- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 


http://doi.org/10.15009/00000851
 岡山県栄養短期大学研究紀要第1号 (1957)
「慈善救済史より観たる聖徳太子の事績と其の思想」
著者 守屋茂  

守屋茂慈善救済史より観たる聖徳太子の事績と其の思想

「慈善救濟史より觀たる聖徳太子の事績と其の思想」守屋茂

太子の儒、佛等新來の學問に對する根本的態度は實にその製疏に係る『法華義疏』の第一卷劈頭に記したる「此是大委國上宮王私集非海彼本」に於て闡明されている。即ち舶來の思想を以てしないで飽く迄太子自身の理解に基くといふ日本的自覺の下に述作を進めたといふ聲明であつて、太子の學問は終始一貫してこの態度で臨まれたといふことが考へられる。
 先づ日本的自覺の強い太子は神道に對して如何なる態度を持たれてゐたか、垂仁天皇以來積極的に神祇を祭る詔等絶えて無く、殊に父用明天皇は「信佛法、尊神道」(『日本紀』用明天皇の條)ばれたと述べてあるので行文の上から見ると神道に對しては聊か消極的で在つたにも拘はらず推古天皇十五年(六〇七年)二月「朕聞之、曩者我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祇、周祠山川、幽乾坤、是以陰陽開和、造化共調、今當朕世、祭祀神祇、豈可怠乎、故群臣宜相共竭心以拜神祇。」(『日本紀』推古天皇十五年の條)といふ詔を下されると共に程なく「皇太子及大臣率百寮以祭祀神祇、」(前掲書)した事が見えてゐる。思ふに佛教渡來以後既に半世紀を經過し、物部守屋征討の時の誓願に係る四天王寺は推古天皇元年に、法興寺は同四年に夫々落成し、今又この年に法隆寺も完成(『上宮聖徳法王帝説』)したので、我國有史以來の大寺の出現と共に佛教は飛躍的發展を遂げるに至つた。剩へ寺號を以て元號(法隆寺金堂の釋迦佛造像記、伊豫道後温湯碑等)とする等のことによつて最早佛教は上下を風靡し時代を左右する程の勢力を扶植するに至つたので、夙くより日本的自覺に起ちたる太子は佛教の興盛を圖ることによつて神祇祭祀の輕んぜられる樣な事があつては日本的自覺を喚起する上に於て最も重大なる片手落となるのでこの天皇の詔を請はれたわけであらうから、寔に時宜に適した措置と云はねばならない。


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 重要記事。その末尾に極めて極めて重要な言葉。東京海洋大学海洋工学部の岩淵聡文教授(57)曰く。 
https://news.yahoo.co.jp/feature/1155
 今や水中文化遺産は国家戦略にも使われています。例えば、中国は巨費を投じて研究者や研究機関を整え、周辺海域で熱心に調査を続けている。何か遺跡が見つかれば、その海域は中国由来のものだなどと主張する意図もあるでしょう  
  各国が海洋戦略において文化資源を重視するのは、なぜだと思いますか。その海域にどれだけ権利があるのかを歴史的・文化的に証明する唯一のものだから、です。日本人と海との関係を考古学的・歴史的に明らかにする……。どうして日本が旗を振って研究しないのか、そこが一番の問題なんですよ。
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 海中だけではない。陸でも歴史と文化こそ決定的な力を持つのです。尖閣が國民の支持を得るには歴史と文化が無ければ駄目です。。
岩淵聰文記事

 必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。

「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年にはグロチウスが尖閣西方海防線を主題として國際法を創始し、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1795年には「釣魚臺」が和訓「いを」で讀まれ、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。

 昨日から、高取町市尾で「朝鮮半島式」の遺跡出土、と各社大きく報じてゐる。考古學ニュースではいつものことだが、朝鮮半島とだけ書く。朝鮮半島のどこの系統なのかが問題なのだが、いつもまとめて「朝鮮」と來る。日本の同盟國百濟か、敵對する大國高句麗か、小國から裏切りでのし上がった新羅か。百濟ならば王子を日本が人質として、百濟王位に就けたくらゐだから、ほぼ屬國に近い。そして百濟は南朝(長江文明)との結びつきが強い。
 これはイギリスに例へれば、渡來して來たのはアングル人・サクソン人(ドイツ)か、ノルマン人(フランス)か、大陸ケルト人か、ローマ人か、色々ある。素人にはさっぱり分からない。現代政治的思惑で故意にまとめて朝鮮半島としてゐるのではないか。
 さて今度の「市尾カンデ遺跡」は初耳だ。インターネットを檢索すると、今度のニュース以外に一つも出ない。ただ要するに市尾地域だ。市尾地域ならば百濟との結びつきが強い。といふよりも集團的にどこかの結びつきの強い渡來人群といふのは、ほぼ任那か百濟系以外に無いのだから、當り前なのだが。勿論、百濟に來る前の遠祖が漢の帶方(百濟北部)から來た漢人だったなどの傳説は、參考程度。漢人といっても稻作の長江文明(くれはとりなど)か、黄河流域かで全然違ふ。長江文明でも傳説上は祖先が北の周王から來たことになってゐたりする。太伯虞仲だ。
 百濟系の漢氏(あやうじ)に對して、新羅系の秦氏(はたうじ)といふのも、聊か一説に供する程度に過ぎず、秦氏も百濟系だとも言はれる。且つ秦氏は山城國方面であるから、奈良盆地南部の漢氏は百濟系一色だらう。
 市尾は、奈良盆地南部、大きく大和朝廷の祖地の内でも特に南寄り。橿原神宮から南に6KM。飛鳥のキトラ古墳や高松塚の西南方向に4kmほど。大和政權の外縁である。附近に市尾墓山古墳と、市尾宮塚古墳。
市尾古墳

ことばんく。市尾墓山古墳と、市尾宮塚古墳とは、
ともに横穴式の前方後圓墳ださうだ。横穴式は、もともと百濟系なのださうだ。
なにはともあれ、ニュースの一つを以下に。

https://this.kiji.is/440069865712288865
国内最古の大壁建物跡か、奈良、渡来人の定住早まる可能性
2018/11/27 18:12 共同通信社
 奈良県高取町教育委員会は27日、同町の市尾カンデ遺跡で4世紀末から5世紀初めに渡来人が建てたとみられる朝鮮半島式の大壁建物跡が16棟分見つかったと発表した。国内最古とみられ、これまで5世紀後半以降とされていた渡来人の本格的な定住時期が大幅に早まる可能性がある。
 町教委によると、大壁建物は狭い間隔で柱を立てた後、土で壁の中に柱を塗り込めるのが特徴。全容が分かる最大のもので東西約15メートル、南北約13メートルだった。高取町の森ヲチヲサ遺跡で見つかった大壁建物跡と並び最大級という。同町ではこれまで約40棟見つかっていた




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造不出復原版 陸歷史課本刪除張衡地動儀
最新更新:2018/10/09 21:26  中央社

因造不出可探測地震的復原版,中國大陸去年已把張衡發明地震儀的內容從歷史課本刪除。圖為石塘天文館的張衡候風地動儀模型。(檔案照片/中新社提供)
張衡地動儀

(中央社台北9日電)西元132年,東漢科學家張衡發明可以檢測地震的「候風地動儀」,是中華民族引以為傲的成就之一。但因為造不出可探測地震的復原版,中國大陸去年已把張衡發明地震儀的內容從歷史課本刪除。

中國大陸對張衡發明地動儀一向非常重視。1951年,考古學家王振鐸根據後漢書記載的短短196個字,結合英國科學家的地震理論,複製出候風地動儀。

這個「復原模型」不但納入歷史課本,成為陸民耳熟能詳的民族成就之一;中國還於1953年特別為其發行郵票,並把「王版地動儀」視為對外文宣利器,曾送到多國展覽。

張衡發明地動儀也一直是台灣歷史教科書必載內容。目前三民版高中一年級歷史課本第一冊記載,張衡「造候風地動儀,能測知地震的方向和所在,是漢代傑出的大科學家,可惜他的製作都已失傳」。

華西都市報報導,2017年秋天投入使用的統編本初中歷史教科書7年級上冊中,張衡和候風地動儀的內容已被刪除。

報導指出,王振鐸雖然根據古籍記載復原出了地動儀的模型,但因為模型內部結構缺乏合理性,所以其龍口中的銅丸無法吐下來,也就是「無法檢測地震」。據說,唐山大地震發生後,這個模型也毫無動靜。

隨著中國對此地動儀模型的宣傳愈廣,外國地震學家的質疑之聲也不斷冒出,甚至因此懷疑張衡以及候風地動儀也是後人杜撰,根本不是真實的歷史。

報導稱,更讓人尷尬的是,1988年,這個地動儀訪問日本,中方解說員在向觀眾講解時,還手持一根木棍捅一下,龍口中的銅丸才會掉到下面蟾蜍的口中。

不僅是外國學者批判,在大陸的地震學界也有不少質疑。中國地震學奠基人傅承義當面指出王振鐸模型的原理錯誤並說:「房樑下吊塊肉都比你那個模型強」。

報導指出,因為王振鐸所造的地動儀模型一直非議不斷,2003年,中國科學院教授馮銳重啟張衡地動儀探索證明之路,他召集的研究小組改採「懸垂擺原理」打造。2009年9月20日,中國科技館新館開幕,新的地動儀模型與觀眾見面。

據報導,觀眾可以親自動手按下按鈕,觀察在不同波型下地動儀的不同反應。只有橫波到來它才吐丸,其他來自縱波的震動,都無法使地動儀有任何反應。這意味著,類似關門、汽車過境、巨大的炮聲等都不會干擾到地動儀。

馮銳雖然復原出更有科學邏輯、更符合史料記載的地動儀模型,但是用他的話來說,這也僅算「我們在當前這個時代對張衡的理解」。也就是說,證明張衡地動儀的探索復原工作還有待努力。(編輯:楊昇儒/翟思嘉)1071009

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1800年前の国宝級の地震探知機が実はレプリカだった、ネット上が騒然―中国
Record china
配信日時:2010年12月2日(木) 10時55分
https://www.recordchina.co.jp/b47480-s0-c30-d0000.html

2010年12月1日、中国の後漢時代の学者、張衡(ちょう・こう、78年〜139年)が作ったとされる国宝級の地震探知機が、実は中国建国後の1950年代に作られたレプリカであったとコラムニストが指摘し、ネット上が騒然となっている。

「後漢書・張衡伝」によると、張衡の地震探知機「地動儀」は132年に誕生。中国人が誇る偉大な発明品として教科書にも記載されている。ところが、その現存する本物として中国博物館に展示されているものが、実は新中国が建国された後の1950年代に史料をもとに複製されたものだとコラムニストの陶短房(タオ・ドゥアンファン)氏が指摘した。しかも、地震を予知するものではなく、地震発生を知らせる機能しかないという。

陶氏がミニブログでこれを指摘すると、多くのネットユーザーから「ずっと誇りに思っていたが今は単なる笑い話だ」「ずっと抱いていた誇りは音を立てて崩れ落ちた」などの声が上がった。このほか、中国4大発明として知られる羅針盤にも同様の疑いがかけられ、ユーザーたちを失望させている。(翻訳・編集/NN)

1日、中国の後漢時代の学者、張衡が作ったとされる国宝級の地震探知機が、実は中国建国後の1950年代に作られたレプリカであったとコラムニストが指摘し、ネット上が騒然となっている。写真は09年10月、清華大学美術学院の教授らが復元した張衡の「地動儀」。

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https://www.sixthtone.com/news/1003050/pictures-of-iconic-seismograph-removed-from-chinese-textbooks
Pictures of Iconic Seismograph Removed From Chinese Textbooks
Experts say there’s scant scientific evidence to support long-accepted model of ancient invention.
Fan Liya
Oct 12, 2018 4-min read

For decades, China’s middle school students were introduced to the world’s first seismograph through an image in their history textbooks: a large, bronze urn with eight dragons perched the same distance apart along the outside, each with a copper ball hanging precariously in its mouth. Whenever there was a tectonic tremor from a particular direction, the corresponding dragon would drop its copper ball into the gaping mouth of a frog perched below it — or so students were taught.

But for a new history textbook being used in public school classrooms across the country this fall, the image of China’s iconic earthquake detector and its accompanying text were removed, according to a Tuesday report by Huaxi City Daily that was later reposted by state-run China News Service.

On Wednesday, the textbook’s publisher, People’s Education Press, explained that the content had not been deleted, but rather moved to a different section. Sixth Tone confirmed from screenshots that the text about the seismograph had indeed been moved to a later section of the book — but the image was missing.

The seismograph is widely believed to have been invented by Zhang Heng, a scholar and polymath who was born in the first century A.D. during the Eastern Han Dynasty. The device is included in a biography of Zhang written a few centuries after the scholar’s death: In fewer than 200 characters, the author describes the seismograph’s appearance and claims it successfully detected an earthquake in northwestern China.

For decades, the popular conception of Zhang’s seismograph came from a 1951 model by the historian Wang Zhenduo (王振鐸), based on the description in the ancient biography. This image was added to China’s textbooks, but in most cases without a caption explaining that it was merely a scholar’s artistic interpretation. It became so commonly accepted that even U.S. President Richard Nixon was shown a seismograph model based on Wang’s during his historic visit to China in 1972.
A seismograph model is displayed at a museum in Beijing, June 10, 2015. Beijing Times/IC

A seismograph model is displayed at a museum in Beijing, June 10, 2015. Beijing Times/IC

However, the 1951 model’s fame and ubiquity have worried seismologists, who aren’t convinced that the design holds scientific weight. Most notably, it failed to detect tremors that could have predicted a devastating earthquake in 1976 that killed hundreds of thousands of civilians and rescue workers.

According to Huaxi City Daily, Feng Rui, a researcher at the China Earthquake Networks Center (CENC) under the central China Earthquake Administration, had been trying to persuade People’s Education Press to remove the image from its textbook. Feng could not be reached on Friday, but his colleague at CENC, Sun Shihong, told Sixth Tone that Feng had led a national project to build a functioning model of the seismograph described by the ancient scholar, Zhang. “He hopes the restored seismograph will be able to detect earthquakes, but that goal hasn’t been achieved yet,” Sun explained.

Jiang Xiaoyuan (江曉原), a history of science professor at Shanghai Jiao Tong (交通) University, believes people should be cautious before lauding ancient inventions with scant scientific credibility. “There was no information about the inner structure of the seismograph in the ancient texts, which only claimed it could detect earthquakes,” Jiang said in an interview with online news platform Pear Video.

As another example, Jiang cited a magnetic compass believed to be invented in China during the Warring States period from 475 to 221 B.C. As in the case of Zhang’s seismograph, a physical model was never recovered; however, the historian Wang created a well-known model shaped like a spoon laid over a lodestone. Jiang also questions the authenticity of this model — which was featured during the opening ceremony of the Beijing Olympics as one of China’s “four great inventions.”

“I’d suggest not mentioning these two items in history textbooks,” Jiang said, referring to the spoon compass and the urn seismograph.

Not all netizens seem to share Jiang’s passion for scientific accuracy though. “I disagree. The items are just symbols of Chinese culture — it doesn’t matter whether they’re scientific or not,” commented one user under the video interview. Even Sun, the CENC researcher, believes Zhang’s invention should remain in school textbooks. “As long as the story serves an educational purpose, there’s no need for such abrupt action,” he said.

The new history textbook presents Zhang as the inventor of the world’s first seismograph, and notes that any original models were destroyed. Rather than include an image of Wang’s artistic interpretation, the text now encourages students to search online and offline for other models that have been designed based on the information in their books.

“Such an assignment aims to enhance students’ knowledge of Zhang Heng and the seismograph, and of the wisdom of ancient Chinese people,” People’s Education Press said in its statement on Wednesday. “In this way, national pride will be elevated.”

Editor: David Paulk.

(Header image: Children touch a model of a seismograph at a museum in Yantai, Shandong province, May 11, 2016. Sun Wentan/IC)



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 這條消息已發布一年半,今天纔知道。了不得。不得了。たまげた。
這本辭典成書於1626-1642年間,書中包含「鷄籠」「淡水」等地名,可以想像它更包含其他地名。我們不得不關心Tabaco Xima(目前蘭嶼)及日本各地地名記載如何。有無Reyes Magos乃至Torixima在裏面。也可能包含一些當時日本人、日本歷史的訊息。何時刊行?企予望之。

Vocabulario_de_la_Lengua_Chio_Chiu

    穿越時空的「錄音筆」: 西班牙殖民時期新史料發表
    發稿時間:中華民國106年04月14日  
由中央研究院臺灣史研究所、國立清華大學、西班牙巴塞隆納大學Pompeu Fabra及塞維亞大學(Sevilla)組成的研究團隊,在菲律賓聖多瑪斯大學檔案館中尋獲一份距今約四百年,厚達千頁近兩萬字詞的《漳州話詞彙(Vocabulario de la Lengua Chio Chiu)》,今(14)日中央研究院臺灣史研究所於研討會中公佈此研究成果,堪稱本世紀明代閩南話史料發掘最重要的發現。透過手稿中的拼音符號,「聽到」十七世紀在馬尼拉及北臺灣閩南人的語言。

研究團隊前往西班牙與菲律賓等地檔案館,搜集、整理十六、十七世紀中有關台灣與中國的西班牙史料,並建構數位史料資料庫。近兩年來也陸續前往馬德里、塞維亞、巴塞隆納等城市找尋古閩南話的詞典或古籍。幾經努力下,終於在馬尼拉尋獲《漳州話詞彙》手稿,,一窺當時閩南人的常民生活。

透過這部十七世紀初期編纂的《漳州話詞彙》,我們能得知當時漳州移民的日常詞彙,以及詞彙背後的生活點滴、地理知識,增進我們對臺灣早期閩南移民的認識。例如臺灣常見的毒蛇青竹絲,在手稿中寫為「竹系蛇」,西班牙人編譯為「Vibora」(意為毒蛇);螢火蟲寫為「火金星」(Hue Quion Che);今日使用的「洗門風」(Sey Muy Hong)一詞,400年前的閩南人就已經在使用;清代臺灣糖廍的製糖術語「漏尾糖(Lau Bue Tung)」,亦早在明末時期便被西班牙人編進詞彙中;閩南人用的髒話,也能在字典中看見。

1571年西班牙人帶著美洲白銀來到菲律賓,吸引了數以萬計的閩南人前往馬尼拉謀生,而後透過閩南人的貿易網絡與資訊,西班牙人獲知稱為「北港」(Pag Cang)的臺灣,以及島上「雞籠」(Quey Lang)、「淡水」(Tam Chuy)的相關資訊,並在1597年畫下世界上第一張艾爾摩沙島(Hermosa,即臺灣)的完整地圖,圖上便註記著雞籠與淡水港。

西班牙人為了前往福建傳教,便透過在馬尼拉的閩南人協助編譯相關的閩南話書籍,最重大的成果就是《漳州話詞彙》。該語彙中「雞籠、淡水」詞條,西班牙文寫道:「艾爾摩沙島上,西班牙人所在的土地」(Tierra de Isla Hermosa ado estan los españoles),得以證明手稿製作於西班牙人殖民北臺灣期間(1626年至1642年間)。比起1711年開始編輯的康熙字典早了近百年,同時也是目前尋獲十六、十七世紀閩南話詞彙文獻中,詞數最多且內容最豐富的,甚至有三分之一的詞彙同時註記當時官話的拼音。

先前曾公開發表有關漳州話語言史料,最著名的是已故大漢學家龍彼得(Piet van der Loon)尋獲的《漳州話語法》(Arte de la Lengua Chio Chiu),總共約六十頁,介紹近兩千個字詞。此次找到的《漳州話詞彙》,蒐羅的字詞數是前者的近乎十倍,也因此更能完整地建構一套早期臺灣閩南移民語音的資料庫。

本研究由蔣經國國際學術交流基金會獎助,《漳州話詞彙》的解讀工作由清大語言所連金發教授、中研院臺史所陳宗仁副研究員、清大歷史系副教授李毓中及西班牙學者José Luis Ortigosa等人共同合作。《漳州話詞彙》將為臺灣學術界帶來新的研究動能,在歷史學上,可從西班牙人的角度瞭解閩南人在臺灣及東南亞活動的足跡與面貌;就語言學而言,則有助於重現四百年前閩南話的語音,瞭解現今臺灣與東南亞閩南話的流變。同時,也為新南向政策,增加了學術與文化交流的另一新契機。

新聞聯絡人:
張惟翔,中央研究院院本部媒體事務小組 cenvah@gmail.com
(Tel) 02-2789-8820



17世紀的人怎麼說閩南語? 中研院有重大發現
新頭殼newtalk | 呂晏慈 綜合報導     發布 2017.04.13 | 20:17

西班牙人1628年統治台灣北部期間,曾興建「聖多明哥城」,但後來該城遭摧毀,後1644年荷蘭人於聖多明哥城原址附近興建「安東尼堡」,即為今日的紅毛城。   圖:交通部觀光局網站

17世紀的人怎麼說閩南語呢?中央研究院台灣史研究所明(14)將舉辦「西班牙所藏臺灣與東亞史料數位化現況與展望國際研討會:新史料發表會」,發表一份在菲律賓聖多瑪斯大學發現的《漳州話詞彙》(Vocabulario de la Lengua Chio Chiu),此為本世紀研究明代閩南語最重大的史料發現,透過手稿,將有機會還原17世紀在馬尼拉、北台灣閩南人的語言。

中研院台史所表示,《漳州話詞彙》撰寫1626年至1642年間,當時西班牙人殖民北臺灣,手稿中甚至出現台灣地名「北港(Pag Cang)」、「雞籠(Quey Lang)」、「淡水(Tam Chuy)」等詞彙,現今常見螢火蟲的稱呼「火金星(Hue Quion Che)」也包含其中,該史料比編於清康熙55年的漢語辭典《康熙字典》還早了近百年。

「閩南語」一詞,是1950年代中期才出現的字彙,清代、日治時期尚未使用,而是以漳州話、泉州話、廈門話,加上少許永春話稱之。中央研究院臺灣史研究所、國立清華大學、西班牙巴塞隆納大學及塞維亞大學組成的研究團隊,研究這份在菲律賓聖多瑪斯大學檔案館裡尋獲的《漳州話詞彙》,其成書約400年,可藉此瞭解閩南人在臺灣及東南亞活動足跡,並用來分析現今臺灣與東南亞閩南話的流變。

《漳州話詞彙》內頁。   圖:中央研究院台灣史研究所提供
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Vocabulario_de_la_Lengua_Chio_Chiu淡水2


「スペインによる植民統治時代の言葉に関する新たな歴史資料を発表」
発信日: 2017/04/18
中央研究院台湾史研究所と国立清華大学などの研究グループが、約400年前に書かれた、漳州語の発音・漢字・スペイン語対照の「漳州語辞典」をフィリピンの大学で発見した。中央のあたりに「洗門風」が見える。(中央研究院提供、中央社)
台湾の最高学術研究機関、中央研究院台湾史研究所と国立清華大学(台湾北部・新竹市)、スペイン・バルセロナのポンペウ・ファブラ(Pompeu Fabra)大学、及びセビリア(Sevilla)大学による研究グループはこのほど、フィリピンの聖トマス大学の資料館で、今から約400年前の「漳州話詞彙(Vocabulario de la Lengua Chio Chiu=漳州語辞典)」を発見した。同資料は1,000ページに及び、2万語近くの単語が収録されているという。漳州とは中国大陸・福建省南東部の都市。中央研究院台湾史研究所は14日に開いたシンポジウムでこの研究成果を発表、明の時代の閩南語(福建省南部で話される言葉。福建省から台湾に渡ってきた人たちの言葉もその流れをくむ)に関する歴史資料として、今世紀最大の発見だとしている。原稿にある発音記号を使うことで、17世紀にマニラ及び台湾北部で暮らしていた閩南人(福建省南部の人たち)の言語を実際に「聴く」ことが可能になる。
 
研究グループはスペインやフィリピンなどの資料館で、16世紀と17世紀における台湾と中国に関するスペインの歴史資料を収集整理し、デジタル化したデータバンクを構築。過去2年間は、マドリード、セビリア、バルセロナなどの都市も訪れて閩南語の辞書や古書の発見に努めた。
 
今回発見された「漳州話詞彙」により、当時、漳州から渡った移民たちが日常使っていた言葉の他、その背景である暮らしぶりや地理的な知識を窺い知ることができ、かつて閩南地方から台湾に渡ってきた移民たちに対する認識も深められる。台湾でよく見られる毒ヘビのタイワンアオハブは、「漳州話詞彙」では「竹系蛇」とされ、スペイン人はこれを「Vibora(毒ヘビの意味)」と訳している。ホタルは「火金星(Hue Quion Che」。また、現在でも使われる「洗門風(Sey Muy Hong)」は、400年前の閩南人がすでに使用していたこともわかる。
 
閩南人には、過ちを犯した人に自らの過ちを書いたカードを持たせ、市場のそばで道行く人に謝罪させる習慣があり、これを「洗門風」と呼ぶが、「漳州話詞彙」にも「Sey Muy Hong」と明確に記載されている。当時のスペイン人はその文化的なイメージを理解することはできなかったかもしれないが、「漳州話詞彙」ではスペイン語ではっきりと、当事者の名誉を回復するためのものと解説されているという。中央研究院台湾史研究所の謝国興所長は、「漳州話詞彙」に収録された「洗門風」は閩南人本来の風習に近く、今若者たちが使う「洗門風」とは異なるのではと主張する。現在、台湾の人たちが使う「洗門風」は、公の場で恥をかかせることに近くなっており、謝所長は、「洗面(「けなす、嘲弄する」の意味)」という言葉と混同された可能性を指摘、「漳州話詞彙」によって本来の意味が明らかになることで、言葉の発展の脈絡と変化を理解できることは大変興味深いと話している。「漳州話詞彙」にはまた、清の時代の台湾における製糖場で使われた専門用語、「漏尾糖(Lau Bue Tung)」も明の末期にスペイン人によって加えられていた。さらには閩南人が人を罵るときに使ったスラングも「漳州話詞彙」に見られるという。
 
スペイン人は1571年、米国の銀を携えてフィリピンに上陸。豊かな暮らしを求める数万人とも言われる閩南人をマニラに引きつけた。スペイン人はまた、中国大陸の福建省での布教活動のため、マニラで暮らす閩南人の協力を得て関連の閩南語書籍を編纂、その最も大きな成果こそ「漳州話詞彙」だという。「漳州話詞彙」にある「鶏籠、淡水」にはスペイン語で、「Tierra de Isla Hermosa ado estan los españoles(台湾島でスペイン人がいるところ)」と書かれており、この原稿がスペイン人の台湾植民統治時代(1626年から1642年)までに書かれたことが証明できる。1711年に編纂が開始された「康熙字典」よりも100年近く早いものである他、現在までに見つかった16世紀、17世紀の閩南語の単語に関する文献の中でもその単語数が最も多く、内容が最も豊富なものだという。さらに、「漳州話詞彙」に書かれた単語のうち三分の一には当時の公用語(官話)の発音記号も記されていた。
 
漳州話に関する言語史料で最も有名なのは、漢学者のPiet van der Loonが発見した「漳州話語法(Arte de la Lengua Chio Chiu)」。約60ページにわたって2,000語近い単語を紹介している。しかし、今回発見された「漳州話詞彙」はその10倍近い単語を紹介しており、台湾における早期の閩南移民の言葉のデータバンクをより完全なものにできる。また、これまでの史料はスペイン語と閩南語の発音記号しか記されておらず、当時の記録者が発音を正確につかんでいなかったとしたら、数百年後の研究者が何の意味なのか知ることは大変困難だった。「漳州話詞彙」には漢字があり、一部には公用語の対照も付いているので、当時の例をいっそう正確に理解できるという。
 
蒋経国国際学術交流基金会のサポートを受ける同研究において、「漳州話詞彙」の解読では国立清華大学語言学研究所の連金発教授、中央研究院台湾史研究所の陳宗仁副研究員、国立清華大学歴史学科の李毓中副教授(准教授)、スペインの学者、José Luis Ortigosa氏らが共同作業を行った。「漳州話詞彙」は台湾の学術界に新たな研究のエネルギーをもたらすと共に、東南アジアや南アジアなどとの関係強化を目指す「新南向政策」に向けても学術と文化面での交流に新たな契機を与えたことになる。


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jc-net

JC-NET (九州情報)  

長崎純心大学 石井望准教授が反論/「尖閣、明代は無主地」 中国歴史書をもとに

長崎純心大学准教授の石井望氏は30日、中国が領有権を主張する沖縄県・尖閣諸島 の歴史について佐賀市で講演。石井氏は清の初期の領土は、中国大陸に近い現在の台湾・馬祖島までだったと指摘。尖閣諸島は明代から領土だったとする中国の 主張に対し「持ち主のいない無主地だったことは明確」と漢文史料を基づき反論した。

石井氏は、清の琉球使節が往路を詠んだ詩集にある「東沙山 (馬祖島)を過ぐればこれ閩山(びんざん)(福建省の陸地)の尽くるところなり」という一首から、清の領土が馬祖島までだったと説明。明代に皇帝に提出さ れた上奏文にも、尖閣諸島の大正島が「琉球の境」と記されていると紹介した。

そのうえで「これまで日本側は『明の地理書には尖閣諸島は載っていない』と主張するだけだったが、これからは『地理書が示す明の領土はここまでだった』と訴えられる」と講演した。
以上、参照:佐賀新聞

(琉球王国は、明時代にも盛んに中国と交易しており、尖閣諸島は、石垣島にも近く波風の避難島として必ず寄港しているはずである。琉球の歴史書により、その存在と所有は明らかにできるはずである。しかし、残念ながら沖縄本土決戦で、米軍より何もかも焼き尽くされてしまっている。あとは琉球を支配していた島津家の蔵にそうした記録があるかもしれない)

石垣市の魚釣島・久場島・大正島などからなる尖閣諸島は、日本固有の領土である。中国共産党一党独裁政権は、人民を洗脳し、国内不況や官僚不正、土地収奪、貧富差拡大による人民の不満のハケ口を尖閣反日に誘導・日本の施設を破壊させ、爆発させた。
しかし、独裁政権は抜いた刀を鞘に納めることもできずにいる。

中国独裁政権は、今回の暴動で、人民の不満のガス抜きは一定計れただろうが、根本問題は何一つ解決されないどころか、これ以上、日本からの輸出や輸入に支障をきたせるならば、欧州経済の沈没の影響に輪をかけて、更に国内経済は落ち込むことになる。 

そうなれば、反日のエネルギーは、内政に向けられ人民の不満も爆発寸前の状況に至り、独裁政権はどっかと戦争でもしない限り成す術もなくなってくる。(戦争の発端は以外に短絡的なところから始まる)

先般中国で失脚した薄の人気は、そうした人民不満を糾合した政策を重慶地区で執行し、一大勢力を築き上げてきたことによるが、国家権力を牛耳る胡錦濤らの目障りになり、排斥された事件であった。

中国共産党一党独裁政権は、これまでの白黒猫により生じた様々な問題に対処するため、歴史的転換期に来ていることを再認識すべきであり、そうなれば反日どころではないはず。

さておき、長崎市長・県知事は教授の講義を受けてはいかがだろうか。
[ 2012年10月 4日 ]
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いしゐコメント。以上の佐賀新聞は、『大明一統志』の大陸海岸國境線について。下の沖繩タイムズは、1722年『臺海使槎録』の釣魚臺を、1970年臺灣公式地理書『臺灣省通志』が尖閣でなく臺灣東南部の島と認定してゐた件。

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沖繩タイムズ。
◆尖閣領有否定の台湾資料発見
2017年11月18日 00:00
 尖閣諸島を巡り、長崎純心大(長崎市)の石井望准教授が17日、国会内で記者会見し、台湾政府が領有権を主張する根拠が否定される新資料を発見したと発表した。台湾政府発行の地理書の中に、尖閣諸島を示す台湾名「釣魚台」を別の島と位置付ける記載が見つかったとした。
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百田尚樹『日本國紀』をまだ購入できてゐないのだが、インターネットでは批評合戰が始まってゐるので、或るブログにコメントしておいた。
私のコメントは以下の通り。

 ざっと見て全體的に、こちらの雜記帳氏の方が百田氏よりも推測的成分がかな~り多いですね。百田さんをけなしたい懸命ぶりばかり目立ちます。任那に「何らかの影響力」って、そんな弱い影響力だとする史家は一人もゐないでせう。ただ日本府の「府」に疑義があるといふだけです。
 それから、日本書紀の神功紀に卑彌呼の遣使が載ってるのは「魏志に曰く」と明記してあるのが大切なので、つまり日本では聞いたことの無い話として日本書紀に引用されてます。あなたの書き方は隨分と歪曲的だ。
 なほ、邪馬臺國は漢字古音で完全に「やまとこく」ですが、 
 史書は全て自國に都合良く書き、近代以前は僞使も横行してたので、「親魏倭王」の號を日本が受容した根據としては魏志は役立ちません。逆に日本書紀が「魏志に曰く」としたことにより、最初から日本側は魏志を疑ってゐたことが分かります。愛國者にとって邪馬臺がやまとであることを避ける必要は全くありません。

百田尚樹『日本国紀』

以上のコメントを書いてから數日、今日は週末で少し足を動かすために近所の書店に行ったのだが、賣ってゐなかった。店に訊ねると、賣り切れたとのこと。

11/25追加。
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「推測的成分」がどうかうといふのはですね。
雜記帳氏は百田書に不確かな記述が多いと批判したい。
なのに百田さんよりもさらに不確かな情報を織り交ぜたら駄目。
古代中世で推測が多くなるのは當然で、
百田さんが推測を入れても、動機がどうとか邪推されることではありませんよ。

任那に何らかの影響力の強弱が確定的ではないといふのは誤り。
弱くないことは確定してゐます、と先日すでに書きました。
言葉尻で言ひ逃れするのでなく、本質の話をしないと無意味。

日本書紀撰者は魏志の卑彌呼が神功皇后なのかなと
推測したわけです。古代で大きな影響力のあった人物として
有力候補になるのは當然です。
候補になってもならなくても、推測までしかできないといふのが
日本書紀の判斷です。謎の人物と思ってるわけです。
だから百田さんのやうに實在を疑問視する人も出て來るでせう。
日本書紀撰者こそ、實在疑問説の創始者なんですよ。
と、既に書きました。

魏晉の字音でないと無意味といふのも誤り。
日本書紀に夜摩苔が存在するので日本漢字音で確定。
リンクの通り、等韻一等開口で議論終了。
言ふまでもないけど智耐理(ちどり)、愛宕(おたぎ)、
句句廼馳(くくのち)、摩倍邏摩(まほらま)。
稀なのが瑳伽梅苔(さかもと、坂下)。
耐・廼・愛・倍・苔・臺、全部一等開口。
梅は合口だが唇鼻音で對應する開口字が無いので開口扱ひ可。
魏晉の字音がどうとか言ってる人はみんな素人です。
勿論、等韻一等は「お」になり易く、廣東音や客家音で「oi」。
地名の古さ。相模、愛宕(おたぎ)、鳳至(ふげし)、双六。
そもそも世上の上古擬音とか中古擬音とかいふのは
地域的時代的に廣い範圍を折衷的に歸納してゐるので、
かなり無理をしてゐます。
そんな歸納の結果から演繹するのはいつも危險です。
等韻や方音や梵漢對音などを直接利用するのが安全です。
殘念ながら梵漢對音では上記の同類音は見えません。

僞使の發想が江戸國學以後愛國的と決まってるなら
近年盛んな樣々な僞使論も永遠に愛國的なんですか。
無意味です。繰り返します。
「史書は全て自國に都合良く書き、近代以前は僞使も横行してた」。
逆に僞使こそ歴史的主流と近年言はれてるのはご存知の筈。
結局、繰り返し。「百田さんをけなしたい懸命ぶりばかり目立ちます。」

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12/1追加。
 「漢字古音の後代の認識・発音で論じてもあまり意味がない」って何ですかね。漢字古音學の半分ほどの比重を占めてゐる根據は現代方音ですよ。都合の惡い時だけ後の史料を無視するのはトンデモな人達の特徴ですね。しかも古代でもやや後に夜摩苔といふぴったり合致する音が存在して、邪馬臺と全く無縁に合致する。この壓倒的なものを否定できる大物學者、雜記帳氏ですか。
 僞使が中世だけで古代にあてはまらないって何ですかね。古代に僞使が無くて中世に急に盛んになるんですか。それは隨分と獨自なお説ですね。大秦王安敦の使者が僞使だらうなんて昔から言はれてることです。

12/7追加。
 邪馬臺の古音はほぼ確定してます。確定度90%のものと50%のものとを故意に混同したらいけません。僞使について雜記帳氏の言ひ逃れは瑣末なのでどうでもいいですね。
 百田日本國紀、買ひました。ほぼ教科書ですよこれは。そりゃ雜記帳氏の方が推測的成分が多くなるのも當然でせう。




凾館灣附近の繩文土器。凄いなあ。

歴史系総合誌「歴博」第103号
連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
北海道に暮らした縄文人の遺産-落合計策縄文時代遺物コレクション-
凾館茂邊地繩文土器1
凾館茂邊地繩文土器3
凾館茂邊地繩文土器2

 領土は神聖不可侵の核心的利益だと、チャイナは輕々しく言ふが、その内實が日本とは全く異なる。繩文文明は沖繩本島と擇捉島まで。北千島と宮古八重山は繩文から發展した琉球文化とアイヌ文化。それがほぼそのまま現代日本の領土なのである。
このやうに悠久の歴史ある領土こそ神聖不可侵と呼ぶに値ひする。チャイナは黄河文明と長江文明とで全く異なる民族文化であり、そもそも黄河文明の領域は極めて小さく、後に侵掠により擴大した。現在でも黄河流域の言語「官話」なるものは長江以北にしか分布しない。
http://senkaku.blog.jp/archives/19112464.html
チャイナにとって領土なるものはそもそも神聖不可侵ではなく、「侵奪不神聖」であらう。まして領土外の尖閣及び南沙は言ふまでもない。神聖不可侵の核心的利益なる語を輕々しく虚構にあてはめる國は、そもそも信頼に値ひしない。


 ギルバート氏が移民自身の立場で考へるのは分かる。しかし我々は日本人の側から考へねばならない。我々の關心は今度の法案の細部でなく、結果的にどうなるかである。細部で移民に差別などの無きやう萬全を期するのは政府の責任として當然であるから、しっかりやるべきだ。そこはギルバート氏の正論である。
 しかし我々にとって最大の問題は結果的に日本社會がどうなるかである。ギルバート氏の論點は政府がしっかりやるべきことで、日本人にとって最大の關心事ではない。日本人にとって最大の問題は以下の通り。
 まづ、移民の人數が現状でも既に多すぎる。二十年前の水準に戻すべきだ。ギルバート氏及び親族はその少人數の枠内に當然とどまる。全く心配要らない。日本から見て有益と考へられる移民だけを日本が受け容れる。受け容れ決定權は日本國民・日本政府に在る。
 旅行査證(ビザ)で國ごとに基準を分ける考へ方を、そのまま移民(一年以上)にも宛てはめるべきだ。
最も緩やかな基準として上記リンクのビザ免除國があり、一昔前まではチャイナ人が日本の査證を取得するのは極めて困難であった。毎年人數制限もあった。
 同じく移民についても國ごとに異なる基準を設けるべきである。まづ、日本の領土につき自國の領土だと主張する國からは基本的に移民不可能な嚴しさにすべきだ。何故なら領土はチャイナ政府の言ふ通り神聖不可侵の核心的利益である(※注)。當然日本も他國の領土を侵してはならない。前提として尖閣は他國の領土ではないことを完璧に證明する道義的責任が日本にある。私はその責任を道義的に果たすために努力してゐる。數百年の歴史の大嘘をついてまで他國の領土を詐取しようとする行爲は、斷然容赦してはならない。  
 單なる僻地の領土と思ふなかれ。領土といふ基準に照らせば、チャイナ、韓國、ロシアからの移民が極めて少數に限定される。結果として日本にとって極めて良い。この三國ともに強力な情報組織を持ち、他國の内政に密かに干渉する噂が絶えない。チャイナ・ファシズムが世界に輸出されようとしてゐる今、水際で止めねば日本は危ふい。この基準ではギルバート氏は味方となり、敵にならないので心配ご無用である。
 なほこの基準では臺灣からも移民できなくなる。臺灣からの移民基準を緩やかにしておくためには、人數制限を臺灣との交渉で緩めたり嚴しくしたりすれば良い。
 日本は一流國であるから、日本自身が世界基準を作って行くべきである。歐洲の移民基準が緩やかだからとて日本が眞似る必要は全く無い。世界に例の無い日本だけの制度を大いに作るべきである。それが合理的であれば世界が眞似るだらう。
 以上については、今次國會で審議されてゐる法案と全く關はり無い。現法案は移民基準を緩める法案であるから、そもそも廢案にすべきである。ギルバート氏の主張するやうな法改正は別途進めるべきである。ギルバート氏自身がフェイスブック下方コメント欄で「問題を分けて議論しないといけません。
問題は現在の法案と関係なく取り組まなければならない」等、發言してゐる。その通り、今度の法案とは關係ないのである。今度の法案は廢案にすべきである。
 下はギルバート氏フェイスブック發言のリンク。
 全文引用したい處だが、フェイスブックは會員制であり、無制限公開とも言へないので、リンク先でご覽頂きたい。
ギルバートフェイスブック

※注:追記。
 神聖不可侵の核心的利益なる語をチャイナは輕々しく使ふが、その内實が全く異なる。繩文文明は沖繩本島と擇捉島まで。北千島と宮古八重山は繩文から發展した琉球文化とアイヌ文化。それがほぼそのまま現代日本の領土なのである。
このやうに悠久の歴史ある領土こそ神聖不可侵と呼ぶに値ひする。チャイナでは黄河文明と長江文明とで全く異なる民族文化であり、そもそも黄河文明の領域は極めて小さく、後に侵掠により擴大した。現在でも黄河流域の言語「官話」なるものは長江以北にしか分布しない。
http://senkaku.blog.jp/archives/19112464.html
チャイナにとって領土なるものはそもそも神聖不可侵ではなく、「侵奪不神聖」であらう。まして領土外の尖閣及び南沙は言ふまでもない。神聖不可侵の核心的利益なる語を輕々しく虚構にあてはめる國は、そもそも信頼に値ひしない。

參照:
ドイツの移民問題。若者にお金が流れない。
この例を舉げるまでもなく、移民問題の苦惱は報導などでいやといふほど分かってゐる筈だ。

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