- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

一月十四日は尖閣諸島開拓記念の日です。
私は昨年、式典記念講演をしましたが、
http://senkaku.blog.jp/290114.html
今年は都合により出席できないので、祝電を送りました。
まづは日章旗の臺紙を搜しました。
https://hinomaru-sannnomiya.amebaownd.com/
日章旗と言へばリンクの三宮商店。
日章旗三宮商店
しかし祝電用は殘念ながら見つからず。
愛國者コシノジュンコ富士山の臺紙はソフトバンクで見つかりましたが
https://hot115.jp/celebration/basic/102-082/
コシノジュンコ富士山
石垣島がソフトバンクの配達範圍に這入ってませんでした。
已むを得ず、富士山もあきらめて、
普通のデザインの郵便局のレタックスを選びました。
https://webyubin.jpi.post.japanpost.jp/webyubin/elx/DYFR210Flash.do
リンクです。皆さんも送ってみませんか。
石垣島の皆さんに喜ばれる筈ですし、
「祝電殺到!」とかのニュースになるかも知れません。
ファックスでも可能のやうです。
多分式典會場に貼り出されると思ひます。
下は私の文面です。宛先は役所なので、
金曜夕方までに到着するやう指定しました。
土曜到着で式典で貼り出されるかどうかは分かりません。
貼り出されなくても喜ばれることは間違ひありません。

〒907-8501 石垣市美崎町14
石垣市役所 企劃部 企劃政策課 企劃係御中
TEL0980-82-1350 FAX0980-83-1427
明治二十八年、尖閣諸島が正式に日本の領土と
なるまでの悠久の歴史の重みを感じつつ、
尖閣諸島開拓の日をお祝ひを申し上げます。

長崎純心大學准教授
内閣官房領土室委託尖閣調査事業特別研究員
いしゐのぞむ」
   
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また、同じ一月十四日の午前十一時半から、
石垣港そばの尖閣開拓記念碑前で、
「尖閣諸島開拓の日を祝ふ宴」
が行なはれます。こちらにも祝電を送りました。
こちらは舞蹈家Takezo氏の日の丸演舞が披露され、
尖閣まぐろも振舞はれる見込みです。
昨年はこちらの宴にも中山義隆石垣市長が出席してゐました。
以下は私の祝電文面です。

〒907-0022石垣市大川40番地 電話0980-83-1568
仲間均議員事務所氣附 尖閣諸島を守る會御中
數百年にわたる悠久の歴史を經て、
明治二十八年、尖閣諸島が正式に日本の領土と
なったことを記念し、
「尖閣諸島開拓の日を祝ふ宴」をお慶び申し上げます。

長崎純心大學准教授、
内閣官房領土室委託尖閣調査事業特別研究員
いしゐのぞむ」   

そもそも、祝電の臺紙など、慶祝用品に日の丸や富士山がほとんど無いといふのは悲しいことではありませんか。郵便局やNTTには、日の丸と富士山を採用するやう求めたいですね。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1553962051354339
尖閣祝宴仲間均


明治大學蘆田伊人文庫。
蘆田伊人

地球萬國山海輿地全圖説;地球萬國[図]説 全(元題簽) / 常陽水府 赤水 長玄珠述
    -- -- 木版(彩色) -- 1舗 -- 52.5×58.1cm(19.5×10.3cm)
「大清図」「朝鮮図」を付す。図の赤道径55.1cm, 南北径27.4cm。
裏表紙に「山形縣羽前国東置賜郡上郷村大字長手千六百六十四番地
 亀吉持主 明治廿五年旧四月大吉撰日求之」と墨書あり。
http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/ashida/search_detail?detail_sea_param=loc,4,35,0
http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/each/04/04-035/04-035-0-2.04.026-l.jpg


上記刊本の手寫着色が下圖。

地球萬國山海輿地全圖説;山海輿地全圖(序) / 常陽水府 赤水 長玄珠述
    -- 手書図 -- (彩色) -- 1枚 -- 111.0×160.3cm
    刊本の写図。南北径 68.8cm, 赤道径 147.3cm。「長久保氏藏版 東都 山崎金兵衛 浪速 淺野弥兵衛」。
http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/ashida/search_detail?detail_sea_param=loc,4,56,0
http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/each/04/04-056/04-056-0-1.013.042-l.jpg


明治大學は掲載手續きが少々嚴しいので、
これまで論文で取り上げるに間に合はなかったのだが、
ここで圖を切り取らずにリンクだけでブログに出して置かう。

尖閣附近に「レイシ」とある。
他の朱印船古海圖では尖閣に「レイス」とあり、
朱印船航路簿(寛文航海書など)では尖閣に「レイシ」
とあるので、この圖のレイシは航路簿の情報を
取り入れたのかも知れない。但し、問題がある。
與那國島附近の島に「ケイラ」と書かれてゐる。
臺灣島最北端の鷄籠(ケラン)とは位置が全く異なる。
オランダの情報にもとづく地圖では、
臺灣島の東岸に「Gaelay」「Gillira」といふ島があるので、
この「ケイラ」はオランダ式の圖から取った可能性が高い。
ところがオランダ式の地圖では尖閣の位置を捉へてゐない。
しかもこの赤水の圖ではレイシの西側に
臺灣北方諸島が無い。
さうなると、この赤水のレイシは尖閣なのか否か確定できない。
とても殘念だ。
「Gaelay」「Gillira」については、拙著「尖閣海域史辨妄」
(長崎純心大學大學院『人間文化研究』第十五號)參照。

https://web.archive.org/save/http://senkaku.blog.jp/2018010974442265.html
http://archive.is/JNb1t

https://t.co/NIfbJPLRjU

http://archive.is/ONRfj
八重山20121006
  .
明国地図、尖閣は「国外」 中国公式見解を否定 石井准教授「具体的反論を」
2012/10/06  八重山日報
   插圖:籌海図編の「沿海山沙図」(四庫全書、台湾商務印館)。
   尖閣諸島は中央上部にある。赤色は石井准教授が挿入。

 尖閣諸島(石垣市登野城)が明代(1368年~1644年)の中国の「管轄範囲」だったことを示す証拠として、中国政府が公式見解に採用している明国の軍事書の島嶼(とうしょ)図が、実際には国外であるだけでなく、海防範囲外を示していることが分かった。中国の主張に対する有力な反論になりそうだ。石井望・長崎純心大准教授(漢文学)がこのほど、佐賀県で開かれた講演で明らかにした。
   插圖:大明一統志 天順本(統一印刷公司)より、福建省福州府の項目。

 明国で一五六二年に書かれた軍事書「籌海図編」(ちゅうかいずへん)には「沿海山沙図」(えんかいさんさず)という大陸沿岸の島嶼図を収めている。「山沙」とは島嶼を指す。その中に尖閣諸島の古名「釣魚嶼」などが記載されている。

 「籌海図編」が軍事書であることを根拠として、中国政府は一九七〇年代から、尖閣諸島を明国の海防管轄範囲と主張。最近では今年9月25日に中国国務院新聞弁公室が発表した「釣魚島領有白書」などで、この見解が公式採用されている。これに対し、日本の研究者はこれまで「尖閣が管轄内との記述はなく、ただの航路のしるべだ」と反論してきたが、管轄外と明記する文献を示していなかった。

 石井准教授が9月30日に行った講演によると、1461年、明国で勅命により刊行された「大明一統志」(だいみんいっとうし)には、福建省と浙江省の東端が「海岸まで」と明記されており、尖閣諸島は明確に国外だった。

 一例として福建省福州府の項には「東のかた海岸に至る一百九十里」と記されている。百九十里(現在の約百キロメートル)は、福州の本府所在地から海岸までの距離を示しており、明国の領土は海岸まで、尖閣は国外であったことが分かる。「大明一統志」だけでなく、明国で編纂された各地方志の「疆域」(領域)の記述も同様だという。

 石井准教授は「海岸以東が国外である以上、『山沙図』即ち島嶼図の定義そのものが国外図というに等しい」と話す。石井准教授によると、明国では海岸を守るための駐屯地を、国外の近海島嶼に点在させていたという。

 国外の駐屯地は、中国主張の根拠とされる「籌海図編」に「福建兵防官考」の項目で列挙され、ほぼ銅山(どうざん)、浯嶼(ごしょ)、南日(なんにち)、烽火門(ほうかもん)、中左(ちゅうさ)(厦門)、金門(きんもん)、烈嶼(れっしょ)、壁頭(へきとう)、五虎門(ごこもん)(官母嶼)の9カ所だけ。いずれも沿岸10数キロメートル以内の範囲であり、福建から約4百キロメートルの尖閣諸島は明らかに範囲外だ。

 遠く台湾との間にある澎湖群島(ほうこぐんとう)も、例外的に一時期駐屯地となっていたが、それでも福建沿岸から約2百キロメートルの位置に過ぎず、尖閣諸島までの距離の半分だ。

 これまで日本側は、明国の公式地理書に尖閣が載っていないと主張するだけだった。石井准教授は「これからは『明国の国内はここまで、国外の駐屯範囲はここまで』と具体的に確定して指摘するべきだ」と話している。

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以上、八重山日報記事。
『大明一統志』は、めでたく平成二十八年度
く内閣官房委託尖閣調査報告書に
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf
採用されました。


南日本語派(琉球を含む)と東日本語派(八丈を含む)の提唱
  2017年12月24日   五十嵐陽介
https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=150257
 
五十嵐陽介氏の最新の研究は
https://researchmap.jp/yos_igarashi/?lang=japanese

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26770143/

https://researchmap.jp/mu90vd43k-1856949/#_1856949

何やら凄さうだ。琉球語と九州語は確かにかなり近縁性を感じる。


五十嵐陽介(2016)「琉球語を排除した「日本語派」なる系統群は果たして成立するのか?
―「九州・琉球語派」と「中央日本語派」の提唱―」国際日本文化研究センター共同研
究会「日本語の起源はどのように論じられてきたか-日本言語学史の光と影」第 3 回共
同研究会. 2016 年 8 月 30 日.  京都:国際日本文化研究センター.


五十嵐陽介「九州・琉球同源語調査票」  
https://researchmap.jp/mu90vd43k-1856949/
九州の言語と琉球列島の言語のみが共有している語(形態素)のリスト。PDF。
曰く「球列島の言語と九州の言語の「近さ」を指摘した先行研究。琉球列島の言語と「最も近い関係」にあるのは九州の言語であるとの指摘は、古くは伊波普猷(1911) 、服部四郎(1979)によってなされており、その後も野原三義(1979-83) 、上村幸雄(1997)などによってなされている。最近でも狩俣繁久(2002; 2016)、風間伸次郎(2012) 、五十嵐陽介(2016)が琉球列島の言語と九州の言語の近さを主張している。ただし、従来の研究は、ほとんどの場合、両者の類似性を指摘するにとどまり、
両者が系統的に近縁であることを示す証拠を必ずしも提出していない。」

伊波普猷(1911)「琉球人の祖先に就いて」 伊波普猷『古琉球』沖縄:  沖縄公論社.  pp.  1-60.

上村幸雄(1997)「琉球列島の言語(総説)」亀井孝・河野六郎・千野栄一(編著)『言語学大辞典セレクション:日本列島の言語』東京:三省堂. pp. 311-354.

風間伸次郎(2012)「琉球諸語研究の視点―類型的・歴史的観点から―」若手研究者育成セミナー「消滅危機言語としての琉球語研究の意義と目的」東京:東京外国語大学.

狩俣繁久(2002)「琉球列島の下位区分」北原保雄(編)『朝倉日本語講座 10:方言』東京:朝倉書店.

狩俣繁久(2016)「日琉祖語はどのように語られてきたか」国際日本文化研究センター共同研究会「日本語の起源はどのように論じられてきたか-日本言語学史の光と影」第 3 回共同研究会. 2016 年 8 月 30 日.  京都:国際日本文化研究センター.

野原三義(1979-83) 「琉球方言と九州諸方言との比較」(Ⅰ-V)『沖縄国際大学文学部紀要:国文学篇』  8(1), 1-16; 9(1-2), 1-20; 10(1), 1-16; 11(1-2), 1-16; 12(2), A1-A14.

服部四郎(1979) 「日本祖語について 21-22」『言語』8(11): 97–107; 8(12): 504–516.



https://twitter.com/YosukeIgarashi/status/945131329921806341
https://twitter.com/YosukeIgarashi/status/945131642678534145


https://twitter.com/manadia_ad/status/847403406918537216

五十嵐陽介twitter2





田中角榮が周恩來と尖閣棚上げで合意したといふデマが流布し、
ここ數年來の輿論乃至政策に大きな影響を與へてゐる。
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=10m20s
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=12m20s
(ニュース女子、十分半と十二分半)

記録原文(下方リンク)を見れば、
明らかに周恩來がわざわざ尖閣不干渉を宣言してゐる。
それを承けて日本側は何も言ってないのだから、
領土問題存在せずと確認できたわけである。
「田中角榮がもう一押し確約を取りつけるべきだった」
と考へるならば大間違ひである。
完全無缺の日本領土について、
外國から何らの確約も取りつけてはならない。

しかもこの時、周恩來は臺灣の主張も存在して良いと
しっかり認めてゐる。
チャイナ側にとっては、ヤバ過ぎる會談記録だ。
日本政府は情報公開法にもとづき公開してゐる。

ところがその後、日本人は
「干渉されないなら扉に鍵かけずに置かう」
といふ空氣になってしまった。そして近年、
わざわざ空島にして、招かれざる客を招いてゐる。
惡いのは自分である。なぜそんなに弱氣なのか。
もともと清國は國境線外の尖閣を數百年間にわたり
非領有宣言し續けてゐたのに、
なぜか明治の外相井上馨も無闇と弱氣だった。
「杞憂」が常に日本を支配してゐる。
原因は歴史健忘症ではないか。尖閣には悠久の歴史が
あるのに、當局者は全く歴史を意識してゐない。
現代的な是非よりも悠久の尖閣史こそ大切なのだが、
たまには現代史料も以下に複製して置かう。
「周恩來、尖閣不干渉宣言」である。みなさん廣めて頂きたい。

http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPCH/19720925.O1J.html
データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所
[文書名] 田中総理・周恩来総理会談記録
[年月日] 1972年9月25日〜28日
[備考] 情報公開法に基づいて読売新聞社が外務省に開示を求めて公開された文書
秘密指定解除 情報公開室
極秘無期限 4部の内3号
(1972年9月25日〜28日)
周恩來:(上略)キッシンジャーは「台湾海峡の両側の中国人が中国は一つであると主張することにチャレンジしない」と言った。これはキッシンジャーの傑作である。ヨーロッパ問題について言えば、今、ヨーロッパの連中は平和の幻想を抱いている。しかしこれはソ連にだまされている結果である。

田中総理: 尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。

周総理: 尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。国交正常化後、何カ月で大使(館)を交換するか?

大平大臣: できるだけ早く必要な措置を講じていくが、(下略)

參考2:
ニュース女子でも尖閣棚上げ合意に皆さん弱氣だ。十分半と十二分半。
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=10m20s
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=12m20s



必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。
歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。
國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。

周恩來

周恩來江青


八重山日報 平成三十年元旦紙面。
沖繩に關心を持つ人には凄い情報滿載。
編輯長の本音座談會に大笑ひ。
これはもう十部くらゐ注文して配らう。
第四面第五面ぶちぬきで、昨年末の石垣市仲間均議員
と私との對談も掲載されました。 
掲載後でも全文お讀みになるには、單日電子版ご購入リンクからどうぞ。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

讀めない程度の縮小圖像を下にお屆けしておきます。
八重山日報30_0101仲間均對談







H30賀印刷版

謹 賀 新 年
  平成戊戌元旦

 詠史賀泰平

三仙臺下水中神
(臺在中華民國臺東縣北界、神名イロク) 
魚餌鯨呑空釣綸 
(大正三年『蕃族調査報告書』海岸蕃條) 
修志同宗黄御史 
(黄氏『使槎録』詳朝日新聞十一月十七日電子版)  
郢書燕説五十春
(尖閣議始於昭和四十三年、詳石平『眞實の尖閣史』
 十作諶、倣杜牧「江南春」故事)

三仙臺下、水中神
(臺は中華民國臺東縣の北界に在り、神名イロク) 
魚餌鯨呑、釣綸むなし 
(大正三年『蕃族調査報告書』海岸蕃條) 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876213/153
志を修むるはともに宗とす黄御史 
(黄氏『使槎録』は朝日新聞十一月十七日電子版に詳らかなり)  
https://www.asahi.com/articles/ASKCK4Q7WKCKUTFK00N.html

郢書燕説五十春
(尖閣の議は昭和四十三年に始まる、
 石平『眞實の尖閣史』に詳らかなり。
 十の諶に作るは、杜牧「江南春」の故事に倣ふ)

http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
石平表紙撮影4

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渡邊拓仙臺市議會291218

仙臺市議會 渡邊拓(ひろし)議員質問ビデオ。

http://www.sendai-city.stream.jfit.co.jp/?tpl=play_vod&inquiry_id=3916

伊達藩黑はばき組の文化財が廢棄された事に始まり、全編が焰の質問。

全編聽いて頂きたいが約十分過ぎから尖閣。

切り取り版は下リンク。

https://www.youtube.com/watch?v=4zIufO1MHXY



尖閣部分の質問原稿は同議員フェイスブックより。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1748191821891759
【議会質問原稿】
平成29年度第4回定例会一般質問
171218 太白区 わたなべ 拓
「(上略)本市内に所在の未指定文化財には、書籍や地図なども含まれるのであります。なかでも、周辺懸念国からの侵略の脅威に直面している我が国固有の領土「尖閣諸島」関係の貴重な資料が本市内に所在していることはあまり知られていません。

 先月、台湾による「尖閣領有」の主張を、1970(昭和45)年に台湾政府が発行した公式地理書「台湾省通志」をもとに学問的に否定した長崎純心大学の石井望先生にお話を伺いました。
 たとえば、①東北大学平山文庫所蔵の17世紀末の航海図『船乗ひらうと』は、長崎・与那国間における尖閣諸島経由の航路を明記する内容で、同時代以前のチャイナ福建側の史料には同航路が全く登場せず尖閣がチャイナとは無縁の地であったことを示すものであります。これは尖閣諸島が、歴史的に我が国の勢力圏内にあったことを立証する一次資料であり、最高の貴重書でありますが、文化財指定はされておりません。
 また、②東北大学狩野文庫所蔵になる19世紀清国の書籍『洋防輯要』、「尖閣諸島とは釣魚嶼である」とする台湾の主張を権威あるチャイニーズの先学が否定する内容であり、我が国にとり重要な一次資料であるが、電子画像は未公開であります。

 そこで、我が国尖閣諸島の歴史を国民が正しく理解するための貴重な一次資料を、閲覧による汚損や、懸念国による毀損行為から護るためにも、当該史料を本市において文化財指定し保護するとともに、同史料を高精度の彩色電子画像化してインターネット上で公開してはいかがでしょうか。これにより、我が国のみならず世界中の人々が申請を経ずに同史料を自由に閲覧できるようになり、世界に対する大きな学問的貢献となり、ひいては国益擁護にも資するのであります。これは「学都」仙台という本市の都市ブランディングにも資する誠に意義ある文化的貢献となることでしょう。既に、東北大学図書館と本市の間では『漱石文庫』のマイクロフィルム化を共同実施した先例もあります。さらには、電子画像化費用を仙台市が支弁することは東北大サイドにも一定のメリットがあり現実的な施策といえますが、当局の所見を求めます。」
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以上、渡邊拓(ひろし)議員 フェイスブックより。
以下、議員に提供した仙臺市内貴重尖閣史料十種情報の内、
議員に採用して頂いた二種を解説する。

まづは『ひらうと』(ぴろーと、PILOT)。
長崎純心大學大學院『人間文化研究』第十五號所收の
「尖閣海域史辨妄」にもとづき、以下にまとめる。

『船乘ひらうと』東北大學平山文庫藏、西暦十七世紀末。貴重度最高。
貞享2 西暦1685  資料番号: 00080338541. 平山文庫請求記号MA/667

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA88438236
https://opac.library.tohoku.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=TT21695700
http://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000398wasan_4100017490
http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/q036/20/q036200001l.png
http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/q036/20/q036200013l.png
http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/q036/20/q036200014l.png
http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/q036/20/q036200064l.png
http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/q036/20/q036200065l.png

船乘ひらうと東北大學デジタル

女島ーレイシー與那國ータバコ島ーバシー諸島ーマニラと南下する航路。
女嶋(めしま):長崎五島列島の南の男女群島の女島。
れいし(連いし):尖閣。長崎の南西、與那國の北北東に位置する。
よなこ嶋:與那國島。
たばこ嶋:臺灣東南側の島、今の蘭嶼。

【評】長崎與那國間の尖閣南北航路を明記する。チャイナと無縁の航路。



船乘ひらうと2東北大學デジタル
南澳坪山ー鷄籠頭ー鳥嶼ー天堂ー長崎、北上航路。

南澳坪:廣東省と福建省との境界線上の南澳島及びその沖合ひの澎山。
鷄籠頭:今の基隆附近の臺灣島最北端と推測される。鷄籠は基隆に同じ。
鷄籠頭嶼仔:基隆附近の島と推測される。
烏嶼:諸本校勘により、烏嶼でなく鳥嶼(とりしま)と確定して良い。位置としては臺灣北方諸島と尖閣との中間ほどなので、どちらか確定できない。しかし他の諸史料では尖閣をトリシマとするので、ここでも尖閣を指す可能性が極めて高い。いづれにしろ臺灣北方諸島まで日本が制海權を握ってゐた歴史に符合する。
天堂:鹿兒島の甑列島と考へられる。

【評】この頁は福建式の航路簿だが、トリシマ系列情報は福建側の史料に全く出現しないので、長崎の朱印船唐人が日本側の情報にもとづき作成したと考へられる。

朱印船呂宋

タバコシマ朱印船矢印2

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次に清國の道光中の嚴如煜(げんじょいく)『洋防輯要』
東北大學のほか、バイエルン州立圖書館藏本あり。。

http://reader.digitale-sammlungen.de/de/fs1/object/display/bsb11178115_00060.html
http://reader.digitale-sammlungen.de/de/fs1/object/display/bsb11178115_00059.html
http://reader.digitale-sammlungen.de/de/fs1/object/display/bsb11178115_00058.html
https://books.google.co.jp/books?id=ViVjAAAAcAAJ
https://books.google.co.jp/books?id=LiVjAAAAcAAJ

該館の書誌では西暦1843年刊としてゐる。
バイエルン藏本は順次が顛倒してゐる。
pdf921 卷十二福建略
pdf 77-106 卷一圖
pdf 107-126 封面、序、目次  
封と序には年代を記載してゐないので確定できない。
通行本は道光18年(西暦1838年)の來鹿堂刊本。
香港大學藏は道光十八年來鹿堂刊本。

http://library.ctext.org/c0004170/c0004170_0113.jpg

http://library.ctext.org/c0004170/c0004170_0114.jpg

http://library.ctext.org/c0004170/c0004170_0115.jpg

http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=152235&page=113

http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=152235&page=114

http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=152235&page=115

他に國立公文書館に同治刊本あり、電子圖像未公開。

問題の釣魚嶼部分のバイエルン藏本圖像は下の通り。

洋防輯要24釣魚嶼バイエルン藏


『洋防輯要』 24卷  16册 東北大學狩野文庫3/5893/16  
道光十八年來鹿堂刊本。電子圖像未公開。貴重度次高。

https://opac.library.tohoku.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=TT29020884

卷二十四「外夷市貢」内『太倉使往日本針路』後半は福建琉球間航路を載せる。

【原文】
小琉球套北過船、見鷄籠嶼及梅花瓶、彭嘉山。彭嘉山北邊過船、遇正南風、用乙卯針、或用單卯針、或用單乙針。西南風用單卯針、東南風用乙卯針、十更船、取釣魚嶼釣魚嶼北邊過、十更船、南風用單卯針、東南風用單卯針、或用乙卯針、四更船、至黄麻嶼。黄麻嶼北邊過船、便是赤嶼。五更船、南風用甲卯針、東南風用單卯針、西南風用單甲針、或用單乙針、十更船、至赤坎嶼。

〔小琉球〕臺灣北方諸島。現在地は不確定。
〔鷄籠嶼〕臺灣北方諸島。現在地は不確定。
〔梅花瓶〕臺灣北方諸島。現在地は不確定。
〔彭嘉山〕臺灣北方諸島各現在地は不確定。
〔更〕距離單位。一更は約三十キロメートル。十更は約三百キロ。

【評】
更數は甚だ亂れてをり、釣魚嶼を過ぎる前と過ぎた後に、ともに十更の航程がある。ところが黄麻嶼と赤嶼との間ではただ「便是」(すなはちこれ)の二字を言ふだけなので、至近距離だと分かる。黄麻嶼と赤嶼を尖閣内の至近距離の島群に擬すべきである。さうなると、順次によって釣魚嶼は臺灣北方三島の内に位置することとなる。釣魚嶼が尖閣ではないことを示す好例である。しかもその認識のまま西暦十九世紀中期にまで至ってゐる。同じやうに釣魚嶼を臺灣北方諸島の一と誤認する史料は歴代極めて多い。
▼下は『洋防輯要』の概念圖。。

google尖閣洋防輯要

『洋防輯要』については、近く八重山日報の談話連載「尖閣大航海時代」にて紹介します。

單日電子版ご購入リンクからどうぞ。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html


 


http://orientaldaily.on.cc/cnt/china_world/20171229/00178_001.html
http://hk.on.cc/int/bkn/cnt/news/20171228/bknint-20171228130709936-1228_17011_001.html
中文版全名為《千秋興亡:中國歷代王朝興衰錄》,
該叢書的越南版由越南文化資訊出版社與明智文化公司聯合出版,
書中提到在中國清朝康熙與乾隆時期,南沙群島是中國疆土的最南端;

https://hk.news.appledaily.com/china/realtime/article/20171228/57636529
復旦大學教授葛劍雄主編的《中國封建王朝興衰錄—第3集:明朝與清朝》,
提到南沙群島是中國疆土最南端,
書中寫到清朝康熙與乾隆時期,都提到「南沙群島是中國疆土的最南端」。

https://www.hk01.com/article/144787
http://www.mingpaocanada.com/Van/htm/News/20171228/tcaf1_r.htm
《中國封建王朝興衰錄》的主編為上海復旦大學教授葛劍雄,
在越南由越南文化資訊出版社與中國明智文化公司聯合出版。
書中清朝康熙與乾隆時期的內容,都提到南沙群島是中國疆土的最南端。

http://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/2295610
「該書中寫道,清朝康熙、乾隆時期,都提到南沙群島是中國疆域的最南端。」

以上報導多則,都沒寫到哪一條史料有乾隆時的記載。

https://www.amazon.cn/gp/product/B00EHA9YPQ/
葛劍雄主編『China歷代王朝興衰錄』,
清國卷的作者是徐洪興氏。徐洪興氏寫法如下。

第九十四頁:
「從康煕帝統治開始,我國的疆域,東至太平洋,南達南沙群島,西跨葱嶺,……」
第一百零九頁:
「到清朝的乾隆時期,中國的疆域東南起自臺灣,
西北至巴爾喀什湖,西南起自雲南邊境,東北直達外興安嶺;
南至南海諸島,北至恰克圖,東至庫頁島,西至葱嶺。」


兩處敘述,西和北是侵奪,東和南是造假。太平洋是指臺灣東部,清朝統治何曾到達,南沙(長沙)更無蹤跡,可是人民共和國刊行的著作都這麼寫,世界的學界應該共同唾棄它。在人民共和國誰嘗試相反的寫法,誰就無法刊行著作。不管越南政府做法如何,人民共和國的人沒理由批評越南。

南沙群島長沙
Dao Truong Sa (島長沙)。

平成29年10月15日(日曜)から、八重山日報第六面に、
私の談話連載「尖閣大航海時代」が始まってゐます。
ほぼ毎週日曜に掲載されます。
第二囘だけ總選舉のため少し遲れて十月27日金曜第六面でした。
第三囘10月29日(日曜)から以後は毎週日曜となってゐます。
本日12月31日(日曜)は八重山日報は休刊です。
各囘を掲載後に全文お讀みになるには、單日電子版ご購入リンクからどうぞ。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

お試しよみとして12月24日(日曜)第十一囘を下にお屆けします。
https://pbs.twimg.com/media/DRwkNDcUQAEeTYg.jpg

yaeyama291224連載11電子


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維基百科 沖繩海槽 
https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E5%86%B2%E7%BB%B3%E6%B5%B7%E6%A7%BD
 
清代自汪楫始開創了「過溝祭海」制度。歷屆冊封使對沖繩海槽多有記載和題詠:
    郭汝霖《使琉球錄》:「六月二十九日,封王禮畢,守候風汛回國。……十月初九日登舟,……至二十六日,許嚴等來報曰:漸有清水,中國山將可望乎?二十七日,果見寧波山。」
    夏子陽、王士禎《使琉球錄》:「二十七日,午後過釣魚嶼,次日過黃尾嶼,……連日所過水皆深黑,宛如濁溝積水,或又如靛青色,憶前《使錄補遺》稱:去由滄水入黑水,信哉言矣!十一月二十一日,向曉開洋,……二十九日,隱隱見一船,眾喜謂:有船則去中國不遠,且離黑入滄,必是中國界。」
    張學禮《使琉球記》:「六月初九日,浪急風猛,水飛如立,舟中人顛覆嘔逆,呻吟不絕,水色有異,深青如藍。舟子曰:入大洋矣。頃之有白水一線,橫亘南北。舟子曰:過分水洋矣。此天之所以界中外者。」
    汪楫《使琉球雜錄》:「二十五日,……薄暮過郊,或作溝,風濤大作,投生豬羊各一,潑五斗米粥,焚紙船,鳴鉦擊鼓,諸軍皆甲露刃,俯舷作禦敵狀,久之始息。問郊之義何取?曰:中外之界也。界於何辨?曰:懸揣耳。然頃者恰當其處,非臆度也。」
    徐葆光《中山傳信錄》:「二月十六日癸丑,巳刻封舟自琉球那霸開洋,……二十日丁巳,……船共行二十六更半。是日海水見綠色,夜過溝祭海神。」
    周煌《琉球國志略》:「環島皆海也。海面西距黑水溝,與閩海界。福建開洋至琉球,必經滄水過黑水,古稱滄溟。溟與冥通,幽元之義。又曰東溟。琉地固巽方,實符其號。」
    周煌從客王文治《渡海吟》:「黑水之溝深似墨,渾沌如游邃;古初元黃不辨乾坤色,那須燃犀更照耀;颯颯陰風戰毛骨,方知中外有分疆;設險惟天界殊域,我聞百川萬派清濁殊於廓。」

【日本觀點】
關於郭汝霖「漸有清水,中國山將可望」,日本學者認為此處清水在釣魚嶼西方大陸沿岸 [1]。

關於夏子陽「中國界」,日本學者認為此處中國界在釣魚嶼西方大陸沿岸[2]。

關於張學禮「分水洋」,日本學者認為此處分水洋在釣魚嶼西方台灣海峽北部[3]。

關於汪楫「中外之界」,日本學者認為汪楫船抵台灣海峽時,船中福建船員和琉球船員發生爭執,汪楫一開始採用福建人的偏南航線,第二天最終改用琉球人的偏北航線,其後駛近琉球時,船員告訴汪楫有「中外之界」,當然是琉球船員所告訴的,因此汪楫船中的過郊祭(亦作過溝祭)可推測是琉球人的祭祀活動,並且中外即內外,是琉球國的內外,非中琉的國界[4]。

關於徐葆光「海水見綠色,夜過溝祭海神」,日本學者認為此溝在大陸架淺綠色水中,等待夜間纔舉行祭祀,不是沖繩海槽[5]。

關於周煌「黑水溝」,日本學者認為此處黒水溝無法確定在東在西,且夏子陽早已記載滄水黑水之界離大陸不遠,周煌據之,當指釣魚嶼西方的黑潮;周煌自身詩中也説「豈知中外原無界」「相傳中外分界處」,意謂中外界只是汪楫所記載的「相傳」之談,原來無法尋覓[6]。

關於王文治「黑水之溝」,日本學者認為王文治與冊使全魁同航,全魁在釣魚嶼西方記載溝界,王文治所見當與此相同[7]。

[1]詳いしゐのぞむ「和訓淺解尖閣釣魚列島漢文史料」,2012年長崎純心大學。又《尖閣反駁マニュアル百題》史料第十條,集廣舍2014年6月。
[2]詳いしゐのぞむ「和訓淺解尖閣釣魚列島漢文史料」,2012年長崎純心大學。
[3]詳いしゐのぞむ「和訓淺解尖閣釣魚列島漢文史料」,2012年長崎純心大學。
[4]見いしゐのぞむ「尖閣釣魚列島雜説七篇」、長崎純心大學『ことばと人間形成の比較文化研究』、右頁三十四。以及いしゐのぞむ《尖閣反駁マニュアル百題》史料第七十六條,集廣舍2014年6月。   
[5]詳いしゐのぞむ「和訓淺解尖閣釣魚列島漢文史料」,2012年長崎純心大學。   
[6]見いしゐのぞむ《尖閣反駁マニュアル百題》史料第二十八、三十條,集廣舍2014年6月。  
[7]見いしゐのぞむ《尖閣反駁マニュアル百題》史料第三十一及三十二條,集廣舍2014年6月。  

沖繩トラフ

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鍛冶俊樹氏曰く。
 中国政府は北京、上海などで反日暴動を惹き起こし在留邦人を恐怖に陥れたばかりか、日本人社員4人を人質に取った。さらに日本へのレアアースの輸出を停止し、日本に謝罪と賠償を求めた。
 ここで米国政府が「尖閣諸島は日米安保条約の発動対象」と明言したため、事はようやく収まったのである。つまり中国が尖閣諸島を占領した場合、米軍は中国を攻撃すると宣言し中国が慌てて矛を収めたのだ。
 だが、米国としても中国と戦争を望んでおらず、そこで米中間で尖閣諸島での軍事行動を双方が控える旨の合意がなされた。つまり中国が尖閣に軍隊を派遣しない限り、日米も自衛隊や米軍を出動させないという約束である。
 戦争を回避するための合意だが、逆に解釈すると中国が海洋警察や海上民兵を軍隊でないと主張して派遣すれば、日本は自衛隊を出動させられないのである。中国はこれに味を占めて海洋警察を毎日のように派遣し、しまいに漁船群が押し掛ける…(中略)…日本としては米国に働きかけて、この合意を破棄させ日米中における新たな安全保障の枠組みを構築すべきであろう。

http://ironna.jp/article/8513?p=2

 と。米チャイナ合意の根據が示されず、當然の前提として述べられてゐる。實の處、その種の密約めいたものは有ったのだらうと、庶民でも推測はできる。ただそれは、絶對不可侵の條約であらう筈が無い。オバマ政權が終った以上、日本は黙って明日、自衞隊が尖閣で演習を行なひ、そのまま駐留すれば良い。トランプ大統領は北朝鮮のミサイルについて「武士の國たる日本が何故迎撃しなかったのか」と發言する人であるから、日本が常駐するには今が好機である。
 日本はこれまで再三「現状維持」を掲げて來た。同時に「常駐も選擇肢である」と掲げて來た。兩者が矛盾しないといふ理屈であるから、現状維持とは日本の實効統治維持を指す。公務員常駐することも現状維持の一環に過ぎない。日本はさう定義すれば良いのである。だから今後もわざわざ公務員常駐を明言せず、ただ明日から公務員が黙って上陸して野營を開始すれば良いのである。そもそもチャイナのレーダーは野營する日本人を發見できない。問はれたら、「現状を維持してゐます。維持方法についてはお答へしません」と言へば終る。
 假に鍛冶氏の言ふやうに「米國に働きかけて合意を破棄させ日米中における新たな安全保障の枠組みを構築」などしたらもう日本は國家主權放棄である。合意即ち密約を前提として日米チャイナ三者で話し合ふのだから、密約の存在を認めて明文化することになってしまふ。さうまでオバマとの不確定な口約束を、退任後まで守る理由が無い。何故日本人はいつも必要以上に相手に誠意めいたものを見せるのか。異樣だ。
 鍛冶氏の言論は、現内閣についての預測として理解すれば妥當だ。現内閣はオバマに誠意を盡くし續けることが預測される。死せる孔明、生ける仲達を走らす(三國志諸葛亮傳引漢晉春秋)。オバマの神通力は諸葛孔明にならんでゆくのだらうか。議員諸氏には國會で追究して頂きたい。

關聯。

日本の先制を待つチャイナ 自衞隊常駐で問題は雲散霧消する 鍵は歴史だ
http://senkaku.blog.jp/2016071663528871.html

「五百年の尖閣史を棄てた合意文書――公約違反を赦すなかれ」

http://senkaku.blog.jp/archives/19452704.html

自民の高村氏が五年前の總裁選での尖閣談合を曝露 
http://senkaku.blog.jp/2017100272900140.html

尖閣防衞のウソ 箇條書き保存版 
http://senkaku.blog.jp/2016081565003071.html

尖閣から逃げるチャイナ海警船 仲間均議員と電話
http://senkaku.blog.jp/2017100272900425.html

チャイナには尖閣を取る軍事力は無い。  
https://www.youtube.com/watch?v=M24lhDckq6k#t=10m9s  
といふ當り前のことを論客が解説せねばならぬほど、
チャイナの情報戰は優勢となってゐる。
しかしチャイナ情報戰は子供だましに過ぎない。
ドローン撮影すらできない。

鍛冶俊樹2





又是一個假歷史的典範。
重慶位於四川盆地東部。
西有吐蕃高原,南有雲貴高原共為屏障。
西方大帝國文明如波斯、印度、伊斯蘭等,
歷來都分南北兩路東進,
匈奴、突厥(土耳其)、蒙古從西北來,
葡萄牙、荷蘭、英吉利從東南來。
都不會即刻到達重慶。
亦即天設地勢決定了黄河文明落後於其餘四大文明:
兩河、印度、埃及、希臘。
也決定了三星堆巴國被China侵占以後,
其餘勢力始終未能取代China。
這沒有什麼了不起。


https://www.xcnnews.com/ls/2631941.html
中國最霸氣城市:蒙古人打36年,日軍打7年,根本打不下來
大陸資訊 12月27日

俗話說:分久必合合久必分,中國古代便是典型的例子,也曾內部紛爭不斷,也曾有外地入侵,慶幸的是中國依舊是中國,並未因外地入侵而分崩離析!

在冷兵器時代,城池的堅固與否,是決定這座城池能否守住的必要因素,要說中國哪座城市最難攻破,非重慶莫屬了,蒙古軍隊打了36年,甚至死了一位可汗,尚未攻下,就連日軍打了7年都沒有打下來!

重慶是中國歷史文化名城,曾三次做為國都,四次在這裡築城,1189年,宋光宗先是稱王后又稱帝「雙重喜慶」,重慶之名因此而來,因重慶風景秀麗,山巒起伏,別稱山城,抗戰時期還做過國民政府的陪都!

公元1258年,被歐洲人稱為「上帝之鞭」的蒙哥可汗與其弟忽必烈、大將兀良合台兵分三路,進攻南宋,企圖一舉拿下垂涎已久的江南之地,蒙哥可汗所率軍隊一路摧枯拉朽,先後攻陷閬中、德陽、資中、遂寧等四川重鎮,成都被圍,為阻擊從重慶而來的援兵,雙方在重慶釣魚台展開大戰!

蒙古大軍在釣魚台遭到重慶官兵激烈反擊,圍攻數月,也沒能拿下這座小城,不僅如此,「上帝之鞭」蒙哥可汗也在釣魚台下被亂軍射死!

蒙哥可汗死後,蒙古陷入王位之爭,就連進軍歐洲的軍隊都回撤,自己人打的不可開交,釣魚台下的蒙古軍隊也撤離,20年未騰出手攻打南宋,重慶也從戰亂脫身,有了喘息之機!

忽必烈登上帝位后,再次發動對南宋的戰爭,此時守衛重慶的是南宋大將彭大雅,此人抱著必死之心,堅決與重慶共存亡,得到重慶軍民的全體擁護,憑藉堅固的城池和軍民一心,蒙古軍隊竟對這座城池毫無辦法,陸陸續續攻打16年,依舊拿不下來,直到南宋滅亡,這座城市成了孤城,才選擇歸順元朝!

抗日戰爭時期,當中日第一次大型戰役——淞滬會戰後,中國軍隊向吳福、澄錫國防線撤退,日軍開始大舉進攻重慶,海陸空三軍齊出,想要一舉拿下國民政府陪都,逼迫國民政府投降,令日軍萬萬沒想到的是,僅推進到重慶第一座門戶石牌(地名),便遭到此地守將胡璉的拚死抵抗,此人早已將遺書寫好,決定就算是全軍只剩最後一人,也要死守此地!

遭到此次慘敗后,日軍並未放棄對重慶的進攻,可從38年一直打到43年,仍未取得重慶,無奈只能留下空軍時不時的轟炸,直到1945年,日本宣布投降,重慶還未攻下來!

抗戰時期,川軍出兵人數全國第一,轉戰南北,極大的鼓舞了抗日的積極性,也體現出中國人們堅貞不屈的性格!

重慶