- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。沖繩平和協力センター受託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

 
橋下徹氏が尖閣を論じた。
非常に失望した。尖閣の歴史を全く理解してゐない。曰く「相手方にも言ひ分がある」と。かりに相手方の言ひ分が全部嘘であるならばどうなのか。相手が全部嘘だとは橋下氏は思ってゐない。橋下氏の腦裏で五百年の歴史檢證などどこかに消し飛んでゐる。日本の主張としてチャイナが嘘なのではなく、極めて單純にチャイナが全部ウソなのだ。何故それを知らうとしないのか。五百年史の細部を橋下氏は逐一よく見て欲しい。あまりにも淺はかだ。失望した。
   ビデオ標題: 橋下羽鳥0829 尖閣諸島をいったん手放すべき!?
 
https://www.youtube.com/watch?v=Bp_HYpip-tQ

.
以下橋下氏に暗記して欲しい二十條。
1、西暦1461年の『大明一統志』以後、歴代史料でチャイナ正規領土は大陸海岸までと明記されてゐる。
2、西暦1534年の最古の史料『使琉球録』(陳侃著)に、琉球人が尖閣海路を導いたと明記してある。
3、最古の記録が琉球人の案内だから、漢文「釣魚嶼」(てうぎょしょ、今音ちょうぎょしょ)の命名者は琉球人と推測される。
4、海路案内人の主力は福建から琉球に歸化した「三十六姓」の子孫だが、彼らが明國籍から外れることは、『皇明實録』嘉靖二十六年に皇帝の語として明記されてゐる。
5、三十六姓の遠祖たる福建民族は漢民族ではない。チャイナ七大方言のうち六大まで東南部に集中するが、少數民族は東南以外にだけ分布する。これは東南部がもともと少數民族だったことを示す。
6、海路案内人は琉球人でありながら、琉球國内海域に到達後も福建人が操船する。これは操船と海路案内とが分業されてゐたことを示す。尖閣海域でも琉球人が案内し、福建人が操船したと推測される。
7、チャイナが西暦1403年の最古と稱する『順風相送』の後半は、西暦1573年以後の記述から成り、且つ琉球人の尖閣航路を載せてゐる。
8、西暦1556年の『日本一鑑』から以後は、「釣魚嶼」を臺灣北方三島の一つとする史料系列があり、尖閣ではない。
9、西暦1617年『皇明實録』以後、歴代史料でチャイナ海防は大陸沿岸40km以内の六島ラインまでと明記されてゐる。
10、尖閣航路上、琉球西端は久米島附近、チャイナ東端は馬祖列島附近だと諸史料に記載され、中間の尖閣は無主地であった。
11、西暦17世紀前半、朱印船貿易史料で尖閣は長崎から與那國島を經る呂宋貿易の航路上に在り、チャイナと無縁である。
12、西暦1683年、汪楫が尖閣の東で記録した「中外の界」は、チャイナと外國との境界線ではない。琉球の風水思想の統一解釋にもとづき、琉球が中、西側が外である。
13、臺灣の風水思想では、龍脈は福州から基隆を經て臺南に至ってをり、尖閣方向に伸びない。
14、西暦18世紀以後のチャイナ史料でも、海路案内者は臺灣海峽で早くも琉球人に交替し、東の尖閣海域へ進む。
15、西暦18世紀前半以後、『臺海使槎録』など臺灣の地誌諸本に載せる「釣魚臺」は、臺灣正北方もしくは東南方の島であって、尖閣ではない。
16、最古の上陸記録は西暦1819年『尚姓家譜』に見える琉球王族である。
17、西暦1845年、英軍艦に乘り組んだ八重山の水先案内人によれば、尖閣には地元の島名が有ると記録される。
18、歐洲製の地圖・地誌では、西暦1751年ゴービル神父「琉球録」以後、次第に尖閣を琉球と看做すやうになる。
19。西暦1804年シュティーラー「支那圖」以後は、尖閣を琉球内と看做す史料が多數出現し、一方で尖閣をチャイナとする歐洲製地誌・地圖は一つも存在しない。
20。西暦1885年に日本政府が尖閣領有をためらった原因は、同年九月の朝日新聞の報導によれば、宮古八重山の領土歸屬問題であり、尖閣問題ではない。

以上は暗記して頂きたい。別の形でならべたのが下リンク。
http://senkaku.blog.jp/2016061661752011.html
http://senkaku.blog.jp/archives/36437239.html



 


 
仲裁法廷は元國の緯度測定説に反駁せず 逆に中國の臺灣當局と譏る      
  石井望  
    (長崎純心大學副教授、兼任内閣官房領土室委託調査事業特別研究員)

 『風傳媒』平成28年7月23日午前6時40分掲載
原チャイナ語版: http://www.storm.mg/article/144427
英語版: http://senkaku.blog.jp/2016091565872744.html


今年(平成28年)7月12日、南海仲裁判決が出た。臺灣人は太平島が島か岩礁かに關心を持ち、海外の報導は判決が中華人民共和國の歴史的權利を否定したことに關心を持ってゐる。ニュースの標題を見たばかりでは、私は法廷の專門家に果たして眼力あり、衆望に背かず、かの國の歴史の虚僞を暴いたものと喜んだ。幾時間も經ぬ内に、英國の日本籍の某教授が私に判決原文のインターネットアドレスを送って下さった。私自身も臺灣『自由時報』のサイトでチャイナ官話短縮版を見つけた。

粗く翻(ひもと)いてみると、歡びは頓(と)みに沮喪へと變じた。法廷は九段線を多くの個處で否定したが、全て「歴史的權利は國際法に違背する」、「九段線は法律的效力を具備せず」等の判語であり、一個處も直接九段線自身に喝を入れてゐない。私から見れば法廷は膽が小さく、歴史の真贋の爭ひを避けて、ニセ骨董店を取り締まる絶好の機會を逸した。法廷が回避する以上、かの國は憚り無く虚僞を散布し續けるだらう。

判決文は多くの個處で西暦19世紀に英國海軍が刊行した『支那海志』(China Sea Directory)を論じ、つとめて歴史を否定した。しかし九段線の依據する漢文史料に對しては全く取り扱はなかった。判決文中で唯一間接的に論及した個處は、原英文の第309頁、註840に見える:
http://thediplomat.com/wp-content/uploads/2016/07/thediplomat_2016-07-12_09-15-50.pdf
引用してゐるのは中華人民共和國駐マニラ大使館の英文聲明だ:
http://ph.china-embassy.org/eng/zt/nhwt/t941672.htm
大使館は、元國が早くもスカボロー礁で天文を測定し、漁業を發展させ、以後間斷無しと主張してゐる。これに對し、判決第311頁に曰く、
「傳統的漁業について、法廷の結論は主權外の獨立的問題とする」
と。確かに漁業史は主權に關はらない。完全に正しい。しかしこれでは元國が測定したといふ詐欺を指摘してゐない。英文は讀めるから討論し、漢文は讀めないから度外視するのか。さうなると、漢字文化を全面否定したことになり、單にかの國の主張を否定するにとどまらない。

天文を測定した史料は、元國の黄鎭成『尚書通考』卷三所載「四海測驗」であり、後に『元史』天文志の内に摘録された。元國はイスラム科學を重視してをり、名高き天文家郭守敬はフビライの命により南北各地に赴いて緯度を測定した。そして「南海」では北緯15度を報告した(下の書影)。15度は恰かもスカボロー礁の緯度に符合するため、中華人民共和國はその文言の「南海」がスカボロー礁を指すと認定してゐる。しかし郭守敬は緯度を測定しただけで、經度は無い。同緯度にはベトナム中部地區もある。かの國は何にもとづいてフィリピン沿岸のスカボロー礁だと斷定するのか。多くの專門家が早くから其の謬りを指摘したが、私はここで新たな點を指摘したい。 

宣教師の指導下で建てられた北京の古觀象臺。『Illustrations of China and its people』より録す。J. Thomson著、China Through Western Eyes刊。西暦1873年。 
Illustrations of China and its people1873北京古觀象臺

ひとまづ郭守敬の計測が精確だったか否かはさておき、先にその時の計測までの脈絡を整理しよう。周天360度法はバビロニア古文明に始まり、後に印度を經て、唐國に流入した。元國以前に多くの天文類の古書では、唐僧一行が印度の暦法に精通し、天下の緯度を計測したと述べてゐる。一行は更に初めて「山河南北兩戒圖」即ち全國地圖を製作した。元國の郭守敬が天下を計測したのは、一行和尚を超越し、元國の幅員の大きさと文明の盛んなるを顯示する目的であった。

唐僧一行は人を派して林邑(今のベトナム)に赴き、北緯17度を計測した。これは極南地區の著名な數値となった。元國の時に到っても、この數値は國家の天文儀「仰儀」に刻まれ、曰く「極めて淺きこと十七は、林邑の界なり」と。極淺とは低緯度を指す。『元史』天文志はこれを引用し、しかし「極淺十五は林邑の界なり」と改めた。

何故十七を十五に改めたのか。郭守敬が唐僧一行の後を繼ぎ、林邑國で15度を計測したので、『元史』に採用されたことが明らかである。『元史』は明國の洪武皇帝が著名人宋濂らに銘じて修撰させたもので、開國後久しからずして完成した。ほぼ元國の同時代の記録である。郭守敬が15度を計測した地點は唐僧一行と同じく林邑國に在り、スカボロー礁ではないと宋濂らは考へてゐた。果たして遠く重洋を渉ってスカボロー礁を計測したならば、それは空前の壯舉であり、唐僧一行の計測の意義を遙かに超越してゐる。『元史』の編者がこれを林邑に誤ることは有り得ない。

『元史』は明國の官製書であるから、前朝の奇功偉績を否定したければ、通常は二種の方法がある。一種は完全に郭氏の計測の事實を湮滅し、一筆觸れるだけで濟ませ、甚しきは隻字も言及しない。別の一種は郭氏が海外に逃亡し、妖言を以て衆を惑はしたと非難する。『元史』編者がこの二種の慣熟手法を用ゐず、ひそかにスカボロー礁を林邑國に入れ替へても、郭氏を湮滅する目的を達し得ない。この種の假設は成立し得るだらうか。事實は計測地點は林邑國であり、スカボロー礁ではない。中華人民共和國の無稽の談は攻めずして自ら破れる。惜しむらく海洋法廷は具體的に詐欺を暴かず、結果としてかの國が判決に反駁し、南支那海管轄二千年と詐稱し續けることを許してしまってゐる。
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/4458


『元史』天文志、康熙刻本、慶應大學藏。
元史四海測驗慶應藏康刻本


郭守敬が出色の科學者であったことは否定できない。しかし360度法はもともと輸入品であり、對岸のかの國が過度に郭を持ち上げるのを我々は受け容れる必要が無い。計測の精度についても議論すべき處が無きにしもあらず。郭氏の劈頭六つの計測地點では、北極星が地から出た角度(即ち北緯)はそれぞれ15度、25度、35度、45度、55度、65度である(書影)。全て先に成數があり、その後に地點を定めたもので、度數の精確性を保ち得るか否か、もともと疑はしい。最も明らかなのは25度、夏至に影無しである。夏至の日には、日晷(にっき、日時計)に影の無くなる地點は全て北回歸線上に在り、北緯は23度半に當る。それが25度に變ずるとはどうしたことか。成數だけを考慮して、端數を考慮せず、精度を求めなかったこと明らかである。同じ理で南海の15度も一定の幅があり、ほぼ14度から16度迄の間に在ったのだらう。スカボロー礁の15度に確定することはできない。

度數が不精確である以上、我々はその下文、日晷の投影する尺度を考察せねばならない。北緯35度の嶽臺とは太岳臺であり、夏至の晷影は1.48尺となってゐる。古時の日晷は長さ8尺なので、三角法で換算すれば1.48尺はほぼ北緯34度弱に當る。

太岳臺は傳統的日晷設置點の一つであり、中華思想では「地の中」、即ち地球面の中心點と看做される。そのため各地の日晷設置點のうち太岳台は最重要で、粗忽な計測はできない。太岳臺の位置はどこなのか。『新唐書』天文志の記載によれば、河南省滑縣から出發し、南に約199里を進めば太岳臺に到達する。さらに南に約168里で扶溝縣に到達する。さらに南に約160里で上蔡縣に至る。太岳臺は滑縣と扶溝縣との中間に在り、開封府城に近い。

現代の數値にもとづけば開封は北緯34度45分ほど、扶溝縣は北緯34度強だが、郭守敬は日晷で太岳臺を北緯34度弱と測定した。扶溝縣と較べても南側に在る。開封附近と比較すれば、少なくとも北緯半度はずれてゐる。よって郭守敬の夏至の日晷投影値はあまり精確ではない。同じ理で南海15度も現代の北緯14度半から15度半ほどの幅が有らう。かくも模糊たる數値を孤證として、小さなスカボロー礁に牽強附會し、フィリピンの手から奪ふとは何事か。
開封太岳臺

今一つ書いておかねばならぬことは、『元史』原文の日晷投影尺度の下文の晝54刻、夜46刻等の數値である。一晝夜を100刻に分けてをり、北方は晝が長く夜が短かく、南方は晝夜均等に近い。對岸のかの國の專門家は何とこれにもとづき「南海」計測の經度がスカボロー礁と一致すると考證してゐる。これは小學生の課題である。經度と晝夜の長短は何の關はりがあるものか。しかし仲裁法廷もこれを論じないのだから、怒るべきか笑ふべきか分からない。況や人類が經度を計測するのは、ほぼ西暦18世紀の歐洲からやっと精度を高めるやうになった。假りに元國がスカボロー礁の經度を計測できたとすれば、全面的に科學史を書き改めねばならない。

以上の歴史詐欺について私は書けば書くほど面白い。しかし臺灣人が最も關心を持つのはこれではなく、太平島が突然岩礁と判定されたことだ。數日來專門家はそれぞれ見解を述べたが、その中でも7月13日(判決翌日)に立法委員管碧玲女史が立法院で質疑したのが、既に肯綮を道破してゐた。女史曰く、南沙群島のどの主張國も專屬經濟水域を擁すると公式に宣言してをらず、臺灣も宣言してゐない。現在太平島は降格されて岩礁となったが、臺灣は元通り宣言できないままで、現状は改變されない。法廷は同時に他の各國の權利をも制限したので、臺灣にとっては害よりも利が大きい。それよりも臺灣にとって最も痛い損失は、「中國の臺灣當局」と公式に呼ばれてしまったことだ、と。 
https://www.youtube.com/watch?v=cWQkoa2FgGE


判決文ではなぜこの極めて稀な驚くべき名稱を用ゐたのか。私の考へでは、法廷は臺灣に中華人民共和國の馬卒とならぬやう目を醒ませと促してゐるのだ。實は法廷が考慮した重點は南支那海の和平に在るのではないか。現在、和平を破壞する勢力はかの國だけであるから、臺灣がもしかの國に追從すれば、ともに破壞的要素となる。それは法廷にとって決して容認できぬことだ。臺灣に教訓を與へるために法廷が取った方法こそが「中國の臺灣當局」といふ惡名である。かの國の走狗だと痛罵したに等しい。

法廷が和平を維持するためには、この判決法は必然の選擇だらう。判決によれば、あらゆる島嶼岩礁は全て專屬經濟水域を擁し得ない。言はば誰も南支那海を獨占してはならないのだ。これは最も公平な判決法だ。もし島礁のうち、太平島及び若干の比較的大きな島だけを島として、その他を全て岩礁とするならば、臺灣の輿論は當り前に政府に經濟水域宣言を要求するだらう。一たび宣言すれば、南沙群島中でこの數島だけが廣大な海域を獨占できてしまひ、他の各島はゼロとなる。各國はそれで納得するだらうか。これは必ず爭ひを激化させる惡果をもたらし、甚だしきは臺灣フィリピン間、臺灣ベトナム間等の武力衝突を引き起こし、東歐バルカン半島につづいて世界第二或は第三の火藥庫となる。法廷はこの判決が歴史的導火線となることを見たくはないだらう。今度の判決は南支那海問題の唯一進むべき、進まざるを得ない道であらう。

しかしこの基準では、世界の多くの無人島が全て岩礁と判定されてしまふ可能性がある。例へば沖の鳥島は、周圍の海域が隣國と重ならないが、これまで通り島と判定し得るか。また釣魚臺(てうぎょだい)は、突然岩礁と判定されないだらうか。これは一連の問題を産み出すだらう。法廷は手を燒くだらうことを分かってゐる。しかし南支那海の和平を考へれば、南沙全島を岩礁と判ぜざるを得なかった。盤上に下されたこの一着は、危ふい一着のやうだが、實は自ら苦しめるもので、他に良い方法が無いのだ。法廷にこの苦心と決心とがあるのだから、我々は理解し尊重すべきだ。この判決が時間とともに歴史的名判となるだらうことを私は預見する。   


.


Author:Bartholomew, John(バルトロマイ、バーソロミュー)
Date:1958
Title:China and West Pacific. Plate 16, v.1
Publisher:Houghton Mifflin Co.
Publisher Location:Boston, London
Publisher:John Bartholomew & Son LTD.
Pub Date:1959
Pub Title:The Times Atlas of the World. Mid-Century Edition
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~225284~5506014
臺灣の國境線。面白いね。
1958_Bartholomew_China_West_Pacific_Rumsey

記録。
http://archive.is/VZHNi
http://web.archive.org/web/20160911044112/http://senkaku.blog.jp/2016091165768934.html


同一の地圖册からリンク:
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~225305~5506026
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~225259~5506000

同じバーソロミュー社製の西暦十九世紀地圖
http://senkaku.blog.jp/2016092166014074.html
リンク。書誌によればバーソロミュー社はスコットランドからロンドン、米國へと進出し、現在は米國の會社に合併されてゐる。



 第二次大戰後、西暦千九百七十年までの間、世界各國製作の地圖では、尖閣に領域記載がある場合、必ず日本(もしくは米國管轄)としてゐる。例外は無い。假に例外的にチャイナ領土としてゐるものがあれば、チャイナが疾うの昔に使って大騷ぎしてゐるだらう。だから例外は無いと言へる。
 勿論名稱もSenkaku(尖閣)もしくはSento(尖頭)である。しかし名稱については「臺灣割讓時代の名殘りだ」といふ屁理屈が有り得るので、名稱よりも領域記載が良い。一例として西暦千九百六十七年、蘇聯の公式世界地圖册を舉げて置かう。明瞭に日本と注記してある。別段稀少でもないので、幾らでもこんなものは出て來る。
 私は二十世紀よりも十九世紀以前こそ大切だと考へるので、こんなものに興味は無い。皆さんこんな現代地圖で騷ぐのでなく、古典で勝負しませう。古典こそ民族の魂だ。


Author:USSR (Union of Soviet Socialist Republics).
Date:1967
Title:The World Atlas.
Publisher:USSR
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/view/search?q=pub_list_no%3D%221603.000%22

以下、この圖册中の各地。

 China, Mongolia, Korea. 尖閣は日本、パラセル(西沙)はチャイナ、南沙は非チャイナ。臺灣の地名は中華人民共和國式のローマ字で標記されるので、基本的に中華人民共和國の地理認識を採用してゐると分かる。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208198~3001926
1967USSR_world_atlas_p108_Rumsey


China。同じ圖册中で、沖繩を含む圖には尖閣を載せるが、單獨の「支那圖」では載せない。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208210~3001935

以下リンク、ご自分でご覽下さい。
支那行政。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208192~3001924
アジア。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208191~3001923
臺灣。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208199~3001927
沖繩。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208226~3001943


記録。
http://archive.is/xbXhq
http://web.archive.org/web/20160911030414/http://senkaku.blog.jp/2016091165766218.html

附記。こちらのブログにも
http://senkakuchizu.dousetsu.com/page063.html
前から載ってゐたやうです。



琉球史の著名な出來事。西暦千四百七十七年に朝鮮から漂着した人を送還した。

伊波普猷『をなり神の島』第七十三頁「朝鮮人の漂流記に現れた十五世紀末の南島」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453846/43
https://books.google.co.jp/books?id=XcdIUfY2hX8C
閏伊島=ゆにじま=よね(米)島=與那國島。
所乃島=祖納(そない)島=西表島祖納集落。

朝鮮實録原文。
http://sillok.history.go.kr/popup/print.do?id=kia_11006010_001&gubun=chn
與那國から西表などを經て宮古、沖繩へ送致。

與那國島の火番盛(ひばんむい=火番守ひばんもり)。
東崎(あがりざき)の屋手久(だてぃぐ=やてぐ)に在り。
與那國方言では「や」が「だ」と變化してゐる。
屋手久の火番盛の旅行記ブログ:
http://abe-sin.sakura.ne.jp/kesiki/okinawa2/agarizaki.html

有り難いビデオだ。
火番守が東崎に在ったわけは、西表方面に通報するためだらう。
漂流船の見張り番はきっと西や北にもゐたに違ひない。
今度與那國へ行って訊ねて見よう。

與那國地形

 ▼西崎港(いりざきかう)から西崎燈臺を望む。グーグル
西崎燈臺

與那國島の最高峰は宇良部岳。231.4m。
集落は第一が北側の祖納(そない)。第二が西側の久部良(くぶら)。
第三が南側の比川(ひかわ)。
http://www.yonakuni.net/taiyou/tizu/yona_zenkei02.htm

「祖納地崎」(そないちざき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E7%B4%8D%E5%9C%B0%E5%B4%8E
祖納港内の小島。與那國島には他に離島が無い。

 ▲上記ブログより、祖納のビデオ。

與那國宇部良
  ▲宇良部(うらぶ)岳より北に祖納を望む。

與那國島圖




尖閣の島名について、以下の文を參考に何か書く場合は、連載全囘を
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html
通覽してから論じて頂きたい。部分だけ切り取ると誤解を招く。以下に連載の一部分だけ轉載する。文字の異同については、全原文を「新聞オンライン」でご確認下さい。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
但し編輯部との間の聯絡不徹底により、私の最終稿と掲載紙面とが一致しない場合もある。後日誤りを正して書籍として刊行する見込みである。

平成二十八年四月二十六日(火曜) 『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭録」第二十八囘  
英軍水路誌の漢譯 歴史と無縁の宛て字 尖閣はバシー諸島と同卷 ~~西暦千八百七十四年 キング原著、漢文『海道圖説』(清)
(上略)……臺灣の卷では「巴西列島」(バシー列島)の「伊亞米島」(ヤミ島)を記載する。完全に臺灣だけで成る卷ではないのだ。しかも卷内の臺灣概説が始まるより前にタバコ島(漢名紅頭嶼・紅豆嶼、今の蘭嶼)を置いてゐる。タバコ島は現代では臺灣附屬島嶼とされてゐるが、『海道圖説』では附屬外だったことを示す。その同卷内に尖閣を含んでも、附屬島嶼とはならない。そもそもタバコ島は清國の地誌『海國聞見録』で呂宋の内に置かれ、『海道圖説』の譯者は何の島か分かってゐない。
 更に記述の順次は原著と同じく、臺灣東岸を南下終了後に、別途サマサナ島(今の緑島)から北上して尖閣に至る(連載第二十六囘、圖58)。原著『支那導航書』第四版の目次で「臺灣と宮古八重山諸島との中間」と題した部分だ(連載第二十七囘)。尖閣は臺灣附屬と別に扱はれてゐる。
 しかも漢文名「釣魚嶼」等に對(たい)して英國原著『支那導航書』が宛てたローマ字は(圖63)、『海道圖説』で別の「和平山」などの漢字を宛てられてゐる。琉球『指南廣義』などの漢文史料に見える尖閣について、漢譯者(かんやくしゃ)は何も知らない。從って漢譯者が尖閣に歴史的意識を持ってゐた可能性は無い。ただ國外の琉球・呂宋を臺灣の卷から削除し、その後に尖閣及びヤミ島を情報不足の小島群として殘(のこ)したに過ぎない。
 『海道圖説』の他卷では、僻地でも英語から正確にもとの漢字に還元される地名がしばしば有る。浙江福建の境界線附近を例に舉げれば、「Tae Islands」は臺山列島、「Seven Stars」は七星山、「Pih Quan」は北關港、「Nam Quan」は南關港と、正しく漢字に戻される。これらは譯者(やくしゃ)が清國の地誌と對照して還元した筈である。
 ところが臺灣島内で清國地誌の漢字を宛てるのは、ほぼ鷄籠・淡水・臺灣の三重鎭だけで、それ以外の島内各地について譯者は全く理解できてゐない。清國末年の徐維則『東西學書録』卷三に『海道圖説』を評して曰く、
「中國に名有る者は、中名を以てこれを譯す。西人、誤りを傳(つた)ふる者は、中圖を以てこれを正す。義の譯すべき無き者は、音を取りて以て中字を寫(うつ)す」
と。臺灣島内のみならず、尖閣諸島も譯すべき義の無い地名として音譯(おんやく)漢字が宛てられた。宛て字の尖閣は、歴代漢文史料と無縁である。英國原著で無主的な中間地とされた尖閣を、譯者が歴史にもとづいて臺灣の卷内に留めた可能性は否定される。……(下略)

全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

圖63島名比較
。平成二十八年八月二十九日附記:
 著名な中華民國感謝状で和平島を「和洋島」と書き誤った原因については、平成二十七年十一月三日火曜の八重山日報第四面「臺灣附屬の釣魚嶼は尖閣ではない、またも新發見」の中で既に論じた。その誤りには何ら意義が無い。何故なら五百年前から尖閣の西方に國境線が存在し、水先案内は琉球人が擔任し、明治二十八年までチャイナは「尖閣ゼロ」であったことが歴代の漢文で明らかなので、明治領有以後に島名を誤っても誤らなくても日本の領土として確定濟みなのである。古典史料こそ尖閣史の魂である。和洋島を以て鬼の首を取ったやうに言ひたてるのは愚かだ。
 また、上引の連載「獺祭録」を讀まずに和平山についてあれこれ書く人もゐるやうだ。尖閣史を論じるのに私石井の著作を讀まずに濟ませる法は無いだらう。折角目録を公開してゐるのだから、發言したい人はまづこの四年來の全作を通覽して欲しい。

ついでに。西暦千八百四十五年にベルチャー艦長を尖閣に案内した八重山人についてリンク。
http://senkaku.blog.jp/20160330yaeyama.html






岸田南海トーク280917

「南シナ海トークライブ」の講師をします。
ともに語るのは岸田芳郎氏。
九月十七日土曜、午後六時半から二時間ほど。
會場:春日クローバープラザ(JR春日驛前)。
會場費雜費として一名五百圓。定員三十名。
お申し込みは、岸田芳郎電話 080-7982-0052 迄。
もしくはフェイスブックで申し込み可。
https://www.facebook.com/events/2102576256634616/
私本人へのご聯絡電話は、090-5084-7291(いしゐ)です。

内容見込(變更の可能性あり)
來場者と問答形式で15分間あまりのユーチューブ用ビデオ4本を撮影收録します。

一本目。7月12日南シナ海仲裁判決の辯護士。
アメリカのライクラー辯護士は、フィリピン辯護を擔任した。ライクラー氏は歴史資料をどう見てゐたか、岸田氏が直接取材した衝撃の中味。

二本目:7月12日仲裁判決の漢文史料。
判決は歴史主張を退けたと報導されたが、判決文の中で漢文史料は一種だけ間接的にしか引用されず、しかもチャイナに反駁しなかった。一方で西暦十九世紀の英軍水路誌は必ずしも精確なものではないが、幾度も引用された。事實上、チャイナの提示する漢文史料だけを無視したのが今度の判決であった。引用された漢文一種とは『元史』の北緯測定記録である。スカボロー礁の北緯を計測した記録だとチャイナ政府は主張する。それが全くの嘘であることを原文に即して暴く。

三本目。南シナ海二千年の虚構。
チャイナが二千年前に南沙を發見したとする根據は漢文『異物志』である。ところが『異物志』原文をよく見ると、外國の先進的な鐵甲船が南沙を發見したと書いてあり、チャイナ政府の御用研究者もそれをうっかり認めている。

四本目。自由討論。
ここが一番面白いでせう。


時間があまれば……
五本目。清國民間史料でも南沙は國外。
チャイナは色々な南シナ海の漢文史料を持ち出す。理解できないアメリカ人は、「歴史は尊重したいが國際法上は無効だ」と反駁してしまう。正しい反駁は「その歴史は全部嘘だ。例へば◎◎の史料の嘘は……」と逐一反駁することだ。例へば清国の「巴遊紀略」及び「南洋蠡測」には、南沙がチャイナ國外だと書いてある。

六本目。公式の歴史的領土はどこまでか。
明國清國の官製地誌には、領土は海南島までと書いてある。海南島以南は全てチャイナ國外である。フィリピンのカルピオ判事もこれを論據とした。尖閣でも同じことで、官製地誌には福建の領土は海岸まで、臺灣の領土は最北端の基隆まで、及び東北端の三貂角(さんてうかく)まで、東は臺灣中央山脈まで、と明記されてゐる。尖閣も南シナ海も國境線外であるが、チャイナは無視してをり、何故か日米の大メディアも取り上げない。


岸田芳郎氏。「博多空」社長。元福岡大學課外講座講師。テキサス太平洋博物館職員。報導:
http://www.sankei.com/west/news/150730/wst1507300055-n1.html
http://www.sankei.com/region/news/150919/rgn1509190011-n1.html
http://news.ltn.com.tw/news/world/paper/902541
http://b5.secretchina.com/news/15/07/31/582879.html

春日クローバープラザ




以下の内容は『八重山日報』連載「尖閣獺祭録」第六十八囘として、平成二十八年九月十七日(土曜)第五面に掲載されます。八重山日報電子版リンク:
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

尖閣西方の國境線の年代は、これまで明治元年圖(西暦千八百六十八年)が最も早いといふことになってをり、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』の表紙を産經新聞及び百田尚樹氏・高山正之氏が取り上げてゐた。それをこのほど一年引き上げ 慶應三年(西暦千八百六十七年)と署するシュティーラー圖が見つかった。平成二十八年八月二十六日。

1868年刊、シュティーラー・ハンドアトラス。
初版製作者アドルフ・シュティーラーは西暦千八百三十六年に卒し、それ以後はシュティーラーの名を冠して、ペーターマンらが製作して版を累ねた。
内表紙標題:世界全地圖册
(Handatlas über alle Theile der Erde und über das Weltgebäude)
副題:西暦千八百十七年初版、西暦千八百六十七年五十周年記念版。
(erste Ausgabe 1817, Jubelausgabe 1867)
jubelは英語のjubilee即ち舊教のヨベル年、五十年ごとの祝祭年。
目次標題:「Adolf Stieler's Handatlas」
目次副題:Vollstaendig Ausgabe in 84 karten 1868
(西暦千八百六十八年八十四幅圖完備版)
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/toc/PPN638143047/1/LOG_0000/
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/thumbs/PPN638143047/1/
https://www.worldcat.org/oclc/846101544
グライフスワルト大學藏。
(大學名:Ernst-Moritz-Arndt-Universität Greifswald)
目録によれば2010年にインターネット公開。書誌公開か電子圖公開か不明。
https://lhgrw.gbv.de/DB=1/LNG=DU/PPN?PPN=638143047
電子圖像庫:Digitalen Bibliothek Mecklenburg-Vorpommern
(メクレンブルク・フォアポンメルン州電子圖書館)
43c番「支那高麗日本圖」。尖閣の西方に國境線。
下方欄外に1867と署する。PDF鮮明ダウンロード。
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/image/PPN638143047/69/
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/resolver?urn=urn:nbn:de:gbv:9-g-724708
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/content/?action=pdf&images=PPN638143047/00000069.tif&targetFileName=PPN638143047_69.pdf
51番「ポリネシア太平洋圖」も尖閣の西方に國境線。下方欄外に1868。
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/resolver?urn=urn:nbn:de:gbv:9-g-724886
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/image/PPN638143047/87/

1867StielerHandAtlas_ChinaKoreaJapan_Greifsward藏
 ▲支那高麗日本圖。グライフスワルト大學藏。

1868StielerHandAtlas_Polinesien_Greifsward藏
 ▲ポリネシア太平洋圖。グライフスワルト大學藏。右下方に尖閣。破線で圍まれてゐる。

 明治元年よりも一年でも早い圖を搜してゐたのだが、この電子圖像庫に氣づかなかった。いつインターネットに出たのだらうか。上記インターネット書誌に下の如く書いてある。
Veröffentlichung Angabe(版本概要):
 Greifswald Universitätsbibliothek, 2010(グライフスワルト大學圖書館、2010年。)
Umfang(範圍) :
 Online-Ressource (オンライン資源)
Technische Angaben(技術規格):
 TIFF, 400 dpi, Farbe; Digitalisierungsvorgabe: Primärausgabe
(tiff形式400dpi。着色。デジタル化初期値。初級版。)
これだけでは、西暦二千十年に該大學が購入收藏したの、書誌電子版を公開したのか、電子圖像を公開したのか、分からない。問合せる必要がありさうだ。

グライフスワルト大學は、地方の弱小大學ながら近年成功を收めたといふ。
http://www.bmkberlin.com/Germany/040427unigreifswald/text.html
それでも西暦1456年に創立されたのだから古い。
http://www.shanghairanking.com/ja/World-University-Rankings/University-of-Greifswald.html
日本の教育機關は中世まで寺院が中心であり、江戸時代中期からは儒家の藩校だ。熊本藩校再春館が、現代の大學に繋がってゐる最古であらう。戰國時代の文化的衰微が原因で歐洲ほど古い大學が續いてゐないのだらう。まあ世界最古の皇室と、世界最古の地上木造建築法隆寺があるから良いではないか。

記録:
http://archive.is/ViCRX
http://web.archive.org/web/20160826113729/http://senkaku.blog.jp/20160826stieler1867.html
http://web.archive.org/web/20160826114027/http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/3/1/3108b9df.jpg

なほ、平成二十八年七月二十六日の本ブログで書いたが(八重山日報七月二十一日獺祭録第五十二囘掲載分)
http://senkaku.blog.jp/2016071863676758.html
シュティーラーの地元ゴータの「エルフルト・ゴータ歴史デジタル圖書館」に出てゐるのも、明治元年圖册である。東京大學藏本は明治二年圖册中に明治元年支那高麗日本圖が出てゐるので、ゴータ歴史デジタル圖書館公開本が一年早い。獺祭録第五十二囘及び七月二十六日ブログで兩版本を同一としたのは疎誤であった。ゴータ歴史デジタル圖書館公開明治元年圖册の「支那高麗日本」圖(43c)は、目録だけあって電子圖像は未公開である。
http://archive.thulb.uni-jena.de/ufb/rsc/viewer/ufb_derivate_00003764/SPA-2-000015_0004.tif
http://archive.thulb.uni-jena.de/ufb/receive/ufb_cbu_00006557#tab1
從って現在公開中はグライフスワルト大學藏本だけだ。七月にもインターネットを檢索したつもりが氣づかなかった。最近一か月以内に公開されたのだらうか。それとも私の疎漏だらうか。

他情報リンク:
http://www.abebooks.fr/servlet/BookDetailsPL?bi=15108991198

http://www.ebay.at/itm/401162073826

http://web.archive.org/web/20160918135647/http://www.ebay.at/itm/401162073826
http://archive.is/NFtuS

http://online.auktionsverket.se/1602/359960-classical-atlas-by-stieler-1867/

https://www.booklooker.de/B%C3%BCcher/Stieler+ATLANTEN-Hand-Atlas-%C3%BCber-alle-Theile-der-Erde-und-%C3%BCber-das-Weltgeb%C3%A4ude-Erste-Ausgabe-1817/id/A01R0LO101ZZh?zid=0c1a61015a14ec850e7ad1af5c64b8fd

http://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb314077700

http://trove.nla.gov.au/work/32814014?q&versionId=40076529




以上の内容は『八重山日報』連載「尖閣獺祭録」第六十八囘として、平成二十八年九月十七日(土曜)第五面に掲載されます。八重山日報電子版リンク:
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html



『大明一統志』に領土は海岸線までと明記してあるが、清華大學の劉江永氏が論文で「ただの海岸までの距離だ」とか言ふので、原文を讀んでないことが分かり、可哀相なので拙著書中では輕く反駁するだけにしたのだが、このブログ(リンク)
http://seizan.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17
http://senkaku.blog.jp/2016082565294962.html

のやうにデマを流す人がゐるので、原文の電子畫像を下方に掲載しておく。そもそも領土の記載は地誌の領域卷の通例であって、東西南北が揃ってゐる。珍しくもない。
http://senkaku.blog.jp/archives/35545379.html
http://senkaku.blog.jp/archives/36524369.html

海岸の距離だけだといふのはどこの一年生だらうか。詳しい場合には東南、西南、西北、東北も併記される。明國も清國も同じだ。最南は海南島までなので、南支那海全域は領土外だ。地誌明記の海南島の線についてはフィリピンのカルピオ判事も舉げてゐる。尖閣の西方のチャイナ領土線については、美根慶樹氏も書いて下さったが、
https://thepage.jp/detail/20150328-00000001-wordleaf?&page=2
更に詳細は下の論文に書いてあるのでご覽頂きたい。
 「尖閣釣魚列島雜説七篇」
『ことばと人間形成の比較文化研究、長崎純心大学共同研究報告書』所載、長崎純心大學比較文化研究所、平成二十五年三月刊。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/25825613.html
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024345623-00
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12817507

pdfファイルダウンロードはこちら。
http://www.academia.edu/15634808/
https://docs.google.com/uc?id=0B2MwcvRggQjpc0lScnduYmhUYkk

「問題發生でプレビュー出來ません」などの表示が出ても構はずダウンロードして下さい。

以下は電子畫像。ほんの若干例。
福寧州志疆域赤
 ▲福建の福寧州志・疆域。嘉靖刊。天一閣藏本の影印。赤色はコピー紙面に書き入れたので、原書を汚したりしてませんので、念のため。

大明一統統一公司本福州3
 ▲大明一統志。統一公司影印の天順刊本。





「尖閣の地理を調べると、やはり中国領」といふブログにコメントしました。
http://seizan.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17

いしゐのぞむ
 林子平『三国通覧圖説』では、臺灣島を黄色に、尖閣を桃色に塗ってゐます。臺灣附屬島嶼ではないことを示す史料です。チャイナ公式見解にも林子平『三国通覧圖説』を入れてゐるので、臺灣附屬島嶼か林子平か、どちらか一方をチャイナは放棄せねばなりません。詳細は新刊拙著『尖閣反駁マニュアル百題』(集廣舍刊、amazon等有り)及び鄙撰論文などをご覽下さい。
by いしゐのぞむ (2014-09-14 13:40)

いしゐのぞむ
「尖閣を知らなかった」といふのは誤りです。
同じ事を繰り返しお書きなので繰り返しますが、西暦1534年に陳侃が釣魚嶼海域を渡航したのは、琉球航海士の案内に從ったのだと自身で記録してます。奧原敏雄氏が最初に論及した有名な記録です。最古の釣魚嶼の記録が琉球人による水先案内ですから、釣魚嶼の發見命名者は當然琉球人だといふことになります。
 林子平圖は、臺灣島と尖閣とを別色で塗ってますので、臺灣附屬島嶼説を否定してゐるのです。
http://senkaku.blog.jp/archives/2258655.html
 「尖閣諸島の向こう側に国境を設定するには無理がある」とのことですが、尖閣の西方の國境線は、チャイナ自身が定めたものです。西暦1461年「大明一統志」に「領土は大陸海岸まで」と明記されて以後、1880年頃まで、多數の史料に類似の國境線が記録されてゐます。
詳細は『尖閣反駁マニュアル百題』、集廣舍。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986
by いしゐのぞむ (2015-01-10 14:24)

kodomo
石井さんのご意見は2つとも誤りです。
冊封使船は、500人もが乗った大船です。航海士も沢山います。天文航法を用いていたとはいえ、水先案内人の補助は役にたったと思います。しかし、船員は200人ほどもいたでしょうから、30人の水夫を琉球が提供しても、手助け程度です。琉球人が操船したなどと言えるものではありません。しかも、琉球が提供した船乗りたちは、おそらく中国人です。琉球で、航海を担っていたのは、久米36姓と言われる技術集団ですが、明の皇帝から派遣された移民で、中国語と航海術を保持した中国人村を形成していました。久米36姓が琉球化すると共に、航海術が失われていったことが知られています。中国と沖縄では文化水準が違 いすぎます。
「大明一統志」には、「領土は大陸海岸まで」などと書いてありません。むちゃくちゃな読み方をあちこちで宣伝されても困ります。
by kodomo (2015-09-22 09:16) 

リンクも著書もお讀みでないやうですね。
  久米三十六姓は明國籍を離脱してゐたことが『明實録』に書かれてをりますので、琉球國人です。しかも陳侃の船の水先案内は琉球國王の公務として命じられま したから、個人の國籍以前にそもそも琉球國として公的にチャイナ船の水先案内をしたのです。著書『尖閣反駁マニュアル百題』をご覽下さい。
 「久米36姓が琉球化すると共に、航海術が失われていった」とする記録は、琉球福州間だけ除外する記述だと、とっくの昔に『尖閣反駁マニュアル百題』に書きました。讀んで下さい。琉球福州間を毎年往復するのに、針路を失ふ筈が無いではありませんか。
 尖閣海域では天文航法を使用してゐませんでした。「島嶼研究ジャーナル」の諸論文をご覽下さい。
 「中国と沖縄では文化水準が違いすぎる」とは單なる差別でせうか。水先案内は海域ごとに分かれますので、文化水準と無縁です。『日本一鑑』などの史料で分かる話です。拙著諸論文ご覽下さい。
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html
 琉球人が擔任した「操船」とは、水先案内部分です。琉球人の「看針」とチャイナ人の「操舵」とは分業でした。拙著『釣魚嶼史三議』
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I027315769-00
をご覽下さい。
 「大明一統志」には、「領土は大陸海岸まで」と明記されてます。各地方志にも全て明記されてます。原文を勉強する氣が無ければどうにもなりませんね。拙著書及び論文を隈なく讀み盡くしてから、ご質問があればご聯絡下さい。


--------------
琉球列島



最後のコメントは本日書き入れましたが、ブログ主が承認掲載するかどうか分かりません。
少し詳しい情報は別途下リンクに書きました。
尖閣西方のチャイナ領土線 
http://senkaku.blog.jp/2016082565296541.html  
『大明一統志』に海岸線までと明記してゐないと……



.


夕刊フジ電子版、富坂聰氏論説(下方に節録)。とんでもない。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n2.htm

まづは私の反駁。
1、南支那海判決が沖ノ鳥島に不利になった。
 これは周知のことで、判決が太平島を岩礁扱ひしたのは何故なのか、訝る向きも多い。これについては私が臺灣で既に書いた。リンク:
(仲裁庭不反駁元國測緯之説,却罵「中國的臺灣當局」。風傳媒)
http://www.storm.mg/article/144427
要するに、太平島だけ大きいからと經濟水域を認めてしまったら、南沙海域が全て臺灣のものになってしまひ、現状が大きく變更される。仲裁裁判所としてはそんなことはできないので、「人工的に島の形状が變へられてゐる」などの道理を附會して、南沙全島一律に岩礁としたのだ。現實として、それ以外に判決の下しやうが無かった。沖ノ鳥島を始めとして、全世界の無人島の主權に惡影響は有るが、やむを得なかったのである。
 今後どうするか、世界各國が智慧を出すべきである。日本は沖ノ鳥島が不利だからと南沙で軟化するのは絶對有ってはならぬ選擇だ。富坂氏は要するに日本は南沙仲裁判決を全面支持するな、チャイナを少しばかり支持しておけといふ主張だ。とんでもない。

2、ロシアが尖閣に介入する。
 これは不可。何故なら尖閣は100%日本の領土であるからだ。南沙に諸國が介入するのは善。何故ならチャイナの領土ではないからだ。つまり根本的問題である。尖閣は確かに100%日本なのか否か。單に日本がさう言ひ張ってゐるだけなのか。富坂氏はその根本を等閑に付してゐる。何の理屈にもならない。
 チャイナの尖閣主張は全て歴史だけだ。明治二十八年編入の時點でチャイナのものだったといふ前提だ。我々は明治二十八年より以後について論爭しても何の役にも立たない。尖閣は要するに歴史の虚構と五百年の史實との爭ひなのだ。100%日本編入に向かって進んだ素晴らしい歴史を、わざわざ自分から無視する日本では、とても勝てない。
 100%の歴史が明らかになれば、ロシアの介入は100%惡であり、富坂氏の議論は1%の意義も持たない。富坂氏の前提は、南沙も尖閣も同じく係爭地だといふ認識だ。この人は孫崎氏の同類である。

3、大陸棚延伸論。
 國際法の話なので、詳しくは私には分からない。ただ富坂氏が誤魔化してゐるのは、大陸棚が領土を定めるのではないといふ點だ。大陸棚の上の島嶼を全て大陸國の領土とするわけではない。大陸棚を論ずる以前に、尖閣は日本の領土であるから、大陸棚の上に日本の領土が存在する。それだけのことだ。
 越南が大陸棚の上の島嶼が自然とそのまま全て越南領土になると主張してゐるのだらうか。そんなことは聞いたこともないし、かりに越南がさう主張しても日本が支持する筈も無い。越南が主張するのは大陸棚即領土といふことではなく、大陸棚の海洋的權利だらう。
 富坂氏は、尖閣が日本の領土と確定してゐないといふ前提で、大陸棚の延伸を持ち出してゐる。そもそも尖閣は日本の領土なのか否か、そこを誤魔化さずに論ずべきだ。富坂氏の文章は輿論を誘導しようといふ惡意がある。

4、西沙について。
 富坂氏は西沙と南沙とを故意に混同してゐる。これはチャイナの主張と全く同じだ。西沙は古典漢文史料の中では、越南とチャイナとの中間的な地、兩文化の末端の地であった。しかし現チャイナはそこを誤魔化して、
「西沙にチャイナの力が及んでゐたから全南支那海がチャイナのものだ」
と主張してゐる。
 しかし今度の仲裁判決などで問題が大きくなってゐるのは南沙だ。日本が反チャイナ陣營を支持してゐるのも南沙問題だ。西沙と故意に混同する富坂氏は、何を目的としてゐるのか。

5、後出し先出しについて。
 富坂氏は南沙主張に於いてチャイナが先、東南アジア諸國が後だと言ふが、何にもとづいてゐるのか。古典史料で言へば、南沙でチャイナはゼロだ。全て虚構だ。リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016070963121024.html
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/4458
http://senkaku.blog.jp/2016040257697412.html
http://www.peoplenews.tw/news/e226b0f0-698c-48c7-b914-17da65230fe4
http://senkaku.blog.jp/2016032257037201.html

 現代について私は一知半解ながら、南沙占領は中華人民共和國が最も遲い。遲かったがゆゑに、問題化を圖って主張したのは中華人民共和國が最も早い。それをどう尖閣にあてはめるのか。
 「尖閣は領土として確定した後にチャイナが主張し始めた」
 「南沙は他國の占領後にチャイナが最も早く主張し始めた」
この兩者を同列に扱ふ富坂氏は、矢張り尖閣主權が不確定といふ前提だ。不確定なのか確定してゐるのか、前提を誤魔化してはいけない。この人物は全く信頼できない。

 附記:チャイナが先に主張し始めたとは何のことかと思ったら、このビデオの6分50秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=WJWI5Y0n768#t=6m45s
https://www.youtube.com/watch?v=WAvUpVxa5SM#t=6m45s
西暦1946年にチャイナが主張し始めたが、その時は越南は南北に割れてゐて、フィリピンは獨立してゐないからチャイナが最初だ、とのことだ。ちょっと待ちたまへ。その時は中華人民共和國はまだ建國してゐない。中華民國を算入するならば、越南がフランス殖民地だった時代の占領も算入せねばいけない。フィリピンの主張は西暦1952年サンフランシスコ條約で放棄された無主地だといふことだから、1952年以前に沈黙してゐたフィリピンも主張を開始してゐたに等しいから、同じく算入せねばなるまい。
 更に、ビデオの8分から。南沙で飛行場を建設してゐる五箇國の内、チャイナは四番目に建設したから、決してチャイナだけが惡いのではないとこれは現チャイナの主張をそのまま代辯してゐるが、それよりもちょっと待ちたまへ。富坂氏はチャイナが先だと言ひたいのではなかったのか。チャイナによる實効統治的進出は四番目に過ぎないではないか。論理を誤魔化さないで欲しい。


以下、富坂聰氏論説より節録。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n2.htm

【真・人民日報】南シナ海問題「敵の敵は味方」の単純な考え方は通用しない
2016.08.24
 フィリピンによるPCAの提訴の裁定が、めぐりめぐって日本の沖ノ鳥島の問題にも波及し、日本自身が膨大な海の権利を失いかねないことになったという問題が指摘されよう。
……もしロシアが「わが国にとって重要な輸送路だから」という理由で尖閣諸島の問題に介入しようとしたら、日本はその動きを仕方のないものだと受け入れるだろうか。
……西沙諸島(同・パラセル諸島)をめぐる中越の対立でベトナムが領有の根拠としているのは、「大陸棚延伸論」である。ベトナムに理があるなら、東シナ海で中国が主張する「(大陸棚の続く)沖縄トラフまでが中国のもの」が通ってしまうことにもなりかねない。
 また、「中国VSASEAN(東南アジア諸国連合)」の戦いでは、どうしてもASEAN側の主張が遅れたという背景がある。これも、日中の対立に当てはめれば、中国側の立場を後押しすることになる。
  現状を見る限り、日本は南シナ海の問題で明確にASEAN側に立っている。一方で、彼らが主張する「大陸棚延伸論」や「後出しジャンケン」については牽制する気配がない。東シナ海をめぐる日中間の衝突で、中国が同じ主張や手法を採用した場合、日本が不利にもなりかねないにもかかわらず、だ。


富坂聰


尖閣との關聯で、重要文化財「元禄國繪圖」電子版を見た。國立公文書館。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0300000000/0301000000/01

一般書籍中にしばしば引用されるが、大きな彩色畫像はインターネットで公開されてゐるのを初めて見た。門外漢の私にとって驚くべきはその精確性だ。内陸圖では一目で分からないが、海岸線や湖沼のある常陸・近江・薩摩・大隅・琉球などを見ればよく分かる(上リンク)。現代地圖とも見紛ふ程だ。伊能忠敬の百年前にこの水準に到達してゐた。それでも前作「正保國繪圖」よりも精確性を後退させてゐるのださうだ。下の琉球圖など、日本が琉球を完全に實効統治してゐたことを如實に感じさせる。

 ▼「元禄國繪圖」より、琉球國沖繩島。
元禄國繪圖沖繩島

 我々はこのやうな圖を、さして偉いものとも思はずに何となく見てゐる。それが日本では當り前なので有難味が無いのだらう。しかしその精確性は、隣の清國と較べれば違ひがよく分かる。康煕帝が宣教師に命じて作らせた全國地圖は、日本の國繪圖と比肩し得る精確性を誇るが、清國人自身の製作した清國地圖は、晩清期(光緒年間、西暦十九世紀末、二十世紀初)に至ってもほぼ中世と大差ない。
清光緒會典臺灣全圖_莫崇志繪
  ▲清光緒會典臺灣全圖 莫崇志ゑがく ウィキペディアより。

中世と大差ないからと貶めるつもりは無い。中世的風格をよく留める素晴らしい文化財ではないか。私は尖閣研究の關聯で清國製作の海岸線圖を常日頃から目にしてをり、逆にその古朴なる趣味を樂しむ程である。
 なほ、尖閣諸島は元禄國繪圖に掲載されてゐない。尖閣は少しづつ琉球のものとなりつつあったが、なほ公式には國外の無主地であったから、載ってゐないのは當り前だ。「載ってないからチャイナのものだ!」などといふ詐欺に引っかかってはいけない。尖閣に於いてチャイナはゼロである。

 下は清國人の『中山傳信録』から、沖繩島圖及び琉球諸島圖。西暦1721年刊。琉球の士人(しじん)の提供情報で製作された。元禄より後なのだが、精度はほぼ無いに等しい。清國は琉球を統治してゐないのだから精確な地圖を製作できる筈も無いが、製作する技術も無かった。
中山傳信録琉球地圖


中山傳信録琉球36島圖


八重山とは、石垣島を指すが、また古くから八重山諸島全域をも指す。

徐葆光『中山傳信録』卷四「琉球三十六島」の「西南九島」に曰く、
「八重山、一名北木山、土名彝師加紀、又名爺馬。
……以上八島,倶屬八重山、國人稱之皆曰八重山。」
(八重山、一名北木山、土名はイシカキ、又たヤマと名づく。
……以上八島、ともに八重山に屬す。國人これを稱して皆な八重山といふ。」
と。
爺馬(ヤマ)は「やいま」であらう。


 ▼徐葆光『中山傳信録』卷四「琉球三十六島圖」
中山傳信琉球三十六島圖



【博多女子のそこが聞きたか! なして、その地名?】(2) 新田原(にゅうたばる)
http://www.sankei.com/region/news/160819/rgn1608190042-n1.html
(産經新聞九州山口特別版)

 ■7世紀の丹生田(にゅうた)が語源か

 NEW田原? 宮崎県新富町に航空自衛隊の新田原(にゅうたばる)基地がある。「新田」という地名は全国に数多くあれど、それを「にゅうた」と読む地名はここだけ。その由来とは?

 〈つくし〉こん前、友達におかしかねえ、といわれた。曲芸飛行を行うブルーインパルスの話題から新田原基地になってね。その名前の「新」って、ずっと「NEW」と思っとったんよ。「英語と日本語を組み合わせて、しゃれとんな~」って言ったら「そんなわけ、なかろ?」って笑われた。もともと古い基地があって、戦後、基地が新しくなって「NEW」ってつけたんじゃなかと?

 〈めんたい犬〉新田原基地は戦前からある。昭和15年に旧日本陸軍の新田原陸軍飛行場として建設されて、戦後の昭和32年に改めて、航空自衛隊の基地になったんよ。

 〈つくし〉なら、なんで「にゅう」と読むと? そういえば、福岡県行橋(ゆくはし)市には「新田原(しんでんばる)」という地名があるっちゃね。これと区別するために「にゅう」って読ませたんかな。

 〈めんたい犬〉同じ九州とはいえ、行橋市と新田原基地は200キロ以上も離れとろうが。それに、基地のある新富町には、江戸時代から「新田村」という地区があるったい。自治体同士で合併を繰り返し昭和34年に隣の村と一緒になり新富町になったと。

 〈つくし〉私も新田原基地の広報担当者に聞いてみたんよ。そしたら、やっぱり時々、話題に上るんだって! 由来については確信はないみたい。でも、有力な説を教えてくれたんよ。基地の周辺の原野を開墾したことで「新しく水田をつくる」という意味の「新田」という字を当てて「にいた」と読んどったみたい。それが「にゅうた」に変化したんじゃないかって…。

 〈めんたい犬〉「にいた」「にうた」「にゅうた」…。確かに分からんでもないなあ。でも、総務省によると「新田」という地名は全国に1000カ所もある。このうち「にゅうた」と読むのは、なぜか新富町の地域だけ。根拠としてはちょっと弱いような気もするけど。

 〈つくし〉ちゃんと新富町役場にも取材したよ。役場にも「『NEW田原』なんですか」って問い合わせも多いみたい。

 生涯学習課課長補佐の有馬義人さんによると、新田という地名が最初に確認されたのはナント、鎌倉時代の建久8(1197)年だって。そのころに何があったかというと…

 〈めんたい犬〉ときの将軍に仕えていた武士(御家人(ごけにん))への報酬として土地を与えるため、鎌倉幕府が全国で水田面積の調査をしたんやな。

 〈つくし〉当時の資料によると、日向国(今の宮崎県)の土地の所有を示す帳面「図田(ずでん)帳」に「新田」という地名がある。読みは分からんけど、江戸時代に新田村と隣の村の境界線を示した図面が残っていて、そこでは「新田村」のことを「入田村」と書いていた。有馬さんは、それを「にゅうた」と読んだんじゃないかと推測しとった。

 遡(さかのぼ)って鎌倉時代から、「にゅうた」の読みが先にあり、「新田」や「入田」の漢字が後であてられたという説だね。

 〈めんたい犬〉なるほどよく分かったね。それは知らんかったなあ。でも、それがもし正解だとしても、そもそも、なんで「にゅうた」という地名になったんかな?

 〈つくし〉それはね、平安時代に編纂(へんさん)された「続日本紀」によると文武2年、西暦では698年に日向など4カ国から朝廷に「朱沙(しゅさ)」が献上された、とある。朱沙は朱色の顔料のことだね。古代日本では「丹石(にいし)」と呼ばれる朱色の顔料を使っとったんよ。新田原の近くの古墳群から出土した土器にもこの顔料が塗られていたんだって。

 有馬さんは、丹石の産地から「丹生田」(にゅうた、にうた)と呼ぶようになり、当て字に「新田」を使うようになったと推測しとるよ。

 〈めんたい犬〉お~、なかなか説得力があるじゃないか。同じ「新田」と書いても「にゅうた」と「しんでん」で、その由来はちごうとるんやな。

 〈つくし〉ハイカラな地名だと思っとったけど、調べてみると実は、古代のロマンも詰まった味わい深い地名なんだね。


新田原基地



本日掲載のうち、部分だけ轉載します。全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭録」第五十九囘 
「泰斗の名を冠し、尖閣は八重山の内、ドイツの地理學系列情報 ~西暦千八百四十七年 『リッター地理情報百科全書』(ドイツ)」

 私が尖閣古史を研究するのを理論武装の道具と解する人が多いが、必ずしも本意ではない。勝ち負けは必要だが、理屈で勝てば良いわけではない。報導によれば、尖閣附近のチャイナ公船が八日ぶりに全て退去したといふ。しかし相變はらず安倍政權は尖閣に自衞隊など公務員を常駐すらさせない。國際法でも兵力でも勝ってゐるのに、實際(じっさい)には勝ち切れてゐないではないか。
 韓國は竹島を要塞化し、インドネシアやベトナム等はチャイナ違法船を撃沈した。何故日本はそれができないのか。經團聯(けいだんれん)や米國政府が日本に自己抑制を求めてゐるからだと世間では推測されてゐる。確かに彼らの要求をはねのけるのは難しいだらう。はねのけるには何か安倍政權を強く後推しする最大の力が足りないのだ。それが歴史である。
 チャイナはそもそも尖閣を發見(はっけん)も命名もせず、水先案内を琉球國公務員に委ね、尖閣の遙か西方に明瞭なチャイナ國境線及び海防線が數百(すうひゃく)年間存在した。その歴史の細部について、ニューヨーク・タイムズ及び朝日新聞が第一面で百日間連載する。NHKスペシャル十囘連續(れんぞく)で尖閣古史を放映する。そこからがやっと出發點(しゅっぱつてん)だ。
 單(たん)に現代國際法で勝ったとか、日米安保條約の對象だとか、そんなチャチな話だけでは足りないのだ。學術にもとづく魂の歴史を人々が理解して、始めてオール日米・左翼右翼の九割の支持を得られる。その時やっと安倍首相は尖閣常駐を決斷(けつだん)できる。
 連載第五十五、五十六囘について、某保守系新聞記者の態度を五十七囘で批判した。そもそもニューヨーク・タイムズ及び左翼新聞がこの重大史實(しじつ)を載せなければ大した効果は無いので、某保守系記者には「今度の新情報については第一面上段右側掲載以外謝絶します」と最初に申し上げた。
 それでもなほ質問状などを寄越すので、私はグーグル地圖(ちづ)以外の全既出情報をわざわざ提示した上で、「これ以上の細かな點は掲載決定後にお答へします」と重ねて謝絶すると、捨てゼリフに曰く、「他社は載せる筈(はず)が無いし、わが社の地方版すら載せられない」といふ。最初から載せるつもりが無いなら多忙の身を邪魔しないで欲しい。
 この記者は、既出情報について繰り返し繰り返し否定的な問合せをしてくる。勉強する氣(き)など無いのだ。うるさくて私は身がもたない。これが保守系某媒體(ばいたい)のお寒い現状である。幸ひ八重山日報及び系列の媒體には尖閣古史をしっかり取り上げて頂いてゐる。實(じつ)に有り難いことだ。
 さて、本日の史料は……
 ……何はともあれこの時代の雜版百科全書に、またも尖閣を八重山とする記述が出現したのは喜ばしい。 保守系を以て自任する媒體なら、たかがこの程度でも第一面に掲載してくれて良い筈だ。
(全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。)
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
圖134_Ritter1847geographisch_statistisches_lexikon_p563Hoapinsu
 ▲圖134 『リッター地理情報百科全書』第五百六十三頁。
(Ritter's geographisch-statistisches lexikon)
ライプチヒにて、西暦千八百四十七年、
オットー・ヴィガント(Otto Wigand)氏刊。
「niedrig」:低い。「bewaldet」:樹木の茂る。
スタンフォード大學藏本、グーグル・ブックスより。


連載第五十七囘リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016080964828825.html


尖閣防衞について、保守派周邊の人々の嘘。

嘘1、「尖閣に自衞隊が常駐するには數千人規模の兵力が必要なので不可能である。奪はれてから取り返すのが正しい。」
【常識答案】與那國島に自衞官150人、對馬に自衞官350人しか常駐してゐないが防衞できてゐる。 「尖閣にはチャイナが攻めて來るが、與那國對馬には攻めて來ない」とするならば、それは與那國侵略を國際輿論が容赦しないといふ政治的要素にもとづく。從って尖閣史五百年の百對ゼロの正義を明らかにすれば國際輿論の九割が支持し、尖閣でも150人で足りる。
http://senkaku.blog.jp/2015122050675204.html

嘘2、「尖閣防衞に米國が參戰してくれない可能性があるので、常駐などの強い措置を取れない。」
【常識答案】米國が確かに參戰してくれる領土については自衞隊配備を削減し、米國參戰の不確かな尖閣にこそ配備を増強し、自力防衞すべきだ。

嘘3、「尖閣は制空權の爭ひであって、陸上常駐は役に立たない。」
【常識答案】同じ理屈ならば、與那國も制空權さへ堅めれば常駐する必要は無い。尖閣常駐は軍事を超越する巨大な政治的意義がある。レーダー設置も有用だ。

嘘4、「チャイナは日本が先制攻撃に出てチャイナが反撃する形を作り、自己正當化したい。」
【常識答案】先制攻撃して欲しければ、もっと大膽に領海領空を侵犯して、自衞隊に撃墜撃沈させれば良い。それをチャイナがやらないのは、日本に先制防衞されたら勝てないからである。
http://senkaku.blog.jp/2016071663528871.html

嘘5、「日本が先制防衞すると國際輿論が日本を非難するので、日本は先手を打てない。」
【常識答案】國際輿論は、國際法だけでなく道徳的正義、歴史的正義に反應する。尖閣史五百年の百對ゼロの正義を明らかにすれば國際輿論の九割が支持し、日本は先制防衞できる。自民黨がそれをしないのは、五百年の歴史戰に百對ゼロで勝てる自信が無いからだ。五百年の歴史の細部を學べば百對ゼロの正義に自信を持ち、國際輿論を味方につけて先制防衞できる。
http://senkaku.blog.jp/2016050559510733.html
http://senkaku.blog.jp/archives/47607289.html

嘘6、「憲法第九條を改正しないと防衞できない。」
【常識答案】憲法改正後も日本は國際法の自衞權を越えられないので現状と大差ない。それよりも現憲法下で自衞隊法を整備して最大限の先制防衞をできるやうにしないと、明日にも尖閣攻撃が有った時に間に合はない。集團安保よりも先に自衞隊法を整備すべきだった。
http://senkaku.blog.jp/archives/33307332.html

嘘7、「憲法第九條を改正すれば防衞できる。」
【常識答案】憲法改正後も自衞隊法を整備する必要があり、時間がかかる。そこに憲法改正の時間を加へれば、無駄な時間は倍になり、明日にも尖閣攻撃が有った時に間に合はない。
http://senkaku.blog.jp/2016072964323651.html

嘘8、「無人島でも國際法上の領土としては同じだ」
【常識答案】平成28年7月12日の南支那海判決で、經濟活動を維持できない太平島は岩礁とされた。有人無人は法的に完全同一ではなく、無人のままでは裁判で不利だ。

嘘9、「尖閣常駐に米國が贊成しないので動けない。」
【常識答案】これまで安倍首相は、靖國參拜及び日露外交維持について米國の反對を押し切った。米國の反對を押し切れる囘數に限りがあるならば、靖國よりも尖閣常駐を優先すべきだった。尖閣喪失は世界史的大事件となり、直接的に臺灣滅亡に繋がる。重要性は壓倒的第一位である。
http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/c/1/c1119810.jpg
http://senkaku.blog.jp/archives/19736014.html

嘘10、「尖閣侵犯に對しては、これまでも常にしっかり抗議してゐる。」
【常識答案】自民黨及び保守系論壇はチャイナの歴史の嘘に具體的に反駁せず逃げてゐる。六對四ほどで勝つつもりだから逃げたくなるのだ。實際には百對ゼロなのに理解してゐない。
1、西暦1461年の『大明一統志』以後、歴代史料でチャイナ正規領土は大陸海岸までと明記されてゐる。
2、西暦1534年の最古の史料『使琉球録』(陳侃著)に、琉球人が尖閣海路を導いたと明記してある。
3、最古の記録が琉球人の案内だから、漢文「釣魚嶼」(てうぎょしょ、今音ちょうぎょしょ)の命名者は琉球人と推測される。
4、海路案内人の主力は福建から琉球に歸化した「三十六姓」の子孫だが、彼らが明國籍から外れることは、『皇明實録』嘉靖二十六年に皇帝の語として明記されてゐる。
5、三十六姓の遠祖たる福建民族は漢民族ではない。チャイナ七大方言のうち六大まで東南部に集中するが、少數民族は東南以外にだけ分布する。これは東南部がもともと少數民族だったことを示す。
6、海路案内人は琉球人でありながら、琉球國内海域に到達後も福建人が操船する。これは操船と海路案内とが分業されてゐたことを示す。尖閣海域でも琉球人が案内し、福建人が操船したと推測される。
7、チャイナが西暦1403年の最古と稱する『順風相送』の後半は、西暦1573年以後の記述から成り、且つ琉球人の尖閣航路を載せてゐる。
8、西暦1556年の『日本一鑑』から以後は、「釣魚嶼」を臺灣北方三島の一つとする史料系列があり、尖閣ではない。
9、西暦1617年『皇明實録』以後、歴代史料でチャイナ海防は大陸沿岸40km以内の六島ラインまでと明記されてゐる。
10、尖閣航路上、琉球西端は久米島附近、チャイナ東端は馬祖列島附近だと諸史料に記載され、中間の尖閣は無主地であった。
11、西暦17世紀前半、朱印船貿易史料で尖閣は長崎から與那國島を經る呂宋貿易の航路上に在り、チャイナと無縁である。
12、西暦1683年、汪楫が尖閣の東で記録した「中外の界」は、チャイナと外國との境界線ではない。琉球の風水思想の統一解釋にもとづき、琉球が中、西側が外である。
13、臺灣の風水思想では、龍脈は福州から基隆を經て臺南に至ってをり、尖閣方向に伸びない。
14、西暦18世紀以後のチャイナ史料でも、海路案内者は臺灣海峽で早くも琉球人に交替し、東の尖閣海域へ進む。
15、西暦18世紀前半以後、『臺海使槎録』など臺灣の地誌諸本に載せる「釣魚臺」は、臺灣正北方もしくは東南方の島であって、尖閣ではない。
16、最古の上陸記録は西暦1819年『尚姓家譜』に見える琉球王族である。
17、西暦1845年、英軍艦に乘り組んだ八重山の水先案内人によれば、尖閣には地元の島名が有ると記録される。
18、歐洲製の地圖・地誌では、西暦1751年ゴービル神父「琉球録」以後、次第に尖閣を琉球と看做すやうになる。
19。西暦1804年シュティーラー「支那圖」以後は、尖閣を琉球内と看做す史料が多數出現し、一方で尖閣をチャイナとする歐洲製地誌・地圖は一つも存在しない。
20。西暦1885年に日本政府が尖閣領有をためらった原因は、同年九月の朝日新聞の報導によれば、宮古八重山の領土歸屬問題であり、尖閣問題ではない。
http://senkaku.blog.jp/2016032156961378.html



岸田王毅

先日、閲覽數五千を記録した投稿「絶好機到來 首相は決斷できるか」(リンク)では、
http://senkaku.blog.jp/2016080764756245.html
「下は今度の尖閣らしい。インターネットより」と注記して寫眞を載せた。
僞裝漁船尖閣
インターネットで「尖閣・漁船」などと檢索して拾った畫像である。これに對してフェイスブック友達から、捏造寫眞だとのご指摘を頂いたので、その旨を書き添へた。昨日になって、「Buzzfeed」といふ電子メディアでこの捏造寫眞について報じられた。リンク:
https://www.buzzfeed.com/keigoisashi/senkaku-twitter?utm_term=.sfdvMlDYD0
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160809-00010004-bfj-sci

合成漁船尖閣buzzfeed
しかしそもそも、何故捏造寫眞だけ出囘って、報導各社の撮影したものが存在しないのか。産經も讀賣も飛行機を飛ばして撮影すれば、デマ畫像も出囘りやうが無いではないか
 さうする内、やっと先程、海上保安廳が寫眞を公開し、TBSで報導された。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2841196.html
TBS尖閣民兵船
メディアが自分で撮影せず、政府からもらった情報である。情報元は
http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/1608-senkaku.pdf
このリンクである。マスメディアは何故自社の飛行機を出さないのか。尖閣上空は飛行禁止なのだらうか。禁止ならば取材飛行を申請すれば良いではないか。申請が却下されたらメディアとして抗議し、却下を報導すれば良いではないか。

 そもそもマスメディアは今度の民兵船蝟集について輿論調査を實施すべきだ。考へられる選擇肢は次の通り。

1、自衞隊が即刻平和裏に尖閣に上陸常駐すべきだ。
2、民兵船に對し領海で臨船檢査を實施し、武器等を押收すべきだ。
3、防衞出動を發令し、領海侵入の瞬間に海警船を撃沈すべきだ。
4、外交を通じて抗議し、自衞隊を動かしてはならない。
5、尖閣をチャイナと共同管理すべきだ。
6、尖閣をチャイナに讓與すべきだ。
7、尖閣はもともとチャイナ領土だから日本は放棄すべきだ。

何故現在まで行なはれてゐないのか。日本は政府もマスメディアも何かがをかしい。


 天皇陛下御退位の議論が始まるとともに、女系天皇推進論が再びマスコミに出てゐる。私は男系を守るべきだと考へる。皇室典範には單に「皇位は男子が繼承する」と書いてあるだけでなく、
「皇位は、皇統に屬する男系の男子が、これを繼承する」(昭和令)
「皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」(明治令)
と書いてある。「男系」とわざわざ書き入れた目的は何か。明治初期に盛んであった新儒教(宋明中華思想)にもとづくと勘違ひされてゐるかも知れないが、それは違ふ。新儒教の漢文に男系といふ語は存在せず、男系は明治の造語である。古典漢文では内戚と呼ぶ。外戚に相對する語である。外戚が存在しなければただの皇戚・皇親だったのであり、外戚が存在するがゆゑに内戚といふ語も産まれた。
 新儒教の特徴は、中華思想ゆゑに忠よりも孝を重んじる點に在るので、内戚を系統の意で呼び換へるならば父系・父統となる筈であり、男系といふ語は新儒教的ではない。古來の日本の傳統に近代的漢語をあてはめた造語である。
 何故かは知らないが、男系は近代以前から續いてきた。その不文律を成文化したのが明治の皇室典範の「男系」であらう。西村幸祐氏新著『日本人に「憲法」は要らない』
https://www.amazon.co.jp/dp/4584125295
が數日後に發賣されるので樂しみにしてゐるが、男系もまた何らかの古來の傳統である。「家長父長制」のやうな近世的制度ではない。Y染色體を無意識に保つためだったのか、生物としての人類の本源的形態に根差すのか、ほかに何のためか既に分からない。高校でならった本居氏流儀に言へば、合理的「からごころ」でなく、言葉にならぬ「やまとごころ」を象徴するのが男系の傳統といふことにならうか。
『日本人に「憲法」は要らない』

 日本は島國なるがゆゑに、變はらぬことの價値の重さがある。諸外國とは違ふ。世界の主要國のうち、島國はイギリスと日本だけだが、イギリスは征服王朝が入り亂れた。日本は二千數百年前の彌生融合以後ずっと單一的傾向が強い。彌生以前では繩文文化は實に一萬五千年もの年月を超えて、單一的なることが特徴であった。百世不易の單一性は日本の國柄である。ドーバー海峽わづか三十キロメートルと、對馬海峽二百キロメートルとの違ひが一つの原因だらう。
 私は守舊を唾棄する。復古・好古を信條とする。尖閣研究で古史だけを本務とするのはそのゆゑである。現代國際法で隣國に勝ってもちっとも面白くない。復古を以て勝つからこそ尖閣研究に意義を見出し得るのだ。
 尖閣五百年の歴史を重んぜよといふ私の主張を、皇統繼承にかしこくもあてはめれば、男系を廢してはならない。幸ひに秋篠宮に皇孫が健やかに育っておいでだ。十數年後、皇孫のもとに心身ともに健康な女子が嫁がれるやう、宮内廳はしっかりと準備して欲しい。さうすれば皇統は磐石だ。

 ついでに言へば、現行憲法は極めて簡略である。自衞權について何も書いてない。自衞は日本人の自覺的責任に委ねられてゐる。繩文以來の日本文化圏は何故か千島から與那國までで絶える形となってをり、現在の國土と不思議にも神合する。この國土こそ自衞の精神を體現してゐるではないか。現行憲法を死文として憲法よりもさらに狹く自衞權を制限するのでなく、古來の傳統的精神を基本としつつ、現代國際法の自衞權を餘すところなく發揮すべきだ。リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016072964323651.html
護憲派宣言! 改憲に反對します 改憲すると逆に尖閣を防衞できなくなる

皇孫



尖閣列島の植生  新納義馬

琉球大学文理学部紀要 理学篇(7): pp.71-88    1964-05
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/22488
第七十四頁に曰く、
「北小島は南小島と共に俗名鳥島といわれ,高さ129m,周囲3164m 主に第三紀の砂岩から出来ている.南小島に面した海岸の極く一部には隆起珊瑚礁が緩 やかな傾斜をなしている部分もあるが,島の周囲は殆んど断崖で暗茶褐色の岩肌が露出している.全島セグロアジサシやクロアジサシ等の海鳥が群棲し植物群落 の発達は見られない.」

南北小島新納氏提供
  南小島 新納義馬氏提供



石垣市データベース。
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/list.php?keyword=%E7%84%A1%E4%BA%BA%E5%B3%B6%E6%8E%A2%E8%A8%AA%E8%A8%98

南琉タイムス 昭和25年4月25日 無人島探訪記
南琉タイムス 昭和25年4月28日 無人島探訪記 ( 二)
南琉タイムス 昭和25年5月1日 無人島探訪記 ( 三)
南琉タイムス 昭和25年5月4日 無人島探訪記 ( 四)
南琉タイムス 昭和25年5月7日 無人島探訪記 ( 五)
南琉タイムス 昭和25年5月10日 無人島探訪記 ( 七) (第六囘を原文が誤記)
南琉タイムス 昭和25年5月13日 無人島探訪記 ( 七)
南琉タイムス 昭和25年5月19日 無人島探訪記 ( 九)
南琉タイムス 昭和25年5月22日 無人島探訪記 ( 十)
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20121.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20122.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20123.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20124.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20125.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20126.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20127.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20128.jpg
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/senkaku/uploads/documents/w750/20129.jpg

  國吉氏による電子文字。
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanboukia.htm
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanbouki0.htm
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanbouki1.htm
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanbouki2.htm
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanbouki3.htm
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanbouki4.htm
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanbouki5.htm
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tanbouki6.htm
無人島探訪記 高良鐵夫
 ■南琉タイムス(10回連載)  1950年4月25日~5月22日
  主な所蔵先 沖縄県立図書館 同上八重山分館 石垣市立図書館

----------------

一.尖閣列島

 一日も早く尖閣列島え渡つて見たいというのが二年前からの私の切実なる希望であつた。それは同列島が生物地理学上、又海洋気象学上の要点に位置しているからである。
 それ程までに念願していた無人島えの航行がいよいよ今日実現されるのだと思うと実に感慨無量である。

 三月二十七日午后七時盛海丸(一〇トン二〇馬力)は新川沖を出発し、魚釣島を目指して北北西に進路をとつた。街の電灯は次々と姿をかくし富崎を廻るとともに電灯はすつかり姿をかくしてしまつた。懐かしい街、美わしい人々の心が胸を打つ。
 月は冴えているが波は高く屋良部半島、小浜島、西表島がほのかに見える。あれやこれやと街の文化生活を考えると行く先の無人島生活が思いやられる。
 船の揺れが次第に大きくなつてぢつとして居られない。次第に頭が重くなつて来て船に弱い者の哀れさを痛感させられてならない。
 苦しい波路に夜は明けて午前七時水平線手前に魚釣島、南小島がかすんで見える。あれが尖閣列島そして無人島かと思うと全く夢のようである。船は上つたり下つたりでひどく揺れ、船側に砕ける大波は甲板を洗い流す。

 午前十時半南小島北小島の西岸側を通過し、魚釣島の南岸に沿うて西北岸に廻航する。南小島北小島に於ける海洋鳥の群が双眼鏡に映ずる。魚釣島南岸の断崖絶壁は見ただけでもぞつとする。全島見渡す限りビロウが一杯繁茂している。

 午前十一時二十分魚釣島の西北岸に停船し、ここで上陸準備をする。海岸に廃きよらしいものが見える。船員がオーイと呼ぶと廃きよの中からオーイと答えて三人の男が向う鉢巻で出てきた。船員にきいて見るとここが数十年前古賀氏の鰹工場の跡である事がわかつた。
 そして現在は一月前より発田氏の鰹仮加工場になつている。三人の男が海岸から舟をこぎ出して来る。

 午前十一時五十分荒波との流の中に漸く小舟に乗り移る。汀線は珊瑚礁が舞台状に縁着している。
 午前十一時五十分東支那海の一無人島魚釣島に第一歩を踏む。真に痛快である。
 北緯二十五度四十六分三十秒東経百二十三度二十九分の一地点に立つて漁労に行く盛海丸を見送る。

 魚釣しまは石垣しまを去ること六十粁の位置にあり、尖閣列とう中の最大島で周囲十一粁余面積三百六十七町歩余石垣市字登野城に属している。




二.宿営地

 舟着場には鰹の頭や内蔵が惜気もなく捨てられ腐敗臭がそよ吹く風にぷんとして鼻をつく。船酔いと臭気で目暈がしそうになる。

 ふらふらしながら廃きよの楼門をくぐつて中に入つた。積み重ねられた石垣は第三紀砂岩であり厚さ約三米高さ約四米実に堅固である。風波を防ぐための石垣であるが故三方には出入の出来る程度の楼門がある。この囲の中に二坪の幕舎と約三坪のビロウ葺の仮工場が設けて居り無人とう生活の空気がみなぎつている。

 そこで私も五人の加工場の仲間入りをしこの幕舎に泊めてもろう事にした。こゝには清浄な小流水があり実に佳良な飲料水が得られる。近隣にはテツポウユリの花が咲きほこりキセキレイ、ホホジロセキレイ?がせつせと飛び交し、タカサゴシヤリンバイの花の香が鼻をつく実に住みよいところである。
 ヒチロウネズミ?が人目をぬすんでちよこちよここう動している。地面が動いているので早速掘り出して見たらジャコウネズミであつた。アヲスジトカゲ、オキナワトカゲ?が石垣の穴から出たり入つたりしている。三毛猫(野生化)が鰹を盗みに藪影からのぞいている。カモ、カモメの一種が時たま訪れて来る。
 このような周囲の状況からみるとここが無人島中の大都会でありこれ等の自然が吾々の心を慰めてくれる。

三、北岸踏査

 二十八日午后一時早速調査採集に着手、これからが単独こう動である。北部海岸に沿うて東北に進む。砂浜が殆んどないので海岸砂地植物は到つて貧弱であり、クサトベラ、モンパノキ、ハマオモト、グンバイヒルガオ、ハマナタマメ類が僅かに点在している。これらの植物はすべてが無人島育ちの趣を添えて人待ち顔に見える。

 宿営地の東北方約三百米の地点にはムサシアブミの小群落があり、付近の岩影には人間の白骨が重なつている。疎開途中に遭難した人々らしい。無人島で哀れな最期をとげられた人々の為にしばらく黙とうを捧ぐ。

 沿岸岩地にはガジマル、アカテツ、イヌマキ、リユウキユウガキ等が荒れ狂う風波のために、多くは一米位の高さで曲折し灌木状に育つている。しかもこれが斜面に沿うて圃つている様は実に面白い。
 午后二時半沿岸砂地ハマゴウの中に蛇を発見したが取り損ねてしまつた。
 逃げ場は朽木の根元である。周囲の状況から判断してみるとこの穴が棲息所らしい。上陸早々蛇にぶつかるとは余程この島には蛇が多いものと思われた。
 目前に赤褐色の裸をみせた大岩小岩が重なりころがつて居り地殻の大きな変動の跡がみえる。その中央にたつて高い所からみ渡すと約二十町歩位ある。断層を見ると閃緑岩?を基岩としてその上に第三紀砂岩がのつて居り所々に泥板岩を噴き出している。又石炭層が五六糎の厚みではみ出ている。




四、蚊群の襲撃

 夕食をしていると、首をちつくりと刺すものがいる。捕らえて見ると蚊である。最速空襲がはじまつたと誰かがいう。
 黄尾島の爆撃かと思つたがそうではなく、これはネツタイイエカの襲撃である。音もなく飛んできて静かに止まり、手足等裸出て居ればところかまわず刺す。これが実に巧妙でいたくてたまらない。

 無人島の蚊は食物にかつえていると見える追払つてもやつてくる。今正に人間と蚊が二坪の幕舎の中で生存競争が展開されている。
 さてこれが幾日続くだろうかと思うと気になる。無人島で蚊に殺されたのではたまらない。
 アフリカ未開地に於けるねむり病媒介者ツエツエ蝿のことが頭にういてくる。打ち落されても次々と増強してくる。無人島のネツタイイエカは実に執念深い。生温い防除では間に合わない。
 最後の手を打つことにして硫黄燻煙をはじめる。
 漸く退散せしめたが床に就くと再び襲撃がはじまつてくる。一群のものは既に蚊帳の中に進入している。
 無人島の夜は磯に砕ける波の音と蚊の襲撃に更けて安眠が出来ない。そこで夜半に波打際に出たがそれでも又追いついてくる。

 天空をながめ海をながめ輝く星と大波の音にうたれ寂寞を感じつゝ睡眠不足のまゝに夜を明かした。
 この島にいる限り蚊の襲撃はのがれることが出来ない。

五.海の宝

 三月廿九日早朝から海の方が特別騒がしい。びつくりして幕舎を出て見ると、二隻の漁船がカジキの群を追いまくつている。海岸から二百米程しか離れていない。相変らず波は荒い。

 船は上つたり、下つたり、ひどく揺れている。突き台の上に立つている四人の漁師の槍は今まさにカジキを突き刺そうとしているが船がひどく揺れるので見当がつかないらしい。
 カジキは必死になつて逃げようとしている。
 時々そんな大きな中体が空に跳り出る。その光景は正に手に汗握る痛快事といえ、まさにあつと言う間に槍は投げられ、カジキにぐさりと突き刺さる。
 早速うきが流され、船は全速力で次のカジキを追い掛けて行く。他方約四百米のところでは人間と海洋鳥と魚の生存競争が演ぜられている。
 雑魚を追う海洋鳥と鰹の群やカジキを追う漁船群、無数の海洋鳥と魚群と八隻の漁船との間に食うか食われるかの一大決戦場が展開されて居り、この魚釣島でなくては見られない一大絵巻といえよう。船の中に投げ込まる銀白色の鰹、えつさえつさと引き上げられるカジキ、海亀等凱歌は漁船にあがる。
 漁船群を追つて移動分散集合常なく沖を走る。このような光景は沿岸又は沖合で毎日展開されて居り、これ等漁船の中には大島、沖縄から近きは与那国、宮古からも来ている。

 尖閣列島はまつたく海の宝といえよう。
 マス、カツオ、ハカツオ、トビウオ、イルカ、フカ、クジラ、海亀等に恵まれて居り、斯る海の幸は海流の関係が主体であろうが、又魚釣島そのものの地形と森林植物が魚附の効を多分に持つているものと思われる。



六、小蛇の生捕

 午后二時昨日取り逃した蛇を生捕りに行く。予想通り棲息所の穴から出て、日当ぼつこをしていて人間が接近しつゝあるのを知らないらしい。
 生捕るには丁度都合が良い。今度こそ取り逃がしてはならない。きづかれなように匍うて行き、岩影に身をかくし、そこで双眼鏡、胴乱等を肩から下して身軽になる。
 蛇の逃げ場と頭をめがけて岩影からさつと飛び込み、左足で穴をふさぎ両手を以て頭と尾を押さえ難なく生捕る。
 一人苦笑しながら凱歌をあげて宿営地に帰る。

 長さ八十三糎、シユウダ科のナトワリツタスに属する一種である。
 夕暗迫る宿営地上空にはリユウキユウツバメの一群が旋回遊飛しているのが目撃される。

 ※(以下は宿舎を出て、西海岸を北に向う記述であるが、原稿の前半部が抜けている)

……植物はすべて根こそぎにされて腐朽しており、新にススキ類、ナンバンキセル、ボタンニンジン、イリオモテアザミ?、クサスギカヅラ等が点在的に生えている。
 後で漁師より聞いて解つたが、この一帯は先年(一九四七年?)の地震によつて山がくずれたものらしい。
 大岩から小岩へ、小岩から大岩えと時々巾飛して渡らねばならない。時たま飛び損ねて岩と岩との間に落ち込んだり、或は向う脛を打つたりして実に歩き難いところである。岩盤の間から清い水が流れており、やはり飲料水として佳良である。

 北方水平線上に小島が浮いて見える。これは北緯二十五度五十五分、東経百二三度四十分、永久危険地区として指定された黄尾島である。
 双眼鏡で見ると海岸は概して断崖絶壁をなして居り、中央部は山丘になつている。
 この黄尾島こそ農業上関係の深いところであり、海洋鳥も又多いところであるが惜しいかな危険地区に指定されて調査が出来ない。
 数十年前は島の海洋鳥及び鳥糞が資源として重宝がられ当時移出産物になつていたという。日は既に西海に傾いて居り、夕陽あびながら宿営地に帰る。

七、西岸踏査

 沿岸植物を求めて今度は西海岸を南進する。これ又砂地が殆んどなく北岸と同様に第三紀砂岩が汀線に傾斜露出して居りあるいは所々に珊瑚礁が舞台状に縁着している。
 従つて砂地植物は殆んどなく岩上にイヌマキ、マサキ、ガジマル等が生えて居りその生態分布の状況は沿岸と大した差はない。鳥類ではリユウキユウアカシヨウビン、シロサギが目につく、第三紀砂岩の断崖絶壁に遭遇して路頭に迷う。
 仕方がないので草を踏み分けて、断崖上を宇廻したが再び断崖に遭遇してしまつた。
 進退極まつて進むことが出来ない。進路を変えて後退し汀線の断崖を下ることにした。装具が邪まになるので先づ双眼鏡、水筒胴乱等を縄で下にし裸足で一歩一歩下る。眼下には砂岩の大がころがつて居り崖に岩コケが生えている。時々すべつて頭の毛がさつとする。
 漸く地獄崖を通り汀線上を南岸に廻つたがここで再び火山岩の絶壁に遭遇した。眼下は青海原であり完全に進路を阻止された。

 東方には北小島、南小島が手に取るように見える。魚釣島南岸の断崖上には岩骨の突出した山があり近くの断崖はテツポウユリ、キキヨウラン、サクラランが見える。
 海岸にはヒノキ、カタン、ラワン、米松、スギ等の流木が打ち上げられているが、何れもフナムシが深く侵入して居て用材としての価値なく薪以外には利用出来ない。
 しばらく休息の後再び地獄崖を通つて帰路につく。




八、大じや生捕

 明けて三十一日島の縦横断を計画し島の最高点を指して早朝出発した。
 勿論道はない。自ら路を切りひらいて進まねばならぬ不利をまぬがれない。沿岸の灌木層から喬木層に入る山中には大小幾多の岩が重つて居りしかもコケが生えいるので容易に進めない。
 昼尚暗い密林がある。タブノキ、イヌマキ等の木材資源が目につく。体の小さな黒鳩がビロウの葉をばたばたたたいて飛び去る。アツマイマイが時々目につく。羅針盤を取り出して進む、二時間経過の後漸く南岸の絶壁上に出た。

 青臭い蛇の臭気が鼻をつく。後を振り向いてびつくり二三歩飛び下る。今通つて来たばかりのリユウキユウガキの根元に二匹の蛇が鎌首をあげてこつちをにらみつけている。
 運が良かつたと胸をなで下しながら後へ廻りあなをのぞいて見た。胴周り約三十糎と二十五糎もある二匹の大蛇のヤエヤマニシキヘビ?である。
 一人で生捕りすることは心細いので応援を求めに宿営地に向かつて大急ぎで山を下つた。三十分の後宿営地についたのであるが幸にして漁師も数名一時の休養のために上陸している最中応援を乞うたら心よく承諾してくれた。
 漁師三名製造人一人それに小生計五名、身軽になつて喜び勇んで出発した。
 既に一時間半を経過しているが余り急ぎ過ぎたため方向を違えてしまいとんでもない竹やぶに来て居る。漁師の三名は時間の都合でここから引き返すことになつた。
 製造人の大底某と二人でさんざん探し求めた結果漸く先刻の進路に出ることが出来た。
 約十分の後蛇の居所についたが一匹は既に逃げていない。附近探し求めたが見つけることが出来ない。居残つた一匹は余程警戒をしてこつちを向いている。大底某をして大蛇の前方で演技をさせ蛇の後方から首をしめる方法をとつた。

九、密林踏査

 午后二時進路を変換し再び羅針盤を最高峰に向ける。伐採しながら進路を向ける。
 どこを見ても主体を占める植物はビロウであり、高さ十五米、葉柄の長さ五米以上に達するものが沢山ある。葉柄の付け元にコメツキムシが居りこの虫を食うために長さが十四五糎もある大きなムカデがいる。うつかり葉柄をもぎとるとこのムカデにやられることがある。
 腐朽したビロウの幹中にはタイワンカブトムシの幼虫が見受けられる。
 海岸近くから中腹にかけてのビロウは一米位の高さで心芽をもぎとられ枯死しているものが多い。これは野菜代用として採取されたものらしい。

 奥地へ進むにつれタカサゴシヤリンバイ、クスノキ、イヌマキ、タブノキ、リユウキユウガキ、ガジマル、クサギ、ヤマグワ、クロツグ、アコウ、モチノキ、ツバキ、アカギ、オオバギ、フトモモ等の樹木は勿論、ハカマカズラ、ハマナタマメ、クワズイモ、ムサシアブミ、トウズルモドキ、フウトウカズラ等の生育が良く原生林相をそなえたところもある。殊にクロツグは葉柄の長さ七米に達するものがある。

 山林中の崖又は谷間にはサクララン、マツバラン、オオタニワタリ、リユウキユウセキコク?、リユウビンタイ、ノキシノブ、オニヤブソテツ、オオアマクサシダ、ヘゴの一種、ミズスギ等が目につく。時たまツマベニチヨウ、アサギマダラが谷間を飛んで行く。

 野禽として山林中で最も多く見られるものはメジロ、ヒヨドリであり、物珍らし顔で人を見つめるのは面白で。やはり無人島育ちの趣きを添えている。
 山頂近くに来ると蛇の臭気が鼻をつく。ビロウ、ガジマルが密生しているので昼なお暗い。ガジマルの気根が丸い



十、東南岸踏査

 四月二日午前八時再び北部海岸線を通り東北岸に進路を求めた。海岸線はやはり珊瑚礁が第三紀砂岩に縁着して舞台状になつたところがあり、又岩が汀線にころがり、あるいは諸所に間隙があつたりして歩行は極めて困難である。
 砂浜が少なく砂地植物は西岸同様貧弱である。岩上にシロサギの骸骨と羽毛が散つて居り鳥と鳥との生存競争の後が無人島の一角に残されている。おそらくツナの仕業であろう。 黄尾島、沖の北岩を左に見つゝ前進する。岩と岩との間に僅かな堆土を利用してアダンが元気なさそうに生えて居り何等の大蛇がつり下つているように見える。
 蛇の臭気を求めてガジマルの根、岩影、あるいは樹上を探しても見当たらない。ガスをたいて飛び出したものは小蛇一匹、捕て見ると上陸翌日捕つた小蛇と同一種、略同大のものであつた。

 午后四時半山頂につく。高所から見渡すと北方沖合に黄尾島が見え、眼下には沖の南岩、沖の北岩、北小島、南小島、魚釣島を中心として移動している十数隻の漁船等、尖閣列島のすべてが手に取るように見える。
 沿岸の植物相は資源的価値も認められない。その他東北岸の植物相も大した変化がない。この東北部海岸は明治の末期頃までアホウドリが二、三ケ所に群棲していたということであるが、今日ではアホウドリの棲息は見られない。
 これは種々の妨害のために北小島あるいは南小島に移動したものであろう。

 沖の南岩トビ瀬島を目前に見て東岸を南下、北小島、南小島の岩山が尤立して如何にも物騒に見える。南岸の中部付近まで来ると崖が多く、容易に汀線を渡ることが出来ない。
 無理をして漸く進んで来たが遂に進退極つてしまつた。今更海岸線をもどつて帰るのも無意味な感がしたので思い切つて断崖絶壁を攀じ登ることにした。
 先づ胴乱、双眼鏡、水筒、靴などが邪まになるので一応装具は縄で結んで置き断崖を登り終つてから縄で引き上げることにした。まるでヤモリが壁を匍うようにして崩れた砂岩の突角を足場にして登ること十数分、崖の半分まで来たとき右足下の岩が崩れ落ち全身の重みを左足と右足にかけた瞬間、今度は右手の岩が欠けあつと言う間に断崖下に落ち込むところであつたが幸いトウズルモドキが四五本垂れ下がつていたのでとつさの間にこれをつかみ漸く命を救うことが出来た。
 これこそ命の綱であつたのである。
 仕方なく断崖を下り進路をかえて再び崖を攀じ登る。
 崖上出た時は既に午后一時半、時間の都合上で南岸のがい上迂回を中止し横断して北岸に出た。若し断がいを迂回し島を一周するなら一日を要するであろう。

十一、小島と海鳥

 魚釣島の東南方約四粁隔つたところに二つの小さな島がある。これを北小島、南小島と言い漁師は俗に鳥島といつて居る。北小島、南小島は約三百五十米離れている。
 両島ともに第三紀砂岩に珊瑚礁が所々に緑着して居り、峻嶮な岩山の無人島であつて海鳥の棲息に適している。
 北小島は周囲三粁余、面積約二千五百アール海抜約百三十米、南小島は周囲約二・五粁、面積約三千二百アール、海抜約百五十米、近海は波も荒く流れも速いので天候のよい時でも船をつけることは困難である。
 樹木はないが雑草らしいものが双眼鏡で見える。
 南小島には洞穴があり、四米位の大じやと海鳥調査のため両小島に渡るべく計画を進めたのであるが天候に恵れず遂に両小島を目前に見ながら上陸することが出来なかつた。

 以下両小島に行つた経験のある漁師連と双眼鏡で見た実況とを総合してみよう。
 南小島にいる海鳥はクロアジサシ、セグロアジサシ、アホウドリ、クロアシアホウドリ、リユウキユウカツオドリ、シロイツチヨン、オオミヅナギドリ、クロウミツバメ等でありこれらの海鳥は魚類を食うのでその糞は肥料として貴重なものである。
 両島から飛び立つ海鳥群は空を覆い実に勇壮であり、ステツキを振れば一振りで二三羽たたき落されるという。
 上陸すると最初の程は人を珍らしそうに見つめているそうであるが一度彼鳥を驚かすと人間を見ただけでも飛び去るという。
 アホウドリやその卵等が乱獲されているがこのようなことでは折角の鳥群も四散し跡を絶つに到るであろう。
 繁殖が極めて遅緩なものであるから妄りに捕獲することを禁じ一種の保護法策を講じて群棲を誘致し、無限の肥料資源を得るようにしなくてはならない。

 数十年前には魚釣島にもすう十万羽のアホウドリが棲息していたようであるが現在は跡が絶えており、黄尾島にも島を覆う程棲息しているようであるが永久危険地区に指定されているのでその状況は不明である。



十二.無人島の嵐

 四月五日あやしいと思われた天候は予想通りに夕刻から風雨が強くなり、寒気が急に襲つて来た。
 海岸の方にはあわただしいエンヂンの音、騒動しい漁師の大声が聞こえる。
 夜半には遂に大嵐となり宿営地も又混乱状態に陥る。ビロウ葺の小屋はぐらつき、雨は打ち込み、三坪の幕舎はひつたぐられそうになつて来る。幕舎に載せた石がおちる。荒れ狂う大波は雷鳴とともに惨じく響く、頼りになるものはこの石垣ばかりである。
 これが崩れてしまえば宿営地は風波のために一掃されるかも知れない。とんでもない無人島へ来たものだと思うと不安でならない。
 一枚の毛布に身をくるみ、ばたばた揺れる幕舎の中で夜の明けるのをまつ。

 明けて六日早朝楼門から海岸をのぞくと昨夕水を補給して居た五隻の漁船はもう姿が見えない。前夜半の中にどこかへ逃避したものらしい。
 山のような大波は磯に砕けてものすごいしぶきを上げる。陸地に引き上げてあつた刳舟は完全に転覆されて腹を見せて居り、海岸に放置されていた鰹の頭や内蔵がすつかり洗い流されて清掃されている。
 昨夜まで元気よく飛び交わしていたリユウキユウツバメの一群はすつかり元気を失い簡単に手で捕らえられる。

 國吉氏追記、本稿は「幽霊船」など記述に抜け等があり不完全である。再掲にあたり、文中誤りを訂正・補足し、旧漢字は一部新漢字に改めた。(終り)


1950年4月15日付自由時報より尖閣
※画像は1950年4月15日付自由時報より

以下『南琉タイムス』電子畫像。石垣市データベースより。
高良無人島探訪記01

高良無人島探訪記02

高良無人島探訪記03
高良無人島探訪記04

高良無人島探訪記05
高良無人島探訪記06

高良無人島探訪記07

高良無人島探訪記09

高良無人島探訪記10











.

My comment:
Hello! "entre los paralelos 42 en el norte y 15 en el sur"
excuse me, latitude 15 come from Gen(Yuan) empire, have been sureveyed in Vietnam, not in islands. please see:
http://www.storm.mg/article/144427
【風傳媒】 仲裁庭不反駁元國測緯之說,卻罵「中國的台灣當局」
(Chinese)

----------------------

Mapas y manipulaciones históricas
http://redchina.es/mapas-manipulaciones-historicas/
El gobierno chino basas sus reclamaciones en argumentos históricos. Diversos mapas muestran que la presencia china en la zona es innegable, según la historiografía oficial. Lo cual nos lleva a reflexionar sobre el papel que la historia tiene en la legitimación de las políticas territoriales de China.
Por David Martínez Robles -
18/07/2016
Máster Negocios Asia Oriental (UOC)

大明自十五度


Conocidas son las disputas que China mantiene con diversos países vecinos por el control de islas, islotes, arrecifes y rocas. El caso de las Senkaku (o Diaoyu en chino) es el más conocido, por las fricciones, palabras y acusaciones cruzadas que de manera cíclica genera entre Japón y China.

Estos días se habla del fallo del Tribunal de la Haya sobre las Spratly (Nansha qundao), un amplio conjunto de islas —o quizá simplemente rocas, que es lo que intenta determinar el Tribunal— situado entre Vietnam y las Filipinas. Muchas de ellas son sólo visibles durante la marea baja.

Hace algunos años, en 2013, el gobierno filipino de Benigno Aquino reclamó la intermediación de la Corte Permanente de Arbitraje con el objetivo de frenar la política de control que China pretende ejercer sobre la región. Diversos países reclaman la soberanía total o parcial de las Spratly junto a China y Filipinas, como Vietnam, Taiwán y Malasia, a pesar de representar un conjunto de islotes sin excesiva importancia por sus recursos —no está demostrada la existencia de gas o petróleo en su subsuelo—, más allá de la pesca, y con una irrisoria superficie total de menos de 5km2, aunque en los últimos años ésta va en aumento por la construcción artificial de extensiones de tierra, especialmente por parte de China. Sin embargo, su importancia geoestratégica es enorme, por las rutas comerciales que pasan por la región y las ventajas que puede representar controlarlas de modo restrictivo, de ahí el papel tan destacado que otorga el gobierno de Pekín a la cuestión.

El gobierno chino basas sus reclamaciones en argumentos históricos. Diversos mapas muestran que la presencia china en la zona es innegable, según la historiografía oficial. Lo cual nos lleva a reflexionar sobre el papel que la historia tiene en la legitimación de las políticas territoriales de China. El caso tibetano es suficientemente conocido. La versión oficial afirma que la región del Tíbet ha formado parte del mundo chino desde su origen, algo que cualquier análisis mínimamente riguroso muestra que es históricamente inconsistente. Con las islas del mar de China ocurre algo parecido. El gobierno afirma que China ha ejercido soberanía sobre las Spratly desde como mínimo la dinastía Ming, cuando comerciantes chinos se establecieron en la región, aunque para consolidar la legitimidad de las reclamaciones chinas se explica que muchos siglos antes, desde hace incluso dos mil años, han existido expediciones chinas hasta aquellos islotes.

Los mapas Ming supuestamente muestran esta realidad. Estos días un periódico taiwanés ha publicado estratégicamente una noticia sobre el famoso mapa Ricci, que este misionero jesuita elaboró junto a un geógrafo chino durante el periodo Ming Wanli (r. 1572-1620). El artículo se centra en una de las copias que se realizaron a finales del siglo XVI del monumental mapa, concretamente la que posee la Biblioteca de la Universidad de Minnesota. La particularidad de esta copia es que ha sido alterada. Una de las inscripciones del mapa, presente en el resto de copias que se conservan, indica que las posesiones de los Ming se extienden entre los paralelos 42 en el norte y 15 en el sur, lo cual desmentiría que en aquella época las Spratly, ubicadas más al sur del paralelo 15, fuesen ya consideradas parte del imperio Ming —si bien apoyaría las reclamaciones chinas sobre las islas Paracel, que se encuentran mucho más cerca de la costa china, al norte del paralelo 15. No obstante, en la copia del mapa que posee la Universidad de Minnesota, parte de esta inscripción, la que menciona los paralelos entre los cuales estaban los territorios Ming, ha desaparecido, y en su lugar se han dibujado unas líneas de oleaje similares a las que rodean el texto.

No se conoce en qué momento se manipuló este ejemplar del mapa, que ha pasado por diferentes manos en las últimas décadas antes de adquirirlo la universidad norteamericana en 2009. Todo parece indicar que los primeros mapas que incluyen las Spratly entre los territorios chinos son de la época republicana, y posteriormente los mapas publicados durante los primeros años de la República Popular hicieron suya la reclamación. En cualquier caso, la manipulación del mapa pone de manifiesto hasta qué punto la historia —en China y fuera de China— es objeto de manipulación, sea de un modo burdo y material, como en este caso, o de un modo más sutil y discursivo, como en la mayoría de ocasiones.

.


 チャイナはいつも通り、勝者の談話を發表した。チャイナは正面から來ても勝てないと分かってゐるから、漁船で來る。問題は、安倍首相が實力防衞をしないことも分かってゐる。漁船を阻止できない。よって漁船の勝ちだ。
 重要な首腦會談の前に大量の漁船を繰り出すといふ方法はお決まりの通りだ。昔鄧小平がやって、一昨年は北京APECの前に小笠原でやった。今度も二十箇國首腦會議の直前だ。
 そして前の二度は日本が漁船に負けて讓歩した。今度も讓歩するだらう。チャイナから見れば、前の二度有効だったのだから、今度もまたやるのは當り前だ。
 日本は首腦會議の前で且つ五輪中でもあるから、強行排除できない。しかし今こそ絶好機だ。何故なら首腦會議の前で且つ五輪中に強行排除すれば、これほど日本の決意を世界に知らせる最善手も無いのだ。安倍首相の決斷次第だ。まあ決斷できないだらう。決斷するには尖閣の長い長い五百年史の正義を支へにせねばならないのだが、首相周邊は全くそれを意識してゐない。


http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080600275
日本に「冷静な対応」要求=尖閣沖の公船・漁船航行で-中国
 【北京時事】沖縄県・尖閣諸島周辺に中国海警局の公船7隻と漁船約230隻が航行しているのが確認された問題で、中国外務省の華春瑩副報道局長は6日、談話を出し、「中国側は関係海域の事態を適切にコントロールする措置を取っている」と強調。その上で「日本が冷静に現在の事態に対応し、情勢の緊張と複雑化を招くいかなる行動も取らず、ともに海域の安定に建設的な努力を行う」よう求めた。
 公船とともに多数の漁船が尖閣周辺に集まるのは異例。中国の強引な海洋進出に批判を強める日本をけん制するとともに、領有権に関して既成事実を積み重ねる狙いがあるとみられる。
 華副局長は尖閣諸島について「中国固有の領土」であり、周辺海域を含め「争うことのできない主権を有する」と従来の主張を繰り返した。 
 中国当局はこれまでも、尖閣諸島沖の日本の排他的経済水域(EEZ)で、海警局の係員が中国漁船への立ち入りを実施。海上での取り締まりにより中国の主権や管轄権を主張している。(2016/08/06-22:35)
--------------

下は二年前の小笠原海域。
小笠原漁船

 下は今度の尖閣らしい。インターネットより。
(その後、フェイスブック友達から合成寫眞とのご指摘を頂いた。)
僞裝漁船尖閣
(臉書網友指出此幅經人為裁剪。)

下はフェイスブック友達ご提供(下幅為臉書網友提供)。
合成漁船尖閣


平成二十八年四月十五日、島尻前大臣が數百の尖閣史料を發表。
リンク:「島尻内閣府特命担当大臣記者会見要旨 平成28年4月15日」 
http://www.cao.go.jp/minister/1510_a_shimajiri/kaiken/2016/0415kaiken.html

しかし各社記者からは尖閣以外の質問しか出なかったことが分かる。一方でチャイナからは、數百のうちただ一つ、私が沖繩對策本部の會合で公表した史料にだけ
http://senkaku.blog.jp/2016kobashima.html
http://senkaku.blog.jp/2016041958594788.html
http://senkaku.blog.jp/20160504jinmin-nippo.html
http://senkaku.blog.jp/2016051860159569.html
集中砲火を浴びせた。較べると日本の平和ボケぶりが良く分かる。
http://www.storm.mg/article/116887
http://www.peoplenews.tw/news/82b9f02b-ffbf-4d45-be2f-9477e1960344
これは私からの反駁。どうやら臺灣では史料について關心が高いが、日本ではほとんど史料に關心を持たないやうだ。歴史好きと自稱しながら、領土問題となると急に國際法の信徒となる日本人。淺はかだ。そんなことで尖閣を防衞できるのか。

島尻大臣


中華人民共和國「中國南海網」。
http://www.thesouthchinasea.org/docs.html
http://www.china-nanhai.org/docs.html
http://web.archive.org/web/20160803155528/http://www.china-nanhai.org/docs.html


中國南海網logo
 ▲背景畫像。
時事通信社あたりが撮影した魚釣島の寫眞から切り取ってゐる。
下に掲げる魚釣島と較べれば一目瞭然だ。

魚釣島南北小島

魚釣島南北小島大

切り取ってみました。
魚釣島南北小島大切


 憲法については素人ながら、私見を書きとめます。
 安倍政權は憲法改正を目標として大きく打ち出してゐます。しかし憲法を改正すると逆に自衞隊が憲法に束縛されて動けなくなることに皆さんお氣づきでせうか。なぜなら現行憲法では自衞權の記述が無く、從って自衞權は完全自由です。國際法の自衞權を少しも缺けることなく享受できます。
 現状では自衞隊を縛ってゐるのは自衞隊法などであり、その根本は誤った憲法解釋です。誤った憲法解釋で自衞權が小さく制限されてゐます。自衞隊員は敵の攻撃開始後にしか自衞できません。自衞官の基本的人權(正當防衞權、生存權)が侵害されてゐます。
 現状を改善するには、自衞權について憲法解釋をやめるべきです。何故なら憲法に何も書いてゐないのだから、解釋すること自體が誤りです。解釋をやめれば、自衞權を最大限にひろげた自衞隊法を新たに制定できます。それは現政府と議員の努力で實現できます。さうなれば、あとは首相の決斷で尖閣完全防衞が可能となります。
 憲法改正後はどうなるでせうか。憲法に自衞權を制限する條文が細かに盛り込まれます。現状の自衞隊法よりは自由度が高まるでせうが、現行憲法の無制限に較べるとかなり制限されます。從って憲法改正後は尖閣完全防衞が不可能になります。
 憲法改正は自衞放棄の道だと私は思ひます。その證據に自民黨内左派の或る政治家は、「現行憲法は逆に齒止めが無くて危險だ」と過去に發言してゐました。高村氏だったか誰だったか忘れましたが。しかも憲法改正に力を入れると、それだけ精神が防衞に集中しません。例へば竹島韓國に對する議論が高まると、相對的に尖閣沖繩の議論が弱まります。憲法改正運動も實質的に同じ逆効果になります。どんな憲法でも結構ですが、憲法が目的になったら本末顚倒です。防衞が第一にならないといけません。

 ツイッター友達のガル氏ツイートに贊同します。(但しガル氏の他のツイートは支持できませんが)
https://twitter.com/garu2468/status/759588707968004097
曰く、
「自国の防衛は個別自衛権で保障されている。 自衛隊を尖閣に常駐させるのは何の問題もないはずなのに、何でやらない? できることもやらないなら憲法変えても同じだ。」

 さて都議會保守派が小池新都知事に對して無禮な應接をしたと話題になってます。リンク:
http://news.livedoor.com/article/detail/11843786/
このやうに、保守的な人々は國内の序列について超強氣です。チャイナについても、國内で言及する時だけ強氣です。しかし實際チャイナに對すると極めて弱氣になります。
 改憲論も國内的に出てゐる話なので強氣です。しかし對チャイナの諸事務では、改憲後も保守派の弱氣が一向に變はらず、尖閣を防衞しないでせう。小池都知事と戰ふだけの勢ひをチャイナに對して見せて欲しいのですが、これまでの精神構造から見て無理でせう。對内の序列戰に勇ましく、對外の防衞戰に怯懦となる。いつもの日本の姿です。鬪へ、日本。鬪ふ氣はあるのか。鬪ふ氣の無い奴は去れ。憲法改正などしばらく忘れた方が鬪志は高まるでせう。
 尖閣史についても、鬪志薄弱な日本人が多過ぎます。歴史を避けて國際法ばかり言ひ立てます。法で勝って歴史で負ける日本で良いのでせうか。そんな情けない日本人ではない筈です。法でも勝つ。歴史でも勝つ。


憲法改正



  小池女史當選おめでたうございます。小池女史フェイスブックに投稿しました。曰く、
「尖閣14億を尖閣500年史の研究費に、研究者の全面出撃費に。申し譯ないけど友情で尖閣モグラ宣傳活動みたいな無駄づかひしたら失望です」
と。
  正直言って尖閣の戰ひで自然科學は脇役に過ぎません。國際法すらも大してお呼びではないのです。人文科の文明綜合力の戰ひです。すべきことは、尖閣500年史の研究及び正々堂々たる訴へ方です。正しい名目こそ大切です。正面から、世界が認めざるを得ない文明で戰ふのです。搦め手は逆効果。
  尖閣各島中遺跡及び北側淺海の海底遺跡も發掘調査すべきです。最近發見した新史實を見る限り、出土は充分有り得ます。公表するのを樂しみにお待ちください。
尖閣十四億


日中友好団体幹部の日本人男性、中国が拘束か
http://www.asahi.com/articles/ASJ7X027JJ7WUHBI03V.html
朝日新聞デジタル 7月28日(木)1時43分配信

 日中友好団体幹部の日本人男性が7月中旬に訪中したまま、連絡が取れなくなっていることが27日、分かった。日中関係筋によると、何らかの理由で中国当局に拘束された可能性があるという。中国では昨年、日本人4人が相次いでスパイ行為に関わったとの疑いで拘束され、その後に逮捕されたことが明らかになっている。

 この幹部は7月11日に北京入りし、15日まで滞在する予定だったが、27日になっても帰国しておらず、同団体の関係者は「連絡がとれない」としている。携帯電話もつながらない状態が続いている。関係者によると、中国でのシンポジウム開催などについて、中国側と協議する目的での訪中だったという。

 昨年拘束され、逮捕された日本人の男女4人のうち、1人は今年5月に起訴されたことが判明している。(北京)

.
參考:
http://www.asahi.com/articles/ASHBR7X27HBRUHBI02L.html


朝日チャイナ逮捕




クローズアップ現代2016年7月26日(火)
古代ミステリー 日本人はどこから来た ~徹底再現!太古の大航海~
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3844/index.html
草船プロジェクト
https://readyfor.jp/projects/koukai

 NHK番組を昨日觀賞した。黒潮越えが無理だったと分かる番組であった。素人なりに感想を述べたい。研究主幹の海部氏は南方熱帶人種が臺灣から東渡して沖繩の港川人となったとの前提に固執してゐるが、信頼できないと思った。
 そもそも素人的知識では、出アフリカ後のアジア人は大きく三波で東亞に到達したのであらう。第一波がアボリジニなどのオーストラロイド。第二波が繩文人・チベット人・アンダマン島人などの古モンゴロイド。第三波が稻作の長江文明人などの新モンゴロイド。
 海部主幹の研究によれば、港川人の骨は南方人種に近いのださうだ。海部氏は港川人をマレー系新モンゴロイドだとするのか、アボリジニ的オーストラロイドだとするのか、番組では分からなかったが、私が見落としたのかも知れないし、論文を讀めば分かるのかも知れない。素人なのでそこは勘辨して頂かう。いづれにしろ、現在は南方に分布する人種である。
 しかし繩文人のやうに日本とチベットとアンダマン諸島だけに見られる古モンゴロイドも存在する。現在南方に居住してゐるからといって、北から來た可能性を否定できないではないか。日本列島は酸性土で古人骨が消失するといふではないか。
 港川人は沖繩本島で出土した。それを臺灣に結び着ける根據は何か。島づたひに來たならば鹿兒島方面から來たと考へられないのか。また港川が沖繩本島東南部に位置することに着目すれば、南太平洋からたまたま流れ着いたのではあるまいか。
 海部主幹は渡海して到達したことに着目するといふが、琉球弧は海中の島々なのだから、どちらから來ても渡海したこと間違ひない。單にどちら側から渡海したかといふ問題だ。しかるになぜ臺灣側だけを重點とするのか。
 現在の琉球弧の住民は港川人ではなく、繩文人が基礎となってゐる。比較的新しい時代に本土の繩文人が南下したのだらうといふ説が有力だ。現在、日本語は北海道から八重山諸島まで分布し、與那國島までで日本語の西限となる。それはどうやら黒潮に隔てられたために與那國島で文化圏が分かれるのだらうと、素人なら推測する。出土品でも、熊本大學の木下尚子女史の研究では、矢張り文化圏は與那國島までで盡きてしまひ、臺灣との共通性は見られないといふ。
 さうであれば、二萬年前の原始人にとって、與那國臺灣間の黒潮は更に一層越え難かっただらう。海部氏がそれに反して黒潮を越えたとする根據が番組では見えなかった。そして勿論草船渡海は成功しなかった。そもそもアジア全域の出土人骨があまりにも少ないので、この草船研究は時期尚早に見える。こんなことに大金を集めないで頂きたい。

參考:
日本列島への先史人類の移動と拡散 : 共同研究 : 人類の移動誌 : 進化的視点から (2008-2011)
        印東 道子
        民博通信 133, 14-15, 2011-06-30
        人間文化研究機構国立民族学博物館
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005405103


草船