- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 


「尖閣は琉球の一部」明記 19世紀初頭ドイツ地図
http://www.sankei.com/region/news/151116/rgn1511160037-n1.html
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/151116/lif15111611150005-n1.html
産経新聞 11月16日(月)7時55分配信

産經九州271116
1804年に出版されたドイツ製地図。尖閣諸島(中央やや上のだ円で囲んだ部分)が琉球と同じ色で塗られている(写真:産経新聞)

 ■長崎純心大・石井准教授が確認

 尖閣諸島(沖縄県石垣市)を琉球領に含めた1804年作製のドイツ製地図が現存していることを、長崎純心大の石井望准教授(尖閣史)が確認した。明治政府が尖閣諸島領有を閣議決定する90年前の地図であり、石井氏は「領有前から西洋諸国は尖閣を琉球領と認識していた。無主地の尖閣が徐々に日本の勢力下に置かれていく過程を表す」と語った。(九州総局 奥原慎平)

 確認された地図はドイツの地図製作の大家、アドルフ・シュティーラー(1775~1836)が作成した。地図では尖閣諸島と琉球が黄色に塗られており、無色の台湾との間は、線で仕切られていた。

 石井氏は今年7月、ドイツの古美術品店やミュンスター大の所蔵資料で確認した。

 地図作製にあたってシュティーラーは、18世紀に琉球周辺を航海した唯一の西洋人であるフランス人のラペルーズ(1741~88)の航海日誌を参考にしたとみられる。ラペルーズは1780年代に尖閣諸島南部の与那国島(現沖縄県)海域を運航し、航海日誌に「台湾(の)東の島々の首府は琉球」と記した。

 明治政府は1885年から10年かけて、尖閣諸島に清国を含むどの国の支配も及んでいないことを確認した上で、日清戦争中の1895年1月、沖縄県への編入を閣議決定した。

 一方、中国側は尖閣諸島は清国が領有する台湾の付属島として、日清戦争の講和条約「下関条約」(1895年4月17日締結)によって、台湾とともに日本に割譲されたという論法で、領有権を主張する。

 だが、今回の地図や、シュティーラーが創業した地図出版会社が1868年に発行した「ハンド・アトラス」でも、尖閣諸島は台湾ではなく、琉球領と記されていた。

 石井氏は「今回の地図で分かるように、日本編入以前から西洋は尖閣諸島を日本領と認めていた。地図は編入に向かって進む歴史の流れを示す一つのピースだ。当時の地図は手塗りで、塗り替えも可能だ。中国の改変を防ぐには、早急にドイツで資料を収集すべきだ」と訴える。

 自民党国際情報検討委員会委員長の衆院議員、原田義昭氏(福岡5区)も産経新聞の取材に「(尖閣諸島に関する)古資料のほぼ全てが中国政府の主張を否定している。中国が仕掛ける領土問題に対して、米国など第三国にて学術的に論破する場を設けたい」と述べた。

https://archive.is/KAUkZ
https://archive.is/ZcauH
https://archive.is/YAIlZ
https://archive.is/Xt42z
https://archive.is/NuFNC
https://archive.is/8EC5Q
https://web.archive.org/web/20151116025500/http://www.sankei.com/region/photos/151116/rgn1511160037-p1.html
https://web.archive.org/web/20151116025719/http://www.sankei.com/region/news/151116/rgn1511160037-n1.html
https://web.archive.org/web/20160102211434/http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/151116/lif15111611150005-n1.html
https://web.archive.org/web/20160102211725/http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/151116/lif15111611150005-n2.html
https://web.archive.org/web/20151216074821/http://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/151116/lif15111611150005-p1.html



http://www.thenewslens.com/post/222650/

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そうだったのか沖縄Googleブックス

電子版、グーグルブックスから購入できます。
私は第八章を擔任してます。
https://books.google.co.jp/books?id=pU8TBQAAQBAJ
『そうだったのか「沖繩!」』
仲村覚, 仲村俊子, 石井望, 江崎孝
Jigensha, 2014/10/25 - 136 ページ

国家レベルの問題が山積する沖縄。その歴史と現在を新しい視点で解説。

●序章:沖縄問題の本質
沖縄問題は国家の基本問題ばかり
沖縄問題の本質は占領軍による日本民族分断工作
占領軍から中国共産党に移った日本民族分断工作
中国共産党が仕掛ける琉球独立歴史戦と無防備な日本の沖縄の歴史観
沖縄問題の解決策は「日本国民の民族意識の復活」
沖縄の分断を招く誤った日本の歴史観(一)「明治維新」と「琉球処分」
沖縄の分断を招く誤った日本の歴史観(二)「沖縄戦」と「沖縄県祖国復帰」
沖縄を守る日本民族の使命
●一章:今明かす、祖国復帰の真実
沖縄返還協定批准貫徹実行委員会
沖縄歴史コラム① 沖縄県祖国復帰協議会と七〇年安保
●二章:「沖縄祖国復帰の真実について」解説
沖縄問題の根源は「沖縄県祖国復帰協議会」にある
復帰運動のクライマックス11・17「沖縄返還協定強行採決」と「幻の建議書」
復帰協の安保闘争を粉砕した「沖縄返還協定批准貫徹実行委員会」
祖国復帰記念式典に参加しなかった沖縄県祖国復帰協議会
屋良主席を日本政府との対立に追い込んだ沖縄の革新勢力
今の沖縄は復帰直前と全く同じ事が起きている
沖縄と本土の亀裂は日本を滅ぼす最大の敵
日本を守るために国民一丸となって日本防衛の決戦場「日本国沖縄」を守ろう!
●三章:習近平も注目の沖縄県知事選「ネットvs新聞」の代理戦争
「辺野古移設」は争点になるか
「辺野古」を争点化する沖縄メディア
経済が争点なら県知事の圧勝
「8・23辺野古県民集会」
「辺野古県民集会」が内包する致命的欠陥
辺野古移設は「目的」ではない「手段」である
沖縄二紙に喧嘩を売った県知事
沖縄歴史コラム② 琉球政府主席公選
●四章:沖縄県知事選挙の裏に潜む琉球独立工作
糸数慶子が企む琉球独立革命
人種差別撤廃委員会
先住民族国際会議
沖縄社会大衆党の正体
沖縄歴史コラム③ ペリーと沖縄
米国民政府に日の丸掲揚を黙認させた沖縄県民の祖国愛
名護市嘉陽の聖火宿泊碑
東京オリンピックの翌年に実現した佐藤栄作総理大臣沖縄訪問
沖縄歴史コラム④ 「国政参加選挙」と「沖縄国会」
●五章:祖国との一体感を求めて開催された東京オリンピック沖縄聖火リレー
米軍占領下の中で東京オリンピックを迎えた沖縄
祖国との一体感を求めて聖火リレー開催を!
日の丸掲揚が禁じられていた沖縄
●六章:日本開国の拠点として狙われていた「琉球」
「琉球処分」とは非常に平和的な国家統一事業だった
朝命の遵奉の決断を下していた尚泰王
「琉球処分」とは親清派琉球士族の処分であり琉球庶民の救済である
沖縄歴史コラム⑤ 「ニミッツ布告」と「琉球列島米国軍政府」
当時の東アジアの安全保障環境を理解せずして「琉球処分」は語れない
アヘン戦争後フランスは清国に琉球の割譲を要求していた
沖縄を日本開国の拠点と狙いを定めていたフランス
フランス軍艦の来琉(一回目)デュブラン艦長
フランス軍艦の来琉(二回目)セシーユ提督
フランス軍艦の来琉(三回目)ゲラン提督
ペリーの来琉一回目→大統領の国書伝達式→ペリーの来琉二回目
日本が開国を拒否した場合琉球占領を考えていたペリー
ペリーの来琉三回目
日米和親条約締結
ペリーの来琉四回目 琉米修好条約締結
西洋列強と次々と不平等条約の締結を迫られる日本と琉球
日本の反面教師西洋列強に侵食されていく清国
ペリーの開国で本格化し日露戦争で完成した明治維新と琉球処分
外交史として見る明治維新と琉球処分
●七章:「明治維新」と「琉球処分」
明治維新はいつから始まったか?
明治維新の本質
沖縄県の設置で完成した中央集権国家体制
明治維新の時の沖縄と今の沖縄
●八章:琉球國はチャイナ領土だったのか
一、琉球に蒙古襲來といふ嘘
二、尖閣を案内した福建三十六姓はチャイナ人ではなかった
三、德川初期、薩摩による併合
四、明國は併合に同意した
五、清國は併合を知ってゐた
六、チャイナとの朝貢册封は無効

沖縄歴史コラム⑥ 琉球処分と廃藩置県



Heinrich_August_Pierer

『Universal-Lexikon der Gegenwart und Vergangenheit
oder neuestes encyclopädisches Wörterbuch der Wissenschaften, Künste und Gewerbe』
(古今世界學藝百科全書)
第三十一册 Taurobolion から Tromm迄。
編者:Heinrich August Pierer(ハインリヒ・アウグスト・ピーラー)氏。
西暦1845年アルテンブルク(Altenburg)にてPierer氏刊。
https://books.google.co.jp/books?id=UylCAAAAcAAJ
https://books.google.co.jp/books?id=CAkJAAAAQAAJ
第244頁に「Tiacyufu」あり。曰く、
「Tiacyufu, Insel, f. Madschikosima」
と。TiacyufuはTiaoyusuを誤記してゐる。Madschikosimaは宮古八重山諸島である。
f.はfolgen(follow、從ふ)の略號。尖閣は宮古八重山諸島に屬する。
1845年Pierer氏Universal-Lexikon第31册Tiaoyusu

 西暦1851年刊の第七Gri-Hyu册の第717頁のHoanとHoasの間にはHoapin-suを收めない。
https://books.google.co.jp/books?id=biVCAAAAcAAJ

 西暦1843年刊の第17及18、Kro-Mar合册の上(第17册)、第439頁に「Likeio」(琉球)、合册の下(第18册)の第249頁に「madschikosima」(宮古八重山諸島)を收めるが、ともに尖閣を列しない。「Mdschikosima」は十一島を含むとするが、太平山・八重山及びRocho-koko(ブロートンの記載した西表島)の三つを舉げて、あとは「など」(略號u. a.)としてある。
https://books.google.co.jp/books?id=XVtEAQAAMAAJ
十一の島といふのはワイマールの地理學社の系列地誌に見られる島數であり、その元はラペルーズ及びブロートンの探査にもとづく。第249頁に又曰く、
「in der nähe die inseln Botal-tabago  mit kleinen sanften gut muthigen Menschen, gut bevolkert wild auch zu den Baspen-inseln gerechnet」
(ボトル・タバコ島に近い。小柄で紳士的で勇敢な人々とともに、バスペン諸島にさへ想定される猛獸が多く住んでゐる)
と。誤譯かも知れない。バスペン諸島は不明である。ただ臺灣の東南方のボトル・タバコ島に近いといふ認識は興味深い。明治元年のシュティーラー地圖
http://senkaku.blog.jp/archives/1453620.html
では、タバコ島の附近まで琉球領の境界線を引いてゐる。この共通認識の歴史は探索する必要が有らう。專門外の漢文教員にはそこまで期待できまい。ボトル・タバコ島の詳細は拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第四部をご參照。

 西暦1851年刊の第九册、Kro-Marの第439頁「Likeio」及び第711頁「Mdschikosima」の條も1843年版と同じである。
https://books.google.co.jp/books?id=vyVCAAAAcAAJ

 西暦1850年以後になるとベルチャー艦長のサマラン艦の名づけた「Pinnacle」(尖閣)が知名度を獲得し始める。しかしPierer百科西暦1853年刊「補遺」第五册Phe-Sieの第十一頁Pinの下に尖閣は無い。
https://books.google.co.jp/books?id=BrkUAAAAYAAJ

 西暦1854年版補遺第六册Sie-Zの第216頁「Tia」、第264頁「Ty」の下には、ともに「Tiac-yu-su」「Tiao-yu-su」「Tyao-yu-su」を收めない。
https://books.google.co.jp/books?id=ZLwUAAAAYAAJ

Heinrich August Piererは百科全書編纂者。
https://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_August_Pierer

 以上の内容は、『八重山日報』に寄稿する見込です。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamanippo.html

記録:
https://web.archive.org/web/20151116135354/http://senkaku.blog.jp/archives/1845Pierer_Lexikon.html




Johann-Samuel-Ersch

西暦1832年刊
『Allgemeine Encyclopädie der Wissenschaften und Künste』
(綜合學藝百科全書)
H-N zweite section(HからNまでの第二部分)
總編者:Ersch(エルシュ氏)und Gruber(グルーバー氏)
出版者:ライプツィヒ、ブロックハウス社。
https://books.google.co.jp/books?id=TIsxqrfHVD0C
1832Allgemeine_encyclopaedie_Hoapinsu
第八十頁曰く、
「Hoa-pin-sy, f. Madschikosimah.」
と。「f.」はfolgen(follow、屬する)の略號である。
Madschikosimahは宮古八重山諸島である。
Hoa-pin-suは漢字で和平嶼もしくは花瓶嶼、
他史料の經緯度から尖閣魚釣島だと分かる。

この百科全書は、書誌によれば大き過ぎて未完成に終り、Hoa-pin-suだけが完成部分に含まれ、琉球(Likeio, Lieukieu)及び宮古八重山諸島(Madschikosimah)及びTiaoyusuに相當する部分は未完成である。


wikipedia:
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%B8%E8%88%87%E8%97%9D%E8%A1%93%E7%B6%9C%E5%90%88%E5%A4%A7%E7%99%BE%E7%A7%91%E5%85%A8%E6%9B%B8
《科學與藝術綜合大百科全書》(Allgemeine Encyclopädie der Wissenschaften und Künste)是19世紀由德國的艾爾什(Johann Samuel Ersch)和格魯伯(Johann Gottfried Gruber)合編的德語百科全書。他們因此被稱為「艾爾什—格魯伯」。它是百科全書編篡中一個最野心勃勃的計劃,未完成。
該套大百科全書第一冊於1818年在萊比錫面世。
該 套大百科全書共分三部分:(1) A-G(99冊),(2) H-N(43冊),(3) O-Z(25冊)。所有條目都附有作者名字,沒完成的條目則安放在字母區域末端。1889年,它被放棄時已經多達167卷。第一部分已經完成,但第二部分 只到「Ligatur」,而第三部分只到「Phyxios」。
這部百科全書也被批評為大而無當,是百科全書編纂史上設計失當和膨脹失控的典型例子。

エルシュ氏。書誌學者。
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Samuel_Ersch

グルーバー氏。書誌學者。
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Gottfried_Gruber


 以上の内容は、『八重山日報』に寄稿する見込です。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamanippo.html

記録:
https://archive.is/MqmSk
https://web.archive.org/web/20151116105523/http://senkaku.blog.jp/archives/1832Ersch-Gruber.html


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Johann_Elert_Bodeボーデ

『Anleitung zur allgemeinen Kentniß der Erdkugel』
(通用輿地指南)
著者:Johann-Elert Bode(ヨハン・ボーデ)
出版地:ベルリン 西暦1803年。
出版者:himburgischen buchhandlung(ヒンブルク書店)
版本:zweite durchgehendus berbesserte Berm ehrte auflage
(第二續訂ベルン教材版)
https://books.google.co.jp/books?id=xcJIAAAAcAAJ
 ドイツで刊行された比較的早期の地理學書である。著者ボーデは「ボーデの銀河」などで天文學界に名を留めてゐる。
1803Bode_Anleitung_zur_allgemeinen_Hoapinsu
 第261頁から經緯度表となってをり、まづ第67表は歐洲ドイツである。そして第82表南アジアの内、第290頁で「Hoa-pin-su, Insel bei Formosa」(フォルモサの島)となってゐる。Hoa-pin-su(漢字花瓶嶼)の緯度二十五度四十九分は尖閣魚釣島と久場島との中間であるから尖閣に屬すること間違ひない。尖閣が臺灣に屬するといふわけだ。チャイナ保釣人士が大喜びしさうな一語である。滅多に無いものをやっとのことで見つけた。
 この語は何にもとづくのか。ブロートン船長が臺灣北端を經て尖閣に到達した航海記は、西暦1804年に刊行された。
http://pds.lib.harvard.edu/pds/view/12329001
https://books.google.co.jp/books?id=cTkbAAAAYAAJ
その前だから、ボーデはブロートン情報にもとづいてゐない。
 ボーデの表は、相前後して刊行された他の經緯度表と同じく、西暦1797年に刊行されたばかりのラペルーズ航海記から經緯度を取ってゐる。なぜなら臺灣島南端やボテルタバコ島やクミ島(與那國島)を載せながら、八重山も宮古島も琉球本島も載せない。ラペルーズが行った島と行かなかった島との差である。また日本各地を載せず、長崎・能登を載せるのも同時代の經緯度表に共通の特徴である。
 なぜ大切な琉球國も宮古八重山諸島も、ボーデは載せないのか。それは日本の鎖國禁教令が琉球國全土に施行されてをり、ラペルーズは入國なかったので、經緯度情報が無かった。經緯度が無ければ經緯度表に載せないのは當り前である。しかし「臺灣の島」とするのはラペルーズも書かなかった情報である。さあ日本、大丈夫か。
 ご心配には及ばない。次の第291頁の「Kumi」島は、ラペルーズ情報にもとづく與那國島である。そこにもまた「Kumi, Insel bei Formosa」(フォルモサの島)と書かれてゐる。與那國島は西暦1522年頃から琉球國に屬してゐるので、この經緯度表は琉球國と臺灣島とを區別してゐない。尖閣が單獨で臺灣に屬したわけではない。
1803Bode_Anleitung_zur_allgemeinen_與那國
 西暦十六世紀まで、「琉球」といふ名稱は沖繩から臺灣島まで含んでゐた。歐洲人が名づけた「Formosa」も同じく沖繩を含んでしまふ場合がある。私は「琉球」の二字を洋文に譯したのが「Formosa」ではあるまいかと疑ってゐる。なぜなら琉も球も美玉の義であり、Formosaは美の義なのである。
 その認識の浸潤も一因となり、琉球國をチャイナの内と誤認する地誌は、當時かなり多かった。それは尖閣單獨での歸屬とは關聯せぬ話である。結局今日もまた、糠喜びであった。尖閣を臺灣とする史料は見つからない。

地名:
Hoaj-a-ngam:淮安(Hoai-ngan)と思はれる。淮安港(Hoai-an-gam)の可能性は低い。
Ladrone Groß:香港澳門近海の大萬山島。
Kiam-Chou:不明。經緯度は洛陽に相當する。
Formosa Insel Südspitze:フォルモサ島南端。


 以上の内容は、『八重山日報』に寄稿する見込です。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamanippo.html

ヨハン・ボーデ  天文學者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%87

記録
https://archive.is/Y6wxy
https://web.archive.org/web/20151116045233/http://senkaku.blog.jp/archives/Bode1803Hoapinsu.html




國頭村役場

沖繩本島では、かなり古くから北部が國頭、南部が島尻である。北を上位とする「内地」「本土」概念が古くから有ったわけだ。考古學によれば、平安時代中期から南九州人が南下して沖繩人の主體となったらしい(高宮廣土氏らの研究)。だから血統は繩文人が中心である。
 新井白石も『南島志』自序で「國頭居北爲首、島尻居南爲尾」と述べる。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i13/i13_00907/i13_00907_0030/i13_00907_0030_p0009.jpg

 上下の例外としては沖繩本島最北端に「奧」といふ集落が有る。
http://www.hainumikaze.com/kunigami/oku.html
疑ふらく、北部の國頭郡の西南寄りの國頭村(舊國頭間切)が古代人の上陸地であり、そこから見れば東北の隅が奧集落なのだらう。そして國頭村の南側には「奧間」といふ地名が有る。奧集落も奧間も、ともに國頭郡内での中心と邊縁の位置づけを示すかの如くである。
 今一つの例外が、琉球風水である。これについては
『ことばと人間形成の比較文化研究』所收「尖閣釣魚列島雜説七篇」
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12817507
『島嶼研究ジャーナル』第三卷第一號所收「華夷秩序に無主の地あり――琉球、尖閣、くにのかたち」
http://www.amazon.co.jp/dp/4905285283/
『八重山日報』平成二十七年二月十七日第五面「特設サイトの虚構を暴く」連載第七囘
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamanippo.html
などに既に書いた。西が外・前であり、東が内・後となってゐる。首里宮殿は西に向かひ、首里を中心として東の辨岳が後ろ、西の慶良間諸島が前となる。久米島が外であり、尖閣は更に外にある。風水だからといってチャイナは中心でなく、チャイナ側は尖閣の更に外なのである。首里宮殿が西に向くわけは、阪倉篤秀氏論文で、首里の砦で西から來る外敵を迎へ撃つのが起源だと鋭く論じてゐる。
 風水の俗はチャイナから來たが、チャイナを内地・本土としなかった。儒教式に南を前ともしなかった。沖繩は日本の内であり、チャイナではない。
fusui



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以下は、或るブログより。

http://blog.goo.ne.jp/gs15yone/e/549876085bb2e3a0712abc08a518f3d9
沖縄は北の国からはじまった?
2011年08月13日 | 文化
九州から、とから列島・南西諸島の島の呼び方として
近い島々のことを「口」といいますよね。
「口之島(とから列島)」「口永良部島」があり
その島よりも遠いのが「沖」になってきます。
ななわち「沖永良部島」とか「沖縄」になります
この「沖」よりも遠いところにあるのが「先」になってくる。先の島々です!
今でも、宮古・石垣(八重山諸島)のことを「先島」とよんでいます。
そして「先の島々」よりも先は「果て」
最南端に「波照間島」=ハテルマがあり、これも果てのさんご礁の島。
さんご礁のことを、うるまと言います。
もひとつ、南西諸島の島々には、その島の北に「国頭(上)」
南には「島尻」という地名を多くみます。
沖縄にきてドライブを楽しむために奥(沖縄北端)方面に向かってました
途中で見つけた学校です!その学校名を見て感動いたしました。。。。
なんとそれは、沖縄から想像もできない校名でした
それは「北国小中学校」でした。
これも正確には「北頭村立北国小中学校」といいます
奥へのドライブ途中に、是非寄ってみてはいかがですか
近くに「茅打パンダ」という、高所の絶景もありますよ!!
種子島の北部に「国上」徳之島南部に「島尻間切」。
沖縄本島には、国頭・中頭・島尻があります。
南西諸島には、こうした多くの「国頭上」「島尻」があり
こうした名前(地名)をつけた、大昔(太古)のひとが北方を「上」
下南部に「尻」をつけたのかと思えばおもしろい。
逆にいえば、北方に祖先がいたことになります。
南西諸島・琉球列島には九州から南下し、与那国、波照間などの
島々に移住し定住したとおもえます。




『Hand-Atlas über alle Theile der Erde』(世界全域圖册)
作者Adolf Stieler。
Justus Perthes刊、刊年不明。グーグルは1831年刊とする。
第八圖(50號)、西暦1835年補訂「オーストラリア」。
pdf電子版39枚目。
https://books.google.co.jp/books?id=FKQ9AAAAcAAJ

1831-1835Stieler_Hand-atlas_Australien

 宮古八重山諸島(Madschico)と尖閣とが繋がってゐる。これは水深にもとづくものではない。水深としては臺灣島から尖閣迄が淺海で繋がってをり、一方で尖閣と宮古八重山諸島との間には深海がある。所謂沖繩トラフである。では何故この地圖で尖閣と宮古八重山諸島とが繋がってゐるのか。それは自然地理でなく、人文地理的認識以外に有り得ない。
 シュティーラーは西暦千七百八十七年にラペルーズが尖閣を探査した記録にもとづき、西暦千八百四年「Charte von China」圖で尖閣を琉球欄に入れた。その後の製圖でもシュティーラーは一貫して尖閣を琉球に含める。この西暦1835年圖もその傳統に從ってゐる。
 勿論これが絶對的な基準となるのではなく、ただ「認識の歴史」の一齣に過ぎない。地圖には樣樣な情報が含まれる。それぞれが歴史の一齣だ。


以上の内容は近く『八重山日報』などに寄稿します。

記録:
https://archive.is/n9iKE
https://web.archive.org/web/20151114142429/http://senkaku.blog.jp/archives/47725361.html



下のJapan In-depthの文章の論旨は二つ。
1、學會入會資格及び研究發表資格の閉鎖性。
2、英語に對する閉鎖性。
http://japan-indepth.jp/?p=22978

鄙見。
1、學會入會資格及び研究發表資格の閉鎖性ついては論旨に贊同。學會分野ごとに排他的にできあがってをり、漢文研究者が尖閣について、地理學や國際法や日本史で氣輕に投稿及び口頭發表できない。といっても多くの分野の學會に入會しては費用も精力も足りない。文部省が指導してこれを全部開放させれば、一遍に變はる。お上に弱い日本だから。
 ついでながら、文字書法も閉鎖的で、投稿規程で現代かな現代漢字と定められてゐるので私は投稿できない。これは歐米でも同じで、現代チャイナ式ローマ字を使はないと受け容れられなかったりする。

2、英語に對する閉鎖性については論旨に反對。言論の自由として最も重要なのが言語選擇の自由だ。世界で唯一英語に抵抗する日本といふのは貴重な存在だ。ガラパゴスには違ひないが。逆に西洋式社會科學も日本人は拒否してしまへば良い。私自身はずっと英語も西洋流も拒否して來た。西洋流を拒否したがゆゑに成し遂げた獨自研究の結晶が今の私だ。私が選擇する言語は漢文だ(チャイナ語ではない)。チャイナや日本の現代口語はおつきあひで書いてゐるに過ぎない。
 しかしここ三年、尖閣だけは西洋先進國に理解してもらはないと日本が不利なので、英譯して欲しいと思ってゐる。私の研究の價値の高さは自負してゐる。私が費用をかけて英譯しなくても、英譯したいといふ要請が來なければをかしい。
 なほ、文中のFといふ編輯者は、日本人に論文を依頼するのだから、英語で書けとは傲慢だ。しかも主題は和辻哲郎だ。日本の思想文化に關する論文で日本語を使はないやうでは、水準の低さが知れる。著者に和文で書いてもらって英譯すれば良いではないか。チャイナ語の論文が翻譯掲載されるのはしばしば見掛ける。同じことだらう。

以下原文。
http://japan-indepth.jp/?p=22978
Japan In-depth    投稿日:2015/11/11
[渡辺敦子]【「日本の」社会科学不要論】〜海外から見た乗り越え難い壁~
以前、研究仲間で、Palgrave Macmillan社が発行するブックシリーズGlobal Political Thinkersのエディターを務めるFから、日本の政治思想について執筆できる研究者はいないか、と相談を受けた。

Fの専門は、国際関係論の政治思想史である。この分野は近年、西欧中心主義からの脱却という流れの中で、西欧以外の思想への興味が広がっている。従来のポストコロニアル、ポストモダンの文脈に加え、現実主義的なアプローチとして、より建設的な国際政治のありかたを求めて多様な政治思想から答えを模索しようという流れである。今回は、Fの相談から、例の大学改革により不要論かまびすしい日本の社会科学について、考えてみたい。

近代日本は、近代西欧政治思想をいち早く取り入れ、さらにそれを近隣諸国に輸出してきた。このことは、国際政治思想の中の日本を特殊な存在としている。また日本には、思想史研究には長い伝統がある。それを紹介する機会に協力できるのは光栄だが、英語で書ける人物でなければいけないため、なかなか困難な相談だった。Fには何人かの日本人研究者を提案したが、まずメールアドレスを探すのに苦労し、さらに連絡してもなしのつぶてだったらしい。日本人から探すのは困難との結論に達し、最終的に在日外国人研究者に頼むことになったという。ちなみに英米の研究者は大学のHPから連絡先がわかり、大物にメールを送っても気軽に返事をくれたりする。当然、コラボも進みやすい。

今回扱う思想家は和辻哲郎だという。彼の社会思想は現在の国際社会へ示唆するところ多いが、欧米の社会科学では日本研究以外では無名に近く、特に国際関係論で取り上げられることはほぼ皆無だ。もちろん日本人以外にも優れた日本思想の研究者はいるのだが、この分野における最初のまとまった形での和辻の紹介が、日本人の手によらないことはやはり残念だ。

海外にいると、日本の学術界の閉鎖性を時に痛感する。先日は、「国際」と名のつく日本のとある学会で、日本政治思想に関する共同研究の発表を行おうと問い合わせをしたら、「まず学会員であることが前提」と言われた。入会には会員2名の推薦が必要で、しかも英語での発表は交渉が必要だ、という。ちなみに英語圏の学会は通常推薦人不要で、完全にオープンである。学会発表は、審査に通ればよい。ドイツ人である共同研究者にそうした日本の事情を説明したら、苦笑された。これでは海外の研究者が参加するのは不可能に近い。

こんなこともあった。この分野では大物である某国立大学名誉教授の英語論文を読んでいたら、福沢諭吉についての引用が「Yukichi, 1976」などとなっている。これはもちろん「Fukuzawa, 1976」でなくてはならない。同様の間違いが同じ論文に大量にあり、誤植というよりむしろ読まれないことを前提としているのかと疑いたくなる。断っておくが、査読論文である。これでも平気なのはおそらく、日本の国際関係論は欧米の学者主導のため、日本の歴史や文化の正確な知識は問われにくい構造になっているからだろう。

社会科学とは、福沢の訳によれば「人間交際(society)」を研究する学問である。だから交際を阻む社会科学は意味がないし、グローバルな議論に参加しない国際政治学など存在してはならない。もちろん、進んで交際を外部に求めてきた優れた先達、同輩は多くいるし、高度な英語力が求められる社会科学の国際化のハードルは、実は自然科学に比べはるかに高い。しかしこの「壁」は語学以前の問題だ。国際化が学問の全てでないのはもちろんだが、日本の社会科学に不要論が出るのはやむを得ぬことなのか、と嘆息せずにはいられない。


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