- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。


  「林鄭月娥懺悔,習近平沒料到」  安德烈
發表時間 05-09-2019 更改時間 05-09-2019  法廣 FRI。

林鄭月娥“私下談話”,近似懺悔錄,多少有點“悔不該……”,明示她給香港造成“不可原諒的”“巨大的破壞”,假如可以選擇,她會辭職。披露後,中國大陸媒體果如預料一概噤聲。這一談話與林鄭周三終於決定撤回修例有無一種因果關係?

林鄭與一些企業界人士談話錄音路透社公布後引起普遍驚訝,法國世界報就以“香港特首林鄭月娥不可思議的懺悔”開題。林鄭懺悔?為了什麼?

林鄭的表述難道只是為了贏得一把“同情淚”?在北京威逼下,她作為一個“高度自治”特區的特首,幾乎無法做出一個單獨的決定,林鄭這樣做是有點想告訴港人她的為難之處。談話被披露後引起輿論驚愕,林鄭便指責這是私下談話不應被公開報道。林鄭應知開放社會公眾人物與社會各界的談話不管採取什麼方式都存在被媒體披露的可能,林鄭代表公權力,更應清楚這些規則。她的解釋被指“虛晃一槍”。

一些分析則認為林鄭的用心其實在於不願意為香港目前的局面背黑鍋。林鄭的“私下談話”,細看內容,指向其實一點都不私下,很明確,林鄭想要說的是:香港走到今天這個地步,她作為特首,很痛心,在這裡,她明確表示,她知道自己的責任,願意為此辭職,但她不能夠。周三,林鄭又表示自己從未向北京提出過辭職之意,這應指的是,在正式的層面上,她還沒有這樣做。

九月四日,林鄭宣布,撤回修訂『逃犯條例』草案,算是對香港示威者五項訴求其中的一項做了回應,但被指做得太少,來得太遲。就為了這麼一個要求,港府一直拒絕,讓香港社會動蕩了這麼久! 林鄭周三宣布這一消息時應預料到香港社會會有這種反應,因此,之前的錄音更像是一種鋪墊,她無法做得更多,雖然來遲了,她至少答應了其中一項訴求,她能做到僅僅就是這些了?

根據一些媒體之前的報道,林鄭早就想向示威者做更大的讓步,比如成立獨立調查委員會,比如徹底撤銷修例而不是暫停,但是北京不允許。那麼,林鄭“私下談話”說自己不可原諒包含兩層意思,一是確實對她主持的港府推行修例後悔,至少對沒料到修例的後果 會發生連自己也下不了台的近乎革命式的局面感到後悔;二是說她不是不知錯不改,而是權限全捏在北京手裡,她已無能為力,只有藉機道歉。

九月四日全面撤銷修例的結果會不會是林鄭“私下談話”“擠牙膏”式推動的結果?也就是說,林鄭用這種特殊表達方式讓北京被迫向後退卻?或者說,這一決定並非像多數分析所指出的,是北京同意做出的決定,而是林鄭自己做出的一項決定?

林鄭私下談話的內容並不完全新鮮,但路透社公布錄音後林鄭並未否認來看,衝擊力不小,而這股衝擊力首先是衝著北京而去的。林鄭的欲說還休讓世人看出,香港的一國兩制已被侵蝕到何等嚴重的程度,連特首也言不由衷。

林鄭接下來的話就更有深意,她說她有兩個主子,一個是北京,一個是港人,讓她左右為難。北京不讓她後退半步,而港人則步步緊逼。核心的原因仍然是一國兩制,林鄭的重心指向在這裡更清楚地直指北京。如果北京落實直選承諾,香港的事情不會鬧到今天這種地步,港人也不會讓她這位特首如此為難。

林鄭還披露了幾點很重要的細節,一是北京不會逼迫香港在十一國慶節前平息“動亂”,二是按照一國兩制,北京不會出兵干預香港。這兩件事其實都是香港輿論乃至國際輿論非常擔憂的。那麼,北京到底怎麼辦?林鄭點出北京的策略其實就是拖、耗。很難想象,林鄭以上談話,事先得到了北京的許可。林鄭為什麼這樣說,有人分析:“假如中共像鎮壓六四那樣出兵香港,她可能會選擇做趙紫陽”,會這樣嗎?值得疑問。

至少林鄭在這裡撂下一句話,中國花了很長的時間才建立起那種國際形象,北京今日已爭得全球第二大經濟體的地位,來之不易,人們說,它還是一個負責任的經濟大國。難道竟以軍事干預既毀掉香港也毀掉中國的前途嗎,林鄭在這裡與其說是在披露北京的立場,不如說是在以香港“父母官”的身份向北京發出勸告。

林鄭談話披露後,從中國官媒噤聲的尷尬表現,顯示出習近平當局完全沒料到,這一沒料到的實質背後其實也是黨國獨裁製度與香港半民主制度的重大區別。

在香港的反對派看來,林鄭無非是北京的傀儡,但是,林鄭能以如此吐露形式“泄露天機”,顯然她仍有某種程度的表達自由,如果她想表達,北京奈何她不得,北京之所以意想不到林鄭會這樣做,是因為北京錯把聽話的香港特首當作“我黨幹部”,或者如中國網民譏諷的“某省省委書記”可以隨意擺布,他們僅僅需要反映北京立場,“遵守紀律”事事“請示彙報”,等到“黨中央批准”後才可對外談話,那想到林鄭就這樣以私下談話形式一股腦兒端給外界了。連林鄭也不是絕對順從,香港還能找到一個順從的人嗎?這就是兩種制度的區別,林鄭被逼急的時候,仍然可以以某種方式說話,而共黨的幹部,即使地位再高,也只能“服從黨的決定”了。由此,習近平似應明白,這就是一國兩制,香港本無事,香港有示威、反對的自由,言論的自由,司法的自由,北京只需按照自己當年承諾的守信,遵守承諾,香港一切都好。

林鄭關於北京不會出兵的說法應該說在某種程度上讓北京不快,北京當局的要害在於一切都不能說透,要在模稜兩可之間,才可保留威嚇的神秘,虛張的壓力,林鄭這麼一“交底”,豈不等於“捅氣球”?這就有了港澳辦周二出面急急聲稱,即便解放軍干預香港也不等於不符合一國兩制。港澳辦這個說法讓人感覺太明顯的打腫臉充班子。

在觀察者眼中,林鄭的吐露手法並不高明,但是北京向香港施壓的手法更其拙劣。透過一個已經在香港極大地失去民意的特首的一番表白,讓世人感受到更多的是北京政權的面目比較猙獰。在兩岸三地頗有影響的作家龍應台二日在臉書更是直言不諱:“大國之所以為大國,不在於導彈、金錢和權力”,她將香港喻為“花園地上的一顆雞蛋”,北京應以包容的氣度、長遠的目光輕輕拾起,捧在手心,萬萬不能摔破。“如果中國把香港當敵人對付,用武力處理,那恐怕不是香港背叛祖國,而是他的祖國背叛香港”。

習近平沒想到,林鄭也有被逼急的時候。也許,習近平真正沒想到的是,年初他搬出幾個諸如“黑天鵝”“灰犀牛”很生硬的比喻警告防範重大風險之後,五四百周年,六四三十周年等重大紀念日都一一平安度過,正準備好迎接建政七十周年大慶,偏偏一個至今對中國起着不可或缺作用的全球金融中心,獨立貿易區,然而已回歸中國二十二年的香港發生了重大事變。
http://trad.cn.rfi.fr/auteur/%E5%AE%89%E5%BE%B7%E7%83%88/
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「自由時報」
林鄭錄音帶「懺悔」 法媒解讀:習近平沒料到
2019-09-05 08:52
〔即時新聞/綜合報導〕香港反送中抗爭3個月,終於迫使香港特首林鄭月娥宣佈撤回送中條例,但港民似不領情,認為太晚了,民陣揚言抗爭持續,不過,這一宣佈的背後,似有多種角力,在法媒觀察中認為,林鄭前一天流出的錄音帶,主要內文雖可能是北京示意,但其中的「懺悔」情節可能是林鄭被逼急後嗆北京,這一點可能是中國國家領導人習近平始料未及。
 《法廣》 解讀,林鄭月娥的錄音檔流出,隔天即宣佈撤回送中條例,當中疑有因果關係,而一如預料,中國媒體一概噤聲,也代表中國官方態度。
 報導引述法國世界報的觀點認為,林鄭錄音檔最特殊的一點是,她的「懺悔」,應該不止是為了搏取同情,而是在對外控訴,她做為一個「高度自治」特區的特首,卻無法單獨做一個決定,她也有撇清讓香港陷入困局責任的意味,控訴受到北京壓力。

據解讀,林鄭「懺悔」內涵,可能是她對港府提送中條例感到後悔、而衍發重大抗爭後想撤回,無奈北京不准,又在事發後想辭,但北京又不准只能吞苦果,也就是,她想撇清所有反送中引發重大抗爭的責任,但由於一切被捏在北京手裡,也只能藉機道歉。另外一層意思是,外界有問題請找北京。

林鄭錄音帶指北京不會出兵香港、不會逼在十一國慶前平息,也就是點出北京對香港策略是以拖待變,暫時將問題留到十一國慶之後再處理,而「洩露天機」很可能讓北京不爽,雖然從香港反對派的看法,林鄭表現就是表明自己是傀儡,但當中的懺悔情節,也疑似被逼急後向北京嗆聲,只是手法上是哭訴而怒吼。

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  安德烈  法廣記者

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 私は嫌韓ではありませんが、常識的には日章旗は誰でも使って良いわけぢゃない筈で、高野聯よりも上の何らかの文部省とかの管轄下で日章旗を使はせてもらってるのですよね。勝手に許可なく「日本代表です」と自稱してるんぢゃありませんね。だとすれば、好き勝手に使ひたいときだけ使って、使ひたくない時に日章旗を取り下げるとかは許されないんぢゃありませんか。少なくとも常識的にはさうなります。文部省から指導を入れるべきですね。
 そして、ここで日章旗を背負ふことこそ絶大な教育的意義でせう。一度公式に日章旗を背負ったら、決まった期間は決まりの通りに日章旗を守りぬく。相手によって變へたりしない。以後も世界各地で戰ったり、野球をやめて後も世界で生きぬく。まさにその入り口の絶好の教育です。
 尖閣諸島も同じです。日本の領土であると明治二十八年に定めた以上、日章旗と同じく守りぬく。できれば、尖閣は何故日本なのか、500年の歴史を教育すべきですし、日章旗は何を象徴してゐるのかも教育すべきです。
 五大文明のユーラシアの最東端に日本がある。だから日章旗です。時差の計算をするとき、日本が一番先に太陽が昇る。倫敦と八時間差ならば、日本が八時間早い。主要國のどこよりも早い。それがユーラシア最東端といふ歴史的意義です。メソポタミア文明が最後に到達した偏隅の悲しい日本、それでも負けなかった日本、さういふ歴史の象徴が日章旗です。

高校野球日章旗

以下報導。
日の丸があしらわれたユニホームは、彼らにとって日本代表の誇りそのもの。
ユニホームだけでなく、移動などで着用するポロシャツにも日の丸があしらわれていたが、日本高校野球連盟は日韓関係の悪化を受けての安全面を考慮し、日の丸のついていないポロシャツを着用することに。「政治とスポーツは別」だが…
 日本高校野球連盟 竹中雅彦事務局長;「こういった情勢なので、日本というのを前面に押し出すのはやめたほうがいいのでは。スポーツと政治は別だと思うが、配慮できるところはした方が。」



昭和天皇、琉球について。
 1951年1月24日には「(沖縄不返還のマッカーサー方針について)そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事でたとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国(にこく)ニなるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」とも述べていた。
(琉球新報)

 徳川時代に琉球を統治してゐた史實にもとづく。明治に琉球を併合したといふのは完全にウソである。昭和天皇がそんなウソに騙される筈がない。そして「同一民族」。つまり琉球民族なる言説もウソであると昭和天皇が斷じてゐる。
 もうあきらめなさい、ウソつき左翼さんたち。

昭和天皇拜謁記琉球新報

 ところが、これについて琉球新報の評論は下の通り(令和元年八月二十八日)。昭和天皇がわざわざ江戸時代と仰せなのに理解できないらしい。

琉球新報20190828

 内地概念についても、
http://senkaku.blog.jp/2018111878201041.html
 琉球新報の言ふやうな明治の「言海」からでなく、古來ずっとです。やらざもりぐすくの碑、西暦1554年に「島尻」あり。そもそも源の爲朝が王となった説そのものが、内地本土概念です。


東洋経済オンライン
 「天才を潰し秀才を重用した日本型組織の末路 
 東條英機はなぜ石原莞爾より優遇されたのか」
 
作家茂木誠氏。駿台予備学校世界史科講師を兼任される。
https://toyokeizai.net/articles/-/296225
 石原は別として、とにかく所謂創業と守成の違ひについて論説。日本だけが守成の臣を重用して負けたといふ。その原因を日本の農耕社會に求めてゐる。試驗秀才の國なのだといふ。普遍的に言はれることだ。私も農耕民狩獵民といふ便利な言ひ方を時々使ふ。
 しかしちょっと、待って欲しい。試驗制度は近代世界共通である。なぜ日本だけが負けたのか。大規模區劃地での穀物生産も、日本では彌生時代から始まる。メソポタミアよりもずっと遲い。何故それが日本の特徴になったのか。
 正解は農耕狩獵ではなく、大陸と島國だらう。英佛海峽ほど近距離ならばローマ人も渡來するが、遠い日本には外からの侵奪が無かった。彌生遺傳子はほぼ母系ばかりであることが近年明らかになってゐる。
 遠距離の島國でもフィリピンや臺灣にはマレー諸民族が大量に渡來して民族爭奪の地となった。日本がさうならなかったわけは何故か。フィリピンや臺灣や他の島々と違って繩文先住民がゐて、文明度もかなり高かったため、やすやすと侵奪されなかった。さう考へるのが素直だ。日本だけの特殊性だ。その繩文領域に琉球も含まれてゐる。變動の少ない島國の社會であるから、創業の英雄よりも守成の忠臣が權力を握り易い。皇室の下で安定した日本の利弊兩面である。
 今後の日本は、繩文以來の古き良きものを守り、外敵を防ぐのが基本である。これは歴史のままであるから變へてはならない。しかし同時に内部で活性化する方法を制度的人工的に作り出すべきだらう。かなりの難題だが、成し遂げねば世界の中で負ける。
石原莞爾2

以下茂木氏原文。
https://toyokeizai.net/articles/-/296225
 「天才を潰し秀才を重用した」日本型組織の末路
東條英機はなぜ石原莞爾より優遇されたのか
2019/08/15 5:20
石原莞爾という「天才」を葬ってしまった帝国陸軍の組織の誤ちを教訓として生かすには?
 満洲事変を計画実行した軍人・石原莞爾と、陸軍大臣から首相に進み、日米開戦を決断した東條英機。天才肌である石原よりも、とくに大きな功績もなかった東條英機が、大日本帝国で優遇された理由とは? 先日、『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』を上梓した作家の茂木誠氏が、歴史をもとに「日本型組織が抱える病理」を明かします。
 太古の昔――森を出た人類は、大型の肉食獣が闊歩する危険なサバンナでの狩猟生活を始めました。五感を研ぎ澄ませて獲物が残したフン、足跡などのかすかな痕跡を追いつつ、茂みの向こうにいるかもしれない外敵の気配を察し、機敏に行動できなければ命の危機にさらされます。
 大きな群れでは移動が困難ですから、つねに数人から数十人単位で移動し、権力や定まった上下関係はなく、個々人が自己責任で行動する社会。このような生活を数十万年続けるうちに、「情報分析能力」「決断力」「行動力」に優れた個体だけが生き残り、人類はついに肉食獣を制して自然界の頂点に立つことになったのです。

農耕社会が作った「タテ社会」
 ところが小麦や米といった穀物生産が始まると、人類の社会は一変しました。川の近くに定住し、数百人から数千人単位で暮らすようになり、統率者のもとで役割分担が定まっていきます。農業生産は毎年やるべきことがほぼ決まっており、そのルーティンを墨守することが求められます。
 共同体内部での分業も進んでいき、上下関係も固定されます。それぞれの職分を守って、ほかの仕事には口を出さないという「タテ社会」が形成されていったのです。
 種まきや収穫をいつ始めるか、という「決断力」を問われるのは、統率者(首長)とその側近たち――彼らは異能者として「神官」とも呼ばれました――であり、共同体に属する大多数の者たちは、下された「決断」に従い、任務を粛々と遂行することだけが求められるようになったのです。
 もし、「首長の決断は間違っている。私には嵐が迫ってくるのがわかる。収穫はもっと早めるべきだ」などという者があれば、「命令に逆らい、秩序を乱す者」として処断されたでしょう。共同体の維持が目的化した社会では、個々人の「決断力」はむしろ有害とみなされるのです。

 ただし農業社会においても、戦争・天災などの非常時においては、慣例を破って大胆な決断をすることが求められます。毎年のように干ばつが繰り返された村が、もっと水のある新天地へ向けて移動を開始する、というような場合です。

 エジプトで、長く隷属民として扱われてきたユダヤ人が、モーセに率いられて「出エジプト」を敢行し、パレスチナに移住して大発展を遂げたのはよい例でしょう。モーセのような情報分析能力、決断力に富む指導者は、その決断を「神のお告げ」として人々に伝えました。

 このため彼らは神に近い存在とされ、ユダヤ社会では「預言者」と呼ばれました。農耕社会では普段抑圧されている狩猟民的な気質を持つ人物が、危機に際しては指導者として躍り出るのです。後漢末期に農民反乱を起こした張角、百年戦争時にフランスを救ったジャンヌ・ダルクも、このようなタイプの人間だったのでしょう。

狩猟民と農耕民の気質の違い
 統合失調症の研究で知られる精神科医の中井久夫さんは、狩猟民的気質を「分裂気質」、農耕民的気質を「執着気質」と位置づけました。臨機応変に高度な判断を要求される政治家や将官、企業経営者、あるいは芸術家などに向いているのは「分裂気質」であり、これとは反対に、決まったこと、与えられた任務を黙々とこなさなければならない官僚、大企業の社員、兵士に向いているのは「執着気質」となります。あくまで、これは役割分担であり、どちらが優れている、という話ではありません。

 直感的にすべてを見通す「天才」と呼ばれる人の多くは、分裂気質です。満洲事変を計画実行した軍人・石原莞爾はこの典型でした。これとは対照的に、コツコツと地道な努力を重ねて成果を上げる執着気質型の努力家は、「秀才」と呼ばれます。
 陸軍大臣から首相に進み、日米開戦を決断した東條英機は、まさに秀才でした。帝国陸軍の内部で東條と石原という2つの強烈な個性が衝突したのは、両者の気質を考えれば当然だったのです。

近代日本の陸海軍の母体になったのは、戊辰戦争で幕府軍と戦った薩摩軍・長州軍です。長州の高杉晋作、薩摩の西郷隆盛、土佐の坂本龍馬……「幕末維新の志士」といわれる人々は、大動乱を生き残るための危機対処能力に優れた分裂気質者が多かったようです。

しかし彼らは、新しい国家秩序の建設には不向きであり、その多くは志半ばでたおれました。明治官僚国家を建設したのは、大久保利通のような執着気質型の「秀才」だったのです。この時代に、高級官僚の養成学校として東京帝国大学が、陸海軍の将官養成学校として陸軍大学校、海軍大学校が創建されました。

とはいえ、「元老」と呼ばれる維新の功労者たちが明治期を通じて政権の中枢を掌握し、陸軍は長州出身者、海軍は薩摩出身者が要職をしめる「藩閥支配」が続きました。

日露戦争で旅順要塞を攻略した陸軍の乃木希典(第三軍司令官)は、萩藩の藩校・明倫館の出身。バルチック艦隊を壊滅させた海軍の東郷平八郎(連合艦隊司令長官)は薩摩武士独特の郷中(ごじゅう)教育――地域単位で青少年が自主的に武芸と読み書きを学ぶ――を受けて海軍士官となりました。彼らの才能はテスト勉強ではなく、まさに実戦の中で培われたものなのです。

なぜ東條英機は首相になれたのか
 このような「たたき上げ」に代わって東大・陸大・海大を出た学歴エリートが、官界や軍の中核を占め始めるのが明治後半からです。とくに戊辰戦争で幕府側についたため「賊軍」とみなされた東北地方の出身者が要職に就くためには、東大・陸大・海大を優秀な成績で卒業することが必須条件でした。

陸大の卒業生は1期につき50人前後。そのうち成績優秀者数名は宮中に呼ばれ、天皇から菊の御紋の入った軍刀を拝受するため、「恩賜軍刀組」と呼ばれました。こうなるとスーパーエリートで、将来は軍司令官のポストは確実、陸軍のトップである参謀総長、陸軍大臣、教育総監になることも夢ではありません。

「賊軍」の盛岡藩士だった東條英機の父・英教は、陸大を首席で卒業しながら長州閥に疎まれて陸軍中将止まりでした。その思いを託された息子・英機も「努力の人」で、2浪してやっと陸大に入学したのが大正元(1912)年。卒業時に恩賜軍刀組には入れなかったことを悔しがります。そのまじめさが先輩からかわいがられて順調に出世を重ね、参謀本部第一課長→満洲を管轄する関東軍参謀長→近衛内閣の陸相を経て、日米開戦の直前に組閣の大命を受けたのです

東條英機は、とくに何か大きな功績があったわけでもなく、与えられた職務をきちんとこなし、出世街道を駆け上っていった結果、たまたま日米開戦時に首相だっただけなのです。

国全体が対米開戦ムードに沸く中、その方向性を変えるだけの決断力も情報分析能力もなかった、というのが東條英機という人物の実像です。実務能力は高く、部下としては有能な「執着気質型の秀才」でしたが、非常時に国家の指導者たるべき人物ではなかったのです。

東條英機と対極をなすのが石原莞爾です。やはり東北の庄内藩(鶴岡)出身で、東條英機より3年遅れて大正7(1918)年に陸大を卒業、こちらは「恩賜軍刀組」です。成績は抜群に優秀なのですが、士官学校時代から教官を罵倒する、授業をサボるなどの問題行動が多く、その一方で神道や日蓮宗に傾倒し、未来予知を行うなど、いわゆる典型的な「分裂気質型の天才」でした。

天才を「殺した」大日本帝国の末路
 昭和恐慌の中、政党政治は腐敗し、経済失政を重ねました。石原莞爾ら、軍の中堅幹部は「昭和維新」を掲げて軍事政権を樹立し、統制経済と満洲の植民地化による景気回復を計画します。関東軍の参謀に配属された石原らが計画、実行したのが満洲事変(1931年)でした。

石原の構想では、満洲事変は「序の口」でした。欧州諸国が没落するなか、アメリカが台頭して西洋の覇者となる。アジアでは日本だけが強国として独立を保っている。20世紀の後半に、太平洋の覇権をめぐって日米は必ず激突する。この戦争は航空機を用いた殲滅戦となり、世界最終戦争となるだろう。これに備えて日本は、これ以上戦線を拡大せず、満洲の開発を進めて力を蓄え、アメリカを圧倒できる国力を持たねばならぬ――。

この遠大な構想を抱いて東京の参謀本部に戻った石原は、盧溝橋事件を口実に中国戦線をむやみに拡大しようとする現場指揮官をたしなめ、近衛首相にも中華民国との和解を進言します。しかし戦略的な平和主義に転じた石原は参謀本部内で孤立し、関東軍参謀副長として満洲に送り返されてしまいます。事実上の左遷でした。何でも自分でやってしまい、根回しを苦手とするのも分裂気質の特徴です。

関東軍参謀長として石原の上司となったのが、不幸なことに東條英機でした。慣例を墨守するだけの東條に対し、石原は「無能」呼ばわりし、激怒した東條は石原を罷免。その後も閑職に追いやられ、日米開戦の直前に予備役にさせられました。引退を強制されたのです。

皮肉なことに、20世紀後半の日米開戦を「予言」した石原ではなく、石原の戦略をまったく理解できなかった東條が首相になりました。この実務家が、「もう決まったことだから」と、時期尚早の日米開戦に踏み切り、20世紀の半ばで大日本帝国を崩壊させました。この結果、300万人の同胞が命を落としたのです。

日米開戦の原因は複合的で、日本だけに非を求めるのは誤りです。しかし、開戦直前のあの決定的な時期に、石原莞爾という「天才」を自ら葬ってしまった帝国陸軍の組織的過誤は、教訓として語り伝えるべきでしょう。この問題は日本型組織の病理として、企業経営者にも大きな教訓となるはずです。
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關聯:

鬱陵島ー竹島ー隱岐ー青谷、彌生時代の航路。

父系は繩文、母系は彌生。最新DNA研究。

鳥取の青谷遺跡の繩文Y染色體の最新研究 

第七章「父系でたどる人類の旅路」(Y染色體)を削除。

皇室親族からも繩文系か否かほぼ確定できる。

律令の禁令。女帝は皇族としか結婚できない。女性宮家は禁を犯す。

小室圭氏に對する一億總苛めをやめて欲しい。 
http://senkaku.blog.jp/2019042779694039.html
別系藤原氏。皇帝輪流做、明年到我家。

皇室史專門家・所功氏が科學を惡用してゐる。


  
福岡筑前町の藥師ノ上遺跡の彌生硯。朝日新聞より。
藥師上遺跡_彌生硯

 魏志倭人傳に曰く、「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。」
 この率=帥といふ職名は特徴的であり、漢文の語である。後の大宰帥と同じ職名であるから、一大率と大宰帥との間には漢字の相承がある。特置官であるから兩者はほぼ同一だらう。卑彌呼の時代に日本では漢字が使はれてゐたと推測できる。出土品の漢字は稻荷山だかの鐵劍が最古だが、實際はそれよりもずっと古い。
 なほ、率と帥とは「そつ」「すゐ」に音が分かれるが、漢以前は同音である。古へに去聲無しといふ著名な字音説に合致する。大宰府で帥を「そち」と呼び續けたのも漢の古音が遺留してゐる。一大率の置かれた伊都國=怡土郡は福岡縣西部、ほぼ大宰府に近い。大宰帥(大宰權帥)として最も著名なのがかの菅原の道眞である。
 そして、今月(令和元年八月)のNHK報導を以下に轉載。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190810/k10012031231000.html
日本列島は紀元前から文字使用か 発掘された石は「すずり」
2019年8月10日 21時00分
 日本列島で文字が使われ始めた時期が大きくさかのぼるかもしれません。弥生時代や古墳時代の遺跡から発掘された石が調査の結果、「すずり」と判断される事例が九州北部を中心に相次ぎ、調査に当たった専門家は、紀元前100年ごろから文字が使われていた可能性があると指摘しています。

調査は、弥生時代や古墳時代の遺跡で過去に発掘された石などを対象に、福岡県内の複数の考古学研究者が進めています。

刃物などを研ぐ「砥石(といし)」と判断されていた石などを詳しく調べ直した結果、これまでにおよそ130点が「すずり」と判断されました。

ほぼ同じ時代の中国や朝鮮半島の遺跡から見つかったすずりと形が似ていることに加え、石のすり減り方が砥石と異なるほか、一部には墨とみられる黒い付着物が付いていたことなどから、「すずり」と判断したということです。

調査に当たっている弥生時代の専門家で、國學院大学の柳田康雄客員教授によりますと、「すずり」と判断した石は、九州北部を中心に西日本の各地に分布し、このうちの5点は弥生時代中期の紀元前100年ごろまでさかのぼるということです。

日本列島では古墳時代中期の5世紀ごろには、確実に文字が使われ始め、それより前は土器に書かれた墨書など、文字の可能性を示す資料が見つかっているものの、普及の実態はよく分かっていません。

柳田さんは九州北部では紀元前からすずりを使って文字を書いていた可能性があるとして、「弥生時代は原始時代ではなく、文字を持った高度な文化や文明があったと言ってもいい」と指摘しています。
なぜ「すずり」と判断?
研究者たちが参考にしたのは、中国の漢の時代に使われていた板状の「すずり」です。

このうち、朝鮮半島で見つかったすずりの復元模型は、漆塗りの豪華な台の上に平たい石が置かれ、この上で水を含ませながら粒状の墨をすりつぶしたと考えられています。

研究者たちは、こうした形状のすずりが北部九州などにもあるのではないかと考え、発掘調査の報告書に「砥石」と記されている平らで細長い形をした石の再調査を進めてきました。

細かい観察や実測を行って、形のほかにも砥石とは異なり、表面の中央部分だけがくぼんでいることや、表面から垂れたと思われる墨のようなものが側面に付着していることなど、すずりと判断できる特徴を見つけてきたということです。
確実な文字の使用は5世紀
日本列島では飛鳥時代以降、官僚機構や法律が整備され、行政に文書が欠かせなくなったことなどから文字の普及が進みました。

文字が確実に使用されていたことを示す資料は、これより前の古墳時代にさかのぼります。

例えば埼玉県の稲荷山古墳で見つかった古墳時代中期、5世紀のものとみられる鉄剣には115文字が刻まれ、この時期には文章として文字が使われていたことが分かります。

それ以前にも外交の際などに文字が使われていたと考えられていますが、出土した資料が文字かどうかを判断することは難しくなります。

三重県で出土した4世紀の土器の「田」と読める墨書や、長野県で出土した3世紀の土器に刻まれた「大」と読める文字資料などがありますが、1文字だけの場合が多く、何が書かれているのか、何のために書かれたのか、明確になっていないのが現状です。

また、福岡市の志賀島で見つかったとされる国宝の金印には、「漢委奴国王」という5つの文字が彫り込まれていますが、西暦57年に中国の「後漢」から与えられたする考えが有力です。

外交や交易に利用か
日本列島でも弥生時代からすずりが普及し、文字が書かれていたとすれば、何のために使われていたのか。

調査を進める1人、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、外交のほか交易に使われていたと想定しています。

久住さんは古墳時代の石の破片6点をすずりと判断した福岡市の「西新町遺跡」に注目しています。

この遺跡は古墳時代には多くの渡来人が訪れ、朝鮮半島や日本列島の各地と行き来する交易の拠点と考えられています。

また、すずりと判断された石が出土した遺跡の多くは海や川に面し、港の機能があったと考えられることから、久住さんはこうした場所では交易のために文字が使われていたと見ています。

久住さんは「長距離を結ぶ交易のネットワークに関わる人たちが、交易の記録や品物の名前や数などを書き留めて記録することに文字を使っていたと考えられる」と話していました。

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 朝日。
https://www.asahi.com/articles/ASKC953V3KC9TLZU001.html
墨が付着した弥生時代のすずりか 福岡の薬師ノ上遺跡

編集委員・中村俊介 2017年11月19日11時53分

 福岡県筑前町の薬師ノ上遺跡で14年前に出土した石製品が、墨が付着した弥生時代のすずりである可能性が高いことがわかった。当時、北部九州の広い範囲で文字文化が普及していたことを示す傍証になる。

 石製品は長さ約15センチ、幅6~5センチ、厚さ数ミリ~1センチ足らず。材質は砂質頁(けつ)岩で二つに割れているが、ほぼ完全な形。表面には炭化物がうっすらと付着し、当時使用された墨とみられる。

 2003年、紀元前から紀元後にかけての弥生時代中~後期の土器だまりで発見された。田和山遺跡(松江市)や三雲・井原(いわら)遺跡(福岡県糸島市)に続く弥生すずりの発見で、墨が残る完全な形での出土は初めて。

 日本列島にいつ文字が導入され、どのくらい定着していたかは考古学上で論争がある。筆記用具であるすずりはそれを解明するための重要な手がかりだ。これまでは、三雲・井原遺跡が所在する「魏志倭人伝」記載の伊都(いと)国領域など海外文化と接触する海岸部での出土だったが、弥生文化に詳しい柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)は「今回、内陸部でもすずりが確認されたことは、当時かなり広い範囲で文字が使われていたことを物語る」と話す。

 詳細は今月下旬に福岡市で開かれる九州考古学会で報告される。

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他にも關聯報導多數あり。
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令和二年五月29日追記。新たに以下の報導が出た。
奈良新聞 Nara News Paper
奈良のニュース/考古学 2020.04.24
石製の硯、150例以上 - 弥生時代から文字文化浸透か/国学院大の柳田客員教授「纏向学」紀要で発表
纏向硯奈良新聞令和2-4-24
https://www.nara-np.co.jp/dbimage/article/35f924ba3e39be7b01755b4b5754f23a.jpg
柳田客員教授が硯の可能性を指摘する纒向遺跡出土の石製品=23日、桜井市芝の市立埋蔵文化財センター
 弥生時代中期中ごろから古墳時代中期までの石製品を調べた結果、硯(すずり)の可能性があるものが全国で150例以上あることが分かったと、柳田康雄国学院大学客員教授(考古学)が発表した。確認事例は西日本各地に分布し、多くが地域の拠点集落で出土していることから、「当時、交易にも文字文化が浸透していたことが推測できる」としている。
 纒向学研究センター(桜井市)の紀要で研究成果を報告した。
 柳田客員教授は、扁平(へんぺい)な板状石材で製作された「方形板石硯」と呼ばれる石製品の確認調査を実施。中国・前漢中期から出現したもので、日本では島根県や福岡県で発見されるなど確認事例が増えている。
 これまで砥石(といし)と考えられてきた石製品も、摩滅による窪みの形状や墨とみられる黒色、赤色の付着物から硯と判断。福岡県を中心に北部九州から近畿・北陸までで150例以上あることを確認した。
 県内では、纒向遺跡(桜井市)で平成26年に出土した石製品(縦約11センチ、幅約7センチ、厚さ約1センチ)をはじめ、唐古・鍵遺跡(田原本町)や布留三島遺跡(天理市)、新堂遺跡(橿原市)出土の計10例を挙げている。
 大半は拠点集落とみられる遺跡から見つかっており、柳田客員教授は「一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆している」と指摘。「国内では弥生時代から、外交文書だけでなく貿易交流にも文字が使われていたことが考えられる」と話している。


https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/kyouikuiinkaijimukyoku/makimuku/kankobutu/kiyo_new.html
纒向学研究センター紀要第8号(2020)を刊行しました!
 桜井市纒向学研究センターでは、「纒向学」に関わる研究・分析の成果を広く学界や社会に発信するために研究紀要を刊行しています。
 新たに、纒向学研究センター紀要『纒向学研究』第8号(2020)を刊行いたしました。
 1部 1000円にて市立埋蔵文化財センターにて頒布しています。詳しくは(公財)桜井市文化財協会(桜井市芝58-2、市立埋蔵文化財センター内、電話 0744-42-6005)まで。 桜井市立埋蔵文化財センター   。  
柳田康雄「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」
古川登「弥生墳丘墓における性差の認識と帰葬について-福井県小羽山墳墓群の事例から-」
三沢朋未「冠帽形埴輪について-纒向遺跡出土冠帽形埴輪を中心に-」
森暢郎「マキムク地名小考」
お問い合わせ先
    桜井市教育委員会事務局 文化財課
    〒633-0074 桜井市大字芝58-2
    電話:0744-42-6005
    FAX:0744-42-1366



"Hong Kong telegraph" microfilm of newspaper,
whole September and October 1885,
(approximately 250 pages).

The British Library lacks September and October 1885,
http://explore.bl.uk/BLVU1:LSCOP-ALL:BLL01013905112
Hongkong Public Library lacks 1884-1887,
https://mmis.hkpl.gov.hk/old-hk-collection

the Library of Congress (Washington DC) holds the newspaper too,
https://lccn.loc.gov/sn94048035
https://lccn.loc.gov/sn89049203
call number: sn94048035

I asked LOC, the reply says:
"collection begins in 1900.  We do not have any issues from 1885."
This is a new infromation.

19411117_Hongkong_Telegraph



宮腰西原領土提言2019


https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080200815
 尖閣領有権を強調へ=「明朝が統治」記載-中国教科書
2019年08月02日14時51分
 【北京時事】2日付の中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報英語版によると、中国で9月から使われる高校の歴史教科書で、中国が領有権を主張する沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)などについて、王朝時代から中国の領土だったと強調する内容が記述される。今年に入り海警局公船が連日のように尖閣周辺で活動しており、習近平指導部は領有権主張をさらに強めそうだ。
 中国は尖閣を「わが国不可分の領土」と位置付けている。新しい教科書には「明朝が尖閣を統治していた」などと中国側の解釈に基づく歴史的経緯が記されるもようだ。教科書編集に関わった専門家によると、「領土保全に関する教育の強化によって正しい歴史認識の形成」を目指すという。



https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072900931
「領土」発信強化を=政府有識者会議が提言、韓国反発も
2019年07月30日07時07分
 政府の「領土・主権をめぐる内外発信に関する有識者懇談会」(座長=西原正平和・安全保障研究所理事長)は29日、宮腰光寛領土問題担当相に提言を手渡した。島根県・竹島、沖縄県・尖閣諸島を挙げ、韓国、中国に対する発信強化を提唱。北方領土についても日本の立場を発信すべきだと訴えた。
 韓国とは輸出管理強化や徴用工問題で関係が悪化。ロシアのメドベージェフ首相は択捉島を訪問する計画が報じられている。こうした中での提言の動きは各国の反発を呼ぶ可能性もある。
 提言は、北方領土と竹島の「不法占拠」がロシアと韓国により継続し、最近もそれぞれの島で軍事演習などが行われたと指摘。尖閣周辺では中国公船が領海侵入を繰り返していることも挙げ、「わが国の領土・主権が侵され、脅かされる状況に変化は見られない」と分析した。
 政府による情報発信の向上、拡大に向けた今後の方策としては、中韓の主張に対し、「分かりやすい反論」などが必要と指摘した。同時に中韓への発信強化を提唱。具体的には、両国の研究者に日本側の主張を示すことで根拠のない主張が行われなくなることが期待されるとした。
 さらに、領有の根拠になる資料の英語発信の強化も促した。
 国内での啓発では、韓国で竹島に関する教育が低学年から始まることを挙げ、日本でも新学習指導要領に基づく竹島教育を一層進めるべきだと訴えた。
 政府の「領土・主権展示館」(東京都千代田区)の在り方にも注文を付けた。北方領土関連の展示がほぼないことから、移転予定の新展示館では「北方領土に関する展示が不可欠」と指摘。資料説明では英ロ中韓などの多言語化も求めた。
 宮腰氏は「関係府省庁や地方自治体、研究機関とも適切に連携し、一体的で戦略的な内外発信に取り組む」と語った。


https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190729-OYT1T50247/
 尖閣・竹島、中韓に「効果的な反論を」…領土相に提言
2019/07/30 07:57
 政府の「領土・主権をめぐる内外発信に関する有識者懇談会」(座長=西原正・平和・安全保障研究所理事長)は29日、領土問題などでの発信強化に関する提言をまとめ、宮腰領土問題相に提出した。日本固有の領土である尖閣諸島(沖縄県)と竹島(島根県)について、中国と韓国の主張に効果的な反論をするよう促した。
 提言では、尖閣諸島は領土問題が存在しないことや、竹島が尖閣諸島に比べて諸外国の関心が低いことを指摘。双方の違いを踏まえ、「効果的な反論を行うべき」だとした。当事国以外の第三国への発信を強めるため、「外国の有識者との連携・協力関係」の構築を求めた。国際的な関心を高める狙いだ。
 資料調査の強化も盛り込んだ。日本政府と、中国や韓国との間で主張が異なる点を分析し、的確な反論をする根拠となる資料収集に重点を置くべきだとした。
 一方、国内向けの発信については、東京・日比谷公園から霞が関に移転する「領土・主権展示館」で、北方領土に関する展示を行うことが不可欠とした。北方領土問題を重視する姿勢を示すためだ。領土・主権に関する関心が相対的に低い20~30歳代への意識啓発も促した。
 宮腰氏は提言を受けた後、「内外発信の強化に努めていくことが喫緊の課題だ」と述べ、政府一体となって取り組む考えを示した。


https://tchina.kyodonews.net/news/2019/07/db10aae83862--.html
日本專家會建議加強領土立場宣傳 反駁中韓主張
 2019年 7月 30日 - 14:56
  【共同社7月30日電】日本政府設置的“圍繞領土和主權內外宣傳的相關專家懇談會”(主席:和平與安全保障研究所理事長西原正)29日向領土問題擔當相宮腰光寬提交了有關加強日方立場宣傳的建議書,提出為了向國際社會廣泛宣傳與韓國和中國對立的竹島(韓國稱獨島)和尖閣諸島(中國稱釣魚島)相關的日方立場,應該有效反駁中韓的主張。
  關於專門展示竹島與尖閣的“領土主權展示館”,建議書提出配合該館從東京日比谷公園遷至虎之門,要新設關於北方四島領土問題的展示,還表示關切稱“如果不展示,會被誤認為不重視該問題,恐怕會發出錯誤訊息”。
  關於竹島和尖閣的對外宣傳,建議書指出“不單單是表明日方的主張,還需要對中韓的主張進行通俗易懂的反駁,並從更廣闊的視角闡明主張”。
  建議書介紹稱尖閣問題在國際上頗受關注,而竹島被認為是日韓兩國間的問題,關注度較低。建議書指出“應該開展戰略性的信息發佈”,並敦促加強對中韓研究人員的宣傳工作。
  建議書稱,根據新的學習指導要領,日本的小學和初中將擴充領土教育,以此為由呼籲完善教師培訓和教材提供。(完)