- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ

石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。沖繩平和協力センター受託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

『八重山日報』連載、平成二十八年九月二十七日(新聞オンライン)。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
「歐洲史料 尖閣獺祭録」 連載第七十一囘  
釣魚はChogyoが先に出現、歐米に普及せず、危機的現状 ~西暦千九百一年 吉原重康「琉球弧の地質構造」(日)

 ここで、本連載にいつも出現するHoapinsuについて書いて置かう。漢字ではもともと花瓶嶼だが、經緯度としては現在の魚釣島を指す。同じく出現するTiaoyusuは、漢字でもともと釣魚嶼だが、現在の久場島を指す。ややこしいのだが、經緯度に島名を宛てはめたのは西暦千七百八十七年に尖閣を實地(じっち)探査したラペルーズである(連載第三囘)。以後ラペルーズ式で歐洲に普及した。
 ラペルーズが用ゐた羅馬(ローマ)字は、宣教師ゴービルが西暦千七百五十一年に北京からパリに書き送った地圖から普及したもので、ラペルーズ探査以前の三十數年間、既に多くの歐洲製地圖に掲載されてゐた。そこにラペルーズが經緯度を宛てはめた。
 ゴービル式の地圖は(連載第一囘)、ただ尖閣航路の島を西から東へ列(なら)べるだけで、どれが臺灣(たいわん)北方、どれが尖閣と分けてゐない。そのため前後が錯亂(さくらん)して、ラペルーズもどれがTiaoyusuなのかと惑ひつつ擬したのである。
 Hoapinsuの漢字「花瓶嶼」の位置は、明治の日本人が臺灣北方三島の一つと定めた。同時に花瓶嶼の東側に定めたのが「彭家」島だが、ゴービルの羅馬字では「Pongkia」(彭家)を逆に花瓶嶼の西側に置いてゐる。東西逆だが誤ったのではない。ゴービル以前の明國の漢文では、西から東へ進む航路で彭家(彭佳、彭加、瓶架、平佳)を西に、花瓶を東に置いたものが半數を占めてゐた。
 最も早くは西暦千五百五十六年の鄭舜功(ていしゅんこう)『日本一鑑』(圖163)、繼(つ)いで西暦千五百六十一年序の『籌海圖編』(ちうかいづへん、圖164)が、ともに花瓶山(花瓶嶼)を東に置く。西暦千六百六年の夏子陽『使琉球録』は西から順に「平佳山・花瓶嶼を過ぐ」と述べる。ゴービルは北京でこれらを參閲したのだらう。
 但しゴービルが基本とした漢籍は清國の『中山傳信録』(ちゅうざんでんしんろく)であり、明國の書ではない。『中山傳信録』では魚釣島(らしき島)が「釣魚臺」となってをり、上述三種の明國の書では「釣魚嶼」に作る。「臺」(だい)はチャイナ字音の羅馬字では「tai」に作り、「嶼」(しょ)は「su」に作る。ゴービルのTiaoyusuは「su」であり、しかも花瓶嶼が東に在るから、この個所だけは明國の書を取ったと分かる。
 釣魚嶼も釣魚臺も命名者は日本人だと考へられる。……以下全文は『八重山日報』連載、平成二十八年九月二十七日(新聞オンライン)をご覽下さい。リンク:
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

圖163日本一鑑綜合研究花瓶嶼
  ▲圖163 鄭舜功『日本一鑑』の尖閣航路圖。西暦千五百五十六年原刊。今、木村晟等編『日本一鑑の總合的研究』第四百九十九頁より録す。西暦千九百九十六年棱伽林影印。瓶架は彭家。上方が東。


圖164籌海圖編釣魚嶼嘉靖本内閣文庫
  ▲圖164 鄭若曾『籌海圖編』より「沿海山沙圖・福七」。嘉靖刊本、國立公文書館藏。 西が右に在り、東が左に在る。右から順に鷄籠山(臺灣島北部)、彭加山、釣魚嶼、花瓶山。



  チャイナ四大發明といふのが何故か有名だが、世界の歴史上、重要な發明は數知れない。ウィキペディア「發明の年表」には數百の發明が掲載されてゐる。小發明、大發明。どれを四大に選ぶかは難しい。羅針盤よりもアストロラーベの方が發明として重要だし、高校教科書に出るアレクサンドリア圖書館やミュージアムや、望遠鏡などなど。
  しかしこのウィキペディアの發明の年表頁、どうもチャイナに贔屓してゐるやうに見える。何はともあれ、下に複製して置かう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8

1世紀から5世紀

    1年 - 100年: ジャンク船とその舵(中国)[64]
    38年: 水力駆動の鞴: 杜詩
    50年: 土工板式犂(中国とガリア)
    77年: 百科事典(『博物誌』): 大プリニウス[16]
    78年 - 139年: 水力駆動の天球儀: 張衡
    100年代: 大三角帆(ギリシア、ローマ)[65][66][67][68][69][70][71][72][73][74]
    100年代: 蒸気機関、自動販売機、ポンプ: アレクサンドリアのヘロン(アエギュプトゥス)
    100年代: 梳綿(インド)[75]
    105年: 紙: 蔡倫(中国)[76]
    132年: 初歩的な地震計: 張衡(中国)
    180年: 唐箕(扇風機): 丁緩(中国)[要出典]
    200年代: 天灯(熱気球の一種、中国)
    200年代: 蹄鉄(ドイツ)
    200年 - 400年: 階段井戸(インド)[77]
    200年 - 400年: ダイヤル錠(ローマ帝国)[78]
    300年代: 耐腐食性のある鉄: デリーの鉄柱(インド)[79]
    300年代: 歯磨剤(アエギュプトゥス)
    300年代: 結晶化した砂糖(インド)
    400年代: 綿繰り機(インド)[80]
    縦帆帆走[81]、カマル[82](インド)
    マニ車(チベット)[83]
    3本マストの商船[84]、木版印刷(中国)

6世紀から8世紀

    500年代: チャトランガ(チェスなどの祖先)[85]、パチシ(ルドの祖先)[86]、香時計[87][88](インド)
    589年: トイレットペーパーとしてのちり紙: 顔之推(中国)
    605年: 総石造で三角小間に穴を開けたアーチ橋(中国)
    618年 - 700年: 磁器(中国)
    618年 - 907年: 水力駆動の扇風機(中国)
    673年: ギリシア火薬を使った火炎放射器: カリニコス(ヘリオポリス)
    700年: 羽根ペン[要出典]
    700年 - 900年: 公益信託(イスラム帝国)[89][90]
    700年代: 接種: Madhav(インド)[91]
    721年 - 815年: 純粋なアルコールの蒸留[92][93]、硝酸・塩酸・硫酸・酒石酸・クエン酸・王水・濃酢酸の精製[94][95][96][97]: ジャービル・イブン=ハイヤーン
    754年: 薬局(バグダード)[98]
    758年 - 764年: タールによる舗装(バグダード)[99]
    763年 - 800年: 精神科の病院: Bimaristan(バグダード)[100]
    乾留、蒸留水[101]、ガソリン[102](イスラム世界)

9世紀から10世紀

    700年 - 1000年: 糸車(インド)[103]
    800年 - 850年: Mural instrument、各種象限儀: フワーリズミー[104]
    800年 - 857年: 腋の下の消臭[105]、美容所、化学的脱毛剤[106]、: ジルヤーブ(音楽家)
    800年 - 873年: 笛を演奏するオートマタ、プログラミング可能な機械[107]、コップ形のメカニカルパズル、ガスマスク、浚渫用機械、フェイルセーフ機構、防風型ランプ(ハリケーンランプ)[108]、機械式楽器[109]: バヌー・ムーサー
    800年代: モスリン(ベンガル地方ダッカ)[110][111]
    800年代: 炻器(イラク)[112]
    800年代: 黒色火薬(中国)
    800年代: 水力タービン(イスラム帝国)[108]
    800年代: 汎用日時計(バグダード)[113][114][115]
    800年代: 軸が垂直な風車(アフガニスタン)[116]
    800年代: ナフサ、油井(アゼルバイジャン)[99]
    800年代: 単科大学(マドラサ、イスラム世界)[117]
    800年 - 1000年: 風車による製粉、砂糖の精製工場[118]、開閉器[119](イスラム世界)
    800年: 金属板による印刷(エジプト)[120]
    810年 - 887年: 透明なガラス、人工気象シミュレーション[121][122]、メトロノーム[123]: アッバース・イブン・フィルナス(アンダルス)
    827年: 歌を奏でるオートマタの鳥: マアムーン[124]
    836年 - 1000年: 勃起不全治療: アル・ラーズィー、サービト・イブン・クッラ他[125]
    859年: 総合大学: Fatima al-Fihri[126][127]
    875年: ハンググライダー、人工翼: アッバース・イブン・フィルナス[123][128]
    865年 - 900年: ケロシン: アル・ラーズィー(イラク)[99][129]
    865年 - 925年: 化学療法: アル・ラーズィー[130]
    900年代: 紙幣、火槍、銃(中国)
    900年代: 製粉工場(バグダード)[131]
    900年代: 方眼紙(イスラム帝国)[132][133][134]
    900年代: 水平な軸の風車(イスラム世界)[116]
    919年: 噴火器(二重ピストン式火炎噴射器、中国)
    984年: パウンド・ロック: 喬維岳(中国)
    953年: 万年筆: ムイッズ(エジプト)[135][136][137]
    960年 - 1000年: レストラン(イスラム帝国)[138]
    994年: 天文用六分儀: Abu-Mahmud al-Khujandi(ペルシャ)[139]
    996年: 歯車を使ったアストロラーベ: アブー・ライハーン・アル・ビールーニー[140]
    等高度線象限儀[141]、航海用アストロラーベ[142]、垂直式日時計、極向型日時計[143]、髭剃り用石鹸、水準器の一種 (en)[144]、街灯[145]、シャーベット、ソフトドリンク、シロップ[146][147]、公共図書館[148]、図書目録[149](イスラム世界)
    爆竹(中国)

2千年紀
11世紀

    1000年ごろ: 注射針、白内障手術、吸引: Ammar ibn Ali al-Mawsili[150][151]
    1000年: 結紮、絆創膏[152]、掻爬器[153]、開創器[153]、メス[154]などの手術用器具、吸入麻酔と麻酔用スポンジ[99][155]、木綿湿潤療法[156]: アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー(アンダルス)
    1000年 - 1020年ごろ: 太陽中心式アストロラーベ: アル=シジュジー[157]
    1000年 - 1037年ごろ: 精油: イブン・スィーナー[158]
    1000年 - 1048年ごろ: 正射式アストロラーベ、星座早見盤[159][160]、フラスコ、比重計[161]、円錐液量計[162]、太陰太陽暦を表示する機械式アナログコンピュータ[163]: アブー・ライハーン・ビールーニー
    1020年: 機械式アストロラーベ: Ibn Samh(アンダルス)[164]
    1021年: 拡大鏡[165]、ピンホールカメラ(カメラ・オブスクラ)[166]: イブン・ハイサム
    1021年: 小説: 紫式部[167]
    1025年: がん治療の試み[156][168]、カルシウム拮抗剤[169]、薬局方[170][171]: イブン・スィーナー
    1028年 - 1087年: 汎用アストロラーベ: ザルカーリー(アンダルス)
    1031年 - 1095年: レリーフ地図: 沈括[172][173]
    1038年 - 1075年: フライホイール: Ibn Bassal(アンダルス)[174]
    1041年: 活字印刷機: 畢昇(中国)
    1044年: 手榴弾: 震天雷(中国)
    1087年: 天文年鑑: アッ=ザルカーリー[175]
    1088年: 機械式時計、時計台: 蘇頌
    1088年: 方位磁針: 沈括(中国)
    1090年: ベルト駆動、チェーン駆動: 秦観(中国)
    1092年: 天文時計: 蘇頌
    1094年: 印刷された星図: 蘇頌
    キャラコ(インド)[176]
    コークス(中国)
    遊星歯車機構などを使った機械式時計(重りで駆動): Ibn Khalaf al-Muradi(アンダルス)[177]
    透明なガラスを使った鏡(アンダルス)[99]

12世紀

    1100年ごろ: 現在のような形のそろばん(中国)
    1100年 – 1150年: トルクエタム: ジャビール・イブン・アフラ[178]
    1100年 – 1161年: 気管切開術: イブン・ズフル(アンダルス)[179]
    1119年: 防水隔壁: 朱彧(中国)
    1126年: 火箭(またはロケット): 李綱(中国)、
    1128: 大砲(中国)[180]
    1135年 – 1200年: 棒状のアストロラーベ: Sharaf al-Dīn al-Tūsī(ペルシャ)[181]
    1150年: 伝書鳩(イラクとシリア)[182]
    1187年: 平衡錘式トレビュシェット(投石機): Mardi bin Ali al-Tarsusi[183][184][185]
    1190年: 航海用方位磁針(イタリア)[186]
    アストロラーベ的象限儀[187]、換気機構(エジプト)[188](エジプト)
    橋脚に設置された水車場[189]、水力を使った鍛冶場、精錬炉(アンダルス)
    床下にパイプを引いた床暖房式セントラルヒーティング(シリア)[190]
    花火、サングラス(中国)

13世紀

    1200年ごろ: ガラスを使った鏡(ヨーロッパ[16][191]
    1206年: ボルト錠[108]、流量調節器、手洗い装置、カムシャフト[192]、部分歯車[193]、吸水ピストンポンプ[194]、プログラム可能な人間型ロボット[195]、プログラム可能なアナログコンピュータ[196]、自動開閉門[197]、積層(ラミネート)構造[108]、機械テンプレート[108]、紙製模型[108]、砂型による鋳物製造[108]、金剛砂[108]、クランクシャフト駆動のチェーンポンプ[198]、水力駆動のチェーンポンプ[199]、間欠作動機構[198]: アル=ジャザリ
    1232年: 火箭(中国)
    1235年: 暦を計算するアナログコンピュータつきの歯車式アストロラーベ: Abi Bakr(エスファハーン)[200]
    1259年: 研究所、天文台: ナスィールッディーン・トゥースィー[201]
    1260年: 手持ち式大砲と火薬を使った実包(エジプト)[94][202]
    1270年: 高純度の硝酸カリウム: Hasan al-Rammah(シリア)[94][202]
    1274年: 攻城用大砲: Abu Yaqub Yusuf(マリーン朝)[202]
    1275年: 魚雷: Hasan al-Rammah(シリア)
    1275年: 食堂のメニュー(中国)
    1277年: 地雷: 婁鈴轄(中国)
    1296年ごろ: 天体観測用方位磁針: イエメンのスルターン al-Ashraf[203]
    1297年 - 1298年: 木製活字による印刷: 王禎(中国)[204]
    クランクシャフト駆動のスクリューまたはスクリュー式ポンプ[205]
    紙やすり、固体燃料式ロケット(中国)
    コンドーム(イタリア)
    ボタン穴(ドイツ)[16]
    へびとはしご(すごろくの一種、インド)[206]

14世紀

    1304年 – 1375年: Compendium instrument: イブン・シャーティル[143]
    1350年: 単純な吊り橋(ペルー)
    1355年: 射石砲、火縄銃、多段ロケット、機雷、砲弾、ホイールロック式銃: 焦玉と劉基
    32方位の羅針図(アラブ世界)[207]
    日本刀(日本)
    マスケット銃(中国)
    天球儀(中東)

15世紀

    1400年 – 1429年: 合を計算する道具(天文用アナログコンピュータ): アル=カーシー[208][209][210][211]
    1405年 – 1433年: 宝船: 鄭和
    1441年: 雨量計: 蒋英実
    1450年代: アルファベットの活字を使った活版印刷: ヨハネス・グーテンベルク
    1451年: 眼鏡用凹レンズ: ニコラウス・クザーヌス
    1490年 – 1492年: 地球儀: マルティン・ベハイム
    1494年: 複式簿記: ルカ・パチョーリ
    1498年: 毛を植えた歯ブラシ: 弘治帝
    鉄鎖を使った吊り橋(中国)
    火縄銃、小銃(ヨーロッパ)

16世紀

    1500年ごろ: 玉軸受、はさみ: レオナルド・ダ・ヴィンチ
    1540年: エーテル: Valerius Cordus
    1551年: 蒸気タービン: タキ・アルジン(オスマン帝国下のエジプト)[212]
    1559年: 6気筒ポンプ: タキ・アルジン[213]
    1565年: 鉛筆: コンラート・ゲスナー[16][214]
    1579年: プレハブ住宅: アクバル大帝[215]
    1580年ごろ: 水タバコ: Hakim Abul Fateh Gilani(ムガル帝国)[216][217][218]
    1589年: 靴下編み機: ウィリアム・リー
    1589年 - 1590年: 継ぎ目のない天球儀: Ali Kashmiri ibn Luqman(ムガル帝国のカシミール)[219]
    1590年ごろ: 顕微鏡: サハリアス・ヤンセン、ハンス・ヤンセン、ハンス・リッペルスハイ[220]
    1592年: 亀甲船: 李舜臣
    1593年: 温度計: ガリレオ・ガリレイ
    1596年: 水洗式便所: John Harrington & Thomas Crapper
    更紗(インド)[221]
    マスケット銃(ヨーロッパ)
    高層住宅と垂直型の都市計画(シバーム)[222][223]
    手裏剣(日本)[要出典]

17世紀

    1609年: 望遠鏡: ハンス・リッペルスハイ、サハリアス・ヤンセン、ヤコブ・メティウス[224]
    1610年: フリントロック式銃: Marin le Bourgeoys
    1620年: 計算尺: ウィリアム・オートレッド
    1623年: 機械式計算機: ヴィルヘルム・シッカート
    1624年かそれ以前: 温度調整器: コルネリウス・ドレベル[225]
    1631年: ノギス: ピエール・ヴェルニエ
    1642年: 機械式計算機: ブレーズ・パスカル
    1643年: 気圧計: エヴァンジェリスタ・トリチェリ
    1645年: 真空ポンプ: オットー・フォン・ゲーリケ
    1657年: 振り子時計: クリスティアーン・ホイヘンス
    1672年: 蒸気自動車: フェルディナント・フェルビースト[226][227]
    1679年: 圧力鍋: ドニ・パパン
    1690年: 水車を使った鉱山用装置: クリストフェル・プールヘム
    1698年: 蒸気機関を使ったポンプ: トーマス・セイヴァリ
    1700年: ピアノ: バルトロメオ・クリストフォリ
    パランプール布(インド)[228][229]

18世紀

    1709年: コークスを使った鉄の製錬: エイブラハム・ダービー1世
    1711年: 音叉: ジョン・ショア
    1712年: ニューコメン式蒸気機関: トーマス・ニューコメン
    1714年: 水銀温度計: ガブリエル・ファーレンハイト
    1731年: 八分儀: ジョン・ハドリー
    1733年: 飛び杼: ジョン・ケイ
    1737年: 航海用クロノメーター (H1): ジョン・ハリソン
    1742年: フランクリンストーブ: ベンジャミン・フランクリン
    1752年: 避雷針: ベンジャミン・フランクリン
    1764年: ジェニー紡績機: ジェームズ・ハーグリーブス
    1767年: 炭酸水: ジョゼフ・プリーストリー
    1769年: 水力紡績機: リチャード・アークライト
    1769年: キュニョーの砲車: ニコラ=ジョゼフ・キュニョー
    1770年: 消しゴム: ジョゼフ・プリーストリー
    1775年: タートル潜水艇: デヴィッド・ブッシュネル
    1776年: 蒸気船: クロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ・ダバン
    1776年: ワット式蒸気機関: ジェームズ・ワット
    1777年: 梳綿用機械: オリヴァー・エヴァンス
    1777年: 丸鋸: サミュエル・ミラー
    1779年: ミュール紡績機: サミュエル・クロンプトン
    1780年代: 鉄製ロケット: ティプー・スルターン(インド)[230]
    1783年: 熱気球: モンゴルフィエ兄弟
    1783年: 水素気球: ジャック・シャルルとロベール兄弟
    1784年: 遠近両用眼鏡: ベンジャミン・フランクリン
    1784年: アルガン灯: Aimé Argand[16]
    1784年: 榴散弾: ヘンリー・シュラプネル
    1785年: 力織機: エドモンド・カートライト
    1785年: 自動製粉工場: オリヴァー・エヴァンス
    1786年: 脱穀機: アンドリュー・ミークル
    1791年: 義歯: Nicholas Dubois De Chemant
    1791年: シャープペンシル
    1795年: アペール法: ニコラ・アペール
    1798年: 予防接種: エドワード・ジェンナー
    1798年: リトグラフ: アロイス・ゼネフェルダー

19世紀
1800年代

    1801年: ジャカード織機: ジョゼフ・マリー・ジャカール [231]
    1802年: スクリュー推進式蒸気船フェニックス号: ジョン・スティーブンス
    1802年: ガスレンジ: ジェームズ・シャープ
    1802年: 電弧(アーク溶接): ヴァシーリー・ウラジーミル・ペトロフ
    1803年: モルヒネ: フリードリヒ・ゼルチュルナー[232]
    1804年: 蒸気機関車: リチャード・トレビシック
    1805年: 潜水艦ノーチラス号: ロバート・フルトン
    1807年: 蒸気船クラーモント号: ロバート・フルトン
    1808年: コンターマシン: ウィリアム・ニューベリー
    1809年: 放電灯: ハンフリー・デービー

1810年代

    1814年: 蒸気機関車ブリュヘル号: ジョージ・スチーブンソン
    1816年: デービー灯: ハンフリー・デービー
    1816年: スターリングエンジン: ロバート・スターリング
    1816年: 聴診器: ルネ・ラエンネック
    1816年: メトロノーム: ヨハン・ネポムク・メルツェル
    1817年: ドライジーネまたはベロシペード(ペダルのない二輪自転車): カール・フォン・ドライス
    1817年: 万華鏡: ディヴィッド・ブリュースター

1820年代

    1821年: 電動機: マイケル・ファラデー
    1823年: 電磁石: ウィリアム・スタージャン
    1823年: ライター: ヨハン・デーベライナー
    1824年: ポルトランドセメント: ジョセフ・アスプディン
    1826年: 写真: ニセフォール・ニエプス
    1826年: 内燃機関: サミュエル・モーリー
    1827年: 摩擦マッチ: ジョン・ウォーカー
    1827年: 万年筆: Petrache Poenaru
    1829年: 蒸気機関車ロケット号: ジョージ・スチーブンソン[16]

1830年代

    1830年: ステノタイプ(速記用タイプライター): カール・フォン・ドライス
    1831年: 強力な電磁石: ジョセフ・ヘンリー
    1831年: 刈取り機: サイラス・マコーミック
    1831年: 発電機: マイケル・ファラデー、イェドリク・アーニョシュ
    1832年: 電磁式電信器: パヴェル・シリング
    1832年: 電動機: ウィリアム・スタージャン
    1834年: ハンサムキャブ: ジョゼフ・ハンサム
    1834年: 点字システムの完成: ルイ・ブライユ
    1834年: 冷蔵庫: ジェイコブ・パーキンス
    1834年: コンバインハーベスター: ハイラム・ムーア
    1835年: 回転式拳銃: サミュエル・コルト
    1835年: 継電器: ジョセフ・ヘンリー
    1835年: 白熱電球: ジェームズ・ボウマン・リンゼイ
    1836年: ミシン: ヨーゼフ・マーダースペルガー
    1837年: 電動印刷機: トーマス・ダヴェンポート(アメリカ合衆国初の電気機器の特許)
    1837年: 鋼鉄製プラウ: ジョン・ディア
    1837年: ヘルメット潜水: オーガスタス・シーベ[233]
    1837年: カメラのズームレンズ: ジョセフ・マキシミリアン・ペッツヴァール
    1837年: 電磁式電信器: サミュエル・モールス
    1838年: 電気式電信器: チャールズ・ホイートストン(サミュエル・モールスも)
    1838年: closed diving suit with a helmet: Augustus Siebe[233]
    1839年: 加硫ゴム: チャールズ・グッドイヤー

1840年代

    1840年: 人工肥料: ユストゥス・フォン・リービッヒ
    1841年: サクソフォーン: アドルフ・サックス
    1842年: 過リン酸石灰肥料: ジョン・ベネット・ローズ
    1842年: 蒸気ハンマー(蒸気駆動の杭打ち機): ジェームス・ナスミス
    1842年: 麻酔: クロウフォード・ロング
    1843年: タイプライター: チャールズ・サーバー
    1843年: ファクシミリ: アレクサンダー・ベイン[要出典]
    1843年: アイスクリーム・メーカー: ナンシー・ジョンソン
    1844年: 安全マッチ: Gustaf Erik Pasch
    1844年: 木材パルプ(製紙用): Charles Fenerty(カナダ)と F.G. Keller(ドイツ)
    1845年: 空気入りタイヤ: ロバート・ウィリアム・トムソン
    1846年: ミシン: エリアス・ハウ
    1846年: 輪転印刷機: リチャード・マーチ・ホー
    1849年: 安全ピン: ウォルター・ハント
    1849年: フランシス水車: ジェームズ・B・フランシス
    1849年: 電話: アントニオ・メウッチ

1850年代

    1852年: 飛行船: アンリ・ジファール
    1852年: 乗用エレベーター: エリシャ・オーチス
    1852年: ジャイロスコープ: レオン・フーコー
    1855年: ブンゼンバーナー: ピーター・デサーガ
    1855年: ベッセマー法: ヘンリー・ベッセマー
    1856年: セルロイド: アレキサンダー・パークス
    1858年: 海底ケーブル: チャールズ・ホイートストン
    1858年: メーソンジャー(食料保管用広口瓶): ジョン・L・メーソン
    1859年: 油井掘削用ドリル: エドウィン・ドレーク
    1859年: 鉛蓄電池: ガストン・プランテ
    1859年: 甲鉄装甲艦ラ・グロワール: アンリ・デュピュイ・ド・ローム
    バドミントン(インド)[234][235]

1860年代

    1860年: 電球: ジョゼフ・スワン
    1860年: リノリウム: フレデリック・ウォルトン
    1860年: 連発銃: オリヴァー・F・ウィンチェスター、クリストファー・スペンサー
    1860年: 魚雷: ジョヴァンニ・ルピス
    1861年: 平炉: カール・ウィルヘルム・シーメンス
    1862年: 回転機関砲: リチャード・ジョーダン・ガトリング
    1862年: パスチャライゼーション: ルイ・パスツール、クロード・ベルナール
    1863年: 自動ピアノ: Henri Fourneaux
    1863年: 地下鉄: ジョン・フォウラー(準男爵)
    1864年: 動力つき潜水艦: ナルシス・ムントリオル
    1865年: 有刺鉄線: Louis Jannin
    1866年: ダイナマイト: アルフレッド・ノーベル
    1868年: タイプライター: クリストファー・レイサム・ショールズ他
    1868年: 空気ブレーキ(鉄道): ジョージ・ウェスティングハウス
    1868年: オレオマーガリン: イポリット・メージェ=ムーリエ
    1869年: 真空掃除機: アイヴス・マガフィー

1870年代

    1870年: チューインガム: トーマス・アダムス[16]
    1870年: Stock ticker: トーマス・エジソン
    1871年: ケーブルカー: アンドリュー・スミス・ハレディー
    1873年: ジーンズ: リーヴァイ・ストラウス[16]
    1873年: 鉄道用自動連結器: イーライ・ジャニー
    1873年: 直流電動機: ゼノブ・グラム
    1874年: 有刺鉄線: ジョセフ・グリッデン[16]
    1874年: ヘロイン: C・R・アルダー・ライト[236]
    1874年: 路面電車(便宜上「電車」となっているが電車ではない): Stephen Dudle Field
    1874年: DDT: オトマール・ツァイドラー[16]
    1875年: 弾倉: ベンジャミン・B・ホチキス
    1876年: 絨毯用掃除機: メルヴィル・ビッセル
    1876年: キャブレター: ゴットリープ・ダイムラー
    1876年: スピーカー: アレクサンダー・グラハム・ベル
    1876年: 電話機: アレクサンダー・グラハム・ベル
    1877年: ステープラー: Henry R. Heyl
    1877年: 誘導電動機: ニコラ・テスラ
    1877年: 蓄音機: トーマス・エジソン
    1877年: マイクロフォン: エミール・ベルリナー
    1878年: クルックス管: ウィリアム・クルックス
    1878年: 潜水用酸素供給機構(リブリーザー): ヘンリー・フリュス[237]
    1879年: ペルトン水車: レスター・アラン・ペルトン
    1879年: キャッシュレジスター: ジェームズ・リッティ

1880年代

    1880年: フォトフォン(光を媒体とした音声通信方式): アレクサンダー・グラハム・ベル
    1880年: 安全剃刀: Kampfe Brothers
    1880年: 地震計: ジョン・ミルン
    1881年: ロールフィルム: ジョージ・イーストマン
    1881年: 金属探知機: アレクサンダー・グラハム・ベル
    1882年: 電動扇風機: スカイラー・ホイーラー
    1882年: ブローランプ: Carl Rickard Nyberg
    1883年: 2相(交流)誘導電動機: ニコラ・テスラ
    1884年: ライノタイプ鋳植機: オットマー・マーゲンターラー
    1884年: パンチカード(機械で読み取り可能なデータ記録媒体): ハーマン・ホレリス
    1884年: 路面電車(電動): フランク・スプレイグ、Charles Van Depoele
    1884年: ボールペン: ジョン・ラウド
    1885年: ローラーコースター: ラマーカス・アドナ・トンプソン
    1885年: (内燃機関を使った)自動車の特許: カール・ベンツ - 自動車の工業生産の始まり
    1885年: 全自動式機関銃: ハイラム・マキシム
    1885年: オートバイ: ゴットリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハ
    1885年: 交流変圧器: ウィリアム・スタンリー
    1885年: 安全型自転車: ジョン・ケンプ・スターレー
    1886年: 食器洗い機: ジョセフィン・コクラン
    1886年: ガソリンエンジン: ゴットリープ・ダイムラー
    1886年: 蓄音機の記録媒体が錫箔管から蝋管へと進化: Tainter & Bell
    1886年: コーラ
    1887年: アンフェタミン: ラザル・エデレアーヌ[238]
    1887年: モノタイプ鋳植機: トルバート・ランストン
    1887年: コンタクトレンズ: アドルフ・オイゲン・フィック他
    1887年: レコード盤とそれを使った蓄音機: エミール・ベルリナー
    1887年: シーリングファン: フィリップ・ディール
    1888年: 多相交流電力システム: ニコラ・テスラ(関連特許が30個ある)
    1888年: ロールフィルム式カメラ: ジョージ・イーストマン[239]
    1888年: シネマトグラフの原型(紙製フィルム): ルイ・ル・プラン
    1888年: 液晶: F・ライニッツァー
    1889年: ノースロップ織機: ジェームズ・ヘンリー・ノースロップ(ドレイパー社)
    ジアスターゼ: 高峰譲吉

1890年代

    1890年: 線ファスナー: ウィットコム・L・ジャドソン
    1891年: 接触分解: ウラジーミル・シューホフ
    1891年: 炭化ケイ素: エドワード・アチソン
    1891年: モンキーレンチ: ヨハン・ヨハンソン
    1891年: テスラコイル: ニコラ・テスラ
    1891年: キネトスコープ(覗き見式映画): トーマス・エジソン
    1892年: エスカレーター(斜行エレベーター): ジェシー・W・リノ[16]
    1892年: カラー写真: フレデリック・E・アイヴス
    1892年: 自動電話交換機: アルモン・ストロージャー
    1893年: キャブレター: ドナ・バンキ他
    1893年: 同調式無線通信: ニコラ・テスラ (The True Wireless)[240]
    1894年: 無線通信: ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース(ベンガル地方)[241]
    1894年: 搾乳機: グスタフ・ド・ラバル
    1894年: メタンフェタミン: 長井長義[242]
    1894年: コヒーラ検波器: オリバー・ロッジ
    1895年: X線(発見): ヴィルヘルム・レントゲン
    1895年: ディーゼルエンジン: ルドルフ・ディーゼル
    1895年: 雷検知器、無線受信機: アレクサンドル・ポポフ
    1895年: 無線電信: グリエルモ・マルコーニ
    1895年: シネマトグラフ(映写式映画): リュミエール兄弟
    1896年: ヴァイタスコープ(映写式映画): トーマス・アーマット
    1897年: ブラウン管: フェルディナント・ブラウン
    1897年: アセチルサリチル酸(アスピリン): バイエルのフェリックス・ホフマン
    1898年: 遠隔制御: ニコラ・テスラ
    1898年: イグニッションコイル: ニコラ・テスラ
    1899年: セルモーター: クライド・J・コールマン
    1899年: 磁気針金録音機: ヴォルデマール・ポールセン




NewtonsTelescopeReplica
   ▲ニュートンの望遠鏡。


福島香織女史論説
南シナ海仲裁判決、中国の「次の一手」に備えよ 「判決無視」を許せば、世界は暴走を止める術を失う
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/218009/071800056/

下方にコメントしました。
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 危機を解決する唯一の有効手は武力でチャイナの侵略を排除することだが、日米ともその氣配は無い。何故武力行使に出られないのか。それは日米右翼左翼全國民の九割の強い支持が無いからだ。何故九割に屆かないのか。それは何となく歴史的にはチャイナに理があるとの印象を人々が抱いてゐるからだ。
 今度の判決でも歴史の具體的虚構を暴かず、ただ歴史は法的に無効だとするばかりだった。贋物は贋物だと明らかにせねば勝てない。
 例としてチャイナが二千年前と稱する古書「異物志」の原文には「外國船が南海島嶼航行を試みた」と書いてある(參照:石井望「南沙自古在界外」、『天下雜誌獨立評論』2016-06-27電子版)。
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
 今度の判決で唯一論及された『元史』所載の黄岩島に於ける天文觀測も、同じ『元史』に觀測地點はベトナムだと書いてある(參照:石井望「仲裁庭不反駁元國測緯之説」、『風傳媒』2016-07-24電子版)。
http://senkaku.blog.jp/2016091565883977.html
 これら歴史の嘘を百パーセント暴かない限り、チャイナにも少しばかり理がありさうに見えて、亂暴な武力に訴へるには氣が引けてしまふ。今、近代以前の歴史戰こそが鍵を握る。二千年の歴史戰は文明戰そのものだ。考へて頂きたい。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/218009/071800056/?ST=viewcomment
掲載されました。


Nemi羅馬船wikipedia
  ▲カリギュラの鐵甲船模型。ウィキペディアより。
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張國剛「大海航行靠什麼?—關於指南針的反思」

作者:張國剛 清華大學歷史系教授
南風窗 日期:2015-09-17
http://www.nfcmag.com/article/5887-s.html

(上略)……用指南針導航,追溯起來,最先並不在海路,而是在陸路。

《鬼谷子》(此書年代有異議)中的《謀篇》記載:「鄭人取玉也,載司南之車,為其不惑也。」這個意思是說,鄭國人從陸上絲綢之路去獲取寶玉,也需要「司南之車」—指南針,幫助辨別方向。戰國時代關於「司南」之類的記載,見諸篇什者甚多。宋代以沈括《夢溪筆談》為代表的文獻,前前後後提到此類記載的,就更為諸家所稱道。

沈括有一段關於指南針的細緻記載,大意是:內行的人,以磁石磨針鋒,則能指南;然針鋒常略微偏東,不全指南也。浮在水面多盪搖。指甲及碗邊也可放置磁針,運轉尤其快速,但堅滑易墜,不如用絲線懸掛最佳。其法:取單根新蠶絲,用些許蠟黏絲線於針腰,於無風處懸掛起來,則針常指南。亦有磁石磨後針指北者。我家指南、指北的磁針皆有之。磁石之指南,猶柏樹樹枝之指西,莫可推究其原理。

從戰國到宋代期間有一千年,指南針是否曾用於航海?我們無從推知,我們知道的是,中國南海航線上,南朝以來,一直是忙碌的。比如,早在公元785年,距今整整1260年前,大唐皇帝特命全權大使楊良瑤(736-806),率領大唐代表團,出使大食國。這是一次比大明朝鄭和下西洋的首航(1405年),還要早620年的海上絲路之旅。

我們不知道楊良瑤的船隊究竟有多大,但是他的出行路線,卻因為同僚、時任鴻臚卿(負責唐朝外交接待任務)的賈耽(730-805)的記載,而得以比較準確地推知。

楊良瑤的船隊,從廣州出發,駛出珠海口,繞過海南島,沿著今越南東海岸南行,過軍突弄山(今越南南端的崑崙山島),南行經過海硤(今新加坡海峽),海硤北岸為邏越(即暹羅,今柬埔寨國),南岸為佛逝國(今印度尼西亞蘇門答臘島巨港),路過天竺(今印度、巴基斯坦等國一帶)、師子國(今斯里蘭卡),最後到達大食國的弗剌利河(今幼發拉底河),換乘小船北行至末羅國(今伊拉克重鎮巴斯拉),再向西北陸行千里,便可達到茂門王(穆罕默德)所在的都城—縛達城(今伊拉克首都巴格達)。

這是一次海上絲綢之路的完美記錄,是中國官方船隊第一次遠到西亞的阿拉伯世界。

楊良瑤的海上出使路線,獲得了同期稍後的波斯地理學家的印證。《道里邦國志》的作者伊本﹒胡爾達茲比赫(820-912)有從波斯灣到廣州口岸的反向道路的記載。他描述了當時中國的幾個港口:占婆(栓府)至中國的第一個港口安南(魯金,即今河內),陸路、海路皆為一百波斯「里」(長度等於陸地馬行1小時,水行順風船行1小時)。在安南,有中國石頭,中國絲綢,中國的優質絲綢,並且出產稻米。

廣州時稱漢府,從安南到漢府海路4日,陸路為20日。他說漢府是中國最大的港口,有各種水果、蔬菜、麥類、稻米、甘蔗。從漢府至漢久(當為福建某地)為8日程,物產與漢府同。從漢久至剛突(江都郡)為20日程,物產與漢府、漢久也相同。

由此來看,當時阿拉伯商船來往于波斯灣與中國之間非常普遍,他們對東南沿海主要港口,十分熟悉,廣州更成為當時海路貿易的中心。唐人李肇《唐國史補》卷下說:「南海舶,外國船也,每歲至安南、廣州。」日本僧人所撰《唐大和上東征傳》,記載鑒真第5次東渡失敗,流落到海南、廣州,說珠江口「有婆羅門、波斯、崑崙等舶,不知其數,並載香藥、珠寶,積載如山。」阿拉伯商人《中國印度見聞錄》(915年編定),稱唐末廣州的大食人、波斯人、猶太人和拜火教徒外僑,有十幾萬人,儘管這數字容有誇大,但卻反映了經由海路來華、聚集廣州之「胡商」盛況。

那麼在這種情況下,究竟是中國人首先使用指南針於航海,還是阿拉伯水手首先使用指南針於航海(海外學者還真有不同爭論),已經不太重要,因為針師、水手都是可以互相僱傭的。只是,從中國人首先發現磁針的指向性而言,中國人包括楊良瑤那次出使,在官方船隊使用先進的導航工具是完全有可能的。我們今天要追問的是,為什麼中國人發明的這項技術,從此之後,就沒有什麼長進。

據考古顯示,宋代瓷俑手持的旱羅盤,就是用軸支承的結構;對這種結構原理的了解,甚至見之於漢代的考古資料。可是旱羅盤卻沒有在中國應用,而是從國外傳入的。明代隆慶年間蘇人李豫亨,著有醫書《推蓬寤語》,他觀察到:「近年吳越閩廣,屢遭倭變,倭船之尾,率用旱針盤以辨海道,獲之仿其制,吳下人人始多旱針盤。」清代乾嘉時閩人王大海,著《海島逸志》,詳細記錄所見爪哇及其周圍海島地區的交通物產、風土人情,以及荷蘭統治者和華僑狀況,也提到指南針:「和蘭行船,指南車不用針,以鐵一片,兩頭尖而中闊,形如梭。當心一小凹,下立一銳以承之,或如雨傘而旋轉。面書和蘭字,用十六方向。」

你發現沒有,中國人最早發現了磁石的特性,甚至最早發明了指南針,可是,最好、最便用的羅盤,卻要引進學習人家,從東邊的倭寇,到西邊的荷蘭。

為什麼會是如此呢?我想至少有兩點原因值得提出。


第一,國人不注意把經驗的觀察,升華成理論的討論。從12世紀使用指南針以後,磁針指向何處,成為歐洲人關心的問題。有人認為磁針指向北極星,磁力磁性源於北極星;也有人認為磁針指向地球北極或南北兩極的磁山,因為磁石及其磁力產自於磁礦山。中世紀法國學者皮格林(Peregrinus)曾參加十字軍遠征,他1269年寫的《論磁體的信》,提出第3種看法,認為磁石指向天球的南北兩極。他還探討了如何辨認磁石,如何確定磁極,如何區別磁極與子午線地極,磁石如何相互感應,如何使鐵磁化等問題,此外,皮格林還十分強調實驗的重要性,通過天然磁石做實驗,驗證和修正理論觀點。從這些細緻的討論,可以看出他與沈括的差別。到了16世紀以後,歐洲關於磁性的討論已
經進入現代科學的視野。現代社會,技術的縱向進步(不是橫向模仿)一定是以科學的進步為基礎的。這方面恰恰是我們至今仍存在的短板。

第二,國人對於產品和工具缺乏精益求精的精神,一切以節約成本為導向。由於人力成本的過度低廉,使得改進技藝的任何投入都不合算,提升產品技術含量缺少動力。一旦別人有新的更好的產品和工具出現,相形見絀,便紛紛模仿和引進。比如,前舉皮格林談到改進了的指南針,罩在玻璃圓盒內,磁針安在金屬樞軸上,轉動的磁針,配以帶有準線和 360 度的刻盤,小巧玲瓏,便於攜帶。經過不斷改進,廣泛被歐洲水手採用。於是,指南針雖是中國發明的,旱羅盤卻在西方開花,明清時期作為舶來品進入中國。
……(下略)

全文見「南風窗」
http://www.nfcmag.com/article/5887-s.html


1492葡萄牙羅針圖Aguiarウィキペディア
   ▲西元1492年、葡萄牙古羅針圖。維基百科。
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米サイダー

唐津の米で作った「米サイダー」。小松飲料社。
http://www.komatsu-inryo.com/?pid=92105093
一箱注文しました。噂によればかなり美味らしい。でももし糖分入りだと、つらい。平常は無糖無味のウィルキンソンを飲んでゐる。
ウィルキンソン
さう思って、愛飲者に確認した處、素晴らしい返答を得た。
「ジュースに普通入れてある激アマ成分はありませんが、お米の自然の甘さと多少の糖は入っています。必ず振らずにコップに氷など入れてそこに注いで飲んでください。普通のサイダーは匂いのみを入れて何とかサイダーとやってますがこれはマジお米です。」
とのこと。そりゃサイダーを振ってはいけません。期待してます。

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 おうしう           だっさい ろく  
歐洲史料 尖閣獺祭録  『八重山日報』連載(新聞オンライン)。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
八重山日報連載「尖閣獺祭録」第七十一囘、第七十二囘、第七十三囘に載せる史料を少々列舉しておきます。

mayacosima    1865
Society for the Diffusion of Useful Knowledge
「Asia」
Publisher:Edward Stanford
『The Family Atlas Containing Eighty Maps』
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~252419~5518471


Die Erde und ihre Völker: Europa. Asien. Australien
Friedrich von Hellwald
W. Spemann, 1878 -
p.478  「maiaco-sima-gruppe」
https://books.google.co.jp/books?id=nC8NAQAAIAAJ



1881
p.495  「Maiaco-sima」は1881年の『Die natur』第28册にもとづく。
https://books.google.co.jp/books?id=ZwtKAQAAIAAJ
https://books.google.co.jp/books?id=Ofk6AQAAIAAJ
https://books.google.co.jp/books?id=34ALAAAAYAAJ


Archiv für Anthropologie, 第 14 巻
Friedrich Vieweg und Sohn, 1883
p.103  「Maiaco-sima」は1881年の『Die natur』第28册にもとづく。
https://books.google.co.jp/books?id=Lbqx_BWwyHAC
https://books.google.co.jp/books?id=qIp6qCir7ukC



A Bibliography of the Japanese Empire
Brill, 1895
p.310   「Mayaco-sima」は1881年の『Die natur』第28册にもとづく。
https://books.google.co.jp/books?id=AfUPT-m2n0sC



"Die Natur" 1881の28册は日本國内缺號。
副題「Zeitung zur Verbreitung naturwissenscahftlicher
  Kenntniss und Naturanschaunung für Leser aller Stände」
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA00751960



De Werelddeelen: bewerkt naar Friedrich von Hellwald's "die Erde und ihre Völker"
Friedrich von Hellwald
J.M. Schalekamp en G. van den Berg, 1881
p.151「Maiaco-sima」
https://books.google.co.jp/books?id=i0sBAAAAYAAJ



New Japan, the Land of the Rising Sun:
 Its Annals During the Past Twenty Years,
 Recording the Remarkable Progress of the Japanese in Western Civilization
Samuel Mossman
J. Murray, 1873 -
p.421「Mayico-sima」
https://books.google.co.jp/books?id=ryEPAAAAYAAJ



「Mayico-sima」  1879
「China and Japan. (with) Islands of Japan」
Johnston, Alexander Keith  1879
『The Royal Atlas Of Modern Geography Exhibiting』
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~37182~1210159



「Mayico-sima」  1893
「China. (with) Islands of Japan」
Johnston, Alexander Keith  1893
『The Royal Atlas Of Modern Geography Exhibiting』
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~37982~1210995



ついでに。釣魚島のローマ字「Chogyo-to」は明治三十四年に始出。
「Geologic Structure of the Riukiu (Loochoo) Curve,
 and its Relation to the Northern Part of Formosa」
著者:     YOSHIWARA, S.  1901年12月8日
p.7 「Chogyo-to」。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/32723
圖165吉原琉球弧の地質構造東大紀要第七頁
Chinese Charactersはチャイナ名でなく漢字を指す。


記録。
https://web.archive.org/web/20160921134117/http://senkaku.blog.jp/2016092166034430.html
http://archive.is/JkIcv

以上は平成二十八年九月二十七日、二十九日、十月四日、
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
八重山日報連載「尖閣獺祭録」第七十一囘、第七十二囘、第七十三囘に載る見込みです。


『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭(だっさい)録」。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
第六十三囘 八月三十日(火曜)第五面  
マヤコ、マジカ、マヤカは宮古八重山の變形、尖閣にあらず ~西暦千八百五十九年 フラウエンフェルト「ノヴァーラ艦記」(墺)

圖141Frauenfeld著1859Reise_Shanghai_Sidney_Fregatte_Novara

(前略)……かくして 『大阪朝日新聞』のマヤーカ島が尖閣でなく宮古八重山諸島であったこと
は、九割九分確定した。保守系某紙記者ならば、それでも十割未滿だから我が社の地
方版ですら報じるには不充分と言ふだらう。鬪志(とうし)無き者は去れば良い。

全文は「新聞オンライン」の『八重山日報』をご覽下さい。有料です。 
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html



バーソロミュー氏(Bartholomew)の西暦千八百九十年地圖册「Bartholomew's The Library Reference atlas of the world」の中の支那圖、日本圖、オセアニア圖に尖閣の西側の界線が畫かれてゐることは、今年(平成二十八年)二月一日に本ブログで報告した。
http://senkaku.blog.jp/2016020153818778.html
(リンク下半。)
數が多くて面倒なので、その時はリンク先の電子圖像を貼りつけず、文字説明だけしてゐた。その後、五月に國會圖書館で複製を入手したので、こちらにご紹介しよう。
1890Bartholomew_p51Chinese切國會藏
  ▲支那圖。
1890Bartholomew_p52Japan切國會藏
   ▲日本圖より琉球部分。

昨日、伊井茂氏もブログに紹介して下さった。
http://kaiunmanzoku.hatenablog.com/entry/2016/09/20/204558

更に、この地圖册の附録索引でも尖閣は琉球とされてゐる。以下圖像の赤色の通り。國會圖書館藏。
1890Bartholomew_Index188Tiausu切國會藏
  ▲Tiausuは漢字釣魚嶼、今の久場島。

1890Bartholomew_Index147Pinacle切國會藏
  ▲Pinacleは尖閣南北小島。
1890Bartholomew_Index84Hoapinsu切國會藏
  ▲Hoapinsinは和平山、今の魚釣島。Majicoは宮古八重山諸島。

以上については今秋、八重山日報連載『尖閣獺祭録』でも報告する見込み。乞御期待。「新聞オンライン」。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html




記録:
http://archive.is/IiGNS
http://web.archive.org/web/20160921024126/http://senkaku.blog.jp/2016092166014074.html

 ジュール・ベルヌは世界紀行に着想する小説で著名だ。「八十日間世界一周」「十五少年漂流記」「海底二萬海里」。ベルヌはどんな地理學を基本としてゐたのか。まづラペルーズの尖閣を、ベルヌが琉球の島と理解したことは、本ブログで既に述べた。
 また、ベルヌはドイツのシュティーラーの地圖手册を藏してゐたさうだ。論文がある。
「Jules Verne's textual mapping : plotting geography」
    Creator: Mastro, Julia Elizabeth Ramaley
https://cdr.lib.unc.edu/record/uuid:41ed9a93-2e6f-44e1-a7d4-418ddef8f024
https://cdr.lib.unc.edu/indexablecontent/uuid:41ed9a93-2e6f-44e1-a7d4-418ddef8f024
シュティーラーの尖閣認識は、ラペルーズが出發點であるから、ベルヌが尖閣を琉球に入れたのもむべなるかな。これにつき詳細は今後探究するとして、小説『十五少年漂流記』の和譯にもシュティーラー地圖手册が出て來る。物語後半の第二十七章、少年らが二年間住んだ島は太平洋でなくマゼラン海峽の島だと知る場面だ。原作佛文でどうなのか、確認してから本ブログでご報告しよう。八重山日報の連載「尖閣獺祭録」でも書くつもりだ。

ジュールベルヌ
  ▲ジュール・ベルヌ。


記録:
http://archive.is/JOi5O
http://web.archive.org/web/20160918154010/http://senkaku.blog.jp/2016091965959823.html


 
橋下徹氏が尖閣を論じた。
非常に失望した。尖閣の歴史を全く理解してゐない。曰く「相手方にも言ひ分がある」と。かりに相手方の言ひ分が全部嘘であるならばどうなのか。相手が全部嘘だとは橋下氏は思ってゐない。橋下氏の腦裏で五百年の歴史檢證などどこかに消し飛んでゐる。日本の主張としてチャイナが嘘なのではなく、極めて單純にチャイナが全部ウソなのだ。何故それを知らうとしないのか。五百年史の細部を橋下氏は逐一よく見て欲しい。あまりにも淺はかだ。失望した。
   ビデオ標題: 橋下羽鳥0829 尖閣諸島をいったん手放すべき!?
 
https://www.youtube.com/watch?v=Bp_HYpip-tQ

.
以下橋下氏に暗記して欲しい二十條。
1、西暦1461年の『大明一統志』以後、歴代史料でチャイナ正規領土は大陸海岸までと明記されてゐる。
2、西暦1534年の最古の史料『使琉球録』(陳侃著)に、琉球人が尖閣海路を導いたと明記してある。
3、最古の記録が琉球人の案内だから、漢文「釣魚嶼」(てうぎょしょ、今音ちょうぎょしょ)の命名者は琉球人と推測される。
4、海路案内人の主力は福建から琉球に歸化した「三十六姓」の子孫だが、彼らが明國籍から外れることは、『皇明實録』嘉靖二十六年に皇帝の語として明記されてゐる。
5、三十六姓の遠祖たる福建民族は漢民族ではない。チャイナ七大方言のうち六大まで東南部に集中するが、少數民族は東南以外にだけ分布する。これは東南部がもともと少數民族だったことを示す。
6、海路案内人は琉球人でありながら、琉球國内海域に到達後も福建人が操船する。これは操船と海路案内とが分業されてゐたことを示す。尖閣海域でも琉球人が案内し、福建人が操船したと推測される。
7、チャイナが西暦1403年の最古と稱する『順風相送』の後半は、西暦1573年以後の記述から成り、且つ琉球人の尖閣航路を載せてゐる。
8、西暦1556年の『日本一鑑』から以後は、「釣魚嶼」を臺灣北方三島の一つとする史料系列があり、尖閣ではない。
9、西暦1617年『皇明實録』以後、歴代史料でチャイナ海防は大陸沿岸40km以内の六島ラインまでと明記されてゐる。
10、尖閣航路上、琉球西端は久米島附近、チャイナ東端は馬祖列島附近だと諸史料に記載され、中間の尖閣は無主地であった。
11、西暦17世紀前半、朱印船貿易史料で尖閣は長崎から與那國島を經る呂宋貿易の航路上に在り、チャイナと無縁である。
12、西暦1683年、汪楫が尖閣の東で記録した「中外の界」は、チャイナと外國との境界線ではない。琉球の風水思想の統一解釋にもとづき、琉球が中、西側が外である。
13、臺灣の風水思想では、龍脈は福州から基隆を經て臺南に至ってをり、尖閣方向に伸びない。
14、西暦18世紀以後のチャイナ史料でも、海路案内者は臺灣海峽で早くも琉球人に交替し、東の尖閣海域へ進む。
15、西暦18世紀前半以後、『臺海使槎録』など臺灣の地誌諸本に載せる「釣魚臺」は、臺灣正北方もしくは東南方の島であって、尖閣ではない。
16、最古の上陸記録は西暦1819年『尚姓家譜』に見える琉球王族である。
17、西暦1845年、英軍艦に乘り組んだ八重山の水先案内人によれば、尖閣には地元の島名が有ると記録される。
18、歐洲製の地圖・地誌では、西暦1751年ゴービル神父「琉球録」以後、次第に尖閣を琉球と看做すやうになる。
19。西暦1804年シュティーラー「支那圖」以後は、尖閣を琉球内と看做す史料が多數出現し、一方で尖閣をチャイナとする歐洲製地誌・地圖は一つも存在しない。
20。西暦1885年に日本政府が尖閣領有をためらった原因は、同年九月の朝日新聞の報導によれば、宮古八重山の領土歸屬問題であり、尖閣問題ではない。

以上は暗記して頂きたい。別の形でならべたのが下リンク。
http://senkaku.blog.jp/2016061661752011.html
http://senkaku.blog.jp/archives/36437239.html



 


 
仲裁法廷は元國の緯度測定説に反駁せず 逆に中國の臺灣當局と譏る      
  石井望  
    (長崎純心大學副教授、兼任内閣官房領土室委託調査事業特別研究員)

 『風傳媒』平成28年7月23日午前6時40分掲載
原チャイナ語版: http://www.storm.mg/article/144427
英語版: http://senkaku.blog.jp/2016091565872744.html


今年(平成28年)7月12日、南海仲裁判決が出た。臺灣人は太平島が島か岩礁かに關心を持ち、海外の報導は判決が中華人民共和國の歴史的權利を否定したことに關心を持ってゐる。ニュースの標題を見たばかりでは、私は法廷の專門家に果たして眼力あり、衆望に背かず、かの國の歴史の虚僞を暴いたものと喜んだ。幾時間も經ぬ内に、英國の日本籍の某教授が私に判決原文のインターネットアドレスを送って下さった。私自身も臺灣『自由時報』のサイトでチャイナ官話短縮版を見つけた。

粗く翻(ひもと)いてみると、歡びは頓(と)みに沮喪へと變じた。法廷は九段線を多くの個處で否定したが、全て「歴史的權利は國際法に違背する」、「九段線は法律的效力を具備せず」等の判語であり、一個處も直接九段線自身に喝を入れてゐない。私から見れば法廷は膽が小さく、歴史の真贋の爭ひを避けて、ニセ骨董店を取り締まる絶好の機會を逸した。法廷が回避する以上、かの國は憚り無く虚僞を散布し續けるだらう。

判決文は多くの個處で西暦19世紀に英國海軍が刊行した『支那海志』(China Sea Directory)を論じ、つとめて歴史を否定した。しかし九段線の依據する漢文史料に對しては全く取り扱はなかった。判決文中で唯一間接的に論及した個處は、原英文の第309頁、註840に見える:
http://thediplomat.com/wp-content/uploads/2016/07/thediplomat_2016-07-12_09-15-50.pdf
引用してゐるのは中華人民共和國駐マニラ大使館の英文聲明だ:
http://ph.china-embassy.org/eng/zt/nhwt/t941672.htm
大使館は、元國が早くもスカボロー礁で天文を測定し、漁業を發展させ、以後間斷無しと主張してゐる。これに對し、判決第311頁に曰く、
「傳統的漁業について、法廷の結論は主權外の獨立的問題とする」
と。確かに漁業史は主權に關はらない。完全に正しい。しかしこれでは元國が測定したといふ詐欺を指摘してゐない。英文は讀めるから討論し、漢文は讀めないから度外視するのか。さうなると、漢字文化を全面否定したことになり、單にかの國の主張を否定するにとどまらない。

天文を測定した史料は、元國の黄鎭成『尚書通考』卷三所載「四海測驗」であり、後に『元史』天文志の内に摘録された。元國はイスラム科學を重視してをり、名高き天文家郭守敬はフビライの命により南北各地に赴いて緯度を測定した。そして「南海」では北緯15度を報告した(下の書影)。15度は恰かもスカボロー礁の緯度に符合するため、中華人民共和國はその文言の「南海」がスカボロー礁を指すと認定してゐる。しかし郭守敬は緯度を測定しただけで、經度は無い。同緯度にはベトナム中部地區もある。かの國は何にもとづいてフィリピン沿岸のスカボロー礁だと斷定するのか。多くの專門家が早くから其の謬りを指摘したが、私はここで新たな點を指摘したい。 

宣教師の指導下で建てられた北京の古觀象臺。『Illustrations of China and its people』より録す。J. Thomson著、China Through Western Eyes刊。西暦1873年。 
Illustrations of China and its people1873北京古觀象臺

ひとまづ郭守敬の計測が精確だったか否かはさておき、先にその時の計測までの脈絡を整理しよう。周天360度法はバビロニア古文明に始まり、後に印度を經て、唐國に流入した。元國以前に多くの天文類の古書では、唐僧一行が印度の暦法に精通し、天下の緯度を計測したと述べてゐる。一行は更に初めて「山河南北兩戒圖」即ち全國地圖を製作した。元國の郭守敬が天下を計測したのは、一行和尚を超越し、元國の幅員の大きさと文明の盛んなるを顯示する目的であった。

唐僧一行は人を派して林邑(今のベトナム)に赴き、北緯17度を計測した。これは極南地區の著名な數値となった。元國の時に到っても、この數値は國家の天文儀「仰儀」に刻まれ、曰く「極めて淺きこと十七は、林邑の界なり」と。極淺とは低緯度を指す。『元史』天文志はこれを引用し、しかし「極淺十五は林邑の界なり」と改めた。

何故十七を十五に改めたのか。郭守敬が唐僧一行の後を繼ぎ、林邑國で15度を計測したので、『元史』に採用されたことが明らかである。『元史』は明國の洪武皇帝が著名人宋濂らに銘じて修撰させたもので、開國後久しからずして完成した。ほぼ元國の同時代の記録である。郭守敬が15度を計測した地點は唐僧一行と同じく林邑國に在り、スカボロー礁ではないと宋濂らは考へてゐた。果たして遠く重洋を渉ってスカボロー礁を計測したならば、それは空前の壯舉であり、唐僧一行の計測の意義を遙かに超越してゐる。『元史』の編者がこれを林邑に誤ることは有り得ない。

『元史』は明國の官製書であるから、前朝の奇功偉績を否定したければ、通常は二種の方法がある。一種は完全に郭氏の計測の事實を湮滅し、一筆觸れるだけで濟ませ、甚しきは隻字も言及しない。別の一種は郭氏が海外に逃亡し、妖言を以て衆を惑はしたと非難する。『元史』編者がこの二種の慣熟手法を用ゐず、ひそかにスカボロー礁を林邑國に入れ替へても、郭氏を湮滅する目的を達し得ない。この種の假設は成立し得るだらうか。事實は計測地點は林邑國であり、スカボロー礁ではない。中華人民共和國の無稽の談は攻めずして自ら破れる。惜しむらく海洋法廷は具體的に詐欺を暴かず、結果としてかの國が判決に反駁し、南支那海管轄二千年と詐稱し續けることを許してしまってゐる。
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/4458


『元史』天文志、康熙刻本、慶應大學藏。
元史四海測驗慶應藏康刻本


郭守敬が出色の科學者であったことは否定できない。しかし360度法はもともと輸入品であり、對岸のかの國が過度に郭を持ち上げるのを我々は受け容れる必要が無い。計測の精度についても議論すべき處が無きにしもあらず。郭氏の劈頭六つの計測地點では、北極星が地から出た角度(即ち北緯)はそれぞれ15度、25度、35度、45度、55度、65度である(書影)。全て先に成數があり、その後に地點を定めたもので、度數の精確性を保ち得るか否か、もともと疑はしい。最も明らかなのは25度、夏至に影無しである。夏至の日には、日晷(にっき、日時計)に影の無くなる地點は全て北回歸線上に在り、北緯は23度半に當る。それが25度に變ずるとはどうしたことか。成數だけを考慮して、端數を考慮せず、精度を求めなかったこと明らかである。同じ理で南海の15度も一定の幅があり、ほぼ14度から16度迄の間に在ったのだらう。スカボロー礁の15度に確定することはできない。

度數が不精確である以上、我々はその下文、日晷の投影する尺度を考察せねばならない。北緯35度の嶽臺とは太岳臺であり、夏至の晷影は1.48尺となってゐる。古時の日晷は長さ8尺なので、三角法で換算すれば1.48尺はほぼ北緯34度弱に當る。

太岳臺は傳統的日晷設置點の一つであり、中華思想では「地の中」、即ち地球面の中心點と看做される。そのため各地の日晷設置點のうち太岳台は最重要で、粗忽な計測はできない。太岳臺の位置はどこなのか。『新唐書』天文志の記載によれば、河南省滑縣から出發し、南に約199里を進めば太岳臺に到達する。さらに南に約168里で扶溝縣に到達する。さらに南に約160里で上蔡縣に至る。太岳臺は滑縣と扶溝縣との中間に在り、開封府城に近い。

現代の數値にもとづけば開封は北緯34度45分ほど、扶溝縣は北緯34度強だが、郭守敬は日晷で太岳臺を北緯34度弱と測定した。扶溝縣と較べても南側に在る。開封附近と比較すれば、少なくとも北緯半度はずれてゐる。よって郭守敬の夏至の日晷投影値はあまり精確ではない。同じ理で南海15度も現代の北緯14度半から15度半ほどの幅が有らう。かくも模糊たる數値を孤證として、小さなスカボロー礁に牽強附會し、フィリピンの手から奪ふとは何事か。
開封太岳臺

今一つ書いておかねばならぬことは、『元史』原文の日晷投影尺度の下文の晝54刻、夜46刻等の數値である。一晝夜を100刻に分けてをり、北方は晝が長く夜が短かく、南方は晝夜均等に近い。對岸のかの國の專門家は何とこれにもとづき「南海」計測の經度がスカボロー礁と一致すると考證してゐる。これは小學生の課題である。經度と晝夜の長短は何の關はりがあるものか。しかし仲裁法廷もこれを論じないのだから、怒るべきか笑ふべきか分からない。況や人類が經度を計測するのは、ほぼ西暦18世紀の歐洲からやっと精度を高めるやうになった。假りに元國がスカボロー礁の經度を計測できたとすれば、全面的に科學史を書き改めねばならない。

以上の歴史詐欺について私は書けば書くほど面白い。しかし臺灣人が最も關心を持つのはこれではなく、太平島が突然岩礁と判定されたことだ。數日來專門家はそれぞれ見解を述べたが、その中でも7月13日(判決翌日)に立法委員管碧玲女史が立法院で質疑したのが、既に肯綮を道破してゐた。女史曰く、南沙群島のどの主張國も專屬經濟水域を擁すると公式に宣言してをらず、臺灣も宣言してゐない。現在太平島は降格されて岩礁となったが、臺灣は元通り宣言できないままで、現状は改變されない。法廷は同時に他の各國の權利をも制限したので、臺灣にとっては害よりも利が大きい。それよりも臺灣にとって最も痛い損失は、「中國の臺灣當局」と公式に呼ばれてしまったことだ、と。 
https://www.youtube.com/watch?v=cWQkoa2FgGE


判決文ではなぜこの極めて稀な驚くべき名稱を用ゐたのか。私の考へでは、法廷は臺灣に中華人民共和國の馬卒とならぬやう目を醒ませと促してゐるのだ。實は法廷が考慮した重點は南支那海の和平に在るのではないか。現在、和平を破壞する勢力はかの國だけであるから、臺灣がもしかの國に追從すれば、ともに破壞的要素となる。それは法廷にとって決して容認できぬことだ。臺灣に教訓を與へるために法廷が取った方法こそが「中國の臺灣當局」といふ惡名である。かの國の走狗だと痛罵したに等しい。

法廷が和平を維持するためには、この判決法は必然の選擇だらう。判決によれば、あらゆる島嶼岩礁は全て專屬經濟水域を擁し得ない。言はば誰も南支那海を獨占してはならないのだ。これは最も公平な判決法だ。もし島礁のうち、太平島及び若干の比較的大きな島だけを島として、その他を全て岩礁とするならば、臺灣の輿論は當り前に政府に經濟水域宣言を要求するだらう。一たび宣言すれば、南沙群島中でこの數島だけが廣大な海域を獨占できてしまひ、他の各島はゼロとなる。各國はそれで納得するだらうか。これは必ず爭ひを激化させる惡果をもたらし、甚だしきは臺灣フィリピン間、臺灣ベトナム間等の武力衝突を引き起こし、東歐バルカン半島につづいて世界第二或は第三の火藥庫となる。法廷はこの判決が歴史的導火線となることを見たくはないだらう。今度の判決は南支那海問題の唯一進むべき、進まざるを得ない道であらう。

しかしこの基準では、世界の多くの無人島が全て岩礁と判定されてしまふ可能性がある。例へば沖の鳥島は、周圍の海域が隣國と重ならないが、これまで通り島と判定し得るか。また釣魚臺(てうぎょだい)は、突然岩礁と判定されないだらうか。これは一連の問題を産み出すだらう。法廷は手を燒くだらうことを分かってゐる。しかし南支那海の和平を考へれば、南沙全島を岩礁と判ぜざるを得なかった。盤上に下されたこの一着は、危ふい一着のやうだが、實は自ら苦しめるもので、他に良い方法が無いのだ。法廷にこの苦心と決心とがあるのだから、我々は理解し尊重すべきだ。この判決が時間とともに歴史的名判となるだらうことを私は預見する。   


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Author:Bartholomew, John(バルトロマイ、バーソロミュー)
Date:1958
Title:China and West Pacific. Plate 16, v.1
Publisher:Houghton Mifflin Co.
Publisher Location:Boston, London
Publisher:John Bartholomew & Son LTD.
Pub Date:1959
Pub Title:The Times Atlas of the World. Mid-Century Edition
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~225284~5506014
臺灣の國境線。面白いね。
1958_Bartholomew_China_West_Pacific_Rumsey

記録。
http://archive.is/VZHNi
http://web.archive.org/web/20160911044112/http://senkaku.blog.jp/2016091165768934.html


同一の地圖册からリンク:
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~225305~5506026
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~225259~5506000

同じバーソロミュー社製の西暦十九世紀地圖
http://senkaku.blog.jp/2016092166014074.html
リンク。書誌によればバーソロミュー社はスコットランドからロンドン、米國へと進出し、現在は米國の會社に合併されてゐる。



 第二次大戰後、西暦千九百七十年までの間、世界各國製作の地圖では、尖閣に領域記載がある場合、必ず日本(もしくは米國管轄)としてゐる。例外は無い。假に例外的にチャイナ領土としてゐるものがあれば、チャイナが疾うの昔に使って大騷ぎしてゐるだらう。だから例外は無いと言へる。
 勿論名稱もSenkaku(尖閣)もしくはSento(尖頭)である。しかし名稱については「臺灣割讓時代の名殘りだ」といふ屁理屈が有り得るので、名稱よりも領域記載が良い。一例として西暦千九百六十七年、蘇聯の公式世界地圖册を舉げて置かう。明瞭に日本と注記してある。別段稀少でもないので、幾らでもこんなものは出て來る。
 私は二十世紀よりも十九世紀以前こそ大切だと考へるので、こんなものに興味は無い。皆さんこんな現代地圖で騷ぐのでなく、古典で勝負しませう。古典こそ民族の魂だ。


Author:USSR (Union of Soviet Socialist Republics).
Date:1967
Title:The World Atlas.
Publisher:USSR
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/view/search?q=pub_list_no%3D%221603.000%22

以下、この圖册中の各地。

 China, Mongolia, Korea. 尖閣は日本、パラセル(西沙)はチャイナ、南沙は非チャイナ。臺灣の地名は中華人民共和國式のローマ字で標記されるので、基本的に中華人民共和國の地理認識を採用してゐると分かる。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208198~3001926
1967USSR_world_atlas_p108_Rumsey


China。同じ圖册中で、沖繩を含む圖には尖閣を載せるが、單獨の「支那圖」では載せない。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208210~3001935

以下リンク、ご自分でご覽下さい。
支那行政。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208192~3001924
アジア。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208191~3001923
臺灣。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208199~3001927
沖繩。
http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~208226~3001943


記録。
http://archive.is/xbXhq
http://web.archive.org/web/20160911030414/http://senkaku.blog.jp/2016091165766218.html

附記。こちらのブログにも
http://senkakuchizu.dousetsu.com/page063.html
前から載ってゐたやうです。



琉球史の著名な出來事。西暦千四百七十七年に朝鮮から漂着した人を送還した。

伊波普猷『をなり神の島』第七十三頁「朝鮮人の漂流記に現れた十五世紀末の南島」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453846/43
https://books.google.co.jp/books?id=XcdIUfY2hX8C
閏伊島=ゆにじま=よね(米)島=與那國島。
所乃島=祖納(そない)島=西表島祖納集落。

朝鮮實録原文。
http://sillok.history.go.kr/popup/print.do?id=kia_11006010_001&gubun=chn
與那國から西表などを經て宮古、沖繩へ送致。

與那國島の火番盛(ひばんむい=火番守ひばんもり)。
東崎(あがりざき)の屋手久(だてぃぐ=やてぐ)に在り。
與那國方言では「や」が「だ」と變化してゐる。
屋手久の火番盛の旅行記ブログ:
http://abe-sin.sakura.ne.jp/kesiki/okinawa2/agarizaki.html

有り難いビデオだ。
火番守が東崎に在ったわけは、西表方面に通報するためだらう。
漂流船の見張り番はきっと西や北にもゐたに違ひない。
今度與那國へ行って訊ねて見よう。

與那國地形

 ▼西崎港(いりざきかう)から西崎燈臺を望む。グーグル
西崎燈臺

與那國島の最高峰は宇良部岳。231.4m。
集落は第一が北側の祖納(そない)。第二が西側の久部良(くぶら)。
第三が南側の比川(ひかわ)。
http://www.yonakuni.net/taiyou/tizu/yona_zenkei02.htm

「祖納地崎」(そないちざき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E7%B4%8D%E5%9C%B0%E5%B4%8E
祖納港内の小島。與那國島には他に離島が無い。

 ▲上記ブログより、祖納のビデオ。

與那國宇部良
  ▲宇良部(うらぶ)岳より北に祖納を望む。

與那國島圖




尖閣の島名について、以下の文を參考に何か書く場合は、連載全囘を
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html
通覽してから論じて頂きたい。部分だけ切り取ると誤解を招く。以下に連載の一部分だけ轉載する。文字の異同については、全原文を「新聞オンライン」でご確認下さい。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
但し編輯部との間の聯絡不徹底により、私の最終稿と掲載紙面とが一致しない場合もある。後日誤りを正して書籍として刊行する見込みである。

平成二十八年四月二十六日(火曜) 『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭録」第二十八囘  
英軍水路誌の漢譯 歴史と無縁の宛て字 尖閣はバシー諸島と同卷 ~~西暦千八百七十四年 キング原著、漢文『海道圖説』(清)
(上略)……臺灣の卷では「巴西列島」(バシー列島)の「伊亞米島」(ヤミ島)を記載する。完全に臺灣だけで成る卷ではないのだ。しかも卷内の臺灣概説が始まるより前にタバコ島(漢名紅頭嶼・紅豆嶼、今の蘭嶼)を置いてゐる。タバコ島は現代では臺灣附屬島嶼とされてゐるが、『海道圖説』では附屬外だったことを示す。その同卷内に尖閣を含んでも、附屬島嶼とはならない。そもそもタバコ島は清國の地誌『海國聞見録』で呂宋の内に置かれ、『海道圖説』の譯者は何の島か分かってゐない。
 更に記述の順次は原著と同じく、臺灣東岸を南下終了後に、別途サマサナ島(今の緑島)から北上して尖閣に至る(連載第二十六囘、圖58)。原著『支那導航書』第四版の目次で「臺灣と宮古八重山諸島との中間」と題した部分だ(連載第二十七囘)。尖閣は臺灣附屬と別に扱はれてゐる。
 しかも漢文名「釣魚嶼」等に對(たい)して英國原著『支那導航書』が宛てたローマ字は(圖63)、『海道圖説』で別の「和平山」などの漢字を宛てられてゐる。琉球『指南廣義』などの漢文史料に見える尖閣について、漢譯者(かんやくしゃ)は何も知らない。從って漢譯者が尖閣に歴史的意識を持ってゐた可能性は無い。ただ國外の琉球・呂宋を臺灣の卷から削除し、その後に尖閣及びヤミ島を情報不足の小島群として殘(のこ)したに過ぎない。
 『海道圖説』の他卷では、僻地でも英語から正確にもとの漢字に還元される地名がしばしば有る。浙江福建の境界線附近を例に舉げれば、「Tae Islands」は臺山列島、「Seven Stars」は七星山、「Pih Quan」は北關港、「Nam Quan」は南關港と、正しく漢字に戻される。これらは譯者(やくしゃ)が清國の地誌と對照して還元した筈である。
 ところが臺灣島内で清國地誌の漢字を宛てるのは、ほぼ鷄籠・淡水・臺灣の三重鎭だけで、それ以外の島内各地について譯者は全く理解できてゐない。清國末年の徐維則『東西學書録』卷三に『海道圖説』を評して曰く、
「中國に名有る者は、中名を以てこれを譯す。西人、誤りを傳(つた)ふる者は、中圖を以てこれを正す。義の譯すべき無き者は、音を取りて以て中字を寫(うつ)す」
と。臺灣島内のみならず、尖閣諸島も譯すべき義の無い地名として音譯(おんやく)漢字が宛てられた。宛て字の尖閣は、歴代漢文史料と無縁である。英國原著で無主的な中間地とされた尖閣を、譯者が歴史にもとづいて臺灣の卷内に留めた可能性は否定される。……(下略)

全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

圖63島名比較
。平成二十八年八月二十九日附記:
 著名な中華民國感謝状で和平島を「和洋島」と書き誤った原因については、平成二十七年十一月三日火曜の八重山日報第四面「臺灣附屬の釣魚嶼は尖閣ではない、またも新發見」の中で既に論じた。その誤りには何ら意義が無い。何故なら五百年前から尖閣の西方に國境線が存在し、水先案内は琉球人が擔任し、明治二十八年までチャイナは「尖閣ゼロ」であったことが歴代の漢文で明らかなので、明治領有以後に島名を誤っても誤らなくても日本の領土として確定濟みなのである。古典史料こそ尖閣史の魂である。和洋島を以て鬼の首を取ったやうに言ひたてるのは愚かだ。
 また、上引の連載「獺祭録」を讀まずに和平山についてあれこれ書く人もゐるやうだ。尖閣史を論じるのに私石井の著作を讀まずに濟ませる法は無いだらう。折角目録を公開してゐるのだから、發言したい人はまづこの四年來の全作を通覽して欲しい。

ついでに。西暦千八百四十五年にベルチャー艦長を尖閣に案内した八重山人についてリンク。
http://senkaku.blog.jp/20160330yaeyama.html






岸田南海トーク280917

「南シナ海トークライブ」の講師をします。
ともに語るのは岸田芳郎氏。
九月十七日土曜、午後六時半から二時間ほど。
會場:春日クローバープラザ(JR春日驛前)。
會場費雜費として一名五百圓。定員三十名。
お申し込みは、岸田芳郎電話 080-7982-0052 迄。
もしくはフェイスブックで申し込み可。
https://www.facebook.com/events/2102576256634616/
私本人へのご聯絡電話は、090-5084-7291(いしゐ)です。

内容見込(變更の可能性あり)
來場者と問答形式で15分間あまりのユーチューブ用ビデオ4本を撮影收録します。

一本目。7月12日南シナ海仲裁判決の辯護士。
アメリカのライクラー辯護士は、フィリピン辯護を擔任した。ライクラー氏は歴史資料をどう見てゐたか、岸田氏が直接取材した衝撃の中味。

二本目:7月12日仲裁判決の漢文史料。
判決は歴史主張を退けたと報導されたが、判決文の中で漢文史料は一種だけ間接的にしか引用されず、しかもチャイナに反駁しなかった。一方で西暦十九世紀の英軍水路誌は必ずしも精確なものではないが、幾度も引用された。事實上、チャイナの提示する漢文史料だけを無視したのが今度の判決であった。引用された漢文一種とは『元史』の北緯測定記録である。スカボロー礁の北緯を計測した記録だとチャイナ政府は主張する。それが全くの嘘であることを原文に即して暴く。

三本目。南シナ海二千年の虚構。
チャイナが二千年前に南沙を發見したとする根據は漢文『異物志』である。ところが『異物志』原文をよく見ると、外國の先進的な鐵甲船が南沙を發見したと書いてあり、チャイナ政府の御用研究者もそれをうっかり認めている。

四本目。自由討論。
ここが一番面白いでせう。


時間があまれば……
五本目。清國民間史料でも南沙は國外。
チャイナは色々な南シナ海の漢文史料を持ち出す。理解できないアメリカ人は、「歴史は尊重したいが國際法上は無効だ」と反駁してしまう。正しい反駁は「その歴史は全部嘘だ。例へば◎◎の史料の嘘は……」と逐一反駁することだ。例へば清国の「巴遊紀略」及び「南洋蠡測」には、南沙がチャイナ國外だと書いてある。

六本目。公式の歴史的領土はどこまでか。
明國清國の官製地誌には、領土は海南島までと書いてある。海南島以南は全てチャイナ國外である。フィリピンのカルピオ判事もこれを論據とした。尖閣でも同じことで、官製地誌には福建の領土は海岸まで、臺灣の領土は最北端の基隆まで、及び東北端の三貂角(さんてうかく)まで、東は臺灣中央山脈まで、と明記されてゐる。尖閣も南シナ海も國境線外であるが、チャイナは無視してをり、何故か日米の大メディアも取り上げない。


岸田芳郎氏。「博多空」社長。元福岡大學課外講座講師。テキサス太平洋博物館職員。報導:
http://www.sankei.com/west/news/150730/wst1507300055-n1.html
http://www.sankei.com/region/news/150919/rgn1509190011-n1.html
http://news.ltn.com.tw/news/world/paper/902541
http://b5.secretchina.com/news/15/07/31/582879.html

春日クローバープラザ




以下の内容は『八重山日報』連載「尖閣獺祭録」第六十八囘として、平成二十八年九月十七日(土曜)第五面に掲載されます。八重山日報電子版リンク:
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

尖閣西方の國境線の年代は、これまで明治元年圖(西暦千八百六十八年)が最も早いといふことになってをり、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』の表紙を産經新聞及び百田尚樹氏・高山正之氏が取り上げてゐた。それをこのほど一年引き上げ 慶應三年(西暦千八百六十七年)と署するシュティーラー圖が見つかった。平成二十八年八月二十六日。

1868年刊、シュティーラー・ハンドアトラス。
初版製作者アドルフ・シュティーラーは西暦千八百三十六年に卒し、それ以後はシュティーラーの名を冠して、ペーターマンらが製作して版を累ねた。
内表紙標題:世界全地圖册
(Handatlas über alle Theile der Erde und über das Weltgebäude)
副題:西暦千八百十七年初版、西暦千八百六十七年五十周年記念版。
(erste Ausgabe 1817, Jubelausgabe 1867)
jubelは英語のjubilee即ち舊教のヨベル年、五十年ごとの祝祭年。
目次標題:「Adolf Stieler's Handatlas」
目次副題:Vollstaendig Ausgabe in 84 karten 1868
(西暦千八百六十八年八十四幅圖完備版)
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/toc/PPN638143047/1/LOG_0000/
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/thumbs/PPN638143047/1/
https://www.worldcat.org/oclc/846101544
グライフスワルト大學藏。
(大學名:Ernst-Moritz-Arndt-Universität Greifswald)
目録によれば2010年にインターネット公開。書誌公開か電子圖公開か不明。
https://lhgrw.gbv.de/DB=1/LNG=DU/PPN?PPN=638143047
電子圖像庫:Digitalen Bibliothek Mecklenburg-Vorpommern
(メクレンブルク・フォアポンメルン州電子圖書館)
43c番「支那高麗日本圖」。尖閣の西方に國境線。
下方欄外に1867と署する。PDF鮮明ダウンロード。
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/image/PPN638143047/69/
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/resolver?urn=urn:nbn:de:gbv:9-g-724708
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/content/?action=pdf&images=PPN638143047/00000069.tif&targetFileName=PPN638143047_69.pdf
51番「ポリネシア太平洋圖」も尖閣の西方に國境線。下方欄外に1868。
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/resolver?urn=urn:nbn:de:gbv:9-g-724886
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/image/PPN638143047/87/

1867StielerHandAtlas_ChinaKoreaJapan_Greifsward藏
 ▲支那高麗日本圖。グライフスワルト大學藏。

1868StielerHandAtlas_Polinesien_Greifsward藏
 ▲ポリネシア太平洋圖。グライフスワルト大學藏。右下方に尖閣。破線で圍まれてゐる。

 明治元年よりも一年でも早い圖を搜してゐたのだが、この電子圖像庫に氣づかなかった。いつインターネットに出たのだらうか。上記インターネット書誌に下の如く書いてある。
Veröffentlichung Angabe(版本概要):
 Greifswald Universitätsbibliothek, 2010(グライフスワルト大學圖書館、2010年。)
Umfang(範圍) :
 Online-Ressource (オンライン資源)
Technische Angaben(技術規格):
 TIFF, 400 dpi, Farbe; Digitalisierungsvorgabe: Primärausgabe
(tiff形式400dpi。着色。デジタル化初期値。初級版。)
これだけでは、西暦二千十年に該大學が購入收藏したの、書誌電子版を公開したのか、電子圖像を公開したのか、分からない。問合せる必要がありさうだ。

グライフスワルト大學は、地方の弱小大學ながら近年成功を收めたといふ。
http://www.bmkberlin.com/Germany/040427unigreifswald/text.html
それでも西暦1456年に創立されたのだから古い。
http://www.shanghairanking.com/ja/World-University-Rankings/University-of-Greifswald.html
日本の教育機關は中世まで寺院が中心であり、江戸時代中期からは儒家の藩校だ。熊本藩校再春館が、現代の大學に繋がってゐる最古であらう。戰國時代の文化的衰微が原因で歐洲ほど古い大學が續いてゐないのだらう。まあ世界最古の皇室と、世界最古の地上木造建築法隆寺があるから良いではないか。

記録:
http://archive.is/ViCRX
http://web.archive.org/web/20160826113729/http://senkaku.blog.jp/20160826stieler1867.html
http://web.archive.org/web/20160826114027/http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/3/1/3108b9df.jpg

なほ、平成二十八年七月二十六日の本ブログで書いたが(八重山日報七月二十一日獺祭録第五十二囘掲載分)
http://senkaku.blog.jp/2016071863676758.html
シュティーラーの地元ゴータの「エルフルト・ゴータ歴史デジタル圖書館」に出てゐるのも、明治元年圖册である。東京大學藏本は明治二年圖册中に明治元年支那高麗日本圖が出てゐるので、ゴータ歴史デジタル圖書館公開本が一年早い。獺祭録第五十二囘及び七月二十六日ブログで兩版本を同一としたのは疎誤であった。ゴータ歴史デジタル圖書館公開明治元年圖册の「支那高麗日本」圖(43c)は、目録だけあって電子圖像は未公開である。
http://archive.thulb.uni-jena.de/ufb/rsc/viewer/ufb_derivate_00003764/SPA-2-000015_0004.tif
http://archive.thulb.uni-jena.de/ufb/receive/ufb_cbu_00006557#tab1
從って現在公開中はグライフスワルト大學藏本だけだ。七月にもインターネットを檢索したつもりが氣づかなかった。最近一か月以内に公開されたのだらうか。それとも私の疎漏だらうか。

他情報リンク:
http://www.abebooks.fr/servlet/BookDetailsPL?bi=15108991198

http://www.ebay.at/itm/401162073826

http://web.archive.org/web/20160918135647/http://www.ebay.at/itm/401162073826
http://archive.is/NFtuS

http://online.auktionsverket.se/1602/359960-classical-atlas-by-stieler-1867/

https://www.booklooker.de/B%C3%BCcher/Stieler+ATLANTEN-Hand-Atlas-%C3%BCber-alle-Theile-der-Erde-und-%C3%BCber-das-Weltgeb%C3%A4ude-Erste-Ausgabe-1817/id/A01R0LO101ZZh?zid=0c1a61015a14ec850e7ad1af5c64b8fd

http://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb314077700

http://trove.nla.gov.au/work/32814014?q&versionId=40076529




以上の内容は『八重山日報』連載「尖閣獺祭録」第六十八囘として、平成二十八年九月十七日(土曜)第五面に掲載されます。八重山日報電子版リンク:
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html



『大明一統志』に領土は海岸線までと明記してあるが、清華大學の劉江永氏が論文で「ただの海岸までの距離だ」とか言ふので、原文を讀んでないことが分かり、可哀相なので拙著書中では輕く反駁するだけにしたのだが、このブログ(リンク)
http://seizan.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17
http://senkaku.blog.jp/2016082565294962.html

のやうにデマを流す人がゐるので、原文の電子畫像を下方に掲載しておく。そもそも領土の記載は地誌の領域卷の通例であって、東西南北が揃ってゐる。珍しくもない。
http://senkaku.blog.jp/archives/35545379.html
http://senkaku.blog.jp/archives/36524369.html

海岸の距離だけだといふのはどこの一年生だらうか。詳しい場合には東南、西南、西北、東北も併記される。明國も清國も同じだ。最南は海南島までなので、南支那海全域は領土外だ。地誌明記の海南島の線についてはフィリピンのカルピオ判事も舉げてゐる。尖閣の西方のチャイナ領土線については、美根慶樹氏も書いて下さったが、
https://thepage.jp/detail/20150328-00000001-wordleaf?&page=2
更に詳細は下の論文に書いてあるのでご覽頂きたい。
 「尖閣釣魚列島雜説七篇」
『ことばと人間形成の比較文化研究、長崎純心大学共同研究報告書』所載、長崎純心大學比較文化研究所、平成二十五年三月刊。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/25825613.html
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024345623-00
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12817507

pdfファイルダウンロードはこちら。
http://www.academia.edu/15634808/
https://docs.google.com/uc?id=0B2MwcvRggQjpc0lScnduYmhUYkk

「問題發生でプレビュー出來ません」などの表示が出ても構はずダウンロードして下さい。

以下は電子畫像。ほんの若干例。
福寧州志疆域赤
 ▲福建の福寧州志・疆域。嘉靖刊。天一閣藏本の影印。赤色はコピー紙面に書き入れたので、原書を汚したりしてませんので、念のため。

大明一統統一公司本福州3
 ▲大明一統志。統一公司影印の天順刊本。





「尖閣の地理を調べると、やはり中国領」といふブログにコメントしました。
http://seizan.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17

いしゐのぞむ
 林子平『三国通覧圖説』では、臺灣島を黄色に、尖閣を桃色に塗ってゐます。臺灣附屬島嶼ではないことを示す史料です。チャイナ公式見解にも林子平『三国通覧圖説』を入れてゐるので、臺灣附屬島嶼か林子平か、どちらか一方をチャイナは放棄せねばなりません。詳細は新刊拙著『尖閣反駁マニュアル百題』(集廣舍刊、amazon等有り)及び鄙撰論文などをご覽下さい。
by いしゐのぞむ (2014-09-14 13:40)

いしゐのぞむ
「尖閣を知らなかった」といふのは誤りです。
同じ事を繰り返しお書きなので繰り返しますが、西暦1534年に陳侃が釣魚嶼海域を渡航したのは、琉球航海士の案内に從ったのだと自身で記録してます。奧原敏雄氏が最初に論及した有名な記録です。最古の釣魚嶼の記録が琉球人による水先案内ですから、釣魚嶼の發見命名者は當然琉球人だといふことになります。
 林子平圖は、臺灣島と尖閣とを別色で塗ってますので、臺灣附屬島嶼説を否定してゐるのです。
http://senkaku.blog.jp/archives/2258655.html
 「尖閣諸島の向こう側に国境を設定するには無理がある」とのことですが、尖閣の西方の國境線は、チャイナ自身が定めたものです。西暦1461年「大明一統志」に「領土は大陸海岸まで」と明記されて以後、1880年頃まで、多數の史料に類似の國境線が記録されてゐます。
詳細は『尖閣反駁マニュアル百題』、集廣舍。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986
by いしゐのぞむ (2015-01-10 14:24)

kodomo
石井さんのご意見は2つとも誤りです。
冊封使船は、500人もが乗った大船です。航海士も沢山います。天文航法を用いていたとはいえ、水先案内人の補助は役にたったと思います。しかし、船員は200人ほどもいたでしょうから、30人の水夫を琉球が提供しても、手助け程度です。琉球人が操船したなどと言えるものではありません。しかも、琉球が提供した船乗りたちは、おそらく中国人です。琉球で、航海を担っていたのは、久米36姓と言われる技術集団ですが、明の皇帝から派遣された移民で、中国語と航海術を保持した中国人村を形成していました。久米36姓が琉球化すると共に、航海術が失われていったことが知られています。中国と沖縄では文化水準が違 いすぎます。
「大明一統志」には、「領土は大陸海岸まで」などと書いてありません。むちゃくちゃな読み方をあちこちで宣伝されても困ります。
by kodomo (2015-09-22 09:16) 

リンクも著書もお讀みでないやうですね。
  久米三十六姓は明國籍を離脱してゐたことが『明實録』に書かれてをりますので、琉球國人です。しかも陳侃の船の水先案内は琉球國王の公務として命じられま したから、個人の國籍以前にそもそも琉球國として公的にチャイナ船の水先案内をしたのです。著書『尖閣反駁マニュアル百題』をご覽下さい。
 「久米36姓が琉球化すると共に、航海術が失われていった」とする記録は、琉球福州間だけ除外する記述だと、とっくの昔に『尖閣反駁マニュアル百題』に書きました。讀んで下さい。琉球福州間を毎年往復するのに、針路を失ふ筈が無いではありませんか。
 尖閣海域では天文航法を使用してゐませんでした。「島嶼研究ジャーナル」の諸論文をご覽下さい。
 「中国と沖縄では文化水準が違いすぎる」とは單なる差別でせうか。水先案内は海域ごとに分かれますので、文化水準と無縁です。『日本一鑑』などの史料で分かる話です。拙著諸論文ご覽下さい。
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html
 琉球人が擔任した「操船」とは、水先案内部分です。琉球人の「看針」とチャイナ人の「操舵」とは分業でした。拙著『釣魚嶼史三議』
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I027315769-00
をご覽下さい。
 「大明一統志」には、「領土は大陸海岸まで」と明記されてます。各地方志にも全て明記されてます。原文を勉強する氣が無ければどうにもなりませんね。拙著書及び論文を隈なく讀み盡くしてから、ご質問があればご聯絡下さい。


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琉球列島



最後のコメントは本日書き入れましたが、ブログ主が承認掲載するかどうか分かりません。
少し詳しい情報は別途下リンクに書きました。
尖閣西方のチャイナ領土線 
http://senkaku.blog.jp/2016082565296541.html  
『大明一統志』に海岸線までと明記してゐないと……



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夕刊フジ電子版、富坂聰氏論説(下方に節録)。とんでもない。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n2.htm

まづは私の反駁。
1、南支那海判決が沖ノ鳥島に不利になった。
 これは周知のことで、判決が太平島を岩礁扱ひしたのは何故なのか、訝る向きも多い。これについては私が臺灣で既に書いた。リンク:
(仲裁庭不反駁元國測緯之説,却罵「中國的臺灣當局」。風傳媒)
http://www.storm.mg/article/144427
要するに、太平島だけ大きいからと經濟水域を認めてしまったら、南沙海域が全て臺灣のものになってしまひ、現状が大きく變更される。仲裁裁判所としてはそんなことはできないので、「人工的に島の形状が變へられてゐる」などの道理を附會して、南沙全島一律に岩礁としたのだ。現實として、それ以外に判決の下しやうが無かった。沖ノ鳥島を始めとして、全世界の無人島の主權に惡影響は有るが、やむを得なかったのである。
 今後どうするか、世界各國が智慧を出すべきである。日本は沖ノ鳥島が不利だからと南沙で軟化するのは絶對有ってはならぬ選擇だ。富坂氏は要するに日本は南沙仲裁判決を全面支持するな、チャイナを少しばかり支持しておけといふ主張だ。とんでもない。

2、ロシアが尖閣に介入する。
 これは不可。何故なら尖閣は100%日本の領土であるからだ。南沙に諸國が介入するのは善。何故ならチャイナの領土ではないからだ。つまり根本的問題である。尖閣は確かに100%日本なのか否か。單に日本がさう言ひ張ってゐるだけなのか。富坂氏はその根本を等閑に付してゐる。何の理屈にもならない。
 チャイナの尖閣主張は全て歴史だけだ。明治二十八年編入の時點でチャイナのものだったといふ前提だ。我々は明治二十八年より以後について論爭しても何の役にも立たない。尖閣は要するに歴史の虚構と五百年の史實との爭ひなのだ。100%日本編入に向かって進んだ素晴らしい歴史を、わざわざ自分から無視する日本では、とても勝てない。
 100%の歴史が明らかになれば、ロシアの介入は100%惡であり、富坂氏の議論は1%の意義も持たない。富坂氏の前提は、南沙も尖閣も同じく係爭地だといふ認識だ。この人は孫崎氏の同類である。

3、大陸棚延伸論。
 國際法の話なので、詳しくは私には分からない。ただ富坂氏が誤魔化してゐるのは、大陸棚が領土を定めるのではないといふ點だ。大陸棚の上の島嶼を全て大陸國の領土とするわけではない。大陸棚を論ずる以前に、尖閣は日本の領土であるから、大陸棚の上に日本の領土が存在する。それだけのことだ。
 越南が大陸棚の上の島嶼が自然とそのまま全て越南領土になると主張してゐるのだらうか。そんなことは聞いたこともないし、かりに越南がさう主張しても日本が支持する筈も無い。越南が主張するのは大陸棚即領土といふことではなく、大陸棚の海洋的權利だらう。
 富坂氏は、尖閣が日本の領土と確定してゐないといふ前提で、大陸棚の延伸を持ち出してゐる。そもそも尖閣は日本の領土なのか否か、そこを誤魔化さずに論ずべきだ。富坂氏の文章は輿論を誘導しようといふ惡意がある。

4、西沙について。
 富坂氏は西沙と南沙とを故意に混同してゐる。これはチャイナの主張と全く同じだ。西沙は古典漢文史料の中では、越南とチャイナとの中間的な地、兩文化の末端の地であった。しかし現チャイナはそこを誤魔化して、
「西沙にチャイナの力が及んでゐたから全南支那海がチャイナのものだ」
と主張してゐる。
 しかし今度の仲裁判決などで問題が大きくなってゐるのは南沙だ。日本が反チャイナ陣營を支持してゐるのも南沙問題だ。西沙と故意に混同する富坂氏は、何を目的としてゐるのか。

5、後出し先出しについて。
 富坂氏は南沙主張に於いてチャイナが先、東南アジア諸國が後だと言ふが、何にもとづいてゐるのか。古典史料で言へば、南沙でチャイナはゼロだ。全て虚構だ。リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016070963121024.html
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/4458
http://senkaku.blog.jp/2016040257697412.html
http://www.peoplenews.tw/news/e226b0f0-698c-48c7-b914-17da65230fe4
http://senkaku.blog.jp/2016032257037201.html

 現代について私は一知半解ながら、南沙占領は中華人民共和國が最も遲い。遲かったがゆゑに、問題化を圖って主張したのは中華人民共和國が最も早い。それをどう尖閣にあてはめるのか。
 「尖閣は領土として確定した後にチャイナが主張し始めた」
 「南沙は他國の占領後にチャイナが最も早く主張し始めた」
この兩者を同列に扱ふ富坂氏は、矢張り尖閣主權が不確定といふ前提だ。不確定なのか確定してゐるのか、前提を誤魔化してはいけない。この人物は全く信頼できない。

 附記:チャイナが先に主張し始めたとは何のことかと思ったら、このビデオの6分50秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=WJWI5Y0n768#t=6m45s
https://www.youtube.com/watch?v=WAvUpVxa5SM#t=6m45s
西暦1946年にチャイナが主張し始めたが、その時は越南は南北に割れてゐて、フィリピンは獨立してゐないからチャイナが最初だ、とのことだ。ちょっと待ちたまへ。その時は中華人民共和國はまだ建國してゐない。中華民國を算入するならば、越南がフランス殖民地だった時代の占領も算入せねばいけない。フィリピンの主張は西暦1952年サンフランシスコ條約で放棄された無主地だといふことだから、1952年以前に沈黙してゐたフィリピンも主張を開始してゐたに等しいから、同じく算入せねばなるまい。
 更に、ビデオの8分から。南沙で飛行場を建設してゐる五箇國の内、チャイナは四番目に建設したから、決してチャイナだけが惡いのではないとこれは現チャイナの主張をそのまま代辯してゐるが、それよりもちょっと待ちたまへ。富坂氏はチャイナが先だと言ひたいのではなかったのか。チャイナによる實効統治的進出は四番目に過ぎないではないか。論理を誤魔化さないで欲しい。


以下、富坂聰氏論説より節録。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n2.htm

【真・人民日報】南シナ海問題「敵の敵は味方」の単純な考え方は通用しない
2016.08.24
 フィリピンによるPCAの提訴の裁定が、めぐりめぐって日本の沖ノ鳥島の問題にも波及し、日本自身が膨大な海の権利を失いかねないことになったという問題が指摘されよう。
……もしロシアが「わが国にとって重要な輸送路だから」という理由で尖閣諸島の問題に介入しようとしたら、日本はその動きを仕方のないものだと受け入れるだろうか。
……西沙諸島(同・パラセル諸島)をめぐる中越の対立でベトナムが領有の根拠としているのは、「大陸棚延伸論」である。ベトナムに理があるなら、東シナ海で中国が主張する「(大陸棚の続く)沖縄トラフまでが中国のもの」が通ってしまうことにもなりかねない。
 また、「中国VSASEAN(東南アジア諸国連合)」の戦いでは、どうしてもASEAN側の主張が遅れたという背景がある。これも、日中の対立に当てはめれば、中国側の立場を後押しすることになる。
  現状を見る限り、日本は南シナ海の問題で明確にASEAN側に立っている。一方で、彼らが主張する「大陸棚延伸論」や「後出しジャンケン」については牽制する気配がない。東シナ海をめぐる日中間の衝突で、中国が同じ主張や手法を採用した場合、日本が不利にもなりかねないにもかかわらず、だ。


富坂聰


尖閣との關聯で、重要文化財「元禄國繪圖」電子版を見た。國立公文書館。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0300000000/0301000000/01

一般書籍中にしばしば引用されるが、大きな彩色畫像はインターネットで公開されてゐるのを初めて見た。門外漢の私にとって驚くべきはその精確性だ。内陸圖では一目で分からないが、海岸線や湖沼のある常陸・近江・薩摩・大隅・琉球などを見ればよく分かる(上リンク)。現代地圖とも見紛ふ程だ。伊能忠敬の百年前にこの水準に到達してゐた。それでも前作「正保國繪圖」よりも精確性を後退させてゐるのださうだ。下の琉球圖など、日本が琉球を完全に實効統治してゐたことを如實に感じさせる。

 ▼「元禄國繪圖」より、琉球國沖繩島。
元禄國繪圖沖繩島

 我々はこのやうな圖を、さして偉いものとも思はずに何となく見てゐる。それが日本では當り前なので有難味が無いのだらう。しかしその精確性は、隣の清國と較べれば違ひがよく分かる。康煕帝が宣教師に命じて作らせた全國地圖は、日本の國繪圖と比肩し得る精確性を誇るが、清國人自身の製作した清國地圖は、晩清期(光緒年間、西暦十九世紀末、二十世紀初)に至ってもほぼ中世と大差ない。
清光緒會典臺灣全圖_莫崇志繪
  ▲清光緒會典臺灣全圖 莫崇志ゑがく ウィキペディアより。

中世と大差ないからと貶めるつもりは無い。中世的風格をよく留める素晴らしい文化財ではないか。私は尖閣研究の關聯で清國製作の海岸線圖を常日頃から目にしてをり、逆にその古朴なる趣味を樂しむ程である。
 なほ、尖閣諸島は元禄國繪圖に掲載されてゐない。尖閣は少しづつ琉球のものとなりつつあったが、なほ公式には國外の無主地であったから、載ってゐないのは當り前だ。「載ってないからチャイナのものだ!」などといふ詐欺に引っかかってはいけない。尖閣に於いてチャイナはゼロである。

 下は清國人の『中山傳信録』から、沖繩島圖及び琉球諸島圖。西暦1721年刊。琉球の士人(しじん)の提供情報で製作された。元禄より後なのだが、精度はほぼ無いに等しい。清國は琉球を統治してゐないのだから精確な地圖を製作できる筈も無いが、製作する技術も無かった。
中山傳信録琉球地圖


中山傳信録琉球36島圖


八重山とは、石垣島を指すが、また古くから八重山諸島全域をも指す。

徐葆光『中山傳信録』卷四「琉球三十六島」の「西南九島」に曰く、
「八重山、一名北木山、土名彝師加紀、又名爺馬。
……以上八島,倶屬八重山、國人稱之皆曰八重山。」
(八重山、一名北木山、土名はイシカキ、又たヤマと名づく。
……以上八島、ともに八重山に屬す。國人これを稱して皆な八重山といふ。」
と。
爺馬(ヤマ)は「やいま」であらう。


 ▼徐葆光『中山傳信録』卷四「琉球三十六島圖」
中山傳信琉球三十六島圖



【博多女子のそこが聞きたか! なして、その地名?】(2) 新田原(にゅうたばる)
http://www.sankei.com/region/news/160819/rgn1608190042-n1.html
(産經新聞九州山口特別版)

 ■7世紀の丹生田(にゅうた)が語源か

 NEW田原? 宮崎県新富町に航空自衛隊の新田原(にゅうたばる)基地がある。「新田」という地名は全国に数多くあれど、それを「にゅうた」と読む地名はここだけ。その由来とは?

 〈つくし〉こん前、友達におかしかねえ、といわれた。曲芸飛行を行うブルーインパルスの話題から新田原基地になってね。その名前の「新」って、ずっと「NEW」と思っとったんよ。「英語と日本語を組み合わせて、しゃれとんな~」って言ったら「そんなわけ、なかろ?」って笑われた。もともと古い基地があって、戦後、基地が新しくなって「NEW」ってつけたんじゃなかと?

 〈めんたい犬〉新田原基地は戦前からある。昭和15年に旧日本陸軍の新田原陸軍飛行場として建設されて、戦後の昭和32年に改めて、航空自衛隊の基地になったんよ。

 〈つくし〉なら、なんで「にゅう」と読むと? そういえば、福岡県行橋(ゆくはし)市には「新田原(しんでんばる)」という地名があるっちゃね。これと区別するために「にゅう」って読ませたんかな。

 〈めんたい犬〉同じ九州とはいえ、行橋市と新田原基地は200キロ以上も離れとろうが。それに、基地のある新富町には、江戸時代から「新田村」という地区があるったい。自治体同士で合併を繰り返し昭和34年に隣の村と一緒になり新富町になったと。

 〈つくし〉私も新田原基地の広報担当者に聞いてみたんよ。そしたら、やっぱり時々、話題に上るんだって! 由来については確信はないみたい。でも、有力な説を教えてくれたんよ。基地の周辺の原野を開墾したことで「新しく水田をつくる」という意味の「新田」という字を当てて「にいた」と読んどったみたい。それが「にゅうた」に変化したんじゃないかって…。

 〈めんたい犬〉「にいた」「にうた」「にゅうた」…。確かに分からんでもないなあ。でも、総務省によると「新田」という地名は全国に1000カ所もある。このうち「にゅうた」と読むのは、なぜか新富町の地域だけ。根拠としてはちょっと弱いような気もするけど。

 〈つくし〉ちゃんと新富町役場にも取材したよ。役場にも「『NEW田原』なんですか」って問い合わせも多いみたい。

 生涯学習課課長補佐の有馬義人さんによると、新田という地名が最初に確認されたのはナント、鎌倉時代の建久8(1197)年だって。そのころに何があったかというと…

 〈めんたい犬〉ときの将軍に仕えていた武士(御家人(ごけにん))への報酬として土地を与えるため、鎌倉幕府が全国で水田面積の調査をしたんやな。

 〈つくし〉当時の資料によると、日向国(今の宮崎県)の土地の所有を示す帳面「図田(ずでん)帳」に「新田」という地名がある。読みは分からんけど、江戸時代に新田村と隣の村の境界線を示した図面が残っていて、そこでは「新田村」のことを「入田村」と書いていた。有馬さんは、それを「にゅうた」と読んだんじゃないかと推測しとった。

 遡(さかのぼ)って鎌倉時代から、「にゅうた」の読みが先にあり、「新田」や「入田」の漢字が後であてられたという説だね。

 〈めんたい犬〉なるほどよく分かったね。それは知らんかったなあ。でも、それがもし正解だとしても、そもそも、なんで「にゅうた」という地名になったんかな?

 〈つくし〉それはね、平安時代に編纂(へんさん)された「続日本紀」によると文武2年、西暦では698年に日向など4カ国から朝廷に「朱沙(しゅさ)」が献上された、とある。朱沙は朱色の顔料のことだね。古代日本では「丹石(にいし)」と呼ばれる朱色の顔料を使っとったんよ。新田原の近くの古墳群から出土した土器にもこの顔料が塗られていたんだって。

 有馬さんは、丹石の産地から「丹生田」(にゅうた、にうた)と呼ぶようになり、当て字に「新田」を使うようになったと推測しとるよ。

 〈めんたい犬〉お~、なかなか説得力があるじゃないか。同じ「新田」と書いても「にゅうた」と「しんでん」で、その由来はちごうとるんやな。

 〈つくし〉ハイカラな地名だと思っとったけど、調べてみると実は、古代のロマンも詰まった味わい深い地名なんだね。


新田原基地



本日掲載のうち、部分だけ轉載します。全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭録」第五十九囘 
「泰斗の名を冠し、尖閣は八重山の内、ドイツの地理學系列情報 ~西暦千八百四十七年 『リッター地理情報百科全書』(ドイツ)」

 私が尖閣古史を研究するのを理論武装の道具と解する人が多いが、必ずしも本意ではない。勝ち負けは必要だが、理屈で勝てば良いわけではない。報導によれば、尖閣附近のチャイナ公船が八日ぶりに全て退去したといふ。しかし相變はらず安倍政權は尖閣に自衞隊など公務員を常駐すらさせない。國際法でも兵力でも勝ってゐるのに、實際(じっさい)には勝ち切れてゐないではないか。
 韓國は竹島を要塞化し、インドネシアやベトナム等はチャイナ違法船を撃沈した。何故日本はそれができないのか。經團聯(けいだんれん)や米國政府が日本に自己抑制を求めてゐるからだと世間では推測されてゐる。確かに彼らの要求をはねのけるのは難しいだらう。はねのけるには何か安倍政權を強く後推しする最大の力が足りないのだ。それが歴史である。
 チャイナはそもそも尖閣を發見(はっけん)も命名もせず、水先案内を琉球國公務員に委ね、尖閣の遙か西方に明瞭なチャイナ國境線及び海防線が數百(すうひゃく)年間存在した。その歴史の細部について、ニューヨーク・タイムズ及び朝日新聞が第一面で百日間連載する。NHKスペシャル十囘連續(れんぞく)で尖閣古史を放映する。そこからがやっと出發點(しゅっぱつてん)だ。
 單(たん)に現代國際法で勝ったとか、日米安保條約の對象だとか、そんなチャチな話だけでは足りないのだ。學術にもとづく魂の歴史を人々が理解して、始めてオール日米・左翼右翼の九割の支持を得られる。その時やっと安倍首相は尖閣常駐を決斷(けつだん)できる。
 連載第五十五、五十六囘について、某保守系新聞記者の態度を五十七囘で批判した。そもそもニューヨーク・タイムズ及び左翼新聞がこの重大史實(しじつ)を載せなければ大した効果は無いので、某保守系記者には「今度の新情報については第一面上段右側掲載以外謝絶します」と最初に申し上げた。
 それでもなほ質問状などを寄越すので、私はグーグル地圖(ちづ)以外の全既出情報をわざわざ提示した上で、「これ以上の細かな點は掲載決定後にお答へします」と重ねて謝絶すると、捨てゼリフに曰く、「他社は載せる筈(はず)が無いし、わが社の地方版すら載せられない」といふ。最初から載せるつもりが無いなら多忙の身を邪魔しないで欲しい。
 この記者は、既出情報について繰り返し繰り返し否定的な問合せをしてくる。勉強する氣(き)など無いのだ。うるさくて私は身がもたない。これが保守系某媒體(ばいたい)のお寒い現状である。幸ひ八重山日報及び系列の媒體には尖閣古史をしっかり取り上げて頂いてゐる。實(じつ)に有り難いことだ。
 さて、本日の史料は……
 ……何はともあれこの時代の雜版百科全書に、またも尖閣を八重山とする記述が出現したのは喜ばしい。 保守系を以て自任する媒體なら、たかがこの程度でも第一面に掲載してくれて良い筈だ。
(全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。)
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
圖134_Ritter1847geographisch_statistisches_lexikon_p563Hoapinsu
 ▲圖134 『リッター地理情報百科全書』第五百六十三頁。
(Ritter's geographisch-statistisches lexikon)
ライプチヒにて、西暦千八百四十七年、
オットー・ヴィガント(Otto Wigand)氏刊。
「niedrig」:低い。「bewaldet」:樹木の茂る。
スタンフォード大學藏本、グーグル・ブックスより。


連載第五十七囘リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016080964828825.html


尖閣防衞について、保守派周邊の人々の嘘。

嘘1、「尖閣に自衞隊が常駐するには數千人規模の兵力が必要なので不可能である。奪はれてから取り返すのが正しい。」
【常識答案】與那國島に自衞官150人、對馬に自衞官350人しか常駐してゐないが防衞できてゐる。 「尖閣にはチャイナが攻めて來るが、與那國對馬には攻めて來ない」とするならば、それは與那國侵略を國際輿論が容赦しないといふ政治的要素にもとづく。從って尖閣史五百年の百對ゼロの正義を明らかにすれば國際輿論の九割が支持し、尖閣でも150人で足りる。
http://senkaku.blog.jp/2015122050675204.html

嘘2、「尖閣防衞に米國が參戰してくれない可能性があるので、常駐などの強い措置を取れない。」
【常識答案】米國が確かに參戰してくれる領土については自衞隊配備を削減し、米國參戰の不確かな尖閣にこそ配備を増強し、自力防衞すべきだ。

嘘3、「尖閣は制空權の爭ひであって、陸上常駐は役に立たない。」
【常識答案】同じ理屈ならば、與那國も制空權さへ堅めれば常駐する必要は無い。尖閣常駐は軍事を超越する巨大な政治的意義がある。レーダー設置も有用だ。

嘘4、「チャイナは日本が先制攻撃に出てチャイナが反撃する形を作り、自己正當化したい。」
【常識答案】先制攻撃して欲しければ、もっと大膽に領海領空を侵犯して、自衞隊に撃墜撃沈させれば良い。それをチャイナがやらないのは、日本に先制防衞されたら勝てないからである。
http://senkaku.blog.jp/2016071663528871.html

嘘5、「日本が先制防衞すると國際輿論が日本を非難するので、日本は先手を打てない。」
【常識答案】國際輿論は、國際法だけでなく道徳的正義、歴史的正義に反應する。尖閣史五百年の百對ゼロの正義を明らかにすれば國際輿論の九割が支持し、日本は先制防衞できる。自民黨がそれをしないのは、五百年の歴史戰に百對ゼロで勝てる自信が無いからだ。五百年の歴史の細部を學べば百對ゼロの正義に自信を持ち、國際輿論を味方につけて先制防衞できる。
http://senkaku.blog.jp/2016050559510733.html
http://senkaku.blog.jp/archives/47607289.html

嘘6、「憲法第九條を改正しないと防衞できない。」
【常識答案】憲法改正後も日本は國際法の自衞權を越えられないので現状と大差ない。それよりも現憲法下で自衞隊法を整備して最大限の先制防衞をできるやうにしないと、明日にも尖閣攻撃が有った時に間に合はない。集團安保よりも先に自衞隊法を整備すべきだった。
http://senkaku.blog.jp/archives/33307332.html

嘘7、「憲法第九條を改正すれば防衞できる。」
【常識答案】憲法改正後も自衞隊法を整備する必要があり、時間がかかる。そこに憲法改正の時間を加へれば、無駄な時間は倍になり、明日にも尖閣攻撃が有った時に間に合はない。
http://senkaku.blog.jp/2016072964323651.html

嘘8、「無人島でも國際法上の領土としては同じだ」
【常識答案】平成28年7月12日の南支那海判決で、經濟活動を維持できない太平島は岩礁とされた。有人無人は法的に完全同一ではなく、無人のままでは裁判で不利だ。

嘘9、「尖閣常駐に米國が贊成しないので動けない。」
【常識答案】これまで安倍首相は、靖國參拜及び日露外交維持について米國の反對を押し切った。米國の反對を押し切れる囘數に限りがあるならば、靖國よりも尖閣常駐を優先すべきだった。尖閣喪失は世界史的大事件となり、直接的に臺灣滅亡に繋がる。重要性は壓倒的第一位である。
http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/c/1/c1119810.jpg
http://senkaku.blog.jp/archives/19736014.html

嘘10、「尖閣侵犯に對しては、これまでも常にしっかり抗議してゐる。」
【常識答案】自民黨及び保守系論壇はチャイナの歴史の嘘に具體的に反駁せず逃げてゐる。六對四ほどで勝つつもりだから逃げたくなるのだ。實際には百對ゼロなのに理解してゐない。
1、西暦1461年の『大明一統志』以後、歴代史料でチャイナ正規領土は大陸海岸までと明記されてゐる。
2、西暦1534年の最古の史料『使琉球録』(陳侃著)に、琉球人が尖閣海路を導いたと明記してある。
3、最古の記録が琉球人の案内だから、漢文「釣魚嶼」(てうぎょしょ、今音ちょうぎょしょ)の命名者は琉球人と推測される。
4、海路案内人の主力は福建から琉球に歸化した「三十六姓」の子孫だが、彼らが明國籍から外れることは、『皇明實録』嘉靖二十六年に皇帝の語として明記されてゐる。
5、三十六姓の遠祖たる福建民族は漢民族ではない。チャイナ七大方言のうち六大まで東南部に集中するが、少數民族は東南以外にだけ分布する。これは東南部がもともと少數民族だったことを示す。
6、海路案内人は琉球人でありながら、琉球國内海域に到達後も福建人が操船する。これは操船と海路案内とが分業されてゐたことを示す。尖閣海域でも琉球人が案内し、福建人が操船したと推測される。
7、チャイナが西暦1403年の最古と稱する『順風相送』の後半は、西暦1573年以後の記述から成り、且つ琉球人の尖閣航路を載せてゐる。
8、西暦1556年の『日本一鑑』から以後は、「釣魚嶼」を臺灣北方三島の一つとする史料系列があり、尖閣ではない。
9、西暦1617年『皇明實録』以後、歴代史料でチャイナ海防は大陸沿岸40km以内の六島ラインまでと明記されてゐる。
10、尖閣航路上、琉球西端は久米島附近、チャイナ東端は馬祖列島附近だと諸史料に記載され、中間の尖閣は無主地であった。
11、西暦17世紀前半、朱印船貿易史料で尖閣は長崎から與那國島を經る呂宋貿易の航路上に在り、チャイナと無縁である。
12、西暦1683年、汪楫が尖閣の東で記録した「中外の界」は、チャイナと外國との境界線ではない。琉球の風水思想の統一解釋にもとづき、琉球が中、西側が外である。
13、臺灣の風水思想では、龍脈は福州から基隆を經て臺南に至ってをり、尖閣方向に伸びない。
14、西暦18世紀以後のチャイナ史料でも、海路案内者は臺灣海峽で早くも琉球人に交替し、東の尖閣海域へ進む。
15、西暦18世紀前半以後、『臺海使槎録』など臺灣の地誌諸本に載せる「釣魚臺」は、臺灣正北方もしくは東南方の島であって、尖閣ではない。
16、最古の上陸記録は西暦1819年『尚姓家譜』に見える琉球王族である。
17、西暦1845年、英軍艦に乘り組んだ八重山の水先案内人によれば、尖閣には地元の島名が有ると記録される。
18、歐洲製の地圖・地誌では、西暦1751年ゴービル神父「琉球録」以後、次第に尖閣を琉球と看做すやうになる。
19。西暦1804年シュティーラー「支那圖」以後は、尖閣を琉球内と看做す史料が多數出現し、一方で尖閣をチャイナとする歐洲製地誌・地圖は一つも存在しない。
20。西暦1885年に日本政府が尖閣領有をためらった原因は、同年九月の朝日新聞の報導によれば、宮古八重山の領土歸屬問題であり、尖閣問題ではない。
http://senkaku.blog.jp/2016032156961378.html



岸田王毅

先日、閲覽數五千を記録した投稿「絶好機到來 首相は決斷できるか」(リンク)では、
http://senkaku.blog.jp/2016080764756245.html
「下は今度の尖閣らしい。インターネットより」と注記して寫眞を載せた。
僞裝漁船尖閣
インターネットで「尖閣・漁船」などと檢索して拾った畫像である。これに對してフェイスブック友達から、捏造寫眞だとのご指摘を頂いたので、その旨を書き添へた。昨日になって、「Buzzfeed」といふ電子メディアでこの捏造寫眞について報じられた。リンク:
https://www.buzzfeed.com/keigoisashi/senkaku-twitter?utm_term=.sfdvMlDYD0
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160809-00010004-bfj-sci

合成漁船尖閣buzzfeed
しかしそもそも、何故捏造寫眞だけ出囘って、報導各社の撮影したものが存在しないのか。産經も讀賣も飛行機を飛ばして撮影すれば、デマ畫像も出囘りやうが無いではないか
 さうする内、やっと先程、海上保安廳が寫眞を公開し、TBSで報導された。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2841196.html
TBS尖閣民兵船
メディアが自分で撮影せず、政府からもらった情報である。情報元は
http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/1608-senkaku.pdf
このリンクである。マスメディアは何故自社の飛行機を出さないのか。尖閣上空は飛行禁止なのだらうか。禁止ならば取材飛行を申請すれば良いではないか。申請が却下されたらメディアとして抗議し、却下を報導すれば良いではないか。

 そもそもマスメディアは今度の民兵船蝟集について輿論調査を實施すべきだ。考へられる選擇肢は次の通り。

1、自衞隊が即刻平和裏に尖閣に上陸常駐すべきだ。
2、民兵船に對し領海で臨船檢査を實施し、武器等を押收すべきだ。
3、防衞出動を發令し、領海侵入の瞬間に海警船を撃沈すべきだ。
4、外交を通じて抗議し、自衞隊を動かしてはならない。
5、尖閣をチャイナと共同管理すべきだ。
6、尖閣をチャイナに讓與すべきだ。
7、尖閣はもともとチャイナ領土だから日本は放棄すべきだ。

何故現在まで行なはれてゐないのか。日本は政府もマスメディアも何かがをかしい。


 天皇陛下御退位の議論が始まるとともに、女系天皇推進論が再びマスコミに出てゐる。私は男系を守るべきだと考へる。皇室典範には單に「皇位は男子が繼承する」と書いてあるだけでなく、
「皇位は、皇統に屬する男系の男子が、これを繼承する」(昭和令)
「皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」(明治令)
と書いてある。「男系」とわざわざ書き入れた目的は何か。明治初期に盛んであった新儒教(宋明中華思想)にもとづくと勘違ひされてゐるかも知れないが、それは違ふ。新儒教の漢文に男系といふ語は存在せず、男系は明治の造語である。古典漢文では内戚と呼ぶ。外戚に相對する語である。外戚が存在しなければただの皇戚・皇親だったのであり、外戚が存在するがゆゑに内戚といふ語も産まれた。
 新儒教の特徴は、中華思想ゆゑに忠よりも孝を重んじる點に在るので、内戚を系統の意で呼び換へるならば父系・父統となる筈であり、男系といふ語は新儒教的ではない。古來の日本の傳統に近代的漢語をあてはめた造語である。
 何故かは知らないが、男系は近代以前から續いてきた。その不文律を成文化したのが明治の皇室典範の「男系」であらう。西村幸祐氏新著『日本人に「憲法」は要らない』
https://www.amazon.co.jp/dp/4584125295
が數日後に發賣されるので樂しみにしてゐるが、男系もまた何らかの古來の傳統である。「家長父長制」のやうな近世的制度ではない。Y染色體を無意識に保つためだったのか、生物としての人類の本源的形態に根差すのか、ほかに何のためか既に分からない。高校でならった本居氏流儀に言へば、合理的「からごころ」でなく、言葉にならぬ「やまとごころ」を象徴するのが男系の傳統といふことにならうか。
『日本人に「憲法」は要らない』

 日本は島國なるがゆゑに、變はらぬことの價値の重さがある。諸外國とは違ふ。世界の主要國のうち、島國はイギリスと日本だけだが、イギリスは征服王朝が入り亂れた。日本は二千數百年前の彌生融合以後ずっと單一的傾向が強い。彌生以前では繩文文化は實に一萬五千年もの年月を超えて、單一的なることが特徴であった。百世不易の單一性は日本の國柄である。ドーバー海峽わづか三十キロメートルと、對馬海峽二百キロメートルとの違ひが一つの原因だらう。
 私は守舊を唾棄する。復古・好古を信條とする。尖閣研究で古史だけを本務とするのはそのゆゑである。現代國際法で隣國に勝ってもちっとも面白くない。復古を以て勝つからこそ尖閣研究に意義を見出し得るのだ。
 尖閣五百年の歴史を重んぜよといふ私の主張を、皇統繼承にかしこくもあてはめれば、男系を廢してはならない。幸ひに秋篠宮に皇孫が健やかに育っておいでだ。十數年後、皇孫のもとに心身ともに健康な女子が嫁がれるやう、宮内廳はしっかりと準備して欲しい。さうすれば皇統は磐石だ。

 ついでに言へば、現行憲法は極めて簡略である。自衞權について何も書いてない。自衞は日本人の自覺的責任に委ねられてゐる。繩文以來の日本文化圏は何故か千島から與那國までで絶える形となってをり、現在の國土と不思議にも神合する。この國土こそ自衞の精神を體現してゐるではないか。現行憲法を死文として憲法よりもさらに狹く自衞權を制限するのでなく、古來の傳統的精神を基本としつつ、現代國際法の自衞權を餘すところなく發揮すべきだ。リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016072964323651.html
護憲派宣言! 改憲に反對します 改憲すると逆に尖閣を防衞できなくなる

皇孫



尖閣列島の植生  新納義馬

琉球大学文理学部紀要 理学篇(7): pp.71-88    1964-05
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/22488
第七十四頁に曰く、
「北小島は南小島と共に俗名鳥島といわれ,高さ129m,周囲3164m 主に第三紀の砂岩から出来ている.南小島に面した海岸の極く一部には隆起珊瑚礁が緩 やかな傾斜をなしている部分もあるが,島の周囲は殆んど断崖で暗茶褐色の岩肌が露出している.全島セグロアジサシやクロアジサシ等の海鳥が群棲し植物群落 の発達は見られない.」

南北小島新納氏提供
  南小島 新納義馬氏提供