- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

齲齒(くし、うし)の病因分布。普通ならば繩文と彌生との差を想起する。單に西高東低ではなく、中國よりも近畿の比率が高い。ただこの圖では縣ごとに分けてゐないので、九州の南部(含沖繩)と北部との差、瀬戸内海側と出雲土佐との差、などが分からない。神武東征の通りならば九州北部・瀬戸内海・近畿が高いだらう。細かな情報が欲しい。
齒エナメル分布

子供の虫歯なりやすさ「西高東低」…原因は不明
2018年11月30日 10時11分 讀賣。
 西日本の子供は虫歯になりやすい?――。富山大は、日本小児歯科学会との共同研究で、虫歯になりやすいとされる「エナメル質形成不全」の児童の割合が、西に行くほど高いことが判明したと発表した。全国規模の調査で地域差が明らかになったのは初めて。研究グループは原因を究明し、虫歯予防に役立てたいとしている。
 研究は、富山大の関根道和教授らの研究グループが行った。全都道府県の7~9歳の児童4496人について、左右上下の第1大臼歯の表面にあるエナメル質を調べ、黄色や茶色に変色するなどの異常がないかを確認した。
 この結果、エナメル質形成不全の児童の割合は、▽北海道地方14・0%▽東北地方11・7%▽関東信越地方18・5%▽東海北陸地方19・3%▽近畿地方22・3%▽中国地方19・8%▽四国地方28・1%▽九州地方25・3%――と、「西高東低」の傾向になっていた。
 関根教授によると、第1大臼歯は妊娠中~乳幼児期に形成され、6歳頃から永久歯として出現する。エナメル質が正常に形成されるには、カルシウムやビタミンD、リンの摂取が必要だが、地域差が生じた理由は分からないといい、「日照時間や気象条件、生活習慣が関係している可能性がある。今後、詳細な研究が必要だ」としている。




黄色人種はエナメル質が薄い。黄色人種には繩文古モンゴロイドを含むのだらうか。



李鼎元はほぼ「琉球を愛した」と言へる人物。
一例リンク。 
http://senkaku.blog.jp/archives/32221975.html
 清國東限と琉球西限の兩界線を明示し、中間に尖閣諸島。
尖閣史の全體像を一語で道破した「馬齒島歌」。

しかし村尾進論文「球雅の行方、李鼎元の『琉球譯』と淸朝考証學」
平成12年京大東洋史研究會「東洋史研究」59-1。
http://hdl.handle.net/2433/155333
これによれば李鼎元は歸國後に中華思想の反撥に遭ひ轉向した。
現代でも親日派のチャイナ人が
歸國後に反日に轉向するのとよく似てゐる。

ついでながら村尾論文では、日本が琉球を統治してゐることを
清國では充分に認識してゐなかったやうに書いてゐるが、
それは村尾氏全然甘い。清國ではしっかり認識してゐる。

李鼎元畫
  李鼎元の畫作。  

蔡温「三府龍脈碑記」は、同じ蔡温の「地理記」(球陽所載)ほど詳しくないが、沖繩主島を龍脈として表現する。首里を中心として龍脈が「同幹異枝」に伸びるといふ考へ方だ。前後左右の概念は記述されない。「地理記」も首里を内するのは同じだが、北を右とし、南を左とし、久米島尖閣を前且つ外とするなど、さらに詳しい。比較考察が必要だ。

沖繩縣立圖書館デジタル。
「琉球國碑文記」
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50539
蔡温「三府龍脈碑記」 乾隆十五年。  
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0160.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0161.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0162.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0163.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0164.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0165.jpg

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ほかに琉球大學デジタル
「琉球國中碑文記」 閲覽不便。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/viewer?&cd=00030080


 沖繩から北を本土内地と呼ばず、他府縣と呼ぶべきだと、ずっと以前は考へてゐた。ところが琉球の勉強をしてゐると、本土内地概念は極めて古い。「國頭」は本土・内地の側。「島尻」は反對側。本土内地概念は古來存在した。
http://senkaku.blog.jp/archives/47830051.html
 それを示す最古の史料は何であらうか。まづは關聯情報:
伊波普猷『古琉球』第78-81頁「島尻といへる名稱」。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877926/66
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877926/67

谷川健一『列島縦断地名逍遥』第136-137頁「國頭と島尻~國土の首尾」。


南島地名研究センター編『増補・改訂 地名を歩く』、

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN0700650X

長崎無。古書店購入せよ。


高良倉吉『琉球王国の構造』

糸満市字大里公民館/2009 『大里字誌』pp.99-106「しましり」。

http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000010592575.html

上里隆史氏ブログ「クニの頭とシマの尻」に曰く、
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/12/post_b8a0.html
奄美は「おくと(奥渡)より上(かみ)」。「奥渡」とは沖縄島の最北端(いまでも最北端の集落は“奥”と呼ばれています)、奄美全体を「それより上」。

『おもろさうし』には、日本へ行くこと(やまと旅)を「のぼる」とも表現。


西暦1725年(雍正三年)、蔡温本『中山世譜』首卷に國頭・島尻あり。
1701年蔡鐸本『中山世譜』未確認。
西暦1713年、琉球王府『琉球國由來記』卷十二至十五、國頭・島尻。

 素人目には、「おもろさうし」は年代確定しにくいのではないかと不安感があるが、案外これが確定できるやうである。また、「おもろさうし」とともに「やらざもりぐすく碑文」などが古い。
嘉靖33年(1554)「屋良座森城碑」に「しもしましり」。

「真珠湊碑文(石門の西のひのもん)」に「下しましり」。

沖繩縣立圖書館デジタル。
「琉球國碑文記」
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50539
やらざもりぐすくの碑。
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0039.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0040.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0041.jpg
http://archive.library.pref.okinawa.jp/wp-includes/images/digi_arc/50539/page_0042.jpg

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  ▲志も志まし里(下島尻)
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琉球大學デジタル
「琉球國中碑文記」 閲覽不便。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/viewer?&cd=00030080


國會圖書館。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000099447
質問(Question) 
やらさもりぐすくの碑文の全文・口語訳が載っている資料を知りたい。
回答(Answer) 
下記の資料を紹介する。
『沖縄大百科事典(下)』(沖縄大百科事典刊行事務局、沖縄タイムス社、1983年)
p760-761「やらさもりくすくの碑」の項に、碑に関する記述と碑の表側の碑文の大意あり。
「1554(尚清28)年6月に建立された碑文。屋良座森城の創建について記す。那覇市垣花にあったが戦災によりグスクとともに破壊された。碑文は『中山世鑑』、『琉球国碑文記』にも採録されている。表文は仮名書きの琉球文で…」とある。

『仲原善忠全集 第2巻 文学篇』(仲原善忠、沖縄タイムス社、1977年)
p521-530 「やらざ杜城の碑文」の項に、碑の概要及び全文の翻刻文、読み下し文、訳あり。語注付き。

『石碑復元調査報告書』(国建地域計画部、那覇市、2004年)
p146-147 「欖注森城の碑」の項において、碑の概要及び全文の翻刻文あり。大意も記載されている。

『沖縄県文学史』(中松竹雄、沖縄言語文化研究所、2006年)
p267-269 「やらさもりぐすくの碑」の項に、碑の表の碑文の途中までと裏の全文の翻刻文と訳あり。

『文字から見た沖縄文化の史的研究』(塚田清策、錦正社、1968年)
p196-197「屋らざもりくすくの碑」の項に、碑に関する記述と表の碑文の途中までの翻刻文がある。
さらに、「三重城と相対峙して那覇港を守る為に作られた。城は天文22(1553)年に作られ、…碑の背面は、この碑を建てることに関係した人々の氏名が記録されている。この碑はやらざ森ぐすくの創建された翌年天文23(1554)年に建てられ…」との記述あり。

以下の資料には翻刻文が記載されている。
『沖縄文化の研究』(塚田清策、教育図書、1965年) 
p203「琉球国碑文記の解説」の項。
『琉球國碑文記の定本作成の研究』(塚田清策、学術出版会、1970年) 
p105-107「やらさもりくすくの碑おもての文」の項。
『那覇市史 資料篇 第1巻12』(那覇市民文化部歴史資料室、那覇市役所、2004年) 
p110-111『那覇由来記』より「(57)やらさ森の事」の項。

下記は影印本である。「やらさもりくすく碑おもての文」
『琉球国碑文記』(琉球王府)p18-19
『琉球国碑文記 別巻 第1巻 東恩納本(甲)』(塚田清策、学術出版会、1970年)p35-37
『琉球国碑文記 別巻 第2巻 東恩納本(乙)』(塚田清策、学術出版会、1970年)p47-50
『琉球国碑文記 別巻 第3巻 伊波本』(塚田清策、学術出版会、1970年)p28-30
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参考資料
(Reference materials) 
 1 沖縄大百科事典 下 ナ?ン 沖縄大百科事典刊行事務局∥編  沖縄タイムス社 1983.5 K03/O52/3 760-761 

 2 仲原善忠全集 第2巻 文学篇 仲原 善忠∥編  沖縄タイムス社 1977.11 K08/N33/2 521-530 

 3 石碑復元調査報告書 国建地域計画部∥編集 那覇市市民文化部歴史資料室∥監修 那覇市 2004.3 K200.2/KU44/ 146-147 

 4 沖縄県文字史 中松 竹雄∥著  沖縄言語文化研究所 2006.5 K80/N35/ 267-269 

 5 文字から見た沖縄文化の史的研究 塚田 清策∥著  錦正社 1968.3 K200.2/TS52/ 196-197 

 6 那覇市史 那覇市市民文化部歴史資料室∥編集  那覇市役所 2004.3 K23/27/12 110-111 

 7 琉球国碑文記の定本作成の研究 塚田 清策∥著  学術書出版会 1970.3 K200.2/TS52/ 105-107 

 8 沖縄文化の研究 塚田 清策∥著  教育図書 1965.4 K200.2/TS52/ 203 

 1 琉球國碑文記 [琉球王府]∥編    K200.2/R98/ 18-19 

 2 琉球國碑文記 別巻 第1巻 東恩納本(甲)    K200.2/TS52/1 35-37 

 3 琉球國碑文記 別巻 第2巻 東恩納本(乙) 塚田 清策∥編  学術書出版会 1970.3 K200.2/TS52/2 47-50 

 4 琉球國碑文記 別巻 第3巻 伊波本 沖縄大百科事典刊行事務局∥編  沖縄タイムス社 1983.5 K200.2/TS52/3 28-30 

 5 那覇古実集 慶留間 知徳∥編 慶留間 知徳 1929.2 K23/G37 22




尖閣グッズtakezo氏販賣301121
 上の寫眞は、尖閣を愛する炎の藝人たけぞう氏「尖閣グッズ販売」。寛永通寶の印字の何かの品物も賣ってるやうです。ついでながら、こちら領土室リンクに    
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/detail/s1890041600103.html
  寛永通寶の記録があります。尖閣領有前の明治23年に尖閣漁民(絲滿人)から塙忠雄といふ人が聞き取り調査を行なひました。その時に絲滿人らが差し出したのが寛永錢です。江戸時代の沖繩では寛永錢が流通してゐました。
 勿論、チャイナ船が琉球に來航した際にも琉球の寛永錢を見かけてゐて(李鼎元『使琉球記』に見える)、しかも寛永錢は清國でも流通してゐました。よって尖閣に寛永錢が有っただけでは100%の根據となりません。しかしチャイナ册封船が尖閣に停泊した記録はゼロで、しかもチャイナ側史料では「停泊できない」と五度も書いてますので、まあ寛永錢は江戸時代の日本人の上陸の痕跡でありませう。
 塙忠雄の調査史料は國吉まこも氏が發見し、國吉氏論文「塙忠雄と尖閣諸島」(温故叢誌66、平成二十四年)で
https://ci.nii.ac.jp/naid/40019489465
 論及されてます。後に私も論文「尖閣最初の上陸記録は否定できるか――明治から文政に遡って反駁する」(島嶼研究ジャーナル4-1、平成二十六年)
https://ci.nii.ac.jp/naid/40020882001
 の中で國吉論文を引いて論及しました。ついでながら塙の報告には、北小島らしき「離瀬」に「廣さ三疊敷」ばかりの洞窟があり、中に寢床があったと記録されてゐるます。少々慌て氣味の私は論文中で疊敷としてしまひました。
 さらについでながら、寛永錢について國吉氏は、薩摩船か、本土の南蠻貿易船の遺物だらうと推測してゐて、琉球に寛永錢が流通したことを前提としてゐないやうである。

訃報 尾崎重義 尖閣研究四十五年 八重山日報。平成30年11月29日石垣島版、第三面。
尾崎重義訃報八重山日報30年11月29電子大

尾崎重義訃報八重山日報30年11月29

八重山日報の沖繩本島版には載ってゐませんのでご注意下さい。
また、喪主は尾崎治子未亡人です。崎が文字化けで消えたやうです。

下は平成三十年十二月二日、八重山日報(沖繩版及び石垣版)第二面です。
yaeyama301202連載54尾崎


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上里隆史氏ブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」にコメントしました。....と思ったらブログ停止してゐたので、自分の處に載せます。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/03/post_7d50.html
と思ったら、掲載して頂いたやうです。以下、私のコメント。
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 尖閣史を研究してをります。『沖縄人はどこから来たか』改訂版
https://www.amazon.co.jp/dp/4899822162
を長崎純心で注文するため、たまたまこちらのページに參りました。こちらの多數のコメントはもう五年前のやうですが、その後の研究状況はかなり進展してゐるやうですね。
 「島津氏に征服されるまでは一度たりとも外国の実効支配を受け入れたことはありません」
とのことですが、東北地方も坂上田村麿まで日本の統治を受けたことがありませんし、熊襲や關東も大和武尊まで日本の統治を受けませんでした。
 薩摩以前に琉球國を形成してゐたといふお説も、國家の定義が問題になります。民族の定義が難しければ國家の定義も難しいです。卑彌呼の時代、日本は百餘國が分立してゐましたし、チンギスハン、アテルイ、シャクシャインなどもただの部族聯合で、琉球だけが國家だったといふ基準になりませうか。出雲の國讓りは國家讓渡ではないのでせうか。ギリシャのポリス國家は國家でせうか。近代基準を遡及適用することはできません。  
 國家といふのは數千年前にメソポタミアで生まれて東西に擴散しましたが、そもそも國家を持つか否かはそんなに絶對的基準でせうか。人類史のひとこまに過ぎないのではありませんか。 
 また、薩摩が琉球まで統一したのは大阪の陣よりも前ですから、日本そのものが不統一でした。琉球だけではありません。律令制に琉球が含まれなかったのも、繩文以來の長い日本統一の過程のひとこまであって、奧州北部も含まれてゐませんでした。爲朝傳説は愈々史實に近いのではないかといふのが、最新研究の向かふ先でありませう。
 結局最後に殘るのは「定義」ではなく、文化と血縁と言語と歴史でありませう。歴史的に琉球獨立説はまあ無理だと思ひます。無理な獨立説に固執すると、逆に琉球の自尊を損なふのではないでせうか。逆に長崎獨立こそ歴史的に根據ありです。


沖繩人はどこから來たか