- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 


奥原先生06
       ▲奧原敏雄先生遺影 平成二十四年八月


巨星隕(お)つ 尖閣史研究の開祖
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2016010700697
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2016010802000185.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A7%E5%8E%9F%E6%95%8F%E9%9B%84
 奧原敏雄。おくはら、としを。日本熊本縣人、國士舘大學名譽教授、國際法。平成二十四年より島嶼資料センター資料調査委員會委員。昭和七年大連生まれ、平成二十七年12月30日歿。享年八十三歳。尖閣諸島(古名釣魚嶼)の研究に力を盡くし、日本尖閣史學の開祖とされる。
 昭和四十年代後半、京都大學教授井上清との間で戰はされた奧原井上論爭は、後の尖閣史論爭の原型となった。
 井上は赤尾嶼(久米赤島、大正島)まで歴史上のチャイナ領土だったとしたが、奧原は清國官製の臺灣(たいわん)地誌に清國臺灣府の北限が鷄籠(基隆)までと記載されてゐることを以て井上の主張を否定した。
 また琉球册封使最古の記録である陳侃『使琉球録』に、琉球國王からの派遣人員が水先案内をつとめたと記載されてゐることに奧原が最も早く論及し、明國側が尖閣諸島の發見者であることを否定した。

[時事通信] 奥原 敏雄氏(おくはら・としお=国士舘大名誉教授・国際法)2015年12月30日午後1時23分、前立腺がんのため千葉県柏市の病院で死去、83歳。熊本県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻美津子(みつこ)さん。(2016/01/07-17:16)
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 本日、島嶼資料センターの高井晉先生より、奧原敏雄氏訃報をお知らせ頂いた。
 故奧原氏が尖閣を研究し始めた當初の經過については、「島嶼研究ジャーナル」創刊號に、「尖閣列島研究の背景と原點・對談」と題して掲載されてゐる。話し手奧原敏雄・聞き手高井晉。
http://www.naigai-group.co.jp/_2012/07/post-11.html
 奧原氏がどういふわけで昭和四十五年といふ早い時期に尖閣を研究し始めたのか、私は訪問して取材したいと思ってゐたのだが、平成二十四年の八月にそれが實現し、お宅にお邪魔した處、直前の七月に上記對談が出たばかりであったので、座右から一册頂戴した。
 これより先、平成二十四年三月、私は『和訓淺解・尖閣釣魚列島漢文史料』を
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB09937668
刊行した。收録史料の内、特に西暦1683年の汪楫『觀海集』に「東沙山(馬祖列島)を過ぐれば、是れ閩山(福建省)の盡くる處なり」
http://heiwagaikou-kenkyusho.jp/opinion/565
との重大な一語があり、報導に出したいと思ってゐた。臺灣海峽内でチャイナ領土が終り、尖閣はチャイナの外だと示してゐる。
 さらに六月頃、西暦千五百六十一年の郭汝霖『石泉山房文集』に、赤尾嶼(久米赤島、大正島)で「琉球境に渉る」と書かれてゐるのを見つけて、二史料を併せて報じて頂きたいと産經新聞に持ちかけた。その際に僭越ながら奧原先生のコメントを頂きたいと思ひ、國士館大學に問合せた處、快く奧原先生のご聯絡先を教へて頂いた。失禮ながら昭和四十年代に活躍された大先生がなほご健在だとは思はなかったのだが、問合せてみるものだ。
 早速奧原先生にご聯絡した處、是非とも漢文畑から尖閣を研究すると良い、島嶼資料センターが丁度發足したばかりだから、次の年度あたりから參加できるやう取り計らってあげよう、との有り難いお言葉を頂いた。
 産經の記者も奧原先生にご聯絡し、コメントを頂いたとのことであった。結局紙面の都合でコメントは掲載されなかったものの、久しからずして平成二十四年七月十七日産經第一面に兩史料が掲載された。
http://senkaku.blog.jp/archives/35885963.html
奧原先生のお力で實現したと言ってよいだらう。その後の八月に上記の通り先生のお宅を訪問したわけである。
 翌年度より私は島嶼資料センターにて資料調査委員を仰せ着かることとなった。委員會には錚々たる顔ぶれがならぶ。今思へば若輩者をよく受け容れて下さったものだ。そして島嶼研究ジャーナルへの投稿を始めとして、樣々に活動の機會を與へて頂くこととなった。奧原先生のお力無くしては、この三年間あまりの私の活動は實現しなかった。といふより、そもそも奧原先生無かりせば、尖閣研究の興起はかなり遲れただらう。
 私に對してだけでなく、奧原先生は常に學閥などにとらはれぬお人柄だと聞くし、ご自分もそのつもりだとお話されてゐた。當初誰も研究してゐなかった尖閣を研究し始めたのは、まさしく正義の人である。正義の人に世間は冷たい場合があり、東大教授や大きな學會長などをつとめられなかったのは、世間の側の鈍さゆゑであらう。
 奧原先生は今から三十年あまり前の昭和五十六年に、オックスフォード大學から尖閣史料『順風相送』のマイクロフィルムを取り寄せてゐた。現在島嶼資料センターに藏せられてゐる。私は奧原先生及び尾崎重義先生のご意見を頂戴しつつ、センターにてフィルムを見せて頂き、原本の上下卷が全く別物であることを發見した。
http://www.ssri-j.com/senkakus-j-index.html
奧原先生、尾崎先生、高井先生のご助力に負ふ所が大きい。これについては既に幾つか論文などを書いたが、中々世間にはひろまってゐないので、大手報導に出したいものだ。
 謹んで奧原敏雄先生に感謝申し上げるとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。

奧原敏雄履歴奥原島嶼研究ジャーナル



奥原先生04



平成二十六年十一月二十九日、非公開の會議に出席し、尖閣古史の研究發表をました。非公開ながらそろそろ時間が經ったので完全守秘でもないやうです。
http://ocean.china.com.cn/2015-01/29/content_34685847_3.htm

http://www.oceanol.com/zhuanti/zhuanti2014ndhyrw/ztlm1311/2015-02-04/40532.html

  2013年11月19日,中國社會科學院日本研究所與日本東京財團在中國社科學院日本研究所共同舉辦了首屆中日“東海問題”國際論壇。呂耀東做了“東海成為和平之海的雙邊互動”的主旨發言。來自中國國家海洋局海洋發展戰略研究所、中國國際戰略研究基金會、日本東京財團、同志社大學、長崎純心大學等研究機構和高校的四十余名專家學者出席了論壇。此次論壇增進了兩國學者之間的交流,為雙方進一步討論打下了基礎。2014年5月29日,參加在東京舉辦了第二屆“東海問題”論壇。
  2014年11月29-30日,在浙江省舟山海洋學院,參加了中日第二屆“東海問題”國際論壇的國際學術交流。呂耀東就“東海海上救援機制:中日非傳統海洋安全合作初探”進行了發言。

このリンクのやうに書いてありますが、舟山は第二でなく第三囘でした。また舟山海洋學院でなく舟山の浙江海洋學院です。私の發表内容は、平成二十九年三月の長崎純心大學大學院『人間文化研究』十五號にて公表する見込みです。研究會全體の概要は、平成二十九年中の東京財團から公表されるでう。概要に記録されないやうな面白いこぼれ話は、個人的にお訊ね下さればお話します。
 

浙江海洋學院


http://senkaku.blog.jp/archives/10392060.html



「The Times Atlas」 西暦千八百九十五年。明治二十八年。ラムゼー圖庫。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/view/search?q=pub_list_no=%221010.000%22
この地圖册中、「アジア」の一幅(いっぷく)と、「支那日本」の一幅とを對比すると面白い。アンドレー氏(Richard Andree)製圖。日清戰爭の年である。下關條約はこの年の四月十七日に締結された。

第七十三至七十四頁のアジアの一幅は、日清下關條約の前の國境線にもとづき、尖閣の西側、臺灣島の東側に線を引いてゐる。日本は桃色、チャイナ清國は橙色だ。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~30722~1150650
1895尖閣Times Atlas_Asia_Rumsey1010048


一方、第八十五頁の支那日本の一幅は、日清下關條約後の國境線にもとづき、琉球・尖閣・臺灣島まで全て日本の橙色に塗られて、チャイナの桃色と分けてゐる。尖閣の西側の國境線は必要無くなった。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~30728~1150658
1895尖閣Times Atlas_ChinaJapan_Rumsey1010056

 日清下關條約の前と後との情報が同册共存してゐる。尖閣海域の最新情報にまで留意しつつ製圖されたことが分かる。アジア圖は四月十七日まで、支那日本圖は四月十七日以後を反映してゐるといふことにならう。尖閣が日本の領土として編入されたのはこの年の一月十四日だから、アジア圖は一月から四月までの状態だとすれば面白い。しかしそれより百年も前から歐洲では尖閣が琉球領として認識されてゐたので、特に一月の編入情報にもとづくわけでもなからう。

 西暦1895年の「The Times Atlas」は、他處にも藏本が幾つか有る。
https://www.worldcat.org/oclc/904539110
https://www.worldcat.org/oclc/77082936
https://www.oldworldauctions.com/archives/detail/109-789.htm


こちら「泉州東南網」でもThe Times Atlasと題して尖閣の西側に線を引く地圖が出てゐるが、
http://qz.fjsen.com/2014-04/26/content_13965511_15.htm
http://qz.fjsen.com/images/attachement/jpg/site2/20140426/00216a32038014c56f6a2f.jpg
シュティーラー圖と取り違へてゐる。
1895The_Times_Atlas_誤2_qz-fjsen-com


以上の内容は拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第364頁(及び彩色圖5・6)から摘録しました。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986

關聯:アンドレーの別の圖。
http://senkaku.blog.jp/archives/35481103.html


200年前德國製圖大師施蒂勒的地圖:釣魚臺歸劃在琉球框線內
2015/10/03 10:00:00 發表於 | 國際
讀者投書
文:いしゐのぞむ(長崎純心大學副教授)
http://www.thenewslens.com/post/222650/

今年3月,日本外務省網頁正式上傳西元1969年中華人民共和國所繪尖閣群島地圖,作日本主權補證之一。中國外交部發言人洪磊隨即揚言:「可以找出一百張、甚至一千張明確標注釣魚島屬於中國的地圖。」

我研究釣魚台史已四年,知道千百張都會是什麼樣的圖。等了半年,中國方面遲遲沒有聲音,這裏先拿出兩張來給諸位看吧。

圖1_澳洲藏1887Stanford_China
圖1:西元1887年, China,收於Stanford's London atlas of Universal Geography(倫敦史丹福氏世界地理圖冊)。澳洲國家圖書館藏,收藏號MAP Ra 186. Part 67。


圖2_stieler1868切東大藏
圖2:西元1868年,China Korea und Japan,收於Stielers Hand Atlas(施蒂勒世界圖冊),今錄自いしゐのぞむ著《尖閣反駁マニュアル百題》,原版藏東京大學。

這兩張圖在釣魚台西側各劃一條界線,清楚顯示釣魚台屬於琉球。圖2是施蒂勒(Stieler)1868年的地圖,是首版,其後每兩三年就重刊一次,重刊版本是較多人所知,首版則較少流傳,而關於首版所繪界線是我首度提出,今年6月《產經新聞》也曾予以報導。

1868年適逢明治維新,日本人直到1895年才把釣魚台編入國土,歐洲人早在明治維新時就先劃歸,至於為什麼,須上溯歷史、看年表:

    1750年之前,釣魚台和宮古石垣群島無法分辨,統稱Reyes Magos。
    1751年,法國宋君榮神父(Gaubil)從北京寄《琉球錄》往巴黎。此後歐洲人明確認識釣魚台,寫作「Tiao-yu-su」(釣魚嶼)。
    1787年,法國航海家拉彼魯茲(La Pérouse)到達釣魚台,認為屬於琉球。
    1797年,拉彼魯茲游記印行,有附錄地圖。
    1800年,德國施蒂勒繪製中國地圖,採用拉彼魯茲訊息。無琉球專欄。
    1804年,施蒂勒繪製中國地圖,始設琉球專欄,將釣魚台與琉球同色。
    1868年,明治維新,施蒂勒世界圖冊首次在釣魚台西側劃一條界線。
    1887年,英國史丹福氏(Stanford)所製地圖在釣魚台西側劃一條界線。
    1895年 日本政府將釣魚台編入國土。

年表中的1787年,法國航海家拉彼魯茲遠航東亞,留下一本著名的游記《Voyage de La Pérouse》(拉彼魯茲航海錄)。當時,他從台灣島南端沿東岸向北航行,進入琉球海域時寫下一句:「福爾摩沙之東所有島嶼的首府是大琉球。」

數日後到達釣魚台,測繪島形,為目前所知的歐洲人首例,然後向北離開,寫下另一句:「現在離開琉球群島。」

兩句話千鈞之重,是將釣魚台明確歸入琉球國管轄之中,惜未廣泛引起釣魚台專家注意。此為拉彼魯茲總結了前此兩百年歐洲人在中國東海航行的經驗,加上目睹之談,才得有此。

拉彼魯茲為什麼會這麼認為,雖然是個謎,但在鄙著《尖閣反駁マニュアル百題》之中已作探討,今摘要如下:

    西元16世紀以前,台灣島(小琉球)和琉球國(大琉球)之間的區分尚不明朗,往往統稱琉球。西元1626年西班牙人開闢台灣島東岸航線,由呂宋經台灣島東岸、與那國島、釣魚台,飛渡東海,到達長崎,途中不經過明國領土。

    進入清國以後,清國方志及歐洲人地誌、地圖多數正確記載台灣島內清國領土東至大山(中央山脈)為止。西元1751年宋君榮神父的《琉球志》傳到歐洲,其後刊行的地圖往往把台灣島東岸及琉球國塗成一色,可能代表了一種誤解:除清國台灣府外,都是古琉球之地,屬於琉球國,包括台灣島東岸在內。西元1787年拉彼魯茲也經過台灣島東岸,到達琉球國海域,可能承襲了這種誤解。雖是誤解,但代表了一個歷史的原因:台灣島東岸航線的西側是無主地,東側是琉球國,清國不參與其間。在此時空環境下,很容易誤認台灣島東岸以東全是琉球國領土。

以下本稿將要專談拉彼魯茲以後產生的迴響。

西元1804年,德國製圖大師施蒂勒(Stieler)的地圖(圖3),是將釣魚臺劃歸琉球框線中,是東亞地圖中的創例,在此之前,從來沒有人發現。

Stieler1804Ryukyu自藏更粗
圖3:1804,H.F.A. Stieler(施蒂勒),Charte von China,いしゐのぞむ藏。

看了此圖,讀者或許會質疑,是否是因框線為方形,無法將釣魚台排除在外嗎?很遺憾,決不是。

全文見關鍵評論網
http://www.thenewslens.com/post/222650/





Tindal_and_Swart
  ▲TindalとSwartの他の著書より。


『Verhandelingen en Berigten Betrekkelijk het Zeewegen, Zeevaartkunde, de Hydrographie, de Koloniën』
(海事、航海術、水路、殖民地志)
第 6 巻 1846年。オランダ語。
TindalとSwart共著。
https://books.google.co.jp/books?id=-cEZAQAAIAAJ
第8頁に太平山(宮古島)。
第10頁にFromosa-bank(臺灣暗沙), Lamey島(臺灣島西南)、タバコ島(臺灣島東南)。
第11頁にHarp島(臺灣島東岸)、Komi島(與那國)、Tia-yu-su、Hoapinsin。

1846Tia-yu-su_Verhandelingen_Berigten_Zeewegen


ほぼラペルーズの航路をなぞるに過ぎない。チャイナ外だと明記してあるわけではない。特に領土關聯の根據とはならないが、與那國島と連續記載なので、誌して備忘としよう。




西暦千八百二十一年、オランダの地理辭典でも、尖閣が臺灣附屬島嶼でないことを書いてゐる。

Gerbrand_Bruining
   ▲Gerbrand Bruining


『Algemeen aardrijkskundig woordenboek: naar de nieuwste berigten en land-verdeelingen』
(通用地理辭典。最新報告と地誌)
Gerbrand Bruining(ヘルブラント・ブルイニング)著。
アルボン氏とクラップ氏(Arbon en Krap)刊。
第一册(A至C)の表紙に羅馬數字で千八百二十一年と注記。
https://books.google.co.jp/books?id=syFaAAAAQAAJ


Hoapinsu_1821Algemeen aardrijkskundig woordenboek
 第一部第二册(D至J)に年度注記は無いが、同じ年度刊行と思はれる。その第七百七頁曰く、
「Hoapinsu, eil. in de Chineesche zee; 25°50' N. Br. 117°47' O. L.」
(Hoapinsu, eiland in de Chineesche zee; 25°50' Noorden Breedte. 117°47' Oosten Lengte)
(Hoapinsu。支那海の島。北緯二十五度五十分。東經百十七度四十七分)
と。今の魚釣島に相當する。經度はアムステルダムを基準としてをり、グリニッジ(第六百五十四頁)を西經四度五十三分と記載する。アムステルダムは現在の東經四度五十三分に位置するので、それを足せば百二十二度四十分となる。魚釣島の東經は百二十三度二十八分なのでかなりずれる。魚釣島と臺灣最東端の棉花嶼との中間ほどである。
 別の地點に檢すれば、海峽で著名なドーバーは北緯五十一度八分、西經三度三十四分と記載される。西經に四度五十三分を足せば東經一度十九分となり、現代の値とほぼ一致する。
 キューバの首都ハバナは第六百八十三頁に西經八十七度九分と記載されるが、四度五十三分を差し引けば八十二度十六分となる。現在のハバナの西經は八十二度二十三分なので、少しずれる。この時代まで經度は不精確だったので仕方ない。
https://books.google.co.jp/books?id=h4xaAAAAQAAJ


第二部第一册(K至Q)。同じく西暦千八百二十一年版。
第426頁「Pong-hou」條で「澎湖はチャイナ」
https://books.google.co.jp/books?id=6YtZAAAAQAAJ
Ponghou_1821Algemeen aardrijkskundig woordenboek
原文に曰く、
「PONG-HOU(Piscadores) Chin. eilandjes, 6 uur W. van Formosa, tusschen 23°10' en 23°40' met eene Chin. bezetting, maar voorts onbewoond」
(PONG-HOU,Piscadores, Chinesche eilandjes, 6 uur Westem van Formosa, tusschen 23°10' en 23°40' met eene China bezetting, maar voorts onbewoond)
(澎湖、別名ピスカドーレ。支那の島々、臺灣島から西に六時間。一つは支那に占領され、他は無人である。)
と。
 澎湖はチャイナだが尖閣はチャイナではないと認識したことが分かる。しかも澎湖諸島中の無人島もチャイナの島だといふことになる。bewoondは居住、onは否定の接頭辭である。「尖閣が無人だから非チャイナと記載されたに過ぎない」といふ言ひ譯が否定されてゐる。
 「尖閣は澎湖の離島とともに臺灣附屬島嶼だ」といふ虚構説に對する一反駁を、西暦千八百二十一年の辭典が先にしてくれてゐたわけだ。勿論この辭典が何かの基準になるわけではない。たださういふ認識の歴史の一齣といふだけだ。

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以下關聯情報。
 同じ第二部第一册(K至Q)の第百六十一頁「Madjicosemah」(宮古八重山諸島)で尖閣には言及されない。經緯度も無い。西暦千八百二十二年版の第161頁、第426頁も同じである。
https://books.google.co.jp/books?id=YExQAAAAcAAJ


西暦千八百二十一年版第二部第二册709頁TIAにTiaoyusuを收めず。
https://books.google.co.jp/books?id=qZlZAAAAQAAJ


ヘルブラント・ブルイニング(Gerbrand Bruining)といふ人物については良く分からないが、新教牧師にして軍略家であり、辭典編纂にも從事したらしい。



以上の内容は八重山日報に寄稿する見込みです。

記録:
https://web.archive.org/web/20160102054338/http://senkaku.blog.jp/archives/47882053.html
https://archive.is/vkagc




28賀ブログ
詠史祝泰平
三喜琉球針手陪

  (陳侃使琉球録、奧原敏雄始及)
六宣南北閩山排
  (萬暦丁巳八月實録、我内閣文庫藏寫本、見讀賣新聞)
黄麻赤嶼絶停泊
  (歴代寶案尚貞王奏疏、天下雜誌獨立評論鄙説)
獨釣鷄籠山北臺
  (日本一鑑萬里長歌、尾崎重義新釋)  

和訓
史を詠じて泰平を祝す
三喜す琉球針手の陪するを
 (陳侃使琉球録、奧原敏雄始めて及ぶ)
六宣す南北閩山の排するを
(萬暦丁巳八月實録、我が内閣文庫藏寫本、讀賣新聞に見ゆ)
黄麻赤嶼、停泊を絶つ
(歴代寶案の尚貞王奏疏、天下雜誌獨立評論の鄙説)
獨り釣る鷄籠山北の臺に
(日本一鑑萬里長歌、尾崎重義の新釋)  

釋語
三喜:釣魚嶼最古の記録で、琉球人が航路を
   案内した故事。陳侃の使琉球録に見える。
http://senkaku.blog.jp/archives/1453569.html

六宣:海防長官が福建の北端から南端まで
   國境線とする島を六つ數へあげた故事。
   皇明實録に見える。
http://senkaku.blog.jp/archives/1453607.html
http://senkaku.blog.jp/archives/36437239.html

停泊を絶つ:琉球王が尖閣航路に册封使の
   停泊處無しと上奏した故事。
http://senkaku.blog.jp/archives/40210717.html

鷄籠山北:嘉靖の日本一鑑以後歴代史料で
   釣魚臺が臺灣島の正北方に位置すると
   誤解された故事。
http://senkaku.blog.jp/archives/40362971.html
http://www.shukousha.com/information/news/3172/
https://www.spf.org/islandstudies/jp/journal/00006/

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平成甲午
http://senkaku.blog.jp/archives/2115134.html
平成乙未
http://senkaku.blog.jp/archives/19736014.html





「Connaissance des Temps」(天候須知)、フランス經度局刊。歴世刊行された年鑑である。
https://en.wikipedia.org/wiki/Connaissance_des_Temps
經度局は革命後の國民公會(Convention nationale)によって設立されたので、官製といふことになる。
 その舊版には標題に「ou des mouvements célestes」(天體運行)と書かれてゐるので、『星候須知』として本ブログで紹介した。
http://senkaku.blog.jp/archives/45813928.html
書中に尖閣(Hoapinsu)が出現し、チャイナ外の太平洋の島とされてゐることも既に論じた。
 年鑑であるから、歴年の版が出てゐる。その中でHoapinsu(花瓶嶼、和平嶼、尖閣)とHoai-ngan(淮安)との排列對比が興味深い。
 西暦千八百七年版より以前では、太平洋の島々で一段落、アジアの島々で又一段落と分かれてゐたので、アジアの淮安と太平洋の尖閣とは別の頁に載ってをり、尖閣がチャイナと無縁であることを示してゐた。
 しかし千八百七年の版では樣式が變更され、世界各地が一律にローマ字で排列されるやうになった。その結果、第百八十九頁にHoai-ngan(淮安)とHoapinsu(尖閣)とを同時に見ることができる。右の欄では淮安に支那(Chine)、尖閣に太平洋(Grand Ocean)と注記され、尖閣がチャイナに屬しないことが一目で分かる。但しHoapinsuを誤ってHoodの下に配置したため、兩者がやや離れてゐる。
https://books.google.co.jp/books?id=M8Mi6hU5tR0C
1807Connaissance_des_temps_Hoapinsu

 西暦千八百二十年版になると、配置の誤りが正され、第百八十五頁の同一欄にHoai-nganとHoapinsuとが連續掲載された。右の欄では同じくHoai-nganに支那(Chine)、Hoapinsuに太平洋(Grand Ocean)と注記され、尖閣がチャイナに屬しないことが更に一目瞭然となった。
https://books.google.co.jp/books?id=mWlYAAAAYAAJ
1820Connaissance_des_temps_Hoapinsu

この同じ記述式は西暦千八百三十五年の版(第三百三十五頁)まで續く。
https://books.google.co.jp/books?id=88MUAQAAMAAJ
それ以後の版は「Chine」「Ocean」の欄が無くなり、代りに引用元の探査記録者名の欄が設けられた。クルーゼンシュテルンやブロートンなどの名である。學術性が加はったのは向上であるが、編纂者自身の地理認識が見られなくなったのは史料として寂しい。史料といふのは客觀的になればなる程、その時代の人間の痕跡が消えてゆくものだ。
 なほ、歴代いづれも「Tiaoyusu」(釣魚嶼)を掲載しないのも殘念な處だ。また原書のHoai-a-gnanは誤りで、Hoai-nganが淮安の正しい標音だ。或いは淮安港(Hoai-an-gan)かも知れないが可能性は低い。



以上の内容は八重山日報に寄稿する見込。

記録:
https://web.archive.org/web/20151231011743/http://senkaku.blog.jp/2015123051481766.html
https://archive.is/nLtwx




 一昨日、慰安婦問題で日韓は「相互に非難し合はない」と合意した。日本政府はこれまで全然韓國を非難してゐないから、これまで通りにしてゐれば良い。一方の韓國政府は言説を愼しまねばならなくなる。これまでのやり方が通じなくなる。日本は完勝ではないが、六分四分で勝った。韓國には六分四分で良いのだ。韓國そのものに遠慮する必要は無いが、アメリカがそれを求めてゐるのだから仕方ない。それよりも尖閣古史こそ百對ゼロで勝たねばならない。
 臺灣など各國も同等の措置を求めるだらうと報導されてゐる。同等ならば日本を非難することをやめると各國が確約するのである。中々惡くないではないか。日本の多くの愛國派の人々は、對韓で百對ゼロを求めながら、尖閣では六分四分の勝ちに滿足する。全く間違ってゐる。逆だ。
 合意が文書化されなかったと言ふが、文書化しても遵守するやうな國ではない。それよりも米國の監視附きこそ有効だ。勿論、將來に於いて米國の覇權が弱まれば効力も弱まる。しかしその時には文書もほとんど役立たないだらう。
 日米など自由民主平和の陣營は、國力を高めて行くことこそ必要だ。國力無くしてはどんな横暴にも勝てないのだ。國力を高めるには政府もしっかりせねばいけないが、國民各自が己れの水準を高めることも必要だ。國を愛する若者は、自分のこれと決めた分野で自分を高めること。これこそが當り前に勝利の條件だ。ぼんやりと日々を過ごす學生らを見てゐると、危機感を募らせざるを得ない。


リンク:
日韓慰安婦合意 インターネットで安倍首相支持不支持の諍ひ
http://senkaku.blog.jp/2015122951417911.html
日韓慰安婦合意 安倍外交を支持する。 それよりも尖閣古史の正義貫徹を要求せよ
http://senkaku.blog.jp/2015122951394085.html
今日の日韓ショックよりも APEC尖閣合意の衝撃こそ大きかった
http://senkaku.blog.jp/2015122851324432.html
有權者は政權支持か否かの擇一をやめよ 尖閣抛棄か否か監視せよ
http://senkaku.blog.jp/2015122851340881.html
慰安婦の件で怒る人々 尖閣古史の嘘に怒らず 安倍政權に防衞意志無し
http://senkaku.blog.jp/2015122951378084.html
渡邊哲也氏、日韓合意を支持
https://www.youtube.com/watch?v=j2gw6KKferI


  ▼頼山陽十三歳の詩
頼山陽十三歳
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/tokiwa/ginei/jykki.html