- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。





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ついでに、赤瓦。


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オデッセイとされる百合若。こりゃ面白い。昔の人はこんなに夢中になったんだ。






百合若

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百合若大臣(全文版) 越前 
2018年11月17日
1 百合若の誕生
 そもそも昔、我が朝に嵯峨の帝の御時、左大臣公満(きんみつ)と申して比類なき立派な家臣が一人おわします(居た)。
 しかしながら公満には御代を継ぐべき御子がなく、そこで大和の国初瀬の寺(長谷寺)に詣でして、悲願尽きせぬ観音の利生を仰ぎ(無限の慈悲心を持つ観音の御利益を得るため参詣して)三十三度の歩みを運び、子宝が授かることを祈願した。
 観音への願掛けが早くも叶ったのか、程なくして御子を授かり、しかもそれは男子であった。
 夏の半ばの若なれば、(疫病を鎮める呪力を持つ)花にもよそえて育てよとて、百合若殿と名付け申し、大切に養育された。
 七歳にて御袴をつける儀式を行い、十三にて冠を付け元服し、四位の少将と申され、十七歳にては、程なく右大臣になり、御童名にそって百合若大臣と名付け、三条壬生の大納言あきとき卿の姫君を御台所に迎えて幸せに暮らしていた。

2 蒙古の侵寇と百合若の出陣
 そも我が朝と申すは、国常立(くにのとこたちの)神よりも初めて、さて伊弉諾と伊弉冉は、彼の国に天降り二柱の神と成りて、第一に日(天照大神)を産み給う、伊勢の神明にて御座ある、その次に月を産む、高野(和歌山県丹生都比売神社)の丹生の明神月読みの御子これなり。
 その次に海を産む、摂津の国に御立ちある蛭の宮(西宮の大明神)夷三郎殿にておはします。
 その次に神を産む、出雲の国素戔嗚は大社にておわします、その外末社の部類等は皆この神の総社たり。
 神の本地を仏とは、よくも知らざる言葉かな、根本的な神こそ仏と現れて衆生を教化救済するのである。
 それはともあらばあれ、そも我が朝と申すは欲界(食欲色欲等を強く持つ世界)よりもまさしく、魔王の国となるべきを、神自ら開き仏法護持の国と成す。
 大魔王、(欲界の最上位の)他化自在天に腰を掛け、種々の方便めぐらして、いかにもして我が朝を魔王の国となさんと巧むによりて、すわわち天下に不思議多かりき。
 この度の不思議には、む国(蒙古の国)の蒙古(むくり)人が軍を起こし、四万艘の船どもに多くの蒙古人を乗せ、東夷の稜糟と魁師、飛ぶ雲と走る雲の四人が大将となり、筑紫の博多に船を寄せ攻めてきたと聞こえてきた。
 国に有りあう弓取りが防ぎ戦いけれども、彼らが放つ毒矢は降る春雨の如くにて、四方鉄火砲放ち駆け天地を動かし攻入れば、叶うべきようあらずして皆中国指して引き退く。
 そも我が朝と申すは、国は粟散辺土(栗粒のように小さい辺境の地)にて、小さしと申せ共、神代よりも伝われる三の宝これあり。
 一つには、神璽(八尺瓊勾玉)とて第六天の魔王の押し手(印判)の判これあり。
 二つには、内視所(鏡の保管場所)とて天照神の御鏡なり。
 三つには、剣宝剣とて、出雲の国簸上の山の大蛇の尾よりも取りし霊剣なり。
 これみな天下の重宝にて、代々の御代に、異国より九つの異民族国興って欺けども、神国たるによりつつ亡国となす事も無し。
 今も天照大神の五十鈴川の末尽きず(流れが続いていて)伊勢へ奉幣奉り、内侍所の御託宣で、討手を遣わすべしとて全国の神祇に祈願の幣を奉り、臨時の御神楽参らせ給いけり。
その中にとっても内侍所の御託宣は、かたじけのうぞ聞こえける、七つにならせ給いし乙女の袖に託して鈴振り立て神託ある。
 蒙古が向かう日よりして天下(日本中)の神たち高天原に集会して戦評定とりどりなリ(戦略を練った)。
 しかし、蒙古軍大将稜糟(りょうそう)が諸国の国衛庁舎に放つた毒矢が、軍神である住吉の神が乗られたる神馬の足に当たり、その傷を癒している間、神の戦は延期された。
 この間に蒙古が攻めてきたが彼らの振る舞いは風前のともしび、急ぎ人間の戦いを早めよ、その大将には左大臣の嫡男百合若大臣が向かうべきなり、かの人討手に向かうならば、その時には諸神が合力して金剛力士のような力を与えよう、もしさも有りて下向せば、鉄の弓矢を持って急いで出陣しろとの神託があった。
 御父左大臣は、御子の百合若大臣を召して下向せよとの御諚なり。
 神託と申し、天子の仰せごと、父の命令なりければ、吉日を選び都出と風聞す。
 さて神託に任せて鉄の弓矢を持つべしとて鍛冶の上手を召し寄せ、一所を清め鍛冶屋と定め精魂込めて作り立てた。
 弓の長さは八尺五寸、周りは六寸二分、矢束は三尺六寸、矢数は三百六十三、根には八目の鏑を入れ、弓も矢も鉄にて引いては返すべからずと人魚の油を差し給う。
 国に有り合う弓取り皆当千の兵にて一騎も残る所はなし。
 すでに選ぶ吉日は弘仁七年庚申(813)二月八日に都を立つ。
 大臣殿の御勢は三十万騎に記さるる、その外以下の軍兵は百万余騎とぞ聞こえける。

3 蒙古軍の退却
 都を立ちて其の日は石清水八幡宮の御前に陣を取り、明くれば摂津の国難波潟昆陽野(現伊丹市)に陣を取り給う。
 さる程に王城(帝都)の鎮守を始め奉り、衣冠を脱ぎ替え鎧を召し清らかで美しい色の上には夜叉羅神の形を表し雲に乗り霞に乗り、一つは国家を守らんため又氏子を守護せん為我氏子わが氏子、形に影の添う如く先に立ってぞ守らるる。
 さて神々の加護によって神風が吹き、筑紫に陣取る蒙古軍は、この由を承って、今度はまずまず引けやとて四万艘に取り乗りて蒙古国に退却した。
 さてこそ天下も穏やかに国も目出度くおわしけれ。
 大臣殿は、この由奏聞申されたりければ、内よりの宣旨には大臣のこの度の恩賞は筑紫の国司を取らするぞ急いでまかり下れとの宣旨なり。
 大臣殿は九国に住まんもの憂さに辞退申されけれども、国の守りの為なれば住まなければならないと重ねての勅使に力及ばず御台所と共に急ぎ筑紫に下り、豊後の国府に、さながら都に劣らず住まい給う。

4 再度蒙古追討に出陣
 また都では公卿の会議で意見は様々であった、蒙古の大将は四人と聞こえるを、せめて一人討ち取ってこそ戦に勝ちたるしるしはあるべけれ。
 九夷は超能力持ちなれば、何とか思いて引きつらん、心の内も悟り難し。
 まず高麗国へうち越え七百六十六国を責め従え、その大勢を卒し百済国を責め靡け、その後、む(蒙古)国を攻めん事何の問題も無いと詮議して、筑紫へ勢をぞ越されける。
 大臣殿も吉日を選び御出でとこそ聞こえけれ、新造の大船百余艘、従う小舟数知らず、その外浦々の漁船、高瀬船総じて船数は八万艘、蒙古は四万艘にて向かいけるに、一倍増してぞ向かわれける。
 さて大臣殿の御座船をば錦をもって飾り立て、艫舳に斎う神々六十四州の霊神たち斎垣、鳥居、榊葉雲に光を交えつつ、のろし、太鼓を奏すれば身の毛もよだつばかりなり。
 卯月半ばに大臣は早御座船に召されけり。
 御台名残を惜しみて同じ船にと宣へども、とんでもないと宣いて押しこそ止め給いけれ。
 さて船どもの艫舳には五色の幣をはぎたてて、神風涼しく吹きければ魔閻魔界も恐るべし、昔のたとえを引く時は、神功皇后の新羅を攻めさせ給いし時、神集めして向かわれしもかくやと思い知られたり。
 む(蒙古)国に陣取る蒙古ども、天の色をきっと見て二相神通の者なれば、討手の向くと悟りをなし、知こう寄せては叶うまじ、潮境へ打って出で防いでみんと詮議して四万艘の船どもに多くの蒙古取り乗り、唐と日本の潮境とくらが沖に陣を取る。
 大臣殿の御座船をも、ちくらが沖へ押し出す、彼も恐れて近づかず、互いに恐れて寄りもせで、五十余町を隔てつつ三年の春をぞ送られける。
 蒙古の大将稜糟一陣に進み出で天を響かす大音にて、我らが戦の手立てには霧を降らせる習い有り、霧降らせよと下知すれば、承ると申して、きりん(新羅)国の大将、船の舳板に突っ立ち上がって、青き息をつく、如何なる術をか構えけん霧と成りてぞ振りにける、始めは薄く振りけるが、次第次第に厚くなって月とも日とも見え分かず、虚空長夜の如くにて、一日二日にて晴れもせで百日百夜ぞ降りにける。
 さしもに猛き弓取りも、霧の迷いに悪びれて弓の上下も分らなく引くべきようこそなかりけれ、この霧ばかりに冒されて蒼葉の水屑とならん事優かりなんとぞ嘆きける。
 大臣殿は無念至極に思し召し、今ならでは、何時の時、神の力を仰ぐべきと思し召されける間、潮を結び手水とし南無天照皇太神宮その外六十余州の大小の神祇、この霧晴らしてたび給えと祈誓を申させ給いければ、あらありがたや祈誓の験はや見えて伊勢の国荻吹く嵐に霧も程なく、住吉の松吹く風も涼しくて迷いの闇も白山の雪より早く消えければ、いつしか鹿島楫取も喜びの帆をぞ上げにける。

5 苦戦の末の勝利
 大臣殿は大変喜び、さらば戦を早めんとて端船降ろさせ給い、わざと大勢は無益、思う子細のあるぞとて十八人を引き具して蒙古の船にぞかかられける。
 稜糟と魁師これを見て身の程をわきまえなくやつと、勇みつつ鉾を飛ばせ剣を投げ四方鉄(火)砲放ちかけ天地を動かし攻めけれども、大臣ちっとも御騒ぎなく蒙古の船にぞかかられける。
 船の舳先に着かせたる鉄の楯の面には般若心経、観音経、金泥にて書かれたる尊勝陀羅尼の中よりも社耶社耶毘社耶という文字が三毒(三種の煩悩)不思議の矢先となって蒙古の眼を射潰したり。
 不動の真言に唅鏝二つの文字が、剣と成って飛びかかり多くの蒙古の首を切る。
 観音経の名文に於怖畏急難という文字が、金の楯と成って蒙古の矢先を防げば、味方一騎も手も負わず。
 さてこそ諸人力を得、鎮護の合戦手を砕く、大臣殿は御覧じて、この時こそ使うべきと鉄の弓の弦音すれば雲の上まで響きあり、三百六十三筋の矢を残り少なく遊ばせば稜糟は討たれん、魁師腹切りん、飛ぶ雲と走る雲の彼ら二人は生け捕られん、その外の蒙古ども、あるいは討たれ腹を切って海へ入って死するものもあり。
 四万艘に取り乗りたる蒙古多く打たれてわずか一万艘になる。
 これ以上の殺生は罪作りと神仏に誓約させ助け本国へ戻させ給いて、日本は戦に勝ちぬとて八万艘の船内の喜び合う事限りなし。

6 別府の裏切り
 大臣殿はこのまま御帰朝有るならば目出度かるべき事どもを、この間の長陣に精力を使い果たし、後見役の別府を召して仰せけるは、いずくにか島や有る上がりて身を休めんとの御諚なり。
 別府兄弟承って端船降ろし尋ねるに、波間に一つの小島あり、玄海が島是なり、味方の船をば忍びやかに上げ参らせ、虎の皮を敷き岩の角を枕にさせ申し睡眠ならせ給う。
 大力の癖やらん寝入ったら起きない夜日三日ぞまどろみ給う。
 さる間、別府兄弟は退屈のあまり物語を始めた。
 弟の別府の臣が申しけるは、あらめでたやこの君、先度は筑紫九ヶ国を賜わらせ給い上見の鷲のように襲われる心配も無く、あまつさえこの度多くの蒙古を攻め滅ぼし給えば日本国を他の妨げなく賜わらせ給はん事の目出度さよ、人間としての幸運みなこの君のようにと申す。
 兄の別府がこれを聞き、さればこそとよ、その事よ、君は左様に富給はば我ら兄弟は元のままにて朽ち果てん事こそ口惜しけれ、いざこの君を討ち申し、主なくして御跡を知行せんと申す。
 弟がこれを聞き、あら勿体なの御巧や候、この君の御恩を天山にこうぶり人と成りし我等ぞかし、古の御恩を忘れ申す、我等が手にかけ申すならば、天命いかで逃るべき御思案有るべく候。
 兄の別府これ由聞くよりも、さては汝は君と一体よな遂にこの事漏れ聞こえなば我一人が咎たるべし。
 お前以外に敵はいないぞ、和殿と合うて死なんとて刀の柄に手を掛け飛んでかからんとする。
 弟がこれを見て、げにと左様に思し召し給わば、例えば手に懸け殺し申さずとも生きながらこの島に捨て置き申して帰るならば、所は僅かの小島にて十日ばかりも御命の何に長らえ給うべき。
 兄の別府がこれを聞き、こは面白くも申されたるものかな、さらば作用に仕らんとて、いたわしや君をば玄海が島に捨て置き申し元の船に上がり、味方の軍兵どもを近付けて申しけるは、いたわしや君は蒙古の大将稜糟の放つ矢を大鎧の合わせ目に受け止めさせ給いて候を軽い傷との期待の甲斐も無く、ついに空しく(御亡くなり)ならせ給いて候、御死骸をも陸に挙げ御台所の御目にかけたくは存じ候へども、諸神を斎いたる御座船にて有る間、いたわしながら海底に沈め申して候。
 何時までもこうしているべきではなく船出せよと下知すれば、味方の軍兵どもはひとえに夢の心地して我等劣らじと押しい出す。
 一艘二艘の船ならず総じて船数は八万艘、一度に帆を上げ梶を取れば天地も響くばかりなり。

7 孤島に残された百合若の悲劇
 この声どもに大臣は夢うち覚ませ給いて、誰かあると召さるれどお返事申す者はなし。
 一体どうしたことかと思し召し、かっぱと起きさせ給いて、辺りを御覧有ければ人一人も無かりけり、召したる船を見給えば帆を上げてこそ押しい出せ。
 さては別府が心変わりを仕るか、例えば別府こそ心変わりをするとも、などや以下の軍兵ら、我をば連れて行かぬぞや、あの船こちへと宣へども、皆船どもの音高く聞き付け申す者も無し、せめて思いの余りにや海上に飛び浸って息の続く限り泳がせ給えども、船は浮木の物なれば風に任せて早かりけり。
 力及ばず大臣は憂かりし島に又戻り、そなたばかりを見送りてあきれて立たせ給いけり。
 早離と速離の兄弟が、古、継母によって海岸波頭に捨てられ、父に発見された時白骨化していたという(観世音菩薩浄土本縁教の説話)、これに似たりと申せども、せめて其れは二人にて語り慰む方もあり、所は僅かの小島にて草木も更に無かりけり、蒼天広く遠うして月の出づべき山も無し、朝の日は海より出また夕日も海に入る。
露の身は頼みなや夜更けて聞くも波の音、岩間の宿を頼めてや、うち伏す方も濡れ勝る。
 稀にも言問うものとては波に流るる群鷗、渚の千鳥鳴く時は猶又友も恋しくて、いとど明け行く夜も長く暮れ行く日陰も遅かりけれ、露の命を草の葉に宿すべき様なけれども、なのり(ほんだわら)ぞ摘みて命を継ぎ、憂き日数をぞ送らるる、いたわししども、なかなかに申しばかりも無かりけり

8 御台所の悲劇と別府の栄
 さる間、別府兄弟は筑紫の博多へ船を寄せ喜びの帰朝と風聞す。
 豊後の国府に御座有る御台所は珍しき曲共を用意させ給い、御出遅しと待ちさせ給う所に、さはなくして別府兄弟うち連れて先ず御所様さして参る。
 御台所は御覧じて、あれはいつものように殿御到着を前もって申しに来たのであろうと、人して聞し召すべき事を遅く思し召し。
自身御簾間近く御出有りて、珍しの兄弟や何とて君は遅く見えさせ給うぞ。
 兄弟しばしご返事申さず、重ねて如何にと尋ねさせ給へば、その時兄弟涙を流す真似をして、申さんとすれば涙落つる、申さずは知ろし召さるまじ、いたわしや君は蒙古の大将稜糟と申す者と押し並べ組ませ給い二人ながら海底に沈ませ給いて、その後又も見えさせ給わねば、殿が亡くなった悲しみばかりが深くて戦に勝ちたるかいもございません。
さりながら御形見の物をば給て候と御着背長と鉄の弓御剣を添えて参らせ上ぐる。
 御台この由御覧じてこれは不思議の事どもかな、敵を組ませ給はんに何時の隙に御形見を止めて海に入り給うべきぞや、つじつまの合わない事を申すものかな。
 哀れこの者兄弟を取って押さえて拷問し召し問はばやとは思えども、はかなき女性の御事なれば、心の中の疑いとして、簾中深くはいり給い形見の物を召し集め抱きつかせ給いて激しく涙を流し悲しみ給いければ、御前中居の女房達一度にわっと泣きければよその袂に至るまで絞るばかりに哀れなリ。
 その後別府兄弟打ち連れて急ぎ都に上り喜びの帰朝と風聞す。
 天下の繁昌世の聞こえ何事かこれに勝るべきと身分上下の人々も皆騒然とどよめかれた。
然りとは申せども大臣殿御帰朝なき間天下は闇の如し、御父左大臣、御母御台所年たけ齢傾き盛りの御子に後れる事は、枯れ木に枝の無き風情つれなき命に替えばやと嘆き給えど叶わず。
 内よりの宣旨には、大臣が帰朝するならば日本国をと思いつれども討たれぬる上、力なし、誰に勧賞を行うべき、別府兄弟には筑紫の国司を取らするぞ、急ぎまかり下り後家に仕え故大臣の供養を懇ろに行えとの宣旨なり。
 別府承って、期待外れの勅命かな日本国をと思いてこそ君をば振り捨て申したれ珍しからぬ筑紫へとて叉こそ下りけるとかや。

9 別府に言い寄られた御台所の決意
 別府、道々案じけるは、さもあれ我が君の御台所は天下一の美人にてましませば、風に伝達してもらい承知なさるならそれでいい、背き給うものならば簀巻きで水中に投げ入れようと玉章(手紙)懇ろにこしらえ。
 これは都よりの御状なりとて捧げければ側近の女房取次ぎ御台所に参らせ上ぐる、御台所は都よりの御状と聞し召し、表書きさえ御覧にならず急ぎ開いて見給えば、思いの外に引替えて別府の方よりの手紙なり。
 余りの事の悲しさに二つ三つに引き裂き、かしこへがばと捨てさせ給い、生きているからいけないのだと御守刀を召し寄せ自害せんとし給えば、乳母の女房参り御守刀を奪い取り申す。
 御道理にて御座候、三条壬生の御所(実家大納言あきとき卿)よりも、必ず御迎えの参り候べし、命を全うし給えと、とかくなだめて奉り、返事をせぬ物ならば無作法な別府にてどんな企みをするかわからないと、乳母の女房が側よりも返事をする。
 三年(目からの再婚が認められている)の後の新枕、我に限らぬ事なれども、相撲草(おおばこ)も取り取りに引けばや靡く習いなり。
 結婚することはやすけれど、君のむ国へ討手に御向きの時、宇佐八幡宮に参り千部の経を書き読まんと大願を立て、七百余部は書き読みん今二百余部は書き読まず、この宿願成就の(写経の)後はどのようにでも従いましょうと書き留めて、これは御台所のお返事なりとて返す。
 使いは急ぎ立ち帰り別府殿に見せ奉る、別府開いて見奉り、あらめでたや、さては靡かせ給うべきや、宿願成就の間は如何程か有るべきと百年を暮す心地して明かし暮らし待ち居たり。
 その後御台所、数の女房たちを召し集めさせ給い、命あればこそかかる事をも聞くなれば、今も淵瀬に身を投げ姿形を見えなくしたいが、何かの縁でそよぐ心も善し悪しと君の面影の夢現に立ち添う時は又死したる人とは見え給わず、恋は祈りによって叶うものと聞く、会うまで命惜しきなり、大臣殿このまま御帰朝無きならば我も身を投げ空しくなるべし。
 投身自殺した時に御形見を山野の塵となさんより、僧に君の形見を奉じ供養していただこうとて、御手馴れの琵琶、琴、和琴、笙、ひちりき、草子の数を集め僧に奉ぜられる。
 四十二疋の名馬ども皆寺々へ引かれけり、三十二疋の鷹狩犬の絆を切って放されける、この程ありし鷹匠達をも思い思いに散らされけり、十二丁の鷹どもの足緒を解いてぞ放されける。

10 百合若の愛鷹緑丸の文使い
 十二丁のその中に緑丸と申して大鷹の有りけるが、君の名残を慕いてや立ち去る方もなかりけり。
 御台所は御覧じて、あれは君の秘蔵の緑丸なるが疲れに臨みてあればこそ羽を垂れひし伏しては居たるらめ、あれあれ女房達餌を与えて放し給えと仰せければ、承るとは申されけども、何れも皆女房たちの事なれば餌の与え方を知らずして飯を丸めて供える。
 この鷹嬉しげにこの飯をくわえ雲井遥かに飛び上がり羽打ち延べて飛びけるが大臣殿の御座有る玄海が島に飛び尽きん、飯をばとある岩の上に置き、我が身も傍なる岩に羽を休めてぞ居たりける。
 あらいたわしや、大臣殿は只水に映した影のように岩陰の住居を立ち出で、汀の方を見給えばこのほど見慣れぬ鷹一連羽を休めてぞ居たりける。
 大臣怪しく思し召し急ぎ立ち寄り見給えば、古の手馴れし緑丸なり、余りの事の嬉しさに急ぎ立ち寄り給いて、さて大臣がこの島に有とは何とて知て来たりけるぞ、げに鳥類は必ず五通(天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通の超能力)有とは、これかとよ。
 さてもこれなる飯は御台所の御業かやこの飯を賜わんより、など言伝文は無きぞ、豊後に未だましますか、都へ帰り上りか、何時までも不変でないのが世の常か如何に如何にと宣えば心苦しき風情にて涙ばかりぞ浮かべける。
 大臣殿は御覧じて、今これ程の身と成りてこの飯服してあればとて、いくほど命の長らえん、鳥類なれども、あの鷹の見る所こそ恥ずかしけれ、食べないでおこうと思し召すが、さもあれ緑丸が万里の波を分け越したる志の切なきに、いでいでさらば服せんとて御手を掛けさせ給いければ、嬉しげにてこの鷹が羽を叩き爪を掻き、御膝の回りに平伏して物言わぬばかりの風情なリ。
 大臣殿は御覧じて、あら何の手段も無い緑丸、汝が見る如く木葉だにもなき島なれば思っていることを書くことが出来ない如何せんと仰せければ、この鷹嬉しげにて又雲井遥かに飛び上がる。
 大臣殿は御覧じてあら名残惜しやの緑丸と仰せければ、しばらくして緑丸いずくより楢の柏葉くわえて大臣殿に奉る。
 前漢の武帝に仕え命を受けて恟奴に赴き十九年間抑留され昭帝の時に帰還した「蘇武が故国の玉章」を雁の翼に言伝しても今こそ思い知られたれ、我も思いは劣らじと御指を食い切り木葉に物をぞ書きたる。
 ただの落ち葉なりければ、ただ歌一首書きつけて押し畳み丸めて鈴付に結いつけて、はや帰れよと有りしかば、嬉しげにてこの鷹が三日三夜と申すには豊後の御所に参りけり。

11 無残な緑丸の死
 まだ早朝の事なるに御台所は縁行道(経を誦えながら仏堂の周囲をめぐる)して御座ありしが緑丸を御覧じて、汝は虚空を翔ける者なれば至らぬ所世も有らじ、物言う者にて有るならば大臣殿の御行方をなどかは申さで有べきぞ、あら羨ましの緑丸やと仰せければ、この鷹嬉しげにて御前差してまいり鈴付を振り上げ居直りたり。
 御台不思議に思し召し詳しく見給えば木葉に血の付いたるあり、急ぎ取り上げ見給えば昔の人の伝言を歌としてかくばかり
  飛ぶ鳥の跡ばかりをば頼め君うはの空なる風の便りを
  (この鳥の運んできた筆跡だけを信用して下さい、何処から来たのかわからないような手紙ですが)
 かように詠ませ給いつつ、さてはこの世に大臣は未だ長らえ給うぞや、これこそ命の有るしるしなれ、紙無き方にてあればこそ木葉に物をば書かれたり、硯と墨筆なければこそ血にてものを書きいたれ。
 いざや硯を参らせ思いの程を詳細に書いてもらいましょうとて紫石硯、油煙の墨、紙五重に筆巻き添え御台を始め参り数々の女房達我劣らじと文を書く、取り集めたる巻物は無益な行為と思えたり。
 鈴付に結い付け、必ず今回は速く行くのだぞ緑丸と仰せければ、この鷹嬉しげにて又雲井遥かに飛び上がり羽打ち延べて飛びけるが、紫硯の習いにて潮の満干に従って時々重くなるほどに次第に引かれて下がりけり、今はと思い飛びけるが多くの文と紙どもに露含みて重くなりどんどん下へ引っ張られそのまま海に浸りて空しくなるぞ無残なる。
 島にまします大臣殿、鷹だにも今は通わねば何に慰み給うべきぞや、この鷹の又も参らぬは、もしも別府方へ漏れ聞こえ殺されてもあるやらんと、時々通う息だにも限りの色と見えさせ給う。 
 猶も命の捨てがたくて海松布、青海苔取らんとて、岩の宿を立ち出で汀の方を見給えば、波打ちかかる岩間に鳥の羽少し見ゆる。
 大臣怪しく思い急ぎ取り上げ見給えばこの程通いし御鷹なり、余りの事の悲しさに鷹を膝の上にかき乗せ、あら無残の有様やと詳しく見れば沈むのも当然、紫硯、油煙の墨、数々の文、これや女性の考えの浅はかな事、紙墨筆だに有るならばいかほども物を書くべきに硯を付けるのは何事ぞや、さてもこの鷹が鬼界島、高麗、契丹国へも行かずして又この島に揺られ来て再び物を思わする。
 必ず生を受ける者、魂と魄の二つの魂あり、魂は冥途に赴けば、魄は憂き世に有ると聞く、我も命のつづまりて今を限りの事なれば冥途の道の導をして連れて行けや緑丸、我をば誰に預けてさて何と成れと思うぞとて、この鷹に抱きつつ、彼の大臣の御嘆き御台所に見せたいと思われる。

12 御台所、宇佐八幡に願書奉納
 これは大臣殿島にて嘆き、豊後の国府に御座有る御台所の御嘆きは中々申すばかりもなし、せめて思いの余りにや宇佐の宮に参り給い、七日籠り願書を書いて籠めさせ給う。
 心から帰依している先祖の神々、もしも大臣殿目出度く喜びの帰朝をなさり再び御目に掛るならば、宇佐の造営申すべし、玉の宝殿磨き立て、黄金の扉を開き瑠璃の欄干張り巡らし、硨磲作りの擬宝珠磨き立て、庭との境に置く砂に黄金を混ぜ、壁には七宝をちりばめて、池には玉の橋をかけ、瑞垣は鸞鏡のように光り輝いて回廊と拝殿、四つの楼門の横木を玉のように磨き、屋根を軽やかに高く上げ神殿ひさしを広々とし瓔珞を結び下げ、華鬘の幡を分け紙銭幣帛獅子狛犬黄金をもって磨くべし。 
 大塔と鐘楼を如何にも高く雲の上に光を放って造るべし、四季の例祭、別の臨時祭礼花の奉仕を行い、九品の鳥居を高く立て極楽浄土を学ぶべし。
 極楽外に更に無し、諸神の所居浄土とする、神を信仰すると結果仏道に帰依することとなる方便是なり。
 神の国創世時、海底に現れた大日如来の梵字も今も絶えず新たなリ、神に御礼参りをすれば菩提の種を包むなり、そもそも神と申すは思いのままに姿を変える、正直の頭に神宿る、塵の中に交わり我等に縁を結べり、本願限りあるならば我をば漏らし給うなよ、敬って申すと書き止めてくるくるとひん巻いて神前に置き、七日七夜眠らず汚れない心で祈られる。

13 百合若、釣り人の船で生還
 誠に神の誓いにや、壱岐の浦の釣り人、釣りに沖へ出でたるが、南の風に放されて北の沖へ流れ行き大臣殿の御座有る玄海が島に吹き着くる。
 船人どもは島影に上がり大臣殿を見つけ申す、異様の生き物がいるとて、彼方此方に逃げ去って怖じて近づかず、大臣殿は御覧じて、あら口惜しや我が姿人間とは見えざりけるやとて御涙にむせび給えば。
ちっと心が剛に成り、汝は如何様なる生き者ぞと問えば、大臣嬉しく有のままに語らい、ひょっとして別府側の者であるかもしれないと思し召し、偽り仰せける。
 是は一年百合若大臣殿、む(蒙古)国へ討手に御向きの時、水夫に徴用されし者なりしが、不思議に船に乗り遅れこの島に捨てられて候、大臣殿御帰朝の後ははや三年になるかと覚えたり。
 しかるべくは御芳志に我を日本の地に着けてたべと仰せければ、船人どもこれを聞き、あら不便の次第やな、公務に従事する者にはつらい事が多い者や、他人事とは思われないので助けて戻ろうと思うが風の心を知らぬなり、我等前世の報いが良ければ順風が吹き次第船を出そう、しかしこの世の運が尽きてしまえば更に遠くへ流されるであろう、ただ果報を願え。
 大臣げにもと思し召し、潮をむすび手水を召され、あらうらめしや何とて日本の仏神は我をば捨て果て給うらん、観音経の名文に入於大海、仮使黒風、吹其船舫、飄堕羅刹、例え船舫、飄堕羅刹の国に赴くとも我一人が祈念によって本地の岸へ着けてたべと祈請申させ給えば、誠に神仏も不憫に思し召さるるか、八大竜神波風止めにわかに順風吹き来る。
 帆柱の滑車に八大竜神ことごとく面を並べ座られたり、船の舳先には不動明王の降魔の利剣を引っ提げて、金剛堅固の索の縄、悪魔を寄せじと守護せらるる、唅鏝二つの御眦、艫には広目天、増長天、伊舎那天、大光天と羅刹天、風天、水天、火天等雨風波を静めんため天上界の八大竜神や下界の竜神たちは邪心の毒を押さえ夜日三日と申すには、筑紫の博多に吹き着くる、有難しども中々に申すばかりは無かりけり。

14 百合若を預かる門脇翁の秘話
 船人申しけるは、これ程届けたる誠意に我に暫く宮使いして恩を送れと言いければ、大臣げにもと思し召し、馴れない業をし給いて恩を送らせ給いける。
 国内知れ渡る事なれば別府の臣が伝え聞く、壱岐の浦の釣人が変な者を拾い養い置くと伝え聞く、急ぎ連れて参れと御使い立つ、その頃靡かぬ草木もなし、やがて具してぞ参りける。
 別府立ち出でつくづく見て、あら興がる生き者かな鬼かと見れば鬼にてもなし、人かと見れば人にても無し、ただ餓鬼とやらんはこれかとよ、我にしばし預けよ、都に具して上り物笑いの種となさんとて押し止め門脇の翁に預けやがて扶持をぞ加えける。
 彼の門脇の翁と申すは年頃大臣殿に召し仕えし者なれども、御顔にも御足にもさながら苔の生し給い、御背も小さく色も黒く有りしに変わる御姿をいかでか見知り申すべき。
 されども情け深き夫婦にて、あら無残と痩せ衰えたる餓鬼やとて重ねて扶持をぞ加えける。
 ある夜の寝ざめに祖父が祖母に語りけるは、さても先祖伝来仕えてきた君、百合若大臣殿、む(蒙古)国へ討手に御向き有りて再びご帰朝無き間、その思いのみ深くしてむやみに年を取る事よ、さても御台所は国富の庁舎にましますよな。
 祖母これ由聞くよりも、さればこそとよ、その事よ、別府殿の御台に心を懸けさせ給い御手紙ありしかども更に靡かせ給わねば、無念至極に思し召し、此の二三日先程に満農が池に簀巻きで水中に投げ入れたと聞く、是につけても憂き命つれなく久に長らへ、かかる事をも聞くやとて泣きにける。
 大臣殿は物越しに聞し召し、あらどうしょうもない事や、今まで命の惜しかりつるも御台に会えると思う故、今は命も惜しからず、明けなば急ぎ尋ね行き満農が池に身を投げて来世までも夫婦として添い遂げたいと心に深く思いつめていた。
 その後、祖父の声として、縁起でもない、泣くなとこそ申しけれ、祖母この由聞くよりも、哀れげに世の中に心強気は男子なり祖父のようにつれないこそ主の別れも悲しまず、我等日頃の御情け只今のように思われて、いかに言えども泣こうぞと泣き居たり。
 祖父この由聞くよりも、さほど君を大事に思い申さば物語して聞かすべし、黙って聞け、恐ろしや彼の別府殿の後見の忠太は、翁の甥である、御台所の柴漬けさせ給わん事、祖父かねて承り如何せんと思い、いとし子の一人娘は御台所と同年代、御命に代わられるかと尋ねるに姫は斜めに喜んで御主の命に代わらんこそ幸いにて候へ、祖父余りの嬉しさに姫をば御台所と号して満農が池に沈め、姫が居た奥の寝室に御台所を隠し申された、形見はこれに有るぞとて祖母の手に渡しけれ。
 祖母は形見を取り持ちて、御台所を助け申すこと嘆きの中の喜びなれ、然りとは申せども人間に限らず生を受けぬる類の子を思わぬは無かりけり、三界一の尊い独尊釈迦牟尼如来だにも御子の羅醵羅尊者をば又密行と説き給う、金翅鳥は子を悲しみ修羅の悩みに嘴を立てる、夜の鶴は子を悲しみ連理の枝に宿らず、野牛仔牛を舐り野外の床に伏すと聞く、生き年生き生を受けぬる類の子を思わぬはなきものを、自分の分身に等しいたった一人の姫を主の命に替えし事恨みとは更に思わねど、あら惜しの姫やとて、大泣きし祖父も共に泣く時こそ大臣は聞し召し、今でも立ち出でて名乗ろうとしたが、ここは黙って好機を待つことにした。

15 百合若別府に復讐する
 かくてその年もうち暮れ新玉月にもなりければ、九州の役人等弓の頭を始め別府殿を祝う謝礼の公事。
 いたわしや大臣殿には御顔にも御足手にもさながら苔のむし給えば、苔丸と名付け申し矢を拾い集める役に指名した。
 大臣弓場に立たせ給い、ここにて運をきわめばやと思し召し、あそこなる殿の弓立ちの姿勢の悪さよ、ここなる殿の弓を持つ押し手が震うと散々に悪口し給う。
 別府この由聞くよりも、何時汝が弓を射習うて差し出口を言うのか、はがゆいならば一度射よ。
 大臣殿は聞し召し、射たる事は候はね共、余りに人々の射させ給えるが醜き程に申して候。
別府聞いて、それほど汝が射たことのない弓に差し出た生意気な口を利くのか、どうしても射ないというのなら、宇佐八幡も御覧あれ、人手にはまかせず直に自分が切り殺すであろう、とく射よと責めかかる。
 大臣殿は聞し召し、仰せにて候程に一矢射たくは候へども引くべき弓が候はず。
 別府聞いて、強き弓の所望か又弱き弓の所望か、同じくは強き弓の所望にて候。
 筑紫に聞こゆる強き弓を十張揃えて参らせ上ぐる、二三張押し重ねはらはらと弓折って、何れも弓が弱くして間に合わないと仰せければ、別府これを見て貴奴は曲者かな、その儀にあるならば、大臣殿に遊ばしたる鉄の弓矢を射させよとて、宇佐八幡の御宝殿に崇め置く鉄の弓矢を申し下ろし大臣殿に奉る。
 元々使い慣れたる弓なれば、庭の隅に植えられた松に押し当て、ゆらりと張って張具合を調べ、鉄の矢をつがい金剛力にて軽々と鉄弓を引いて、的には御目にかけられずし、歓楽して居たりける別府の臣に目をかけて、大音上げて仰せけるは、
 いかにや九国の在庁ら我をば誰とか思うらんいにしえ島に捨てられし百合若大臣が今、春草と萌え出でる、道理に従って私を正しく認めるか、それとも道に外れて別府を認めるか如何に如何にと有りしかば、(北九州で勢力を振るう)大友諸卿、松浦党一度にはらりと畏まり、君に従い奉る。
 別府も走り降り、降参なりとて手を合わせる、いかでか許し給うべき、松浦党に仰せ付け手を縛り上げ、懸りの松に結い付け自身立出で給いて。
 汝が舌のさえずりにて我に物を思わする、因果の程を見せんとて口の内へ御手を入れ舌を掴んで引き抜いてかしこへがばと投げ捨て、首をば七日七夜に挽首にし給えリ。
 上下万民押し並べて憎まぬ者はなかりけり、弟の別府の臣をも同じ如く罪科あるべかりしを島にて申す言葉の情け有のまま申す、されば汝をば流罪にせよとて、壱岐の浦へぞ流されける。

16 百合若の栄光
 その後、大臣殿国府の庁屋へ移らせ給う、御台この由聞し召しひとえに夢の心地して袂を顔に当てながら涙と共に出で給う、会わぬうちから涙が出るのも当然なり、会うての今の嬉しさに言葉も絶えて無かりけり、何の辛さに我が涙押ふる袖に余るらん、御台所は宇佐の宮の御宿願の由を御物語有ければ、大臣斜めに思し召し、立てさせ給う御願は数えられないほどの金銀珠玉をちりばめ給う。
 その後、大臣殿、壱岐の浦の釣り人に、尋ぬべき子細あり急ぎ参れと御使い立つ、如何なる憂き目にか会うべきと、只ひどく恐れた風情にて国府の庁屋へ参り庭上に平伏す。
 大臣殿は御覧じて、命の恩人何とて恐れをばなし給うぞ、それへそれへと仰せありて、広縁まで召し出され、嬉しい事も辛い事もどうして感じないことが有ろうかと御杯に差し添えて、壱岐と対馬両国を褒美に与えた。
 門脇の翁を召出させ給いて、筑紫九ケ国の荘政所(所領荘園の事務一切の取り仕切る機関)を賜び給う、亡くなった門脇の翁の娘のために満農が池のあたりに御寺を立ち給い一万町の寺領を寄進させ給いけるとかや。
 緑丸のために都の乾(西北)に神護寺と申し御寺を建て給いけり、鷹の為に建てたれば、さてこそ今の世までも高雄山(現京都市右京区梅ヶ畑)と申すなれ。
 大臣殿の御諚には、筑紫に住居をするならばもの憂き事もありなんと、御台所を引き具して都に上り給いけり。
網代を張った輿が十二挺、略式の輿は百余挺、大友諸卿、松浦党御伴を申さるる。
 昨日までは賤しくも苔丸と呼ばれ給いしが、今日はいつしか引き替えて七千余騎を引き具して都へ上り、父母に対面有て後、やがて参内申さるる。
 帝叡覧ましまして、如何に珍しや先度別府が上り討たれぬる由申せしを誠ぞと思いて勅使を下す事も無し。
 不思議の命長らへ二度参内する事、一眼の亀のたまさかに浮木に会う如く(めったにない幸運のたとえ)とて、日の本の征夷大将軍になさせ給うぞ有難き。さてこそ、天下泰平、国土安穏、寿命長遠なりとかや。

百合若

ルシアダスと百合若物語 新村出『南蠻廣記』より。








最近、大學や出張先などでインターネットが繋がらないことが多く、困ってゐた。古いパソコンで試すとすぐ繋がる。しかし解決方法を二つ見つけた。

1、デバイスマネージャー内のネットワークアダプターのプロパティの省電力を外す

https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01424/092800003/?P=2



Cap-09

2、最新のTCP IP/v6を外して、TCP IP/v4に繋がるやうにすれば何の問題もない。以下、役立つ情報。 




次に、

TCP-IP-v6



https://togeonet.co.jp/post-3069

「IPv4アドレス」が足りない!?

インターネットに接続するためには必ずIPv4アドレス(例:122.216.XXX.XXX)を割り当ててもらうことが必要です。このIPアドレスは数に限りがあり、その数は約43億個。既に、IPv4アドレスが枯渇しそうです!との報道がされているのです。参考資料 ⇒IPv4アドレスの在庫枯渇に関して

最近は特にアジア地域でIPv4アドレスの利用が増えているため、全世界でIPv4アドレスを管理する団体IANAで、IPv4の在庫がなくなってしまいました。という件がニュースになったわけです。

次世代規格「IPv6アドレス」へ移行する

これからは「IPv4アドレス」を上手く使いまわしながら「IPv6アドレス」という新しい技術に移行していくことになります。新しい「IPv6アドレス」で使えるIPアドレスの数はなんと約2の128乗個!約340兆の1兆倍の1兆倍です。ちなみに、現在使われている「IPv4アドレス」は引き続き使えるのでご心配なく。

Windows10はIPv6を優先する

次世代のOSであるWindows10は基本的にIPv6でインターネット接続をしようとします。IPv6で接続するためには、インターネットを提供しているプロバイダーはもちろん、ルーターやハブ、サーバまで、IPv6に対応している必要があります。しかし、ほとんどの企業がIPv6への切り替えをしておらず、ネットワーク機器の買い替えや設定変更が必要なことをご存知ありません。

つまり、IPv6が繋がらない状況下でWindows10だけが先走ってIPv6で繋げようとするので、インターネットが繋がらなくなってしまったということです。

解決方法:IPv6の設定を解除する

解決方法としては、IPv6で接続できないように設定することです。そうすればパソコンはIPv4でインターネットに接続するので、問題が解消されるはずです。

まず、デスクトップ画面左下の「スタートメニュー」右クリックして、「コントロールパネル」を選択してください。

IPv6の設定を解除する

次に、「ネットワークとインターネット」をクリックします。表示方法は「カテゴリ」にしてください。

IPv6の設定を解除する

次に、1番上の「ネットワークと共有センター」をクリックします。

IPv6の設定を解除する

画面左側のメニューから「アダプターの設定の変更」をクリック。

IPv6の設定を解除する

すると、現在使っているネットワークのアイコンがいくつか表示されるので、使用しているアイコンを選択し、右クリックしてメニューを表示させます。メニューの中から「プロパティ」を選択してください。

IPv6の設定を解除する

プロパティの画面で接続項目の一覧が表示されます。その中から「インターネットプロトコルバージョン6(TCP/IPv6)」の項目を探し、チェックを外してください。最後に「OK」ボタンを押して設定完了です。パソコンを再起動すればインターネットに接続されているはずです。

IPv6の設定を解除する






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and finally new rule please don't make the olympics into the oscars.
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oh what's that they they did already.
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yeah you know back in april when the oscars aired i commented in this space
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that the theme of that evening
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was we dare you to be entertained
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lest your mind waver for a few hours
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from thinking about these sad things and
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bad people in the world well
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thank god we found some of those bad
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people in the olympics now and not a
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moment too soon
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the director you know that
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that was sarcasm
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[Laughter]
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the director of the opening ceremony was
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fired hours before what did we
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before the event because they found out
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there was a holocaust joke in a comedy
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routine he did decades ago
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well you know context is everything
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obviously didn't strike people as beyond
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the pale at the time
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young people have to stop flattering
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themselves that they're nostradamus
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and what have foreseen had they been
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around then everything that's
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unacceptable now
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and for further context mel brooks wrote
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one of the most successful
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musicals of all time around the song
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springtime for hitler
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why do we allow the people who just want
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to
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to always win days before that firing
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the opening ceremony's musical director
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musical director was also forced out
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because someone dug up an interview with
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him from 1994
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where he admitted to bullying classmates
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as a child
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as a child remember when your teacher
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used to
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try and scare you by saying this is
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going to go on your permanent record
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yeah no longer an empty threat now
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and the
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and the creative director of the entire
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shebang of the whole olympics got canned because he once made a fat joke in a private conversation
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this is called a purge it's a mentality that belongs in stalin's russia
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how bad does this atmosphere we are
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living in have to get
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before the people who say cancel culture
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is overblown
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admit that is in fact an insanity that
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is swallowing up the world
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[Applause]
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i'm back not the audience i'm back
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they're still and that is not a
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conservative position
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my friends my politics have not changed
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but i am reacting to politics that have
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and this is yet another example of how
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the woke invert
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the very thing that used to make
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liberals liberals
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snitches and that's not being
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liberal
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the associated press is a real news
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organization yeah
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so why am i reading this headline
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olympic surfing exposes whitewashed
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native hawaiian roots
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yeah the olympics added surfing this
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year good surfers deserve to be
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recognized as athletes
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i'm sorry what i meant to say is no
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that's cultural appropriation
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the ap says that for hawaiians probably
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all two of them
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including surfing in the olympics is an
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extension of the racial indignity
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seared into the history of the game and
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their homeland when white outsiders took
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over their spiritual art form
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or just people having fun in the ocean
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i must say of all the violations of the
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woke penal code
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cultural appropriation just might be the
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dumbest of all
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first of all there are 25 000 islands in
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the pacific how do we know a hawaiian
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was the first to stand on a board in the
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water
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[Applause]
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it seems like something anyone in any
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ocean would eventually get around to
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and if you're a surfer it doesn't matter
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if you're black white or in between you
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all taste the same to sharks
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but
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but let's say hawaiian did invent
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surfing should he or she have kept it to
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themselves
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most of human history is a horror story
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but the good parts are about different
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groups coming together and sharing
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it's sort of the whole point of the
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olympics
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which
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which itself comes from greece where
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wrestling was invented as a way for
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completely heterosexual men to get to
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know each other
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badminton has roots in india tennis
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comes from france
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skiing from scandinavian taekwondo from
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korea
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judo was appropriated from the far east
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and skateboarding from the far
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out what is this new rule that the first
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thing to do
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that the first to do something are the
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only ones who get to have it
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jewish people spent most of their
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history wandering but when they see
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other people milling around they don't
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say can you not that's sort of our thing
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you know change is not synonymous with
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progress
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newer doesn't automatically mean better
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this new idea that each culture must
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remain in its own
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separate silo is not better it's not
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progress
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and in fact it's messing with one of the
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few ideas that still really does make
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this melting pot called america great
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not everything is about oppression
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stealing natural resources from
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indigenous peoples yes of course
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that is exploitation but i swear not one
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beach boy's song resulted in any
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hawaiian having less waves to surf
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not one african record buyer stopped
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purchasing local music
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after paul simon made graceland
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[Laughter]
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but lots of white buyers in america were
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turned on to and then bought african
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music
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and today korean boy bands make
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western style music you don't get to
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number one singing this
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and that's the great thing about
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cultural mixing it makes things better
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for everyone
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bts can be a hit in america and i can
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get kimchi on a taco
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isn't that better than everyone walling
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itself off from outsiders i thought
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walls were supposed to be bad
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but we're living now in a world where
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straight actors are told they can't play
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gay roles and white novelists aren't
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allowed to imagine what it'd be like to
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be a mexican immigrant
07:20
even though trying to inhabit the life
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of someone else is almost the very
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definition of empathy
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the bedrock of liberalism and by the way
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if anyone deserves to about
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stealing in the olympics
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it's the horses in the equestrian events
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who have to watch humans get medals for
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everything
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they do
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you



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2021年度展覧会

むんだすいぬやーぬ 首里城正殿の屋根

首里城正殿の屋根

会  期: 2021年7月26日(月)~9月3日(金)
会  場: 城西大学水田美術館 ギャラリー2
開館時間: 午前9時30分~午後4時30分 
      ※入館は閉館の30分前まで
休 館 日 : 土曜日、日曜日、7月30日(金)、8月30日(月)、夏期休業(8月6日~22日)
      ただし、7月31日(土)、8月28日(土)は関連企画開催のため開館
観 覧 料 : 無料
企   画 : 石井龍太(城西大学経営学部准教授)
主   催 : 城西大学水田美術館
共   催 : 沖縄県立博物館・美術館
協   力 : 沖縄タイムス

 首里城(すいぐすく)は、考古学、文献史学等の成果によれば、少なくとも13世紀中には首里の地に何らかの形で登場し、15世紀までには政治的な機能を果たすようになったと考えられる。 そして沖縄島の勢力が統一された15世紀以降は「琉球王国の王城」としての役割を450年に渡り担い続けることとなる。19世紀後半の王国の消滅と共に王城としての役割を終えるが、その後も特別な空間という意識は続き、軍隊が、学校が留まる歴史が繰り返された。
そして戦前と戦後の2度の復元後は、観光地としても大きな役割を果たしていた。1992年の復元時には「戦後復興の象徴」という意味付けも加えられることとなる。

  こうした長い歴史と多面的な性格を持つ首里城は、時代によってその姿を変えてきたこともまた知られている。2019年10月の火災以降、首里城とは何だったのか、その実像について、再び広く興味関心が集まり始めた。

 本展示は、これまでになされた様々な研究蓄積を総合し、特に首里城正殿の屋根(むんだすいぬやーぬ)に焦点を当てて、その実像を時系列に沿って追究する。また壁の色調や龍柱をはじめ、議論の的となってきた事柄を含めた建物全体の姿についても、史資料を踏まえて検証し思い切った復元を試みる。
 
 本展示は、首里城を巡るイメージを少なからず動揺させることになるかも知れない。今後の議論の一助となれば幸いである。
                                     石井龍太(城西大学経営学部准教授)


関連企画
■講演会 
日 時:9月3日(金)午後1時~午後3時
演 題:「首里城の誕生」  
講 師:山本正昭(沖縄県立博物館・美術館主任学芸員)  
会 場:城西大学水田三喜男記念館 講堂(定員50名)   
*参加人数は1組3名様までとなります。
*参加希望の方は、参加者氏名/参加人数/連絡先(複数の場合は代表者様の連絡先)を、
下記いずれかの方法により、事前にお申し込みください。
①メール=museum@josai.ac.jp 
②電話=049-271-7327 
③FAX=049-271-7342
④予約フォームからのお申し込み

*講演会会場と展示会場は建物が異なりますため、当日展示もご覧になる方は、下記時間帯より
 来館のご予約時間も併せてお知らせ下さい。    
 来館時間=9:30~/10:30~/11:30~/15:30~

■展示解説
(本展企画者 石井龍太准教授による解説)

7月31日(土)、8月28日(土) 各日①午後2時~ ②午後3時30分~     
9月3日(金)午前11時~ 
※各日約45分~60分程度となります

会場=水田美術館2階ギャラリー2


■入門者向け展示解説
(本学経営学部石井ゼミ生による解説)

7月31日(土)、8月28日(土) 各日①午後12時~ ②午後1時~
 ※各日約30分程度となります  

会場=水田美術館2階ギャラリー2

※展示解説は申し込み不要ですが、一般来館者の方は来館予約が必要です。
来館予約は詳細はこちら

※講演会、展示解説は録画をし、後日美術館YouTubeにアップロードいたします。
※アップロードのお知らせは当館ホームページ、Twitterでお知らせいたします。

舊首里那覇鳥瞰圖石版近代_城西大學藏

《旧首里那覇鳥瞰図》石版画、近代頃、37.9×109.2cm、当館蔵

城西大学水田美術館 
〒350-0295 埼玉県坂戸市けやき台1-1
TEL:049-271-7327/FAX:049-271-7342


八重山日報 令和三年七月十八日。談話連載紙面。今日だけ特別無料公開します。

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http://dametv3.blog.jp/archives/19069701.html

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さて、以下は赤瓦情報。


「首里城正殿の屋根変遷」石井龍太。

城西大学経営紀要 巻162020-03

info:doi/10.20566/18801536_16_157

https://libir.josai.ac.jp/il/meta_pub/G0000284repository_JOS-18801536-1606

 

沖縄県立博物館 学芸員コラム

2020.11.09首里城の建物に葺かれていた瓦の色は赤色なのか、灰色なのか主任学芸員 山本正昭

https://okimu.jp/museum/column/1604882797/

https://okimu.jp/museum/column/offset:20/
 おきみゅーには様々な資料が保管されていますが、その中でも首里城内の建物に葺かれていた瓦がいくつか考古・陶磁器収蔵庫に収められています。これらの資料がおきみゅーで展示されたことは記憶の限りありません。そこで、戦後間もない頃に首里城跡から拾われたこれらの瓦7点を、かつての首里城の姿を想い描いていただくためのきっかけとして、115日から期間限定で展示するコーナーを常設展示室入口前に設置いたしました。

 今回展示している瓦は、明朝系瓦、高麗系瓦、大和系瓦の3種類になります。明朝系瓦は、1945(昭和20)年に沖縄戦で焼失した首里城正殿や北殿、南殿などに葺かれていた瓦で(写真1)、18世紀から19世紀に沖縄本島で造られていました。この瓦は中国大陸の建物で見られる瓦で、軒平瓦は滴水瓦という別名を持っています。また、今回展示する瓦の色合いは赤だけではなく褐色や灰色も見られることから、かつての首里城建物には赤瓦だけではなく褐色や灰色の瓦が混在してあったことが分かります。

 一方で、色合いが基本的に灰色である高麗系瓦、大和系瓦は、首里城で最も古い時期の瓦葺建物に葺かれていた瓦になります。高麗系瓦は、朝鮮半島の瓦造り技術を用いて沖縄本島北部で造られた瓦であると考えられており、明朝系瓦と比べてかなり大振りの瓦となっています(写真2)。また、大和系瓦は、日本本土の瓦造り技術を用いて造られた瓦(写真3)で、やはり沖縄本島北部で造られた瓦です。両瓦は14世紀頃に日本本土と朝鮮半島の瓦造り職人が沖縄本島北部に来て造った瓦で、造られた後は首里城や勝連グスク、浦添グスクへ運ばれてそれらグスクの建物屋根に葺かれました。当時の瓦葺建物は現在、残っていませんが、浦添市にある浦添ようどれ館の屋根には高麗系瓦の復元模造瓦で葺かれているので、その雰囲気を窺い知ることができます(写真4)。

 こうして見ると、首里城の建物に見える瓦は赤瓦である印象が強いですが、実は全て赤瓦で葺かれていたのは平成に復元された首里城の建物のみであり、1945年以前にあった首里城建物は灰色の一色のみ、または赤や灰色の瓦が混在して葺かれていたようです。

 以上のように首里城に葺かれていた瓦を見るだけでも、首里城に対するイメージがかなり変わってきます。

 赤瓦沖繩縣立博物館山本正昭

 

 

沖縄県立埋蔵文化財センター2007『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書』44『首里城跡・御内原西地区発掘調査報告書』

119頁「明朝系瓦」條に曰く、

「灰色系瓦が1116点、赤色系瓦が1414点……、赤色瓦にはマンガン釉を薄く塗り黒色を帯びる資料もみられた。」

http://doi.org/10.24484/sitereports.22016

https://sitereports.nabunken.go.jp/22016

 PDFあり。

 

御内原(おうちばら)とは、内廷。

https://www.asahi.com/and/article/20190304/300024958/

 


「渡地村跡出土瓦の分析、琉球近世瓦の定義に関して」

那覇市立壺屋焼物博物館紀要15  石井龍太   

「那覇港の遺跡として注目された渡地村跡で出土した瓦群は、「渡地系瓦」という呼称が与えられるほど、特色ある一群であつた。

この瓦群は従来の琉球諸島の瓦三区分、すなわち「高麗系」「大和系」「明朝系」に必ずしも当てはまらない。そして私が近年提唱する「グスク瓦」「琉球近世瓦」という区分にも当てはまらない。

 瓦当部の着色は当該瓦群の大きな特徴と言える。軒平瓦・軒丸瓦とも瓦当部を中心に黒色処理がなされており、上述の瓦当紋様と合わせて当該瓦群の独自性の一つである。

瓦当紋様や黒色処理といつた屋根景観を構成する特徴は、グスク瓦や琉球近世瓦と一線を画す当該瓦群の独自性をよく示している。

 琉球諸島で、近世期を中心に、生産・使用されていた瓦を「琉球近世瓦」と呼ぶ。

一方で、同じ瓦群に対して「明朝系瓦」という呼称が使われている。中国明朝の瓦が琉球諸島に伝播し影響して誕生した瓦群、という意味の呼称だが、私は幾つかの理由から敢えてこの呼称を用いていない。要するに根拠薄弱なのである。

http://www.edu.city.naha.okinawa.jp/tsuboya/kiyou/kiyou15%20ishi.pdf

http://www.edu.city.naha.okinawa.jp/tsuboya/kiyou.html

 


『島瓦の考古学 : 琉球と瓦の物語』  
    石井龍太著    新典社 2010.12 新典社選書, 39
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB04276194
 純心購入濟。赤瓦についてはp.36-37, p.83-84, p.125, p.144, p.153-155など。
黒釉に言及無し。



 内閣府・沖繩綜合局の首里城復元會議。

http://www.ogb.go.jp/kaiken/matidukuri/syurijou_hukugen_iinkai

http://www.ogb.go.jp/-/media/Files/OGB/Kaiken/kyoku/matidukuri/syurijou_hukugen_kentouiinkai/01_saishiki_tyoukoku_WG_R021222/PDF_R02_siryou3.pdf

http://www.ogb.go.jp/-/media/Files/OGB/Kaiken/kyoku/matidukuri/syurijou_hukugen_kentouiinkai/R02_2nd_saishiki_tyoukoku_WG/PDF_R02_siryou2_2st.pdf

http://www.ogb.go.jp/-/media/Files/OGB/Kaiken/kyoku/matidukuri/syurijou_hukugen_kentouiinkai/R02_2nd_mokuzai_kawara_WG/PDF_shiryou_2_R030304.pdf

http://www.ogb.go.jp/-/media/Files/OGB/Kaiken/kyoku/matidukuri/syurijou_hukugen_kentouiinkai/R03_2nd_mokuzai_kawara_WG/PDF_R03_2nd_siryou2.pdf

 

令和3年度 首里城復元に向けた技術検討委員会 第1回彩色・彫刻ワーキンググループ会議

令和3年6月9日   資料3。 

「正殿は主に1768年の「寸法記」の記述に基づいて復元されており、1768年以降は赤瓦が主流になっていたと想

定される。赤瓦が主流の時期の軒丸瓦の瓦当文様は タイプであり、正面タイプ

1715年の正殿再建以降、酸化焼成による赤瓦が徐々に普及するようになり、1768年の正殿大修理(「寸法記」)以降では、

赤瓦が主流になっていたと想定される

http://www.ogb.go.jp/-/media/Files/OGB/Kaiken/kyoku/matidukuri/syurijou_hukugen_kentouiinkai/R03_1st_saishiki_tyoukoku_WG/PDF_R03_siryou3_1st.pdf

http://www.ogb.go.jp/kaiken/matidukuri/syurijou_hukugen_iinkai/R030610

 

『誰も見たことのない琉球 <琉球の歴史>ビジュアル読本』上里隆史著

「赤瓦カッコワルイ」  2008年。

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA8630521X

https://borderink.com/?pid=8372631

http://ryukyuko.style.coocan.jp/html/book-rekimin3.html



『ぞくぞく! 目からウロコの琉球・沖縄史』上里隆史著 2010年。

「赤瓦の生まれたワケ」

https://borderink.com/?pid=23873812

   

上里隆史コラム「目からウロコの琉球探検」

(「週刊タイムス住宅新聞」2009年4月17日~2010年3月19日)

 「赤瓦の生まれたワケ」(4月17日)

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/about.html

 

關西ペイント 「首里城の瓦の色は十人十色」

 200年前に建てられた首里城の赤瓦の色を、これだと断定できる人は誰もいません。首里城復元でもっとも苦労したのが、赤瓦の色だったと奥原さんは当時を振り返ります。「小さい頃首里城で遊んだとか、住んでいたというお年寄りが集まって、色彩委員会とか彩色委員会とかがあったんだけど、ひとりは真っ黒という人もいるし、ひとりは灰色という人もいるし、赤かったという人もいる。10名が全部違ってた」。

 そもそも沖縄の瓦は、朝鮮系のものが薩摩から入ってきたものが最初。瓦は高温で焼けば焼くほど赤から黒色に近づいていき、それに応じて質も向上します。朝鮮で作られた瓦は、寒い気候に耐えられるよう、しっかりと焼き込まれた黒に近い灰色の瓦でした。この瓦の時代が何百年か続いた後、今度は中国の福建省系の赤い瓦が入ってきます。中国のなかでも南方の、いわば沖縄と紀行風土がほぼ同じだった福建省系の瓦は、いつしか黒瓦を抑えて沖縄の瓦として定着していきました。こうした歴史のなかで、首里城は幾度となく台風に見舞われ、壊れて修理が繰り返されます。

 「つまり、黒い瓦と赤い瓦がごっちゃになって使われていた時代があった。だから昔の先輩たちは、黒という人もいれば赤という人もいる。みんなそれぞれの記憶しかないから、色の記憶もごちゃ混ぜになってるのさ」。

奥原さんたちが調べた結果、黒瓦は120年前にすでに焼かれなくなっており、首里城の復元にあたっては、120年前の形式に戻そうということで赤瓦が使われたそうです。

https://www.kansai.co.jp/friends/seikatsu_saito/tatsujin/01/02_1.html

 

ブログ。

柱や壁の色については、18世紀の改修記録『寸法記』に「朱ぬり」「赤土ぬり」という記述があることをもとにしている。

赤い柱や壁の建物は、平等院や厳島神社など日本にも数多くあり、中華風であるとは言えない。

https://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1076135011.html

 

首里城の瓦は本来「赤」か「黒」か 

戦前の“カラー”写真は手彩色 

ネットの議論に考古学者の見解は

毎日新聞2019/12/1311:00(最終更新1/414:38)有料記事2968文字

 沖縄といえば、赤い瓦の町並みで知られ、焼失前の正殿の瓦も鮮やかな赤だったが、戦前に屋根が黒かったことを示す写真や映像を根拠に「黒」で復元すべきだという声がソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で広がっているのだ。赤なのか黒なのか。長年沖縄の古瓦を研究してきた上原靜・沖縄国際大教授(考古学)に聞いた。【大村健一/統合デジタル取材センター】

https://mainichi.jp/articles/20191213/k00/00m/040/002000c

   

首里城の瓦は“黒”だった? 「中国人好みに捏造」は本当か 真相を探る

20191216 05:00有料

 首里城火災後、インターネット上で、「首里城の瓦の色は戦前は日本風の黒だった」という主張が展開されている。

「黒」の証拠として掲載された戦前の正殿の写真はモノクロの画像に着色したもので根拠に薄い。

正殿の発掘を担当し,瓦の研究者でもある上原靜氏は「正殿の屋根をふくには数が少ない。戦前,首里城を沖縄神社にした時,拝殿としての正殿

の奥に,神殿などの黒い瓦をふいた小さな建物を造ったのではないか」と答えている。

(沖縄タイムス+プラス 2019 12 16日)。

残り873文字(全文:967文字)

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https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/510854

https://ameblo.jp/yuukata/entry-12572667170.html

 

琉球王国における瓦窯生産の画期と展開 : 灰色系瓦から赤色系瓦への変化

 上原靜   南島文化  巻29   2007-03

沖縄国際大学南島文化研究所

 (黒釉に言及無し。)

http://hdl.handle.net/2308/2325

 

 

首里城入門 : その建築と歴史

首里城研究グループ著  ひるぎ社, 1989.9  

第二章首里城概説、I正殿(百浦添)・屋根瓦。

「当初は一般的に灰色であった瓦が、現在の赤瓦に移行し始めたのは18世紀の始めであり、・・・比較的歴史は浅い。」とある。また、沖縄での古瓦の発掘事例についても述べており、「出土品は赤と灰色の2種類があり、乾隆3年(1738)の銘が入った赤の古瓦より、18世紀前期には灰色瓦から赤瓦へと移行したとされている。・・・一説では瓦の需要増大に伴い、燃料が経済的で焼成技術が容易な赤瓦に注目したともいわれている。」

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN0588826X

https://books.google.co.jp/books?id=mEYmDwAAQBAJ

 2014年電子版あり。

 

彰國社『建築文化』1989 9月号 No.515 Vol.44  

特集II 行動する地域の建築家たち 変容する沖縄の風景

 座談:風土病よりインターナショナルヘ

佐久川一 ; 末吉栄三 ; 能勢孝二郎 ; 福島駿介  

155頁「末吉:例えば赤瓦も,全世界的なスケールで見ても,非常に良いものだと思います。

ただ,赤瓦=沖縄という,大きな意味が染み込んでしまっているから,

そういう観光宣伝的な沖縄風なものには、のっかりたくない。」 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6057377

https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN00079584

http://www.kenchikubunka.com/synergy/db/views/view.php?mode=search_id&id=6248

http://opac.lb.nagasaki-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/AN00079584

https://books.google.co.jp/books?id=LMJUAAAAMAAJ

  

神田明神・鳳凰殿の唐破風。お散歩ネット。無料引用可。

https://koedo-kawagoe.net/shrine/495/

https://koedo-kawagoe.net/wp-content/uploads/2020/01/IMG_1041G-1536x1152.jpg

https://koedo-kawagoe.net/

https://koedo-kawagoe.net/%e3%83%97%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%90%e3%82%b7%e3%83%bc%e3%83%9d%e3%83%aa%e3%82%b7%e3%83%bc/

 神田明神鳳凰殿お散歩日記

 

 

首里城。八重山日報83に引用濟。 唐破風は和風の入り口の屋根。 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Syurijo_Naha_Okinawa_Japan_%E6%B2%96%E7%B8%84_%E9%82%A3%E8%A6%87_%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E_%E6%AD%A3%E6%AE%BF_-_panoramio.jpg

 Syurijo_Naha_Okinawa_Japan_沖縄_那覇_首里城_正殿_-_panoramio

 

 

奈良東大寺大佛殿。八重山日報83に引用濟。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Historic_Monuments_of_Ancient_Nara-122748.jpg

 Historic_Monuments_of_Ancient_Nara-122748

 

 

「機那サフラン酒本舗」といふ名建築の唐破風。

http://www.uraken.net/ph/2020/1128.html

http://www.uraken.net/ph/2020/1128/DSC_0219.jpg

https://www.detail-home.com/blog/20210706_fujii_settaya/

https://www.detail-home.com/wp-content/uploads/2021/07/20210706_fujii_settaya_img03.jpg

https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900174/

https://www.nippon.com/ja/ncommon/contents/guide-to-japan/410501/410501.jpg

 機那サフラン酒本舗離れnippon-com


別府・竹瓦温泉館。 八重山日報83に引用濟。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Beppu_Takegawara_Onsen_1.jpg

 

Beppu_Takegawara_Onsen_1

 

 

 




 浙江の河姆渡と湖南の長江中流の彭頭山のY染色體は公表されてゐないが、河姆渡は良渚O1aと同じだらうか。長江中流の彭頭山は最古の稻作だけに、上流の大溪のO2と同じか、下流の江西の呉城のO1b1と同じか、氣になる。彭頭山と呉城は岳陽湖と彭蠡澤の領域であり、山を越えた大溪との繋がりは難しいかも知れない。もっと調査が進まないと不明。
 卑彌呼時代の黥面文身や鬼道の習俗を戰國秦漢の敗北流民だと思ふ人がゐるやうだが、卑彌呼が外來政權だといふ傳説も無い。一般的に言へばかなりの古俗であって、卑彌呼に近い時代に始まったのではなからう。
 かりにO1總支が湖南省で生まれたとして、その分支のO1aが長江下流を占領したのも、別の分支O1b1が雲南や東南アジアに遠征したのも、敗北でなく勝利だらう。O1b2が日本に來たのもその一支とすれば、良渚と同じく數千年前を想定すべきである。
 文化は傳播する、O2人種の麥はシルクロードから得た。遼河人種の玉龍なども傳播して黄河O2と長江O1aの地域に這入ったのだらう。傳播と移民とは同一に非ず。
 中原に於ける黄帝の勝利と神農の敗北にこれを擬するのも難しい。O1總支が各地を制覇して、O1aが長江下流へ、O1b1が南下し、O1b2が海路日本へ。そしてO2はO1に追ひ出されて中原まで北上。北上した先の中原で西からのシルクロード文明に出逢った御蔭で發展できた。もともと長江文明こそ上位だったわけで、O2こそ流民であらう。




【新石器时期长江流域文化】(20170326更新)
几组数据,包括两个良渚文化,一个大溪文化、一个吴城文化,全部来自《Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River》,全部属于O类型,分别属于O类型的不同细分支系。
呉城y染色體知乎

大溪y染色體知乎


良渚馬橋y染色體知乎
良渚新地里y染色體知乎


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遺伝子解析から見た東アジアの民族関係 I 斎藤成也 敎授(国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室) 
 20:50から、アイヌ人と現代日本人との混血は古墳時代からとする。しかしこれは繩文人と大陸中原人O2(Y染色體)との混血時期を示すものではないか。つまりアイヌの大部分が繩文人なので、アイヌと現代日本人との混血は、ほぼそのまま繩文人と現日本人との混血に等しいのではないか。アイヌと繩文との混血を分析してこそ、アイヌ人の出現時期が分からうといふものだ。
 36:40から、繩文人の三段階渡來時期。