- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 


「這些兵馬俑是希臘人幫忙製造的,你中國那時並沒有這樣的技術,沒有希臘的專家,你中國造不出來兵馬俑。所以,這不是你中國人的驕傲,而是西方的驕傲,希臘的驕傲。」

兵馬俑是希臘人幫中國製造的?專家這麼說,秦始皇知道嗎?
雪花新聞・明說明言 2018-08-18 0:04:10 歷史
兵馬俑是希臘人幫中國製造的1

兵馬俑是什麼?每個中國人都一清二楚,它是世界文化遺產,被稱為世界第八大奇蹟。那如真人般大小的數千座陶俑,數萬件兵器,那宏偉的陣列,巧奪天工的銅車馬,無不展現出了秦朝強大的國力和當時工匠的高超技術。這是始皇帝在兩千多年前留給後人的禮物,告訴我們先人是如何偉大,是我們了解遙遠的秦朝社會的窗口,更是所有中國人心中的驕傲。但現在西方和中國的一些專家要告訴我們,這些兵馬俑是希臘人幫忙製造的,你中國那時並沒有這樣的技術,沒有希臘的專家,你中國造不出來兵馬俑。所以,這不是你中國人的驕傲,而是西方的驕傲,希臘的驕傲。
兵馬俑是希臘人幫中國製造的2

維也納大學的一次歷史講座中,盧卡斯.尼克爾教授認為兵馬俑是希臘的雕像技術傳到中國給予了秦朝工匠靈感製造的,甚至他還說:「我想,一位希臘的雕塑家可能會去現場訓練當地人(製作兵馬俑)」。另一位博士補充道:「我們現在認為,兵馬俑、雜技俑和現場發現的青銅雕塑都受到了古希臘雕塑和藝術的啟發。」

兵馬俑是希臘人幫中國製造的3

他們的理由是什麼呢?他們認為秦始皇之前中國並沒有這樣真人大小寫實風格的塑像,之前中國的人俑多是十幾二十厘米大小的,而且更偏向寫意。而古希臘的雕塑藝術是世界聞名的,和兵馬俑都是真人大小且寫實精細。一件挖掘出來的銅製鳥雕像更是被他們拿來當證據,那件銅製鳥雕像是用「脫蠟法」鑄造的,而他們認為這種技術只有古希臘才有。甚至連在新疆發現的歐洲人DNA也成為了證據,看看,果然是咱們歐洲人不遠萬里不辭辛苦的跑到中國給予指導你們中國人才能製作出兵馬俑。
兵馬俑是希臘人幫中國製造的4

如果單單是歐洲人這麼說,雖然很滑稽很可恨但也能理解,奇怪的是國內一些專家也認同這種說法。他們覺得即使希臘人沒有真的來到現場指導中國工匠,兵馬俑也的確受到希臘雕塑藝術的影響。
兵馬俑是希臘人幫中國製造的5

我完全無法理解他們的邏輯,就因為始皇帝之前中國沒有這種雕塑就能得出兵馬俑一定是受希臘影響的?他們希臘人是天生就會製作雕塑?咱們中國人就不能發明就不會發明?所以之前沒有之後也永遠不會有?除非受到他希臘的影響?四大發明咱們秦朝時期也沒有,所以四大發明也是受他們西方的影響?兵馬俑坑裡出土的數萬件兵器應用的鍍鉻技術歐洲20世紀才發明,難道秦朝人穿越時空偷他們技術了?脫蠟法又叫失蠟法,咱們中國商朝時期就出現了,雲紋銅禁就是戰國時期用失蠟法鑄造的,還用在秦朝學希臘?至於新疆挖掘到的兩千多年前歐洲人的DNA就更可笑了,我都懶得反駁。再說,我完全不覺得希臘那些雕像和兵馬俑相似。



尖閣諸島フォトギャラリー  出典:内閣官房ホームページ
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/senkaku/gallery/index.html
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/senkaku/links.html

このギャラリーに素晴らしい寫眞が多數あるのだが、内閣官房領土室内のリンクが非常に分かりにくい處にあるため、ほとんど世間に知られてゐない。皆さんどんどん使って下さい。私が勝手に選ぶ最優秀賞は下の南北小島の一枚です。
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/senkaku/gallery/img/KitaMinami15.jpg
10メガバイトなので精度を下げて掲載します。
南北小島鳥内閣官房ギャラリー縮



丁度二年前の八重山日報、平成28年10月27日。下方に轉載。
そのわけは、最近(平成三十年十月)、或る人が
「尖閣の東側で切れてゐる西洋製地圖を見掛けたが、
 どれだか思ひ出せない」
と私に言ふ。まあ多分ブリュエとルヴァッソールの
「ポリネシア專域圖」に類するものだらう。リンク。
http://senkaku.blog.jp/20161010Levasseur.html
このやうに一見危ふい地圖地誌は存在するが、
慌てず見極めないといけない。尖閣を臺灣附屬とする地圖地誌
は歴史上に一つも存在しない。一つもだ。
それを逐一確認することこそ、調査といふものだ。
丁度二年もたったし、新聞原版をサービス掲載しよう。
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歐洲史料 尖閣獺祭録 連載第八十囘  
尖閣琉球日本は桃色、清國に派兵要請、
八重山が北朝鮮となる危機 
 ~西暦千八百七十五年 ルヴァッソール
  「ポリネシア專域圖」(フランス)

 まづい地圖にまた出逢った。西暦千八百三十四年のブリュエ氏「ポリネシア專域圖」(圖184)では、島の周縁に重疊する横線が、尖閣から臺灣(たいわん)北端まで繋がってゐる。
 心配無用。尖閣諸島最西端は北緯二十五度四十五分弱、東經百二十三度二十八分強なのだが、この圖のTiaoyusu及びHoapinsuは尖閣の西北側、北緯二十六度強、パリ子午線東經百二十度線(グリニッヂ子午線百二十二度二十分)附近に位置してをり、架空の島だ。その東側に描かれるのが尖閣である。西北側に架空の島を追加したため、海域の横線が繋がってしまった
 西暦千八百七十五年に至り、ルヴァッソールといふ學者がこの圖の重版を出した(圖185)。横線も架空の島も元のままだ。ただ日本琉球尖閣は桃色に塗られてゐる。今白黒で掲載するが、八重山の北方で黑く見える二小島が桃色の尖閣である。臺灣北端まで繋がる横線を顧みずに、わざわざ尖閣だけ桃色に塗ったのは、それだけ琉球の内だと思ひ込んでゐたからだらう。
 この時代の地圖着色は精度が高まり、シュティーラー系列圖では色彩の注記まで示される(連載第七十五囘)。本圖も各國の領土を細緻に塗り分けてゐる。今掲載するのは豪洲國家圖書館所藏二幅中の一幅だが、別の一幅も尖閣を桃色に塗る。ラムゼー圖像庫には西暦千九百二十二年の複製版を藏し、同じく桃色に塗る。これら藏者の信頼度からみれば、後に改竄された可能性はほぼ無い。但し同圖が白地圖のままで各地に藏せられるので、今後色彩改竄版が出現する可能性は有る。色彩を絶對視(ぜったいし)してはならない。
 丁度この年(明治八年)、日本政府は琉球から清國への朝貢使節を停止した。四年後には沖繩縣令が首里入りして直轄縣とした。ほぼ抵抗が無かったのは他の諸侯國に對(たい)する廢藩置縣(はいはんちけん)と大差ない。
 それもその筈、西暦千六百九年に薩摩藩が琉球を併合してから、すぐに檢地(けんち)も行なはれ、ほとんど抵抗は無かった。豐臣氏が頑強に抵抗した大坂の陣よりも前である。繼(つ)いで琉球の精緻な國繪圖も作成され(連載第六十五囘、圖150)、要するに「版籍」を幕藩體制(たいせい)が掌握してゐた。清國への朝貢も幕府方針に從った。國交締結國オランダにも、琉球統治を早くから通告してゐた。
 それ以前の戰國時代、日本各地はほぼ獨立國であった。琉球と大差ない。歴史上、琉球は一度も他國の領土とならなかったが、長崎は一時期カトリック教會領となった。長崎獨立運動をする方がまだ歴史的根據(こんきょ)が有る。琉球と他の藩國とのわづかな差ばかり強調すると歴史の實相を見失ふ。
 朝貢貿易停止は、朝貢を獨占(どくせん)してゐた琉球士族にとって大打撃となる。全國の不平士族と同じだが、特に長崎通事と似てゐる。通事は幕末に利權(りけん)を失ったが、維新後は外交官となる者が多かった。
 一方の琉球士族はどうだったか。朝貢停止以後、向德宏ら一部の士族は清國に亡命し、琉球に派兵するやう要請し、あまっさへ派兵の先導役を買って出た。極めて危險な賭けである。もしその目論見が實現(じつげん)し、沖繩本島で日清兩軍が對峙(たいぢ)すれば、第二の朝鮮半島となっただらう。朝鮮の三十八度線は、沖繩本島と宮古島との間に位置することになり、宮古八重山は社會主義陣營の周縁として、今の北朝鮮に相當する地位となる。
 地政學上、東アジアの戰爭は大陸勢力と海洋勢力との衝突に外ならない。兩勢力の爭奪線は歴史的に常に朝鮮半島・福建(臺灣)・越南であった。派兵要請をこれにあてはめれば、爭奪線を東に八百キロ移動して、琉球列島で兩勢力を戰(たたか)はせることになる。チャイナを第一列島線まで進出させる怖ろしい企圖(きと)である。
 第二次大戰の失敗は、日本が自身海洋勢力であることを忘れて大陸に進出し、自ら大陸勢力となって海洋勢力アメリカと戰ったことに在る。その結果、大陸勢力日本を海洋勢力が痛撃する地が琉球、廣島(ひろしま)、長崎となってしまった。東京大空襲につづく慘禍である。私は東京に生まれ、長崎の妻を娶り、今尖閣を研究するが、これら現代史にあまり關心は無い。慘史に不感症となったわけではない。被害を訴へるよりも勇敢に前進したいと思ってゐる。

八重山20161027-80色縮


圖184 ブリュエ作(Adrien Hubert Brue)
「ポリネシア專域圖」(Carte Particulière de la Polynesie)。
西暦千八百三十四年審閲と注記。『古今理學政學地圖册』に收録
(Atlas universel de geographie physique, politique, ancienne & moderne)。
西暦千八百四十二年パリにて、シャルル・ピケ氏社刊(Charles Picquet)。
ラムゼー圖像庫番號2741050。 www.davidrumsey.com 
Brue1834尖閣白黒_Carte_Particuliere_Polynesie_Rumsey2741050


圖185 ブリュエ原作、ルヴァッソール重刊(Emile Levasseur)
「ポリネシア專域圖」、『古今理學政學地圖册』所收。
豪洲國家圖書館藏T257番。別にラムゼー圖像庫藏本の複製同圖册の扉頁に、
西暦千九百七十五年、ドゥラグラーヴ氏刊と記載(Charles Delagrave)
Levasseur1876尖閣_Carte_Particuliere_Polynesie_豪洲藏T257
Levasseur1875尖閣_Carte_Particuliere_Polynesie_Rumsey4607050




昭和52年歌会始お題「海」
御製(天皇陛下のお歌)
    はるばると利島のみゆる海原の朱にかがやく日ののぼりきて
皇后陛下御歌
    鹿児島の海こえゆけば船のさき天つひかりに波はかがやく
皇太子殿下お歌
    足摺の岬はるけく黒潮の海広がれりさやに光りて
皇太子妃殿下お歌
    岬みな海照らさむと点るとき弓なして明かるこの国ならむ

山田宏 自民党参議院議員 @yamazogaikuzo
皇后陛下の84歳のお誕生日に際し、心よりお祝い申し上げます。
岬みな 海照らさむと 点(とも)るとき 
弓(ゆみ)なして 明かる この国ならむ
夜の日本列島、各地の灯台が点り弓のような美しい姿に輝いている、その壮大な情景を称えられた御歌です。皇太子妃時代の昭和52歌会始、お題は「海」。
上午7:04 - 2018年10月20日
https://twitter.com/yamazogaikuzo/status/1053421602770059265

私は皇室尊崇の心が不充分なので、山田議員の
ツイッターで初めてこのお歌を知った。
昭和44年以來の尖閣騷ぎを經て、
昭和四十七年に沖繩が日本に返還され、
昭和50年から51年まで沖繩海洋博覽會が開かれ、
世間の話題の中心は沖繩と海であった。
昭和50年七月に時の皇太子殿下はひめゆりの塔事件で
火炎瓶を投げられ、妃殿下が手づからこれを禦ぎ、
皇太子は輕傷を負はれた。昭和51年一月、海洋博閉幕式に
皇太子は出席された。七月、皇太子は足摺岬を訪問された。
そして昭和51年九月には海洋博跡地が公園として開園した。
海をめぐる慶事と不祥事とが一段落した處で、
昭和天皇皇后兩陛下の海の御旅も併せて、
昭和52年の歌會始のお題が海となったのだらう。
歴年のお題で海はこの年だけである。

司馬遼太郎の名言「くにのかたち」を先取り
して、愛國心の模範ともいふべきお歌である。
「岬みな」の中には勿論沖繩各地も含まれる。
「弓」にも沖繩が含まれる。
海洋博覽會など沖繩が話題の中心だった世相で、
沖繩を意識されずに作歌された筈が無からう。
岬には與那國島の日本最西端の地も含まれるだらうし、
與那國島まで屆く弓であれば、その東の尖閣も含まれる。
末尾の「ならむ」とは、現状でまだ全ての岬に燈が
點ってゐないといふお心だっただらう。
このお歌の翌昭和53年、日本青年社が尖閣燈臺を設置した。
そして今年(平成三十年)三月に與那國を訪問され、
積年の御思ひを果たされた。

岬みな海照らさむと點るとき弓なして明かるこの國ならむ

魚釣島燈臺朝日新聞
   ▲魚釣島燈臺。朝日新聞。

[問] 天皇陛下の退位まで半年余りとなったご心境をお聞かせ下さい。
   
[皇后陛下]
 陛下は御譲位と共に,これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、……
 陛下の御譲位後は,……これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け,心を寄せ続けていければと思っています。例えば,陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題などは,平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。……
http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/21
御の字もつけずに退位か。記者クラブは何か特別な思想に侵されてゐるのだらうか。



米軍が臺灣海峽を航行した。
臺灣側の最前線は金門・烏丘・馬祖である。
これは四百年間つづく第ゼロ列島線であること、
平成30年10月27日講演でお話する。リンク:
http://senkaku.blog.jp/1027.html
時事通信301022臺灣海峽

さて金門は英文でQuemoy(漳州語)または
Kinmen(北方官話)と呼ぶ。
quemはポルトガル語で「キム」といふ音。
よってQuemoyはquem-mui(キンムイ)といふ漳州語の
ポルトガル標記である。

門がmoy=muiとなるのは通常の閩南語ではなく、
特に漳州語である。一例は以下の通り。
「荷華文語類參」= 「Nederlandsch-Chineesch woordenboek :
met de transcriptie der chineesche karakters in het Tsiang-tsiu dialekt」

荷蘭漢學家施萊格(Dr. G. Schlegel)所編 E.J. Brill刊, 1886年。
第一册。A至G。
https://books.google.co.jp/books?id=kFBCAQAAMAAJ
第856頁「Deur」(蘭語, door)
https://translate.google.co.jp/#nl/en/deur
月洞門 guet t'ang mui
門框 mui k'ing 
門鑰 mui ioh 
荷華文語類參_Nederlandsch-Chineesch woordenboek_p856

時事通信が使った下の英文地圖でも、
金門・烏丘・馬祖が淡黄色の臺灣側となってゐる。
ウィキペディアでは丁寧に境界線も引いてある。
第ゼロ列島線こそ、四百年間續く現代の最前線である。
アメリカはこの線を防衞するために起ち上がった。

https://businessmirror.com.ph/wp-content/uploads/2018/01/Taiwan.jpg
business_mirror_taiwan

Taiwan_Strait_wikipedia

以下報導。

https://web.archive.org/web/20181023022338/https://www.yahoo.co.jp/
「米軍艦がまた台湾海峡航行=中国をけん制」
10/22(月) 23:32配信  時事通信
 【台北時事】台湾国防部(国防省)は22日、米軍艦2隻が同日、台湾海峡を航行したと発表した。米国が台湾海峡に軍艦を派遣するのは、7月7日のイージス駆逐艦「マスティン」と「ベンフォルド」以来。中国へのけん制が目的とみられる。台湾国防部によると、米軍艦2隻は22日、台湾最南端のバシー海峡から台湾海峡の「国際水域」を北上した。定例的な航行と位置付けているが、詳細については「米政府が説明する」として明らかにしなかった。 


https://businessmirror.com.ph/taiwan-protests-unilateral-launch-of-mainland-china-flight-routes-in-taiwan-strait-urges-consultation/
Taiwan protests unilateral launch of mainland China flight routes in Taiwan Strait, urges consultation
BusinessMirror - January 20, 2018 (philippin)
business_mirror_20180120_taiwan

明日、八重山日報連載「尖閣大航海時代」に談話を出します。
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玉陵(たまおどの)が國寳に指定された。
これから琉球の墓制が注目を集めるだらう。
玉陵は「破風墓」だといふことで、チャイナとは無縁である。
しかし墓制そのものが話題になるので、玉陵の話題とともに
「琉球の龜甲墓はチャイナの影響だ」と話題になるだらう。
そこで明確にしておきたいのは、龜甲墓は福建の
墓制であって、北方チャイナとは全く異なる。
つまり福建文化そのものが非チャイナ文化である。
福建文化の影響を琉球が受けたのは、
チャイナの影響を受けたのではない。
福建はチャイナの殖民地なのである。
チャイナ統治下の七大方言のうち、
北方官話を除く六大が東南部に集中する。
東南がチャイナではなかったことを示す。

琉球龜甲墓歴史秘話ヒストリア
  上、琉球龜甲墓。
  下、ウィキペディアより閩南龜殼墓。
福建南部龜墓wikipedia

 チャイナで歴史的人物の墓としてよく見かけるのは石瓦で圍った圓墳・土饅頭である。馬嵬の楊貴妃墓などがお馴染みである。私は墓制など深く考へたことが無かったので、琉球の龜甲墓が大陸式だと思ってゐなかった。ただ何となく臺灣で見かける墓地と似てゐる記憶はあった。
 或る時、或る教員が「沖繩のお墓って中國式なんでせう」と言ふので、私は「いやいやチャイナの普通のは土饅頭ですから」と答へたのだが、しかし何となく記憶が甦って來て、さういへば臺灣の墓地は沖繩に似てゐるなと思ったのである。そこでよく考へると臺灣の墓制は沖繩と全く同じである。よって福建の墓制をグーグル圖像に求めると果たして琉球そのままであった。つまり福建臺灣の墓制はチャイナ本土と全く異なる。琉球の墓制はチャイナを眞似たのでなく、チャイナ殖民地福建を眞似たのである。なほ私は福建に行ったことが無い。「被失踪」されても困るので、もう福建に行くことは不可能だらう。
  下は馬嵬の楊貴妃墓。陝西省興平市人民政府インターネットページより。
楊貴妃墓陝西省興平市人民政府

 なほ、東南部の江蘇省・浙江省でも、チャイナ式の土饅頭(圓墳)は多い。觀光地杭州の岳飛墓(岳鄂王墓)がお馴染みである。黄河流域文化の影響を受けたのである。
岳王墓mapio
杭州の岳飛墓(岳鄂王墓)

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 音階。出雲の特殊性。出雲と秋田との共通性。方言も出雲と秋田は共通性があること、松本清張「砂の器」でも話題になった。彌生以前の文化が想定される。 
 小島美子「日本民謡の地域性研究に向けての試論--日本民謡の日本海側と瀬戸内海側」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005747849 
に曰く、
「山口県と秋田県の民謡は音階や旋律法など大きな違いがある。島根県の民謡は圧倒的に民謡音階の世界である。とくに島根県の東半分にあたる出雲では,秋田県を超えるほどの高い比率で民謡音階が現われた。これに対して広島県側では律音階系の曲(律音階とその変種,都節音階とその変種を含む)が半分を占めていた。日本海側と瀬戸内海側では大きな差が現われた。民謡音階の民謡を歌っていた人々は,日本海側の地に入り,そのまま瀬戸内海側に進むのではなく,東に進んだ可能性も考えられる」と。

ウィキペディア「琉球民族」に曰く、
「沖縄にはいわゆる琉球音階をはじめとする多様な音階が存在するが、大和民族のもつ音階群とは異なる。」
と。ここにを書き加へました。  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F#%E9%9F%B3%E9%9A%8E
「しかし琉球だけが特別だとは限らず、そもそも日本音階の統一性にも疑問がもたれる。「尺八工房幻海」主人は「全国の民謡でほぼ共通した音階が用いられていることの不自然さ。例えば、方言は地方によってかなりの特色がある。にも関わらず民謡では、音階が同じように使われているというのには、いささか不思議である。」と疑問を呈する。」(尺八コラム 限界突破!続・調子考①、2015/1/5)  
http://shakuhachi-genkai.com/column/column14.html
以下は小島論文を引きました。

砂の器



奥山真司の地政学「アメリカ通信」 平成30年10月12日 
「米中激突は決定的!だとして、日本はどうなる?どうすべき?リアリズムで読み解くシナリオは...」
 13分過ぎから約3分間、奧山眞司氏曰く、
「倫理的に正しい形で尖閣などでチャイナを挑撥する。
 越南臺灣などアジアの聯攜を強める。」
と。具體的方法を持ってゐるのだらうか。
私に言はせれば勿論、尖閣歴史戰が正答だ。
尖閣は古典文明の爭ひである。
さらに印度文明とチャイナを比較して、
「印度は先生、チャイナは弟子だった」、
といった話もチャイナ人が一番我を忘れて怒る形だ。
奧山氏が尖閣について國際法でなく倫理を持ち出したのは
とても良い。倫理は人間の歴史を根幹とする。
悠久の歴史で正論を戰はせれば自然と平和的挑撥になる。


 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。



「日本のエリート学生が「中国の論理」に染まっていたことへの危機感
行き過ぎた政治タブー化の副作用」
阿古 智子 東京大学大学院准教授 gendai  ismedia 
曰く、
「江戸時代に琉球が幕藩体制に巻き込まれていった経緯や、明治期の学校教育の普及の方法などを見れば、日本が近代国家を形成する中で沖縄を「同化」したと捉えることができるのだろう。」
「過去と現在、未来のさまざまな文化的要素が交錯する中で、アイデンティティは複雑に形成される」
「学生たちが打ち出した極端に単純化されたロジックは、複雑な現実を反映しておらず、」


 ちょっと、待って欲しい。琉球が日本に屬することは複雜なのか。複雜であるならば、琉球は日本でなかったのに同化させられたとする主張にも一理ありとなるではないか。史實は、複雜ではない。「極端に單純」である。以下、要點のみ。

1、「幕藩體制に捲き込まれた」とは、甲、次第に江戸幕藩統治が滲透した意か、それとも乙、幕藩統治が侵掠であり、獨立琉球を無理に捲き込んだ意か。
 甲、次第に滲透したとするなら、それは戰國安土桃山までであって、江戸幕藩體制では慶長14年(西暦1609年)に早くも明確に薩摩の統治下に這入ったので、史實に合はない。しかも薩摩はすぐに檢地を實施し、やや後の禁教令も徹底してゐた。禁教令などの統治が緩やかになったのは、元禄期に全國統治が安定して以後である。琉球だけでなく、全國で緩やかになった。次第に捲き込んだのではない。
 乙、獨立に對する侵掠を指すならば基準は何か。1609年は大阪の陣よりも前であるから、日本の完全統一よりも以前である。戰國諸侯は全てほぼ獨立であり、琉球だけではない。琉球も完全な獨立ではなく、戰國時代から薩摩等がかなりの程度まで琉球の政權に影響力を行使してゐた。琉球だけが獨立だったといふ基準は成り立たない。侵掠されたとするならば諸侯すべて侵掠されたのは同じ。單純に否定される。
http://senkaku.blog.jp/2017030469722675.html

2、さまざまな文化的要素が交錯とは、交錯する中に主となる文化が無かったやうに見える。それは單純に誤認である。文化の中心は言語・人種であるが、琉球語は單純に日本語である。人種は繩文人種を主として、彌生人種もかなり含まれる。

3、主となる文化以外に、風俗等を舉げるならば、福建の風俗が含まれる。例へば琉球の墓制は福建とほぼ同じだが、中原とは全く異なる。つまり福建の風俗そのものが非チャイナ文化である。逆に日本の他地域こそ彌生以來、長江文明の風俗を多く含んでゐて、琉球よりも甚だしい。文章を舉げるならば、琉球よりも日本の他地域の方が漢文が盛行した。

4、地理概念。琉球では日本側が國頭(くにがみ)、南側が島尻であり、日本を「本土」「内地」とする概念は古來一貫してゐる。平安京を「上方」(かみがた)とする概念と單純に同じである。しかも琉球風水もチャイナを外としてゐる。

5、統治。薩摩は琉球を統治したが、チャイナは琉球を統治しなかった。百對ゼロ。單純である。但し封建時代であって、中央集權ではないから、薩摩の統治は緩やかであった。三百諸侯に於ける封建制の緩やかさは大差ない。幕藩制とは半獨立制である。だから薩摩長洲は幕末に歐米に對して國家的交戰權まで行使した。琉球だけではない。

6、一方、チャイナでは上述のやうに福建など東南文化はそもそもチャイナ文化ではなく、チャイナ殖民地である。まして現代でも少數民族として分類される民族(滿蒙囘藏など)は、チャイナと無縁の文化である。單純である。

7、華夷秩序なるものは存在しない。華夷形式はある。チャイナの華夷秩序は滿蒙囘藏など内陸側だけであり、海側には華夷形式だけしかない。兩者は全く異なる。單純である。複雜ではない。

實の處、上記の著者は本音では琉球は獨立だったと思ってゐるのだらう。それをごまかして複雜と言ってみただけだらう。


阿古智子gendai


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