- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

澳門文化局《文化雜誌》第九十四期  2015年春。
廖大珂「甲午戰爭之前西方文獻有關釣魚島的記載」。
https://www.icm.gov.mo/cn/News/NewsDetail.aspx?id=12521
http://libdigital.umac.mo/was5/digital/moinchipaView.jsp?id=30817
https://www.icm.gov.mo/deippub/rcMagC.asp
http://sengpou.com/news_detail.php?news_id=1078&element_index=3


 この論文は隨分懸命に歐洲史料を集めてをり、どれも尖閣をチャイナとする史料ばかりだと主張してゐる。廖大珂氏の提示する史料はこれまで既に若干種がチャイナ政府に公式採用されてをり、警戒を要する。しかし論文所引原史料を確認すると、尖閣をチャイナとするものは一つも無い。廖大珂氏は無理に歪曲してゐるだけのことだ。一例として下の地圖。
1799 年,John William Norie《亞洲及其島嶼圖》( Asia and its islands according to D'Anville)。
米國國會圖書館藏。
https://www.loc.gov/resource/g7400.ct000739/
精密圖をダウンロードできる。廖大珂氏はこの圖の大陸と臺灣と尖閣とが均しく黄色だと述べてゐる。ところが實際には下の畫像の通り、魚釣島久場島は無色で、ただ赤尾嶼(Tche-oey-sou)だけが琉球の赤色に塗られてゐる。實に他愛もない。(下リンク)
http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/6/9/69a73515.jpg
Laurie1799尖閣_Asia_islands_according_to_D-Anville米議會圖書館

 この前後の年代で、赤尾嶼だけ琉球の色に塗る地圖は珍しくない。類似の地圖は幾つもある。既に當ブログでも幾つも紹介した。他愛もない。彼らのやることは一事が萬事この調子である。こんなものを無理に提示することからも、彼らに都合の良い史料が一つも存在しないことがお分かり頂けるだらう。

 なほ細かいことを言へば、上圖の内、Hao-yu-su(釣魚嶼)とHoan-oey-su(黄尾嶼、久場島)が無色で、臺灣北方のPong-kia(彭佳嶼)とHoa-pin-su(花瓶嶼)に微かに汚れがある。黄色の汚れにも見える。花瓶嶼は、西暦1787年にラペルーズの探査で魚釣島と誤解され、その探査記が西暦1797年に刊行された。この西暦1799年圖はそれ以前のダンビル圖にもとづくもので、ラペルーズ情報はまだ圖中に反映されてゐない。黄色に汚れた花瓶嶼は臺灣北方の花瓶嶼であって、まだ魚釣島と誤解されてゐない。屁理屈をこねる人がゐるかも知れないので念のため。


記録
http://archive.is/17hQA
http://web.archive.org/web/20160426002912/http://senkaku.blog.jp/2016042658967094.html


.

18850922朝日切
  ▲『大阪朝日新聞』1885年(明治18年)9月22日第2面 國會圖書館マイクロフィルム

日本安全保障戰略研究所は、内閣官房にもリンク(最下方)が出てゐます。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/links/links.html

日本安全保障戰略研究所 
http://www.ssri-j.com/Quick%20refutation.html
http://www.ssri-j.com/
http://www.ssri-j.com/Island.html

-島嶼反駁サイト-速報コメント
*「台湾外交部 釣魚台の十大事実 1月7日公布」に対する日本語,漢語による速報コメント


 1 日本語による速報コメント
                                 長崎純心大学 石井望・談

     台湾外交部 釣魚台の十大事実 -原文はここをクリックしてください-
第1項 釣魚台列島は台湾付属島嶼であり、中華民国固有の領土である。
第2項 同列島は中国人が最初に発見命名使用した。明朝の海防体系に組み込まれ、清朝領土の一部 になり、無主地ではない。 他国が国際法の「先占」を主張することはできない。
 第3項 同列島は琉球国には属せず、日本は武力で琉球国を併呑した上で、同列島をも盗み取った。
 第4項 日本は釣魚台列島が清朝に属することを知りながら、甲午戦争(日清戦争)中に密かに同列島を占拠した。国際法上の「無主地先占」の原則に合致せず無効である。
 第5項 清朝は甲午戦争後1895年の下関条約第2条に基づき、釣魚台列島を含む台湾と全ての付属島嶼を割譲した。
 第6項 カイロ宣言、ポツダム宣言、日本降伏文書、日華平和条約に基づき、同列島は台湾及び澎湖諸島とともに中華民国に返還されるべきである。
 第7項 日本は釣魚台列島を沖縄県の管轄下に置き、1900年に「尖閣諸島」という名称に変更。中国固有の領土で あることを隠し、中華民国に返還しなかった。
 第8項 同列島は1945年から1971年までの間、米軍の管理下にあったため、中華民国は日本側に抗議を行わなかった。
 第9項 1972年5月の沖縄返還時にも、釣魚台列島の主権は日本に移っていない。
 第10項 東シナ海を平和の海にするため馬英九総統は2012年に「東シナ海平和イニシアチブ」を提唱した。

     「台湾外交部 釣魚台の十大事実」に関する報道 -下記の項目をクリックしてください-
   *台湾「釣魚台列島の十大事実」を発表 日本の主張改めて否定
   *台湾外交部がウェブサイトに「尖閣諸島の10大事実」を掲載=「日本が不法に占領」
   *外交部、釣魚台列島に関する「十大事実」を発表
   *台湾「釣魚台列島の十大事実」を発表 日本の主張改めて否定
   *外交部、釣魚台の「十大事実」発表
   *護釣魚台主權 外交部:日竊占行為無效
   *釣魚台/護主權 外交部:日竊占行為無效
   *護釣魚台主權 外交部:日竊占行為無效
   *維護釣魚台主權 外交部列十大事實
   *「日本竊占行為無效」 外交部列十大事實護釣魚台主權


 全く新たな情報を含まぬ声明であり、1月16日の総統選挙に影響することを目的として 国民党が外交部にこの主張をあらためて公表させたと考えられる。
 外交部及び台湾の統一派メディアが最も多くの字数を費やしたのは、 このうちの事実四である。1895年に尖閣が日本領土に編入される前の1885年、 「清国の新聞」は日本が清国の台湾地方に属する島嶼を占領していると報じた。
 明治政府は尖閣は清国に属すると知っていて、編入をためらったのだと外交部は主張する。 清国の新聞とは、上海のイギリス系新聞『文匯報』(ぶんわいほう、Shanghai Mercury) 及びそれを転載した上海最大の新聞『申報』(しんぽう)を指す。
 しかし『申報』には尖閣とも釣魚台とも書かれていない。 元となった『文匯報』の1885年原版が失われているため、 尖閣と書かれているかどうか、近年まで分からなかった。
 ところが去年(平成27年)、『大阪朝日新聞』1885年(明治18年)9月22日第2面に 『文匯報』の当該記事の内容が論評されていたことが分かった。 それによれば、『文匯報』が報じたのは宮古八重山諸島についてであり、 尖閣についてではなかった。
 日本政府が尖閣編入を一時的にためらった原因は、 宮古八重山諸島の帰属問題であり、尖閣の帰属問題ではない。 宮古八重山諸島が清国に帰属するとなれば、尖閣まで併せて 清国に帰属してしまうだけのことである。

 尖閣単独では一度も領土問題になったことがない。
 参考:《民報》2015年9月25日「日本插旗竊釣魚台?重大發現:清末報導指宮古島」
http://www.peoplenews.tw/news/e366ebad-366a-4448-b34b-9bffb61f3bd9

 このほか、「事実一」から「事実三」までは、いずれも虚構である。
1403年成立と称する『順風相送』は、実際は1573年以後に成立し、最も早い史料ではない。
1556年『日本一鑑』及び1722年『台海使槎録』、1871年『重纂福建通志』 の「釣魚嶼」「釣魚台」は、どれも現今の尖閣諸島ではなく、 釣魚台が台湾の沿岸の別所に位置すると誤解した史料である。
1561年『万里海防図』及び1562年『籌海図編』は釣魚台を海防の外に置くもので、 台湾外交部の主張と正反対である。
1683年『使琉球雑録』で沖縄トラフを「中外之界」とするのは琉球の内外を指し、 「中国」と外国との境界線ではない。
1785年の林子平『三国通覧図説』は釣魚台を赤に塗り、台湾を黄に塗り、 逆に「台湾付属島嶼」説を否定している。
1863年の『皇朝中外一統輿図』は釣魚台及び琉球全土を併せて描き入れ、両者を分けていない。

 外交部が避けているのは、更に多くの史料で尖閣の西側の遥か遠くに明国・清国の国境線が存在したことである。
例えば『大明一統志』福州府の巻、『明実録』内閣文庫写本、黄承玄『盟鴎堂集』、汪楫『観海集』、 『大清一統志』、斉鯤『東瀛百詠』、李鼎元「馬歯島歌」などなど、数え切れない。
 尖閣は琉球と明清との東西2ヶ所の国境線の中間にはさまれ、有史以来の無主地であった。

 最後に外交部の事実五以下は、全て事実一から四までに立脚する主張であり、議論の余地無く無効である。


 2 漢語による速報コメント

*專家觀點快訊 關於臺灣外交部1月7日公布「釣魚臺十大事實」
                       長崎純心大學副教授石井望口述
    臺灣外交部 關於釣魚臺列嶼的十大事實 1月7日公布 -詳情請按此-
 事實一:釣魚臺列嶼位於東海大陸礁層邊緣,在地質上與臺灣東北方島嶼一脈相承,是臺灣附屬島嶼,我國固有領土。
 事實二:釣魚臺列嶼由中國人最早發現、命名、使用,自明朝納入我國海防系統,並於清朝隨臺灣納入中國版圖,並非無主之地,他國不得主張國際法上的「先占」。
 事實三:釣魚臺列嶼本不屬琉球國,日本是在片面武力併吞琉球的基礎上竊據釣魚臺列嶼的。
 事實四:日本明知釣魚臺是清朝時代中國所屬,非無主地,卻在中日甲午戰爭期間(1894年8月至1895年4月),乘勝利在望之際,而於戰爭結束前祕密竊占釣魚臺列嶼,此種行為完全不符合國際法上的先占原則,當然自始無效。
 事實五:清朝是根據甲午戰爭後中日之間所簽署的《馬關條約》第二款,於1895年4月17日將「臺灣全島及所有附屬各島嶼」,包括釣魚臺列嶼,割讓予日本的。
 事實六:根據《開羅宣言》、《波茨坦公告》、《日本降書》、《中日和約》,釣魚臺列嶼應於戰後隨同臺灣澎湖歸還中華民國。
 事實七:日本明治政府於1895年竊占釣魚臺後,在行政上將其劃歸「沖繩縣」,後更名為「尖閣諸島」,導致1945年戰後初期盟軍受其誤導。
 事實八:自1945年至1971年止,釣魚臺列嶼係置於美國軍事託管,而非日本治理之下,且中華民國從未承認日本對釣魚臺列嶼的主權。
 事實九:美國於1972年5月15日結束對琉球的託管治理,然並未將釣魚臺列嶼主權轉移至日本
 事實十:「東海和平倡議」為東海恢復為「和平之海」指出和平解決爭議之正確方向。

     「有關臺灣外交部「釣魚臺十大事實」報導 - 請點擊下列條目  -
   *台湾「釣魚台列島の十大事実」を発表 日本の主張改めて否定
   *台湾外交部がウェブサイトに「尖閣諸島の10大事実」を掲載=「日本が不法に占領」
   *外交部、釣魚台列島に関する「十大事実」を発表
   *台湾「釣魚台列島の十大事実」を発表 日本の主張改めて否定
   *外交部、釣魚台の「十大事実」発表
   *護釣魚台主權 外交部:日竊占行為無效
   *釣魚台/護主權 外交部:日竊占行為無效
   *護釣魚台主權 外交部:日竊占行為無效
   *維護釣魚台主權 外交部列十大事實
   *「日本竊占行為無效」 外交部列十大事實護釣魚台主權

  此次外交部聲明全然不包含新事實、新論點。令人懷疑國民黨授意外交部在此時公布,試圖影響1月16日大選選情。
 外交部及統派媒體下筆最多的是其中的事實四,即西元1895年尖閣諸島劃歸日本前,1885年「清國報紙」揭載日本欲佔據清國台灣地方之屬下島嶼等消息,外交部認為當時日本政府知道釣魚台屬於清國,不敢草率從事。
 「清國報紙」是指上海的英國人所辦《文匯報》(Shanghai Mercury),當時上海最大報紙《申報》予以轉述。
 然而《申報》並未點明釣魚臺,且《文匯報》該年原版現已亡佚。直到近年都不知道原文有無點明釣魚臺。
 去年(西元2015年)7月,專家發現《大阪朝日新聞》1885年(明治18年)9月22日第2版有一段文字評述《文匯報》。據之,則《文匯報》所報為宮古八重山諸島,不是尖閣諸島。
 日本政府不敢即刻把尖閣諸島劃入國土的原因,在於宮古八重山諸島歸屬問題,不是尖閣諸島歸屬問題。宮古、石垣諸島若歸清國,釣魚台不過是隨之一同歸清國而已。尖閣諸島從未單獨成為政領土問題。
 參考:《民報》2015年9月25日「日本插旗竊釣魚台?重大發現:清末報導指宮古島」

 此外「事實一」至「事実三」均屬虛構。
聲稱西元1403年成書的《順風相送》其實是1573年以後成書,並不是最早史料。
西元1556年《日本一鑒》及1722年《臺海使槎錄》、1871年《重纂福建通志》的釣魚台,都不是現今的尖閣諸島,而是誤認釣魚台位於台灣岸邊另一處。
西元1561年《萬里海防圖》及1562年《籌海圖編》都將釣魚台置於海防之外,外交部的主張適居其反。
西元1683年《使琉球雜錄》以沖繩海槽為「中外之界」,指的是琉球的內外,不是「中國」與外國。
西元1785年日本林子平《三國通覽圖說》塗釣魚台為紅,台灣為黃,恰恰否定了「台灣附屬島嶼」之說。
西元1863年《皇朝中外一統輿圖》將釣魚台及琉球全土一同繪入,並不把兩者分隔開。
 外交部刻意回避的是,更多史料歷歷都記載釣魚台西側遙遠處有一條明國、清國的國界線。
例如《大明一統志》福州府卷、《明實錄》日本內閣文庫藏本、黃承玄《盟鷗堂集》、汪楫《觀海集》、《大清一統志》、齊鯤《東瀛百詠》、李鼎元〈馬齒島歌〉等等,數不勝數。
釣魚台夾在琉球和明清的東西兩處國界線中間,自古以來一向是無主地。
 至於事實五以下,全是馬關條約以後的情形,只要條約以前釣魚台不屬於清國,就統統無效。






西暦十九世紀後半の歐洲製地圖では、海中に國境線を引く例が増加する。國境線を必要とする個所以外には引かれない。概ね國境線交渉の存在するやうな多島海域だけの特例のやうだ。その好例が、明治二十年(西暦千八百八十七年)の英國スタンフォード圖である。豪洲國家圖書館藏。

「Stanford's London atlas of universal geography」
1887. MAP Ra 186. Part 46及びPart 12。
地中海圖(Mediterranean Sea)及び歐洲圖(Europe)。
希臘と土耳古との間に國境線。エーゲ海からイオニア海まで伸びる。
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s46-v
1887_希臘_Stanford_London_Atlas46_Mediterranean


「Stanford's London atlas of universal geography」
1887. MAP Ra 186. Part 59及び69。
アジア圖(Asia)及びアジア諸島圖(Asiatic Archipelago)。
ナトゥナ諸島に海中の國境線。インドネシアとマレーシアとの間。
チャイナの九段線を描く地圖は二十世紀初期まで全く存在しない。
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s59-v
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s69-sd
1887_Natuna_Stanford_London_Atlas_59_Asia_豪洲藏

1887_Natuna_Stanford_London_Atlas69_Asiatic_Archipelago


同じく59圖と69圖。
英領北ボルネオと西班牙領フィリピンと蘭領インドネシアとの間。
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s69-sd
1887_Mindanao_Stanford_London_Atlas69_Asiatic_Archipelago


「Stanford's London atlas of universal geography」
1887. MAP Ra 186. Part 98。太平洋圖(The Pacific Islands)。
獨逸マーシャル諸島と、西班牙領キャロライン諸島との周圍。
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s98-v
1887_Marshall_Stanford_London_Atlas98_Pacific


「Stanford's London atlas of universal geography」
1887. MAP Ra 186. Part 82。西印度諸島圖(West Indies)。
英領バハマとUSAフロリダと西班牙領キューバとの間。
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s82-v
1887_bahama_Stanford_London_Atlas82_West_Indies


以上を見た上で尖閣附近海域を見ると、明治二十年以前に矢張り國境線問題は存在した。明治十二年十三年の間、宮古八重山割讓をめぐる分島改約の議である。分島改約の議以前からも、宮古八重山乃至琉球本島をチャイナの内と誤解する地誌・地圖は歐洲で多かった。そのため明治二十年スタンフォード圖册では、下の通り第八圖(東半球)で沖繩本島と宮古島との中間に國境線が引かれるが、同じ圖册の第五十九圖(亞細亞)及び第六十七圖(支那)では與那國島と臺灣との間に國境線が引かれる。同じ圖册中でも判斷が一定しない。しかし尖閣そのものに領土問題は存在しないので、わざわざ尖閣のために國境線を引いたのではなく、宮古八重山諸島のために引いた國境線である。その宮古八重山諸島に自然と尖閣が屬してゐるに過ぎない。宮古八重山領土問題は存在したが、尖閣領土問題は存在しなかった。
 明治三十四年(西暦千九百一年)のスタンフォード圖册に至り、國境線は臺灣の西側に移動した。三枚の地圖をならべると、宮古島の東、與那國島の西、臺灣の西と、移動する國境線はそのまま歴史の動きを表はしてゐる。尖閣を宮古八重山諸島から分離させる記述は一度も無い。


▼「Stanford's London atlas of universal geography」
1887. MAP Ra 186. Part 8。東半球圖(The World East)。
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s8-v
1887_宮古_Stanford_London_Atlas8_World_East


▼「Stanford's London atlas of universal geography」
1887. MAP Ra 186. Part 67。支那圖(China)。
http://www.nla.gov.au/apps/cdview/?pi=nla.map-ra186-s67-v
stanford1887豪洲


▼「Stanford's London atlas of universal geography」
支那圖(China)及び亞細亞圖(Asia)。
西暦1901年刊。ラムゼー圖庫5075072番及び5075060番。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~34284~1171199
Asia-1901-Stanford-London-atlas-Rumsey切


.
以上は八重山日報連載にて論及する見込みです。

記録。
http://web.archive.org/web/20160424084213/http://senkaku.blog.jp/2016042458885862.html
http://archive.is/1k48l


日本のこころ 濱田和幸議員ブログ
http://ameblo.jp/hamada-kazuyuki/entry-11977778099.html

 2015年01月16日 08時56分52秒
なぜか政権与党がスルーした「尖閣諸島開拓の日」記念式典

「尖閣諸島開拓の日」を祝う式典に参加するため、沖縄県石垣市を訪ねました。
式典は今回で5回目を迎えましたが、小生にとっては3度目の石垣訪問。
珍しく大雨。
とはいえ、地元の特産サトウキビには欠かせない天の恵み。
尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎氏を顕彰する記念碑前で開催された「条例制定を祝う宴」の時間になると、しばし雨脚が緩くなり、屋外の式典が滞りなく進行しました。

濱田議員尖閣碑
(古賀辰四郎氏開拓記念碑前にて)

この日のために尖閣諸島周辺で水揚げされたマグロが参列者に振舞われ、一同、海の恵みに改めて感謝し、先人の開拓者魂に思いを馳せた次第です。
実は、日本政府が尖閣諸島を領土に編入する閣議決定を行ったのが明治28年(1895年)1月14日のこと。
その日を記念しての石垣市主催の式典も、この野外「宴」の後、市民会館で盛大に開催されました。

石垣市尖閣3D
(石垣市が作成した尖閣諸島の3Dジオラマ)

小生、「次世代の党」を代表し、これら2つの催しで挨拶を。
尖閣の歴史は決して120年ではなく、明の使節船が琉球の役人の案内で尖閣諸島の釣魚嶼を通過した1534年に遡ることを強調しました。
要は、480年もの日本統治の歴史があるのです。
こうした歴史の真実を国際社会に情報発信すると同時に、海洋、海底資源を「海からの贈り物」として大切に守っていく姿勢を世界にアピールすることこそ日本外交の神髄である旨を訴えました。
残念ながら、政権与党の代表は誰も顔を出さず、祝電だけが読み上げられただけ。
これでは日本政府の本気度が疑われかねません。
次回は全ての政党が一堂に会し、世界に向けて説得力のあるメッセージを発する機会にしたいものです。


邪馬臺國はテレビニュースなどで今でも「やまたいこく」よ讀まれてゐる。
 「臺・台・苔・乃」等の字は漢字等韻學の蟹攝四等中の第一等に屬し、開口度最大である。「乃」を「の」と讀むことから分かる通り、古代日本では「臺・台・苔」は「と」よ讀まれた。日本書紀歌謠でも「やまと」を「夜摩苔」と書く。だから「邪馬臺」は當り前に「やまと」である。
 ところが、人々がいつまでも「やまたい」と讀んでゐるので、どうもをかしい、國史學では等韻が全く理解されてゐないのか、と不思議に思ってゐた。このほど偶々關聯書を手に取ると、もう五十年ほど前から「夜摩苔」と「邪馬臺」とは同音だと知られてゐたことが分かった。もうこれは問題ではない。私の新發見でもない。「石井氏が等韻の視點を提示した」などと羞づかしいことを言ふ必要は無い。
 後の飛鳥時代に今の奈良縣に「やまと」國が存在したことは明らかなので、普通ならば邪馬臺國は奈良縣に在ったことになる。邪馬臺國九州説といふのは、九州の「やまと」國が東遷して奈良に移ったとする説だといふことになる。そこで普通なら誰でも思ひ至るのが神武東征である。
 となれば、論爭の焦點は次の一點に絞られる。神武天皇の國は東征以前の九州時代から「やまと」と呼ばれてゐたのか、それとも東征して「やまと」の地に這入ったのかである。邪馬臺國九州説にもとづけば、神武天皇は魏志倭人傳よりも後の時代に九州の「やまと」から東征し、そのまま奈良(橿原)を「やまと」と名づけたといふことになる。
 いづれにしろ、「やまたい國」といふ呼び方は混亂のもとなので、もうやめて欲しい。或は魏志倭人傳の時代に「やまと」が存在しなかったことにしたいといふ政治的思惑があるのだらうか。

邪馬臺國


附言。字形の誤りで「邪馬壹國」(やまいこく)だとの説もあるが、ほぼ問題にならない。隋書に「邪靡堆」があり、堆は等韻の一等に列し、臺の合口に相當する。他にも校勘をみれば壹はほぼ有り得ない。
--------------

以下は平成30年5月17日補記。
http://senkaku.blog.jp/2018051676172687.html
大島正健『漢字聲符考』第三十六頁に曰く、
「我がやまとを邪馬臺を以て寫したるに因りて、台のtoに近き音なりしを知るべし」
と云々。(西暦1913年刊)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949884/23
邪馬臺にyamatoといふローマ字を早くも充ててゐる。


日本安全保障戰略研究所は、内閣官房にもリンク(最下方)が出てゐます。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/links/links.html

(日本安全保障戦略研究所 平成28422日掲載 リンク)
http://www.ssri-j.com/SSRC/island/ishi-9-20160422.pdf
http://www.ssri-j.com/Island.html
http://www.ssri-j.com/
中国外交部発言「西洋の地図では尖閣の中国名を使用」
 平成28(2016)年4月19日、中華人民共和国外交部の華春瑩(かしゅんえい)報道官は定例記者会見で下の通り発言した(リンク):
http://www.mfa.gov.cn/web/fyrbt_673021/t1356705.shtml
   甲午(日清)戦争前まで久しい間、西洋の地図中では
   広く「釣魚島」の名称を使用し、同時に明確に中国に
   属すると標注していた

と。

   *  *  *  *  *  *    

速報コメント  石井望(長崎純心大学准教授、漢文学)・談

 尖閣が中国に属すると標注した地図はひとつも存在しないが、島名には確かにチャイナ式漢字音が使用されていた。18世紀半ば以後、欧米の地図・地誌で尖閣諸島は、
  「Tiao-yu-su」(釣魚嶼、今の久場島)
  「Hoa-pin-su」(花瓶嶼、和平嶼、今の魚釣島)
  「Hoan-oey-su」(黄尾嶼、今の久場島)
  「Tche-oey-su」(赤尾嶼、せきびしょ)
と書かれる。チャイナ北方の字音である。これらが欧米で採用されたことは何を示すか、7ヶ条で分析しよう。
1、まず釣魚嶼(ちょうぎょしょ)などは日本の漢文名である。最古の釣魚嶼の記録には琉球人が水先案内したと書いてある。
2、宣教師は日本の鎖国下の琉球から情報を得られず、結果としてチャイナ音のローマ字がひろまった。
3、チャイナ字音で世界にひろまったのは尖閣だけでなく琉球全土の諸地名である。
4、チャイナ字音は逆に鎖国下の日本が琉球を実効統治していたことを示す。
5、琉球主要島嶼は後に和名が普及したが、尖閣は知名度が低いため和名が普及しなかった。
6、多くの欧米製の地誌・地図では、尖閣をチャイナ字音で呼びながら同時に琉球諸島の内とする。
7、ジャパンもジパングも近世チャイナ字音であって、領有と無縁だ。

 以下に逐一詳説しよう。
1、日本の漢文名  
 「釣魚嶼」等の最古の記録は西暦1534年、陳侃(ちんかん)『使琉球録』に見える。文中、釣魚嶼の前の段で、福州から琉球航路へ出航準備中、海路が分からず陳侃は困惑していた。そこへ琉球王派遣の水先案内人らが入港し、明国の使節船に同乗して出航可能となる。そして釣魚嶼を経由したのが最古の記録である。水先案内の琉球人が明国人に釣魚嶼を告げたことはほぼ確実に推測できるから、琉球人の命名した漢名であって、明国人の命名ではない。中華人民共和国の公式見解では水先案内の段を無視している。

2~4、逆に実効統治を示す  
 18世紀後半、欧米人は「釣魚嶼」をチャイナ北方字音で書くようになった。その情報源は、フランスの宣教師ゴービル(Gaubil)が西暦1751年に北京からパリに書き送ったローマ字である。
 そもそも琉球全土は日本の鎖国下であり、最西端の与那国島まで禁教令が施行されていたため、宣教師が琉球に入境できず、欧州では琉球地元情報が欠乏していた。そこへ北京のゴービル情報が届いたため、全面採用されるに至ったのである。
 ゴービルのローマ字が適用されたのは尖閣だけでなく琉球全土にわたる。例えば大宜味は「Ta-y-ouey」、八重山は「Pa-tchon-chan」、今帰仁は「Kin-koey-gin」というローマ字で出現する。日本字音が国外に流布しなかったのは、逆に琉球全土に日本の実効統治が貫徹していたことを示す。

5、近代以後の和名
  
 ゴービル以後19世紀前半まで、西洋製地図では鎖国下の琉球地名を全てチャイナ語ローマ字で標記しており、和名は知られていなかった。近代からやっとMeiako(宮古)、Ishigaki(石垣)、Iriomote(西表)など和名が西洋に伝播し始める。その過程では往々両者が併記された。例えばジョンストン地図の和名「宮古」にはチャイナ字音「Tai-Pin-San」(太平山)が併記される(図1)。
 また、先に知名度の高い島から和名に置き換はり、知名度の低い島は往々前代のままチャイナ字音だけ標記された。例えばジョンストン図の久米島はチャイナ字音Kumisang(古米山)のままである。
 ドイツのデベス地図(図2)では宮古八重山の和名にチャイナ字音を併載して、「Chin」(支那)と注記する。しかし尖閣はチャイナ字音「Tai-a-usu」(釣魚嶼)及び「Hoa-pin-su」(和平嶼)にChinと注記しない。和名「ゆくん・くばじま」「くめ・あかしま」等の知名度も低かっため併載されない。デベスの尖閣はジョンストンの久米島と同じ段階に属する。
 以上のように、琉球和名が西洋に知られるようになったのは比較的晩期であり、それまで日本の鎖国統治が貫徹していたことを示す。
島名圖1_Jonston1893_Miyako_Rumsey3287040
図1 Jonston(英)「China and Japan」 1893年刊 ラムゼー地図ネット3287040番 davidrumsey.com


島名圖2_Debes_Ost-asien_1898Rumsey8002084尖閣
図2 Debes「Ost-Asien」(東アジア) 1898年刊 ラムゼー地図インターネット8002084番 davidrumsey.com


6、チャイナ字音の尖閣を琉球の領土とする地図・地誌
 19世紀初頭から、欧米では尖閣を琉球諸島の内とする地誌・地図が多いが、同時に尖閣をチャイナ字音で標記しており、チャイナ字音は領有を示すものと考えられていなかった。
 例えばジェディディア・モースは米国地理学の父とされるが、その著『世界地名新辞典』(1823年版)では、
    「Tiaoyu-su(釣魚嶼)。琉球諸島の一つ、シナ海に在る。」
と述べる(図3)。
島名圖3_Tiaoyusu_1823Morse氏New_Universal_Gazetteer
図3 Jedidiah Morse(モース)等共編、『A New Universal Gazetteer or Geographical Dictionary』(世界地名新辞典) ニューヘイブンにて Sherman Converse(コンバース)氏刊。1823年四訂版。グーグル・ブックス


 明治元年(1868年)ドイツのシュティーラー地図でも、尖閣諸島の西側に国境線を引きながら、「Tiao su」(釣魚嶼)、「Hoa pin su」(和平嶼)などチャイナ字音を用いる(図4)。領土と島名とは別扱いだったことが分かる。
圖2_stieler1868切東大藏
図4 『シュティーラー氏世界地図冊』(Adolf Stieler's Hand-Atlas)内「チャイナ・コリア・日本図」(China Korea und Japan) 明治元(1868)年製、東京大学総合図書館蔵、登録番号0005298948。いしゐのぞむ著『尖閣反駁マニュアル百題』より。


7、ジャパンもジパングも  
 ジャパン・ヤポンなどは広東(カントン)字音に起源する説が有力である。今の広東字音でも「日本」の二字をヤップンと読む。ジパングが元朝の北方漢字音に起源するのは研究でほぼ確定している。尖閣だけでも琉球だけでもなく、日本そのものが近世のチャイナ字音で読まれていた。
 そもそも五大文明はメソポタミアから東西に伝播した。東にインダス、西にエジプトが産まれ、さらに東に行って黄河文明、西に行ってギリシャ文明となった。ユーラシア東半部の高度な文明は常に西方から来たのが大きな歴史である。東方は僻地なので、西方の名で呼称された。
 西洋から見て、チャイナ文明はインド文明よりも遠い僻地だったため、梵語China(チーナ、支那)で流布した。マルコポーロは陸路で北京に到達して日本を知ったため、元朝北方字音でジパングと書き記した。近世ポルトガル人は海路で来航して日本を知ったため、広東字音「ヤポン」が普及した。
 だからと言ってチャイナはインドの領土ではなく、日本も広東の領土ではない。同じ道理で、東方の釣魚嶼を、西方から来た宣教師がチャイナ字音で紹介した。文明伝播の地理的方向性を示すもので、領有とは無縁である。

---------------
關聯リンク:
http://senkaku.blog.jp/archives/37712591.html



日本安全保障戰略研究所 發布「專家觀點快訊」:
http://www.ssri-j.com/SSRC/island/ishi-8-20160421.pdf
http://www.ssri-j.com/Island.html
http://www.ssri-j.com/
複製内容如下:
----------------
日本内閣官房領土室委託民間機構調査釣魚臺史料已三年,今年(平成二十八年,西元2016年)四月十五日,該室公布最近一年的調査結果。對此,2016年4月19日外交部發言人華春瑩所主持例行記者會上發言:
http://www.mfa.gov.cn/web/fyrbt_673021/t1356705.shtml
    「日本費盡心機找出幾份資料進行斷章取義。」
 「斷章取義」應指日本該室所公布第「8」號史料(見連結,pdf档為第1之8),
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/report/senkaku.html
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku02.pdf
此為明治26年(西元1893年)日清間公文。相關公文共為四件一式,藏於外務省外交資料館。

第一、二件,日本漂民由福建官方經上海道員,送還日本駐上海領事館,附交此件。内述福建海防官在審訊漂民過程中,得知「胡馬島」上無人,且接近臺灣。此為清國地方官之間公務文件,並不是正式凾致日本政府,而是送還時附帶的參考性資料。(S1T054。微捲0075-0076。)

第三件,致謝公凾。日本政府通過駐上海領事館寄達福建海防官。内述該民船航行的目的地是「胡馬島」,不幸遭風漂到福建(S1T058。微捲0081)。領事館移錄全文存案。

第四件,清國覆凾,致日本駐上海領事館。照錄日本凾中「航向胡馬島」等原文,並云准此呈報上級並通知各有關官員。句意表示完全順從日本的要求去辦理,不認為該船航向胡馬島屬於侵犯國界行為(S1T060。微捲0083)。領事館移錄全文存案。


 以上四件之中,内閣府專門採錄第四件作為本次調査的成果。胡馬島(koba-shima)與久場島(kuba-shima)同音,沖繩方言不分「U」和「O」。清國當局應不知曉何為胡馬島,然而據供詞,該民船由八重山(即石垣島)啓航,航程中有一座無人島叫胡馬島,離臺灣不遠。依位置,除非彭佳嶼等北方三島,必是釣魚臺列嶼,別無可擬。清國海防官員如認為該海域附近有清國屬島,那麼必然會想到胡馬島就是釣魚臺列嶼之一,並懷疑該船是否有意侵犯清國領土。這不過是假設,實情是釣魚臺自古以來都在明國清國界外,官員不可能懷疑如此。遍尋日清間往返公文,除此外從未論及釣魚臺,唯有此件為獨一無二,極具價値。
 前此數百年間,有多達一百餘種史料顯示釣魚臺為無主地,本件相形遜色,不算最佳。内閣府為什麼專門舉此為根據呢。大約日本政府重視它是一件近代以後法理有效的公文。


 本次民間機構研究成果的全文中,將徴引敝文:
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/research/LCC_Journal04_v2.pdf
長崎純心大學言語文化中心研究紀要第四號,
第六十二頁「尖閣胡馬島日清往復公文詳解竝雜録」。
平成二十七年(西元2015年)三月。

内閣官房領土室


相關報章連結:
http://senkaku.blog.jp/2016041958594788.html
http://senkaku.blog.jp/2016041858586027.html
http://senkaku.blog.jp/2016041958587752.html
http://senkaku.blog.jp/2016041558375888.html

史料原件(第四件):
福州返信自撮合成粗

アジ歴13切




台灣人的族譜 98.4%可疑
http://talk.ltn.com.tw/article/paper/316573
  
自由評論網 2009-07-05 06:00
   ◎ 蕭泰雄

大學時期(一九六○年代),去聽一位國民黨政權的御用歷史學者演講說「鄉下民間村莊奉祀什麼菩薩,就知道該村莊的人從大陸那個地方搬來的」,而一直認為祖先是來自廣東饒平(記載著嘉慶年間來台)。

一九八七年開放中國探親後,因生意關係,在所謂的「祖國」待了八年,退休回台前,特地到廣東饒平去尋根,花三天時間,卻發現,原來所謂的祖籍地是假的,連當地政府官員都坦承台灣許多祖籍地都是假的。

所謂的「祖籍地」,可能是私塾的老師(社師)所賜給的,領取漢文畢業證書,並賜給「祖籍地」,一變而成為漢人,免得被人叫做「番仔」。因此想回唐山尋根時,要先看清楚來台先祖來自何地。族譜地址不對,那你就是平埔族人。如果地址正確,那你就要向私人借用經政府機構認證的族譜,千萬不要找所謂「姓氏族譜」。透過經政府機構認證的族譜,再找源自那一房;若是遷台之祖先大名正確,族譜上均有那一年遷台的記載。

應注意的是,宋代以前不准民間私修族譜,而由官方公布;為了統治或政治目的,其族譜往往不可靠。明代之後,私修族譜才成風氣。據王世慶的《台灣公私收藏族譜目錄》,一二一八件現有族譜及九十三件功德榜之中,蔣介石在一九五一年後編印的有八三五件,佔全數的六十三.七%;乾隆二十三年賜姓以前編印的只有二十二件,佔一.六%。可見台灣人的族譜,至少九十八.四%可疑。

中國沿海住民,大部分均選擇南洋地區移民,主要原因應該是橫渡黑水溝的風險性很高,而往南洋一路順著南下的洋流,可一帆風順到達,並且順著陸地的海岸邊而行,一點風險性都沒有。往台灣的風險性很高,第一關要渡過黑水溝,第二關是台灣的瘴癘。所以在廣東饒平尋根時,看到中國人之族譜時,很多都移民南洋的記載。

虛假的「祖籍地」害得平埔族先民消失在自己的國度裡。還是漢人精於虛構,天天罵你「番仔」,使平埔族先民精神錯亂,而趕緊學習閩南話,才有資格進入漢人虛構的漢人社會。一七七八年(乾隆四十二年),官方明令戶籍登記上,台灣平埔族人不再被記為「土番」或「社番」,而登記為「民」,聚落稱「民社」。甚至到一八八一年(光緒七年),將台灣各縣平埔族皆劃為漢籍。從此平埔族先民們消失了!

(作者為退休人士)



平埔族分布