- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

漢文は死語ではなく、私は漢文で論文を書いてますが、何はともあれ、全文轉載。
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二十一世紀の漢文-死語の将来- 4(Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

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(承前)
http://senkaku.blog.jp/2018100677771560.html

其の二

東亜の諸言語と漢文

 今までの話では、古典中国語(漢文)を含めて、いわゆる死語の生存と復活というものが一見珍しい文化現象に見えるが、かいつまんで言えばユーラシアの東西両端に渡る文化の一面に過ぎないという事実を明らかにしようとした。西から東へと順に、ラテン語、シリア語、サンスクリット語の諸言語が、規模において多少の相違があるにも関わらず、類似する復興の姿を現しつつある。これから、話の後半では、焦点をしぼり日本における漢文の地位と可能性を考えて行きたいと思う。
  前文に挙げた諸々の例から見て、日本文化の中における漢文、そして韓国・ベトナム両文化における古典中国語(韓国ではハンムン、ベトナムではハンヴァンと発音する)を代表として、一般的に言えば極東における中国の「文言」の過去の普及と現在の生存は世界的に珍無類な現象でなく、ユーラシアの諸文化圏にて通常に現われた文化生活の不可欠の一面と認められていいものである。ユーラシア文化の一面として見られるようになれば、漢文の復興と教育が新しい意味を浴びると私は確信している。又、今までの長い歴史の延長で、未来のために漢文の果たせる役割を改めて文学、学問、国際関係の諸分野においてかつてなかった新しい活動範囲に進む方法を敢えて紹介したいと思う。

現代日本語のジレンマ

 本題に入る前、現代日本語についての一考察を述べたい。
  現代日本語、特に二十世紀末の超現代日本語の現状を論じ出したら話が長くなる恐れがあるので、それを避けたくも、これからの漢文教育という問題とは無関係でないので触れざるを得ない。日本の評論家、作家、国文学者、場合によって言語学者にも国語の現状についての意見を聞いてみると、皆口を揃えて「日本語が乱れている」と忽ちにその言葉が返ってくる。言葉が乱れるという表現がいったい何を意味するのか私にはよくわからない。文法上の問題であろうか。よく挙げられる例を顧みると、「見られる」か「食べられる」の代りに「見れる」、「食べれる」というのは、果たして言葉が乱れている証拠と云うべきであろうか。どちらかというと、受動態と可能態を区別するのが、言葉が乱れるよりも正確になると言ったほうがいいのではなかろうか。また、「犬に餌を上げる」という言い方が誤りであり、「餌をやる」といった方が正しいとよく言われるが、会話上の調子の変化に過ぎないので、決して文法上の混乱とみなすことはできない。一番厳しく批判されている敬語の現代的使い方もどうしても文体上の問題だと思える。生きる言葉は当然なこととして常に変わりつつあるものである。ただその変わり方の規模と速度には多少の相違があるのみで、変化することだけは確かである。「死語」も変わるものである。八世紀、十三世紀、十六世紀、二十世紀に書かれたラテン語の文章を比較してみれば、それぞれの特徴と相違が著しい。サンスクリット語、ヘブライ語、漢文でも同じである。「乱れる」という、強い非難の色を浴びた単語を口にする前に、どういう角度からこんな判断を下すかということを充分に意識する必要がある。
  ここで現代日本語に関して、確かに「混乱」という単語を使ってもいい一面を少し念を入れて考えてみたいと 思う。それは外来語の問題である。新語を作るため、また新しい技術品を名付けるため、ある言語が他の言語の語彙を借りるという現象は文字の歴史が始まって以来常に行われたものである。また先にも書いたように、「聖語」という現象と密接につながっているものである。ラテン語はギリシア語から、ペルシア語はアラブ語から哲学、宗教、科学に関する単語をたくさん受け入れた。現代の諸言語は新しい発明を名付けるために、最初はそれぞれの文化圏の「聖語」に当たる言葉に求めた。ウルヅ語はアラブ語やペルシア語にたよるのに対して、ヒンディ語はサンスクリット語を拠り所にしてきた。また東南アジアのもろもろの言葉、タイ語、カンボジア語、ラオス語、ビルマ語、ジャワ語などもサンスクリット語(パリ語とならんで)を指南にしたと同様に、日本語、韓国語、ベトナム語は古典中国語・漢文を新語造りの拠り所にした。
  漢語を以ての新語造りが明治維新のころから始まったとよく言われるが、実際のところ早く江戸時代、蘭学、即ちヨーロッパ医学が輸入される時から始まった。さらに一九世紀の終から、日本で作られた漢語の新語が中国を始めとして極東大陸の全部に普及したという事実はよく知られている。「電話、経済、癌」などの新語彙の大部分がまだ使われているということ自体はその単語造りの成功を物語るものである。そういう画期的な業績は、日本文化と漢文の長い共存をないがしろにすれば理解しがたい。
  ここでR・A・ミラー氏の指摘した日本語と古典中国語の関係の特徴を挙げる必要がある。氏の意見によると、日本語彙における中国語の借用語の歴史的関係が「全面的な活用性」(total availability)という一言で総括される。中国語のどんな時代のどんな単語も日本語、特に日本語の書き言葉の中に取り入れられる可能性があるという意味である。極端に言えば、日本人にとって中国語からの借用語が本当の意味の外来語でなく、また中国語そのものも外国語と見られるというよりも、(中国語の話し言葉は別として、圧倒的に書き言葉に限られるが)むしろ中国語は日本人が自由に汲める無尽蔵であり、日本語の上層次元であるからである。古典中国語の作品に出る単語ならば、日本語で書く人がそれを自由に使えると自覚している。その単語が分からなければ、書いた人が難しい語彙を使いすぎて悪いということでなく、その難しい単語を知らない読者自身が悪くて、自分の勉強不足を恥じるべきなのだということであった。これは正に「聖語制」なのである。ある言語の上に、もう一つの言語があって、後者を熟知するのが本当の学問とされているような文化関係を特徴とする。
  日本語と漢文の従属関係については、先にも見た通り、他にもよくある現象である。政治的な従属でなく、文化的な従属を反映するものである。ある程度までギリシア語とラテン語の関係によく似ている、すなわち政治的にローマに降伏したギリシアが文化的にローマを支配するようになった。ホラチウスという詩人が書いたように「征服されたギリシアが獰猛な勝者を征服してしまった」。ローマ帝国の時代、ヨーロッパの指導階級がみなラテン語の傍にギリシア語を身につけていた。もはや権力がまったくなかったギリシアの言葉の知識は高い知的、社会的身分の象徴であった。数世紀が経ってから、同じ古代ギリシア語の単語を使って、新しい科学上、技術上、思想上の観念を名付ける過程に大いに役に立った。Telephone, telegram, antibiotics, psychoanalysis(ここ で日本人読者の便宜をはかるため英語の綴を使う)等々は皆ギリシア語の語根を基本にした新語であり、それは古代ギリシア人の科学と技術を遥かに超えた発明であった。ラテン語も同様に生かされた。たとえばvitamin, informatics, subconscious, computer 等はその類である。こういう新語彙の大部分はギリシアとイタリア以外 の国の学者が考え出したものであり、現代ギリシア語とイタリア語に再輸入されたものであるので、その国とその言葉がそれぞれ全く離れて独立したものになってしまった。新語造りの為ならば、ギリシア語とラテン語が西洋全体の共有財産になってしまったとも言える。最近は英語(米語)の話し言葉も科学的新語を生みだす様になった(Big Bang, by-pass, software)が、ギリシア・ラテン語程他のヨーロッパ言語に簡単に移行しない。たとえばフランス語はビッグ・バンを受け入れたとは言え、バイパスをpontageにし、ソフトウェアをlogicielに直して、本来の英語単語がほとんど使われない。
  日本語の場合、二十世紀の後半には規模として珍しい現象が目立ってきた。中国語(漢文)に替って英語の語彙が全体的に利用される様になった。昔の漢語と同じく、現在英語のどんな単語もそのまま(片仮名を通じて)日本語として利用される可能性を得た。それを知らない人は憤慨するどころか、むしろ自分の知識不足を恥じる、という妙な状態になってしまった。一九八〇年、早稲田大学にいた頃、私はそこで日本語を勉強していた二人の中国人の通訳者と知り合ったが、二人とも口を揃えて、これから英語も身につけることを決心したと言った。何故なら、もっぱら中日通訳・翻訳の訓練に没頭していた彼等は、英語の知識なしでは普通の日本語の文章、演説も完全には理解できないという事実に悩んでいたからであった。日本語における英語語彙の全面的活用性(さきに言及したtotal availability)のせいで、現在日本語を熟知するのに、英語も充分に知る必要があるという珍しい状態になってきた。恰も昔の漢文の代りに英語が移ってきたと言える。
  こういう妙な状態は、植民時代の名残として英語を公用語に指摘したインドやフィリピンを除けば、東アジアには珍しい。現代中国語の新語の大部分がいまだに「文言」を拠り所とする。「リモコン」を「遥控機」、「コンピューター」を「電腦」、「ロボット」を「機械人」、「ヴァーチュアル・リアリティー」を「虚擬實景」等々と呼ぶのはなかなか想像ゆたかな工夫であり、中国語の常識だけで誰でも意味が分かる。また、明治時代の日本人が英語のclubの様な単語をそのまま借用した時でも、片仮名の代りに何となく意味のある漢字を当てて「倶樂部」(倶に楽しめる部屋)を造ったと同じ様に、現代中国語の舶来語もなるべく中国語なりの意味を伝える漢字を使おうとしている。有名な例には「ミニスカート」を「迷■裙」(君を迷わせるスカート)や、「ウイスキー」を「威士忌」(威厳のある紳士が忌むもの)が挙げられる。
  世界的に恐怖を起こしたエイズの借用の仕方も中国語と日本語は対照的である。英語のAIDS(実は頭文字の組 み合わせ)は日本語ではとても不充分な片仮名で表わされている。特に[dz]という子音連続を正しく表わすのが不可能なので、翻訳した方がよかったと思えるが、中国語でも同じくその英語の音を正確には写せないのに、その不便を漢字の巧みな使い方で補い、「愛滋病」という新語が使われた。最初の二字が音を表わすと倶に、「愛の繁盛から起きる病」というような意味を伝えることもできる。擬日本語の「エイズ」が前もって説明されないと一般の人には不透明で理解されない、それにひきかえ中国語の新語はそれを初めて見る人にとってもかなりの程度までその意味の範囲を直接に伝えることが出来る。
  二〇〇〇年のオリンピックの折に気がついたもう一つの例を挙げたい。「アーチェリー」という様な片仮名語 が頻繁に使われることが気になって、周りの日本人に(確かに運動に疎い人が大多数を占めたが)意味が分かるかどうか聞いてみた。教育の程度を問わずに(むしろ年齢による差があるようであるが)まったく分からない人が意外に多かったことに驚いた。いったい何故「洋弓」という単語を利用しないのか分からない。「要求」と混同される嫌いがあるからであろうか。しかし、話の内容から(特にオリンピックの報告の場合ならば)また文法構造から見ても、両単語を間違える危険性が非常に少ない上、新聞や雑誌の書面報告なら、誤解の可能性が完全になくなってしまう。もし同音異義が本当に問題であり、音でも区別する必要を感じるならば、「洋弓術」か「西洋弓術」というだけで困難は解決するであろう。ついでに申し上げると、韓国のテレビや新聞ではやはり「洋弓」(ヤングン)を使う。
  日本の漢語の代りに外来語を片仮名で使う傾向が同音語を避ける、という合理的な意図にもとづくものと反論する人もいるので、次の例を取り上げて考えてみる。

  1. エアコン > air conditioner
  2. ボディコン > body conscious
  3. リモコン > remote control
  4. ロリコン > Lolita complex
  5. パソコン > personal computer
  6. クルコン > cool conservative
  7. コンカジ > convenience-store casual (clothes)
  8. アイコン > Private Eye Writers' Convention(アメリカの推理小説作家大会、日本人の推理小説の好事家が使う言葉)

 以上の八カ例のほかにまだまだたくさん並べられるが、今のところこれだけに止める。この八単語に現われる 「コン」の一節はそれぞれ違う、「コン」という接頭辞を含む八つの言葉の略号であることは一目瞭然である。極端に言えば、立派な日本語になったこの諸単語は漢字の意味上の便利さを捨てて、アルファベットの便利さも捨てられた舶来語に過ぎない。それを半分以上冗談として作られた新語とみなした方が適当かも知れないが、もし同じ原則に従って新語を造ってゆけば、日本語の語彙がどれほど曖昧で二流的なものになってしまうか想像できる。

 話を少し広げてみよう。現代日本語に溢れている英語(片仮名語)の借用ぶりがほかの文化国と比べて異常と言ってもいいほどの現象が見られるという事実の裏には、一種の論理があるのではないかという問題を考えてみたい。代表的と思われる三つの例から話を進めたい。
a シビリアン・コントロール。正直に言えばこの言葉を初めて日本で聞いた時、私は意味を完全に誤解してし まった。何となくシビリアンの音がシベリアと関係があると思い込んだので、昔シベリアで醸された陰謀かなんかのことなのではないかと思った。映画かスパイ小説にはいかにもふさわしいタイトルのようにそれをとらえた。シビリアンが英語のcivilianを表記したものとわかった時、まず可笑しく思った。日本語に書き表せない三つの音(国際音標文字で書くと[si],[v][l])を含んでいる単語をなぜわざわざ片仮名に直す必要があるのであろうかと不思議に感じたからであった。「市民管理」が果たして何故いけないのであろうか。数少ない新聞記者、評論家、知識人などを除けば誰もわかるはずもない「シビリアン・コントロール」という抽象的な単語が使われる理由は非常に単純なのではなかろうか。「市民管理」と書けば、誰でもその観念の内容がわかる恐れがあるためそれを避けようとするのではなかろうか。すなわち、一般の市民たちが「市民管理」を真面目に実現しようとするのが望ましくないから、不透明な片仮名語を利用して、それを弄ぶのが安全だという潜在の意図があるように思えてならない。「市民管理」と書けば、具体的な提案をする必要になるので、面倒くさい、と思うので あるが考え過ぎであろうか。
b プライバシー。前に述べた例よりも「プライバシー」の場合が率直である。テレビなどでタレントか俳優の プライバシーが侵害されたとの記事を見るにつけ、常に浮かんでくる疑問がある。日本人の判事たち自身が本当に片仮名語の「プライバシー」そのままを使うかどうか。英語のままそれを使うならば、その法的内容はいったい誰が決めるのであろうか。アメリカ英語の意味をそのまま受け入れると理解してよいのであろうか。アメリカは州ごとに法律が多少違うので、日本法律のプライバシーの定義はどこの州に随うのであろうか。なお、日本語では「私生活」という非常にわかりやすい熟語があるのに、今流行しているその言葉はもっぱら不透明な「プライバシー」である。これも私の早合点かも知れないが、マスコミの観点から見れば、日本語の「私生活」は日本の一般人には分かり易過ぎるという嫌いがあるのではないかと思う。なぜならば、個人の私生活を守ることが絶対不変の権利であるとすれば、日本のテレビや週刊誌が毎日のように犯している私生活の侵害は直ぐさま中止しなければならないということになるであろう。そういう点から見ると、イタリアとフランスの対比を考えると面白い。イタリア語とフランス語が非常に近いにも関わらず、フランス語が日本語の「私生活」に文字通りに近いvie prive・を前から使い続けてきたのに対して、イタリア語にはフランス語の直訳としてのvita privataがあるのに、最近は英語のままprivacyが著しくはやってきた。なおフランスでは情報手段における私生活侵害の法律は他の国に比べて非常に厳しい。アメリカの大統領や日本の首相が嘗めたような、不倫関係に基づいた醜聞事件はとても起きそうもないのであり、またイタリアや日本のように俳優、女優、歌手などの離婚騒ぎのニュースは本人の許可なしでは報道されない。まさしくはっきりした「私生活」という単語が生きている国では、個人の生活の権利が一番厳格に守られていて、「私生活」の代わりに、漠然とした外来語の「プライバシー」が流行っている国では、私生活そのものが特別に尊敬されていないといっても過言ではない。誰でも理解できる「私生活」 の権利を主張するならば、一九九九年の春から夏にかけてテレビや週刊誌でいやになるまで報道された「熟女合戦」を想像することができる。「プライバシー」と抽象的観念から「私生活」の次元にもどれば、マスコミだけでなく、それを味わう一般の大衆、すなわち市民たちがその権利の本当の意味を改めて考えるのではないかと思う。
  ついでに、アメリカでもプライバシーの観念がさほど古い伝統に基づくものでなさそうである。一九六五年出 版のWebster's Seventh New Collegiate Dictionaryという辞典でprivacyを引くと、今日いちばん流行っている 「私生活」の意味が全く載っていない。
c セクシュアル・ハラスメントという片仮名語も典型的な語彙上の悪用の見本の一つである。先の「プライバシー」と同様に、この単語の法律上の内容はどこで決められるかという問題がおのずから起きる。合衆国で発生したこの観念と言葉は果たしてそのまま他の国に移せるのであろうか。日本で流行った「セクハラ」という略語は確かに面白いが、一般的に冗談に用いられがちなので、「セクシュアル・ハラスメント」よりも曖昧であり、むしろ事実上のいやらしさを隠すためには逆効果になる。ここにも、日本語の「性的嫌がらせ」という熟語を利用する方が適当と思える。日本人なら誰でもわかるという利点を有する。「セクシュアル・ハラスメント」や「セクハラ」が日本人の語感から意味的には内容が乏しいからこそ、誰でも想像逞しく自分なりの意味と解釈を加えたりする傾向が自然に現われる。たとえば、ある日本人から聞いた話であるが、男が女性に対して「あんた」という言い方を使えばセクハラとされるそうである。その話が本当かどうか分からないが、もし正確な日本語を使って、人を「あんた」と呼ぶのが「性的嫌がらせ」という違法行為になると言えば、それほど簡単に納得できないと思える。
  ここで片仮名語の妙な例を三つだけ挙げたが、他にもたくさんある(モラル・ハザードなど)。それで外来語 の使用がより正確な表現を与えるためでなく、むしろ曖昧な、漠然たる、意味のない言葉を使うことによって、本来の観念をぼかすために選ばれる可能性が強いことを証明しようとした。
  残念ながら、そういうような説明があまりにも合理的なので、日本語における外来語の氾濫を完全に理由づけるには足りないということを痛感せざるをえない。理性がなかなか届かない動機も潜んでいると思える。京都の市バスで、年寄りや身体の不自由な人のために、町の中を簡単に動き回ることの出来るよう新しい施設を紹介する宣伝に気がついた。その新施設の全体を「タウン・モビリティという名前で呼んでいるらしい。私は日本人でないからそれに当たる上手な日本語表現を考え出せないが、「動きやすい町」の様な意味だろうと思う。なお「タウン」はともかくも、「モビリティという単語をいったい誰が分かるのであろうか。そのキャンペーンのおもな対象であるはずの老人は中高年時代に英語を勉強した人が多いかも知れないが、日毎にそれを練習するわけにも行かないので、大部分の語彙を忘れて「モビリティの意味をすぐには理解できないかも知れない。片仮名で書いていることから見ると、まさか外国人の観光客のためでもなかろう。
  そこで微妙な比較がふと頭に浮かんでくる。カンボジア文化史の専門家を久しく悩ませてきた謎がある。それ はなぜ数多い古代カンボジアの史跡に刻み込まれた石碑がカンボジア語でなくて、サンスクリット語で認めてあるのか、という疑問である。極く限られた人数を除けば、カンボジア人は遠い国インドの聖語であったサンスクリット語に不案内であった。その石碑の文章を作ったのがカンボジア人でなくて、朝廷に招かれたインド人のバラモンであった可能性が強い。もし当時(紀元後六~八世紀)の東南アジアではサンスクリット語が国際語だったことが原因であると言えば、なぜインドの文字でなく、カンボジア人にしか通じないカンボジア文字で表記されたのかという疑問が生じる。カンボジア人のためでもなく、インド人のためでもなければ、その石碑文は誰を相手に刻まれたのであろうか。ある学者に依ると、誰もわからないその文章の目指している相手はほかでもなく、 ヒンズー教の神々(デヴァ:諸天)、すなわちこの世を超えた存在者であった。こういう超自然的存在にふさわしい表現がサンスクリット語にしかないという考えから発生した現象である。おそらく、「タウン・モビリティという、日本人が分からなく、外国人が読めないスローガンが選ばれたのは、プロテスタントの神様「ゴッド」の注意を引くためであったのではないかと考えたくなる。
  同じ発想から生まれた習慣かどうか決定し難いが、最近妙な傾向がはやってきた。日本文化風俗の非常に代表的と思われるもの、それも昔から日本語で名付けられたものをますます英語に基づく片仮名語で呼ぶ癖が頻繁になってきた。たとえばあるところでは武道が「マーシャル・アーツ」といわれ、華道が「フラワー・アレンジメント」といわれるようになった。なかにはたいへん逆説的としか思われないものもある。この二十年にわたって欧米に普及した日本の漫画の流行りには驚く程の風雲の情勢を示している。英語とフランス語を始めとして、ローマ字のmangaを国際語にしたのである。同時に、漫画の本場、日本の書店を訪れてみると、不思議な発見をする。「推理小説」、「時代小説」云々の名札の内では、もう「漫画」という単語が見えなくなって、ほとんど全部「コミック」に変わったということである。全世界が漸く「漫画」という日本語を覚えて自由に使う時期に、日本人の方がその単語を捨てて、代りに英語にしてしまった論理はどうしてなのか分からない。国際化の独創的な理解に基くものであろうか。
  時々、その不条理としか思えない言語政策を次の理屈を以て説明しようとする人がいる。日本人の大部分が英 語に疎いので、なるべくたくさんの英単語を日本語に無理に入れれば、日本人が無意識にも少しずつ英語を身につけるのであろう、とのことらしい。その理屈が根本的にまちがっていることを証明するに及ばないと思うが、敢えて証明する必要があるならば、ここにそれについて一言をいっておこう。
  まず音声学上の問題がある。日本語と英語の間では、完全に合致する音がほとんどないと言ってもいいすぎで はないと思うのだが、母音の場合みなそれぞれ違う。英語音声の特長である二重母音化のせいで、日本語かイタリア語の純粋母音の様には、共通なるものはあまり存在しない。また、英語に溢れている子音連続(cl,pr, ct, blなどの類)は仮名を以て表記できない。もし片仮名語の「トラブル」を、日本語の分からない英米人に向かって言ってみれば、彼が本来英語のtroubleのことだと気がつく可能性は少ない。若し正確な英語を覚えようとすれば、偽りの共通感を与える片仮名語を避けることを第一条件にする。その錯誤を超えて、英語が日本語と関係のない外国語だと覚悟してから初めてその勉強に正式に着手することができると思う。
  一方、外国語を覚えるのはただ単語を連ねることだけではない。語彙よりも、文法と構造を正しく理解する方 がはるかに重大である。片仮名語をたくさん知っている日本人が、それを並べる(しかも日本語の順序にしたがって並べる)だけで何とか英語らしくなるだろうと思うらしくて、とんでもない文を組み合わせてしまう。テレビで、あるアメリカ人の教授が取り上げた例をそのままここで繰り返すが、車やトラックに張ってあるもので、「アイドリング・ストップ」というスローガンがよくある。その文を作った人の意図がはっきりしていて、「エンジンの空転を止めましょう」というつもりなのであろうが、実際の英語から言えば、まるで反対の意味になってしまう。"Let's stop idling"のような言い方が適当だと思う。「アイドリング・ストップ」は変な英語だが、確かに「空転しながら止まっている」という意味にしかとらえられない。
 以上の二つの理由だけでも、片仮名語の理不尽な舶来が英語の習得にも、日本語の表現力においても害しかも たらさない習慣であることが明白であると思う。日本語と比べて外来語の使用を自動的に制限している中国人と韓国人は平均的に英語が上手という話をよく聞くが、その理由はまさに自分の母国語と英語との差異を明晰に意識しているという事実にあるのではないかと思う。逆説的に言えば、英語の習得への鍵はほかならぬ自らの母国語の熟知である。その熟知に達するため、漢語と漢文が今でも不可欠である。



漢文は死語ではなく、私は漢文で論文を書いてますが、何はともあれ、全文轉載。
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二十一世紀の漢文-死語の将来- 3(Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)


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(承前)

  現在の段階で、「死語の生存」という現象を最も明らかにするには、敢えて言うならば、間違いなくラテン語 である。インターネットでラテン語のサイトを調べると、他の「死語」とは比較できない程その言葉に捧げられたところが多い事実は否めない。数十箇所のサイトがラテン語で作られている上、独語、英語、仏語で古代ローマの歴史と文化を詳しく紹介するところも非常に多い。同様に出版物になると、ラテン語の定期刊行物は全ヨーロッパで五つぐらいしかないが、詩集は頻繁に出版され、諸国の文学からの翻訳も多い。「死語」の中では、ラテン語が「生きている」話し言葉に最も近い生命力を示していると言っても過言ではあるまい。いわば、話し言葉になる前の段階のヘブライ語の状態にあると言えよう。
  次にラテン語の復活活躍を三種類にしたがって区別することにする。「復活」という言葉自身にもすこし反感 がある。ありていに言えば、ヘブライ語と同様にラテン語の伝統がローマ帝国、いやローマの共和国の時期から絶えることなく一貫して続いてきた。昔から注意された通り、現在イタリアやフランスの中学校でラテン語を勉強する生徒たちは大学で学んだ教授にそれを教わる。その教授にラテン語を教えた教授自身もまた二世代前に学校と大学でラテン語を勉強した人である。また、そういう風に教授と学生の線を遡れば、ルネッサンスや中世を超えて一直線にローマ帝国の時代に至るものである。中国、韓国、ベトナム、日本に於ける漢文教育ももちろん同じく遠い昔に遡れる伝統を保っているが、フランスの場合、十二歳から十五歳までの生徒の四分の一はラテン語を選択するので、まだまだ多かれ少なかれその長い伝統を汲むひとが多い。次ぎに三種類に分けてみる。
a 宗教的な復興

 六〇年代初期に行われた第二バチカン会議の名で知られるカトリック教会の宗教会議のおり、典礼の言語としてのラテン語の使用を廃止したとよく報告されるが、その言いかたは正確ではない。あの当時の決定は、ラテン語の使用と同時に、現在まで原則として望ましくないと見られていた「俗語」、即ち話し言葉の使用をも許すおもむきを示しただけである。ラテン語の使用を廃止する話はまったくなかったのだが、その決定に基づいて、諸国のカトリック教会がだんだん急進的な方向におもむき、俗語を優先的に使うことにした為に、六〇年代から七〇年代にかけてラテン語が教会の典礼からほとんど姿を消してしまった。私の経験から言うと、現在パリではラテン語で行われるミサを聞くことは不可能に近い。ただ第二バチカン会議の決定と現在ローマ法皇の権威を認めない旧派の唯一の教会だけが旧式の典礼を行っている。大衆の目に一番入りやすい儀式の面ではカトリック教会がラテン語を捨てた如くに見えるが、典礼ほど目立たない学問の面では教会におけるラテン語の立場が意外にまだ強いことがわかる。たとえばカトリックの根本的な教義を明確にするように、最近出版されたカテキズム(公教要理)の決定版がラテン語である。ローマ法皇の教書や勅書をしたためる神学者たちのため、現代社会を論じるのに不可欠なラテン語の新語を大幅に紹介するイタリア語・ラテン語辞典の上下巻もまた二三年前にバチカンのラテン・アカデミーの保護下に出版された。
  一九九九年六月に出たアメリカのタイム・マガジンの記事に依れば、合衆国のカトリックの世界では、驚くべきラテン語典礼の復興が行われつつある。九〇年代の始めごろ、全国のカトリックの司教区の中、六つだけがラテン語のミサを許可していたが、現在一三一の司教区がラテン語のミサを行っている、すなわちゼロに近いところから、全体の七〇%がラテン語にもどったことになる。

b ラテン語教育者における復活

 周知の通り、ルネッサンス時代が古典ラテン語に戻ろうとする言語純化主義の下では、なるべく文法的に正しいラテン語を会話にも使う努力がなされるという特徴を示している。その結果、学生を対象にラテン語の対話集が頻りに上梓された。中でも最も有名なのはエラスムスの著わした対話集『コッロクィア』であろう。その後もラテン語教育を中心に組織された耶蘇会の学校でもラテン語の戯曲が一七世紀中に盛んに作られる様になったが、一七世紀以後ラテン語を日常会話に使う習慣を少しずつ失っていった。その変化の一つの理由として、ラテン語教育の言語学化と文献学化を挙げることが出来る。黄金時代(紀元前一世紀)のローマ文学の文体を標準としたラテン語学者は話し言葉としてのラテン語の利用を益々いぶかしく思う様になった。毎日の会話では、言語学者が要求していた高い文法の標準が守られなく、かえって間違いの源泉になる危険性が強いと思われたからであった。故に、現在に至るまで、職業的なラテン語学者の世界では、教育方法としてのラテン語会話がほとんど皆無になってしまった。
  二〇世紀の後期になると、数少ないラテン語の教授と学者がようやく教育の方法としての会話を見直してきた。一番組織的にそれを発展させたのが、疑いもなくドイツのザール大学の学者を兼ねカトリックの神父でもあるC・アイヒェンゼール(Caelestis Eichenseer)先生であろう。先生は長期間かけて企画された「全ラテン語辞典」(Thesaurus Totius Latinitatis)の編集を長年担当しながら、二十五年程前から毎年夏休みにヨーロッパ の二三ヵ国で「生きたラテン語ゼミナール」を組織して、集中講義の形で年齢を問わず全ヨーロッパから集まった二十人ぐらいの出席者に朝から晩までラテン語会話を訓練させる。アイヒェンゼール神父の革命的な方法が少しずつラテン語の会話の復活に貢献しラテン語の専門家の注意を促して、今やヨーロッパの数ヵ所、たとえばドイツ、イタリア、スペイン、ベルギー、スイス、チェコ、ハンガリーなどでも類似したラテン語会話ゼミナールが催される。参加者の数は合わせて毎年二百人を超えるであろう。
  アイヒェンゼール神父の活動は欧州だけでなく、アメリカにも影響を及ぼして、四、五年前から合衆国のケンタッキー大学とミシガン大学で同じ様なゼミナールが組織されるようになった。特にケンタッキー大学のラテン語会話ゼミナールを担当しているT・タンバーグ(Terentius Tunberg)教授は最近の情報技術を巧みに生かして、独創的かつ画期的な雑誌を作った。それはレチアリウス(Retiarius)という題の世紀初めてのラテン語だけのインターネット・マガジンである。「レチアリウス」という題を選んだこと自体もまた非常に面白い。インターネットの「ネット」のほうが英語で「網」を意味するのは言を俟たないものであるが、ラテン語ではインターネットが「インテルレテ」とよく翻訳される。なおレテ(網)を語根にして、「網投げ闘士」という意味の「レチアリウス」をとったのは、インターネットでラテン語のために戦うという気持ちを含むのであろう。この電子雑誌が年に一度ネットに流されて、色々な分野にわたる内容の豊かな記事を流暢なラテン語で全世界に流すのである。ここでは渡部アキヒコ(ラテン語名はAccius)という若い日本人による芥川龍之介の短編「煙草と悪魔」のラテン語訳を記載するに止める。

c ラテン語学者以外の活動

 教会と大学の枠を超えて、目立つラテン語の復興活躍が多くの分野で行われることが「死語復活」の重要なる一面と見られる。特にヨーロッパ共同体が具体化されると同時に、早い段階から現われた共通言語の問題を解決するためのラテン語のもう一つの得点が浮き彫りにされてきた。共同体の参加国がまだ少なかった時代、スイスなどのような多言語国の組織の規模を拡大するだけで間に合うと思われたが、十一ヵ国語が欧州議会で使用されている現在、唯一の通用語の必要性が痛感されてきた。ヨーロッパ以外の世界でも流通語になった英語の力が他の言葉を遥かにぬきんでている今日、欧州共同体も共通語としてそれを選ぼうとするのは当然な傾向と見えるものの、実際はそんなわけに行かない。欧州議会がもともとフランスとドイツの国境にあるストラスブールから、言語対立の激しいベルギーのブリュッセルに移された時、以前の通用語だったフランス語から概ね英語に取って変わってしまった。しかし多くの人には、英語をヨーロッパの公用語にすることがあまりにも合衆国の支配への降伏を象徴しているかのように見えるのを恐れて、最悪の政策として拒否される。それに対して本来のヨーロッパの共通語としてのラテン語に戻ろうとするかなり強い動きが注目される。その動きの源にはラテン語の教授以外の人が多い。たとえば、今ヨーロッパの首都とも言われるブリュッセルには、ギー・リコップ(Gaius Licoppe)という医者が非常に活動的にラテン語を活性化させようと文化センターを成立して、それを「ラテンの家」(Domus Latina)と名付けた(後 Fundatio Melissa)。このセンターはメリッサ Melissa(蜜蜂)と題する季刊誌を出版している。その内容は多様多彩であり、投稿者はディルク・サクレのようなルネッサンス文学の専門家がいれば、ラテン語を愛好する神父、公務員などもいる。ページ数は少ないが、普通の現代語のマガジンを思わせる活発な雰囲気の読み物に違いない。通信購読でしか手に入らないが、全ヨーロッパに読者がいるだ けでなく、インターネットのサイトも作った。
  もう一つの独創的な復活活動として、フィンランド国営ラジオに毎週一回ラテン語のニュース番組がある。十五分間だけの短い番組であるが、現在の世界を反映するのに必要な新語を広く伝える面から見ると、非常に重要な実験となっている。少し性格の違うアラブ語を除けば、ラジオ放送に通常使われる「死語」は恐らくサンスクリット語とラテン語だけであろう。その番組を作った人々の中に、ツオモ・ペッカネン(T. Pekkanen)教授が いる。彼は古代歴史の専門家である上、フィンランドの国家叙事詩カレヴァラを見事なラテン語に翻訳した人で ある。この翻訳は恐らく二十世紀のラテン文学の傑作と呼んでも過言ではなかろう。一九九八年には、スペイン文学の象徴ともいえるドン・キホーテの全文もラテン語に翻訳した。また、パリのあるラテン語の教授がこれからマルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』をラテン語に直す意図を述べた。
  ラテン語をより一般的に広げるため、読み易い読み物をなるべく多く翻訳するのがいい手段と見られた。中には年少者にも親しみやすいのが漫画である。ピーナツのスヌーピー(Snupius)、ミッキー・マウス(Michael Mus)、ドナルド・ダック(Donaldus Anas)の漫画がかなり面白く翻訳されただけでなく、タンタンの冒険が二冊とガリア人アステリックスの冒険が二十冊ほど見事に翻訳されたことも注意されたい。後者の翻訳者は、なるべく楽しい方法で中学生がカエサルの『ガリア戦記』をたやすく原文で読める程度まで導くことが目的で、カエ サルの文体を模倣してその漫画をラテン語に直したわけである。ヨーロッパ中の中高生がその翻訳を読んでいる。むしろ、先生や親が子供に無理にそれを読ませようとするといった方が正確かも知れないが、いずれにしても他のラテン語の書物よりはるかに読まれている。
  最後にエルヴィス・プレスリーの名曲をスメル語だけでなく、ラテン語にも直して、CDに録音したフィンランド人のことを挙げるだけに止めよう。


漢文は死語ではなく、私は漢文で論文を書いてますが、何はともあれ、全文轉載。
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二十一世紀の漢文-死語の将来- 2(Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)


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(承前)

「死語」の生存と復活

 先ず蛇足かも知れないが、誤解を避ける為、「死語」の定義について一言述べておこう。今の日本語、特に新聞、雑誌、テレビでは、「死語」を「昔はよく使われて、現在は流行らなくなった単語または表現」という意味だけでとらえ勝ちである。たとえば、「文化包丁」、「モボ」、「モガ」、「アドバルーン」というような単語がこの定義に応じる狭義の死語である。その意味では「廃語」という単語を使った方がよろしいのではないかという気がするが、習慣に逆らうことは難しい。それに対して、広義の方が西洋語(仏 langue morte, 英dead language)の直訳として、恐らく「死語」の本来の意味であろうが、「現代使われていない言語」である。もちろん、ここでは後者の意味で「死語」を使うことにする。
  もう一つの区別を加える必要がある。「死語」の範囲には二種類の言語が入る。古代に開花した文明、文学の 言葉として盛んに使われた言語が、その文明の滅びるとともに消えてしまった死語である。先に言及したスメル語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語等々が第一種類であり、文字通りの死語に違いない。現代人には、その諸文明の末裔と自称するものがおらず、だれもその言語を自分の伝統的な財産として生かしたり、復活させたりしない。たまたま風変わりな学者が遊びとしてその種類の言語を現代的に生かそうとしており、たとえばあるフィンランド人の言語学者がエルヴィス・プレスリーの歌をスメル語に翻訳して、CDまで出したという話があるが、それはあくまでも学問上の奇癖にすぎない。そのたぐいの死語にはここで触れないことにする。
  第二種類は、もう普通の話し言葉ではなくなったと同時に、ある形では現代人によってまだ言語として使用されるものである。その使用にもいくつかの違う形があると注意しなければならないが、その点はあとに論じることにする。先にも述べた通り、この場合には死語という名前は適していない、ただ一般の人(言語学者を含めて)がその単語を使っているのでここで使うことにした。皮肉的な呼び方とみても差し支えがない。特にヨーロッパで死語と呼ばれているのは古代ギリシア語とラテン語であるが、あとで示す通り、ラテン語が「死語」の中で一番生命力を有している言語である。そういうことから見ると、この第二種類の死語が、むしろ「ほとんど文章だけに使用される古代言語」と呼んだ方がいいと思う。しばしば(特にサンスクリット語、ラテン語の場合)その書き言葉専用語が会話、講義、宗教論の為、口頭上の役割を果たしているが、この口頭の形が書面の言葉を標準にしているので、口頭言語の次元が完全に二流的である。現代に生きている「死語」がほとんど書き言葉であることに注意されたい。
  また注意したい点がある。「死語の復活」という現象をそれぞれ特別な形で代表する二つの言葉にはここで言及しないことにするが、それはアラブ語とヘブライ語である。周知の通り、ヘブライ語は今世紀の一種の言語的奇蹟としばしば言われてきた。二千年以上前から言語学者の定義に従えば「死語」と呼ばれるべきこの言葉が、二十世紀に入って、政治的、文化的にも多様多彩な過程を経て復活し、イスラエルという新国家の国語となった。国語になってから、世界の各国からイスラエルに移住してきた人々の話し言葉として使用され、二、三世代だけで、生まれてから両親と周りの環境の中で学んだ他の国の言葉並みにその人々の母国語になり得た。生語になったので、現代ヘブライ語がこの話しの枠外にあるが、これだけ注意しておきたい。一般人の話し言葉でなくなった(正確にその時代がいつだったのか定められないが、大体の学者は紀元前後を指している)ヘブライ語は口頭言語でなくなっただけで歴史から消えたという妙な(言語学的な)偏見のせいで、この二千年の間の発展が無視され、いかにも晴天霹靂のごとく死語の状態から蘇って、紀元前後に消えてしまった言葉が三百万人の日常言語に変身したという錯覚に陥る人が少なくない。ありていにいえば全然違う。まず現代ヘブライ語は聖書に使われた古代ヘブライ語とずいぶん違うものである。その違いを浮き彫りにする為、ある人が現代言語を「ヘブライ語」でなく、「イヴリット語」と呼ぶ程である。ヘブライ語からイヴリット語への変化過程を理解しようとすれば、ヘブライ語がもっぱら書面言語であった二千年の歴史を無視することができない。中世時代のユダヤ人の宗教家、哲学者、詩人の功績を経て、十九世紀になってヘブライ語を自分の作品に選んだ学者、小説家、新聞記者の業績に至るまで、普通の言語学の観点から「死語」と呼ばなければならないこの言葉が驚く程の生命力を顕わした。宗教儀式以外にほとんど口頭には使用されなかったこの言葉が普通の話し言葉並みの変化を示していたと認めざるを得ない。文法から見ると、動詞の活用(特に時制)も、所有代名詞の系統も、名詞の限定の系統も、聖書のヘブライ語と比べるとたいへん変わってきた上、語彙の面も、新語、外来語、意味展開のいろいろな発展が、「生きている言語」とまったく同様に、その長い歴史を経て示された。二十世紀の話し言葉としてのヘブライ語の復活が奇蹟的に見えたのは、この二千年の書面言語としての歴史が無視されたからである。しかし、現代のヘブライ語が話し言葉のイヴリット語としてまた言語学者の研究の対象になったので、ここで触れないことにした。
  アラブ語も立派に生きている「死語」だと言わなければならない。周知の通り、アラブ語の世界は二つの次元 を含む。一方は日常会話の手段となっている、アラブ各国でそれぞれ互いに違っている諸方言である。大雑把に言うと、シリア、レバノン、アラビア半島、エジプトなどの東の方言群と、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、すなわち北アフリカの方言群との二大部分に分けることが出来ると思う。アラブ人の本当の母国語であるもろもろの方言は比較的に少ない例外を除いて、文面に表わされていないものである。もう一方、日常の生活を超えた次元の話題について、例えば宗教的、学問的、哲学的な問題を口頭で扱う時には、同じアラブ語と言いながら、違う次元の言葉を使用しなければならない。それは古典アラブ語、または筆記アラブ語、書面アラブ語などと呼ばれ、コーランが出来た七世紀から数世代の間に文学言語として開花した古代アラブ語とさほど変らない言語である。いくつかの発音上の習慣が十三世紀の間に変転したとはいえ、文法的にも多少簡単化されたが、数多い現代用の新語を除けば、今日刊行されているアラブ世界の新聞、雑誌、書物のすべての文体は古代のと大同小異である。またアラーの神の言葉そのものとされているアラブ語は、アラブ諸国を超えてイスラムの布教により、非アラブ語圏の国々にも波及し、そこで本当の意味の聖語制hieroglossiaが支配したと言える。アラブ語が聖語であり、その国の本来の言葉、すなわちペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語等々はアラブ語を最終的指南にしている俗語である。
  アラブ諸国で見られる言語状態は明白に英語でいうダイグロシー「二重言語制」という現象に当たるので、私のここで扱っている「死語」の生存とはかなり違う気もする。日本と比べると、二十世紀初期まで使われていた書面言語としての文語と口語の違いと見た方が適当である。もう一面、加えて述べてみると非アラブ諸国で行われているアラブ語の使用が私の対象にしている「聖語制」に当たるとは言え、他の場合よりかなり複雑、かつ曖昧なので、アラブ語の専門家に正確な評価を任せた方がよろしい。
  ヘブライ語の二千年の歴史を無視して、あたかも二十世紀に話し言葉として突然復活したごとくが奇蹟と看做されたように、今日行われた数多い古代言語の復活の試みにしかるべき注意を払わなければ、将来起こりうる幾つかの「奇蹟」に驚かされるかも知れない。
  次に、日本でもいろいろな角度から批判の的となっている漢文、特に日本式の漢文訓読はより広く、全ユーラシアに渡っている文化現象の一面に過ぎないという事実を明らかにしたいと思う。

 現在観察されうる古代言語の復活運動は、その性格と原因によって区別して次のABC三組に分けることができるのではないかと思う。
A.昔、他の民族と言語の政治的、文化的な圧迫のため完全に消えた言葉が、その話者の子孫によって、主に自己意識を元に現在復活させる。そういう言語は完全に断絶されたために、滅びた時から再び使用される時までの間、筆記言語としても使われたことがなく、その場合全くの復活とみなしても良いと思う。その点では他の二種類と性格が多少違う。また、政治的な動機も無視してはならない。この種類の言語として、次の二つだけ挙げておこう。

1.コーンウォル語(コーニッシュ語)は、英国のコーンウォル地方に一八〇〇年頃まで話されたケルト系の言葉で、現在数万人の話者を有しているフランスのブルターニュ地方のブルトン語に非常に近い。中世時代に話されたようであるが、文学作品は非常に少ない。英国の他のケルト系の言語、すなわちスコットランドのゲール語とウェールズのウェールズ語が(後者の方がコーニッシュ語に比較的近い)古い文学(ゲール語の中世文学がアイルランドで黄金時代を迎えた)を誇り、現在でもそれぞれ違う形で生きているのに対して、コーンウォル語を母国語にしていた最後の女性が十八世紀末になくなった時、この言葉が本当に死語になってしまったといってもいい。しかし、今日のインターネットを参考にすると、コーンウォル語の復活に関するサイトが数十箇所あるという驚くべき事実がわかる。その他にも、コーニッシュ語でしか書かれていない月刊誌が一つ、多数の教科書と書物が出版され、いくつかの会話クラブもできた。
  コーニッシュという死語の復活運動がより広く、ケルト文化の復興という一般的な枠に位置付けなければならないと言っても、その復活運動に参加している人々の動機について決定的な原因を指定することは難しい。漠然ながらも、自分がケルト人の末裔の意識をもっている人であるならば、なぜ生きているケルト系の言葉を勉強して、それを復興することに全力を捧げないのであろうか。たとえば、消滅する寸前のスコットランドのゲール語をなるべく生かした方が文化上に役に立つのではないかという気がする。一種の流行の影響はコーンウォル語の場合には否定できない。また、合衆国の市民でありながら、コーンウォル出身者の子孫という自己意識のある人々が、インターネットのサイトから見ると、その復活に有意義な力を加えているようである。思うに、その復活活動の動因が文化的、知識的、精神的であり、またある意味の自己意識(アイデンティ)の象徴と言えるであろう。しかし政治的な要素が少ない。インターネットのお蔭か、昔の言語学の教科書で滅びた言葉の例としてよく挙げられるコーニッシュ語が、かなり限られた規模であるが、復活することのできた死語の例としてこれから挙げられるのであろう。

2.古代プロシア語。この言葉はリトアニア語、ラトビア語とともに十六世紀から筆記されている所謂バルト系 語の一つであるが、最近旧ソ連から独立したリトアニアとラトビアの言葉が数百万人の話者を誇っているのに対して、ゲルマン族、そしてスラブ族の侵略を受けたプロシアの言葉は十八世紀からこの世から消えたので、それは古代プロシア語と呼ばれるものである。周知の通り、バルト系諸言語、特にリトアニア語は、スラブ語系に非常に近くありながら、古代インド・ヨーロッパ語と多くの共通点をもっている。ルーテル教の教理問答集やいくつかの語彙集でしか知られていない古代プロシア語がリトアニア語よりもたいへん古い単語と文法を伝えている。有名な例として、サンスクリット語のkrsna「黒」とほとんど同一の単語kirsnaを保ったヨーロッパ言語は古代プロシア語だけである。古いプロシアの地方に住んでいたバルト系の民族がゲルマン人やスラブ人と次々と混じってきたので、現在プロシア人であることがいったいどういう意味を有するのか分からないが、先のコーンウォルと同様に、その地方に住んでいる何人かの人々が古代プロシア語を復活させることに自分の使命感を抱いた。インターネットで調べると、PRUSAという会がそういう計画を実現するためにできたということが分かる。この会の会員の大部分の人々が言語学に従事しているらしくて、まずプロシア語の現代用語を作ろうとしている。プロシア語の現代語彙を成立させるために、一番近いリトアニア語をある程度まで見本にしているが、この二つの言語の間になるべく区別をしようとして、言語学の原則にしたがって「プロシア語らしさ」を忠実に伝えようと努力する。古くから数百単語しか伝わらなかった古代プロシア語に、他の言語並みに現在の世界に対応する数万語の語彙を作り上げることはいかにも風変わりな学者たちの遊びに過ぎないとかたづけられがちであろうが、この運動にも無視することのできない政治的な次元がある。インターネットのサイトを見ると、プロシア民族の国土として、ロシアの領土でありながらリトアニアを真ん中に挟んで地理的にロシアから切り離れているカリニングラード(カントの故郷として有名、戦前のケーニヒスベルク)の地方を要求していることが分かる。学問上の遊びと見なさず、ロシア、ドイツ、ポーランド、バルト諸国間の複雑な領土・文化紛争の一面として古代プロシア語の復活運動と看做した方がふさわしいかも知れない。今日カリニングラード地方をめぐって強まってきたドイツ人とロシア人の対立を突破するために、プロシア語復活運動ができたとも言えるが、所詮コーニッシュ語ほどに成功するかどうか疑わしい。

B.前の範囲が政治的、民族の自己意識を中心にしている現象であったのに対して、第二のはむしろ純粋な学問 上の関心からできた「死語」の復活運動を含む。学者の遊びか、語学実験とそれを呼んでもいい気がするが、この方面の試みが飽くまでも書面またはインターネットの枠を出るはずはなく、政治的、民族的な動きに連なる見込みはまったくない。興味深いことに、インターネットができたからこそこのような実験ができたのである。インターネットがなければ、世界中に四散している当言語の専門家たちがおそらくそれほど簡単につながり、即席に自分の提案を実現させることもできないであろうし、また専門家以外の人にも彼等の業績に注目させることはできなかったであろう。非常に限られた範囲であるので、ここで短く二例だけを挙げよう。

1.一番驚くべき例がゴット語の復活運動である。この言葉がゲルマン系諸言語の中で歴史上最も古い跡を残し たもので、はやくも四世紀にウルフィラという人物によってなされた新約聖書の翻訳が残された外、十八世紀に東ゴット族の末裔がまだ生き残っていたクリミア半島でしたためた語彙集によってしか知られていない。最近、主に合衆国とスカンジナビアで活躍しているゲルマン語学専門の少人数の学者がインターネットでサイトを作り、それを通じてかなり面白い実用語学の実験が行われつつある。特に注目されるのは、この動きの裏には学問上の動機しかないということである。どう考えても、ゴット語を復活させて得られそうな政治的効果がないので、純粋な語学実験とみなすしかない。電子メールのことをsprautme、ljan、コンピューターをgarahnjaと訳して、現代生活を反映する多数の新語をつくる事は、その語学的遊びの楽しみの一つらしい。

2.1に酷似している古代英語(Old English)の場合もある。インターネットに古代英語の日常会話(挨拶など) を教えるサイトが現われた。イギリスらしいユーモアをおびるもので、かなりアングロ・サクソン語の知識を必要とする言語遊びのようであるが、ある程度まで十九世紀で始まった英語の本来の語彙から、十一世紀のノルマン侵略とともに渡来したラテン・フランス語系の単語を淘汰する試みとつながっているのではないか。そういう意味で、世論調査に依る二十世紀の最大英人作家J・R・R・トルキーンの言語思想とは切り離せない、いかにも文学的、いや時代小説的な娯楽とみなした方が適すると思う。

C.第三種類は前の二者と比べてはるかに広いものである。これをより正確に分析するのに、幾つかの下種類を 区別する必要があるが、まず共通の定義を試みるなら、前両者との主な相違は、第三種類の言語が古代に遡る豊富な文学をもっているとともに、現代に至るまで絶えることのなかった伝統を特色としている。これらの言語は聖語として、文化集団の中心になっていると言ってもいい。聖語としては宗教礼拝の専用語の役割を果たしている限り、保存されてきたのに疑いない。たとえばソ連が滅びた後、古代スラブ語(教会スラブ語とも呼ばれる)が東欧のギリシア正教のスラブ言語圏で復興過程を歩んでいるように、また古代アルメニア語(グラバル)が二十世紀初期までアルメニア文化の中心地であったウ[ンとベニスで書面言語として盛んに利用されて、アルメニア文化の現代化のため大いに活性化し、二十世紀に地中海のほとりに離散されたアルメニア移民がいわゆる西アルメニア語と、本場のアルメニアに残った民族が東アルメニア語の両方言を使う様になり、古代語が今日ほとんど新作品と翻訳のために使用されなくなってしまったが、礼拝式用語としてアルメニア内外の教会に保存されてきたようである。それにもかかわらず私の知っている限りを述べると、次の二言語と違って、教会スラブ語と古代アルメニア語が復活の対象となっていないのである。

 それに対して、シリア語とコプト語は生命力を取り戻しつつあると言える。両方とも非常に古い言葉である。紀元後二、三世紀に筆記される様になったシリア語が東アラム語の方言であり、その時から十三世紀の蒙古侵略まで、キリスト教に染まり豊富な文学を生みだした。七世紀のイスラム台頭により徐々に中近東の話し言葉としてアラブ語が押しつけられたが、十三世紀の博学作家バル・ヘブレウスがシリア語文学の最後を遂げたと一般に考えられていたが、旧東ドイツの学者マクッフ氏の研究によると、古典シリア語の文学が二十世紀まで存続してきた事実が分かる。この半世紀にシリア語研究家として有名だった故アブロホム・ヌロ神父が古典シリア語で詩を即興的に作り西洋の学者を驚かせていた。それに加えて、最近の中近東における政治状態のため、レバノンのキリスト教信者による、古典シリア語が見直されるようになった。イスラム教徒とキリスト教徒との関係が悪化すると同時に、アラブ語がますますイスラムの専用言語とみなされるようになってきた。十八世紀に始まったアラブ文学のルネサンスではレバノンのキリスト教の学者の果たした役割が非常に大きかったが、中近東のキリスト教信者の自己意識の象徴としては曖昧になってしまったと言える。また、レバノン人が好んでフランス語をつかっていたにも関わらず、植民時代が終わった後、ヨーロッパの言語としてのフランス語が中近東の民族に適しないという反感が強くなってきた。レバノンのキリスト教信者が非回教徒として自分が一応アラブ語の世界から排除されると感じるようになった(またイスラムの原理主義者がイスラム以外の人によるコーランの聖語であるアラブ語の使用禁止を主張することもある)。一方、非ヨーロッパ人としてもっぱらフランス語に頼ることも物足りないと思うのであろう。そういう両刀論法に挟まれるレバノンのあるキリスト教信者が古典シリア語に戻ることを主張しだした。特に八十年代に戦争のためレバノンから亡命してアメリカなどに住み着いた集団の中に、アラブ語圏と縁が疎くなったので、シリア語を自分の言語にする傾向が目立つ。興味深いことにインターネットでは古典シリア語の会話講座が流されることがある。また、その運動における復興されたヘブライ語の成功の影響を無視することはできない。
  シリア語はレバノンをはるかに超える広い地帯に渡る。カトリック(マロン教)、ヤコブ派、ネストリウス派などの色々なキリスト教の宗派の聖語となっている。非常に古い時期から南インドのケララ州に住んでいるキリスト教信者(昔は聖トマスのキリスト教徒という名で知られていた)の話し言葉がタミル語と同系であるマラヤラム語なのに、聖語は昔と変わらず古代シリア語に他ならない。最近までその地方の聖職者は、少なくとも礼拝式に参加する程度のシリア語の知識を身につけなければならなかった。学問を修めた僧侶たちがシリア語で自由に文章を書いたり、会話をすることもできた。そのため、十九世紀になるとマラバル(ケララ州の別名)のキリスト教信者をわが宗派に改宗させようとして西洋からインドに派遣させた。そのカトリックやプロテスタントの宣教者たちには古代シリア語の知識が必修であった。しかし、ケララ州の本来のキリスト教集団の間では、礼拝と神学の用語としてその聖語を、州の公用語であるマラヤラム語に取り替えようとする運動が非常に強くなったため、限られた学僧と研究者の間だけにとどまり、シリア語の知識とその重要さの認識が徐々に減ってきたのは事実である。代々宗教を異にするゆえに、同じシリア語を聖語として使っていながら、相互関係がたいへん悪かったこの諸々の宗教集団が、かなりの親近感を抱く様になったことはこの時代の特徴と言えるかも知れない。特に欧米に亡命した人々の場合はそう言える。
  コプト語は国際的な聖語とも称するシリア語とは対照的に、一つの民族と一つの宗派に限られていて、現代エジプト人の一割に達している。周知の通り、コプト語は聖刻文字で表記されていた古代エジプト語と根本的には違わない、聖刻文字からギリシア系のアルファベットに表記法を替えた言語である。紀元後二、三世紀ごろに流布されたこの言葉は、古代の多神宗教の象徴であった聖刻文字から完全に切り離され、そしてキリスト教徒の特別言語となった。文法上、古代エジプト語の最後段階を表記したデモチック文字の言葉に最も近い。三世紀から七世紀にかけて、ギリシア語のキリスト教文献の翻訳を中心として、豊富な文学が生まれた。また、コプト人自身が作った教会歴史、聖者伝に関する文献も多かった。七世紀のイスラムの侵略のため、シリア語の場合と同じく、アラブ語が政権の言語となった後、次第に日常の話し言葉の役割も奪われた。多くの言語学者に依ると、コプト語が息絶えたのは十七世紀ごろであろうが、何人かの学者やコプト人の証言によると、コプト語をまだ話していた農村や家族が二十世紀まで生存していたそうである。いずれにしても、古代エジプト語からのコプト語は、 四十六世紀という世界一の長い生命をながらえた言語である。十九世紀に、コプト教会はコプト語の知識を神父と僧侶の間に再び広げようとし、今世紀の七十年代から積極的な復活運動が生まれた様である。勉強用の録音テープも作られたし、コプト学の国際会議に於いて、コプト語で発表するエジプト人も現われた。イスラム化が過激化したためエジプトから脱出するコプト人が増加し、欧米の国々に住み着くようになった為に、エジプトの国語であるアラブ語との縁が疎くなると同時に、コプト人の自己意識の柱石となるコプトのキリスト教とその聖語なるコプト語がおのずと重視されるようになってきた。コプト人の文化復興の大なる記念ともいうべき、アラブ語、仏語、英語の「コプト百科辞典」が出版された。
  思うに、シリア語とコプト語の現状はイスラエルの国家成立以前のヘブライ語の状態にかなり似ている。母国 の政治・経済的条件のために亡命し、西洋に四散した中近東のキリスト教徒にとって唯一の繋がりを象徴として残すのは聖語しかない。これからこれ等両言語がヘブライ語と変わらぬ素晴しい宗教的、哲学的、詩歌的な文学を生みだすか、あまりにも昔との条件が変わったとはいえ、インターネットで調べられたところでは、曾てなかった大規模の活躍が行われていることは否定できない。それにひきかえ、生存している古代言語の中でサンスクリット語は特別な地位を占めている。ここで挙げる言葉の中で国家によって正式に認められたのはサンスクリット語だけである。戦後、独立したばかりのインドがまず直面しなければならなかった問題の中で、言語問題が決して末梢的だったとは思われない。言語学者によって数百種類の言語を誇り(?)とするこの国に一つの公用語を決定させようと計画しいち早く断念せざるを得ないと見た政府は、ヒンディ語を一応国語と指名しながら、言語的に統一される国家ができるまで十五ケ語を公用語にした。ヒンディ語、ベンガル語、タミル語、テルグ語など、インド・アーリャとドラヴィダの両系統に属している現代言語が主に代表される中で、驚くべきことにそれらと肩を並べて入っているのがサンスクリット語である。なぜ新しい国家がこんなに歴史の逆方向に向かう政策に乗ったかという疑問をインド内外にたちまち生じさせた。その決議の原因として、インドに於ける非常に複雑な言語状態が挙げられる。北方のインド・アーリャ系に属しているヒンディ語を国語にしようとする政策がドラヴィダ地方の南インドを中心に強い反対運動が起こり、その言語の対立を突破する言葉を探さなければならなかった。全国の具体的な用を足すため、止むを得ず植民主義の形見として残っていた英語をしばらく公用語として利用する他に統一する方法がなかったので、政治的にも文化的にも独立した新インドを統一するための要素を三千余年まえ印欧民族がもたらしたサンスクリット語に求めたのは実に珍しい発想であった。しかし實のところ、植民言語の英語と平衡をとる役割を果たす唯一な言葉がサンスクリット語だったことは確かであった。インド学者のピーエル・シルヴァン=フイリョザの言葉を借りると、「サンスクリット語はインドの統一された文化伝統を最もよく象徴するものである」。
  サンスクリット語の現代的発展を遮るいくつかの困難がある。イスラムの侵略から比較的に守られた南インドのタミル地方には話し言葉としてサンスクリット語がバラモン族の間で最も流布されていたが、独立後に台頭してきたタミルの民族主義がまず批判の的に選んだのはタミル民族のサンスクリット化の前衛隊とみなされたバラモン人であった。また、タミル語に入っている数多いサンスクリット語を追い払おうとしている。その新しい過激主義によって、サンスクリット学問のとりでであったタミル州に於いて現在サンスクリット語の状態が危うくなっている。また、各州の学校教育に於いてインド政府は「三ヵ国語制」を実行しようとしている。その政策に随うと、インドの子供たちは学校で三つの言語を勉強しなければならない:すなわち、第一にその母国語(大体の場合、その州の言語にあたる)と、第二に臨時公用語の英語、第三に本当の国語にならんとするヒンディ語の三ヵ国語を学ばなければならない。もしカルカッタの生徒の例をとれば、彼等は英語とヒンデ黷xンガル語を身につけなければならない。こういう「三ヵ国語制」の下では、サンスクリット語はどうしても第四位しか占められず、 その立場が非常に弱くなり、充分な勉強の対象になり難い。
  そういう困難にもかかわらず、サンスクリット語の復活は意外な方面で目に留る。以前から、インド国営放送 局オール・インディア・ラジオが毎日サンスクリット語のニュースを流している上、一社の新聞と児童月刊誌を含めて数多くの定期刊行物も出版され、新しい演劇作品も上演され、流行歌も作られている。現代生活に応じる日常会話を中心とする教科書も編集されている。最近では、ヒンズー教系の過激派が発展するにつれて、宗教象徴としてもサンスクリット語が政治家に重視されてきた。
  インターネットにも関連のサイトがいくつか作られたが、次に言及するラテン語と比べると、サンスクリット語の復興過程はまだまだ初段階にあるとしか言えない。

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漢文は死語ではなく、私は漢文で論文を書いてますが、何はともあれ、全文轉載。
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二十一世紀の漢文-死語の将来- 1(Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授

其の一

はじめに

 パリ大学をはじめとして、のち国立高等研究院の宗教学部でフランス人の学生たちに漢文入門講座を担当しだ してから、早くも十五年以上になる。一年間で終わるこの入門講座は、大学で「日本文学」という専門コースを選んだ学生にとって必須科目なので、パリ東洋語学校の学生を含めて、毎年十人位を相手に講義する。
  担当者として、日本語の学生に漢文を教えることの主な困難は、まず漢文の勉強の必要性を理解させることで ある。ここで漢文というのは、いうまでもなく中国の古語(中国語では「文言」と呼ばれるもの)を指すだけでなく、歴史を経て日本語の発音と文法に順応させられた、「返り点」を使っての「訓読」を中心にした日本独特の言語現象を意味するので、この言語現象に対する一般学生の反動はもっとも当然であろう。つまり「日本語を専攻している僕等がいったいなぜ漢文のようなややこしいものに煩わされなければならないのか。つまり古典中国語を読みたいなら、中国語を直接に勉強した方がずっと分かりやすいのではないか」等の意見がしばしば聞かれる。長年の経験から、私は最近、まず講義を始める前に「漢文の弁護」とも名付けられる短い話をすることにした。
  そこで、誰でも分かる簡単な譬喩で説明する。もし日本歴史の初期から明治時代まで文字で表記されたすべての文章を、漢文か仮名まじり文で書かれたものによって二つの部分に分けた上、それぞれを天秤に乗せるならば、漢文の塊の方が仮名書きの塊よりはるかに重いという事実に注目させる。ということは、広義の文学、すなわち詩や美文だけでなく、医学、数学、工芸などの技術と科学に関する文章や古文書と碑文の様な史料を含めた意味の日本文学を顧みると、漢文で書かれたものがその大部分を占めていることがわかる。それが故に日本人が作った漢詩、歴史、美文の漢文文章はともかく、一般の明治以前の社会の勉強を目指す学生にとっても、漢文の知識が不可欠だということで話を結ぶわけである。
  今日でもフランスの中学校でラテン語の教育が行われている。十七世紀までのヨーロッパに於ける学問の共通言語としてのラテン語と東亜に於ける漢文の位置を比較すると、学生たちは何となく漢文学習の重要性を納得するのであるが、なぜ「訓読」というとんでもない読み方に従ってそれを解読せねばならぬかという理屈を分からせるのはなかなか困難である。そこで、私は次の三つの理由を並べて、訓読の価値を説明する。
  第一の理由は、日本語学の範囲を超えた一般的な学問上の論拠である。すなわち、寡聞ながら、返り点による 日本式の漢文訓読に類した言語現象は東西にわたってどこにも存在しないものである。朝鮮半島とベトナムで漢文が存在していても、その読み方はむしろ日本でいう素読や棒読みに似たものであり、朝鮮漢文の場合、送り仮名に近いものがあるが、返り点は使わない。また返り点の起源について、確かに古代朝鮮説が有力であるが、それがかなり早い時期に放棄され、より簡単な仮名まじりの棒読みが広がったために、返り点付の訓読を現代まで生かしたのは日本だけだという事実は否定できない。したがって、その言語現象は唯一無二のものであるだけに学者の注意を引くに充分である。いわば、一つの文法に随う書面言語(古典中国語)が、もう一つの、文法的には完全に違う口頭言語(日本語)で表現されるという不思議な工夫が日本式の漢文である。類似した現象を全ユーラシアに探してもなかなか見つからない。敢えてそれに近いものを見出だそうとすれば、古代中近東のヒッタイト文字と、中世ペルシャのパフレビ文字の例が挙げられる。前者の場合、セム語族が表記するアッシリア・バビロニアの楔型文字を借りて、インド・ヨーロッパ語族に属しているヒッタイト語の言葉でそれを口頭で読んでいた。日本語でいえば、漢字で「山」と書き、読む時は「やま」と発音する習慣に非常に近いと思われる。後者の場合、やはりセム語族が普段表記するアラム文字をインド・ヨーロッパ語系の中世ペルシャ語に当てはめられたものであるが、先の楔型文字と違って、アラム文字がアルファベットであるにも関わらず、パフレビ語話者がそれを表意文字として利用することはなかなか興味深いものである。平たく日本語でいえば、ローマ字で 「mountain」と書いて、それを「やま」と読ませる様な工夫と変わらないのである。その二つの場合も、日本語の漢字の音読と訓読の方法に酷似しているが、日本式の漢文訓読、すなわち漢文の「読み下し」とは本質的に違うことに留意しなければならない。
  もう一面から見ると、蒙古の仏教寺院で行われていた僧侶の教育方法には、日本漢文の訓読に漠然と似た練習 があったそうである。二十世紀の蒙古の偉い学僧の回顧録を読むと、子供時代の仏教経典が読めるまでの勉強を描写する場面が出てくる。蒙古人にとって聖語だったチベット語を把握することが優先であったので、その目的に達するためにかなり有効な練習法を発展させた。初心者の小坊主が先生のもとで、まず経典の原文をチベット語で一句ずつ読み、次にその一句を蒙古語に翻訳させられる。また逆に蒙古語訳を読み、それをもとのチベット語に直させる。そういう集中的な訓練をして、蒙古の学僧たちが自分の母国語より、学問の聖語だったチベット語で驚くべき量の論文を数世紀かけてしたためた。奈良時代の大学寮で行われた漢文教育がその方法に近かったのではないかと、私は時々想像するのであるが、蒙古寺院の場合、漢文訓読との著しい相違は蒙古語(蒙古文字)とチベット語(チベット文字)がはっきりと区別されていることである。日本の漢文では、完全な二重的構造を有する一つの言語であることを強調しなければならない。奈良時代にはまだそうでなかったと思われる。古典中国語で書かれた文章をまず当時の中国の発音になるべく近い音で読み、次に当時の日本語に口頭で直す習わしであったそうであるから、蒙古の僧侶の練習に似たものだったかも知れないが、後期に行われた日本式の漢文訓読とは非常に違う。そういう理由だけでも、言語学、文字歴史、あるいは広く人間の精神史、文化史に興味のある人ならば、独創性の強い日本式漢文を一応勉強する甲斐があることが明白になる。
  二つ目の理由として、より直接に日本文化史と関係している。日本の古典の文化を支えてきた古代中国人によ る古典中国語の「四書五經」などは中国語のままで読めば忠実な理解が得られると常識として考えがちであるが、そこでもヨーロッパ文化史と實相を比較すると、その常識だけでは足りないということが分かる。たとえば誰か がプラトン哲学を真面目に勉強しようとする。もしその人が古典ギリシア語を知っているならば、プラトンの作品を直接に熟読し、あらゆる資料を参考にすることによって、プラトン自身とその時代についてできるだけの知識が得られる。それはもっとも効果的な方法であろう。もしギリシア語の知識が皆無であれば、フランス語、ドイツ語、英語などで出版された翻訳を集めたり、それを比較しながら自分なりの解釈を立てるのも、現在の哲学の一段階としては、それだけの価値を有するもう一つの方法として可能性がある。それに対して、ルネサンス時代のヨーロッパにおけるプラトン哲学の受容と展開を研究しようとするものであれば、前の二つの方法はどちらも無駄になる。この場合、まず不可欠なのはフィレンツェのマルシリオ・フィチーノによって十五世紀に行われたプラトン全集のラテン語訳を熟読する事である。現代的な方法に随う校訂者が出版したプラトンのギリシア語原文も、またその原文を基準にして行われた現在の翻訳もそういう勉強にはあまり役に立たない。ルネサンスの当時に流布した写本を使い、当時の理解に基づいたフィチーノのラテン語訳か、また当時その翻訳からヨーロッパの話し言葉(イタリア語、フランス語など)に直されたプラトンの重訳を参考にしなければ、目指している研究を有意義的に果たせないことは論を待たない結果である。
  日本式漢文もまたしかりである。例えば江戸時代の儒教史を勉強しようとする学生にとって、春秋時代の古代 中国語をなるべく忠実に訳述した英・仏語の現代訳や古代中国の歴史と言語を標準にする解釈だけを利用するだけでは、江戸時代の儒教者の解釈が分からなくなる。簡単な例を挙げると、論語の最初にある名文「孝弟也者其為仁之本與」の後半を「それ仁のもとたるか」または「それ仁をおこなうのもとか」のどちらかの訓読にしたがって読めば、意味が多少変わってくる。江戸の儒教者の注釈史を目指す人は、まず顧みなければならないのがその人の訓読の仕方である。論語の場合、前漢の時から出来た集成の原文が一方に存在する。それを早く言えば永久不変の文章であって、それをなるべく正しく理解しようとすれば、春秋時代の中国語から漢朝の思想史までの研究をもとにして勉強を進めなければならない。もう一方、日本の思想史に包摂された論語の受容に重点を置こうとすれば、ある程度まで(あくまでもある程度までであるが)原文中心主義的の「偏見」をさて置き、その代りに歴史を経て変遷した日本人的な訓読(読み下し)を重視しなければならないのも最も当然である。
  普通子音だけで表記するアラブ語やヘブライ語では、母音を言葉の上下に小さな点と線で書き加える。アラブ の文法学者はその母音の役割を、骨である子音に対して血か魂に例えるそうである。骨の間に血が流れるとようやく言葉が生きてくる、という象徴に富んだ譬喩である。日本式訓読の場合、日本人にとって漢文の原文を生かしている力は返り点と送り仮名である。まさに漢文の血または霊魂に喩えられる。中国人、少なくとも古典的な教育を受けた中国人にはもちろん白文で充分であるが、日本人にとって訓読という媒介がなければ、文章が死んでいるとも言えよう。それ故に、一定の時代の日本における中国文化の影響を理解しようとする人には、その時代の訓読をも顧みる必要がある。

  第三の理由は日本人によって作られた漢文の作品に関するものである。いわば、第二の理由の対称と言っても良い。元来中国人の頭でしたためられた文章を日本人の語感に移す過程としての訓読に対する段階、日本人の頭でできた文章を今度は古典中国語に直す段階である。漢文から訓読への移行が逆に訓読から漢文への移行となる。この場合、日本式の漢文訓読を充分に勉強する必要はそれ以上論ずるに及ばないが、日本語の読み下しでなければ、その文章のリズムや余韻などを味わうことが不可能になり、また、和臭漢文、変体漢文になると、日本式訓読が第一の条件になってしまう。私のように、日本天台宗の論義に興味のある人ならば、数多い論義集を正しく理解するために、日本語で読まなければならない。私の講義に出席する中国語の学生にとって、古典中国語の知識だけで、日本の資料を読もうとすれば必ず誤解が生じる。例えば、室町時代の『柏原案立』という論義集の冒頭にある句を引用してみると、「二佛並出不可有云事」(二佛並出あるべからずということ)の前半には「不可有」まで中国語で解読しようとすれば、あまり問題はないが、後半の「云事」が前半にどういう風に連なるかと正しく判断するために、日本語の訓読「ということ」にしなければ、とんでもない意味になってしまう。無理に「二人の佛陀が同時に出てもいうことができない」というようなわかった様なわからない文になる。正しい漢文では、この文は「所謂二佛不可並出者」のようなものになると思う。弘法大師の美文「三教指歸」はもともと何語で読むべきだったかさだかでないが、かなり早い時期から日本の僧侶が漢文の原文に素晴しい読み下しをつけたので、その日本訓読をもって読まなければ、文学的にも、思想的にも誤解の生ずる恐れが大きい。
  以上の三つの理由を並べて、漢文入門の講座を受ける日本語科の四年生に日本漢文の重要性を心得させる。ほかにもいくつかの理由が上げられる。特に平安時代からはやりだした和漢混淆文から、第二次世界大戦まで学問、歴史、法律などの専門分野に認められた「普通文」に至るまで、また場合によって幸田露伴のような大作家の文 体を充分に鑑賞し分析するために漢文訓読の基本知識が非常に重要な道具であることを理解させ、講義中に文例(たとえば露伴の「運命」の初頭の部分)を見せる。

 前にも書いた通り、学生たちに東亜に於ける漢文の地位と、欧州に於けるラテン語の地位とを比較してみせる と、一見してごく不自然に見えた日本漢文の現象が初めてより広く、ユーラシア全体の枠に位置付けることができる。極東の漢文=欧州のラテン語という簡単な方式が成立した以上、やはり比較を他の文化圏に広げようとしてみるのは、おのずから合理的な方法と思われる。言語文化史の観点よりユーラシア大陸の文化の歴史的展開を一瞥すれば、興味深い事実が目につく。非常に古いスメル文明やエジプト文明の時代から、現代のアラブやイスラムの世界に至るまで、そのもろもろの文化圏はみな、普段の話し言葉と相当離れた形をもち、どんな民族にも属していない伝統的なまたは聖なる性格を有した言語を専ら使用してきた。ヨーロッパでは十七世紀から、東亜では二十世紀に入ってからようやくその情勢が変わったため、わずかにこの二、三世紀の新しい状況に慣れてきた多くの人々が、五千年間ユーラシアを支配していた文化情勢をあたりまえと思わなくなった。五千年の間、司祭、学者、文人、官吏は自分の民族の話し言葉とは直接関係のない言語を採用して、大事なことをつづるためにそれを使用してきた。その文化現象を、私は敢えてhieroglossiaと呼ぶことにして、日本語では「聖語制」と呼ぶことにした。必ずしも適する呼び方でないかも知れない。「聖」と言えば、宗教的な次元と密接につながりすぎる嫌いがあるが、ここでは「俗」の反対語と考えていただきたい。
  このような「聖語制」という現象を出発点として、ユーラシア全体の文化をより総合的に考えられるのではな いかと私は思う。特に俗語と聖語の関係、後者の前者における影響とその逆の影響を調べると、いろいろな共通点が現われてくる。言わば、仏語、英語、独語に於けるラテン語の影響と、日本語(韓国語、ベトナム語)に於ける漢文の影響が立派な比較研究の対象になりえると私は確信している。
  残念なことに、その聖語制はいまだに総合的な研究の対象になっていない。なぜ無視されていたか、その理由 は非常に簡単である。そのような研究を行うはずの言語学者が原則として、生きている言語のみを研究の対象としているという方法的前提なのである。「自然言語」、すなわち生まれながら両親とまわりの環境から身につけた言葉だけが科学的な研究の価値があるという妙な偏見が言語学の方法論に強く傾いているのは否定し難い事実である。古代から生存し、豊富な文化上の役割を果たしてきたもろもろの古典語(聖語)が「死語」という呼び方で侮られて、文献学者の専攻に任せられるようになった。最近の言語学において、確かにラテン語の研究が盛んになってきたように思われる。学会、論文集、単行本でもラテン語を扱う研究活動が少なくないが、そういう研究は飽くまでもラテン語がまだ生きていた時代の現状しか顧みないものであり、むしろ言語学の新しい学説を、 そしてラテン語を実験台として試してみるのが目的である。中世、近世のラテン語を蔑ろにするものである。が、それと対照的に、インドのある言語学者が現代サンスクリット語を調査して、それについていくつかの研究報告を発表したが、まだまだ限界のある傾向を見せているのである。「死語」の中で、現代サンスクリット語だけが特別に言語学者の注意を引いた理由として、インドの人口調査に依ると、今でも数千人のインド人(主にバラモンのカースト出身)がサンスクリット語を母国語と申請した事実があるかも知れない。この様な統計はどこまで信頼できるか疑わしいが、現在に於いてもサンスクリット語を現代語の如く話す人がいることは正当な言語学研究にふさわしい対象と言えよう。
  二十一世紀の漢文の可能性を述べる前に、東亜に於ける漢文というもの自身がいかにも独立した、いや変態な 文化現象ではなく、ユーラシア全体に広がる「聖語制」の一角とみなさねばならないということを改めて強調したい。また面白いことに、数百年、場合によって数千年もの伝統を保ってきたその「聖語」の中には、最近驚くべき復活過程を経ているものもある。この復活過程を一番忠実に反映している情報手段は他でもない、インターネットである。たとえば、英語でOld Tongues Revived(復活された古代語)という単語で検索してみると、世 界中の学者や愛好者が普通「死語」とされているいくつかの言語に新しい生命力を与えようとする努力が明らかに存在しているのである。インターネットという最も現代的な手段が古代言語の復活に利用されるという意外な展開であるが、無視することのできない事実である。
  これからいくつかの「死語」の生存と復活の諸相を調べた上、その復活運動の中で漢文が国際的にどんな役割 を果たしているのであろうか、そしてインターネットという革命的な新情報手段がどういう風にその復活を助けることができるかという問題に言及したいと思う。


http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn122.html
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以下は次頁。


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https://www.afpbb.com/list/helpaboutsite/regist/
AFP通信社に意見しました。
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貴社で六年前から掲載されたままの「尖閣諸島をめぐるこれまでの経緯」 
http://www.afpbb.com/articles/-/2895989?pid=9379872
 日本が領有する以前の
「-15~16世紀:中国明王朝(Ming Dynasty)時代の1403~1534年に出版された書物内、島しょ部の巡航記録で尖閣諸島について記述。」
といふ部分、完全に誤りです。1403-1533の間、尖閣諸島の記述は存在しません。1403年と稱する「順風相送」は1573年より以後に書かれました。リンク: 
http://senkaku.blog.jp/2017112273740256.html
 そして1534年の陳侃の記録は琉球人にパイロットをしてもらったと明記されてゐます。それ以後のこまごまとした歴史は全て日本側に傾斜するものしか存在しません。チャイナに尖閣の歴史は存在しません。一例リンク:
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku04.pdf
 内閣官房報告書の第37頁から「皇明實録」をご參照下さい。

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以下、AFP通信の原文。英文は無いやうだ。
尖閣諸島をめぐるこれまでの経緯

2012年8月20日 12:40 発信地:東京/日本 [ アジア・オセアニア, 日本 ]  

AFP尖閣20120819
 

尖閣諸島の魚釣島に上陸する日本人活動家ら(2012年8月19日撮影)。(c)AFP/Antoine Bouthier
 
【8月20日 AFP】日本が自国領土としているものの、中国が領有権を主張している東シナ海の尖閣諸島(Senkaku Islands、中国名:釣魚島、Diaoyu Islands)をめぐる、これまでの主な歴史上の出来事を次にまとめた。

-15~16世紀:中国明王朝(Ming Dynasty)時代の1403~1534年に出版された書物内、島しょ部の巡航記録で尖閣諸島について記述。

-1895年:1月14日、これまで他国の支配下に置かれていないとして、日本政府が尖閣諸島を構成する無人島5島と岩礁3つを沖縄県に編入。

-1896年:日本政府が、実業家の古賀辰四郎(Tatsushiro Koga)氏に尖閣諸島を貸与。古賀氏はカツオ節やアホウドリの羽の加工工場を設立。後に従業員280人を雇用。

-1918年:古賀氏が死去し、息子の善次(Zenji)氏が事業を継承。

-1940年:古賀家が事業をやめ、尖閣諸島は再び無人となる。

-1945年:日本が米国率いる連合国に降伏し、第2次世界大戦が終結。尖閣諸島は沖縄の一部として、1972年まで米国の統治下に置かれた。

-1949年:中国で共産党(Communist Party)が中華人民共和国を建国。国民党(Nationalists)は台湾へと逃れた。

-1969年:国連経済委員会の調査報告書で、尖閣諸島周辺の海底に石油資源が埋蔵されている可能性を指摘。

-1971年:中国政府と台湾政府が、正式に尖閣諸島の領有権を主張。

-1972年:沖縄が日本に返還。

-1972~1985年:古賀家が栗原家に尖閣諸島を譲渡。栗原家は商売を営み、日本各地に土地を所有している。

-1978年:約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近。日本の右翼団体が魚釣島に灯台を建設(2005年に日本政府が国有化)。

-1996年:右翼団体が別の島にも灯台を建設。香港の抗議活動家数人が尖閣諸島沖で海に飛び込み、1人がおぼれて死亡。

-2002年:栗原家所有の4島のうち3島を、総務省が賃貸開始。残る1島は防衛省が賃貸。

-2004年:中国人活動家らが1島に上陸(逮捕)。2日後、当時の小泉純一郎(Junichiro Koizumi)首相が強制退去処分を指示。

-2010年9月:中国漁船が尖閣諸島沖で、日本の海上保安庁の巡視船に衝突。漁船の中国人船長が逮捕され、日中両国が外交面で激しく対立。経済や政治面でも両国関係に悪影響が及んだことを背景に、約2週間後に釈放された。

-2012年4月16日:東京都の石原慎太郎(Shintaro Ishihara)知事が、栗原家所有の島を購入することで基本的に合意したことを表明。

-7月7日:野田佳彦(Yoshihiko Noda)首相が、政府が尖閣諸島を購入する方向で検討していると発言。

-8月15日:日本の警察当局が、尖閣諸島の魚釣島に上陸した5人を含む香港の親中派団体メンバー14人を逮捕。

-8月17日:逮捕された14人全員を強制送還。

-8月19日:議員を含む日本人活動家10人が、無許可で魚釣島に上陸。

(c)AFP .

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 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。


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https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/honjo-kyoto
本庶氏は著名な科学誌「ネイチャー」と「サイエンス」を挙げてこう語った。

私自身の研究(でのモットー)は、「なにか知りたいという好奇心」がある。それから、もう一つは簡単に信じない。よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。
https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/honjo-kyoto

その通り。小保方女史だけを嘘つきだと苛めるのは駄目だ。

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buzzfeed本庶


 日本は尖閣を空島にしてゐる。それが逆に他國の覬覦(きゆ)を
招いてゐる。軍事的には尖閣は完全に日本の單獨制御下に在るのだから、
すぐに上陸常駐すれば良いのだが、無用の政治的經濟的顧慮により
それをしないのが日本である。
日本が上陸常駐しても數日間はチャイナ側も氣づかないだらう。
何故ならチャイナのレーダーは屆かないし、
チャイナ海警船は領海にほとんど侵入しないから、
チャイナは即時的監視能力が無い。
だからチャイナ側が使用する尖閣の寫眞は全て日本側で
公開したものばかりだ。
ただ近年、世界的に衞星技術が發展してゐるから、
そろそろチャイナも衞星で尖閣の微細な動きまで
監視できるやうになってゐるだらう。
そんな中、チャイナが尖閣を衞星で監測したと稱する圖集が
今年三月に刊行されたので購入した。
『中國釣魚島及其附屬島嶼地名和監視監測圖集』
無人機などで尖閣上空を撮影した寫眞は一枚も無く、
全て衞星寫眞であった。
衞星が周囘して來るまでは、尖閣上陸は見えないといふことだ。

『中國釣魚島及其附屬島嶼地名和監視監測圖集』
國家海洋信息中心、林寧著、海洋出版社、平成三十年三月刊。
https://world.taobao.com/item/570977486716.htm
https://www.ato-shoten.co.jp/index.php/product-102064.html
https://www.amazon.cn/dp/B07D2X7RJT/
http://www.bookschina.com/7796769.htm
http://image12.bookschina.com/2018/20180604/7796769.jpg
http://www.sanmin.com.tw/Product/index/006804499
http://www.shanghaibook.co.jp/book4/551186017.htm
http://www.sohu.com/a/229271596_100114057

中國釣魚島及其附屬島嶼地名和監視監測圖集


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ニューズウィーク日本版  
米朝首脳会談の裏で、日本が打ち上げた事実上の「偵察衛星」の目的とは
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/06/post-10448.php
2018年6月22日(金)19時10分   鳥嶋真也
2018年6月12日、史上初となる米朝首脳会談が開催された裏で、日本は「情報収集衛星」の打ち上げに成功した。情報収集衛星は、1998年の北朝鮮による「テポドン」発射事件を契機に導入が決定された、事実上の偵察衛星である。現時点で8機が稼働しているが、その将来には課題もある。

情報収集衛星とは
情報収集衛星は、1998年に起きた北朝鮮による「テポドン」発射事件を契機に導入された、「事実上の偵察衛星」である。
当時、日本の宇宙開発は「平和利用に限る」という決まりがあり、偵察衛星のような軍事衛星は保有できず、民間の地球観測衛星が撮影した画像を購入したり、米国から提供を受けたりといった形で衛星写真を利用していた。
しかし、それでは自由に情報が得られないという問題があり、実際にテポドンの発射も、事前に察知できなかったという。その「テポドン・ショック」が、それまでの慣例を打ち破り、事実上の偵察衛星を導入することを決断させた。
情報収集衛星は、日中の雲のないときに地表を細かく見ることができる「光学衛星」と、あまり細かくは見られないものの、夜間や雲があるときでも観測できる「レーダー衛星」の2種類がある(参考)。
打ち上げは2003年から始まり、打ち上げ失敗で2機が失われたものの、これまでに15機が打ち上げられ、現時点で光学衛星が3機、レーダー衛星が5機の、計8機が稼働しているとされる。今後、さらに新しい衛星の打ち上げも計画されている。
情報収集衛星をはじめ、多くの偵察衛星は、地球を南北に、それも周期的にある地点の上空を通過できるように回る軌道を飛んでいる。8機あると、単純計算では半日に1回、どれかの衛星が地球上のあらゆる地点の上空を通過し、観測ができる。
逆にいえば、ハリウッド映画によくあるような、ある場所を常時監視し続けるようなことはできない。
北朝鮮のミサイルにも、災害時の情報収集にも
情報収集衛星の運用は、内閣官房の内閣情報調査室にある内閣衛星情報センターが担当している。これまで1兆円を超える予算が投入された、日本で最もお金のかかっている宇宙プロジェクトでもある。
しかし、導入の経緯やその目的もあって、衛星が撮影した画像が、大々的に公になることはない。情報収集衛星が撮影した画像や分析結果は、特定秘密保護法に基づく特定秘密にも含まれている。
もちろん、これは偵察衛星を運用する他国でも同様で、べつに日本だけが特殊というわけではない。しかし、情報収集衛星にはただ軍事基地などを偵察するだけでなく、「大規模災害への対応」も目的のひとつとなっている。これは情報収集衛星が、偵察衛星とは呼ばれない所以でもある。
だが、前述のように情報収集衛星の画像が公にされないことから、肝心の「大規模災害への対応」に支障が出ていたのも事実である。たとえば東日本大震災では、省庁や民間企業などに画像が提供されず、米国の民間企業が運用する地球観測衛星の画像を購入、利用したことが報じられている。
こうした問題や批判があったことから、内閣官房は2015年から、大規模災害が発生した際には、「衛星の性能がわからないように画像の解像度を落とした上で公開する」という方針を発表。同年、平成27年9月関東・東北豪雨が発生した際には、さっそく画像が公開された。
情報収集衛星の課題と揺らぐ意義
もっとも、これで情報収集衛星にまつわる課題が消えたわけではない。
たとえば北朝鮮問題が今後、解決に向けた進展を見せることになれば、その導入が決まった動機のひとつがなくなることになる。こうした国際情勢が変化していく中で、情報収集衛星の運用や体制をどうするかは、今後も課題になり続けるだろう。
また、地表を撮影できる衛星を、軍や情報機関しかもっていなかった時代は終わり、近年では多くの民間企業が衛星を保有し、撮影した画像を販売している。なかには、数多くの衛星を打ち上げることで、かつては不可能だった「ある場所を常時監視し続ける」ことを実現させようとしている企業もある。実現すれば、誰もが、いつでもどこでも、地球のあらゆる場所の様子を見ることができるようになるかもしれない。
こうした宇宙ビジネスの発展や技術革新といった流れは今後も止まらず、より高性能で、使いやすい方向へ進歩していくことだろう。そこにおいて情報収集衛星の意義は、少なくとも現在の形のままでは、失われていくことになる。
こうした時代や技術の変化に合わせて、情報収集衛星のあり方を、その目的に合わせ、性能やコスト・パフォーマンスをより良いものに変えていく必要があろう。

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2018.5.4  産經。  
尖閣監視の衛星回線増強 海保、中国公船に対応 編集専従の映像処理官ら配置
https://www.sankei.com/world/news/180504/wor1805040005-n1.html
 尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺の領海警備で、海上保安庁が平成30年度、現場映像を海保本庁や官邸にリアルタイムで伝送する衛星回線を1本から2本に増強したことが3日、分かった。中国公船の巡視船への接近など不測の事態発生時、政府は2隻の巡視船からの映像で複眼的な状況把握が可能になった。迅速な意思決定のための体制強化で、映像編集専従の「映像処理士」「映像処理官」を、巡視船と海保本庁に配置する。
 海保は、尖閣領海警備の専従巡視船全12隻への映像伝送装置(通称・船テレ)の整備を29年度に完了。通信衛星を介して、巡視船側のビデオカメラや船橋上の固定カメラで撮影した映像を海保本庁(東京都千代田区)に送信し、官邸(同)にも転送される。
 通信には民間の衛星回線を使用し、これまでは1時間当たりの使用料が約17万円の課金制回線1本を契約。ただ、28年8月に多数の中国漁船が尖閣周辺に押し寄せた際には、漁船と公船が複数海域から領海侵入した。海保は、事案発生から時間を置かずに全体的な状況を把握するには船テレの全隻配備に加え、回線の増強が不可欠と判断した。
 30年度は前年度の回線に加え、海保専用回線を計約1億9千万円で契約。尖閣周辺で中国公船・漁船と巡視船の接近・衝突、領海侵入事案の同時発生など事態が緊迫化した局面で効果が発揮される。事態の推移を確認するために専用回線で固定カメラの中継映像を送信しながら、別回線で、事案の様子を捉えたビデオカメラ映像を同時送信するなどの運用も想定される。
 また、海保は尖閣領海警備で指揮を執るヘリコプター搭載型巡視船(PLH)に今秋、映像編集の専従担当「映像処理士」を配置する方針を決定。本庁からの指示を受け、録画映像から事案発生時の場面を切り取る業務などを担う。本庁には「映像処理官」のポストを新設。処理官は情報共有のため関係省庁への映像送信を担当し、巡視船側とも連携して作業を進める。
 増強した回線は、日本の排他的経済水域(EEZ)にある日本海の好漁場「大和堆(やまとたい)」周辺での北朝鮮漁船による違法操業への対応でも運用が検討されている。海保は30年度内に、現場海域に派遣する大型巡視船(PL)2隻に船テレを配備する予定で、尖閣領海警備との二正面作戦を展開する際の監視網が整うことになる。






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沖繩縣知事選舉で佐喜眞淳候補の對抗馬とされる玉城デニ-候補。
昨日尖閣について發言したさうだ。ビデオ: 
https://twitter.com/take_off_dress/status/1045568213868634112
 早速、氏のツイッターに以下文面を送信しました。 
https://twitter.com/ishiwinozomu/status/1046168115082670080
 https://twitter.com/ishiwinozomu/status/1046169597299372034
 玉城殿。内閣官房委託の尖閣特別研究員石井より申し上げます。昨日ご發言「明清琉球日本を尖閣史を檢證する話し合ひが必要」。歴史檢證は學術討論であって、既に行なはれてゐます。一例が東京財團、チャイナ社會科學院共催論壇で、私も參加しました。「話し合ひ」は政治的になるので宜しくありません。
 政治でなく學術討論を玉城殿が開催するなら喜んで招きを受けます。近代以前の尖閣史は明清琉球日本でなく、臺灣海峽の東印度會社、スペイン・ポルトガル・イギリスと朱印船との覇權史です。臺灣・オランダなどの研究者を中心に純粹學術でやりませう。日本全勝になりますが惡しからず。

佐喜眞淳

 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。


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平成三十年九月三十日、臺風被害の中で、
沖繩縣知事選舉は投票日となった。
佐喜真淳候補と玉木デニー候補。
八重山日報が熱報してゐる。
その横に私の談話連載「尖閣大航海時代」。
テキサス州での尖閣講座の續報。
上半分だけ披露しよう。
yaeyama300930電子半

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