日旗的照片成了保釣歷史上最具代表性的一張照片,他旁邊的五星紅旗也讓這一歷史時刻具備了某種更深刻的含義。
保釣的火炬接力
第二波保釣運動在1996年達到高潮後很快再次陷入低谷,民進黨的崛起把台灣人民的註意力轉移到了島內。1998年,陳水扁在臺北市長選舉中敗給馬英九,兩年後他卻當選為台灣“總統”,民進黨也首次擊敗了國民黨,成為台灣的執政黨。國民黨則在2000年“總統選舉”期間再次發生分裂,時任台灣省“省長”的前國民黨元老宋楚瑜在總統選舉失敗後退出國民黨,成立了親民黨,提出的宗旨是“人民第一”。當時還是臺北縣永和市市民代表的黃錫麟就是在這次分裂中離開了新黨,加盟了同屬泛藍陣營的親民黨。
 
黃錫麟是新一波保釣運動的另一位代表性人物,他把採訪約在了臺北縣永和市中正路648號,這也是一個臨時租下來的選舉辦公室,原來黃錫麟和金介壽一樣,都在競選新北市議員。兩人都是永和市推舉出來的藍營候選人,政治立場和票源全都一樣,屬於你死我活的競爭對手。
“我的祖籍在江蘇,出生在台灣,今年48歲,從事保釣運動已經有14年的歷史了,現在擔任中華保釣協會的執行長。”黃錫麟開門見山地說:“我曾經先後13次出海保釣,只可惜至今沒有登上過釣魚台。”
算下來,黃錫麟正是在1996年參加的保釣運動,不過他比金介壽小11歲,當年還只是一個34歲的熱血青年。那次登島行動中,黃錫麟是金介壽的助手,和金介壽乘坐的是同一條船,親眼目睹了金介壽登島的全過程。
“當時金議員上島插旗後很快就跑回船上,整個過程不到5分鐘。我看到國旗被風吹倒了,就自告奮勇要上去把國旗扶正,但是金議員不讓我上去。”黃錫麟提到這件14年前發生的往事時仍然顯得一臉的無奈:“當時日本人的船就在旁邊,但是並沒有發生什麼激烈的沖突,我不明白他為什麼不讓我上去。大家辛辛苦苦來一趟,都想上島,到此一游嘛。可最後只有他和陳裕南等6個人上去了,而且他上島後很快就下達了撤退的命令,大部隊還在跟日本軍艦纏鬥,沒有趕過來呢。後來很多人都罵他,我也罵他,不知道他心裡怎麼想的。”
金介壽不同意這個指責。“我是行動總指揮啊,當然要對大家的安全負責。而且漁船很貴的,撞壞了就得賠。”金介壽在談到當時的情況時對我說:“我沒有參加中華保釣協會,因為那是個有政治目的的組織。黃錫麟搞保釣是為了選舉,他沒搞保釣的時候是個普通百姓,而我已經是議員了!當年是我支持黃錫麟出來選市民代表,他選上以後就想把我乾掉,所以搞了這個協會。”
黃錫麟當然也不同意這個說法:“中華保釣協會是台灣唯一一個在內政部立案的民間保釣組織,我們的經費來源和花銷都是有帳可查的,金介壽那個保釣行動小組沒有備案,誰也不知道錢都花哪兒去了。”
現任中華保釣協會發言人的胡卜凱這樣評價兩人的矛盾:“當初金介壽是領頭的,黃錫麟較年輕,跟著金介壽。後來黃錫麟比較沖(一聲),金介壽懷疑他想取而代之,又沒辦法節制他,就產生了矛盾。今年臺北縣改為新北市後黃錫麟這個市民代表的職位就沒有了,只能去選議員,兩人終於成了直接的競爭對手,矛盾就激化了。因為工作的關系我和黃錫麟合作比較多,但我仍然很尊敬金介壽,重要會議都會請他出席。”
選舉很看重名氣。黃錫麟雖然在近幾年十分活躍,但畢竟一直沒有登過島,名氣不如金介壽大。這幾年黃錫麟一直在努力登島,幾乎每年都要出海一次,為此他甚至專門去考了一個漁民證,因為台灣有個規定,普通漁船可以隨便出海捕魚,但只有考過漁民證的人才可以上這種船。一般人要想出海,只能坐海釣船,這屬於娛樂漁船,按照規定最遠只能駛到距離台灣本島24海裡的地方,釣魚島自然也就去不成了。
“這規定以前一直有,但從來沒認真執行過,直到陳水扁時代台灣海巡署才終於嚴格起來。他們不敢公開禁止保釣,只能用這些手段阻止我們出海。”黃錫麟對我說:“其實我申請了漁民證也沒用,他們總會想出各種辦法刁難我們的,比如不給我們配油,或者在保釣船申請執照延期的時候故意拖延時間。”
因為出海次數多,黃錫麟跟漁民混得很熟,深知他們的痛苦。“我搞保釣不是因為石油,那個離老百姓很遠。我搞保釣的一個主要訴求就是讓台灣漁民能夠去那裡捕魚,釣魚島附近海域是台灣漁民的傳統漁場,被日本占領後台灣漁民就被剝奪了去那裡打漁的權力,我要替他們抗爭。”
黃錫麟把漁民游明川的電話給了我,他就是當年駕駛“全家福號”海釣船成功登島的船老大,家就住在基隆的深澳港,距離臺北只有一小時車程。這個港因為距離釣魚島最近,交通也便利,已經成為保釣人士最常使用的海港,被稱為“保釣港”。我到的時候將近中午,港口卻停滿了漁船,一群漁民正蹲在一艘漁船甲板上吃飯。原來這幾天正刮東北季風,大家都歇了。
這些船大都是50噸以下的碳纖維船,分為海釣船和普通漁船兩種,前者大都比較乾凈,設備高級一些,頂層甲板上密密麻麻地裝滿了高功率燈泡,為的是夜釣時把魚吸引過來。這種燈泡據說是日本人發明的,15年前才傳到台灣。“當年我們和日本漁民經常一塊打漁的,現在不但我們沒辦法去那裡打漁,就連日本漁民也不敢去了。”游明川對我說。
 
游明川今年43歲,膚色黝黑,大冷天腳上仍光腳穿著拖鞋,煙不離手。他當了一輩子漁民,直到1995年前還一直在釣魚島附近打漁,那時漁船可以開到離島1海裡的地方也不會有人管。但自1996年開始那片海域就成了禁區,很難再進去了。“釣魚台是很多魚類洄游的必經之地,有好多珍貴魚種。像什麼馬頭魚、赤鯮魚、長尾鳥(又叫大目金鯛)、紅甘、青雞魚、大目鰱和石斑魚等等經濟價值高的魚種只有在那附近才釣得到。這些魚每斤(台製,等於600克)的批發價都在500新台幣以上(約合人民幣120元),一般的海魚只能買100新台幣左右。”
1996年,游明川開著自己那艘20噸的小海釣船參與了那次著名的保釣行動。出發沒多久就遇到一艘船出故障,他前往營救,把那艘船上的人接到了自己船上。沒想到這麼一耽誤反而成就了他,讓他的船躲過了日本海軍艦艇的堵截,成功靠岸。之後他換了艘50噸的大船,經常偷偷前往釣魚島附近釣魚,被日本軍艦攔過好幾次。“日本軍艦都是好幾千噸級的,速度奇快,遠處剛剛看到一個小點,一眨眼就開到眼前了!”回想起和日本軍艦的數次對峙,游明川仍然一臉驚恐:“有一次我們4艘船遇到一艘日本軍艦攔截,我們分頭跑,那艘軍艦竟然可以分別開到每艘船前面繞上一圈向我們示威。今年6月份的時候我又去過一次,結果遭到5艘日本軍艦的攔截,他們兩側的防撞網都放下來了,準備夾我的船,幸虧我的船小,拼命地拐來拐去,僥幸被我逃脫了。”
附近幾位漁民看到有人採訪,紛紛走了過來。當他們知道我來自大陸後,異口同聲地說:“台灣海軍打不過日本人,只有靠你們大陸海軍了。如果胡錦濤派軍艦給我們護漁,我們台灣漁民一定會感謝他的!”
據漁民們回憶,日本軍艦對待進入釣魚島領海的台灣漁船態度十分蠻橫,經常用高壓水龍頭或者油漆對付台灣漁船,如果再不走就直接撞。這幾年媒體報道過幾次台灣漁船被撞傷的事件,但實際上還有更多的沖突沒被報道出來。
但是撞沉就不一樣了。2008年6月10日,台灣漁船“聯合號”被日本軍艦撞沉,引發了台灣民眾的強烈抗議。6天之後,黃錫麟率領12名保釣人士乘坐游明川的“全家福號”前往釣魚島抗議,並在距離釣魚島0.4海裡的地方繞島一周宣示主權。
“我船上的大陸船員很厲害,直接跟日本人對著乾!”游明川回憶起那次行動依然激動不已。“他們對日本船放沖天炮(二踢腳),把日本人嚇得跳海。他們丟雞蛋也很準,有一隻雞蛋直接丟到隨船日本攝影師的鏡頭上了!後來我勸他們別浪費雞蛋,他們才罷手。”
說話間,剛才那群蹲在甲板上吃飯的漁民嬉笑著從我們身邊走過。游明川告訴我,他們就是受雇於台灣漁船的福建漁民,吃完飯下船散散步。台灣政府規定大陸漁民不準上島,但在漁港這邊沒人管,大家早已默許了這種行為。
那12位登船的保釣人士當中,胡卜凱是唯一的一位老保釣。“黃錫麟非常想邀請一位老保釣隨船前往,因為他覺得這象徵著保釣的火炬傳給了下一代。”胡卜凱對我說:“雖然那次我很遭罪,總共吐了7次,但能看一眼釣魚台,一切就都值了。台灣這批老保釣里,只有我近親眼看見過釣魚台。”
據胡卜凱回憶,那次登島的背後還有很多細節值得回味。原來,那年5月馬英九剛剛宣誓就職,就因為連續做出了好幾次有爭議的任命遭到台灣民眾質疑,民調的支持率迅速從選舉前的70%掉到了50%。恰在此時發生了聯合號被撞沉的事件,中華保釣協會立刻決定前往釣魚台示威。這個消息被馬英九的老友兼智囊王曉波知道了,他立即轉告給馬英九,並建議他採取行動。於是馬英九立即宣佈召回台灣駐日本“大使”,要求日本政府道歉並賠償漁民損失,並指使台灣海巡署派出了4艦5艇為保釣船護航。這一連串強硬的舉措終於讓馬英九的支持率不再繼續下滑了。
“說實話,我心裡很明白,08年那次保釣其實就是日本人讓我們爽一下而已啦。”黃錫麟對我說:“馬英九選舉前曾經公開說,為了收回釣魚台不惜一戰!可他當上總統後就沒了下文。他是錶面上保釣,私底下跑掉!”
黃錫麟還告訴我,2009年他本來還打算再去一次,結果被馬英九派來的特使勸了回去。“他們一般不會公開說不準保釣,而是用其他辦法設置障礙,比如威脅漁民,不要租船給保釣人士等等。”
游明川證實了這一說法:“海巡署不讓我們靠近釣魚台,第一次違規罰款3萬,第二次15萬,第三次弔銷執照。他們還出錢給我們的船安裝衛星定位系統,名以上說是為了保護我們,實際上就是監視我們的行動。”游明川氣憤地說:“據說台灣政府準備花800億造新軍艦,可造了也不是為了打日本人的,而是為了擋台灣漁民的!”
游明川很懷念蔣經國時代,認為只有他才是真正對漁民好:“蔣經國鼓勵我們跟外國漁船競爭,由國家出錢給我們舊船換新船。現在的選舉政府對漁民不好,因為我們常年在外,沒辦法趕回來投票。”
“我現在最大的願望就是能有一艘自己的船,這樣就不必看別人臉色了。”黃錫麟說。一艘像樣的漁船不到300萬人民幣,但他一直找不到這筆錢。目前中華保釣協會的經費有70%來自大陸南方的一位匿名企業家,其餘20%來自香港和澳門的捐款,台灣本地的捐款只有不到10%。
“看來現在不但政府討厭你們,就連民眾也不願幫你們,是什麼力量讓你們堅持這麼做下去的呢?”我不解地問。
“我的目的就是幫助政府收回釣魚台的主權。如果將來有一天釣魚台問題提交給國際法庭來裁決的話,就一定要提供證據證明釣魚台是中國的。我們這麼多年來堅持以實際行動保釣,每年都去宣示主權,就是為了給政府的談判代表提供有利的證據。”黃錫麟回答到:“因為政治原因,大陸沒人做,香港和澳門又太遠,全中國就只剩下我們台灣這幾個人有能力做這件事了,所以不管有多麼困難,我們都要堅持做下去。”


《【轉載二則】保釣運動的起源和傳承》

http://web.archive.org/save/http://blog.sinovision.net/home.php?mod=space&do=blog&uid=172244&id=167684

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https://jp.reuters.com/article/china-autos-hybrid-idJPKCN1U70SF
 自民政權を動かしてゐるのは經團聯である。經團聯で最大の力を持つのはトヨタなどである。日米が完全一致でチャイナに對抗すると、チャイナは死んでしまふので、何としても經團聯を強くチャイナ側に引き寄せたい。少々の賄賂ぐらいでは足りない。チャイナがでっかく經團聯を優遇するのが、自民をぐらつかせる最善手だ。實務的に考へれば普通の手だが、ファシズムのチャイナにこれをやられると、敵もさる者、となる。トヨタがハイブリッド技術を公開したのは、多分既にチャイナと話をつけてゐて、チャイナ市場を狙ってのことだらう。身を切って利を得る。
 日本は一切遠慮せず、これを好機と見てもっとチャイナを政治で攻めるべきだ。尖閣常駐も靖國參拜も今が好機だ。今なら韓國だけが靖國に文句を言ふ。どうせ韓國とは喧嘩だから、今やってしまふべきだ。丁度八月も近い。
 經團聯がチャイナに行きたいなら阻止するのは難しいが、更にもっとでっかくチャイナに對して攻勢に出るべきだ。外務省もこれでぐらつくのではなく、さらに「尖閣の歴史も完全に認めろ」、「臺灣獨立も承認しろ」、と壓力を掛けるべきだ。攻勢に出るべきだ。
 ここで弱氣な日本は、「チャイナがハイブリッド優遇してくれるから日本もチャイナに遠慮してあげよう」と言ひ出す左翼が必ず出て來る。「チャイナは韓國と違って語れる相手だ」といふ甘い議論が右翼からも出る。それは駄目だ。ここで徹底的に攻めるべきだ。今なら尖閣に常駐してもチャイナはぐうの音も出ないだらう。

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以下ロイター。
2019年7月12日 / 16:54 / 20時間前更新
中国、ハイブリッド車支援につながる措置検討 トヨタやホンダに恩恵も
[北京 12日 ロイター] - 中国は、クリーンエネルギー車に関する規則について、ガソリンと電気のハイブリッド車を再分類して、ガソリン車やディーゼル車よりも優遇する措置を検討している。
 中国工業情報省が公表した政策草案を精査した専門家は、そうした措置によってメーカーは比較的コストの高い電気自動車の生産を減らしてハイブリッド車の生産を増やすことが可能となり、トヨタ自動車(7203.T)やホンダ(7267.T)が最も恩恵を受けると指摘している。
 今年導入された制度では、自動車メーカーは内燃機関車を生産した際に加算されるマイナスのポイントの一部を、 新エネルギー車(NEV)の生産で獲得したポイントで補うことが義務付けられている。
 政策草案では、ハイブリッド車はこれまでと同様に化石燃料車と見なされるものの、「低燃費乗用車」に再分類され、ハイブリッド車の生産で加算されるマイナスのポイントは従来の自動車を生産する際よりも少なくなる。これにより、従来の自動車の代わりにハイブリッド車を生産する動きも増える可能性があると専門家らは指摘している。
 中国乗用車協会(CPCA)の当局者は、ソーシャルメディアへの投稿で「新たな政策草案は、ハイブリッド車を間接的に支援する措置だ」と指摘した。トヨタとホンダの中国の広報担当者はともにコメントを控えた。
 トヨタとホンダの中国でのハイブリッド車生産パートナーである広州汽車集団(GAC)(601238.SS)は「国の政策を引き続き注視し、関連する政策や基準の推進・策定に積極的に対応する」としている。

トヨタ_ロイター