- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 


 今、上皇を「先帝」と呼ぶ人が結構ゐるのですが、前帝と呼んで下さい。先帝と呼ばないで下さい。先帝は崩御後の呼び方です。

 諸葛孔明「出師の表」曰く「先帝創業未だ半ばならずして中道に崩殂す」。
http://kanbunjuku.com/archives/591

「古事類苑」帝王部・讓位(上)に曰く、
「前帝、皇位を讓り給ふを讓位と云ひ、新帝これを受け給ふを受禪と云ふ。
http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0455.pdf

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追記。
ところが上の説明だけでは納得してくれない人がゐる。
しかし「先」はずっと前。「前」は限定なく、直前までの前。
先祖、先人、先父、などは死後の稱。
前妻は生きてゐる離縁した妻。
先妻は死別した妻(但し俗用として離別をも含む)。
先年はずっと前。前年は少し前。
前人未蹈の記録は、直前まで含め誰も記録してなかったこと。
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三記。
先帝といふ呼び方に違和感を覺えて下さい。
普通は諸葛孔明の「先帝」ですよ、で話が終るのですが、
それでも納得しない人もゐます。
これは皇室特殊語彙でなく一般的漢字用法です。
先と前とは同訓「さき」なので混用しがちです。
天皇を帝と呼ぶのは漢文式であって、俗用に馴染みません。
混用の好例が「古」と「舊」(俗字旧)です。
舊式は一時代前のふるくさいもの。
古式ゆかしいのは平安朝などの古典的なもの。
復舊は數日前の状態に戻すこと。
復古は古代の理想に戻すこと。
守舊は頑迷、尚古は古へをたっとぶ。
以上で納得してもらへるでせうか。
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四記。
先帝といふ語を古事類苑データベースに入れると、
讓位した天皇の生前にも先帝といふ語は出て來ました。
つまり和習の語といふことですね。
そして「前帝」で檢索すると、
即位讓位關聯ばかり出て來ました。
しかも明治の編纂者の案語及び條目が主です。
編纂者はほぼ漢學者ですから正式の語を使ひます。
つまり正式に即位讓位關聯では「前帝」と呼ぶが、
雜多に何でも(物語まで)入れてある『古事類苑』の
所引古書では、俗用の「先帝」が多數索中するといふ
ことでせう。陛下は讓位の故實を研究なさった筈で、
『古事類苑』の正式な「前帝」で呼ばれるのが
當然とお考へでせう。
「先帝」はいかに俗用でも私は使ひたくないし
聞きたくない。縁起が惡いし、漢學者ですから。
古事類苑前帝檢索結果


白河法皇


 鳥取の青谷上寺地遺跡は、純粹彌生人ミトコンドリア(母系)の骸骨ばかり出土する特殊性で知られる。ところがその青谷の骸骨の核DNAのY染色體男系遺傳子は繩文が多いといふ可能性が報じられてゐる。篠田謙一教授。まだ研究が始まったばかりだ。もしこの方向性が濃厚になると、一萬五千年の繩文文明を守るのが男系だといふ話になる。
 皇室も、歴史的に見てほぼ全面的彌生人だと考へられるが、實は皇室のY染色體は繩文人なのかも知れぬ、といふ話になる。科學は日進月歩、一時の淺智慧で皇室を女系(=別系。例として藤原朝)に入れ替へてはならぬ、といふ噂が本當になるかも知れない。

平成31年3月3日、毎日新聞。
「弥生人、母系は渡来系、父系は縄文系か DNA分析で判明」
 国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告会が2日、同市のとりぎん文化会館であった。国立科学博物館の篠田謙一副館長が、まだ途中段階で不確かだと断った上で「(人骨の)父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」に多くが位置付けられると説明した。父系の遺伝情報が分かる「核ゲノム」分析の成果。全国初となる弥生時代の人骨の本格的なDNA分析だけに、約430人が興味深そうに耳を傾けた。昨年11月の初回の報告会では、母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」の分析により、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”が多いとされていた。
 当時の青谷地域では多様な遺伝グループが存在したと考えられ、日本人の起源の分析につながる可能性もあるという。今後はDNA分析を進めて各個体の特徴を調べる方針。【園部仁史】

 平成31年4月5日、産經。
「核DNAは30億からなるため解析には時間がかかり、解析結果が公表されたのは今年3月だった。サンプルとして選んだ6人分の人骨について核DNAを解析し、4人からY染色体の塩基配列データが得られた。そのハプログループは大半の3人が縄文系だった。ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが大多数だったのに対し、核DNAのY染色体の解析から父系は縄文系が多いという結果に。」


山陰中央新報。平成31年3月4日。
新たに父系の核DNAの分析結果について説明。父系も渡来系に偏ると想定して4個体のY染色体を分析したところ、3個体が縄文系で、渡来系は1個体だったとした。篠田副館長は「大陸系に偏ると思っていたが、そう単純なことではなかった」と述べた。


讀賣新聞。
<青谷上寺地遺跡>人骨の一部 渡来×縄文系  弥生後期 国立科学博など解析
2019/03/03 05:00
 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した弥生時代後期の人骨の一部は、母親が大陸にルーツを持つ渡来系、父親が日本在来の縄文系だったことが分かった。2種類のデオキシリボ核酸(DNA)を解析した国立科学博物館や県埋蔵文化財センターなどが2日、同市尚徳町のとりぎん文化会館でのシンポジウムで発表した。当時は大陸との間で人の交流が盛んだったことを示すという。
 DNAは、細胞の核にある染色体と、細胞質内のミトコンドリアにそれぞれ含まれており、中でも男性が持つ「Y染色体」は父親から、ミトコンドリアは母親から受け継がれる性質がある。同博物館の篠田謙一副館長らは昨年、遺跡で見つかった32人分の骨からミトコンドリアDNAを抽出。配列を調べ、31人が渡来系、1人が縄文系であることを突き止めた。
 今年はさらに、渡来系31人のうち、保存状態の良い6人についてY染色体のDNAを解析した。その結果、Y染色体が抽出できた4人中、3人は縄文系で、渡来系は1人だった。
 3人の母親は大陸から日本に渡ってから日本の男性と結婚したか、大陸で日本の男性と結婚後に渡来した可能性があるという。今後は分析する個体数を増やすなどしてルーツを詳細に調べる計画で、篠田副館長は「人口の増減や混血の状況、個体の特徴などを明らかにしたい」としている。
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20190302-OYTNT50109/


 鳥取縣による公式發表。平成31年3月2日の篠田教授らの講演を、3月15日に掲載したもの。「報告事項セ」。曰く、「男性4体のY染色体DNAが得られた。父系については3体が縄文系、1体は渡来系。」
https://www.pref.tottori.lg.jp/282754.htm

 事前預告と當日寫眞と散らしはこちら。
 第3回とっとり弥生の王国シンポジウム「倭人の真実 DNA・年代・環境 先端研究からのアプローチ」
1 テーマ 「倭人の真実 DNA・年代・環境 先端研究からのアプローチ」
2 主催   鳥取県埋蔵文化財センター
3 日時   平成31年3月2日(土)午後0時50分~午後4時30分
4 会場   とりぎん文化会館小ホール(鳥取市尚徳町101番地5)
5 内容
(1)記念講演1「DNAが語る青谷の弥生人」
 篠田謙一(国立科学博物館副館長・人類研究部長)
篠田謙一鳥取縣散らし青谷上寺地繩文1
篠田謙一鳥取縣散らし青谷上寺地繩文2
篠田謙一鳥取縣講演310302青谷上寺地繩文1
篠田謙一毎日新聞青谷上寺地繩文

男系の皇統と尖閣古史 西村幸祐『日本人に「憲法」は要らない』

 平成31年3月3日、NHKニュース。1:00から繩文。但し繩文が男系だといふ點を報じてゐない。肝心な處を報導しない自由といふわけだ。


 NHKサイエンスゼロ「弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(後半)」
 平成30年末の放送。7分から、繩文遺傳子。この番組ではまだ繩文が男系だとは言ってゐない。

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 つまり、彌生人だらけの青谷上寺地遺跡ですら、男系(の男女)は繩文だった。女が自力で渡來するとは考へにくいから、慣習として日本に運ばれて嫁入りして來たといふことになるだらうか。だとすると前提として、お嫁さんの供給元、即ち日本の覇權下、任那日本府のやうな場所が想定される。
 或は渡來する前から男女を問はず繩文Y染色體を持ってゐたとすれば、矢張り任那日本府附近から渡來したといふことになる。そして青谷のミトコンドリア彌生遺傳子はアジア各地から青谷に渡來したのではなく、任那で娶ったお嫁さんが既に新モンゴロイドの多元的混血だったといふことになる。
 なほ、古モンゴロイドが東ユーラシア全域を覆ってゐた時代の遺骨が青谷遺骨だといふ可能性は無い。それは時代を遡りすぎる。
 要するに、日本全體も青谷のやうに、男系によって繩文文明が守られて來たといふ可能性が出て來る。一見彌生顔だからとて、侮れない。皇室が天孫降臨の彌生系なら、わづか2600年あまりに過ぎない。皇室が出雲蝦夷熊襲を含む繩文系なら15,000年。全く異なる日本像、異なる國柄、異なる國體、異なるくにのかたち、となる。


關聯ブログ


縄文人と弥生人
縄文系のDNAは都市部では全体の約25%程度を占める。しかし本州や四国の山間部では5割を占めている。弥生人に追われて山に逃げた縄文人という説に合致する。
日本人の男性は1万4千年以上前から日本列島に住んでいた縄文人と、縄文時代後期及び弥生時代に江南地方(揚子江沿岸)から移住してきた弥生人にルーツを持っている。両者のDNA比率はほぼ半々で、弥生系がやや多い。
Y 染色体はほとんど組換えを起こさず、父親から息子にそのまま伝わるため,男性の系譜の研究に役立てる事ができる。日本人のY 染色体は主として縄文系と弥生系からできており、この2 集団のY 染色体の違いは黒人と白人の差くらいに大きい。
日本人のY染色体は、旧石器時代から縄文時代に流入してきたC系統(4%)とD系統(40%)、縄文後期から弥生時代以降に流入してきたO系統(O1a 3%、O2a 1%、O2b 36%、O3 14%)とその他で構成されている。
C系統は南洋方面とシベリア方面、D系統は日本とチベットに分布し縄文人の主系統、O系統はO1aが長江中流域(楚)、 O2a(越)とO2b(呉)が長江下流域、O3が黄河流域(漢)やアジア各方面、その他が2%ほどを占めている。弥生期に流入したものはO2bが多い。O2bは江南から大勢が逃亡し、九州北部と朝鮮南部に定着した。
東北アジア系騎馬民族(C3c)は日本列島には入ってきていませんので、DNAで判断する限り江上波夫先生の騎馬民族列島征服説は成り立たちません。
また地方別に見ますと吉備(中国地方)に特徴があります。D系統(縄文系)が19%と低く、その分O1a(楚系)が19%と非常に高く、O3(漢系)も31%と非常に高くなっています。O2b(呉系)は平均より少し低くて31%です。これは縄文時代に江南人などが有明海と吉備に大勢やってきて住みついたという説の証明になると私は考えています。有明海周辺のDNAについては目下調査中ですが、吉備と似た結果が分かれば面白いと思います。有明海や瀬戸内の吉備の自然環境が揚子江(長江)と良く似ていたから定着したのでしょうか。
縄文時代と違って弥生時代の江南人が列島へ移住してきた原因は、戦国時代における戦争の結果でしょう。紀元前473年に呉王夫差は越王勾践に破れ、呉が滅亡します。呉人は北方にある山東半島の南(徐州)方面に逃れます。
越は紀元前334年に楚に滅ぼされます。越人は南方のベトナムや台湾方面に逃げるものと、北方の徐州方面に逃げるものに分かれます。越人に押された呉人は九州北部と朝鮮半島南部に逃れます。
楚は紀元前223年に秦によって滅ぼされます。秦の支配は厳しく、税や労役に耐えられなくなった越人は朝鮮半島西部に逃れます。楚人や漢人までもが朝鮮半島に逃れ、東部に住みつきます。その越人、楚人、漢人たちもやがて列島にも移住してきます。長江流域の楚人、呉人、越人は人種的には同類で黄河流域の漢人とは異なります。文化的にも大きく異なり、移動手段も南船北馬です。
全国制覇した秦も内紛と内乱で紀元前206年に滅亡。その後、楚漢戦争(そかんせんそう)が紀元前206年から紀元前202年の約5年間にわたり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で全面戦争となりました。またしても楚の敗北となり、前漢が成立。この時も楚人の一部が列島に逃れてきた事でしょう。
 このように江南人の列島への渡来は数百年かけて波状的にやってきました。列島内では、それぞれが争いにならないように住み分けていったと考えられます。列島の次に逃れていくところがないという環境の中で、争いは極力避けられたのでしょう。大陸での戦国時代に比べると、かなり戦いは減ったことでしょう。
 列島全体として縄文人も弥生人を受け入れ共生しましたが、縄文人の一部は殺されたり山間地方に逃亡したと考えられます。言葉は縄文語を基本として弥生語の単語も取り入れて大和言葉(日本語)となったのでしょう。
……
 土井ヶ浜遺跡は山口県下関市の響灘に面する西海岸沿いにある弥生時代の埋葬跡です。約2,100年前ごろからこの付近に移住してきた弥生人たちはこの丘陵地を墓地とするようになりました。そこから保存良好な弥生人骨が300体以上も装身具や土器を伴って出土しました。土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム館長で形質人類学者・医学博士の松下孝幸氏は「日本人と弥生人」の著書で次のように記述しています。
 土井ヶ浜弥生人の出土する人骨は、男性も女性も顔が細長く、鼻根部が扁平で、身長が高い。縄文人とは異なる容貌をしている。
 つまり渡来系の特徴であって、縄文の女性と混血した可能性は低い。これは吉野ヶ里でも認められる。従って彼等は男だけでやって来たのではなく、家族と一緒に列島に来て住み着いたと考えられるのです。
 長崎大学の「土井ヶ浜遺跡より発掘された弥生時代人骨のミトコンドリアDNA超多変領域の解析」によりますと「土井ヶ浜弥生人は2,500年前の中国山東省の古集団に類似した結果を示した。北部九州弥生人が現代日本人の集団形成に多くの遺伝的寄与をしていたのに対して、土井ヶ浜弥生人はそれほど多くの寄与をしなかった可能性が示唆され、明瞭な地域差の存在が明らかになった。」と報告されています。土井ヶ浜人は他の部族と交わらない閉鎖社会をつくっていたのでしょうか。


渡来人と縄文人の末裔、「共存」して弥生時代へ
      16/03/28 朝日新聞GLOBE  
 頭を東、足を西に横たえられた無数の人骨は、頭を少し上げ、大陸に続く海を見るかのように葬られていた。
 山口県下関市。響灘ぞいの丘陵地にある弥生時代の土井ケ浜遺跡は、中国大陸や朝鮮半島からきた渡来系弥生人の骨が300体以上も出た埋葬地跡だ。発掘現場はドームで覆われ、レプリカの人骨で出土当時の状態が再現されている。
 「中国大陸の戦国時代、戦乱を避けて逃げのびてきた人々だったのでは」。土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長の松下孝幸は、そうみている。
 土井ケ浜の人骨は背が高く、顔は面長で鼻が低く、のっぺりしていた。小柄で、顔の幅は広く、みけんの下がくぼんでいる縄文人とは明らかに違う。大陸からきた弥生人が縄文時代からいた人々と混血し、いまの日本人を形づくったとする説を裏付ける有力な根拠となった。ただ、松下は1982年の調査で、奇妙な頭骸骨(ずがいこつ)を取り上げた時のことをいまも覚えている。
「えっ、こんなのが出ていいのか」と声を上げた。
 300を超える骨の中で1体だけ、縄文人そっくりの顔のつくりをしていたからだ。「701号」と名付けられたその人骨は、渡来系弥生人の人骨と寄り添うように埋葬されており、松下は「共同体の一員とみなされていたようだ」と話す。
 長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。「701号」は、その仲間だったかもしれないという。
 松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホウラが使われていた点だ。この貝は琉球列島のサンゴ礁域で生息する。土井ケ浜の人々がゴホウラを求めて九州の西海岸を南下したとすれば、西北九州型の弥生人が水先案内人を務めた可能性がある。土井ケ浜にいた「701号」もその一人だったのではないか、と松下は推測する。弥生時代の地域交流を示唆する仮説だ。
  一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。
  九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。中橋は「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。
  国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東アジアでは少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。もし渡来系弥生人が縄文人を一方的に征服したのなら、縄文人由来のY染色体DNAは極端に減っていてもおかしくない。南米では、先住民を欧州系が征服した結果、欧州系のY染色体DNAが急増したという。
  縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。



一方、オウムの中澤新一氏がトンデモなことを書いてゐるらしい。
中沢新一「アースダイバー:二十一世紀の森の天皇」
女性天皇の誕生をもって、明治天皇にはじまる近代天皇制は、終わりをむかえる。そのとき北方ツングース的な男系原理にかわって、南方的・縄文的な双系原理が皇室の中によみがえり、文明開化や八紘一宇や経済大国などをみずから否定してのりこえていく、新しい『森の天皇』の生き方を象徴するものとなる。 



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律令には皇位繼承(皇太子)の規定が無い。そこで末端的條文から、あらぬ臆測が産まれた。養老令の繼嗣令に曰く、
「 凡皇兄弟・皇子、皆為親王、女帝子亦同。以外並為諸王。自親王五世、雖得王名、不在皇親之限。」
(凡そ皇兄弟・皇子は皆な親王となす。女帝の子も亦た同じ。以外は並びに諸王となす。親王より五世なれば、王名を得といへども、皇親の限に在らず。)
 (「令集解」卷十七所收逸文、國會藏、清原秀賢慶長寫本)
令集解卷17繼嗣令_清原秀賢寫本國會藏

と。これは親王を規定した條文である。皇位(皇太子及び繼承順位)について規定してゐない。しかし「親王は皇位を繼承する可能性があるから、この條文にもとづき女帝の子(女系男子)も皇位を繼承して良い」と曲解する人がゐる。
 しかし根本問題として、律令に皇位繼承を規定しないのは何故か。答へは二者擇一。
甲、瑣末事だから規定しない。
乙、あまりにも重大だから臣下の撰する律令では規定しない。
 勿論、正解は乙である。されば、律令の規定しない皇位について、親王規定の末尾に附記することは有り得ない。規定するなら堂々と親王規定の前に皇位繼承をかかげるに決まってゐる。それどころか明治憲法のやうに、律令開卷第一に天皇とは何か、規定するだらう。
 この「女帝の子」は皇位規定に附記されてゐるのでなく、親王規定に附記されてゐる。勿論、親王位がそのまま皇位繼承(皇太子)と完全同一だと規定したわけでもない。だから全卷劈頭でなく、中ほどに目立たず繼嗣令がある。「女帝子」三字は女系天皇を規定するのではない。律令は皇位・皇太子位を規定しない。
 なほ、女帝子を皇女・帝女と解するのは通じにくい。皇女もしくは帝女と書けば良いだけのことだ。明らかに「女帝之子」である。この時代は女帝が多かったためにこの規定が出來たのださうだ。

 さらにウィキペディアで勉強すると、上記「繼嗣令」末尾に曰く、 
「凡王娶親王、臣娶五世王者聽。唯五世王不得娶親王。」
(凡そ王の親王を娶り、臣の五世王を娶るはゆるす。ただ五世王は親王を娶るを得ず。)

 まづ、五世代離れたら皇籍を與へられず臣籍となる。そして親王を娶る(内親王を娶る)ことは四世代までの王(皇族)にだけゆるされ、臣籍の者は内親王を娶ることができない。つまり内親王は皇族としか結婚できない。よって内親王が即位して女帝となっても、その子は皇族男子の子なので、男系となる。
 なんだ、明白ではないか。愚かな私であった。これが明治になって「男系男子」條になったといふわけだ。男子のみならず、わざわざ男系と規定してゐる。

ウィキペディア「降嫁」。
曰く、内親王の結婚相手は律令の「継嗣令」では天皇もしくは四世以上の皇親に限るとされ、古代には非皇族との結婚はなかった。……幕末には和宮が将軍徳川家茂に嫁し、唯一武家への降嫁の例となった。……現代は皇室典範により、非皇族との結婚に際しては皇籍離脱が定められ、昭和天皇以降の内親王・女王は婚姻による皇籍離脱となっている。

 皇室典範では内親王が臣民に降嫁したら皇籍を離脱する。女性宮家とならない。古代律令の降嫁の禁を、近代皇室典範が變則的に復古したと言へる。たかが教授會で教授昇任規定ごときを變更するのとはわけが違ふ。普通の臣民でも、親族の繼承といふ重大事を、法律改正で簡單に變へられては困るし、まして皇室である。當り前なのであった。
令集解卷17繼嗣令2切_清原秀賢慶長寫本國會藏

 女系天皇と簡單に呼ぶが、要するに藤原の鎌足の血統が天皇になるといへば分かり易い。關白藤原氏が皇女を娶って皇位に就くといふことだ。それが容認されるなら平安時代に容認されてゐただらう。Y染色體がどうとかいふ淺智慧ではなく、ただ男系を續けて來た。藤原天皇を許容しなかった。それ以上でも以下でもない。この大きな歴史の前で、Y染色體論の怪しさは國民に支持されず、役立たないどころか邪魔になる。


參考:
「律令法における皇位継承--女帝規定の解釈をめぐって」
        宮部 香織     明治聖徳記念学会紀要 (46), 121-142, 2009-11
https://ci.nii.ac.jp/naid/40016924445
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f46-8.pdf
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/search.htm
 上は古來の諸説を極めて良く整理した論文。


無名氏「多摩遊覧Ⅱ」ブログ。ほぼ曰く、
「そもそも臣(皇族以外)男性が皇族女性と結婚することは条文のとおり禁じられており、女帝になる即位資格は内親王・女王しかもっていないので、女帝の子は皇族と決まっているのである。」


「皇位継承の在り方に関する管見 」 所功
「産大法学」39    2005-07   京都産業大学法学会
 これは「女帝子」を以て「女帝」容認としつつ、注8で「女系」を否定してゐる。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7gijisidai.html
 平成17年、小泉内閣の皇室典範會議にもこの論文がほぼそのまま提示された。所功氏は女系容認論なのだが、それは現状打開のために提示した議論に過ぎず、歴史的根據が無いことを自ら認めてゐる。


所功「皇位の男系継承史と女系容認論の検証」(『歴史読本』平成十七年五月号)
 ざっと見ただけだが、舊宮家復籍の是非を中心とする議論。歴史的に女系が容認されなかったことを所功氏も基本としてゐる。


 所功氏に反對するブログ。「川西正彦の公共政策研究」


「日本古代の家族・親族―中国との比較を中心として―」
成清弘和著 2001年4月刊    第5章「女性の社会的地位」
上記所功論文の注8によれば、この書は律令の「女帝子」條にもとづき
「帝は男帝と何ら変わるところのないものとして日本律令に規定されていた」
としてゐるとのこと。所功氏は成清弘和氏の誤りを證してゐる。
 今度念のため讀んでみよう。

 さてついでながら、側室が無いと男系男子が産まれないとの説が多い。それは近代以前ではその通り。現代では側室制度が廢せられた。ならば現代には現代科學がある。現代の方法を取るか、近代以前の方法を取るか。現代を取るならば科學。近代以前を取るならば側室。どちらも駄目では困る。どちらかにしないといけない。所謂不妊治療といふのは、三十歳を過ぎてから施療する場合が多いため、困難が多いことは世上で傳へられてゐる。若ければ人工授精は容易なのか。
 私は門外漢なのでそこは分からない。

參考:秋篠宮家を誹謗するなかれ。

男系の皇統と尖閣古史 『日本人に「憲法」は要らない』

五月四日追記。
 男系に女系を繼ぐことは、言はば平安時代から藤原朝になるやうなもので、文化的に皇統の意義を成しません。皇統が絶えるならば、皇統無き日本文明とは何か、それについて鄙見はどこかで詳しく書きたいと思ってますが、とりあへず、近世といふ區分は歐洲にも有りますから内藤湖南が勘違ひしただけです。封建制が早く消滅したのはフランスなどの先進國だけであって、イタリアドイツの封建制は明治維新前後までのこりました。しかも德川の鎖國禁教刀狩(琉球まで含め)はかなり中央集權にも近いもので、だからこそ廢藩置縣が滯りなく進んだわけです(琉球を含む)。明治維新で突然封建制から脱皮できるわけありませんよ。不埒な皇族といふのは昔からあったことで、大した問題ではありませんから、皇籍復歸は可能で、禁中公家諸法度で皇室を制禦したと同じ事は國民主權の現代でも可能です。つまり江戸時代と現代に共通性があります。徳川慶喜は諸侯共和制を意圖したので、共和制の下地は日本にもありました。
 明治維新以後の天皇は、祭祀の古俗のみならず近代國家統合へ象徴となって國民運動で崇拜されたわけですから、その國家神道150年の歴史を無視するのはまあ無理筋でせうね。
 素直な歴史觀では、彌生古墳時代ごろに日本の國家的統合を創始した皇室の功績は素晴らしい。しかし素直に歴史を解さず、歐洲の圖式と較べて遲れてゐるかのやうに言ってみたり色々と、要するに日本をけなしたがる文化人、心の底には凄まじい西洋崇拜が横たはってゐて、世界史を平明な眼で見ることができないのです。素直に見た時、歐洲各王朝の血統が次々に入れ替るさまは、戰國下克上のやうに怖ろしい。そこを統合的に乘り切った日本の素晴らしさを素直に感じることのできない人は、何なのだらうか。そして日本の統合性は同時に競爭の弱さを伴なふのも確かです。日本の統合性は何に由來するのか、島國、皇室、いや、、、あとは別の機會に。


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皇太子國務代行毎日新聞

新天皇陛下「国民と共に」思い継承 50カ国で親善深め 新たな公務模索
毎日新聞2019年5月1日 00時01分(最終更新 5月1日 01時07分)

 水問題への取り組みの原点は1987年のネパール訪問だった。ほんのわずかな水を求めて女性や子どもたちが集まる光景が忘れられないことを自らの講演で言及してきた。水と人の活動の関係を示す用水や防災施設などへの訪問を国内外で重ね、専門家が集う国際会議に参加してきた。
 03年に京都市であった「世界水フォーラム」で初めて講演し、07~15年には国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁を務めた。皇族として初めて米ニューヨークの国連本部で水をテーマとした講演もした。
 水問題を通じて人間のあり方に考えを巡らせる活動は世界に知られる。国連大学のデイビッド・マローン学長は今年3月、東京都内であったシンポジウムで「国際的な水の取り組みについて研究され、人々の注意を喚起することに尽力されている」とたたえた。

謹賀改元。令和改元ならびにご即位おめでたうございます。水重視、心強く感じます。北海道水資源保全條例
 の趣旨をよくご理解のことと伺はれます。そして淡水だけでなく海水も大切にされてゐる筈です。日本は海水とりまく島嶼國です。勿論、尖閣です。上皇陛下は平成三十年、日本最西端の與那國を去り際、與那國町長に「與那國を守って頂戴ね」と仰せられました。 
http://senkaku.blog.jp/2019042879700249.html

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https://www.youtube.com/watch?v=sqEcE49H8RI
 人民大會堂で「臺灣は古來チャイナだ」とするデマ碑文、永山英樹氏の遠隔取材に私も少々協力させて頂きました



 12分半から永山氏「古代の夷洲は臺灣だといふ説が有力」と言ってますが、有力とは言へないと思ひます。一例として分かり易いのが慕容理深ブログ「疑雲重重的夷洲」

 17分半から、16世紀東アジアの爭覇に日本も介入したのは、後期倭寇及び豐臣秀吉を指してゐます。つづいて葡萄牙人が臺灣を澳門の附屬地と主張したのは私も初耳です。基本的にポルトガル人の地圖では臺灣の地理的位置、島數、大きさ等まったく不明瞭で、そもそもポルトガル人はどこが臺灣なのか分かってゐない。
永山英樹チャンネル櫻人民大會堂臺灣屏風

 この屏風の原文は昭和46年、臺灣の行方が注目されてゐた時に公布されました。慌てて倉卒の間に成ったであらうことが見て取られます。
。人民日報、昭和46年10月23日第四面に掲載。
「台灣自古以來就是中國的神聖領土」
 台灣是我國東南沿海最大的島嶼。還在很古的時候,台灣與祖國大陸就有著文化上經濟上的密切關係。早在公元二三○年,三國時孫呉派將軍衞温、諸葛直,率甲士萬餘人,航海到
“夷洲”。“夷洲”就是現在中國的台灣省。澎湖在十二世紀南宋時已隸屬福建晉江縣,成為中國行政區的一部分。十三世紀中葉,當時的元朝政府在澎湖設立巡檢司,管轄台灣等島嶼,隸屬於泉州路的同安縣。從此,台灣正式列入中國版圖。明代以來,台灣、澎湖已是我國的海防要地。直到十六世紀,西方殖民主義者開始了在東方海上的角逐,日本也插足其間。還在一五五七年,葡萄牙竊據了我國的澳門作為根據地,其後即宣布台灣為澳門的附屬地,企圖侵占台灣。十七世紀,海上霸權轉到荷蘭、英國殖民者手裏,葡萄牙侵略台灣的野心沒有得逞。一六二四年和一六二六年,歐洲的殖民國家荷蘭和西班牙分別侵占我台灣省的台南和基隆,並以上述兩地為中心,擴大侵略活動,使中國領土台灣第一次被劫奪。此後,這兩個侵略者,在台灣北部展開了激烈的爭奪戰。一六四二年,西班牙人戰敗,退出了台灣。明朝末期,民族英雄鄭成功於一六六一年率領大軍進入台灣,在當地人民的密切配合下,很快趕走了荷蘭侵略者,收復了台灣。一六八四年清朝政府設台灣府,隸屬福建省的台灣廈門道。一八八五年,台灣正式建省,成為當時我國的一個行省。一千多年來,主要是祖國沿海的福建省、廣東省的移民,同台灣省高山族兄弟人民共同對台灣省進行了開發。現在,絶大多數台灣同胞講的語言,就是我國福建省的閩南話和廣東省的客家話。上述歴史事實説明:台灣很早就屬於中國的版圖,成為我國神聖領土不可分割的一部分,台灣省的高山族就是中國各民族中的一員,台灣同胞是偉大的中國人民的一個組成部分。到了十九世紀中葉鴉片戰爭以後,帝國主義列強、特別是美、日帝國主義,一直對我富饒的台灣省垂涎三尺,不斷加緊其侵略活動,圖謀奪取台灣,作為進一歩侵略中國大陸的跳板。一八九四年中日戰爭之後,腐敗的清朝政府,簽訂了不平等的“馬關條約”,台灣省被日本帝國主義強行霸占。在日本帝國主義五十年的殘酷殖民統治期間,台灣同胞爭取重返祖國懷抱的鬥爭從未間斷。他們英勇不屈,前赴後繼,同日本帝國主義占領者進行了可歌可泣的長期鬥爭,包括高山族人民在台中的英勇起義,較大規模的就有二十多起,先後犧牲達數十萬人之多。這一點,甚至美國國務院在《中美關係白皮書》中也不得不承認:“台灣人民受異族管轄五十年,因之歡迎中國解放。於日本占領期中,台灣人民最大之希望為重歸祖國”。

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令和元年五月一日追記。
臺灣を澳門の附屬地とする説は、西暦1947年の中華民國侵臺最初期の臺北市臺灣新生報社『民國三十六年度臺灣年鑑』「第三章歴史・第三節荷蘭盤踞時代」第B五頁に見えます。
 曰く、「一五八五年,以横臥於中國海上之臺灣為澳門之附屬地。」
と。
臺灣新生報社民國三十六年度臺灣年鑑歴史B5頁

これが指してゐるのは要するに1585年にポルトガル船Santa Cruz號が臺灣(小レケオ)西岸を航行した一件であらう。それ以外に考へられない。このサンタクルス號の航海については拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第390頁で論及した。多分サンタクルス號航海記の記述を第二次大戰前頃の研究者が「マカオの附屬とした」云々と書いてゐて、それが切り取られて年鑑に採用されたのだらう。
 しかしサンタクルス號航海記ならびにその前後の史料を見直しても澳門の屬地とい語は見當らなかった。今度また確認したい。
 ただ、ポルトガル人が勝手に臺灣を自國領とするのは、1529年サラゴサ條約もあるので當然である。サラゴサ條約ではフィリピンより東のモルッカ諸島よりもさらに東を葡萄牙と西班牙との分界線と定めた。

 ともあれ、この年鑑が刊行されたのはまさしく228事件の年の六月。2月28日頃はまさに編纂校正中だったであらう。昭和46年の「人民日報」の作文者(新華社から委託された文化人か)は臺灣をよく知らないから、作文する時に年鑑のやうな書を引っ張り出して、繋ぎ合はせたのであらう。言はば暗黙の國共合作である。そのまま現在でも臺灣に關するチャイナ公式見解となって人民大會堂に置かれてゐる。

 參考論文:「ディルク・シナと日本」 'Dirck China' and Japan
        森 良和        論叢 : 玉川大学教育学部紀要, 103-119, 2012  
http://hdl.handle.net/11078/75
論文注17に引く、
「The Rutter of the Santa Cruz July 5, 1585―March 30, 1586.」 in Charles Boxer, 『The Christian Century in Japan 1549―1650』, Berkley & L. A., 1951, APPENDIX, pp. 406―414.(旧字仮名遣いの邦訳)東京大学史料編纂所編『大日本史料第十一編之七:正親町天皇,自天正十二年四月至同年七月』東京大学出版会, 1970年(覆刻版,原著1938年) , 625―636頁。この訳はオランダ語からの仏訳の重訳で,同書pp. 30―34にはその仏訳も所収されている。
https://archive.org/details/THECHRISTIANCENTURYINJAPAN15491650CRBOXER/page/n437
https://archive.org/details/THECHRISTIANCENTURYINJAPAN15491650CRBOXER/page/n439


この「臺灣はマカオの附屬地」説は近年も臺灣の中等教育の中にも出現してゐるやうです。
「台北市立松山高中九十一學年度第一學期第二次期中考」高二歴史科試卷(社會組)
一.單選題3.    16世紀以來西方殖民主義,開始在東方海上角逐,而何國宣布台灣為澳門的附屬地?(A)西班牙(B)葡萄牙(C)荷蘭(D)英國。

臺灣の歴代刊行の歴史教科書目録は、下リンクの「參考文獻」から索め得る。
郭淑美「高中歷史教科書研究-以臺灣史教材為中心(1948~2006)」
碩士論文、國立臺灣師範大學
一、教科書
◎統編本
1. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第一冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國43年8月再版。
2. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第二冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國44年2月再版。
3. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第一冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國53年8月再版。
4. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第二冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國53年12月再版。
5. 藍孟博,《興中教科書高中歷史(第一冊)》,臺北:正中,民國39年8月臺初版。
6. 藍孟博,《興中教科書高中歷史(第二冊)》,臺北:正中,民國40年11月臺再版。
7. 藍孟博、朱延豐,《興中教科書高中歷史(第三冊)》,臺北:正中,民國41年2月臺二版。
8. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:國立編譯館,民國60年8月初版。
9. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國61年1月初版。
10. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第三冊)》,臺北:國立編譯館,民國61年8月初版。
11. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國72年8月十二版。
12. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國73年8月初版。
13. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國77年1月四版。
14. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第三冊)》,臺北:國立編譯館,民國74年8月初版。

◎審定本
國中課本南一版:
1. 王秋原等編,《國中社會(第一冊)》,臺北:南一書局,民國91年5月初版。
2. 王秋原等編,《國中社會(第二冊)》,臺北:南一書局,民國91年11月初版。
3. 王秋原等編,《國中社會(第三冊)》,臺北:南一書局,民國92年8月初版。
4. 王秋原等編,《國中社會(第四冊)》,臺北:南一書局,民國93年2月初版。
5. 王秋原等編,《國中社會(第五冊)》,臺北:南一書局,民國93年8月初版。
6. 王秋原等編,《國中社會(第六冊)》,臺北:南一書局,民國94年2月初版。

國中課本康軒版:
7. 施添福等編,《國中社會(1上)》,臺北:康軒文教事業,民國91年7月初版。
8. 施添福等編,《國中社會(1下)》,臺北:康軒文教事業,民國92年2月初版。
9. 施添福等編,《國中社會(2上)》,臺北:康軒文教事業,民國92年7月初版。
10. 施添福等編,《國中社會(2下)》,臺北:康軒文教事業,民國93年2月初版。
11. 施添福等編,《國中社會(3上)》,臺北:康軒文教事業,民國93年9月初版。
12. 施添福等編,《國中社會(3下)》,臺北:康軒文教事業,民國94年1月初版。

高中課本審定版
1. 王仲孚主編,《高級中學歷史(下)》,臺北:大同資訊,民國89年2月初版。
2. 王建文等編著,《高級中學歷史(第一冊)》,臺南:翰林出版事業公司,民國95年8月初版。
3. 李孝悌編著,《高級中學歷史(下)》,臺北:龍騰,民國89年2月初版。
4. 林能士主編,《高級中學歷史(下)》,臺北:南一書局,民國89年2月初版。
5. 林能士主編,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:南一書局,民國95年8月初版。
6. 高中歷史教科用書編輯委員會,《高級中學歷史(下)》,臺北:正中,民國89年2月臺初版。
7. 許雪姬、劉妮玲編著,《高級中學歷史(下)》,臺北:三民書局,民國89年2月初版。
8. 陳國棟主編,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:龍騰文化事業公司,民國95年8月初版。
9. 陳豐祥、林麗月,《高級中學歷史(下)》,臺北:建宏出版社,民國89年2月初版。
10. 陳豐祥等編著,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:泰宇出版公司,民國95年7月B版一刷。
11. 薛化元編著,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:三民書局,民國95年8 月初版一刷。



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今日から冩眞家山本皓一氏の尖閣、 
 八重山日報。「新聞オンライン」有料電子版おすすめ。電子版はいつでもどこでも見られます。ふる新聞にならない。
yaeyama310429山本晧一

記者里永雄一朗氏は、とても活きの良い若手、活躍に期待してます。この取材の時、丁度私も石垣島で、山本氏と里永記者に少々お話を伺ふ機會があり、幸ひでした。山本先生は多分今頃、メコン河の取材に出發してゐるでせう。メコン河の水源をチャイナが強引に支配し、危機を迎へてゐる、その現場を撮るのが生涯最後の大仕事だとのことでした。

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 これは凄いです。陛下「與那國を守ってね」。今日の最大のニュース。  
  八重山日報。日本最西端の防人の意味。陛下は國防を憂慮してゐた。「讓位」を言ひ續ける陛下。橿原神宮を參拜した陛下。日本最愛國者だった。感涙。  

yaeyama310428第一面陛下與那國

 我那覇眞子さんも感動。  

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附記。そもそも、
http://news.livedoor.com/article/detail/16389288/
 實は氣性の烈しい陛下。その陛下が「與那國を守ってね」と仰せなのは、まさに國防です。與那國行幸は、單に臺灣を眺望するためではなかったのです。
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「銀ブラ」の学友、3度の衝突=陛下に胸ぐらつかまれたことも
2019年4月28日 21時17分   時事通信社
 30日に退位される天皇陛下が学習院高等科3年の時、東宮侍従らの目をかいくぐり一緒に東京・銀座の街を見物した「銀ブラ事件」の当事者の一人で同級生の橋本明さん=2017年死去=は生前、時事通信の取材に陛下の意外な一面を披露していた。学習院初等科から大学、その後も交流が続く中で、3度衝突したことがあったという。
 最初は戦後間もない中等科の頃。橋本さんの目には、将来皇位を継ぐ陛下の姿が頼りなく感じられていたという。ある日、陛下が帰宅した後、本人の開閉式机のボードの裏側にチョークで思いの丈を書き込んだ。
 翌日登校すると、机の前で、陛下が顔を真っ赤にして拳を握り締めていた。橋本さんの姿を確認すると、「消せ」と一喝。「こんなことをするのは君しかいない」「どうして直接言わないんだ」などとまくし立てたという。
 「何て書いたのかは覚えていないが、その出来事があってから、逆に距離が縮まった」と橋本さん。だが、共に籍を置いた高等科馬術部で2度目の衝突が起きる。
 主将だった陛下は風邪を引き、間近に控えた対抗戦のメンバーから外れていたが、直前に完治。学校側から「陛下に気付かれないよう、出場してもらう方法を考えてくれ」と頼まれた。選手だった自分が辞退するしかないと思い、当日、体調不良を理由に試合会場が見える裏山に身を隠した。
 イライラした表情の陛下。接戦で勝利を収めたが、後日、顔を合わせると突然「どうして来なかった」と胸ぐらをつかまれた。
 この時の経緯について20年ほどたったある日、第三者にポツリと漏らした。それが伝わり、二人きりの場で、陛下が切り出した。「なぜ、あの時、言ってくれなかったんだ」
 3度目は、陛下のご成婚の2日後に開かれた祝いの席。中・高等科時代の同級生が招かれていた。当時の宮内庁長官は国会で「ご成婚は恋愛によるものではなく、私どもが決めた」と答弁していたが、どうもふに落ちなかった。
 「どういう結婚なんだ」と陛下に尋ねると、「好きで結婚するんだ。両性の合意に基づくものだ」。既に共同通信の記者になっていた橋本さんは、許可なしで書かないという陛下との紳士協定を破って記事を配信、全国の地方紙に掲載された。
 後日、お住まいがある赤坂御用地を訪ねると、陛下は「何しに来た」と声を荒らげ、「2カ所、言っていないところがある」。帰るよう強く促されたという。その後も「どうして記事を出す前に電話して来なかったんだ。お前の顔なんか見たくない」と叱責された。
 翌1960年、東宮侍従長からお住まいに来るよう連絡があった。行かずにいると、また電話が入った。重い足を運ぶと、「水に流そう」。陛下は笑顔で手を差し伸べたという。 


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「日本人の源流 : 核DNA解析でたどる」
    斎藤成也著    河出書房新社 2017.11
研究の最前線を期待したが、全體として
あまり有益ではなかった。理由の一端は下方に。
齋藤成也日本人の源流表紙

齋藤成也日本人の源流琉球語

齋藤氏曰く、琉球語は大和政權により移殖された、
入れ替った言語だと。ちょっと待って欲しい。
大和朝廷はまあ二千年前後の歴史しか無い。
繩文文明は教科書の通り一萬五千年だ。
大和朝廷が言語を移殖したならば、彌生以後だ。
しかし遺傳子では琉球人は繩文人である。
つまり琉球の繩文語が彌生語によって滅ぼされて、
新たに今の琉球語になったのだといふ齋藤説だ。
その年代はいつごろだといふのか。
源爲朝から舜天王への十二世紀か。
それとも戰國の統一が琉球まで及んだ西暦1609年か。
それとも古墳時代か。
どの年代だとしても有り得ない。
沖繩に彌生時代は無く、
彌生文化はほとんど到達しなかった。
ぐすく時代は源の爲朝の頃から、
薩摩の勢力が強まる頃までだ。
西暦16世紀17世紀に薩摩がもたらした新言語が
琉球語だといふことは有り得ない。
さうなると、彌生語が移殖されたのは
ぐすく時代初期だけしか無い。
普通はそれを大和朝廷とは呼ばない。
朝廷は既に平安京に遷都した後だ。

源の爲朝のぐすく時代に移殖されたとすれば、
それまで繩文時代(貝塚時代)の沖繩人は
全く別言語だったといふ話になるのか。
しかし八重山諸島では沖繩本島からの統治が弱く、
緩やかな封建制であった。
その八重山に繩文血統が最も濃いのだ。
八重山語も日本語である。
緩やかな封建制で八重山に日本語が突如
強制的に移殖されたといふのか。有り得ない。

齋藤氏は、單にヤマトは惡い侵掠者で、
沖繩は被害者だと言ひたいのではないか。
惡儀は無くともさういふイメージを廣めてゐる。
科學者が歴史文化を語る時、この種の
天然ぼけ平和ぼけが實に多い。
興味だけが動機となってゐて、
歴史文化に對する愛着が無い。他人事だ。
南米に於けるスペインの虐殺史のままに
琉球でも言語が入れ替ったといふ空想だ。

常識で考へれば、繩文顔の多い沖繩人の言語は
繩文語である。それがほぼ一般的日本語と大差なく、
音韻對應だけで互換できるのだから、
要するに日本語は繩文語である。
齋藤氏はまづ繩文語と別系統の彌生語が存在
したといふ前提の根據を示してもらひたいものだ。
それからもう一つ注文。
アイヌ民族が極めて古いといふ前提で勝手に決めつけてゐる。
北海道繩文人がゐて、後に外からオホーツク遺傳子と
混合して、新しいアイヌ人が産まれただらうといふ、
ここ十年の研究成果を齋藤氏は認めながら、
何故かアイヌ民族が古いと決めつけてゐる。
こんなところから勝手なアイヌ先住民イメージが
散布され、アイヌ新法成立に至った。
ただこの書で唯一得られた貴重な情報は、
113頁、最近神澤秀明氏が北海道西北端の禮文島で
極めて状態の良い繩文人骨を多數得て、
新たな研究を進めてゐるさうだ。期待したい。
禮文島も繩文の領域であった。アイヌよりも先だ。


 もう黙ってられない。小室圭氏に對する一億總苛めをやめて欲しい。私ははっきり言って小室さんを應援してます。何故なら私は極右愛國自由主義者なので。しかし小室氏を支持すると發言すると、保守派からの總攻撃を食らふ。異常だ。
 次なる儲けの君の學校に外部から暴漢が立ち入られるとはひどい。未來の天皇を失ったら日本が終る。大阪教育大學池田小學校の再演を絶對に許すな。この種の暴漢は往々にして腦味噌が單純で、輿論の集中攻撃對象のところへ行って暴力を働く。今、俗世間が秋篠宮家を攻撃してゐることが、この犯罪の原因となってゐるのではないか。
 野村佐知代苛め、小保方晴子苛め。私は野村小保方支持だった。今度も小室支持。苦しい修行時代は私もよく分かるのです。そもそも小室氏の辯護士事務所が資金を支援してゐる。修了後の繼續勤務も決まってゐる。400人に一人の獎學金を得た。去年十月にビザ期限で歸國といふ噂もデマだった。今のところ、まっすぐに進んでゐます。ただものではないんですよ、この男。
 求婚もNHKリークでやむを得ずああなったのであって、小室さんはヒモになるつもりではない。真子さんが惚れてゐるのです。「惚れるだけの快男兒なのかも知れない」と、みなさん思はないのかな。眞子さんご自身の判斷を馬鹿にし過ぎてる。不敬だ。400萬がどうとか、貧窮家庭を蔑視する一億人。四百萬圓が返すべき筋のものでないならば、返すべきでないし、返せば逆に、をかしなことになる。借金して勉學とは、資本も無い男の立志傳そのものではないですか。
 百歩讓って小室氏が詐欺師だったとして、どうなんですか。眞子さんは降嫁して民間人になるのです。小室氏が皇室に這入るのではない。多少の醜聞があっても良いではありませんか。「降嫁先は大人しい男であって欲しい」といふ國民の願望も分かりますが、たまには快男兒がゐても良い。それが日本の活力といふものだ。かりに小室さんが詐欺師であれば、女系天皇論にとって大打撃といふ好効果もあります。
 小室支持を公言すると、小室さんみたいな人を好むと勘違ひされますが、人物としてはかな~り嫌ひです。ちゃらちゃらしてる寫眞も出たし。東アジア學の私があんなアメリカかぶれを好むわけありません。好き嫌ひでなく、もっと自由に行動できる日本にしないと、巨大なニッポン村として沈沒するだけですよと言ひたい。少々の醜聞で村八分にする空氣が良くないと思ひます。好き嫌ひで語れば、私にとって嫌ひなものはいっぱいあるし、小保方野村も人物としては嫌ひです。話が合ふはずがありません。大體私の日ごろの言動は、私の好き嫌ひからかな~り懸け離れてゐます。好き嫌ひは行動原則にならないよと言ひたい。だから村八分をやめませうと言ひたい。
 それに、依怙贔屓で特待生資格を取れるといふ臆測は學校制度をなめ過ぎてる。有り得ないんですよそんなの。噂に流される日本人が、尖閣の歴史のウソに勝てるわけがない。日本人よ、しっかりしろ。



 テレビ朝日。26日、東京・文京区のお茶の水女子大学附属中学校で、この学校に通われる秋篠宮ご夫妻の長男・悠仁さまの机に包丁のような刃物が置かれているのが見つかり、警視庁が捜査しています。
 捜査関係者によりますと、昼ごろに文京区大塚にあるお茶の水女子大学附属中学校で、悠仁さまの机に包丁のような刃物が置かれていました。悠仁さまのクラスが授業で教室を空けていた際、何者かが置いたとみられるということです。包丁のような刃物は2本あり、悠仁さまの机とその付近に置かれていたということです。学校の敷地にある防犯カメラには上下紺色の服にヘルメット姿の不審な人物が映っていて、警視庁が捜査しています。




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http://senkaku.blog.jp/2016052360434957.html

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木村太郎氏 小室圭さんを擁護「俺も男だっつって頑張ってるわけですよ」
4/26(金) 15:32配信  デイリースポーツ
 ジャーナリストの木村太郎氏(81)が26日、フジテレビ系の生番組「直撃LIVEグッディ!」で、秋篠宮家の長女眞子さま(27)と小室圭さん(27)との結婚問題について、米フォーダム大学で国際弁護士となるべく勉強中の小室さんを擁護した。
 番組では、秋篠宮さまと28年来の親交があるという毎日新聞の江森敬治編集委員が、小室さんへの苦言を「文春オンライン」に寄稿したことについて特集。秋篠宮さまと小室さんの齟齬(そご)について伝えた。
 「秋篠宮殿下のお気持ちをよく分かっているはずの小室さんが、なんで今こういう行動を取っているのかっていう、その真意がますますもってきて不可解」といぶかるMCの安藤優子に、木村氏は「俺も男だっつって、頑張ってるわけですよ」と明快に回答した。
 木村氏は「秋篠宮さんじゃなくて、眞子さんが求めてる亭主像っていうのはそうなんですよ」と推察。
 江森氏の記事を読んだという木村氏は「秋篠宮さんのスポークスマンみたいな立場で書いてる」と指摘し、秋篠宮さまの心情を「自分がこういうふうに問題を解決してから眞子と結婚しろと言ったのに、自分がアメリカに行ってアメリカの弁護士資格取って頑張るぞって言ったことがすごく腹が立ってるわけですよね」と推測した。
 木村氏は「それは彼(小室さん)の自由でありね、2人が決めることであってね、普通の親子で、父親が娘の結婚に反対してるようなもんでね。その立場を江森さんがただ弁解しているだけだと僕は思うけど」と主張。
 秋篠宮さまが解決を求めている小室さんの母親の金銭トラブルについては「お母さんの借金で、彼の借金じゃないんですよ。解決すべきはお母さんなんだ」と指摘した。
 江森氏の寄稿では、秋篠宮さまが小室さんに弁護士になることを求めておらず、パラリーガルのままでいい、結婚後は眞子さまと身の丈にあった生活をすればいいと考えているとされている。
 木村氏はこれについても「義理の父親になるかもしれない人物に相談しなきゃアメリカに留学できないってのも変な話じゃない?」、「僕が小室圭だったら、余計なお世話だって言いますね」、「一般のさ、娘と父親のことで考えてみて、娘のフィアンセが大したことになんなくてもいいよと、ディレクターになんなくてもいいよ、アシスタントディレクターのまんまでいいじゃないかっていったら、これは失礼な話じゃない?」と、たとえ話で小室さんを擁護。
 安藤は「結婚は個人と個人の問題だからっていう認識と、秋篠宮家っていう皇室から嫁ぐっていうことと、ちょっと私は事情が違うのかなって思うんですよ」と、皇室と一般家庭との立場の違いを指摘。「できるだけ環境を整えてきれいな下地を作ってきちっと土地をならしたところで、身の丈に合ったサイズの家を作って、幸せに暮らしてねっていうの、私は親としてごく普通の考え方なんじゃないかと思うんですけどね」と訴えた。
 木村氏は「眞子さんの意志っていうのが当然反映されるべきなので、この3人の中に眞子さん入るべきだと。3人でしっかり話をしたらどうですかと思っている」と、三者会談を提案していた。
https://www.daily.co.jp/gossip/2019/04/26/0012278005.shtml


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