- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ

石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。沖繩平和協力センター尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

 尖閣に軍艦のせまる今、衆議院議員原田義昭氏主催の研究會にて、尖閣史料の新事實を發表します。一般開放ですので、事前申込の上宜しくご來聽下さい。新聞テレビ等の記者の皆さんも是非取材にお越し下さい。事前取材も受けつけます。事前取材は私の電話090-5084-7291か、もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」 
http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007
からご聯絡下されば素早くお答へできます。

平成二十八年六月二十七日(月曜)ひる十二時半開場、十三時開講。
永田町自民黨本部七階、704室にて。
 會費五千圓と高額ですが、秘書氏と打合せした處、當日は帝國ホテルのカレーを出すさうです。安倍首相が食べたのはカツカレー、今度のはビーフカレーとのことです。

原田勉強會1
原田勉強會2


チャンネル櫻、イベント頁に掲載されてゐます。
http://www.ch-sakura.jp/events.html

フェイスブック
https://www.facebook.com/events/290139161318845/

下は平成二十七年國會質疑、原田議員の提示した昭和四十四年尖閣地圖。動畫10:30より。
https://www.youtube.com/watch?v=W6OEUOR3-yk#t=10m30s


下は原田議員の提示した地圖について、テレビ朝日の報導。
https://www.youtube.com/watch?v=ZlQFISryCtM
 

 

 文谷數重氏のブログについてWIZといふ人がコメントで知らせてくれた。早速以下の通りにブログに書き送っておいた。
http://schmidametallborsig.blog130.fc2.com/blog-entry-1649.html
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今晩は。
http://senkaku.blog.jp/2016062262084142.html
 私がこちらリンクで書いた原文は、以下の通り。
 「尖閣に於いてチャイナがゼロであることは、國際法は勿論のこと、歴史について私が證明した通りだ。文句があるなら文谷氏は私に反證して欲しい。」
 要するに尖閣の歴史について反證して欲しいといふことです。何故なら文谷氏の議論はチャイナが尖閣でゼロではないといふ前提に見える(世間にさう見せてゐる)からです。歴史とは歴代の歴ですから、長い年月の古典史料の虚構こそ問題です。
 領海と接續水域との差は、勿論私が誤りでせう。無害通航と呼ばず、國際法にもとづく呼び方に交換して頂ければ幸ひです。
 戰前の南沙は臺灣に屬する「とした」(元々屬すると主張した)のでなく、屬「せしめた」(新たに占領した)のですから、日本が放棄する領土の内として無主地に戻っても、中華人民共和國に屬する土地ではないでせう。精確には國際法の人にお任せします。日本が占領する以前に臺灣に屬したことは一度も有りません。
 そもそもチャイナの南沙主張は二千年といふ虚構にもとづいてゐるので、二千年間の歴史的虚構を否定するのが正道です。多數の史料ですが、簡單に否定できます。
 人工島については無害通航でないとの點も、私は細かく考へてゐません。南沙については日頃から無害通航し、人工島についてはそれと別扱ひとなるわけですか。人工島は多分國際法に存在しない概念でありませう。とすれば法的には公海上の障碍物なのでせう。とすれば國際社會は障碍物を取り除くべきだといふことになります。細かな解釋は國際法にお任せしますが、要するにチャイナの横暴を阻止すべきです。
 文谷氏は私が希望するやうに歴史について反證するつもりは無いやうです。しかし要するに尖閣でチャイナはゼロです。南沙でも歴史的にはチャイナはゼロです。ゼロを前提として國際法や軍事の議論を全て組み立て直して頂きたい。それが私の希望です。
 文谷氏の文末に曰く、「尖閣の支配は百害あって一利もない」と。領土を支配しないのですから、話がかみ合はぬのも道理でせう。細かなことを述べずに尖閣放棄論を大々的に書いて頂きたい。その方が世間にとっても理解し易いでせう。


瀛報


montani

文谷數重といふ軍事評論家なる人物が論説(下方に節録)を書いてゐる。ほぼ曰く、
「今尖閣接續水域で無害通航權行使は合法なので抗議すべきでなかった。逆に日本は南沙を同じく無害通航して仕返しすべきだった」
と。
http://toyokeizai.net/articles/-/123508
 根本的前提が間違ってゐる。チャイナ軍艦は、日本の接續水域で無害通航權を行使したのではない。自國の毘連區(ひれんく、接續水域)に這入る權利を行使したと言ってゐる。すなはち日本の接續水域を認めないことを通航で示したのである。無害通航ではないから日本は抗議した。直前にロシアが無害通航しても日本は抗議しなかった。日本政府は全く正しい。
 南沙はチャイナが越南から武力で強奪したのであり、チャイナの正當な領土ではない。それを尖閣と同列に扱って相互に仕返しといふのは、尖閣に領土問題があるといふ印象を世界に與へる。尖閣に於いてチャイナがゼロであることは、國際法は勿論のこと、歴史について私が證明した通りだ。文句があるなら文谷氏は私に反證して欲しい。私の歴史研究は部分的に政府委託調査の成果にも採用されてをり、一つの權威である。若き文谷氏は是非權威に挑戰して欲しい。
 日本軍艦は仕返しとしてでなく、平常から南沙海域を無害通航すべきであった。その遲れをこそ批判すべきであって、仕返しといふのは全く誤りだ。但し南沙を航行せよといふ點だけに限定すれば文谷氏の主張は正しい。南沙が誰の領土なるかを問はず、無害通航は可能である。
 日本が尖閣に公務員を常駐させないことが、火種を作ってゐる。無人島の周邊をどちらの公船・軍艦が自由に航行できるかといふ爭ひめいた形を作り出してゐる。島中に常駐してゐれば、通航の爭ひは意義を成さなくなる。國際法に「無人島」といふ語が出現する以上、無人島と居人島とは法的に同一ではない。

 以上は、私の尖閣研究とは全く關係ない。ただの常識的理解に過ぎない。文谷氏はこんな簡單なことも分からないのか。軍事評論家を名乘るのだから、分からない筈は無からう。故意に誤魔化してゐるのか。どちらでも同じことだが。
 平和のため、日本がすべきこと。
1、尖閣に公務員を常駐させる。
2、南沙で無害通航する。
3、尖閣及び南沙の歴史研究及び歴史宣傳戰を、壓倒的物量ですすめる。
以上。
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6/25附記。「軍事評論家・文谷數重氏と、咬み合はぬ議論」
http://senkaku.blog.jp/2016062462254740.html
こちらのリンクも併せてご覽下さい。~~文谷數重氏のブログについてWIZといふ人がコメントで知らせてくれた。早速以下の通りにブログに書き送っておいた。
http://schmidametallborsig.blog130.fc2.com/blog-entry-1649.html
今晩は。
http://senkaku.blog.jp/2016062262084142.html
 私がこちらリンクで書いた原文は、以下の通り。
 「尖閣に於いてチャイナがゼロであることは、國際法は勿論のこと、歴史について私が證明した通りだ。文句があるなら文谷氏は私に反證して欲しい。」
 要するに尖閣の歴史について反證して欲しいといふことです。何故なら文谷氏の議論はチャイナが尖閣でゼロではないといふ前提に見える(世間にさう見せてゐる)からです。歴史とは歴代の歴ですから、長い年月の古典史料の虚構こそ問題です。
 領海と接續水域との差は、勿論私が誤りでせう。無害通航と呼ばず、國際法にもとづく呼び方に交換して頂ければ幸ひです。
  戰前の南沙は臺灣に屬する「とした」(元々屬すると主張した)のでなく、屬「せしめた」(新たに占領した)のですから、日本が放棄する領土の内として無主 地に戻っても、中華人民共和國に屬する土地ではないでせう。精確には國際法の人にお任せします。日本が占領する以前に臺灣に屬したことは一度も有りませ ん。
 そもそもチャイナの南沙主張は二千年といふ虚構にもとづいてゐるので、二千年間の歴史的虚構を否定するのが正道です。多數の史料ですが、簡單に否定できます。
  人工島については無害通航でないとの點も、私は細かく考へてゐません。南沙については日頃から無害通航し、人工島についてはそれと別扱ひとなるわけです か。人工島は多分國際法に存在しない概念でありませう。とすれば法的には公海上の障碍物なのでせう。とすれば國際社會は障碍物を取り除くべきだといふこと になります。細かな解釋は國際法にお任せしますが、要するにチャイナの横暴を阻止すべきです。
 文谷氏は私が希望するやうに歴史について反證するつもりは無いやうです。しかし要するに尖閣でチャイナはゼロです。南沙でも歴史的にはチャイナはゼロです。ゼロを前提として國際法や軍事の議論を全て組み立て直して頂きたい。それが私の希望です。
 文谷氏の文末に曰く、「尖閣の支配は百害あって一利もない」と。領土を支配しないのですから、話がかみ合はぬのも道理でせう。細かなことを述べずに尖閣放棄論を大々的に書いて頂きたい。その方が世間にとっても理解し易いでせう。



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以下節録。平成28年6月20日ダイヤモンド誌電子版掲載。
http://toyokeizai.net/articles/-/123508
 日本の立場からすれば抗議をするべきではなかった。事件の本質は尖閣を巡る一種のゲームにおけるルール違反である。それであれば、中国が以降のルール違反を躊躇する対応、つまり「抗議」ではなく「仕返し」をするべきであった。
 ……(中略)……
 日本として看過できないのは「尖閣ゲーム」のルールに中国が違反した点である。
 尖閣問題では日中間に暗黙のルールがある。これは相互に無駄なエスカレーションを防止するといったものだ。「現地での対立には軍艦を使わずに巡視船を使う」や「政府は互いに国民感情を刺激することはしない」がそれにあたる。
 ……(中略)……
 中国が尖閣での暗黙のルールを破ったのであれば、日本は別の場所で中国に損をさせればよかった。それにより尖閣でのエスカレーションを防止しつつ、中国にルール違反を躊躇させることができる。
 仕返しの具体例としては、南沙人工島の12マイル以内の通過を挙げられる。中国が尖閣付近、目安としての接続水域に軍艦を一回入れるたび、日本も機械的に護衛艦を一隻通すといったものだ。こうすれば中国は尖閣付近での行動には慎重になる。事実上無価値の尖閣での実効支配積み上げを行うと、現実に支配が進んでいる南シナ海の領土主張で切り崩しを受ける。それを避けるために慎重になるだろう。


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田岡俊次
 田岡俊次といふ軍事評論家なる人物が論説(下方に節録)を書いてゐる。ほぼ曰く、
「今囘接續水域侵犯で抗議したので、同じ基準で今後は日本の軍艦もチャイナの接續水域に進入できない」
と。
http://diamond.jp/articles/-/93104?page=4
 根本的前提が間違ってゐる。チャイナ軍艦は、日本の接續水域を侵犯したのではない。自國の毘連區(ひれんく、接續水域)に這入っただけだといふ理屈だ。今後日本の軍艦がチャイナの接續水域に這入っても、チャイナは今囘と同じ基準で抗議することはできない。同じ基準ならば、尖閣の接續水域を日本の接續水域と認めることになるからだ。例へば海南島の接續水域に日本軍艦が這入った場合、對話形式では次のやうになる。
チャイナ「我が國の接續水域を侵犯するのをやめよ」
日本「航行の自由だ」
チャイナ「日本も同じく尖閣の接續水域侵犯に抗議したではないか」
日本「宜しい。貴國は尖閣が日本の接續水域だと、たった今認めた。したがって今後は尖閣の接續水域侵入に對して我が國は抗議しない」
チャイナ「とにかく海南島の接續水域から出よ」
日本「宜しい。では同じ基準で、貴國は尖閣以外の日本の接續水域にも這入れなくなる。那覇宮古間の水道以外に、貴國は太平洋へ出る航路を全て失った。」
接續水域
以上は、私の尖閣研究とは全く關係ない。ただの常識的理解に過ぎない。田岡氏はこんな簡單なことも分からないのか。軍事評論家を名乘って「目から鱗が落ちる」とまで自讚するのだから、分からない筈は無からう。故意に誤魔化してゐるのだらう。どちらでも同じことだが。

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以下節録。平成28年6月16日ダイヤモンド誌電子版掲載。
日本の艦船が将来、同じ憂き目に合う可能性も 田岡俊次
http://diamond.jp/articles/-/93104?page=4
 「中国は尖閣諸島の領有権を主張しているから、中国軍艦が接続水域を航行することは緊張を高める行為」という説明だが、どの国が領有していようと接続水域に沿岸国の主権は及ばず、密輸の防止など極めて限定的な目的で管理を許されるだけだから、領有権と接続水域内の航行はほとんど関係がない。まるで自宅前の公道を不仲の人が通ったことに怒り、真夜中にどなり込むクレーマーじみた行動だ。
 ……(中略)……
 日本政府がこうした行動を取ったことは、他国が将来日本の艦船に対して同じことをしても抗弁できない状況を生むことになる。接続水域も排他的経済水域も、沿岸国の主権下になく、ごく限定的な管理権を認められた公海だから、もし他国が日本の艦艇や漁船、商船の航行を妨害しようとし「緊張を高めるから直ちに退去せよ」と要求した場合、こちらは「法的根拠が無いではないか」と抗議すべきだ。だが「以前貴国もそうした例がある」と言い返えされれば苦しい立場になる。

 日本船籍の商船は減ったとは言え、日本の船会社の支配下にある便宜置籍船を主とする「用船」を含むと日本の外航商船隊は2500隻以上、1億2000万tを擁し、日本はなお有数の海運国だ。海運による輸入量は8億t、輸出は1.6億tで日本の経済だけでなく、国民の生存が海運にかかっている。漁獲高は近年減ったがなお370万tで世界8位、造船は2014年の竣工量が1300万tで第3位だ。

 海洋国である日本にとっては航海の自由が決定的に大事な国益で、公海が広い程好都合だから、英国と共に古来の領海3海里に固執した。だが、その抵抗は空しく、領海幅は拡がり、全ての沿岸国が接続水域と排他的経済水域を設けることになった。大陸棚の定義も拡大され、海洋権益の分け取りが進み、一部の沿岸国は接続水域や排他的経済水域を領海視する動きも見せる。「この形勢では、今世紀中に公海は無くなるのでは」との声も出る。今回日本政府も接続水域を領海同様に扱って、外国軍艦に「直ちに退去せよ」と要求したのは、その傾向を助長する先例になる。

 外務官僚たちは接続水域が領海ではないことは十分承知していたろうから、海洋法を知らない政治家が緊張し、興奮しても「そこを通るのは合法です。抗議をする法的根拠はありません」と諫言し「航海の自由」という重大な国益保持に努めた方が、外務省の存在価値を高めただろう。

 だが、中央省庁の幹部人事は2014年から内閣人事局が管理し、首相官邸が人事を主導することになったため、官僚は保身、出世第一で権力者に取り入ろうとするから歯止めの役には立たない。戦前に国際連盟脱退や、独伊との同盟を推進した外務官僚、「天皇機関説」の排撃に努めた文部官僚たちもこういう心理状況にあったのか、と分かった気がする。







 北村淳氏の論説はいつも尖鋭にして肯綮(こうけい)にあたってゐる。
http://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E5%8C%97%E6%9D%91%20%E6%B7%B3
防衞方面の要職に就いて頂きたい。しかし今度の論説ばかりは誤ってゐる。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47081?page=3
日本が尖閣防衞のため強い措置を取ると、チャイナも法的には南沙で同じく強い措置を取ることができる、といふ主張である。他の論者にも多く見られる誤りだ。しかも一番誤ってはいけない急所だ。
 日本が尖閣を守るのは100%の正義であり、チャイナが南沙を守るのは不正義である。その違ひを世界が理解するか否かが最大の鍵だ。尖閣でも南沙でも、チャイナが漢文(文語文)史料で主張するのは全て嘘だけにもとづいてゐる。チャイナはニセ骨董屋である。一見すると古さうな品物をならべてゐるが、ちょっとよく見れば全部贋物である。そこを世界が理解するか否かで、尖閣の守り方、南沙侵略の阻み方、全然違って來る。
 「南沙でチャイナに好き勝手にさせないために、日本は尖閣で少し遠慮する」、といふ方法は完全にチャイナの歴史虚構戰に負けてしまってゐる。北村氏ほどの人までもが、かくも簡單にチャイナの術中にはまるのだから、チャイナ側としては面白くてたまらないだらう。
 尖閣南沙は、ともに漢文史料の歴史戰であり、ともにチャイナはゼロである。尖閣でのチャイナのあらゆる行爲は全て違法であり不正義である。それを南沙と同列に考へて接續水域で遠慮するのは、要するに尖閣の歴史戰でチャイナがゼロではないといふ前提にもとづいてゐる。歴史戰を勝たない限り、幾ら北村氏が安全保障を研究しても役に立たないだらう。まづは尖閣の正しい歴史を分かり易くならべれば、以下の通り。

1、西暦1461年の『大明一統志』以後、歴代史料でチャイナ正規領土は大陸海岸までと明記されてゐる。
2、西暦1534年の最古の史料『使琉球録』(陳侃著)に、琉球人が尖閣海路を導いたと明記してある。
3、最古の記録が琉球人の案内だから、漢文「釣魚嶼」(てうぎょしょ、今音ちょうぎょしょ)の命名者は琉球人と推測される。
4、海路案内人の主力は福建から琉球に歸化した「三十六姓」の子孫だが、彼らが明國籍から外れることは、『皇明實録』嘉靖二十六年に皇帝の語として明記されてゐる。
5、三十六姓の遠祖たる福建民族は漢民族ではない。チャイナ七大方言のうち六大まで東南部に集中するが、少數民族は東南以外にだけ分布する。これは東南部がもともと少數民族だったことを示す。
6、海路案内人は琉球人でありながら、琉球國内海域に到達後も福建人が操船する。これは操船と海路案内とが分業されてゐたことを示す。尖閣海域でも琉球人が案内し、福建人が操船したと推測される。
7、チャイナが西暦1403年の最古と稱する『順風相送』の後半は、西暦1573年以後の記述から成り、且つ琉球人の尖閣航路を載せてゐる。
8、西暦1556年の『日本一鑑』から以後は、「釣魚嶼」を臺灣北方三島の一つとする史料系列があり、尖閣ではない。
9、西暦1617年『皇明實録』以後、歴代史料でチャイナ海防は大陸沿岸40km以内の六島ラインまでと明記されてゐる。
10、尖閣航路上、琉球西端は久米島附近、チャイナ東端は馬祖列島附近だと諸史料に記載され、中間の尖閣は無主地であった。
11、西暦17世紀前半、朱印船貿易史料で尖閣は長崎から與那國島を經る呂宋貿易の航路上に在り、チャイナと無縁である。
12、西暦1683年、汪楫が尖閣の東で記録した「中外の界」は、チャイナと外國との境界線ではない。琉球の風水思想の統一解釋にもとづき、琉球が中、西側が外である。
13、臺灣の風水思想では、龍脈は福州から基隆を經て臺南に至ってをり、尖閣方向に伸びない。
14、西暦18世紀以後のチャイナ史料でも、海路案内者は臺灣海峽で早くも琉球人に交替し、東の尖閣海域へ進む。
15、西暦18世紀前半以後、『臺海使槎録』など臺灣の地誌諸本に載せる「釣魚臺」は、臺灣正北方もしくは東南方の島であって、尖閣ではない。
16、最古の上陸記録は西暦1819年『尚姓家譜』に見える琉球王族である。
17、西暦1845年、英軍艦に乘り組んだ八重山の水先案内人によれば、尖閣には地元の島名が有ると記録される。
18、歐洲製の地圖・地誌では、西暦1751年ゴービル神父「琉球録」以後、次第に尖閣を琉球と看做すやうになる。
19。西暦1804年シュティーラー「支那圖」以後は、尖閣を琉球内と看做す史料が多數出現し、一方で尖閣をチャイナとする歐洲製地誌・地圖は一つも存在しない。
20。西暦1885年に日本政府が尖閣領有をためらった原因は、同年九月の朝日新聞の報導によれば、宮古八重山の領土歸屬問題であり、尖閣問題ではない。

以上は暗記して頂きたい。別の形でならべたのが下リンク。
http://senkaku.blog.jp/2016061661752011.html
http://senkaku.blog.jp/archives/36437239.html

南シナ海のチャイナ側の二千年の嘘については下リンク。
http://senkaku.blog.jp/2016040257697412.html
http://senkaku.blog.jp/2016032257037201.html

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以下、今度の北村氏論説から節録。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47081?page=3

「接続水域」航行への抗議は中国の思うつぼだった
ロシアも航行したのに中国にだけ抗議、中国は作戦開始?

2016.6.16(木)  北村淳  

 今回の中国への厳重抗議は、その閣議決定を踏まえた日本政府が、「日本の領海内航行には至らずとも、中国軍艦が日本の接続水域内を航行することも日本に対する軍事的威嚇とみなし、航行の自粛を求める」という立場を中国政府に対して表明したものとみなすことができる。
 つまり、日本政府は領有権紛争海域において、限定的とはいえ「航行自由原則」に対する制限を主張していることになる。

予想される中国政府からの“反撃”

 中国政府は、南沙諸島周辺海域をはじめとする南シナ海で、「航行自由原則」に対する制限を主張している。中国領海内を通航しようとする外国軍艦は事前に中国政府の許可を受けなければならない、という無害通航権の制約の主張である。
 中国政府は「我々の主張と似通った制限を、尖閣周辺海域で日本政府は実施している」という解釈を国際社会に喧伝するであろう。
 そして、アメリカに対しては次のように主張するであろう。
「日本政府は東シナ海で、“自国防衛のための『航行自由原則』に対する一定の制限”を実施している。中国政府は、それと似通った制限を南シナ海で実施しているのだ」
「アメリカ政府は、南シナ海での中国による自衛措置に対して『航行自由原則』の維持のためと称してFONOPを旗印に軍艦を派遣し中国を脅迫している。それならば、東シナ海での日本政府による『航行自由原則』に対する制限措置に対して、アメリカ政府はどのように対処するのか?」
 さらには日本の領海内に中国軍の軍艦を侵入させることを正当化する、こんな難癖も言い出しかねない。
「アメリカは領有権紛争が存在することを口実に、南沙諸島周辺海域を中国の海ではなく公海と言い立てて、渚碧礁(スービ礁)や永暑礁(ファイアリークロス礁)の周辺12海里内海域にまで軍艦や航空機を乗り入れている。そして、そのような軍事的挑発行動を“航行自由原則維持のための作戦(FONOP)”と名付け、あたかも国際海洋法を擁護するための行為と正当化している。それならば、中国としても領有権紛争係争中の海域である尖閣諸島周辺12海里に軍艦を乗り入れても、アメリカから文句を言われる筋合いはない──」

北村淳講演
  ▲北村淳氏講演 



1.China ignores all documents regarding its border, which was actually far west of the Senkaku islands.
  A large number of historical documents indicate that the border of the Min (Mdr. Ming) Empire and the Shin (Mdr. Qing, Ch'ing) Empire was far west of the Senkaku islands. The most important historical document to verify this fact is “Komin Jitsuroku” (Mdr. Huangming Shilu), an official daily record of the Ming Court, written in 1617. It describes that a Japanese envoy was told by the head of the Chinese coast guard that “outside of the six islands located alongside the coast of Fukken is a big ocean, in which
any nation can sail without restraint”. One of these six islands named Tuoyu was known as a western gateway which provided a sea route for the Senkaku islands. This sea route lay outside of the border of the Min Empire and the Shin Empire.
  China ignores inconvenient documents and insists obstinately that its border is the east part of the Senkaku islands, where the boundary of Ryukyu used to exist.
1617yomiuri_english


2.Ryukyuans continuously navigated Chinese ships to Ryukyu through the sea of Senkakus.
  Between Ryukyu and China, people traveled one another for a long period of time. The earliest sailing record can be found in “Ryukyu Mission Chronicle” (Shi ryukyu roku, Mdr.ShiLiuqiu lu), a journal of an envoy to Ryukyu, written by Chin kan (Mdr. Chenkan) in 1534. According to Chin kan, the time when he had difficulty in shipping out from Fukushu (Fuzhou, Foochow), the king of Ryukyu sent government officials to navigate his ship to Ryukyu. He appreciated this offer with a huge amount of joy (the term
“三喜Sanki”, meaning delighted three times, is used to express how happy he felt ), then he could reach the Ryukyu through the sea of the Senkakus escorted by Ryukyuans.
  The historical documents thereafter also show that Ryukyans took charge of guiding Chinese sailing ships through the sea of the Senkakus, and the eastward of Taiwan Strait. However, there is no record of piloting ships in the same areas by Chinese people. It means that the sea area of the Senkaku islands was practically under the Ryukyuan’s control. China emphasizes that its ships passed the Senkaku area during the Min (Mdr.Ming) Empire period, disregarding the Ryukyuan navigators’ support.

3.The historical literature written in 1403, which China claims, was actually written after 1573.
  China insists that the marine navigation manual called “Sailing Downwind” (Junpu-soso, Mdr. Shunfeng xiangsong), written in 1403, is the earliest document describes about Senkaku islands. It also contains
descriptions of the Portuguese lived in Nagasaki bay area, and the Spanish fortress build in Manila. In fact, the Portuguese start to live in Nagasaki and opened its port in 1570, and it was in 1573 when the Manila fortress was built. Thus, “Sailing Downwind” was certainly written after 1573, not in 1403. Therefore, we could conclude that the oldest document about Senkaku islands is the “Ryukyu Mission Chronicle” (Shi ryukyu roku, Mdr.ShiLiuqiulu), a journal of an envoy to Ryukyu, written by Chin kan in 1534.  “Sailing Downwind” also illustrates a northern straight-line sea route to the Senkaku islands from the coast of Fukken. Normally, people took a southern route near the northernmost point of the Taiwan Island to the Senkaku islands. Many historical documents, including “Sailing Downwind” itself, mention that the northern route was very difficult to get through, so that the only highly experienced Ryukyuans could maneuver ships. Paying careful respect to Ryukyuan navigators, “Sailing Downwind” was supposedly written from a Ryukyuans’ perspective. There is no evidence that the Min (Mdr. Ming) Empire discovered the Senkaku islands as China claims. On the contrary, it can be said that the Ryukyuans always took a leading role in the Senkaku sea area with their profound knowledge of sea routes and
advanced skills of handling ships.

4.Chogyo-sho(釣魚嶼now Uotsuri Island; Mdr. Diaoyu-tai) is named by Ryukyuan using classical style of Kanji, not by Chinese. (釣魚Chogyo “fishing” 嶼sho “island”)
  The oldest record of the Chogyo-sho (now Uotsuri Island; Mdr. Diaoyu-tai), one of the Senkaku islands, appears in “Ryukyu Mission Chronicle” (Shi ryukyu roku, Mdr.ShiLiuqiu lu), a Journal of an envoy to
Ryukyu, written by Chin kan (Mdr. Chenkan) in 1534. The journal describes that the Chinese reached the Chogyo-sho navigated by the Ryukyuans. Thus, it is natural to presume that the island name had been already given by Ryukyuan. However, China insists that the Chinese named this island, only because a classical literary style of Kanji (漢字Chinese characters) is used for its name. A classical literary style of Kanji called Kanbun(漢文Mdr. Hanwen) is widely used in east of Asia to communicate each other. Chogyo(釣魚Mdr.Daioyu), meaning fishing, is a name of the Kanbun style, not of recent Chinese. Many places were named using Kanbun, for example, Tokyo (Mdr. Dongjing), Hokkaido (Mdr. Beihaidao) and so on. Moreover, a word "Sho嶼 (Mdr. Yu, old style Mdr. Su)”, meaning an island, attached to the name of the islands can be often found in the Japanese classical literature.
  Kanbun is similar to Latin. Latin is the common language of a civilization, so as Kanbun.

5.Chogyo-dai in the local records of Taiwan is not the one in Senkakus 
  The island named Chogyo-dai (釣魚臺now Uotsuri Island; Mdr. Diaoyu-tai), meaning a platform of fishing, can be also seen in the local record of Taiwan and subsequent ones, the first appearance was the year of 1722. Supposedly, Taiwan’s Chogyo-dai was the island only had the same name as the one in Senkakus.  
  The days of sail, people made their trip to Ryukyu in summer and returned to Fukken (Mdr.Fokkien, Fujian) in winter by using the power of seasonal winds. Once they were on their way to Ryukyu in summer, it is impossible to change their direction back to Fukken during the summertime. Stopping over
in Chogyo-dai of Senkakus meant that they were automatically heading to Ryukyu, as every journal of old time voyages recorded. On the other hand, there is no description of the Ryukyu Islands or the other islands of Senkakus in the local records of Taiwan.
  Moreover, other four historical documents explain that Taiwan’s Chogyo-dai is located on the west side of three north islets of Taiwan. Therefore, Taiwan’s Chogyo-dai is not the same Chogyo-dai the one in the Senkaku islands.

6.The east part of the Senkaku islands is the internal and the external border of the Ryukyu.
  "Shiryukyu-zoroku” (Shiliuqiu-zalu in recent Chinese), miscellaneous records of an envoy to Ryukyu written by Oshu (Wangji in recent Chinese)in 1683, indicates that a Ryukyuan told him there was a boundary of the Ryukyu on the east side of Senkakus. The Ryukyuan uses the term “Chu-gai no kai中
外之界” ,meaning the internal (中Chu)and the external (gai外) border (kai界), for its boundary. Recently, China insists “Chu中” means China and “gai外” means foreign countries. However, the envoy Oshu described on his own work "Kankai-shu”(Mdr. Guanhai-ji), a sea observation anthology, that Fukken’s territory ended by the Tosa (Dongsha in recent Chinese) Islands, which is called Matsu Islands (Baso in Japanese, Mazu in recent Chinese) nowadays, in Taiwan Strait. If the territory of the Fukken ended there, the Shin (Qing, Ch'ing) Empires’ territory also ended there.
  The boundary on the east part of the Senkakus that the Ryukyuan explained to the envoy Oshu is not related to China at all. “Chu-gai no kai中外之界” (the internal and the external border) is about the internal border of Ryukyu and the external border of Ryukyu.
*Mdr.: Mandarin Chinese


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「琉球尖閣近著雜録」『純心人文研究』第二十一號。平成二十七年春。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AN10486493
以下に一部分を節録。

明國は併合に同意した  
 西暦1609年に薩摩が琉球を併合してから八年後の西暦1617年、福建に日本の使者明石道友が渡航し、福建の海道副使(海防兼外交長官)韓仲雍がこれを訊問した。訊問記録は國立公文書館の内閣文庫にのこる寫本『皇明實録』(中央朝廷の議事録)の同年八月一日の條に見える(圖五)。
福建海道副使琉球
圖五 内閣文庫藏『皇明實録』より

韓仲雍が「日本はなぜ琉球を侵奪したのか」と質問すると、明石道友は供述して曰く、
「薩摩酋・六奧守、恃強擅兵、稍役屬之、然前王手裏事也。……但須轉責之該島耳。」
〔薩摩の酋・陸奧守、強きを恃み兵を擅にし、稍やこれを役屬せしむ、然れども前王(家康)の手のうちの事なり。……ただ須らく轉じてこれを該島(薩摩)に責むべきのみ〕
と。薩摩が琉球を併合したのは家康の世で濟んだ話であり、この件は薩摩を追究して欲しい、との意になる。家康は前年(西暦1616年)に亡くなり、それを理由に申し開きめいた供述である。これを承けて韓仲雍は次の通り諭告した。曰く、
  「汝并琉球、及琉球之私役屬於汝、
   亦皆吾天朝赦前事。當自向彼國議之。」
  〔汝(日本)の琉球を併する、及び琉球の
   ひそかに汝に役屬するは、また皆な吾
   が天朝(明國)の赦前の事なり。まさに
   みづから彼の國(琉球)に向かひてこれ
   を議すべし〕
と。「并」とは併合である。薩摩が併合したといふ認識は、現代人が考へ出したのでなく、この時すでに存在した。「役屬」とは納税や兵役などを以て服屬することを指す。役屬の主語は琉球であり、琉球が半ば主動的に日本の領土となったと韓仲雍は理解したのである。「赦前」とは萬暦四十二年(西暦1614年)に皇帝が天下を大赦したより前を指す。日本(薩摩藩)が琉球を併合したのはその五年前である。即ち大赦の前に日本が琉球を併合したことを不問に付したことになる。
 「亦」とは、過去の家康の事だとの申し開きを承けて、明國側でも恩赦以前の事だと迎合した語である。琉球併合は既に過ぎたことだから、お互ひに追究しないこととなった。その上でさらに「議すべし」とは、役屬について日本が自分で琉球と議せよとの意である。この一語が決定的に併合同意を示してゐる。華夷秩序は歴史の現場に適用できないのが通例だが、その好個の證佐がこれである。
 この語は韓仲雍が日本の使者に言明したのであり、更に原史料の下文によれば福建の高官黄承玄および李凌雲が中央朝廷にも上奏した。同じ記録は黄承玄『盟鷗堂集』所載の上奏文にも見えるほか、『東西洋考』や『皇明經世文編』など、明國の通行史料の中に早くも見える。しかし併合同意を告げた一語が朝野の批判を浴びることは無かった。なぜなら根本問題として琉球に援軍を送ることが不可能だったからである。
 この史料により、朝貢開始から薩摩併合まで二百年の差は解消され、琉球に於いて薩摩と明國との立場は形式的にも對等となった。言ってみれば西暦1617年に、明國は日本と琉球との婚姻に一度は同意したのである。さらに後の清國と較べれば、薩摩が先行者となる。薩摩から清朝に通知する必要は無く、統治を掩蔽したか否かを質される筋合ひも無い。  
 明國は清國とは別の國家だが、兩者は國際法上の繼承國に相當するのか否か。清國最初の使節・張學禮の著『使琉球記』によれば、明國が瓦解して間もない順治三年(西暦1646年)、清國は明國が琉球國に下賜してゐた國王印を清國に返すやう求め、同十一年(西暦1654年)に琉球國から返納された。そして康煕二年(西暦1665年)七月十七日に、使節張學禮は琉球國の王城で册封の典禮を行なひ、新たな國王印を琉球王尚質に下賜したといふ。ほぼ同じ記録は琉球國側の『中山世譜』などにも見える。
 これを現代國際法でどう解釋するか、私には分からない。かりに清國が明國の繼承國となったのであれば、日本による琉球國併合に明國が同意した事實はそのまま清國に引き繼がれ、清國も同意したことになる。かりに繼承國でないのならば、清國よりも先に琉球國は日本の實効統治下に這入ってをり、後から來た清國がそこに干渉することはできない。どちらに解釋してもチャイナの主張は通じない。
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 以上の内容は、平成二十五年の五月に一度産經新聞全國版で報導される筈だった。その直前の五月八日に人民日報は琉球主權に論及し、日本政府が抗議したので、
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/world/2013-05/08/c_124677463.htm
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE94801O20130509

それを承けて私は産經に報導を依頼したのである。しかし寸前で内部事情により取りやめとなった。産經が取りやめて以後、この史實はほとんど世間に知られてゐない。かくして日本は世界の輿論戰に負ける。


中国駐英大使「当事国以外が紛争を挑発するのは愚か」英紙に寄稿 日米の介入を牽制
 【ロンドン=岡部伸】中国の劉暁明駐英大使が10日、英紙デーリー・テレグラフに寄稿し、南シナ海の領有権問題で近く示されるオランダ・ハーグの常設仲裁裁判所の判断を念頭に、「当事国以外が介入して紛争を挑発するのは愚かで、フィリピンは交渉による解決に戻るべきだ」と述べ、日米の介入を牽制しながら当事国間協議で解決を目指す方針を強調した。
http://www.sankei.com/world/news/160611/wor1606110035-n1.html

上の産經記事。
今問題の南沙諸島(スプラトリー)で、そもそもチャイナは當事國ではない。なぜならチャイナの持ち出す史料なるものは全て嘘だからだ。ほんの一例が下リンク。
http://senkaku.blog.jp/2016040257697412.html
「南海諸島を發現」二千年の虚言
二千年前に南沙を發見したのは西方文明の船であった。

歴代史料ことごとくこれの同類だ。そして歴代の官製地誌で、チャイナ最南端は海南島までと明記されてゐる。

侵略すれば當事國の資格を得るのか。そんな道理は無い。尖閣でもチャイナは當事國ではない。史料が全てを證明してゐる。

海南島



『八重山日報』第四面にて只今連載中の「歐洲史料尖閣獺祭(だっさい)録」。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
有料ですが、今囘だけ特別サービスで全文轉載します。特に後半、第38囘にご注目。

『八重山日報』五月三十一日(火曜)第四面。歐洲史料 尖閣獺祭録 連載第三十七囘 
東インド會社の一言、引用者は「尖閣は琉球」と理解した ~西暦千八百二十一年 ボウディッチ『米國實用導航録』第五版(米)

 連載第二十囘で、英軍水路誌の底本となった西暦千八百二十七年の東インド會社『印度志』第二册の第三版について述べた。「尖閣は琉球であらう」といふ肯定的推測が書中に書かれてをり、後の英軍水路誌中の尖閣認識に繋(つな)がって行った。
 その時は書き逃したが、西暦千八百十七年刊行の『印度志』第二册第二版で既に「尖閣は琉球であらう」の語が出現してをり、尖閣(Hoa―pin―su及びTy―ao―yu―su)は臺灣島(Formosa、フォルモサ)の後ろに置かれてゐる(圖83)。臺灣(たいわん)北方三島及びラメイ島(Lamay、小琉球嶼)は臺灣島の段落中で記述されるが、尖閣だけは改行して別小段を立ててをり、附屬(ふぞく)と附屬外との差を見せてゐる。ならべれば、
  一、臺灣島及び附屬島嶼
  二、尖閣
  三、澎湖(Pehoe)
  四、八重山
  五、宮古島
  六、琉球本島
  七、日本列島
といふ順序になってゐる。澎湖諸島は日清戰爭の下關(しものせき)條約でも臺灣(たいわん)附屬外に別途記述されてをり、臺灣と澎湖との間に尖閣が置かれても附屬とはならない。

圖83_1817_India_Directory_vol2尖閣Hathi
圖83 東印度會社『印度志』(india directory)、西暦千八百十七年第二版、第二册。ホースバーグ(Horsburgh)著。倫敦にてブラック氏刊。ハーティ・トラストより。「3 isles」は臺灣北方三島。

 その前の西暦千八百十一年初版は、『印度志』(インディア・ディレクトリー)と題せず、『印度支那新和蘭喜望峰航路志』と題する。「航路志」の原語は「ディレクション・フォー・セイリング」となってをり、編者は同じくホースバーグ氏である。「尖閣は琉球であらう」といふ肯定的推測も既に書かれてをり(原版第三百六頁)、西暦千八百八年のクラットウェル(連載第八囘)に次いで早い。臺灣島の後ろに置かれるのも第二版と同じである。
 注目すべきは、ホースバーグ初版、第二版、三版、四版ともに漢字の釣魚嶼をローマ字「Ty―ao―yu―su」に作ることである。もともと西暦十八世紀の地圖では「Ty―ao」でなく「Tiao」だったので、ホースバーグは少しく特殊である。
 同じ「Ty―ao―yu―su」のローマ字形を他書に求めると、西暦千八百二十一年ボウディッチ著『米國製新實用導航録』第五版に出逢ふ(圖84)。上から順に、
  フォルモサ(臺灣島)
 →澎湖諸島(Pehoe)
 →八重山(Patchow)  
 →與那國(Kumi)  
 →宮古島(Ty―pin)  
 →琉球(LieuChew)  
 →尖閣  
 →薩南諸島  
 →九州(長崎等)  
と列してゐる。尖閣「Ty―ao―yu―su」のローマ字は特殊なので、明らかにホースバーグ書の浸潤を受けてゐる。しかし尖閣が琉球本島の後ろに移動してゐるのだけはホースバーグと異なる。

圖84_1821_Bouwditch_New_American_Practical_Navigator尖閣
圖84 『米國製新實用導航録』(The New American Practical Navigator)。ボウディッチ氏著(Nathaniel Bowditch)西暦千八百二十一年第五版。第二百八十六頁、經緯度表。ニューヨークにてブラント氏(Edmund March Blunt)刊。グーグル・ブックス

 ボウディッチ書の初版は西暦千八百二年に刊行され、尖閣は通例の「Tiaoyu―su」に作り(圖85)、記述の順序は
  與那國(Kumi)
  尖閣
  琉球(Lieukieu)
  薩南諸島  
  日本本州(能登等)  
となってゐる。臺灣は全く別に前の頁で呂宋から繋(つな)がる島として扱はれてをり、尖閣は臺灣附屬から遠く離れてゐる。その後第二、第三版を經(へ)て西暦千八百十七年の第四版まで全て同じである。

圖85_1802_Bowditch_New_American_Practical_Navigator尖閣白黒
圖85 ボウディッチ氏著『米國製新實用導航録』西暦千八百二年第一版より經緯度表。頁數なし。ニューベリーポートにてブラント氏刊。archive.orgより。

 ボウディッチ書の第四版までは、一見すれば尖閣が琉球に屬するかの如くである。しかし八重山を載せず與那國(よなくに)だけ載せるのは、西暦千七百八十七年ラペルーズ(Laperouse)の航路であるから(連載第三囘)、單に航路の順序によって與那國の次に置かれたとも言へる。
 ボウディッチ書の第五版では、ローマ字形も配置の順序も上述の通りに大きく變更される。ホースバーグ書にもとづいて變更したのである。しかしボウディッチ書の第四版までとホースバーグ書とは、ともに尖閣を琉球本島の前に置いてゐる。ボウディッチ第五版で尖閣を琉球本島の後ろに移動したのは何故なのか。かりに航路の順序にもとづくならば、琉球本島から遙(はる)かに西方の魚釣島まで行って、次に薩南諸島へ跳ぶのは非現實(じつ)的である。
 答案はただ一つ。ボウディッチ第五版は、ホースバーグの「尖閣は琉球であらう」の語にもとづいて、尖閣を琉球本島の後ろに移したのである。西暦十九世紀前半の經緯度表中、尖閣を琉球の後ろに置くのは稀有であり、漫然と入れ替へたのではない。ホースバーグの語を肯定的に理解して、尖閣は琉球だと認識したことが分かる。

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『八重山日報』六月二日(木曜)第四面。歐洲史料 尖閣獺祭録 連載第三十八囘  
米軍水路局公式改訂でも、尖閣は琉球の内、四頁を隔てて臺灣 ~西暦千八百八十三年 ボウディッチ『米國實用導航録』公訂版(米)

 第三十七囘では米國人ボウディッチ氏が、東インド會社『印度志』の尖閣を琉球の一部と理解して、琉球本島の後ろに置いたことを述べた。こんな有り難いボウディッチとは如何なる人物なのか。
 書誌によれば、『米國製新實用導航録』の著者ボウディッチ氏は數學者にして航海術學者である。該書は「ボウディッチ導航録」として著名になり、版を累(かさ)ねた。米國軍艦にはボウディッチ導航録を攜帶(けいたい)するのが通例となり、西暦千八百六十七年には米海軍水路局が版權(はんけん)を購入するに至ったといふ。
 となるとペリー提督が浦賀琉球に來航した際にも船中に備へてゐたことは間違ひ無からう。ペリーもまた尖閣を琉球として認識したことは、一昨年の拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第四部で述べておいた。
 そこで、前囘論じた西暦千八百二十一年第五版よりも後のボウディッチ『米國製新實用導航録』歴年版を見てみると、六十年間にわたり尖閣の記述に大きな異同は無い。西暦千八百六十八年版では、國家が版權を取得したことが卷前告示に書かれてゐる。刊行者はワシントンの政府印刷局(ガバメント・プリンティング・オフィス)となってゐる。  
 國家の公刊となってもなほボウディッチの「尖閣は琉球」との認識を繼承するのだから、國家公式認識と言って良い。しかし卷前告示では、「今後改善を加へてゆく見込みだが、暫定的に舊版(きうはん)のまま若干訂正だけで印刷する」、と述べてゐる。必ずしも國家公式認識ではないとの但し書きである。
 ところが西暦千八百八十三年版に至り、尖閣も臺灣(たいわん)も大きく書き換へられる。第五百七十二頁では、
一、江蘇・浙江
二、澎湖島
三、臺灣島及び附屬島嶼
四、ボルネオ島
五、ミンドロ島
六、呂宋島
といふ順序で記述され、臺灣を含みながら尖閣を含まない。一方、尖閣はかなり離れた第五百七十六頁に載ってをり(圖86)、順序は
一、ティモール島
二、モルッカ諸島(パプアの西)
三、與那國島(Kumi)
四、石垣島(ハディントン)
五、宮古島(Tai―pin)
六、尖閣(Ti―ao―usu)
七、魚釣島(Hoapinsu)
八、琉球本島(Lu―Chu)
九、奄美大島(Oho)
十、山東省(Shantung)
十一、天津(次頁)
十二、大連(次頁)
とならんでゐる。要するに前後との連續性は有りながらも、それぞれ臺灣諸島で一群、琉球諸島で一群とまとめられてゐる。琉球諸島の一群の中で、宮古島と琉球本島との間にはさまれてゐるのが尖閣(久場島及び魚釣島)だ。

圖86_1883_Bowditch_American_Practical_Navigator尖閣
圖86 『米國製實用導航録』(The American Practical Navigator)。ボウディッチ氏原著(Nathaniel Bowditch)、西暦千八百八十三年、米海軍省水路局改訂版(Bureau of Navigation)。第五百七十六頁、海路定位表。ワシントン政府印刷局刊。グーグル・ブックス。破線及び尖閣の米印は今添加

 これは領土を示すものではないが、少なくとも西暦千八百八十三年の改訂以後、尖閣が臺灣から四頁も離れて無縁の扱ひとなったことは注目すべきだらう。尖閣が臺灣附屬(ふぞく)島嶼だとの認識を完全に否定してゐる。改訂前ならばボウディッチ個人の認識が遺留したものだと言ひ逃れもできる。しかし米國政府による公式の改訂だから誤魔化しが效(き)かない。
 この改訂版尖閣認識は、西暦千八百八十六年版、千八百八十八年版でもほぼ變(か)はらない。そして日清戰爭に至り、下關(しものせき)條約の前に日本は尖閣を編入する。編入後の改訂版でどうなったか。ほぼ變はらないだらうと思はれるが今後確認したい。
 勿論(もちろん)、附屬島嶼といふのは地理的認識に過ぎない。地理的でなく法的には、尖閣の遙(はる)か西方に明國清國の國境線が存在したので、國境線外の尖閣はそもそも如何(いか)なる條約の對象にもなり得ない。その前提の下で本連載は地理的附隨性を考察してゐる。
 尖閣は臺灣附屬島嶼ではない。それが尖閣編入時の米國政府の公式認識であった。今の米軍司令官にも見直して欲しいものだ。今の米國政府はチャイナに遠慮して、尖閣の主權問題に干渉しないと言ふ。日本政府もそれに關して米國に抗議しない。どちらも腰拔けである。

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既刊目録。
『八重山日報』第四面にて只今連載中の「歐洲史料尖閣獺祭(だっさい)録」。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
基本的に火曜と木曜に掲載されるが例外もある。
今迄の掲載日一覽は以下の通り。
第一囘 一月十四日(木曜)。最も早い「釣魚嶼」地圖 琉球と同じ色~~西暦千七百五十二年 ダンビル「アジア圖第二部分」(フランス)
第二囘 一月十六日(土曜)島名「Tiao-yu-su」(釣魚嶼) 幕府統治の貫徹を示す~~西暦千七百五十一年 ゴービル『支那名琉球諸島嶼誌』(フランス)
(一月十九日火曜休載)
第三囘 一月二十一日(木曜)。ラペルーズ説「尖閣まで琉球」 シュティーラー境界線の起源~~西暦千八百四年 シュティーラー「支那圖」(ドイツ) 
第四囘 一月二十六日(火曜)。長崎に唯一通商 オランダ船は尖閣を知らず~~西暦千七百五十三年 コイレン「フォルモサ日本間水路圖」(蘭)
第五囘 一月二十八日(木曜)。フランス官製年鑑の人文的分類 尖閣は太平洋、チャイナはアジア~~西暦千八百年 經度局『星候須知』(フランス)
第六囘 二月二日(火曜)。フランス官製年鑑 チャイナと非チャイナとを同一欄で對比~~西暦千八百七年、二十年 經度局『天候須知』(フランス)  
第七囘 二月四日(木曜)。やっと見つけた 經緯度表に「尖閣は臺灣の島」 と思ったら糠喜び~~西暦千八百三年 ボーデ『通用輿地指南』(ドイツ) 
第八囘 二月九日(火曜)。ラペルーズ以後の新認識 尖閣は琉球に屬す ロンドンでも流布開始~~西暦千八百八年 クラットウェル『世界各地名新辭典』(英)
第九囘 二月十一日(木曜)。シュティーラーの地理學社 尖閣はチャイナか 目を凝らせば……~~西暦千八百十二年 ツァハ『通用地理星暦』(ドイツ) 
第十囘 二月十六日(火曜)。チャイナの澎湖 チャイナ沿岸の尖閣 臺灣附屬島嶼説を否定~~西暦千八百十三年 ヴォスジェン『詳説世界新地理辭典』(フランス)  
(二月十八日木曜休載)
第十一囘 二月二十一日(日曜)經緯度表に尖閣は琉球と明記、ポルトガル國王も採用~~西暦千八百十五年 リスボン科學院『天文萬年暦表』(ポルトガル) 
第十二囘 二月二十三日(火曜)。ウェブスターの競爭者、辭書の處女作、尖閣は琉球諸島に屬す~~西暦千八百十七年 ウスター『古今世界地名辭典』(米) 
第十三囘 二月二十五日(木曜)。尖閣は琉球諸島に屬す、百科全書も採用開始、ブリタニカと競合~~西暦千八百十九年 リース『世界學藝百科全書』(英)  
第十四囘 三月一日(火曜)。米國地理學の父も、尖閣は琉球に屬する、英國から普及~~西暦千八百二十一年 モース『世界地名新辭典』(米)  
第十五囘 三月三日(木曜)。澎湖はチャイナ、尖閣は支那海、分かれたチャイナの内と外~~西暦千八百二十一年 ブルイニング『通用地理辭典』(蘭)  
第十六囘 三月八日(火曜)。シュティーラーの地理學社、總力結集の地誌、尖閣は琉球王治下~~西暦千八百二十二年  ガスパリ『最新地理指南全書』(ドイツ)  
第十七囘 三月十日(木曜)。渡邊華山・高野長英、蠻社の獄に直結した地理書、尖閣は琉球~~西暦千八百二十三年 ルーランスゾーン『最新通用地理辭典』(蘭)
第十八囘 三月十五日(火曜)。チャイナを避けて尖閣を探査 後の水路誌の基本となる~~西暦千八百四十五年 ベルチャー『サマラン艦航海録』(英)
第十九囘 三月十七日(木曜)。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で、次第に尖閣は琉球へ~~西暦千八百五十二年 イギリス東印度會社『印度志』第六版(英)
第二十囘 三月二十二日(火曜)。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で次第に尖閣は琉球へ(其二)~~西暦千八百三十六年 イギリス東印度會社『印度志』第四版(英)
第二十一囘 三月二十四日(木曜)。八重山人が水先案内した尖閣、英軍水路志初版、臺灣附屬に非ず~~西暦千八百五十五年、ローニー『支那導航書』(英)
第二十二囘 三月二十九日(火曜)。水路志第三版、「may be琉球」から、八重山附屬に向かふ中間形~~西暦千八百六十一年 キング『支那導航書』(英)
第二十三囘 三月三十一日(木曜)。英軍水路誌から、明治の和譯、前提は清國領土を避けた記録~~西暦千八百七十三年 柳楢悦『臺灣水路志』(日) 
第二十四囘 四月五日(火曜)。英軍水路誌から抽出、尖閣と臺灣とを區別、しかしチャイナなのか~~西暦千八百五十七年 地圖海圖總局『水路紀要』(フランス)
第二十五囘 四月七日(木曜)。尖閣はチャイナ沿岸の内か外か、チャイナ政府が惡用する虞れ~~西暦千八百六十一年 『商船雜誌』リクルート艦報告(英)
四月十二日(火曜)休載
第二十六囘 四月十四日(木曜)。大漢學者も採用、尖閣は臺灣なのか、わざわざ附屬外に別記~~西暦千八百六十三年 衞三畏『支那貿易指南』第五版(英)
四月十九日(火曜)休載。
第二十七囘 四月二十一日(木曜)。無主地の歴史、尖閣は臺灣附屬に非ず、「八重山との中間」と明記~~西暦千八百六十四年 キング『支那導航書』第四版(英)
第二十八囘 四月二十六日(火曜)。英軍水路誌の漢譯 歴史と無縁の宛て字 尖閣はバシー諸島と同卷~~西暦千八百七十四年 キング原著、漢文『海道圖説』(清)
第二十九囘 四月二十八日(木曜)。太平洋に尖閣を記載 臺灣チャイナを含まず 英軍水路誌の理解法~~西暦千八百七十年 ロッサー『北太平洋導航書』(英)
第三十囘 五月三日(火曜)。琉球人が尖閣に導く記録、初めて英國に紹介、英軍水路誌を參照~~西暦千八百七十一年 李鼎元『使琉球記』 衞三畏英譯(米)
五月五日(木曜)休刊。
第三十一囘 五月十日(火曜)。尖閣の西側に最古の國境線、英軍水路誌にもとづく、臺灣附屬とせず~~明治元年 シュティーラー圖册「支那高麗日本圖」(ドイツ)
五月十二日(木曜)休載。
第三十二囘 五月十四日(土曜)臺灣の東北の尖閣 またも殘念 宮古八重山諸島だった~~西暦千八百七十三年 英軍水路局『支那海誌』初版(英)
第三十三囘 五月十七日(火曜)。太平洋誌に琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣チャイナ誌に尖閣無し~西暦千八百七十年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第二版(英)
第三十四囘 五月十九日(木曜)。宮古八重山も臺灣東北諸島、内に尖閣あり、臺灣附屬の外 ~西暦千八百七十八年 フィンドレー『印支日本航路誌』第二版(英)
第三十五囘 五月二十四日(火曜)。太平洋の島々として、琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣なし ~西暦千八百八十六年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第三版(英)
第三十六囘 五月二十六日(木曜)。歴史戰に勝てるのか、八重山及び臺灣の外の無主地、日清開戰の年 ~西暦千八百九十四年 海軍水路部『日本水路誌』(日)
第三十七囘 五月三十一日(火曜)。 東インド會社の一言、引用者は「尖閣は琉球」と理解した ~西暦千八百二十一年 ボウディッチ『米國實用導航録』第五版(米)
第三十八囘 六月二日(木曜)。 米軍水路局公式改訂でも、尖閣は琉球の内、四頁を隔てて臺灣 ~西暦千八百八十三年 ボウディッチ『米國實用導航録』公訂版(米)
第三十九囘 六月七日(火曜)。 國吉まこも大發見、政府委託調査に採用、英軍の「臺灣東北」 ~西暦千八百九十三年 日清往復胡馬島公文(清)
第四十囘 六月十日(金曜)。 ラペルーズの尖閣、シュティーラー圖の琉球欄、中間を繋いだのは ~西暦千八百一年 ガスパリ『通用地理星暦』第七册(ドイツ)

以下は見込、期日變更の可能性あり。

第四十一囘 六月十四日(火曜)。 世界周航、北の提督の海路誌、臺灣附近に非ず、宮古八重山の内 ~西暦千八百二十七年 クルーゼンシュテルン『水路叢録』(露)



ダイヤモンド・オンライン
「オバマ広島演説に込められた原爆慰霊碑文の精神」
(編輯部共撰、編輯長深澤獻)
曰く、
『広島市も日本政府も、一貫して米国には謝罪を求めたことはない。日本政府は2007年7月に、鈴木宗男衆議院議員による「第二次世界大戦が終結して以来、政府は米政府に対して我が国に対する原子爆弾投下について抗議を行ったか」との質問に対して、安倍首相が「米国政府に直接抗議を行ったことは確認されていない」と答えている。』
http://diamond.jp/articles/-/92075?page=4

 上記の文章で鈴木議員は終戰後の抗議を言ってゐる。とすれば安倍首相の答辯は正しいが、折角だから終戰前の抗議文について言及すべきだった。
 以下は名文として知られるやうになった抗議文。西村幸祐氏より教へて頂いた。授業でも取り上げたことがある。ここに載せて置かう。朝日新聞昭和二十年八月十二日第一面。(畫像はツイッターより)
https://pbs.twimg.com/media/CjcarZ8UgAUjPgl.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CjcaqyYVEAI4uN8.jpg
朝日新聞昭和200812第一面原爆抗議文1twitter
朝日新聞昭和200812第一面原爆抗議文2twitter

 本月六日米國航空機は廣島市の市街地區に対し新型爆彈を投下し瞬時にして多數の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり。

 廣島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非ず、本件爆撃に関する聲明において米國大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壞すべしと言ひをるも、本件爆彈は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて廣き範圍に破壞的效力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の效果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆彈の性能については米國側においてもすでに承知しをるところなり、

 また実際の被害狀況に徵するも被害地域は廣範圍にわたり右地域内にあるものは交戰者、非交戰者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および幅射熱により無差別に殺傷せられその被害範圍の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害狀況より見るも未だ見ざる慘憺なるものと言ふべきなり。

 抑々交戰者は害敵手段の選擇につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を與ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戰時國際法の根本原則にして、それぞれ陸戰の法規慣例に関する條約附屬書、陸戰の法規慣例に関する規則第二十二條、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり、

 米國政府は今次世界の戰乱勃発以來再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戰爭方法の使用は文明社會の輿論により不法とせられをれりとし、相手國側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨聲明したるが、

米國が今回使用したる本件爆彈は、その性能の無差別かつ慘虐性において從來かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、

米國は國際法および人道の根本原則を無視して、すでに廣範圍にわたり帝國の諸都市に対して無差別爆撃を実施し來り多數の老幼婦女子を殺傷し神社佛閣學校病院一般民家などを倒壞または燒失せしめたり、

 而していまや新奇にして、かつ從來のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性慘虐性を有する本件爆彈を使用せるは人類文化に対する新たなる罪惡なり

 帝國政府はこゝに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米國政府を糾彈すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを嚴重に要求す




日本ドットコム、川島眞氏論説。末尾で南海宣傳戰に環境破壞問題を絡めるべきだと述べてゐるが、足りない。それよりも歴史の正義を論じることこそ正道だ。チャイナの主張する南海史がそもそも全て嘘であることを、史料で分からせる。NYタイムズ第一面で連載する。歴史戰といふよりも史料戰だ。
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南シナ海情勢と中国の対外政策—日本はどう関与すべきか      川島 真     [2015.12.28]  (節録)
http://www.nippon.com/ja/editor/f00036/

米国の「航行の自由」作戦とその限界

米国は、リバランス政策をとって東アジアの経済発展にコミットし、中国重視の政策をとってきた。日本をはじめ、同盟国との安全保障関係の強化もあるが、それは中国との関係を緊張させることを意図してはいない。オバマ政権は、一期と二期で中国に対する姿勢が異なり、次第に警戒心を強めているようにも見えるが、あくまでも対話路線を継続している。

その米国でさえ、ようやく重い腰をあげ、イージス駆逐艦を南シナ海に派遣した。「航行の自由」作戦である。だが、米国は領土問題それ自体には介入せず、あくまでも暗礁の埋め立てによる権利の発生の有無など、国連海洋法条約の解釈をめぐる中国への警告と、航行の自由という原則とその解釈の確認を行っているにすぎない。あるいは、領海における「無害通航」に対して事前通告を求めている中国に対して、事前通告をしないで航行するといったこともあろう。

米国が、イージス駆逐艦を南シナ海に派遣したからといって、中国の飛行場建設や軍事施設の建設などを止めることはできないだろう。そもそも、米国もそこまでの効力があるとは思っていないのではないか。米国はイージス駆逐艦を南シナ海に派遣しながらも、他方で上海近海において中米合同軍事演習を行い、RIMPAC(環太平洋合同演習)に中国を招待している。中国の認識では米国の南シナ海に対する動きを決して強硬だとは見ていないだろう。そうした意味で、オバマ政権は多少中国へのコンテインメントを強めたように見えるが、中国から見れば、自らの姿勢を変えるほどには感じられていないであろう。


ASEAN諸国―経済関係と安全保障問題のジレンマ

南シナ海の事態が緊迫化しても、ASEAN諸国が基本的に正面からそれに対応することは難しい。欧州のNATOのような組織は東アジアには形成されていないのである。しかし、強硬な中国に対峙する国々の間の連絡や結束が高まっているのも確かである。これらの国々は、自らの置かれている状況、中国への対応などについて情報交換を行いだした。もともと、多くの当事国が中国との緊密な経済関係をもち、その経済関係と主権、安全保障の問題をいかに両立するのかという問題に悩んでいた。そして、コーストガード(沿岸警備隊)のケイパビリティーをいかに向上させるのかという課題を共有している。


考え得る5つの対応策

では、強硬な政策を崩しそうにない中国に対して何ができるのか。以下の数点だろう。
……
第五に、世界の非当時国に対するパブリック・ディプロマシーを展開し、中国側の宣伝を相対化することである。その際には、単に主権や領土問題だけでは効果が小さいだろう。

ここで注目されるのが環境問題である。南シナ海での中国の岩礁や暗礁の埋め立ては明らかに環境破壊である。欧米のNGO、メディアなどは遥か遠い地の領土問題よりも、美しい珊瑚礁の破壊に高い関心を示す。これは日本政府から、日本にとっての“正しい”領土問題についての説明を受けた欧米の研究者が筆者に述べたことでもある。自らにとっての“正しさ”もあろうが、相手にとって関心を持てること、引き込まれること、を意識した対外広報が肝要となろう。

(2015年12月21日 記)
川島眞nippon

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 現在普遍公認甲午戰敗主要是人材歷鍊度等軟實力不足,不是艦砲槍彈落後。試想海防當局連鹿兒島、石垣島、直線計程法等最基本地理概念都糊裏糊途不關心,怎麼在一年後就和日本進行正常交戰ne。反觀井澤一介賈夫,還知道鹿兒島到石垣島間精確距離。明治維新後短短二十多年不可能培養出這些平民百姓。這四件公文順帶會糾正我們的明治維新觀的偏頗。

http://www.storm.mg/article/116887
石井望VS任天豪:日、清公函能說明釣魚台「新史實」嗎?

五月三日,《人民日報》第三版刊登清華大學劉江永教授文章〈駁日方在釣魚島問題上的欺人之談〉。數日之中,各地網路媒體爭相轉載。人民日報日文版、英文版都發布譯文,散布海外,不遺餘力。人民日報文中略云:

「西元1893年日本人井澤彌喜太等駕小船由八重山(石垣島)航往胡馬島(釣魚台)運米,途中遭風漂到福建。獲救後,他們對福建當局謊稱由鹿兒島赴石垣島運煤,順便搭載一客,不幸遭風漂入胡馬島。井澤欺騙福建當局的目的只有一個,他們明知胡馬島屬於清國,不能暴露登島偷獵信天翁等真相。」
鹿兒島石垣福州

劉江永教授謬說在我預料中,早在去年三月鄙撰論文中預先反駁過。現在不把謬說及時糾正,日本又將蒙受不白之冤。首先須知劉教授只討論一式四件中的第一、二件,記載的是福建海防當局單方面審訊井澤等人供詞,不是外交公文。其中關鍵在於井澤是否將「航往」謊稱為「漂入」。

鹿兒島到石垣島直線一千多公里,通常不可能駕小船走,更不可能順便搭客,此中必有路程距離之誤。供詞原文記載鹿兒島至石垣島為二百七十里,乃日本里數,相當於一千多公里,大致精確,每四公里約為一里。倘誤認為清國里數,則二百七十里約相當於一百四十公里,已經差八倍。況當時清國尚無直線計程法,例如西元1871年《重纂福建通志》記載福州至北京為六千餘里,而現代直線不過是一千五百多公里。因此二百七十里給人感覺不過是直線七十公里左右。把一千多公里誤認為七十公里,難怪井澤駕小船兼搭客從鹿兒島來,福建海防當局卻不驚訝。

事實是井澤等人家在熊本,從鹿兒島到石垣島來,在當地從商。業務中屢次駕小船航往胡馬島(釣魚台),其中一次不幸遭風漂到福建。福建海防當局把鹿兒島、石垣島間的長途,誤認為胡馬島、石垣島間的短程。連這些主要地理長短概念都弄不清,自然不會精確紀錄「漂入」和「航往」之別。假設井澤欲隱瞞其航往清國胡馬島實情,那根本沒必要供出胡馬島之名。可知井澤不是欺騙,而是語言不通。
計粘抄一紙
 公文一式四件中第二件,井澤供詞,藏於外務省外交史料館。(作者提供)

四件中劉教授刻意回避的第三、四件,是日清間一往一復的正式外交公凾,日本往凾稱井澤「向胡馬島航往」,等於將「漂入」更正為「航往」。清國復凾照錄日本凾中「向胡馬島航往」等原文,並云准此呈報上級並通知各有關官員。句意顯示井澤航往胡馬島沒有問題。

第一、二件井澤供詞中,敘述胡馬島離台灣相近,本想先去台灣求救。我們知道,石垣島以西一個無人島離台灣不遠的,不是台灣北方三島(彭佳嶼等),就是釣魚台,別無可擬。假設福建海防當局認為台灣島東北方有清國屬島,必然會想到胡馬島就是釣魚台,懷疑井澤是否有意侵犯國界。海防官員最應該有此概念。

這不過是假設,實情是釣魚台自古以來都在明國清國界外,官員不可能懷疑如此。遍尋日清間往返公文,除此外從未論及釣魚台,唯有此為獨一無二,極具價值。……
全文見《風傳媒》:
http://www.storm.mg/article/116887

福州返信自撮合成粗
 公文一式四件中第四件,清國覆凾,藏於外務省外交史料館。(作者提供)



 科學の眞理以前に、科學界といふ社會的要素が存在する。社會と眞理とは完全には一致しない。何故なら人間は愚かなので。參考:武田邦彦氏の見解。
STAP事件はどのように報道すべきだったか? : 武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/archives/1019266982.html
現代の宗教裁判(1) 論文には「正しいこと」を書かなければならない??
http://takedanet.com/archives/1016049720.html
定説と学説・・・学説の多くが間違い : 武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/archives/1048421551.html
小保方女史の方法を少し變へて工夫した研究が今後多數出て來るだらう。そこに小保方女史の功績を認めるのか否か、それは社會的問題であるから、最終的に問題ではない。小保方女史にも一千萬圓くらゐ研究費を出して繼續させれば良いではないか。日本にとって何も損にならない。

 なほ、私自身も新説を幾つか出してをり、世間からは無視されてゐる。
1、八百年前の北曲(元朝劇曲)のメロディーは滅んだと明朝から定説だが、實は滅びず存在。
2、謎の漢字音圖「韻鏡」はマンダラ旋轉方式で構成されてゐる。
3、漢詩の韻の配列もマンダラ旋轉方式で構成されてゐる。
4、正倉院尺八の指孔は唐の二十八調の浮動性をそのまま體現してゐる。
5、漢字音の清濁はもともと南朝の沈約が定めた高低である。
6、蘇州崑曲の字音を八聲とする三百年來の見解は誤りで、正しくは七百年前の杭州の七聲。
といった具合。どうですトンデモでせう。無視するなと騷いだり、學界で友達を作って宣傳しても仕方ない。死後に眞實は明らかになる。宣傳しようと懸命になったら逆に小保方女史のやうに負ける。

 ただ尖閣だけは懸命に宣傳せねばならない。何故なら宣傳せねば日本が滅びるから。しかし
「尖閣は480年史でこそ日本が勝利する。現代法だけでは逆に勝てない」
といふ簡單なことも信じない人が多い。
小保方寂聽



關聯:
小保方stap騷動で思ひ出した。尖閣史料が蒙った誹謗中傷
http://senkaku.blog.jp/archives/5542791.html

stap細胞と尖閣史研究
http://senkaku.blog.jp/archives/5260185.html

今、尖閣を國際法廷に出せば、日本は負ける。何故なら歴史を避けるからだ。
http://senkaku.blog.jp/2016032156961378.html

獨・佛がウクライナ新和平案を提示 尖閣に容喙を避けるには、五百年の歴史を語れ
http://senkaku.blog.jp/archives/22129694.html

東支那海・南支那海の「歴史」 チャイナ宣傳 アメリカがまんまと引っかかってゐる
http://senkaku.blog.jp/archives/3164638.html




日本安全保障戦略研究所 (SSRI) 第2回セミナーの御案内
「南シナ海情勢の現状と対応策」

1 演 題

・グレーゾーンの戦いで南シナ海を侵略する中国への対応 ・・・ 樋口譲次
・国際法から見た南シナ海問題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 髙井 晉


2 講 師

・樋口譲次
防衛大卒(13期)
陸上自衛隊第6師団長、幹部学校長、日本製鋼所顧問を歴任
現在、日本戦略研究フォーラム政策提言委員、偕行社安全保障研究会研究員、SSRI上席研究員など
樋口譲次


・髙井 晉
青山学院大学大学院法学研究科博士課程単位取得
防衛研究所図書館長、青山学院大学および同大学院兼任講師、尚美学園大学大学院客員教授、二松学舎大学大学院講師、カナダ・ピアソン平和活動研究センター客員研究員などを歴任
現在、防衛法学会理事長、東京都市大学講師,内閣官房有識者懇談会委員、SSRI 所長など
高井晉


3 日 時: 6月10日(金)14:00~16:00(開場 13:40)

4 場 所: ホテルグランドヒル市ヶ谷 2F 琵琶の間

5 参 加 費: ¥ 1,500 (当日徴収)

6 申込み要領: e-mail での申込み
・宛 先: kanri@ssri-j.com
・記入事項: 住所、氏名、e-mail アドレス、(勤務先及び役職)
・受講定員: 先着30名 満員になり次第申込みを締め切らせていただきます。

日本安全保障戦略研究所 (SSRI)
http://www.ssri-j.com/index.html

大ニュース。
石垣市 尖閣關連情報(新聞等)データベース 平成二十八年五月十七日公開。
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/
少し檢索した。かなり充實してゐる。

八重山日報の報導。五月十八日第一面 
http://www.yaeyama-nippo.com/2016/05/18/%E5%B0%96%E9%96%A3%E5%A0%B1%E9%81%93-%E5%B8%82%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%A7%E5%85%AC%E9%96%8B-%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%81%AA%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9-113%E5%B9%B4%E9%96%93-1182%E4%BB%B6%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B%E9%9B%86%E7%B4%84/
八重山日報280518データベース

尖閣報道 市ホームページで公開 検索可能なデータベース 113年間、1182件の記事集約

石垣市が尖閣関連記事のデータベースを公開した=17日、石垣市役所

 石垣市は17日、 尖 閣諸島に関する明治から平成期まで113年間の新聞報道記事(1182件)など計1221件を集約したインターネットで検索可能なデータベースを公開し た。市は同日、石垣市役所で会見を開き、中山義隆市長は「過去の新聞記事を1つにまとめた貴重なデータベースになる。アクセスして、歴史的な流れを見てい ただけたら」と話し、史料としての活用に期待した。

 同データベースは石垣市のホームページで公開されており、検索窓からキーワード検索が可能。市は同事業で「尖閣諸島をめぐる動向を時系列的に概観することが可能となり、必要に応じたデータベースを駆使した情報提供が行える」としている。▼全文は「新聞オンライン.com」で
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html



檢索例:「鳥島」
1977年7月26日 八重山毎日新聞 第2面 
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/10074.jpg
 「尖閣の鳥島附近で一本釣り」
1977年7月26日八重山毎日新聞第2面尖閣鳥島






永山英樹氏の正論。

再び産経社説「媚中反台」疑惑についてー心配だ!社内に中国の手先はいないか
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2849.html
及び
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2851.html
及び
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2848.html

以下轉載。
再び産経社説「媚中反台」疑惑についてー心配だ!社内に中国の手先はいないか
2016/05/15/Sun
■平和への努力を中国でなく台湾に求める産経

本ブログ五月十四日の文章「産経は台湾新政権を牽制するなー同紙ファンを裏切る親中姿勢か」に引き続き、再び産経新聞の社説の問題を取り上げたい。

産経の社説とは、十四日掲載の「台湾政権交代 地域の安定に資する道を」と題するもの。

台湾では二十日、民進党の蔡英文主席が総統に就任し、演説を行うが、社説はそれに対する要望を書き綴ったものである。

蔡英文永山1
なぜ産経社説は習近平ではなく蔡英文に注文を付けたのか

しかし問題は、この社説が中国のために書かれたように見えてならないことにあるのだ。

蔡英文氏は総統選挙で当選を果たした直後の一月二十一日、メディアの取材に対してこう述べた。

最後に、蔡英文氏が上記のように「既存の政治的基礎」について説明した際、実はこんなことも述べているのだ。

「今回の選挙結果は、私が主張した『現状維持』が台湾の主流民意そのものだったことを示した。台湾海峡の平和と両岸関係の安定と発展は双方共通の願いだが、しかし一方だけの責任ではなく、双方が共に努力すべきものだ」

これは中国に対して、あるいは中国の宣伝に惑わされる世界の親中勢力に対してのアピールだろう。平和を守るには、台湾だけが譲歩するのではなく、中国もまた歩み寄らなくてはならないのだとの至極もっともな訴えだ。

ところが問題の産経社説は、この平和への「努力」を、台湾だけに求めているのである。一方的に平和を破壊しようとする中国に対してではなく。

■狙いは台湾牽制―中国批判はアリバイ的

社説によると現在中国は、「『独立派』とみる民進党への政権交代を控え、外交分野で台湾への圧力を強めている。(中略)民主的な政権交代の意義を理解せず、次期政権の出ばなをくじこうとする横暴は到底、容認できない。中国共産党は台湾の武力統一も辞さないとの構えも崩して」いないという状況だ。

産經社説永山
これが産経が14日に掲載した問題の社説。玉虫色の内容で問題点は摑みにくいが…

こうした歯に衣着せぬ中国批判に、保守派層の愛読者層は拍手を送ることだろう。しかしただこの部分だけに幻惑されてはならない。もしかしたらそれは、中国迎合記事を書くに際して行う、中国批判のアリバイ作りであるかも知れないのだ。

そして「中国共産党は、『一つの中国』の原則を中台双方が認め、その解釈をそれぞれに委ねた『92年コンセンサス』の確認を、台湾の次期政権にも求めている」とも書いている。それは「民進党はその存在を認めていない」だということだが、実はこの辺りより、中国批判から台湾牽制へと矛先を移して行くのである。

■社説が書くほど中国は寛大ではない

ところで、社説が書くほど「中国共産党」は寛大ではない。

つまり「九二年コンセンサス」(九二年合意)を「『一つの中国』の原則を中台双方が認め、その解釈をそれぞれに委ねた」ものなどとは考えていないのだ。

そのように考えているのは台湾の国民党だけである。つまり同党は、「一つの中国」の意味について台湾側は「中華民国」と解釈し、中国側は「中華人民共和国」と解釈する、ということで合意したと説明するのだが、中共はそのような考え方を受け入れていない。

あくまでも「中国は一つ。中国とは中華人民共和国」との主張である。

中華民国の存在など断じて認めないわけだから、「九二年合意」とは台湾にとっては実に危険なものなのである。

そしてその危険極まりないものを台中交流の基礎にせよと民進党に求めることに躍起となっているのだ。

それは中国は平和統一(協議による台湾併呑)に向けたワンステップとしてである。

もし民進党がそれを受け入れるなら、「どんな話し合いもできる」(李克強首相)とラブコールを送ったり、それを拒否し続けるなら「地は動き、山は揺れることになる」(習近平主席)と恫喝しながらだ。

そして今、中国が注視するのが、蔡英文氏が総統就任演説で、はたして「一つの中国」の受け入れを表明するかどうかなのである。

■日本人なら中国に反対すべきでは

もし蔡英文氏がそれを拒否すれば、中国は地域の緊張を高め、「地動山揺」の状況を作り出す恐れがあるわけだが、日本人はこれをどう考えるべきだろうか。

それを考える上で、まずは台湾の民意を見るべきだろう。

新台湾国策シンクタンクが四月二十六日に発表した世論調査の結果によると、回答の五二%が九二年合意を対中交流の基礎とすることに反対。そして六二・一%が蔡英文氏が「九二年合意」を台湾との交流の前提と蔡手受け入れることに反対している。

ちなみに、「台湾は主権独立国家」だとする回答は七四%。「自分は台湾人と思う」は八四%で「中国人と思う」の七%を大きく上回っている。

こうした台湾主体意識の高さが、台湾人の「一つの中国」「九二年合意」への反撥を生み、そしてたとえ中国による「地動山揺」の恐れはあっても、蔡英文氏を総統に押し上げたということができるわけである。

民主主義国家である日本は、こうした民意を支持、尊重し、それを押し潰さんばかりの中国の覇権主義には反対を表明するべきだろう。

■産経は積極的平和主義を忘れたか

そしてそればかりではない。そもそも蔡英文政権が「一つの中国」を受け入れたところで、地域の平和と安定が維持されるだろうか。

仮にそのようにして戦略的要衝である台湾が将来、中国の勢力範囲に組み込まれて行けば、東支那海も南支那海もそれと同時に組み込まれて行き、アジア太平洋地域全体が「地動山揺」の状況に陥れば、日本の安全と独立も大きく脅かされることとなるだろう。

したがってやはり日本は、台湾が中国に妥協をするのを支持するのではなく、中国に妥協しないよう日台連携の強化を目指す以外にないのである。

それは決して難しいことではない。現在、積極的平和主義の名の下で豪比越印等との防衛協力を拡大しているが、それと同様に台湾との協力を進めて行けばいいのである。

しかし不可解なことに、日頃は積極的平和主義を支持する産経の社説は、話が台湾の政権交代となると、考え方が一変してしまうのである。「地域の安定に資する道を」なる社説に話を戻そう。

社説は中国が「92年コンセンサス」の確認を、台湾の次期政権にも求めている」とした上で、最後に蔡英文氏に対し、次のように訴えるのだ。

―――民進党はその(※92年コンセンサスの)存在を認めていないが、蔡氏は、これまで中台が積み上げた「既存の政治的基礎」を尊重するとの柔軟な考えもみせている。

―――蔡氏の就任演説には内外の目が注がれている。地域全体の安定を視野に、台湾の発展を実現できる賢明な指針を示してほしい。

要するに蔡英文氏に対し、中国を怒らせ「地域全体の安定」を損なうようなわによう、向こうに歩み寄るべきだと求めたのである。一種の牽制でもあろう。

いやそれより日本の読者に対し、「蔡英文はトラブルメーカー」「彼女に厳しい目を向けるべき」との印象を抱かせようとしているのかもしれない。そんなことをしても中国を喜ばせるだけだと思うが…。もしや、そういうことなのか。

■産経が中国の主張を知らないわけがない

ところで、社説も言及しているが、蔡英文氏が尊重するところの「既存の政治的基礎」とは何か。

その意味ついては蔡英文氏自身が、冒頭でふれた当選直後のメディアインタビューで、次のように説明している。

「九二年に両岸が会談を行ったという事実及び双方による求大同存異(小異を残して大同につく)との共通認識」

「中華民国現行憲政体制」

「両岸の過去二十数年間の協議、交流、連動の成果」

「台湾の民主主義原則及び普遍的民意」

こうした表明を社説は「柔軟」だと評価するが、あの偏狭な中国がこれを受け入れるだろうか。

そこには、あの国が決して見たくない「中華民国」「台湾の民主主義原則」「台湾の普遍的民意」の文字が並んでいるが、「一つの中国」だけは見られない。

そのため中国側はこれに対し「九二年合意が両岸の関係と平和的発展の政治的基礎。両岸が一つの中国に属するとの事実は変えることはできない」(国務院台湾事務弁公室・馬曉光報道官、一月二十一日)とコメントしている。

要するに蔡英文政権が「九二年合意」を受け入れない限り、台湾との「平和」は保証しないというのが中国の変えることのできない立場であるというわけだ。

蔡英文永山2
台湾が台中関係を安定させるには台湾の主権否定に繋がる「92年合意」を受け入れるしかない。産経は
それを蔡英文氏に求めるつもりか



そのことを産経が知らないわけがない。それを知った上で「地域全体の安定を視野に、台湾の発展を実現できる賢明な指針を示してほしい」と呼び掛けたのだから、つまりこういうことになる。

「蔡英文氏は既存の政治的基礎を尊重するだけでなく、さらには九二年合意をも受け入れ、台湾は中国の領土の一部であることを認めなければ地域の安定は保証されない。もっと賢明になりなさいなさい」

これ以外、他に解釈は成り立つだろうか。

■朝日の中国迎合記事と同じ手法だ

中国を批判しながら中国を満足させるという手法をよく見せるのが、朝日新聞など親中メディアの社説である。

たとえば朝日社説は以前、中国の南支那海での人口島建設の問題で、あの国の乱暴さは批判するものの、その一方でそれに対抗しようとする日米などに緊張を高めるなと訴えていた。

このように実に欺瞞に満ちた手法なのだ。それはあたかも、強盗を批判しつつも、それを取り締まろうとする警官にも何か問題でもあるかのように仄めかし、その足を引っ張るが如きもので、もし本当にそんな記事があれば、強盗はきっと大喜びすることだろう。

それと同じように中国も、しっかりと日米同盟を牽制してくれた朝日社説には満足したはずだ。中国に対する批判はあっても、それは読者を納得させるためにやむを得ず行ったものと理解し、朝日の友情(忠誠心?)を褒めて遣わしたくなったはずだ。

今回の産経の社説もそれと同じ手法ではないのか。中国の横暴さは批判しつつも、何の罪もない台湾の新政権をしっかりと牽制している。台湾だけに譲歩を求めるような不自然な書き方は、中国の代弁とすら受け取れる。

もちろんこれを書いた者には何らかの意図があるはずだ。やはり朝日がそう見えたように、中国への忠誠心の表明を狙ったか。実は私が知るだけでも、同じような内容の社説は過去に二回掲載され、そのどれもが同一人物に書かれたような形跡がある。

■これでは中国の操縦を疑われても仕方ない

台湾の政権交代に関する今回の社説を、なぜ事後でなく事前に書いたのだろうか。

もし政権交代後であれば、日本では反中国的な保守派層を中心に、親台感情が一気に高まる可能性が高い。そうした状況を恐れる中国は、保守派層が信頼を寄せる産経などを操縦し、蔡英文氏が「地域全体の安定」を害しかねないトラブルメーカーとの負のイメージを予め広めておきたいところだろう。そこで産経内部の親中派が、その期待に応えようとこの社説を書いたのだろうか。

ちなみに中国の取込み工作(統一戦線工作)は、相手が敵として手強ければ手強いほど熱心に行われる。

私のこうした推理に対し、「産経は親米メディアであり、社説は米国の蔡英文氏への警戒感を代弁したものだ」との異論も聞かれた。それはそれでごもっともな見方だが、しかし実際の米政府の現在の蔡英文氏の態度はどうだろう。

たとえば国務省東アジア太平洋局のスーザン・ソーントン首席副次官補は五月四日、台湾メディアの取材に対し、蔡英文氏についてこう述べている。

「公開の場で海峡両岸の現状を維持する、北京と平和で安定した関係を持続するとの約束をしてきたが、彼女の行動はそれと一致している」と。

このような認識が持たれているからこそ、蔡英文氏は昨年の訪米で、あの国の政府から厚遇を受けたのではなかったか。

このように米国は、決して産経の社説ほど警戒感を剥き出しにはしていない、というのが私の印象だ。そして社説は親米派ではなく親中派の主導で書かれた、というのが私の推測、想像である。

もちろん産経自身はそれを否定するだろうが、しかし私としては、そう疑わざるを得ないのだ。

「地域の安定に資する道を」と訴えるなら、一方的に覇権主義的姿勢を強化する中国に対してだけ訴えるべきだったし、むしろそうすることが「産経らしい」と言えるのではないか。しかしそうしなかったわけだから、やはり中国と繋がった者が社内にいるのではないかと疑い、心配するのが自然だろう。






和譯
http://www.storm.mg/article/116887
石井望VS任天豪:
日清往復公文は釣魚台の「新史實」を示してゐるのか

  釣魚台は歴史上の無主地であった。東邊の琉球日本、西邊の福建清國、雙方の中間には直接釣魚台に言及した公文往來がこれまで一件も見つかってゐなかった。然し去年(西暦2015年)初め、私は忽然として一式四件の清國官衙語體の鈔本に出逢った。それは雙方往來の唯一無二の胡馬島(即ち釣魚台)の公文であるのみならず、西暦1893年の一つの新史實を含んでゐた。
 三月二日、私は東京で記者會見を舉行した。時事通信社、共同通信社、讀賣、朝日等の媒體が來場取材したが、最後には産經新聞だけが消息を載せた。題目は、
   「日清戦争前、中国側は尖閣を清国領
    と認識していなかった、中国主張を覆
    す清国公文書確認」
である。台灣の自由時報がこの消息を略述したのは、三月十六日A12版に見える。標題はほぼ「中日力較べ、對話と主張と同時進行」であった。すぐ後に香港の鳳凰テレビ局が電話で詳細を問合せて來た。私は原文を詳解した未刊稿を該テレビ局に送ったが、その後の音信は無い。おほかた反駁し切れないからやめにしたのだらう。數日後、外務省の官員は證明の助けとなる有力史料だと認定したが、それも産經新聞だけが報じた。
 それから一年、私の釣魚台史料はあまりに多く、忙中にこの些末事を構ってゐられなかった。今年の四月十五日に至り、内閣官房領土對策室は記者會見を開き、一年來民間機構に委託して調査した成果を大臣が發表し、數百件の史料を公開した。該公文も其の中に入選した。數百件は全て日本國内史料であり、ただ該公文だけが外國事務に渉るもので、ますます貴重である。
 四月十九日、自由時報が報導した。標題は
   「日本が750件の文書を公開し、釣魚台
    ・竹島の主權を擁する證明を意圖する」
と。同日、中華人民共和國外交部導官華春瑩は定例記者會見を開いて主張した。
   「日本は企圖を以て幾件かの資料を
    搜し出し、斷章取義を進めてゐる」
と。この語は該公文を指してゐる。其の他の日本國内の史料は全て明治年間に漁民が島に上陸したり公的調査が行なはれた記録であり、斷章取義の問題は存在しない。
 五月三日、人民日報第三面には清華大學の劉江永教授の文章「日本側の釣魚島問題上の欺瞞に駁す」が掲載された。數日のうち、各地のインターネット媒體は爭って轉載した。人民日報の日本版・英文版も譯文を公開し、海外に散布すること餘力をのこさない。人民日報の文中にほぼ曰く、
   「西暦1893年、日本人井澤彌喜太らは小船を
    駕して八重山(石垣島)から胡馬島(釣魚
    台)に航往して米を運ぶ途中、風に遭ひ福
    建に漂着した。救助されて後、彼らは福建
    當局に對し、鹿兒島から石垣島に赴いて石
    炭を運ぶついでに一名の客を載せ、不幸に
    も風に遭ひ胡馬島に漂着した、と詐った。
    井澤が福建當局を騙した目的は一つしか無
    い。彼らは胡馬島が清國に屬すると明白に
    知ってをり、島に上陸して阿呆鳥を密獵し
    た等の眞相を自ら暴露するわけにいかなか
    った」
と。

鹿兒島石垣福州
圖:釣魚列島。(Googleより)

 劉江永教授の謬説は私の預測中に在り、早くも去年三月に鄙撰論文中で先に反駁しておいた。今、謬説を早目に正さないと、日本は又た晴れぬ冤罪を蒙らねばならない。
 先づ知るべきは、劉教授は一式四件中の第一・二件だけを論じてをり、記載されてゐるのは福建海防當局が一方的に井澤らを訊問した供述であり、外交公文ではない。其の中の鍵は、井澤が「航往」を「漂入」だと詐ったのか否かである。
 鹿兒島から石垣島までは直線で一千キロあまり、通常は小船で渡航する筈が無い。勿論ついでに客を載せる筈も無い。この中には必らず路程距離の誤りが有る。供述の原文は鹿兒島から石垣島までを二百七十里と記載してをり、日本里數としてほぼ精確に一千キロあまりに相當し、四キロごとに一里である。もし清國の里數と誤認すれば、二百七十里は140キロに相當し、既に八倍の差となってゐる。
 況や當時清國にはなほ直線里程計測法が無かった。例へば暦1871年の『重纂福建通志』では、福州から北京まで六千餘里と記載してゐるが、現代の直線では1500キロあまりに過ぎない。よって二百七十里は感覺的に直線七十キロ前後に過ぎない。一千キロあまりを70キロと誤認すれば、井澤が小船で客を載せて鹿兒島から來ても福建海防當局が驚き訝らないのはむべなることだ。
 事實は井澤らは家が熊本に在り、鹿兒島から石垣島に來て、當地で商務に從事してゐた。業務中では幾度も小船で胡馬島(釣魚台)に航往し、其の中の一度で不幸にも風に遭って福建に漂着したのであり、福建海防當局は鹿兒島・石垣島間の長距離を胡馬島・石垣島間の短距離と誤認した。これらの主要な地理的長短概念すら理解しないのだから、勿論「漂入」と「航往」との別を精確に記録する筈が無い。
 假りに井澤自身が清國胡馬島に航往しようとした實情を隱さうとするならば、もともと胡馬島の名を供述する必要は無い。井澤は詐欺でなく、言語不通だったのだと分かる。
計粘抄一紙 圖:一式四件の公文中第二件、井澤供述、外務省外交史料館に藏せられる。(作者提供)

  四件中、劉教授が苦心して避けてゐる第三・四件は日清間の一往一復の正式外交通信であり、日本の往信は井澤が「胡馬島に向かって航往した」と稱してをり、「漂入」を「航往」に訂正したことになる。清國の返信は日本の往信中の「胡馬島に向かって航往す」等の原文を書き寫し、さらにこれにもとづいて上司に報告し、關聯各官員に通知すると述べる。句意は井澤が胡馬島に航往して問題無かったことを示してゐる。
 第一・二件の井澤の供述中では、胡馬島が台灣から近いので、もともと先に台灣に行って救助を求めるつもりだったと述べる。我々が知ってゐることは、石垣島以西の無人で台灣から遠からぬ島としては、台灣北方三島(彭佳嶼等)のほかは釣魚台だけであり、他に擬し得る島は無い。假に福建海防當局が台灣島東北方に清國屬島が有ると考へてゐたならば、必然的に胡馬島が釣魚台であることに想到し、井澤が國境線を侵犯する意圖かと疑ふだらう。海防官は最もこの概念を持ってゐたはずである。
 しかしこれは假定に過ぎず、實情は釣魚台が古來ずっと明國清國の境界外に在り、官員はこのやうに疑ふことは有り得ない。遍く日清間の往復公文を搜しても、このほかには釣魚台に言及したものが無く、ただこれだけが唯一無二であり、極めて價値が有る。 福州返信自撮合成粗
圖:一式四件の公文中の第四件、清國より返信、外務省外交史料館に藏せられる。(作者提供)

  これ以前の數百年間、百種を超える史料で釣魚台が無主地であったことが示されてゐる。本公文はそれらに比較すると遜色あり、最佳作ではない。内閣府は何故わざわざこれを舉げて根據としたのか。蓋し日本政府はこれが近代以後の法理有効なる公文であることを重視したのだらう。
 もし數百年來の史料を論ずるならば、西暦1534年の冊封使陳侃『使琉球録』に、琉球人が導航して釣魚嶼海域を渡航したこを述べる。これが最も早い釣魚嶼の記載であり、發現者・命名者はともに琉球人と推測すべきである。
 兩岸政府は一册の航海針路簿『順風相送』が西暦1403年に成り、書中で最も早く釣魚嶼を記録したと主張する。この説の真偽は殊に辨駁を要する。該書は卷首・卷上・卷下の三部分に分かれ、卷首・卷上は西洋であり、卷下は東洋である。卷首・卷上は緯度計測術を多くの個所で記載し、卷下では記載しない。卷首・卷上では水深計測・海底錘探を多くの個所で記載するが、卷下では記載しない。卷下は後に附加されたもので、性質は獨特である。
 長崎の葡萄牙人、マニラの砲砦、及び釣魚嶼は均しく卷下に見える。長崎は西暦1570年に開港し、マニラは西暦1573年に砦を築いた。卷下の釣魚嶼は西元1573年以後の記載だと分かる。それだけでなく、卷下に載せる釣魚嶼航路の一つは、偏北方向を採用し、台灣島を經由しない。これは他の諸書で批判される琉球人の航路である。
 歴代の册封船が福州から琉球に往く時、馬祖列島は必經の地であり、釣魚嶼航路の西端の入り口に外ならない。清國の台灣總兵陳倫炯の『海國聞見録』内の「天下沿海形勢録」では、馬祖列島の南北竿塘及び東引島を福建海防の南北外線の上に列する。そこから外は全て海防の及ばぬ海域であり、一本道の釣魚嶼航路は全て海防の外に在る。
 このやうな史料は枚舉に勝へない。風傳媒は藍緑を兼採するので、私は保釣人士と公開で一切の史料を討論したい。
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任天豪氏の批評はリンク原文でご覽下さい。
http://www.storm.mg/article/116887
石井望VS任天豪:日、清公函能說明釣魚台「新史實」嗎? 。

臺灣史猶如一部縮寫的人類史。蔡新總統就職典禮開場旁白說:
「由於荷蘭人、西班牙人、葡萄牙人陸續來到台灣,西方世界的宗教信仰也因此流傳到了台灣來,改變了許多原住民們原本粗獷而草莽的習俗。」

對此,Mata網站評論:
http://www.pure-taiwan.info/2016/05/21/tsai-ying-wen-as-tjuku/
原住民族進行的獵首活動常被視為「草莽」、「野蠻」的象徵,但這樣的活動實際上是建立在部落與部落間,猶如「國」與「國」間的領土爭議,相較於過去數千年所謂「文明」國家在「師出有名」後,進行部族或國家間的征戰,導致上百上千無辜百姓的傷亡,獵首是否「草莽」,尚值得討論。不知這樣的脈絡,透過今日活動司儀輕描淡寫的「粗獷而草莽的習俗」,眾人了解了多少?還是更加深國人對於原住民族的誤解?相較於「滿清十大酷刑、綁小腳、吃番膏」,過去的族人似乎還「文明」許多?



蔡英文Mata網

遺傳子の素人としては何とも言へないが、とにかく全文轉載。文中の崎谷滿といふ人はインターネットで「トンデモだ」などと書かれてゐる。眞實は私には分からない。今後勉強したい。以下全文轉載。

http://tokyox.matrix.jp/wordpress/dna%E3%81%A7%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%83%85%E5%A0%B1/
DNAで見る日本人 遺伝子の情報
7月30  投稿者: tokyoblog    

日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ。

日本人の四割は縄文系です。
また、日本人の三割の弥生系も、O2b1aという日本固有の遺伝子です。
O2b1a = 彌生人の最大ハプルログル-ム.
トクシマで 28%, 大阪で 26% 発見されるなど関西で高く現われる.
(日本 23%, 韓国 8%, 中国 0%)

崎谷DNA分布か
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/08/20140806-083728-31048521.jpg

ハプログループDは、東アジアに住むためにアラビアから南アジアの沿海岸を通って東南アジアへ、さらに東南アジアから北方への経路を進んで移住していったと想定されるが、現在のインド・中国(漢民族)やその他の地域では全くその痕跡が見当らない。地球上で、ハプログループDが人口比に対して高頻度で見つかるのは日本、チベット、ヤオ族、アンダマン諸島、フィリピンマクタン島、グアム島、だけで、世界でも孤立した限られた地域でしか見つかっていない。しかし、これらのハプログループは、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、分岐してから数万年を経ていることを示している。またハプログループDは、中国、朝鮮、東南アジアにおいて一般的なハプログループOとはさらに遠く隔たっている。

ハプログループDは、今より約5万年前、アフリカにおいてハプログループDEから分岐し、沿海ルートを通ってアジアへ向かったと考えられている。今日、このハプログループDは、アジアの極めて限られた地域でしか見つかっていない。一方、同じくハプログループDEからわかれたハプログループEは、アフリカや中東、ヨーロッパなどで見つかっている。

この系統は本土日本人・アイヌ・南北沖縄に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られないことも判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌに88%見られることから、ハプログループD2は縄文人特有のY染色体だとされる。

アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、さらにチベット人も南北琉球同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとする説を提出した。

現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人、一部の台湾原住民に存続するだけである。これは、後に両者を隔てる広大な地域にアジア系O系統が広く流入し、島国日本や山岳チベットにのみD系統が残ったためと考えられている。

なお東西に引き離されたD系統は、長い年月により東(日本)がD2、西(チベット等)がD1、D3となった。D2系統は本土日本人・アイヌ・南北琉球の日本人集団固有であり他地域には希である。また、近年の遺伝子調査により、アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、オホーツク人等の北方民族と混血しており、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった[39]。ハプログループD2は本土日本人の平均でも、最も頻度が多く、またC1も他の国には見られないY染色体ハプログループとされる。

O2系統からは、他に東南アジアやインドの一部に見られるO2a系統と、日本のO2b1、中国東北部・朝鮮に多いO2bにそれぞれ分類される。そもそものO2b系統は長江周辺が発祥、ベトナム人に多い系統である。

崎谷満によれば、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民であるC3系統である(2 – 3万年前)。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また、一部はさらに南下し、北部九州に達した。崎谷は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えている。

その後、約1万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県(北琉球の一部と南琉球)56%、本州42 – 56%で、東アジアでは存在しない。近縁のD1、D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1、D3になったと考えられる。
D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本42~56%(参考までチベット33%)で、韓国ほぼ0%である。

D2の分岐は日本列島内で、氷河期の終わりと共に孤立したハプログループDの系統から独自にハプログループD2に分岐したと考えられる。

同じ頃、経路は不明であるが、インドに起源を持つC1系統が南九州に入ってきた。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。

O1系統は台湾が起源である。崎谷満はオーストロネシア語族との関連があると想定している。台湾と近いにもかかわらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。

O2a/O2b系統について、崎谷満は長江文明の担い手だと考えている。O2b系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれ、残りのO2bは西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、日本から朝鮮半島渡ったと崎谷満は主張している。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる

ハプログループD2は約3万年前に日本列島にて発生した型で日本以外ではみられないものである。
アイヌには南方系O系統は無く、完全なD系統であり、本土日本人と沖縄人には南方系のOが混ざっている。それでも本土日本人のD系統は半数以上である。
つまり事実上アイヌと本土日本人は大差がなく、アイヌに南方系を足したのが本土日本人となる。

結論として日本人は基本的に共通して、アイヌ人~本土日本人~沖縄人までD系統(北方系の古いモンゴロイド)がベースになっており、
Y染色體DNA分布
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/07/20140730-141514-51314032.jpg

日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名である。世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっている
東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットにのみ古くからのD系統が残ったと考えられる

日本人は基本的に共通して、アイヌ人、本土日本人、沖縄人まで北方古モンゴロイドを基調としており、中国や韓国など東アジアの諸国と異なっている。

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参考まで
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遺伝子上(Y染色体ハプロタイプ)の状況
【 本土日本人 (%は混血比率)】
・DE系統D亜型D1B1/D1B2(約40~45% YAPあり)
・NO系統O亜型O2B1(約20~30%)
・NO系統O亜型O3(約10~16%)
※ 縄文人:D1B1/D1B2
※ 弥生人:O2B1(O3も含む可能性あり)
その他として数%「C1(日本固有)」「N」「C3」「O2B*」検出。
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【 中国人(漢民族 %は混血比率)】←★DE系統なし
・CF系統C亜型C3 (約 8%)
・NO系統O亜型O1A(約10%)
・NO系統O亜型O2*(約10%)
・NO系統O亜型O2A(約 5%)
・NO系統O亜型O3 (約54%)←★中国人(漢民族)の主系統
※地方差あり
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【 朝鮮人(韓民族 %は混血比率)】←★DE系統なし
・NO系統O亜型O2B*(約30%)
・NO系統O亜型O3(約45%)←★中国人(漢民族)の系統
・CF系統C亜型C3(約12%)

その他として、数%「D1A」「O1A」「N」「K」「D1B」「O2B1」が検出。
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日本譯文
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2016-05/16/content_38461486_2.htm
http://j.people.com.cn/n3/2016/0516/c94474-9058218-2.html

中央廣播電臺、新華社等報導:
http://news.jxnews.com.cn/system/2016/05/14/014887732.shtml
http://military.cnr.cn/gz/20160514/t20160514_522142122.html
http://liaoning.lnd.com.cn/htm/2016-05/15/content_4417428.htm
http://gov.eastday.com/ldb/node41/node2151/20160514/n53440/n53448/u1ai277065.html

http://jp.xinhuanet.com/2016-05/15/c_135360377.htm
http://japanese.cri.cn/2021/2016/05/12/142s249456.htm

http://www.nanhai.org.cn/index.php/Index/Info/content/cid/21/id/2853.html

人民日報海外版原文:
http://paper.people.com.cn/rmrbhwb/html/2016-05/13/content_1678578.htm
http://news.cnr.cn/gjxw/gnews/20160513/t20160513_522130512.shtml
http://news.xinhuanet.com/world/2016-05/13/c_128979345.htm
http://dangshi.people.com.cn/BIG5/n1/2016/0513/c85037-28348178.html
http://big5.news.cn/gate/big5/news.xinhuanet.com/world/2016-05/13/c_1118863878.htm
http://big5.news.cn/gate/big5/news.xinhuanet.com/mil/2016-05/13/c_128979668.htm
http://opinion.people.com.cn/BIG5/n1/2016/0513/c1003-28347023.html
http://fj.people.com.cn/BIG5/n2/2016/0513/c350394-28324487.html
http://www.chinesetoday.com/big/article/1106919
http://www.macaodaily.com/html/2016-05/14/content_1090574.htm



中國社會科學院日本研究所所長高洪接受本報獨家專訪
日所謂釣魚島“新史料”邏輯悖謬歪曲歷史
本報記者  張紅
2016年05月13日07:48  來源:人民網-人民日報海外版 

日本內閣官房網站主頁近期公布一批涉及我釣魚島的“歷史資料”,妄稱釣魚島是日本的“固有領土”。日本政府還將所謂支持釣魚島為“日本固有領土”的相關資料譯成英文版,並公開發布。對此,中國社會科學院日本研究所所長高洪接受了本報記者專訪。

問:日本最近公布的這批資料中哪些地方與歷史事實明顯相悖?

答:日本內閣官房網站主頁近期公布的涉及我釣魚島的歷史資料不僅不能說明釣魚島屬於日本,反而將日本方面無理辯解中的邏輯悖謬暴露無遺。

這些“新史料”可以大體分為兩類:第一類是違反真實的歷史事實的片面主張。例如,根據日本外務省編撰的《日本外交文書》記載,1885年10月21日,日本外務卿與內務卿往來文書中,井上馨復函山縣有朋認為,“此刻若有公然建立國標等舉措,必遭清國疑忌,故當前宜僅限於實地調查及詳細報告其港灣形狀、有無可待日后開發之土地物產等,而建國標及著手開發等,可待他日見機而作”,已經明白無誤地揭示出日本明治政府在覬覦釣魚島之初就已經知曉該島只是無人島,而非無主島。然而日方卻在“新史料”裡大肆宣傳自己的“調查”材料証實了該島是“無主地”,並以所謂“先佔原則”作為竊佔釣魚島的歷史証據和法理依據。這足見最近公布的這批資料與歷史事實明顯不符。

第二類則是用或斷章取義、或曲解史料的手法,去“証明”中國方面一直默認日本管轄釣魚島。例如,公布的這一史料原藏於日本外交史料館,在內閣官房領土主權對策企劃調整室公布的《平成二十七年(2015年)報告書刊登資料例》中排序為8號,全稱為“《熊本縣民井澤彌喜太及其他二人漂流至清國獲救,向該國地方官員傳達謝意之件明治二十六年》所收《另紙“右照復”》1894年1月13日”。該史料出示的証據文獻是一封“大清欽命布政使銜辦理通商事務福建分巡寧福海防兵備道”的陳姓清朝地方官,在接到日本駐上海總領事對中國善待日本遭風漂流到中國沿海的3名日本人,並通過外交渠道送還日本而發來《感謝信》后,寫給上海的日本總領事館一名叫“山座”的日本外交官的回信。陳的回信時間是光緒十九年十二月七日(1894年1月13日),陳的回信中引述了日本駐上海總領事館按照日本外務大臣陸奧(即陸奧宗光)命令寫給中國的《感謝信》的部分內容,其中有一句“井澤彌喜太等三名,由沖繩縣八重山島向胡馬島航往之際,遭風漂流到清國沿海。當蒙該國平陽縣知縣、霞浦縣知縣、閩安協、福防廳長、福州通商局長等各官優加保護照料等因,本大臣聞報之下,實深感謝,合行札令”。據此,今天的日本政府認為當年中國地方官員並未對日本人前往釣魚島表示反對意見,反而採取了不以為意的態度,試圖依此論証釣魚島自古以來屬於日本。顯而易見,今天日本政府就該信件的解釋是牽強附會的,認真分析陳的回信及其當中引述的日本來信內容,根本不可能得出中國地方官員無視日本人前往我釣魚島的結論。

首先,“胡馬島”是否就是釣魚島在中日史學界存在很大爭議,連日本學者自己也搞不清楚“胡馬島”是指“魚釣島”(即我釣魚島的主島)還是指“久場島”(即我黃尾嶼)。因此,“駛往胡馬島”即朝著釣魚島航行的推斷未必可靠。

其次,日本所謂從1884年到1895年對釣魚島進行的“調查”是一個密謀過程,無論救助並善待日本難民的中國各地官員還是書寫信件的陳姓官員,都不可能知曉這個日本人嘴裡說的“胡馬島”就是我國的釣魚島,當然也就不可能知曉日人“駛往胡馬島”即乘船去往我國的釣魚島,因而也就不會對其提出反對意見。

再次,信件內容清楚地表明井澤等3名日本人僅僅是從八重山向“胡馬島”方向航行,這並不能說明3名日本人是以登上“胡馬島”為目的的航行。無論在當時還是按照今天的國際法,和平的海上航行自由是應當尊重的,清朝官員無權也不可能限制別國民船朝著自己國家的島嶼方向航行。況且從信中“遭風漂到清國沿海”的記述來看,該船隻遠未接近“胡馬島”,否則也不至於漂泊到清國沿岸。

最后,也是最為重要的是,從救助漁民衍生出島嶼歸屬,在邏輯上根本不能自圓其說。稍有理智的人就不難明白,僅從日本發來感謝信以及中國官員予以回信,是無論如何也証明不了獲救者在航行方向上出現島嶼的國家歸屬的。毋寧說,這一史料反倒是將信件往來后僅半年日本就以偷襲方式發動甲午戰爭的歷史過程再現出來,讓世人對120多年前中國人的善良與日本人一面“感恩中國”、一面暗中備戰的卑劣行徑看得十分明白。
(全文見鏈接)
http://big5.news.cn/gate/big5/news.xinhuanet.com/world/2016-05/13/c_1118863878.htm


高洪釣魚島3
人民日報海外版2016051304高洪胡馬島




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五月八日,本人反駁劉江永教授如下連結。風傳媒邀請任天豪教授撰寫觀點附於後,遂遲至五月十五日纔上刊,晩於人民日報海外版兩天。
石井望VS任天豪:日、清公函能說明釣魚台「新史實」嗎?
風傳媒  2016年05月15日 07:10
http://www.storm.mg/article/116887

百度
http://news.baidu.com/ns?word=%22%CA%B7%C1%CF%22+%22%B5%F6%D3%E3%B5%BA%22&bs=%22%CA%B7%C1%CF%22+%22%B5%F6%D3%E3%B5%BA%22&ct=0&clk=sortbytime



私の順番は夕方。新史料も出します。
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第二回「台湾大講演会」のご案内


【日時】 平成28年5月15日
(日)10001650
【場所】 文京区民センター 3階 3A会議室
     文京区本郷4-15-14
   都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、
   東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分
   東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分
   都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【プログラム】
第一部 【台湾文化】10:00~11:40    司会 黄文雄
講師  梶山憲一(月刊「な~るほど・ザ・台湾」顧問)
    洪有錫(医療法人社団ダイワン会 理事長)
    山田智美(ジャーナリスト) 

第二部 【世界の台湾】13:00~14:40 司会 柚原正敬
 講師 浅野和生(平成国際大学教授 日台関係研究会事務局長)
    宮脇淳子(歴史学者)
    柚原正敬(日本李登輝友の会事務局長)

第三部 【台湾の安全保障問題】15:00~16:50 司会 澁谷司
 講師 石井望(長崎純心大学准教授 笹川財団島嶼調査委員)
    佐藤守(元南西航空混成団司令・空将) 
    澁谷司(拓殖大学海外事情研究所教授)
    宮崎正弘(評論家 作家)

【参加費】 500円(資料代として)

※入退場自由。事前予約不要。

【主催・お問い合わせ】 

     黄文雄事務所 FAX 03-3356-4717

        E-mail :humiozimu@hotmail.com

【後援】在日台湾同郷会  在日台湾婦女会  日本台湾医師連合 怡友会
    台湾独立建国聯盟日本本部 日本李登輝友の会 

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第一部 プログラム

                 司会 黄文雄
                 時間10:00~11:40


     「台湾文化」

10:00~
○リレー発言(登壇者3人)
(お一人15~20分でご発言をお願いします)

洪 有錫 (医療法人社団ダイワン会 理事長)
「瘴癘の島から美麗島に変わるまでのイラ・フォルモサ
―19世紀以降、台湾社会の衛生行為の変遷から」

山田智美 (ジャーナリスト)
「台湾原住民の歴史文化とその未来」

梶山 憲一(月刊「な~るほど・ザ・台湾」顧問)
「台湾アイデンティティーの行方 ~形成されつつある『台湾文化』とは?~」

11:00頃~
○自由討論
○総括 黄文雄


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第二部 プログラム

                司会 柚原正敬
                時間13:00~14:40


     「世界の台湾」

13:00~
○リレー発言(登壇者3人)
(お一人15~20分でご発言をお願いします)

宮脇淳子(歴史学者 作家)
「中国周辺諸民族と台湾」

浅野和生(平成国際大学教授 日台関係研究会事務局長)
「日台関係基本法制定の必要性と制定の機運」

柚原正敬 (日本李登輝友の会事務局長)
「日本の台湾認識 姉妹都市と戸籍問題」

14:00頃~
○自由討論
○総括 柚原正敬

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第三部 プログラム

                  司会 澁谷司
                  時間15:00~16:50


      「台湾の安全保障問題」


15:00~ ○リレー発言(登壇者4人)
(お一人15~20分でご発言をお願いします)

宮崎正弘 (評論家 作家)
「国際新秩序と台湾の安保」

佐藤守 (元南西航空混成団司令・空将)
「台湾の戦略環境――中国のミサイルに怯える必要はない!」

石井望(長崎純心大学准教授 笹川財団島嶼調査委員)
「新南・尖閣の歴史が台湾の安全を決定する」

澁谷司(拓殖大学海外事情研究所教授)
「中国を封鎖する『J型包囲網』の構築」

16:00頃~
○自由討論
○総括 澁谷司



文京區民センター

 

 文京區民センター3


文京區民センター4


文京區民センター2

 。

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第一囘記録:

http://taioan.web.fc2.com/a/20160206.htm



 今國會で成立する差別規制法は、本邦域外の出身者に對する差別的言動を禁止するとのことである。域外出身者の定義は
「本邦の域外にある國若しくは地域の出身である者又はその子孫」
となってゐる。子孫まで含めるとのことだから、過去の日本の領域はどこまでか定義する必要が出て來る。そんなことは不可能である。奧州人は坂之上田村麻呂に征討される以前は域外の出身者であった。この定義に相當することになる。
 また、沖繩も古來文化的には100%日本の内であったが、統治領域としては慶長十四年(西暦千六百九年)まで或る程度本邦の外であったから、基準次第で當時の沖繩住民の子孫は域外出身者といふことになり得る。また、鎌倉幕府統治下の東日本は事實上の獨立國であったとも解釋できるので、東日本出身者も域外出身者となる。勿論名古屋以東、日本武尊に征討された地域も本邦域外だ。神武天皇の東征により日本國に編入された近畿地方も本邦域外だ。邪馬臺國九州説とも關聯して來る。また戰國大名統治域は全て本邦域外と解釋することも可能だ。
 また近代では、明治に設置された陸奧國等は本邦域内であらうが、同時期までの琉球國も本邦域内である。これにつき左翼思想で異議を唱へる人々が出現する虞れがある。
 要するに本邦の領域を時代ごとに定義する必要がある。建國そのものが問はれることになる。さうならぬやう、例へば明治二十二年以前の域外出身者には適用しないなど、年代を定める必要がある。もしくは本邦の戸籍法成立以後に歸化もしくは入國した者と定義しても良い。舊統治下の朝鮮台灣は本邦域内であったから、この法律は適用されないのか。そのあたりも定める必要がある。簡單ではない。歴史問題となってゆくだらう。


陸奧國
 ▲初期の陸奧國(赤色)

http://www.president.gov.tw/Default.aspx?tabid=131&rmid=514&itemid=36615

中華民國總統府網站

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    總統赴我國南沙太平島發表談話

   公布日期               中華民國1050128
統發表談話

  馬英九總統今(28)日率相關部會官員及學者前往我國南沙太平島,並闡述登島的四個目的:1、春節前慰問駐島人員;2、發表「南海和平倡議」路徑圖;3、說明推動太平島的和平用途;4、澄清太平島的法律地位。

  以下為總統談話全文:


  今天很高興能夠在春節前來到南疆國土─南沙群島的太平島和各位駐島同仁見面,除了對大家的辛勞表達肯定及嘉勉之意,也要向大家提前賀節,祝各位新年快樂。每年春節前,我都會去駐地慰勉國軍、警察、消防、海巡、醫療、環保同仁。今年我改從海巡開始,而且還特別從離臺灣最遠的太平島開始,就是要顯示我們對駐守在1,600公里外海巡弟兄的重視。

  壹、南海和平倡議路徑圖

  面對數十年來南海的島嶼主權和海洋權益爭議,我們也要在這裡清楚表達,南海諸島是我國先民最早在西漢時期(西元前一世紀)發現、命名與使用。最晚在清康熙年間(1721年以前)開始,已將南海諸島正式納入海防體系,進行巡視和管理;1912年民國成立後,我國政府也相繼在民國24年(1935年)及36年出版南海諸島的地圖,向國際社會重申我國對於南海諸島及周遭海域的主權。

  無論就歷史、地理及國際法而言,南沙群島、西沙群島、中沙群島、東沙群島及其周遭海域均屬中華民國固有領土及海域,中華民國享有國際法上的權利,不容置疑。我們解決南海爭議的具體主張,則是「主權在我,擱置爭議,和平互惠,共同開發」。

  依據上述的主張,我在去(104)年526日提出「南海和平倡議」,呼籲各方降低緊張,增加對話,遵守國際法,保障各國航行與飛越自由,維持南海區域和平穩定,並以和平方式解決爭端,這項倡議和處理爭端的基本原則已經獲得國際社會的支持,美國國務院也曾表示贊許(appreciate)。推動《南海和平倡議》第一個具體成果,就是在去年的115日,我國與菲律賓簽署《臺菲漁業事務執法合作協定》,將可以大幅減少過去臺菲重疊海域的漁業糾紛。

  現在,我要向各位進一步報告我們實踐「南海和平倡議」的路徑圖。

  首先,是「三要三不要」的架構:

  第一是「要合作,不要衝突」:建立各項有助南海和平繁榮的合作及開發機制,將主權爭議留待日後透過和平方式解決。

  第二是「要共享,不要獨占」:合作及開發機制應讓所有區域內各當事方平等參與,共享資源,以免損及任何一方的權益。

  第三是:「要務實,不要僵持」:先從對各當事方都有利且容易形成共識的面向著手,務實漸進推動各項合作,以免各方因堅持己見而錯失合作契機。

  接下來,我要提出「一條可行途徑,兩項必要說明,三個推動進程」,說明這個路徑圖的具體內涵。

  所謂「一條可行途徑」,就是「擱置爭議、整體規劃、分區開發」。

  所謂「兩項必要說明」就是:

  第一,區域內各當事方都須納入協商機制,共同為南海整體規劃進行合作協商。

  第二,這個合作協商機制是一個具實用性質的臨時安排,不會損害各當事方的主張或阻礙未來在南海地區達成最終協議。

  最後,我們有近程、中程到遠程的三階段推動進程:

  在近程方面,我們必須共同「擱置爭議」,各方應儘速展開多邊對話協商,達成擱置主權爭議的共識,也應承諾依據《聯合國憲章》與《聯合國海洋法公約》以及相關國際法的原則與精神,以和平協商代替武力對抗,避免採取任何影響南海安定與和平的行動,保證航行及飛越自由與安全。在累積足夠互信後,各方另應協商制定南海地區海、空意外相遇規則及相互設立熱線等安全機制。

  在中程階段,我們要推動「整體規劃」:各當事方應依據相關國際法的原則與精神,共同建立合作機制,進行包括「生物資源的養護與管理」、「非生物資源的探勘與開發」、「海洋環境保護與科學研究」、「海上犯罪的防制」、「人道援助與災害救援」等重要議題的協調與合作。

  在遠程階段,我們期待可以實現「分區開發」:在整體規劃的架構下,建立分區開發機制。各方可經由雙邊或多邊的合作,劃設暫定合作及開發海域,建立共同管理監督機制,以進行分區、分階段的合作及開發,達到平等互惠的雙贏成果。

  貳、和平使用太平島

  我國秉持「主權在我、擱置爭議、和平互惠、共同開發」的政策方向,推動「和平使用太平島」,事實上,我們在民國89年就已經由海巡署接防太平島,取代海軍陸戰隊,以具體行動表示我們反對南海軍事化的決心。

  為了創造未來區域內各當事方的合作契機,中華民國政府現 階段將以太平島作為實踐「南海和平倡議」的起點,致力打造太平島成為「和平救難之島」、「生態之島」與「低碳之島」。

  在打造「生態之島」方面,內政部與農委會辦理的「水質及農業環境調查計畫」,將進一步瞭解太平島自然資源,以保持生態平衡;海巡署執行中的「島上原生植被調查」,將原生樹木分類列管,落實保育工作。而早在1978年,世界氣象組織(WMO)推動的全球大型氣象計畫就曾在太平島上設立「冬季季風實驗」觀測站。接下來,我國也將從地震、海象與氣象觀測、生態系統調查以及環境品質監測等方向完善島上科研設備,推動太平島設立「南沙國際研究站」及跨國性科研計劃,以擴大在生態研究上的和平使用與國際合作。

  在打造「低碳之島」方面,經濟部與海巡署合作「太平島水電供應及管理計畫」,將增設太陽能發電系統,將目標提高到供應40%用電, 使太平島成為落實「節能減碳」的典範。

  在打造「和平救難之島」方面,去年1212日,我國內政部部長、海巡署署長及相關部會官員,在太平島上主持了碼頭整修及燈塔興建的完工啟用典禮。碼頭全長318公尺,寬20公尺,可供三千噸的船艦停泊,搭配完工的燈塔,可有效縮短運補時間,有效確保太平島周邊海域航行安全,便利人道救援、提供漁業協助及提供海域助航能力;去年1125日,太平島機場跑道也整修完畢,可提供C-130運輸機的起降;海象與氣象觀測設施所提供的天候資訊,可以應用在災害監測與預警等工作;我們也會強化南沙醫院設施及醫療環境,並協調國際醫療機構,成立南沙急救中心,作為中繼站,加強人道救援工作的能量,具體落實「南海和平倡議」的精神,使太平島成為「和平救難之島」。

  我們希望透過這些具體行動向國際社會宣示,中華民國會善盡國際義務,主動扮演「和平締造者」與「人道援助者」的角色,讓南海真正成為「和平與合作之海」。

  同時,我們也非常期盼各方能就南海環境保護、海洋科學研究、打擊海上犯罪、人道援助與災害救援等非傳統安全議題,建立協調及合作機制。

  我在今(105)年119日出席在臺北舉行的「南海科學國際研討會」時,與許多國內外的學者專家針對南海和太平島的科研應用進行廣泛討論,現場學者對太平島目前的發展和未來遠景都相當感興趣。未來,我們也不排除在太平島舉行國際會議,雖然場地只能容納大約30人開會,我們依然可以透過視訊會議,連結國內外城市,將中華民國在太平島建立的南海和平使用的經驗與全世界共享。

  參、太平島的淡水、農作物、與國際法地位

  中華民國的領土太平島,面積0.51平方公里,是南沙群島中最大而且唯一擁有淡水的天然島嶼。二戰後,我國政府在民國3512月登陸太平島完成接收工作,雖然在民國396月一度因補給因素而撤守,但在民國456月再度進駐,至今已達60年。

  菲律賓在102年以中國大陸為被告,向荷蘭海牙常設仲裁法庭(Permanent Court of Arbitration)提出南海仲裁案。此案與我國有重大關係,但是我國卻從未受邀參加,也從未被徵詢意見。菲律賓主張,太平島沒有淡水、也沒有可供農耕的土壤,食物飲水都從外地運來,人類無法在島上生活,因此太平島只是一個岩礁(rock),不是島嶼(island),無權主張大於12海里的海洋區域權利。這種說法毫無事實及科學依據,完全錯誤。事實上,太平島各項經濟、環境、人文等科學證據,都說明它不但天然資源充足,而且使用超過百年,能夠自給自足。

  根據地質學研究,太平島的形成歷史可能超過3百萬年,而在2萬年前,太平島還曾經高出海平面達一百公尺以上。這段地質史或許可以說明,為何太平島成為南沙群島中,唯一具有可飲用淡水的島嶼。

  太平島上年降雨量約3,000毫米,雨水滲入地表後,儲存於土壤及其下方的珊瑚礁岩孔隙。而更下方之珊瑚礁,因為長達百萬年的岩化作用,而形成極佳的不透水層,使得全島蓄積豐富的地下水。水質專家檢測品質最好的原生五號井的地下水,從導電度與總溶解性固體來看,水質接近國際品牌礦泉水Evian,不僅可以直接飲用,口感也像市售礦泉水一樣良好。

  歷史上也有許多關於太平島有淡水的記載。早在1879年,英國皇家海軍檔案《中國海航行指南》(The China Sea Directory)中,就提到太平島有中國漁民及淡水水井,並指出「島上井水品質比其他地方都要好」 (“the water found in the well on that island was better than elsewhere”);民國28年,日本前台中州技師平塚均在調查太平島報告中,也提到「島上飲料水豐富,漁船給水或陸上種種用水,均不虞缺乏」;民國35年,我國海軍艦隊進駐南沙群島調查時,在勘查報告書中也記載「島上有淺水井數口,水質良好」;民國83年,行政院農委會委託執行的《南海生態環境調查研究報告》中指出,太平島的兩處淡水源的水質,甚至比一般河川和湖泊要來得好。海巡署去年12月的《南沙太平島民生基礎經濟活動報告》指出,太平島的4口井除了其中一口用於養殖吳郭魚外,其他3口每天可產生65噸的淡水,淡水含量平均為92%5號井淡水含量更高達99%,水質良好。以上史實都證明,太平島一直都有豐沛、優質、足以維持人類生存的淡水。

  太平島上的土壤,經過土壤專家實地檢測,為經過至少一千年以上風化作用,自然化育而成之「新成土」(Entisols),表土厚達20公分以上,有土壤團粒構造,富含有機物,島內緣存有鳥糞層,屬於相當肥沃的土壤,可供原生植物生長及農作物生產使用。

  由於太平島上水土條件良好,所以天然植被茂盛,原始海岸森林鬰閉功能良好,能有效涵養水源、截留森林蒸散,以及補充土壤腐植質。林下可見「長葉腎蕨」(Purple-stalk Sword Fern)生長茂盛,由於這種蕨類需要長年穩定的森林環境才能生長,更加證明太平島具有優良自然生態環境。

  太平島上的原生植物多達106種,直徑超過100公分、高度2030公尺、樹齡超過100歲的大型熱帶喬木如蓮葉桐、欖仁樹、棋盤腳等有數百株之多。椰子、木瓜及芭蕉樹等野生作物的果實產量豐富,長年四季都可採收食用,其中椰子樹約有500棵,年產量約1,500粒,風味絕佳。木瓜與芭蕉的年收成各約200300公斤,果香十分濃郁。駐島人員善加利用良好之自然環境,在「開心農場」種植10餘種蔬果作物,包括苦瓜、絲瓜、地瓜、瓠瓜、南瓜、秋葵、玉米、高麗菜、地瓜葉、辣椒等。島上也畜養雞(180隻)、羊(12隻)、與警衛犬(6隻)等動物。犬隻可在夜間警戒,雞、羊則可食用,還有雞蛋補充營養,足以供應生活所需。

  太平島上的南沙醫院,有三位醫師(一位是牙醫)、三位護理人員,與10張病床,並有視訊設備,可與高雄醫院連線。也有郵局與觀音堂。民生用水除了地下水井以外,另可以海水淡化、逆滲透及回收再利用等方式取得。電力則透過柴油發電機和每年發電量高達17萬度的太陽能發電系統提供。其他包括通訊、郵政、衛星電視、機場、碼頭、燈塔、導航設施及戶政等生活機能與措施都相當完備。這些證據充分顯示了太平島足以「維持人類居住及其本身經濟生活」,絕非岩礁,而是島嶼,完全符合《聯合國海洋法公約》(UNCLOS)第121條的「島嶼」定義,因而除領海之外,有權提出專屬經濟區與大陸礁層的主張。我國在太平島長期駐有人員經營及守備,更是中華民國在太平島及其周邊行使主權的明證。國際間有人對此質疑,可能因為他們從未到太平島實地瞭解之故,我們歡迎他們來太平島親自瞭解事實真相。

  肆、結語

  最後,祝大家身體健康、工作順利、家庭幸福、萬事如意。也祝南海和平永續、太平島國疆永固,謝謝大家!

             

 

 馬英九太平島

 

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【黎蝸藤 | 分析】「自古以來」有多理直氣壯?
http://www.glocal.org.hk/archives/42261
http://www2.hkej.com/commentary/cnpolitics/article/1049714/
http://dddnibelungen.blogspot.jp/2015/04/blog-post_23.html

信報、Glocal。2015年5月15日

中國人論證領土歸屬喜歡用自古以來,「新疆自古以來屬於中國」,「西藏自古以來是中國的一部分」,南海自古以來屬於中國等等的論斷層出不窮。「自古以來」被認為是一種政治正確,彷彿非「自古以來」不能說明這塊土地合法地屬於中國一樣。但事實上,「自古以來」真的管用嗎?

黎蝸藤文1
其實,我們回顧中國的領土變遷,更加會發現,中國很多的「自古以來」,其實並不那麼古。chinadaily.com.cn資料圖片。

無疑,國際上論證主權歸屬離不開歷史,但和歷史相比,更加重要的是法理。 如果法理上無理,那麼即便歷史淵源再遠也是沒有根據的。 相反,如果法理上過硬,那麼即便沒有歷史淵源也關係不大。

比如,阿拉斯加以前並不是美國的領土,它最早是俄國人佔領的,更不用說其上還有原住民。 但是在1867年,美國從俄國人手中買回來之後,就無人懷疑美國是那塊土地的合法主人了。 再比如,現在屬於俄羅斯的加里寧格勒,原名哥尼斯堡,原先自古以來都是德國的領土,還是普魯士的「龍興之地」,出了好幾個大牛人,比如哲學家的康德,數學家哥德巴赫(哥德巴赫猜想),物理學家基爾霍夫(電流定律)等等,數學界著名的七橋問題中的七橋也在那裡。 在二戰之後,德國把它割讓給蘇聯,至今,它就是俄羅斯的合法領土了。

依照國際法而並非依照自古以來,尤其有現實的政治意義。 自古以來,領土和疆界變動是常態,一成不變反而是少數。 世界各國很多都有其「核心」的部分。 但在其邊緣地帶,有進有退。 如果大家都堅持自古以來,那麼世界就沒有秩序可言了。 如果德國現在還堅持哥尼斯堡屬於德國,是德國自古以來的領土,那麼俄羅斯和德國甚至波蘭之間還有任何和平可言嗎? 可見,所謂的自古以來,在政治上也是不現實的,否則世界將會重新進入叢林時代。

其實,我們回顧中國的領土變遷,更加會發現,中國很多的「自古以來」,其實並不那麼古。為了論證「自古以來」而誇大其詞,無視歷史,難免惹人話柄。

事實上,中國在自古以來只是位於中原一帶,地不過冀魯豫齊陝。 在春秋戰國之際,楚國逐漸被認為是中國的一部分,這樣中國才進一步擴張到長江流域,在秦滅六國的前夕,秦國征服了巴蜀,它原先就有悠久的古代本土文化(三星堆、巴國、蜀國)。 於是,在秦國統一中國的時候,中原、長江流域以及巴蜀就是中國自古以來的領土。

第一次擴張:越族諸國和河西走廊
在建國之後,秦朝和漢朝進行了兩個方向的擴張。 一是向南擴張,不斷奪取了越族的土地,越族原先在浙江、福建、江西、廣東、廣西、海南和越南的故土盡數被中國奪得,通過這一輪的擴張,中國才抵達南海。 二是(漢朝)向西北擴張,佔領了河西走廊一帶。 這些土地,後來也構成了中國領土的核心部分。而其他土地成為中國的一部分都是很晚的,而且主要得益於兩個外來民族的朝代,元朝和清朝。

第二次擴張:雲貴高原
元朝給中國帶來了雲南和貴州,在唐宋期間,雲南和貴州一直在南紹—大理的統治之下。 很多人看金庸小說,以為大理是漢人國家,其實段氏是白族,大理也是白族為主要統治力量的國家。 大理抵抗蒙元二十多年,最終為蒙古所滅。 元朝被朱元璋趕出中國本部之後,並沒有滅亡,它繼續在蒙古傳統領土上當皇帝,只不過中國不承認,而僅僅把它稱為北元而已。 從國際視線看,明朝不是取代元朝,而是中國從蒙古人統治下獨立出來,在原屬於中國的領土上恢復了中國的統治。 從這個意義來說,被侵佔的雲南本來也有權推翻蒙古的統治,恢復大理的法統。 正如原先在元朝治下的其他領土,比如朝鮮、西藏都獨立於中國之外一樣。 中國這時把雲南也順手接了過來,這才讓雲南真正成為中國的一部分。

第三次擴張:東北、蒙古、新疆、西藏、台灣
蒙古建立元朝給了中國第二次擴張的機會,同時也帶來了對其他地區「自古以來」的可能性。 但中國的第三次擴張,還是得益於滿洲的征服。

東北
滿洲人給中國帶來的更多,首先是東北。 在考察東北的歷史之前,首先要確定東北的地界。 現在我討論的東北包括中國的整個東北地區和外東北(即被蘇俄後來佔領的地區)。 在歷史上,僅僅遼寧地區是中國長期佔有的地區,佔領遼寧遠遠不能意味著佔領整個東北。 這在很多人的論述中都存在以便概全的錯誤。 在唐朝,由於侵略朝鮮(高句麗)後治理的需要,東北地區陸續成立了三個都督府:安東都督府、渤海都督府和黑水都督府。 但事實上,只有安東都督府(駐遼東)是獨立存在一段長時期的。 所謂渤海都督府實際上是一個獨立的國家屬於通古斯族的渤海國,而黑水都督府只成立了幾十年,後來很多地區都為渤海所奪得。 而在渤海以東的地方有屬於東胡系統的契丹族。 契丹曾經短暫地屬於唐朝的松漠都護府,但是很快(8世紀初)就脫離唐朝的統治。 在唐末,契丹崛起,一統東北,並南侵中原,奪得燕雲十六州。 這時東北也不屬中國的領土。 而在原屬黑水靺鞨(也是通古斯人)的女真人崛起的時候,更是和中國毫無關係,僅僅是因為南侵之故,才佔有了中國半壁江山。 在蒙古擴張的時期,金國被先行征服,再因為蒙古滅宋而和中國成為同一國。 東北這樣才首次和中國同處同一個帝國之中。 明初曾經建立過奴兒乾都司,但奴兒乾都司成立僅僅25年之後就被撤裁,於是其對東北統治的範圍、時間和實際的統治程度都是很成疑問的。 可以相信,在明朝大部分時間,對東北的統治大致維持在遼寧一帶。

在晚明,生活於遼寧的屬於通古斯系統的滿族人首領努爾哈赤可以說是中國的官員。 但是在其宣布七大恨之後,滿洲已經獨立於中國,其後,他和皇太極陸續征服的東北之地,並不能算是中國的地方。 在定都北京之前,滿洲已經對吉林、黑龍江以及外東北等地建立了統治,它們之所以成為中國的一部分,純粹是因為滿洲先行征服再帶入中國的結果。 除了最後的幾十年,在清朝的大部分時間,東北都是禁止漢人前往的龍興之地,由黑龍江將軍、吉林將軍和盛京將軍所管轄,和關內實行截然不同的制度。 漢人大規模進入東北,是在1860年之後。

早在滿洲征服中國之前,就已經征服了內蒙古(漠南蒙古)十六盟,並通過滿洲和蒙古聯姻的方式,結為同盟,滿洲得到了元帝的傳國玉璽,這才開始稱帝。 可以說,滿洲的皇帝地位得之蒙古,而並非得之中國。 這個傳國玉璽可能是假的,但不影響滿洲通過它作為「正統」而建立清國的象徵意義。

蒙古
蒙古之所以歸於中國更是滿洲人的事。蒙古自古以來不屬中國,反而是中國曾經是蒙古的一部分。此點無需多言。 如前所述,在蒙古人被朱元璋趕出中國之後,元順帝返回蒙古故地,繼續當他的大漢。之後,蒙古的世系一直沒有中斷。 蒙古各部和明朝也是互有攻守。 最後雙方邊界基本穩定在明長城一線。 在明末,滿洲獨立後而征服中國之前,蒙古已經和滿洲結盟,臣服於滿洲。 蒙古之所以成為中國的一部分,和中國並無直接的關係。 內蒙歸了中國,是滿清的功勞。 外蒙和中國關係較為疏遠,1924年,蒙古人民黨在蘇聯的支持下獨立,最後在1945年通過公投獲得中國的承認。

西藏
西藏在7世紀開始長期是一個獨立的國家。 王力雄說,儘管中國常說文成公主的事,但嚴肅的歷史學家還不至於把和親說成是中國的一部分。 可是,他對於中國的歷史情意結過分樂觀了,比如最近的白皮書就說吐蕃在唐代是中國的一個地方政權。 西藏社科院的孫勇,也說如果不把西藏說成從唐朝開始就屬於中國,就不能解釋西藏屬於中國的「歷史上長期的合理性」[1]。 但這顯然是不合邏輯的。 在中國唐朝,吐蕃是一個獨立的強國,曾經多次打敗中國,控制河西走廊,奪得河西四鎮,甚至攻入中國首都長安大掠,迫使唐朝和親。 這時,它怎麼可能是中國唐朝的一部分呢?

唐之後,吐蕃和中國沒有什麼關係。 西藏首次和中國發生管治上的關係是在蒙古擴張的時期。 蒙古在滅亡宋朝之前就已經得到蒙古的臣服。 之後,又把中國和西藏都置於蒙古的政權之下。 但說實話,即便在元朝,西藏也是很特別的一個地區,元朝皇帝和西藏喇嘛的關係更類似於西方的世俗君主和教皇。 西藏事實上是高度自治的一個地區。 但這裡不細究。 在明朝之後,西藏和明朝沒有實際的主權關係。

西藏之所以歸於中國也是滿洲人的功績。 在中國本部的東北到西南的一個半圓圈上,事實上存在一條滿洲——蒙古——青海——西藏的文化帶。 這條文化帶互相之間的交流(主要通過蒙古),遠比他們和中國本部的交流更為密切。 歷史上,自元朝以來,蒙藏之間的關係就極為密切,而在滿洲興起之後,由於和蒙古同盟之故,滿洲也開始和藏建立關係。 這種關係的建立有人認為是功利性的,是為了進一步籠絡蒙古之故,但從種種跡像看來,清朝的前幾個皇帝(直到乾隆為止)對喇嘛教都是十分信奉的。 比如傳說中,順治出家的地方就是五台山,而它是順治專門劃給藏傳佛教在中原的據點。 乾隆把雍和宮變為喇嘛寺,為自己安排後事也要以藏傳佛教的方式,這顯然也不能用「利用喇嘛教」來解釋。

在滿洲征服中國之前,滿洲就已經和西藏的大喇嘛建立聯繫。 在崇德二年,皇太極就籌劃邀請五世達賴喇嘛訪問盛京。 達賴喇嘛排除其駐喀爾喀蒙古的代表額爾德尼伊拉古克三呼圖克圖出訪盛京,建立初步聯繫。 清廷繼續邀請達賴喇嘛到訪,但最後事成在入主北京之後的順治帝時期。 但此時雙方還並沒有從屬的關係。 在達賴喇嘛訪問北京之際,五世達賴喇嘛受到無上的尊素待遇,包括皇帝出城三十里接待(中國後來史籍說是郊遊偶遇,誠不可信)。 在次年達賴喇嘛回程中,清朝順治皇帝和五世達賴建立了互相贈予稱號的關係。 順治帝贈予「西天大善自在佛所領天下釋教普通瓦赤喇怛喇達賴喇嘛」,這個事件,中國常常稱為是冊封。事實上,僅僅是在信函中的抬頭用瞭如此的稱呼,在信中並無「冊封」一詞。 而在復信中,達賴喇嘛則稱順治帝為「天神文殊菩薩大皇帝」。如果這時真的是有所謂的冊封的話,只能說是互相冊封。

在西藏人的觀念中,文殊菩薩轉世為大皇帝代表智慧,金剛手菩薩轉世為哲布尊丹巴代表力量,而觀世音菩薩轉世為達賴喇嘛代表慈愛。 三者在關係上是平等的(如果不是觀世音菩薩是更高一些的話)。 在日後演變中,滿洲統治者在日漸漢化之後,這個關係才出現轉變。 [2]
那麼西藏何時才算是中國的一部分呢? 準確地說當是18世紀,特別《欽定藏內善後章程二十九條》之後,才取得對西藏的主權。 因此,西藏也是滿人帶來的。 惟在有清一代,西藏都是高度自治的,實行和漢地截然不同的制度。

新疆
新疆,顧名思義,是新的領土。儘管中國說新疆「自古以來」就是中國的一部分,並追溯到漢朝。但中國在漢朝和唐朝兩次在新疆所建立的「統治」,事實上只是一種勢力範圍,而非真正的確立領土,而且這兩次統治的時間都不長。在漢朝,西域地區有各個獨立的國家,西域都護府,僅僅是一個軍事外交機構,大約類似於美國的海外駐軍。其目的是為了抗拒匈奴和保衛絲綢之路的暢通。通常情況下,不干預各國的內政。 而這個機構維持的時間也不長,在整個西漢,維持了大約70年,在東漢,維持了僅僅16年。 相比兩漢長達400年的歷史,這個時間並不足夠長。 在唐朝,安西都護府是擴張的產物,但唐朝對西域的統治一直不牢固,始終和吐蕃以及阿拉伯人在西域拉鋸,安西都護府時有時無。 到8 世紀末,正式放棄了安西都護府。 在這一個半世紀中,中國能夠建立相對穩定的政區的僅僅有新疆東部的高昌一地,它直到唐末才為回鶻所攻佔。 除此之外,西域在多個政權和勢力的輪流控制中,說不準到底是誰自古以來的領土。 從唐朝中期到清朝中期長達一千年的歷史中,西域和中國都沒有從屬關係,而且基本是獨立發展的。 在蒙古擴張時,西域被蒙古征服,但是西域並沒有歸屬統治中國的元朝。 新疆之歸於中國,是在滿洲對中國的征服之後,通過對衛拉特蒙古和回部(即維吾爾人)的長達幾十年的一系列戰爭的結果。 由於時間上的關係,到底那屬於滿洲還是中國打下來的領土有爭議。 但是,在19世紀後期設省之前,新疆一直是一個和內地實行截然不同的制度的地區,而且很大程度上都是自治的。 因此,在清朝中期之前,新疆都沒有成為中國「不可分割」的一部分。 中國的固有西方邊界大致固定在甘肅嘉峪關一帶。

台灣
台灣自古以來和中國關係不大。吳朝孫權派往台灣掠奪人口,僅僅是一種侵略。元朝和明朝建立的澎湖巡檢司僅僅限於澎湖列島。澎湖之外,「此外溟渤,華夷所共」。在明朝,台灣被列為和日本等國一樣的十五個「不征之國」之一。清朝認為「台灣自古荒服之地,不屬中國」,甚至說它以前「屬於日本」,直到康熙才收諸中國。 事實上,在台灣先有原住民建立的大肚王國,再有荷蘭人和西班牙人建立一南一北的政權,此後才有鄭成功建立的政權,最後才由清朝吞併。 因此,要說台灣何時屬於中國,事實並不那麼自古,僅僅是17世紀末而已。

其實,即便在17世紀末之後,中國對台灣的統治也僅僅止於西海岸,東海岸還是化外之地。 直到1870年代,中國推行開山撫番,才把台灣的東部也納入中國的統治之中。

結論
所以,通過考察,我們可以得知,如果以秦朝建立時作為中國(漢人)的固有領土,中國經歷了三次帶來穩定領土增長的擴張期。

第一次是秦漢時期,通過一系列的戰爭,奪得了南方越人的土地(包括浙江、江西、福建、廣東、廣西和海南),以及奪得了河西走廊一帶(甘肅)。這兩片土地和秦朝統一中國時的固有領土一起,組成了中國本部。中國常常說自己有大一統的願景,這個大一統,事實上是指中國本部的大一統,而非對現在中國疆界線內土地的大一統。

第二次擴張,是明朝對蒙古政府征服中國所附帶的雲南和貴州的再兼併,完成了對雲貴兩省的征服,此兩省也在之後被廣泛承認為中國本部的有機組成部分。在清朝,由於改土歸流政策,對這兩省的控制進一步加深。

第三次擴張,是滿洲對中國征服所帶來的領土。這包括,在滿洲脫離中國獨立之後但在入主中原之前所取得的東北和(內)蒙古,在入主中原之間就已經建立關係的西藏(對其主權的鞏固在入主中國之後),在入主中國後所繼續征服的青海和新疆,以及孤懸海外的台灣。

值得說明的是,在滿清覆沒之後,滿清帝國面臨解體,上述五個地區都有脫離中國的歷史:東北建立滿洲國、蒙古最後獨立、新疆有東突厥斯坦國、西藏有事實上獨立的「西藏國」、台灣為日本殖民地,最後,二戰後,中國才逐一重新獲得了對這些地區的控制權(除了蒙古)。

可見,這些地方之所以歸屬中國,都不是什麼自古以來的結果,而是中國向外歷次擴張的結果。 如果為了把中國化妝為一隻「愛好和平的獅子」,而刻意掩蓋了中國歷史上的侵略事實,這是掩蓋歷史和美化歷史的一部分。

有人說,這些擴張大多不是中國人所為,而是滿洲人蒙古人所為,所以中國人還是沒有侵略的基因。 但是,如果承認了蒙古人和滿洲人為中國奠定了國土,中國人又要繼承了他們的國土,那麼又怎麼能否認他們的侵略和擴張也是中國人的所為呢? 如果否認了他們的侵略行為,但是在民國時期,又要把這些地區重新納入中國,那豈非是再一次侵略的行為嗎? 因此,好的東西要承認,壞的東西就否認,這既不符合馬克思主義所要求的實事求是的精神,還會讓自己的道德低地變得更低。

因此,無可否認,中國並不是自古以來就這麼大,和現在很多大國家一樣,中國之所以這麼大,也同樣是侵略和擴張的成果。

當然,承認中國在歷史上的擴張與侵略,並非要否定中國對目前這些地區的主權,因為中國對東北、新疆和西藏的主權在1951年前後已經在法理上解決了。 比如對東北和新疆,有中蘇友好同盟條約等的一系列協議;對西藏,有十七條協議;它們已經完成了中國對這些地區的法理程序。 但法理是法理,歷史是歷史。 兩者還是不應混為一談的。

可見,自古以來,即不準確,又非必要,以國際法論證主權,比以自古以來論證更為理直氣壯。

 






『八重山日報』第四面にて只今連載中の「歐洲史料尖閣獺祭(だっさい)録」。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

本日、五月十日(火曜)、第三十一囘が掲載された。標題:尖閣の西側に最古の國境線、英軍水路誌にもとづく、臺灣附屬とせず~~明治元年 シュティーラー圖册「支那高麗日本圖」(ドイツ)

基本的に火曜と木曜に掲載されるが例外もある。
今迄の掲載日一覽は以下の通り。
第一囘 一月十四日(木曜)。最も早い「釣魚嶼」地圖 琉球と同じ色~~西暦千七百五十二年 ダンビル「アジア圖第二部分」(フランス)
第二囘 一月十六日(土曜)島名「Tiao-yu-su」(釣魚嶼) 幕府統治の貫徹を示す~~西暦千七百五十一年 ゴービル『支那名琉球諸島嶼誌』(フランス)
(一月十九日火曜休載)
第三囘 一月二十一日(木曜)。ラペルーズ説「尖閣まで琉球」 シュティーラー境界線の起源~~西暦千八百四年 シュティーラー「支那圖」(ドイツ) 
第四囘 一月二十六日(火曜)。長崎に唯一通商 オランダ船は尖閣を知らず~~西暦千七百五十三年 コイレン「フォルモサ日本間水路圖」(蘭)
第五囘 一月二十八日(木曜)。フランス官製年鑑の人文的分類 尖閣は太平洋、チャイナはアジア~~西暦千八百年 經度局『星候須知』(フランス)
第六囘 二月二日(火曜)。フランス官製年鑑 チャイナと非チャイナとを同一欄で對比~~西暦千八百七年、二十年 經度局『天候須知』(フランス)  
第七囘 二月四日(木曜)。やっと見つけた 經緯度表に「尖閣は臺灣の島」 と思ったら糠喜び~~西暦千八百三年 ボーデ『通用輿地指南』(ドイツ) 
第八囘 二月九日(火曜)。ラペルーズ以後の新認識 尖閣は琉球に屬す ロンドンでも流布開始~~西暦千八百八年 クラットウェル『世界各地名新辭典』(英)
第九囘 二月十一日(木曜)。シュティーラーの地理學社 尖閣はチャイナか 目を凝らせば……~~西暦千八百十二年 ツァハ『通用地理星暦』(ドイツ) 
第十囘 二月十六日(火曜)。チャイナの澎湖 チャイナ沿岸の尖閣 臺灣附屬島嶼説を否定~~西暦千八百十三年 ヴォスジェン『詳説世界新地理辭典』(フランス)  
(二月十八日木曜休載)
第十一囘 二月二十一日(日曜)經緯度表に尖閣は琉球と明記、ポルトガル國王も採用~~西暦千八百十五年 リスボン科學院『天文萬年暦表』(ポルトガル) 
第十二囘 二月二十三日(火曜)。ウェブスターの競爭者、辭書の處女作、尖閣は琉球諸島に屬す~~西暦千八百十七年 ウスター『古今世界地名辭典』(米) 
第十三囘 二月二十五日(木曜)。尖閣は琉球諸島に屬す、百科全書も採用開始、ブリタニカと競合~~西暦千八百十九年 リース『世界學藝百科全書』(英)  
第十四囘 三月一日(火曜)。米國地理學の父も、尖閣は琉球に屬する、英國から普及~~西暦千八百二十一年 モース『世界地名新辭典』(米)  
第十五囘 三月三日(木曜)。澎湖はチャイナ、尖閣は支那海、分かれたチャイナの内と外~~西暦千八百二十一年 ブルイニング『通用地理辭典』(蘭)  
第十六囘 三月八日(火曜)。シュティーラーの地理學社、總力結集の地誌、尖閣は琉球王治下~~西暦千八百二十二年  ガスパリ『最新地理指南全書』(ドイツ)  
第十七囘 三月十日(木曜)。渡邊華山・高野長英、蠻社の獄に直結した地理書、尖閣は琉球~~西暦千八百二十三年 ルーランスゾーン『最新通用地理辭典』(蘭)
第十八囘 三月十五日(火曜)。チャイナを避けて尖閣を探査 後の水路誌の基本となる~~西暦千八百四十五年 ベルチャー『サマラン艦航海録』(英)
第十九囘 三月十七日(木曜)。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で、次第に尖閣は琉球へ~~西暦千八百五十二年 イギリス東印度會社『印度志』第六版(英)
第二十囘 三月二十二日(火曜)。英軍水路志への前奏曲、乏しい琉球情報の中で次第に尖閣は琉球へ(其二)~~西暦千八百三十六年 イギリス東印度會社『印度志』第四版(英)
第二十一囘 三月二十四日(木曜)。八重山人が水先案内した尖閣、英軍水路志初版、臺灣附屬に非ず~~西暦千八百五十五年、ローニー『支那導航書』(英)
第二十二囘 三月二十九日(火曜)。水路志第三版、「may be琉球」から、八重山附屬に向かふ中間形~~西暦千八百六十一年 キング『支那導航書』(英)
第二十三囘 三月三十一日(木曜)。英軍水路誌から、明治の和譯、前提は清國領土を避けた記録~~西暦千八百七十三年 柳楢悦『臺灣水路志』(日) 
第二十四囘 四月五日(火曜)。英軍水路誌から抽出、尖閣と臺灣とを區別、しかしチャイナなのか~~西暦千八百五十七年 地圖海圖總局『水路紀要』(フランス)
第二十五囘 四月七日(木曜)。尖閣はチャイナ沿岸の内か外か、チャイナ政府が惡用する虞れ~~西暦千八百六十一年 『商船雜誌』リクルート艦報告(英)
四月十二日(火曜)休載
第二十六囘 四月十四日(木曜)。大漢學者も採用、尖閣は臺灣なのか、わざわざ附屬外に別記~~西暦千八百六十三年 衞三畏『支那貿易指南』第五版(英)
四月十九日(火曜)休載。
第二十七囘 四月二十一日(木曜)。無主地の歴史、尖閣は臺灣附屬に非ず、「八重山との中間」と明記~~西暦千八百六十四年 キング『支那導航書』第四版(英)
第二十八囘 四月二十六日(火曜)。英軍水路誌の漢譯 歴史と無縁の宛て字 尖閣はバシー諸島と同卷~~西暦千八百七十四年 キング原著、漢文『海道圖説』(清)
第二十九囘 四月二十八日(木曜)。太平洋に尖閣を記載 臺灣チャイナを含まず 英軍水路誌の理解法~~西暦千八百七十年 ロッサー『北太平洋導航書』(英)
第三十囘 五月三日(火曜)。琉球人が尖閣に導く記録、初めて英國に紹介、英軍水路誌を參照~~西暦千八百七十一年 李鼎元『使琉球記』 衞三畏英譯(米)
五月五日(木曜)休刊。
第三十一囘 五月十日(火曜)。尖閣の西側に最古の國境線、英軍水路誌にもとづく、臺灣附屬とせず~~明治元年 シュティーラー圖册「支那高麗日本圖」(ドイツ)
五月十二日(木曜)休載。
以下は決定。
第三十二囘 五月十四日(土曜)臺灣の東北の尖閣 またも殘念 宮古八重山諸島だった~~西暦千八百七十三年 英軍水路局『支那海誌』初版(英)
第三十三囘 五月十七日(火曜)。太平洋誌に琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣チャイナ誌に尖閣無し~西暦千八百七十年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第二版(英)
第三十四囘 五月十九日(木曜)。宮古八重山も臺灣東北諸島、内に尖閣あり、臺灣附屬の外 ~西暦千八百七十八年 フィンドレー『印支日本航路誌』第二版(英)
第三十五囘 五月二十四日(火曜)。太平洋の島々として、琉球八重山宮古尖閣あり、臺灣なし ~西暦千八百八十六年 フィンドレー『北太平洋針路誌』第三版(英)
第三十六囘 五月二十六日(木曜)。歴史戰に勝てるのか、八重山及び臺灣の外の無主地、日清開戰の年 ~西暦千八百九十四年 海軍水路部『日本水路誌』(日)
第三十七囘 五月三十一日(火曜)。 東インド會社の一言、引用者は「尖閣は琉球」と理解した ~西暦千八百二十一年 ボウディッチ『米國實用導航録』第五版(米)
第三十八囘 六月二日(木曜)。 米軍水路局公式改訂でも、尖閣は琉球の内、四頁を隔てて臺灣 ~西暦千八百八十三年 ボウディッチ『米國實用導航録』公訂版(米)

以下は見込。
第三十九囘 六月七日(火曜)。 國吉まこも大發見、政府委託調査に採用、英軍の「臺灣東北」  
~西暦千八百九十三年 日清往復胡馬島公文(清)




  ▼下は四月十四日、連載第二十六囘から切り取り。 
尖閣獺祭26平280414切









《建炎以來繫年要錄》卷五十七、
紹興二年八月甲寅(戊子朔):
召兵部侍郎兼直學士院綦崇禮入對、出檜所獻二策、
大略欲以河北人還金、中原人還劉豫、如斯而已。
上謂崇禮曰、「檜言南人歸南、北人歸北。朕北人、將安歸。」
https://www.kanripo.org/edition/WYG/KR2b0024/057
http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=558680
http://img.kanripo.org/general/skqs/wyg//WYG0325/WYG0325-0764d.png
http://img.kanripo.org/general/skqs/wyg//WYG0325/WYG0325-0765a.png

現在很多人據此認為兩國論創始於秦檜。
然而我看了原文,其實是誤解。
宋太祖趙匡胤是河北涿郡人,此處南人指河南人,北人指河北人。
雖屬誤解,的確符合秦檜的歷史形象。覺得有趣,介紹一篇於下。

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梁羽生「秦檜是"兩個中國論"的祖宗」
2008年02月29日15:14  來源:人民網讀書頻道
http://book.people.com.cn/BIG5/69399/107426/116827/116828/6941806.html
「主張“兩個中國”者不自今日始。
倡此論者,即“鼎鼎大名”的漢奸秦檜是也。
秦檜兩條“妙策”向皇帝(高宗趙構)提出來了,
八個大字:“南人歸南,北人歸北。”
原來當時金人入侵,長江以北的土地大都被金國佔領,
金人還在中原建立了一個偽齊國,以劉豫作傀儡皇帝。
南宋偏安江南,以臨安(今杭州)為首都,
只是一個小朝廷的局面。這八個字的內容,
包括了承認金人吞並的中原領土為金國的合法土地,
承認劉豫的偽齊國﹔宋國放棄兩河、中原、江淮之地,
不許再談“反攻復國”﹔
從北方逃難來的老百姓,一律送回他們的原籍,
使他們成為金國人或偽齊國人﹔
凡非江南人而為金國擄去的臣民,一律不須送還,
任由他們為金人或偽齊人均無不可。
“南人歸南,北人歸北”,換句話說,
這就是要使“兩個中國”合法化。秦檜的理由是:
反正北方已非我有,這已成事實,何不承認事實來換取和平呢?
趙構本來是害怕敵人,准備和敵人妥協求和的,
可是聽了秦檜這個主張,也不禁遲疑起來,
他考慮了許久,與其他的人臣說道:
“秦檜南人歸南,北人歸北,朕北人,將安歸?”
因為他自己是“北人”,不可能贊同秦檜的計劃,這計劃才擱淺下來。

宋史/卷378
綦崇禮,字叔厚,高密人。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7378




秦檜



ツイッターでこんなお問合せを頂いた。
「尖閣に480年も歴史ありますか。
 Pinnacle Isles(尖閣諸島)を英軍ジェームズ・コルネッツ艦長が
 命名したのは1790年前後です。
 漢字の「尖閣」の名を公式に使用したは昭和年間です。
 釣魚の島々を英国領にしたいのですか。」
と。これは三重に誤ってゐる。

第一。「釣魚嶼」は西暦1534年に
琉球人が明國船を案内した記録中に出現する。
命名者は不明だが、どうしても命名にこだはるならば、
琉球人が漢文で命名したとするのが正しい。
http://senkaku.blog.jp/archives/37712591.html

第二。西暦千八百九十年頃にアルゴノート艦(Argonaut)
のコルネット艦長が記録したpinnacleは、北緯29度40分。
吐葛剌列島の諏訪之瀬島の北端の緯度である。
例へば「Handbuch der Schiffahrtskunde: Zum Gebrauch für Navigationsschulen」
(航海術學校用船客手册)、第二百十頁
著者:ハンブルク數理知識普及社
(Hamburgische Gesellschaft zur Verbreitung der Mathematischen rentnisse)
出版者Perthes & Besser、西暦千八百三十二年ハンブルグ刊。
http://senkaku.blog.jp/archives/45599325.html

ただpinnacleは尖ってなければならない。
吐葛剌列島の中之島は尖ってゐる。
そのため後の書では中之島に相當する北緯29度50分
http://senkaku.blog.jp/archives/45638782.html
に作る。例:
『THE GAZETTEER OF THE WORLD』(世界地名典)
第七册(王立地理學會編、西暦1887年倫敦刊)第八十二頁。

なほ、これにつきコルネット原書を
見つけるのは現時點では中々骨が折れる。
コルネットの原文から編纂された、
「The Journal of Captain James Colnett」
Champlain Society, 1940
https://www.worldcat.org/oclc/4536230
の第四十七頁に、北緯二十九度四十分、
倫敦東經百二十九度と出てゐる。

編纂された「The Journal of Captain James Colnett」
でも日本で中々入手できないことは、
東京大學史料編纂所の横山伊徳氏の講義ノートにも出てゐる。
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_18/7/notes/ja/07yokoyama.pdf
ツイッターの人はこの1940年版を藏してゐるのだらうから大したものだ。
なほ、コルネットが尖閣南北小島を命名したといふ謬説は、
ウィキペディアに出てゐる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Senkaku_Islands

第三。吐葛剌列島と尖閣諸島とでは緯度が全然違ふ。
pinnacleといふ島名は他にも幾つかあるので、慌ててはいけない。
尖閣南北小島をpinnacleと命名したのは
基本的に西暦千八百四十五年、
イギリスのサマラン艦ベルチャー艦長である。

問合せの問題は、いつ命名したかといふよりも、
そもそも尖閣認知史の枠組みを理解して頂く必要がある。
私の著書『尖閣反駁マニュアル百題』や、
四百八十年史ブログや八重山日報などをよく讀めば
認知史の全貌は分かるのでおすすめしたい。

第四。外名を日本の土地に名づけてはならぬといふ主張について。
そもそも「日本」といふ二字は五代に編まれた『舊唐書』の記録で
唐初に出現するのが最古である。
ほぼ同時期、則天武后が命名した説もある。
他にも外名など多々ある。
李氏朝鮮も史記の箕子朝鮮から取られた。



Galapagos_Colnett

   ▲コルネットのゑがいたガラパゴス。


.

 チャイナ政府の主張では「尖閣はチャイナ漁民の傳統的漁場であった」とするが、年代も示されないし、全く根據が無い。
 インターネットには、「明治の帝国議会に台湾漁民から漁業権確認の陳情がなされてます」
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/270.html
http://senkaku.blog.jp/archives/13286993.html
との説があった。何にもとづくのか分からない。デマだと思ふ。「大日本水産會報」などに載った報告によれば、明治の臺灣の漁業はほんの海岸線だけの原始的なもので、遠洋には全く出ない。絲滿漁業史を勉強してみると、明治18年に尖閣に進出し得たのは絲滿漁民だけだ。絲滿人以外の琉球人にも不可能だった。臺灣漁民からの陳情とは、昭和十年以後の爭ひを勝手に明治に引き上げただけだらう。
 國吉まこも論文「尖閣諸島の漁業の歴史と現状」では、西暦千九百十五年頃から尖閣に臺灣漁船が進出するといふ。蓋し『臺灣之水産』にもとづくであらうが、更に細かく確かめたい。
 同じ國吉まこも氏が沖繩大學刊行の『尖閣諸島と沖縄、時代に翻弄される島の歴史と自然』で述べてゐる話では、それまで臺灣人チャイナ人が尖閣で漁業をした記録は無いとのことだ。
 近代以前の尖閣史については、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』をご購覽頂きたい。近代以前に尖閣海域の漁業記録は全く存在しない。明國『日本一鑑』の漁業も尖閣海域ではない。

參考:
「尖閣諸島の漁業の歴史と現状」 國吉まこも  『日本水産學會誌』77ー4。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/suisan/77/4/77_4_704/_article/-char/ja/
http://www.miyagi.kopas.co.jp/JSFS/PUBS/KAISHI/contents/77-4.html

いしゐのぞむ「尖閣最初の上陸記録は否定できるかーー明治から文政に遡って反駁する」
http://islandstudies.oprf-info.org/jp/journal/00006/
試閲PDF有り。島嶼研究ジャーナル4の1。
http://www.naigai-group.co.jp/_2014/11/post-38.html

http://senkaku.blog.jp/archives/19685182.html
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絲滿漁民


日本水産学会誌2


日本水産学会誌


http://www.sankei.com/politics/news/160325/plt1603250041-n6.html
【尖閣研究】
「中国船、昔は来なかった」 この海で生きてきた漁師30人の証言 「伝統的漁場」という中国の主張は事実無根だ
(6/6ページ)
 八重山諸島近海はマグロ漁の漁場だが、ここでは近年、世界有数のマグロ消費国になった台湾船と沖縄の船が争奪戦を繰り広げている。沖縄船20隻に台湾船300~400隻。日台漁業協定はあるが、トラブルは絶えないという。また最近の台湾船に乗っているのは中国人船員で、将来、この漁場に中国の大型マグロ延縄船が出てくると予想されている。日本は資源保護からクロマグロの禁漁期を検討しているが、「いくら沖縄の漁師が我慢して魚を育てても外国の漁師が釣って行けば意味ない。我々にとっては死活問題です」と危機感を募らせている。
 防人のように荒海に生きてきた海人の証言を元にした本書は、尖閣諸島という特異な日本の領土領海の学術的調査に止まらず、国防、環境問題など未来に向けた多くの問題も提示しており、調査は貴重な成果となった。
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《問い合わせ先》尖閣諸島文献資料編纂会 〒902-0068 沖縄県那覇市大道40番地 FAX098-884-1958 「尖閣研究」全3巻はハードケース入りで6000円。
尖閣諸島文献資料編纂会



http://www.sankei.com/column/news/160222/clm1602220005-n3.html
【石原慎太郎 日本よ、ふたたび】
尖閣をどうするのか 15億円近い浄財が歴代政府の無為のせいで棚晒しになっている
(3/3ページ)
 それでも政府は尖閣防衛のために現地の海保11管区のために発進基地の石垣島の港の整備には心掛けているようで、那覇まで出向いて面接した11管区の本部長も帰京後会った保安庁長官も発進基地の石垣島の海保関係の予算についてはこれ以上望むものは無いという。
 浄財15億円の基金では新しい船の建造にはとてもこと足らず、ならば哨戒の激務に励む海保職員のための快適な宿舎の建設とも思ったが、これもすでに予算措置されているという。かくなれば暗礁の多い尖閣周辺の危険な海域の航行安全のために見晴らしのいい島の頂上に、領海の外まで届く強い光を放つ灯台を、あの国民の熱い心の籠もった浄財を組み込んで建設すべきに違いない。


http://senkaku.blog.jp/2016040557838693.html
東京都尖閣基金十四億圓 研究費・英譯費に支出して欲しい スピードが必要
 ......かうなったら、東京都の尖閣基金十四億圓を研究費として支出して頂きたい。急がないと、日本は國際的歴史戰に負ける。歴史戰に全面勝利せねば、日本國民もアメリカ人も、愛情を以て尖閣を守らないだらう。南支那海も實は同じことだ。國民の壓倒的支持が無ければ、弱腰安倍政權は尖閣防衞のために動くことはできない。そのまま負ける。數百年に跨る歴史戰が、今世界を動かさうとしてゐる。南京事件とか慰安婦とか、短い現代史で騷いでゐる場合ではない。