- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。

祝福。尊皇。父系皇統に毀損無し。

 ご降嫁ですから、小室圭さんは皇族にならないのに、誤解する人が多過ぎます。

 皇室を無菌室にしようといふ思想は、武漢ウイルス騷ぎのゼロコロナ派や、ワクチン信仰などと共通するものがあります。ウィズ・コロナから、ウイズ・コムロへ。無菌信仰をやめよ。

 秋篠宮支持、眞子樣支持、悠仁樣支持、小室圭氏支持。國民は集團ヒステリーをやめて靜かに見守れ。少々の醜聞ごときで騷ぐなかれ。

 國民は皇室にああしろかうしろと、指圖ばかりしてゐる。皇室とは貴族なのだから、幾分か不德があっても咎めず、臣民が補ふべきことです。

 税金を小室氏に使ふなといふ聲も間違ってます。昭和二十年に占領下で皇室資産を沒收したのだから、まづ返還すべきです。一億五千萬の下賜金は、部分返還と思ふべきです。全資産の萬分の一ほどに過ぎません。

 憲法上、皇族に人權無しとの説も誤り。皇室に憲法上の「國民」が適用されないだけであって、憲法以前の自然法として人權はあります。ただそれを憲法が保證してないだけのことです。人權ゼロではない。




眞子佳子小室


 
東恩納寛惇生家

 琉球王府が久米村唐人に實權を與へず定員も設けて制限してゐたことは史料に累々と見えるが、それについて東恩納寛惇(ひがしおんな・くゎんとん)氏が明快に敘述してゐる。
 一般に「かんじゅん」と讀まれてゐるが、日本の戸籍制度では姓名の讀音を記載しないため、確かに「かんじゅん」だと確定するのは中々難しい。もとが「くゎんとん」や「ひろあつ」であっても通俗に「かんじゅん」と讀み、それを本人も受容してしまった可能性がある。折口信夫(しのぶ)の本名は「のぶを」だとの説もある。
 歴代漢字典で惇の通常字音は「とん」であり、稀少字音が「じゅん」である。私は「くゎんとん」と讀んでゐる。

東恩納寛惇「暹羅の日本人町」 
 恐ろしい、跋扈、慄然などの形容が注目に値ひする。

暹羅の日本人町東恩納寛惇


















 鄙見。
 別姓の問題は「選擇制」に在る。同姓なら妻は原姓を喪失する。別姓なら妻は嫁ぎ先で疏外される。どちらも差別である。しかし選擇自由化すると、次世代次々世代で父母姓ジグザグとなり、家系そのものが消滅する。
 姓とは歴史的束縛であり、同姓か別姓か國家が統一管理すべきである。日本は明治年間に同姓で統一した。近代國家統一の歩みの中の一歩だった。これを自由化するのは國家瓦解に繋がる最惡手である。
 世間の議論は印象論に過ぎない。本質を考へて欲しい。
 第一に姓とは何か。世界史上、姓とは基本的に父姓であり、家系そのものである。母姓から母姓と繋いだ家系圖は世界にほぼ存在しない。自由化すると二代目三代目で父姓母姓がジグザグになり家系は消滅。自由化するならそもそも姓を廢止すべきである。
 歴史的に、姓とは父系である。家系とは歴史の束縛であり不自由である。姓自由化は姓廢止に外ならず、人を工場生産する共産主義に繋がる。
 第二に戸籍制度とは近代國家そのものである。明治わづか百年と侮るなかれ。古來先進國だった日本が、一歩の遲れを取り戻さうと起死囘生策が明治維新だった。戸籍が消滅すれば、悠久の歴史の結果の近代そのものが消滅する。
 保守系でも一般的に、家族の一體感など印象論が先行してゐる。姓の歴史についても、近代と前近代とを對立概念として右翼左翼で對立してゐる。私のやうな東洋學から言へば、前近代から近代へ、大きな趨勢がある。




小室圭

 律令は「繼嗣令」第四條で内親王が女系氏(外戚)に嫁ぐことをを禁止してゐる。第四條にもとづけば、「繼嗣令」第一條の女帝の夫は皇族であり、その子も皇族である。女帝が藤原氏に嫁ぐなら違法である。
 『令集解』に引く諸家私記の朱氏の語に、この違法の子についての問ひがあり、過去に話題になった。曰く、
「朱云、女帝子亦同者、未知依下條『四世王以上可娶親王』、若違令娶女帝生子者、為親王不。」
 この朱氏記でも女帝を娶るのは「違令」(=違法)としてゐる。第一條の女帝は第四條の定めた皇族内にしか嫁ぐことはできない。しかし違法に嫁いだらどうなるか、といふ問ひである。今の小室圭氏騷動を想起させる。

或ひと曰く、
 「令集解の継嗣令1条の朱氏記で、女帝と凡人が律令に違反して婚姻した場合その子供はどうするべきかという課題。答えは出されていませんが子を親王とする可能性も言及されてます。律令が女系を禁止しているなら子は凡人になる為、この記述は有り得ません。よって律令は女帝を禁じてゐません。」
と。

 これは「違法の問ひが存在するから合法だ」といふ自己矛盾の愚問なのだが、仕方なく駁する。
 朱氏などの各家私記の違法子の問ひのみを以て、原條文が違法子を容認してるといふ議論は無意味。極めて常識的に第四條で藤原天皇が否定されてゐて議論にすらなってない。ひねくり囘す必要は皆無である。「繼嗣令」第一條は女帝と皇族との婚姻である。高森明勅氏ら反父系の論客の解釋すら同じである。

彼また曰く、
「令義解にも同様の記述がある。仁藤敦史の本に出てゐる。」

駁: 
義解のどこに朱氏記と同じことが書いてあるのか。初耳だ。『令義解』卷四「繼嗣令」、女帝子の解:
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562913/16
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562913/17
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545164/16
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545164/17
 「謂、據嫁四世以上所生。何者、案下條、為『五世王不得娶親王』故也。」
『令義解』もまた第四條にもとづき、女帝は皇族(四世まで)にしか嫁ぐことができないと述べてゐる。女系(外戚)皇族を明快に否定してゐる。まして女帝が藤原氏に嫁ぐことも明快に否定してゐる。仁藤敦史氏の本とは『女帝の世紀』といふ書である。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA76246500

仁藤敦史女帝の世紀

 仁藤敦史氏は平安初期の「令義解」よりも「令集解」の各家私記にこそ古義が存してゐるといふ意である。しかしその仁藤氏ですら、女帝と臣下との婚姻は「令に違反する」と書いてゐる。あまりにも當り前だ。
 仁藤氏は「繼嗣令」第四條と「令義解」とをあたかも同一視するかの如く、義解が平安初期の新解だから律令正文の繼嗣令第四條まで併せて不確かだと言ひたいかのやうな筆致である。古律令を忽せにする議論だ。
 仁藤氏の言ふ「ほかの諸説」とは「令集解」の朱氏記など諸家私記を指してをり、「令義解」を指してゐない。讀者はそこを誤解して、上記のやうに「令義解にも同様の記述がある」と騷いでゐるわけだ。困ったことだ。
 仁藤氏の言ふ「單獨の法意」とはなにごとか。「諸家の私記の問ひこそが律令正文の法意だ」といふ話だ。仁藤敦史氏はこのやうな筆致の人なのだらうか。この種の人に對して、私は何も批評しない方が良いかも知れない。



井上毅謹具意見 
 「此の(女系の)皇太子は女系の血統こそおはしませ、氏は全く源姓にして、源家の御方なること、即ち(縱ひ)我が國の慣習に於ても、又歐羅巴の風俗にても同一……、源姓の人も女系の縁にて皇位を繼ぐ」
云々。

 井上の所謂血統とは血縁と同義。皇統に非ず。
 井上の論旨は歐洲それぞれ相續法の風俗が國ごとに異なるから、その内の一つに過ぎぬ女系相續を日本に持ち込む理由が無い、といふ意である。井上が氏と呼んだのはまさに男系であり、科學進歩以後のY染色體(但し法定の)と同義。氏=家系=男系。
 なほ、井上毅が例として舉げた源氏は皇別に屬するが、井上はそれを他家としてゐる。臣籍降下後は皇統から外れるといふことだ。更に井上は諸大王(宮家)を舉げて皇位繼承可能としてゐる。これは井上の創説ではなく、もともと中世の宮家とはその目的のために設置されたので、井上は祖述したに過ぎない。
 上記「法定のY染色體」とは私いしゐの造語だが、法的に實父實子と認めることを指す。科學だけでなく、それを法的に認めるのである。現代でもY染色體を法的に認定するのは親等のかなり近いところまでだらう。親等の遠い(臣籍降下後の)源氏を皇統と認めないのは、恰もこれに似てゐる。
 そして、宮家といふのは親等が遠くても法的に皇統Y染色體を認めてゐるといふことだ。

日本人の三分の一は天皇家のY染色體(科學だけの)を持つ。皇別と呼ぶ。これがまづ「必要條件」である。
『新撰姓氏録』には全部で1182氏姓が記録され3分類されている。
「皇別」の姓氏とは、神武天皇以降、皇室から分かれた氏族。
「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族。
「諸蕃」の姓氏とは、渡来系帰化氏族。

皇別Y染色體だけで皇位繼承の「充分條件」となるわけがない。

井上毅「謹具意見」はただ血統と言はず「女系の血統」と言ってる。何故ならその前の新聞紙上の嚶鳴社討論「女帝ヲ立ルノ可否」で既に益田克德氏が「血統は男統に存すと云々」として男系血統概念を既に提示してゐる。血統=血縁が男系女系ともに存在することは既に前提。その上で男統には「血統+α」。

血縁に男系女系の兩方存在することは井上の前提である。そして男系は「血統+氏」だと考へた。氏=家系=男系。井上の時には血縁の科學で男系と女系が異なることを知らなかったので「氏」で説明した。同じく氏を近年發見のDNAで説明したのがY染色體である。

井上が氏について血統を強調せず、「女系の血統」だけ血統に言及した理由は、血統はそもそも必要條件(既出)に過ぎず、男系は「+氏」である。女系は氏が繋がらないからこそ血統だけを言はざるを得ない。だから「女系の血統」とわざわざ呼ぶ。

江戸時代の法度でも貴門に於ける他氏養子を禁じた。それは庶民が血縁輕視してることを蔑視したのだよ。『新撰姓氏録』が僞の姓氏を蔑視したのと同じ理屈だ。井上毅の「氏」も養子を排除した氏であること勿論だ。井上の氏とは實父實子の氏である。現代では實父實子を法的にY染色體で檢査する。

井上毅の「氏」とは男系血統+氏。皇室は大王氏(おほきみうじ)であり、唯一絶對なのでわざわざ氏を呼ばない。臣籍降下した源氏等の皇別は、皇室の氏から外れる。つまり「男系血統+皇室の氏」から氏を喪失して「男系血統」だけになる。必要條件だが充分條件ではない。充分條件は氏。

言ひ換へると井上毅の「男系」=「血統+氏」とは、「必要條件の皇別血統+充分條件の大王氏」に外ならない。

嚶鳴社「女帝を立るの可否」 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/861936
 益田克德「我國人の腦髓を支配するの思想にして、血統は男統に存すと思惟するも亦我國人の慣性に固着せるものなり。」
 沼間守一もほぼ同趣旨であり、井上毅が引用してゐる。
 益田は男系血統と言った。益田は男統を「血統+思想慣性」とした。井上毅は男統を「血統+氏」とした。世界的に氏制度を比較し、皇氏は男系だと道破。

井上毅はまさに「氏とは益田の言ふやうな單なる腦髓の思想だけではないぞ」と言ひたいのだ。井上は、氏とは世界史的文明史的な制度、各國それぞれ固有の制度だとしてる。つまり單なる思想のみでなく、後の所謂民族學的な氏を先取りしてる。

井上毅は血統を前提として、「+α」の氏族制度。民族文明そのものであるといふのが井上の説。

「男系で辿って神武天皇」これは實父實子で繋ぐといふ前提概念。皇別氏族。
「世数無視して皇位継承権あり」、これはまさに中世に宮家を立てた目的。
これら概念は現代の新出でも何でもない。證する諸方法の一としてY染色體が加はった。現代のY染色體=實父實子概念は、近代以前の家系概念に外ならず。


井上毅





世間に有り勝ちな説:
 明治以降の皇室は、欧州王室のコピーでしかない。明治維新で長州藩と薩摩藩の志士達が、自分たちの為にこしらえた存在だと思ってもいい。日本の伝統と称するものも、ほとんどが明治以降にでっち上げたインチキだしな。しかも明治政府って「廃仏毀釈」を推進して、国内の貴重な仏閣を破壊しまくったし…

駁:
 明治維新・王政復古・國家神道・氏姓統一は近代國家統一の國民運動。傳統の強化に外ならない。當時、英佛が最先進國、二番手の日獨伊は國家制度が封建のまま散漫だったので、英佛と競爭のため近代的統一を推進。廢佛棄釋は急進的失策だったが、江戸時代の國學は緩やかな神佛分離を進めてゐた。

さらに世間に有り勝ちな説:
 19世紀風のの武張った西欧近代国家を無理やり急ごしらえに作り上げ、大衆を納得させるため「傳統」という化粧も念入りにほどこしたものに過ぎない。

駁:
 そもそも尚武の國、日本。武張るのが日本だ。そして英佛に追ひつくべく武張ったのが日獨伊。最後は第二次大戰で失敗したが、歴史的過程の武威の日本を否定するなかれ。しかも西歐近代國家といふ括り方は通じない。近代化の先行した英佛と、近代化で一歩遲れた日獨伊、でそれぞれ括るのが正しい。19世紀の歴史を19世紀の感覺で括る。最善の方法。

さらに有り勝ちな説:
 19世紀風の「文明人と未開人」、競争主義か。日本は長い平安時代もあり、別に尚武の國でもない。ヤマトタケルは負けて白鳥になった。むしろ言うなら、涙の国だろう。

駁:
 ヤマトタケルも平家も、まづ戰ってこそ涙あり。戰はず涙するのは懦夫。奈良から平安初期は武威。チャイナから疎遠となって安定の平安中期。さらに武威の平安後期。江戸時代も天下泰平で武威を喪ったが、安定した。武威の後に安定がある。

また有り勝ちな説:
 明治政府がやったのは近代化ではなくて、前近代化だよ。欧州各国が近代化そのものの目的として脱却しようとした絶対王政を、なぜか日本だけが「復古」しようとした逆行反動が「維新」。

駁:
 そもそも王政復古とは古代王政。王とは秦の始皇帝以前の周王の譯。一方、英佛の絶對王政は要するに革命前の中央集權。革命の無い日本で中央集權を進めたことを、左翼は絶對王政に戻ったと比喩したがる。しかし中央集權的統一が成ったのは日獨伊ともに同時期の明治維新前後で、世界の潮流だった。
 ところが、王政復古で調べると、辭書も左翼のウソだらけだった。
https://kotobank.jp/word/-449103
 歐洲の絶對王政を王政復古の元祖として、その眞似が日本の王政復古だといふやうなウソになってる。逆だ。正しくは、王政復古の王は尊王の王。 
https://kotobank.jp/word/-555956
 尊皇よりも尊王が正式。周王なんです。維新といふ語も周を理想とする比喩。王政復古の大號令は慶應三年陰暦十二月(陽暦1868年初)。明治改元の前だ。その時點で公卿らが「歐洲革命前に戻す」とか考へてるわけないでせう。左翼の害毒。
 日本の慶應三年の王政復古を歐洲にあてはめて王政復古と呼ぶ歴史家が多いやうだが、あまりにも不適切だ。王政復古とは、尊王思潮にもとづく號令である。だから初期明治政府は太政官とか古代律令制の官職名を多用した。明治政府が歐洲を眞似たのは中央集權といふ近代的側面であって、古代律令制をこれに擬した。日本が中央集權で且つ君主制だから絶對王政に似てるといふのは勝手な左翼的比喩だ。そもそも日本は革命しないので、革命前の中央集權と革命後の中央集權といふ分け方があてはまらない。新舊石器時代區分が日本にあてはまらないのと同じことだ。

王政復古







夫婦同姓制度について、こんな意見がある。曰く、
「ネトウヨさんの言う日本古来の伝統って、ほとんどの場合は年寄りが育った時点での常識とやらを言ってるだけ。年寄り本人がそれを懐かしがるのは分かるとして、そんな虚構の日本の伝統に下の世代がコロリと騙されてしまうのは実に不思議。何か彼らのトクになることがあるのだろうか。」

駁して曰く。
 全然誤り。時間は遡るほど記録が少なく、傳統が見えなくなる。記録が無いからとて存在しなかったとは決めつけられない。今の視點で記録の有無といふ現代的淺智慧だけで、傳統が無かったことにして捨て去ると、後に研究進展で傳統の存在が證明されても時すでに晩し。傳統を保存せよ。研究は日進月歩。

彼また曰く、
「確かに研究進展で実際は無かったと否定される伝統も多いね。まあその種の伝統を文化として尊重するのは否定しないが縛られる必要は無い。和服は素晴らしい文化だけど、それを法律で義務づけるのは愚の骨頂。」

駁して曰く。
 實際は無かったと研究結果の出た典型が母系日本、母系皇室。國家成立以後、母系母系と繋いだ家系は世界にほぼ存在せず。通ひ婚は太古の母系社會の名殘りに過ぎず。和服など服裝には文化面と制度面とあり。制度面は制服。自稱自由人は、飛行機の制服撤廢でも主張して樂しみたまへ。
 姓氏もただの文化でなく、歴史的には制度であった。日歐米で制度として最高頂に達したのは二十世紀半ばであらう。明治の戸籍制度統一で同姓か別姓かで同姓を選んで統一した。近代國家建設の歴史150年も決して短くない。自稱自由人はそもそも國家を嫌ってるだけのこと。
 本質は同姓別姓でなく、制度統一に在り。同姓でも別姓でも、姓氏なるものが成立して以來、ほぼ全ての姓氏は父系であった。母系母系で繋いだ家系圖は世界史にほぼ存在せず。今これを自由化すると、二代目三代目から父姓母姓でジグザグになり、姓及び家系なるものは實質的に消滅。
 そもそも自由化したければ、姓を名乘るのをやめるべき。姓とは父系の家系に外ならず、數千年前に人類が作った父系國家といふ制度の象徴に外ならない。ジグザグで姓の消滅を目指すなら、消滅といふ目的を明確に主張しないのは誤魔化しだ。歴史尊重の愛國派は、當然世界史の普遍的父姓を守る。
 明治維新・王政復古・國家神道・氏姓統一は近代國家統一の國民運動。傳統の強化に外ならない。當時、英佛が最先進國、二番手の日獨伊は國家制度が封建のまま散漫だったので、英佛と競爭のため近代的統一を推進。廢佛棄釋は急進的失策だったが、江戸時代の國學は緩やかな神佛分離を進めてゐた。
 今、完全個人なら姓そのものが無意味。姓の本質は父の家系に外ならず。代々母系の姓は國家以後の世界にほぼ存在せず。夫婦別姓でも子が父姓を襲へば次代で母姓は消える。父姓母姓を自由化すれば代々の姓は男系女系ジグザグとなり家系そのものが消滅。夫婦同姓別姓の統一制度にこそ意義。
 選擇別姓は例へば皇后陛下は江頭母姓と小和田父姓を選擇可、江頭皇后でOKといふ趣旨(比喩)。代々父姓母姓ジグザグとなり、家系消滅。姓とは家系であり、別姓とは家系消滅。 
 皇統を頂點とする平安『姓氏録』。夫婦別姓の自由化で、この歴史は消滅。
 英語で姓をファミリー・ネームと呼ぶ。別姓の妻は別の父系ファミリーを象徴するのであり、ファミリー無しとはならない。戸籍の本質は家系、家系圖。現存最古の家系書『新撰姓氏録』は、「庚午年籍」を繼承。そして家系圖は古來世界共通に父系でした。母系家系圖が存在すればそれは女人國の異聞でした。今、夫婦別姓になって次代がそれぞれ勝手な姓を選ぶと、三世代ほど經て父系母系はジグザグになり、家系は消滅。
 夫婦別姓でも同姓でも、そもそも姓とは父方の代々の名。父系といふ世界共通文明そのもの。姓を自由化すると、次世代は父母どちらかの姓を選び、兄弟姉妹も別姓。數世代後には父系母系ジグザグで、歴史的家系は成立せず、そもそも姓が空洞化。最終的には父系皇室といふ存在も消滅。重大な岐路。

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長崎文化と上野彦馬
        越中 哲也        純心女子短期大学  
        写真測量とリモートセンシング 31(2), 1992 日本写真測量学会 

越中哲也




(平成2年度秋季学術講演会特別講演)
長崎文化と上野彦馬 

純心女子短期大学教授  越中哲也 

1.はじめに
長崎にはポルトガル語やオランダ語の書物が多数ございます。長崎の学問をしますには,ポルトガル語やオランダ語をマスターしなければいけないことと,もう1つは中国語というものが入っております。この中国の言葉は本来の中国語と,タイといいますかベトナムといいますかそのような言葉も長崎では唐船の言葉として唐通詞の仕事内容なのです。私はそのような語学の勉強をやっているうちに,何か長崎には特殊なものがあるのではないかという事を考えまして,長崎を通じて導入されました近代文化としての学問,そういう様なものを一括して「長崎学」と私は称しております。本日は,こういった長崎学を中心にして考えてみたいと思います。

2.長崎開港とキリシタン文化(南蛮文化)
2.1長崎開港 
長崎という文字は,古文書の上では最初に中世文書
に出てまいりますが,中世文書では長崎のことは余り
重要視して書いてありません。「深掘系図証文」という
のが佐賀の図書館にございますが,鎌倉から室町の終
りまでのことを書いたものです。これにはただ長崎と
云う地名があると云う程度でその地方の領主名も書い
てございます。
長崎がきちんと出てまいりますのは,イエズス会文
書からでございます。この本は昔は“耶蘇会年報”と
翻訳してありましたが,戦後は“耶蘇会”というのは
いけないというので,イエズス会文書という風に翻訳
してありまして,この本の原本はローマにございます。
このイエズス会文書(1568年)の中にはじめて長崎の
地名が出てまいります。
別に港を開いたとは書いてありませんが,イルマン
のアルメイダが長崎へ行ったところからはじまってい
ます。
イルマンといいますのは,宣教師“パードレイ”と
は少しちがいます。パードレイと言うのは日本語に訳
して伴天連といっております。イルマンはこのパード
レイまではいっていない修行者(布教助手)という意
味です。
それらのキリシタン関係文書を調べ,且つ我が国の
地名のことを調べてみますと,長崎という地名は,全
国的には50ヶ所以上もございます。それらの地形をみ
ますと,全体的にナガサキとよばれている地形は長い
岬になっている処なので長崎の地名はナガイミサキよ
り名づけられたと考えられています。
1570年に初めて,この港は非常によろしいという事
がイエズス会文書の中で出てまいります。この時すで
にアルメイダは長崎におりませんで,次にはトーレス
という神父が来ておりました。それにはパードレイ・
トーレスと書いてありますので,キリシタン文書にP
と書いてありますのは,パードレイという事で,宣教
師(神父)という事になります。
1570年のイエズス会文書には長崎という所はいい港
があると書いてありまして,それからが長崎の始まり
ですが,実際に船が入港しましたのは,翌年の1571年
の初夏の頃でございました。これを長崎開港と申して
おります。

2.2キリシタン文化(南蛮文化)
その時入航したのはポルトガルの貿易船でありまし
た。この時以来,日本人の言葉の中にポルトガル人の
ことを南蛮人(南蛮船,南蛮文化)という言葉で表現
しています。
日本人はなぜポルトガル人を南蛮といったかと申し
ますと,中国では“真中に自分達の中華があり,東西
南北に蛮人がいる”とした考え方から,南蛮船に対し
て南から来た蛮人と中国では言っていましたので,そ
の中国人の呼称を我が国でも取り入れてポルトガル人
を呼ぶ時に南蛮人とよんだのでございます。それから
私は何故中国の人達はポルトガル人を南蛮人とよんだ
のであろうかと考えてみました。
図1長崎に最初に入港したポルトガル船図
最近私が手がけましたところでは,どうも食事の方
法が違うのでそこからきたのではないかという事を考
えてみました。当時日本人は“箸”を使った文化です。
長崎に来たポルトガル語の中には当時はまだフォーク
という言葉はございません,南蛮人は食事をするとき
に“ハアカ”を使うと書いてあります。(“ハアカ”と
いうのはナイフのことでございます。その頃のヨー
ロッパではまだフォークはありませんでした。)フォー
クが始まるのはだいたい1700年前後でありますので,
主食のパンは手でたべまして,おかずの肉はナイフと
スプーンで食べていました。東洋人は“箸”で食べて
いるのに彼等は主食であるパンを手でちぎって食べ
る。主食外の牛肉も皆手で食べるので,これは“箸”
で食べる文化を持たない蛮人だ,という表現法から来
たのだと思います。
次に南蛮人が伝えた文化の中にキリスト教がありま
す。そして,この文化は日本の近代化に大きな影響を
与えています。日本人が最初にキリスト教を受けた時
に,これは何であろうかと考えています。
仏教の中には,南伝と北伝とあります。我々が仏教
といいます時は,中国・朝鮮・日本と来ている北伝を
言うわけです。これは仏教家の方では“マハーヤー
ナー”といっておりまして,大乗仏教といっておりま
す。南伝の仏教は日本には来ていないのです。この南
伝の仏教は“ヒナ・ヤーナー”といっております。ヒ
ナというのはサンスクリット語で小さいという事で,
ヤーナーは乗りものですから小乗仏教の事です。
キリスト教を一番始めに教えを受けた時に,それは
仏教の一種ではないかということを考えたようです。
キリスト教を伝えた人は,フランシスコ・ザビエルで
す。ザビエルが最初に上陸したところは鹿児島です。
ここで布教を開始しています。日本人は,キリスト教
を仏教で我が国に伝えられなかった南伝の小乗仏教だ
と思ったのです。どうして仏教の一種と考えたかとい
いますと,日本のお坊さん達も黒い着物を着ており,
キリスト教の神父さん達も黒い着物を着ております。
それから法要の時にはお坊さんは皆きれいな袈裟をか
けますが,キリスト教の神父さんも儀式のときにはガ
ウンを着,帽子も被ります。お坊さん達も帽子を被り,
数珠を持っている。神父さん達もコンタックという数
珠を持っている等,よく似たところがあったからだと
考えています。
最初の頃の布教用語もゼウスはダイニキ(大日)と
いう風に呼ぶのだというようにゼウスと大日如来を一
緒にしたような間違いを時々おこしています。
このように初期の頃は,仏教とキリスト教が一緒に
なったミックスした様なものが伝わるのですが,だん
だんこれが違うという事がわかりますと,ここに対立
が起こりました。南蛮船はキリスト教の布教と関係が
56あり,神父達の布教に協力しないと南蛮船が入って来
ないのです。堺の町へは南蛮船は1度しか入っており
ませんで,多く九州方面に入っています。九州では大
分によく南蛮船が入港しています。大分県の大友(宗
麟)という殿様がキリスト教の布教に力を入れたから
です。然し奥さんが神官の娘ということで,貿易をし
ようとすると奥さんが反対するものですから非常に困
りました。次に南蛮船はキリシタン大名大村純忠の領
内の長崎にやって来ます。純忠は長崎を開港する条件
にキリスト教を保護してあげようといいます。次に純
忠はイエズス会に長崎の土地を寄進しようということ
を申しでております。その年は1571年です。また,1580
年・長崎の土地をイエズス会に寄進しています。だか
ら長崎の土地は,日本の土地でありながらこれがその
まま南蛮人支配地で,イエズス会の知行地になるので
す。そこではポルトガルの商人が中心でありますから,
私はこれを“キリシタン文化”,“南蛮文化”という様
に申し上げておきます。これが長崎の文化の中心にな
ります。

2.3セミナリヨとコレジョ
イエズス会は,教会を造ると共にセミナリヨとコレ
ジヨを造りました。それに付属してホスピタル(病院)
も造りました。セミナリヨとはセミナーをするところ
で,コレジヨは現在のカレッジです。又これに加えて
画学所,印刷所をつくります。学校と印刷と病院とこ
の3つをキリスト教の文化としてまず持って来たので
す。これが長崎の文化の源になっています。
長崎の言葉の中には,衣・食・住にわたって南蛮文
化が今も残っております。例えばカステーラというの
は,ボロディ・カステーラというポルトガル語から来
ております。ポロっていうのはポルトガル語で菓子と
いうことです。
それから着物等も長崎から流行しております。例え
ばジュバンというのはポルトガル語でシャツのことで
すが,今・日本人がそのジュバンというのを改良しま
して長ジュバンというのを着ております。もともと
ジュバンというのは着物の一種で洋服の下へ着る一枚
のシャツの事でございます。
それから遊びの一種で,流行しましたのはカルタで
す。このカルタは日本流に変化しましてイロハガルタ
になるのですが,絵だけとりますと花札になるのです。
建物だけは,日本の気候に合わなかったと見えて,
あまり浸透しませんでした。そういうものをひっくる
めて南蛮文化と考えています。

3.鎖国政策と地理学
3.1航海の文化
その次に日本人が文化面で大きな影響を受けました
のは,南蛮船による“航海の文化”というものがござ
います。
日本はそれまで大航海などという事は考えませんで
したから,ヨーロッパから約1ヶ年かけて大きな船で
航海して来るという,その航海の文化というものが近
代文化には大きな影響を与えております。
航海の文化には,海図が必要となってきます。それ
が地図となります。世界地図とか海図を一番最初に模
写しつくり出したのは長崎の町です。長崎の名物に地
図とメガネというのがございます。
この海図と船に乗って必要なものは望遠鏡です。望
遠鏡も海図から発展して長崎の町へ持って来たもので
す。又,方向を知るための星座の計器類,これ等をひっ
くるめて天文学といいこれらをとり扱う人を天文学者
と言っております。
地図をつくったり,天文学をしたり,もうひとつ洋
式の造船技術というようなものが日本に伝わったの
は,長崎が最初だったお考えてよろしいと思います。
こういう文化が日本の大きな船を造る文化(巨船文
化)につながり,日本人の海外への発展につながって
行きます。その時代がだいたい16世紀の末から17世紀
の始めまで続くのです。これがあまり発展しました時
に,始めて鎖国の問題が出てまいります。

3.2南蛮貿易とキリシタン禁教
この時代に日本の港から出て行った船は“御朱印船”
と申しまして,自分勝手に船を出されては統制がなく
なりますので,秀吉や家康は通行許可の朱印状を渡し
た船を御朱印船とよびました。御朱印船は多く長崎の
港より出港しております。
このような文化が多かった時代を朱印船時代といっ
ております。南蛮文化の中心は長崎であり,イエズス
会が中心であったわけですが,イエズス会が中心とい
うことはセミナリヨがあり,そこではキリシタン文化
を教えております。
長崎にはキリシタン信者以外は住んではいけないと
言うのです。長崎地方の領主大村純忠も自ら洗礼をう
け,その霊名をドーン・パルテルメオと名乗っており
ます。当時大村・島原領内の全てはキリシタンだと考
えてよろしいかと思います。そういう時代背景が長崎
の土地を全てポルトガルに寄贈してしまうというよう
なことになったと考えております。
豊臣秀吉の時代になって,朝鮮に遠征しようという
時に長崎がキリシタンの知行所になっていたことに秀
吉は腹を立てています。更に沢山の日本人の女や子供
を多く買ってどんどんとポルトガル人はつれて行くん
です。秀吉は初め何も知らなかったようです。たまた
ま島津征伐のため博多までやって来ましてその情報が
わかるのです。それでパードレイに「何で日本の子供
を売りに行くのか」と言うと,パードレイは「いや我々
が買って行くのではなく,日本人が売りにくるから
買ってやるんだ」といっております。
この頃の貿易品は,輸入は全て生糸であります。日
本には良質の生糸はほとんどありません。ポルトガル
人は中国の沿岸から持ち込んで来るのです。日本から
輸出しましたのは,金と銀と最後は銅になるわけです。
毛織物は東洋ではできておりません。それでヨーロッ
パから積んで来ております。その中で代表的なものは
ラシャといっております。輸入品の一番は生糸で日本
では「しら糸」と書いてございます。2番がラシャの
布。それからサラサ次に毛織物が出てまいります。こ
の中でラシャの他にコブラン織りが入って来ますが,
豪華なもので庶民には手が出ないものであったようで
ございます。
ともかく長崎をイエズス会に寄進した事や,従来の
南蛮貿易などは秀吉の政策と合わないので,秀吉はキ
リシタンを禁止しまして,出島にポルトガル人を入れ
てしまおうと考えたのです。だから出島というのはそ
の意味でオランダ人のために造ったのではないので
す。
長崎の町から出て人工島を造ったわけですから,デ
ジマと読んだのとテシマと読んだのとツキシマと書い
たのがございますが,町より突き出して造った人工の
島の意味でした。その広さは昔の坪数で約4千坪と書
いてございますから12,000m2位になると思います。そ
こヘキリスト教をやめさせるためにキリスト教の布教
と関係があるとしてポルトガル人を入れたのですが,
なかなかキリスト教がやまないばかりか船員に化けた
りして神父達がやって来ますので,つにい出島からポ
ルトガル人を追放します。そして鎖国政策をしたので
す。次に入ってくるのはオランダ船と唐船だけという
ことになります。

3.3鎖国政策
オランダといった場合,江戸時代の1700年以後は
ヨーロッパ人という言葉の代名詞となります。という
のはオランダ人以外は長崎へ来てはいけないというの
ですから,オランダといったら西洋ということなので
す。ドイツ人が来ようとスウェデン人が来ようが全部
オランダ人です。それで長崎にオランダ坂というのが
何ヶ所かありますが,オランダ坂というのは上にオラ
ンダ人が居た坂というのではなく,外国人が居たとこ
ろという意味なのです。
出島の医官として来ましたドイツ人のシーボルト
は,長崎へ来た時はオランダ人といって入って来てお
ります。通詞が1番初めに気がつきまして,この人は
オランダ人ではないんじゃないかといったのです。言
葉のなまりがドイツ語であったのです。カピタンはこ
58の人はオランダ人でも,(オランダに山はないのに),
山から来たオランダ人だとごまかしたそうでございま
す。ですから,出島に来たオランダ人とはオランダ人
だけではないということです。
もうひとつ,鎖国に入りますと唐船というのが入港
してくるわけです。唐船というのは,その解釈がむつ
かしいのです。
唐船をすべて中国の船とのみをお考えになってはい
けないということです。唐船といった場合に3つに別
れまして,口船,奥船と中間の中奥船とわけて考える
のが明治迄の長崎人の常識でした。
例えば長崎料理に“しっぽく”というのがございます。
しっぽくというのは御膳のことなんです。しっぽ
くを食べたというのは,御膳を食べて帰ったというこ
とになります。しっぽくというのは奥船の言葉なので
す。奥船というのは,昔の言葉でいうと安南,東京,
交趾,カンボジア,それから今のタイ方面,こういう
所から来た船は長崎から遠い所から来た船ということ
で“奥船”といいます。“しっぽく”という言葉は今の
ベトナム方面の言葉なのです。ところが最近は唐人が
持って来た文化というものだから中国という様に簡単
に考えて,しっぽくも中国料理だといっておりますが
これは間違いです。
口船が一番最後に来る。これは寧波という所から来
たんです。長崎で一番近い所にありながら一番遅くき
ました。
奥船は,そういう所ですから南蛮文化を背中に負っ
て持って来たわけです。だから奥船の文化は非常に初
期の文化ですけれども,これらを持って来た唐船の文
化は,鎖国後になりましても,南蛮文化のにない手と
して長崎文化の基盤の1つになっております。

3.4地理学
南蛮時代の後を受けまして,鎖国時代の初めに地理
学というものがもう一度復活致します。これは唐船の
後に来ますオランダ船が運んできた新しい文化の影響
でした。その新知識をまとめたのが西川如見という人
です。彼は地理学,天文学などと色々なことをやりま
した。だいたい1700年を前後として活躍した人です。
江戸にも行きましたが,その時,江戸ではまだキリス
ト教に関係があるのではないかという事で,如見はあ
まりはっきりしたことを教えておりません。

4.洋書解禁と出島オランダ通詞の活躍
オランダ人は,貿易はするけれども学問のことは,
あまり教えておりません。それでは西洋の学問につい
ていけないということで,ここに1720年“洋書解禁”
というのが出てまいります。それから新しくオランダ
人が学問を持ってまいります。
長崎では吉雄耕牛という学者が,科学とか医学とか
を始めますが,吉雄耕牛に習ったのが解体新書につな
がって行きます。解体新書の序文はこの吉雄耕牛が書
いております。
それからしずき志築忠雄という人がおります。彼は語学と
天文学を得意としていて,オランダ人の洋書を翻訳し
天文学を書いております。この人は大変な学者でござ
いました。ただし本人は通詞でしたが“どもり”でし
たので,すぐに通詞をやめてしまったと書いてありま
す。

5.長崎諸役人
この時代に活躍をするのは,長崎には目利というの
がおりまして,全てのものをこれはこういう風に判断
しなさいとか,書物でもキリスト教関係は墨で消すの
です。天文学の書物でも星座のところのキリストの名
前は墨で消して輸入許可するのが目利の仕事でありま
す。目利は80人あまり80職あります。それが全員でい
ろいろな科学的処理もしました。その仕事の中に“御
用”というのが出てくるのです。
御用職というのは,奉行所や幕府役人の御用をする
のですが,この人達に交渉を持っておきますと各藩に
はいろいろな情報が入るのです。例えば火薬などの情
報を各藩が長崎からわけてもらえばよいわけですか
ら,目利職や御用職人をつかまえようとするわけです。
そこで各藩は長崎に蔵屋敷御用達というものを必ず置
いて情報を集めています。
一軒の店がいくつかの殿様の御用を承って蔵屋敷の
役目を引きうけているのです。九州の殿様は全て各藩
蔵屋敷というものを長崎に必ずおいています。山口県,
広島県あたりの大名も長崎へ各藩の蔵屋敷をおいてあ
ります。それより遠い所は,親戚の各藩を頼って,或
いはお店を頼って蔵屋敷を置いていたのです。

6.シーボルトの渡米
そういう中に1823年シーボルトがやって来たので
す。シーボルトが来まして新しいヨーロッパの足音を
聞かせてくれます。これが起点になり洋学が発展し幕
末の動乱期をむかえますと,長崎に海軍伝習所が創立
されます。海軍伝習所に勝海舟が現われて,ポンペが
出てまいります。そのポンペによって学問というもの
は,海軍というものだけではだめなので,もっと科学
的なものの分析がいるんですよ,と云う事が上野彦馬
の学問につながって来るわけです。このとき,海軍伝
習所から科学を勉強する所として,長崎に医学伝習所
をポンペの献言を入れて設立するわけで,これが現代
科学発祥の施設となります。

7.彦馬の父,上野俊之丞のこと
彦馬の父の上野俊之丞というのは,もともとは上野
氏でしたが幸野という家に養子にでています。この幸
野家は御用時計師なのです。御用時計師というのは科
学的なことを全て処理した人達をいい,塩酸,硝酸な
ど全ての材料を化学的につくる技術,或いは腐食の技
術などを持っておりまして,その中に幸野家というの
があったわけです。この幸野家に上野俊之丞というの
が養子に来たのです。
上野というのは絵かきの家なのです。幸野俊之丞は
非常に絵がうまかったそうです。ところでなぜ俊之丞
の長子上野彦馬が写真を写したかといいますと,私は
上野彦馬は父に比較して絵が下手だったと思うので
す。長崎の絵かきは必ず絵像を書かなければならない
のです。そこで彦馬は下手な絵像しか描けないから
もっといい絵像を書くには写真がよいと考えたと思う
のです。このように画家上野家のお父さんが,科学者
幸野家に行き,彦馬もある時代は幸野彦馬といってお
りますが後に再び上野家にかえっています。
当時,俊之丞は科学者として各藩より多く注文をう
けて作った硝煙で儲けました。その金で彼は盛んにオ
ランダからいろいろな科学的な物を買って,オランダ
部屋をつくったのです。新しいタイプの新しい機器が
来ると,幸野は必ずそれを自分で一応御用細工師とし
て目を通すというのが仕事の1つでした。
幸野は島津藩からもお金を貰っていました。島津藩
の兄弟は黒田藩ですからそこからもお金を貰っていま
した。またその縁故で大分の殿様からもお金を貰って
います。と云うように九州全部の大きな大名は,科学
的なものはこの幸野家から手に入れていたと思いま
す。
ここにタゲレオ・タイフというものがやって来たわ
けです。このタゲレオ・タイフが写真の一番始めとな
ります。この時,俊之丞が島津斉彬を写したと書いて
あります。

8.彦馬の出生と勉学
俊之丞の死後,次の時代に,ポンペの所で勉強して
いた堀江鍬次郎(三重県の津藩の士)は始めの医学伝
習所の学生なのですが,後に科学研究所に入ります。
そこで堀江はポンペからはじめて写真術というものを
習います。この助手みたいなものをしていたのが上野
図9我が国最初の造船所長崎製鉄所
彦馬なのです。
上野彦馬がはじめてここで習ったのは写真技術です
が,化学の製品,薬品のつくり方も習っています。塩
酸はこうしてつくるのだとか,銀貨を溶かして硝酸銀
をつくるのだとか,いわゆる化学を勉強しています。
上野彦馬が一番始めに書いた本は“舎密局必携”です。
これは化学書として書いております。はじめ上野彦馬
は化学者としてやっていたわけです。
ちょうどその頃長崎では本木昌造という人が,外国
の文化に遅れているのは日本が木版で本を作っている
からだめなのだ,洋式の印刷術に早くしなければいけ
ないということで,オランダ通詞の立場を利用して印
刷術の導入をはかったのです。
印刷機が入って来ますと,本木昌造が一番はじめに
つくった本は“シンタツクス”という文法書です。語
学を勉強するには文法を教えなければいけないという
のが本人の言い分なのです。それでオランダ文法書を
出版したのです。現在長崎にも当時印刷したものが
残っています。

9.上野撮影局の開始
上野彦馬は文久2年の1862年に上野撮影局というの
をおこします。ここに始めて日本に専門写真家という
ものが出てまいります。この時はまだ湿版でございま
すから種板がぬれているうちに写さねばなりません。
その時の値段がわかっておりまして,写真代が二分
といっております。二分といいますとちょっと高い値
段でして,今のお金で3万から4万円位になると思い
61ます。とにかく高いのであまり客が来ませんが,一番
始めに名前が残っているのは高杉晋作です。
慶応になりますと,ガラス版で写真を撮ったら百匹
だと書いてあります。紙ですと三分で,もう値上げし
たのですね。こういう値段で慶応3年に写真をうつし
ております。

10.金星観測と彦馬
彦馬を有名にしたのは明治7年に始めて金星観測の
写真を撮ったのです。金星観測は当時望遠レンズがま
だ発達しておりませんが,彦馬の写真は金星が確かに
豆つぶみたいなものですが,あることはあるのですが,
これは失敗だと彦馬がいっております。とにかく金星
を写真で撮ろうとした意欲で行っております。
この他に彦馬は外国の地理学を応用して長崎港を解
析数学的にとらえ,長崎港真形図というのを銅版画で
発行しています。このように彦馬は実用的なものとし
図10上野彦馬撮影グラバー邸(重文)
て写真を使いはじめております。

11.明治10年,熊本戦争への従軍
明治10年の西南戦争が起きました時に,北島秀友と
いう県令(県知事)が彦馬に西南戦争の写真を撮って
こいと命令するのです。北島県令が彦馬にこの時3つ
の事をいっています。いかに官軍が戦っているか,敵
をやっつけているか実況を写しなさいというのが1
つ。2つ目は敵がどこにいるか発見し,陣地がどこに
あるか,という戦う写真をきちんと撮って来ること。
第3は写真によって攻撃目標が持つ戦略的なものを考
えなさいと彦馬に命じております。
彦馬は早速出かけて行きます。2人の弟子と8人の
人夫を連れて行って,207枚の写真を撮ってきていま
す。この現物は全部は残っておりませんが,約2百枚
か残っております。その時の勘定で県知事と喧嘩もし
ております。
上野彦馬が出した勘定は595円という,当時校長先生
の給料が25円か20円たらずの時に,595円請求してい
る。あまりに高いのではないかというのに彦馬は譲ら
ないのです。彦馬はその頃が一番の全盛期であったと
いわれております。

12.新しい技術への挑戦(事業家としての彦馬)
彦馬の写真は実用的な写真というので,彦馬の写真
の中には人物本位のものが多いのですが,彦馬自身が
言っていますのは,「下岡蓮杖は面白くおかしく見せる
様な写真である,下岡蓮杖は写真屋であるけれども自
分は写真屋ではなく,写真士だ」といっております。
下岡蓮杖は面白おかしく日本の風景などを撮っていれ
ばいいが,自分は人間の心を写さなければいけないと
いうのを非常に強調しております。
全盛期の明治17年に彦馬は外国人からは2倍とって
よいと考え,それで写真は小板が1枚1円,中版が2
円,4つ切が5円,全紙が10円,そして彦馬の所得は
1年間に1万5千円あったといいます。大変な収入で
す。そして彼は,日本の国内において自分の写真は国
のためにお役に立てないようではいけないというの
で,ウラジオストックに乗り込んでウラジオの写真を
全部撮って帰っています。
彦馬はこのように,自分の国と自分の写真と実技と
そして写真士であるという自負で一生を終ったと思い
ます。
彦馬の兄弟とその一族は,現在東京に産業能率大学
理事長の上野一郎先生がおられます。その上野先生の
所に一番資料があると思います。

平成2年11月8日,長崎市出島会館で行われた秋季
学術講演会の録音をもとに誌上再録したものです。活
字への再現に際しての編集・構成は講演会担当委員が
行いました。(渡辺誠)


https://www.youtube.com/watch?v=PSzcLKQ240U