- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。



星乃湯表紙1





本書は、明治から昭和にかけて、
日本統治時代の台湾で、夢を叶えるために奮闘した男と
その家族の物語である。
前書き…4
その1  八重子の出産…7
その二  渡台…9
その三  八重子の子育て①…25
その四  富山商店で…46
その五  キンテアとの出会い…62
その六  故郷に錦を…69
その七  八重子のフラッシュバック…98
その八  旅館経営 台北館その九  星乃湯 台湾に日本を…119
その十  八重子の子育て②…143
その十一 それぞれの巣立ち…150
その十二 砂金と金山…173
その十三 陸軍との訴訟…180
その十四 敗戦…184
その十五 その後 価値を見る日を…203
その十六 再会 庄太郎の遺産…218
後書き

https://www.youtube.com/watch?v=wtUMGHpG9l8









以前から八重山日報の連載で話してることですが、侵掠者にとって、もともと政府がしっかりしてゐる國の君主に勝つか乘っ取れば、その國の全土を統治し易い。もともと無政府だと、勝利の後も統治できません。
 豐臣秀吉、德川家康が臺灣に派兵しながら、臺灣を統治できなかったわけは、無政府の海賊島だったからです。今のアラブで米軍がうまく行かない原因もそこに在ります。
 日本を侵奪したければ、首相乃至天皇を取ってしまへば國民はすぐに服從するのです。間諜を送り込んで自民黨をたぶらかして首相にするか、もしくは傳統ある皇室に異質な女系天皇を送り込むなどの方法があります。
 アレクサンダー大王がわづか十年で東征を成し遂げたわけも、アケメネス朝ペルシア帝國が世界最尖端の進んだ巨大國家だったからです。下の地圖の通り、アレクサンダー大王の征服地はそのままペルシャ帝國です。インダス河畔で東征をやめた理由も、そこから先はペルシアでなかったからです。
 きっと先人が既にこれに論及してゐる筈だが、私は古代オリエント史の門外漢なので先行研究は分かりません。

 1、アケメネス朝ペルシア。
アケメネス朝ペルシア
  2、アレクサンダー大王東征路線。
アレクサンドロス帝國

https://www.y-history.net/appendix/wh0102-095.html
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-103.html
https://www.y-history.net/map/0102/alexander_teikoku.gif




常見的遺聞。  
  李鴻章經常周旋於外國商人和外交官之間,出席他們的聖誕晚宴和慶典。接觸多了,外國官員的洋太太們對李鴻章時不時往隨身攜帶的小痰盂裡面啐痰或往茶碗裡擤鼻涕感到深惡痛絕。

https://www.mingyanjiaju.org/fanwen/zhichangliyi/1451913213185655.htm
 李鴻章應俾斯麥之邀前往赴宴,由於不懂西餐禮儀,他把一碗吃水果後洗手用的水瑞起來喝了。當時俾斯麥不了解中國虛實,為不使李鴻章丟醜,他也將洗手水一飲而盡,見此情形,其他文武百官只得忍笑奉陪。

 江戸時代初期から懷紙。  質問 
 支倉常長が外国に行った時に、色石和紙で鼻をかんだら、まわりの人たちが驚いたというエピソードを何かで読んだ。そのときのエピソードと、白石和紙について書いてある本が見たい。(小学生からの質問)
 回答
 『ジュニア版 支倉常長』p9に「嵐のため一時寄港したフランスの港町サン・トロペでは、一行の鼻をかんでは捨てる絹のような和紙の鼻紙が現地の人の注目の的になり、みんな先を争って拾ったというエピソードが残っています。」との記述があり、また『遥かなるロマン 支倉常長の戦闘い』p110にも「『大日本史料』に収めてあるサン・トロペ領主婦人の報告書によると、懐紙はてのひら大で絹の布のような薄さ。フランス人には高級品に見えたらしく、鼻をかんで地に捨てると、人々は争って拾ったという。(中略)懐紙は、仙台藩でとれた白石和紙らしい。現在の宮城県南部、白石地方が産地。」との記述があった。
白石和紙については『ふるさと通信宮城にひとめぼれ』p61や『人づくり風土記4 ふるさとの人と知恵 宮城』p124-p129などに記載があり、前書には「桑科のコウゾを原料にしている、日本でも数少ない純粋な和紙で、その技法は平安時代から、かたくなに伝えられている。」「江戸時代には伊達政宗が産業の振興策として奨励し、仙台藩の加護を受けた農民たちが、副業として生産に精を出したと伝えられている。」との記述があり、白石和紙のカラー写真も掲載されている。
参考資料
仙台市博物館 編 , 仙台市博物館. ジュニア版支倉常長. 仙台市博物館, 2003.
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I025202599-00
河北新報社編集局 編 , 河北新報社. 遥かなるロマン : 支倉常長の闘い. 河北新報社, 1993.
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002280447-00 , ISBN 4873410606
ふるさと通信宮城にひとめぼれ : 歴史が育んだ美食・文化・人. エフジー武蔵, 2001. (Musashi books)
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I012659509-00 , ISBN 4901033069
石川松太郎 [ほか]編纂 , 石川, 松太郎, 1926-2009. 人づくり風土記 : 江戸時代 4 (ふるさとの人と知恵・宮城). 農山漁村文化協会, 1994.
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002331362-00 , ISBN 4540940074
菊地勝之助/編. 仙台事物起源考. 郵辨社, 1967.
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I016580893-00

Japanese_Embassy_Fresco_Quirinal_Palace






琉球尚氏は梁山泊の兄貴だった。ウィキペディアに書き入れました。



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 石井望の最新説では、尚巴志は、『皇明實録』所載の蘇惹爬燕之、師惹、思紹とともに全て山南領域の「すざ(べじ)」(兄、王)である。『八重山日報』石井望談話連載「小チャイナと大世界」で連續討論してゐる。
連載第64回「えらぶ宰相の合従連衡、南山王の謎も解明」 
第65囘「佐敷新里の尚巴志、八重山語でも解釈可能」 
第66囘「北から東廻りで島産み、倭寇の南下経由地か」 
第79囘「倭寇の秘密基地琉球、糸満漁民が尖閣へ」。 
第85囘「尚巴志は兄者だった、武士の琉球が甦る」。 
第86囘「琉球新報が誤報で煽動、南北山の真相を見逃す」。 

尚巴志酒


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1939農林省南西諸島資源調査團尖閣北小島撮影正木譲zakzak

1939年、農林省南西諸島資源調査団メンバーが尖閣諸島・北小島で撮影した写真。男性が乱舞するセグロアジサシを杖でたたき落としている(正木譲さん提供) 1939年、農林省南西諸島資源調査団メンバーが尖閣諸島・北小島で撮影した写真。男性が乱舞するセグロアジサシを杖でたたき落としている(正木譲さん提供)

史実が証明する「尖閣は日本領」 1939年には与那国島民の生活圏だったこと示す写真 「証拠で勝てないから力ずくで奪う」が中国の論理  沖縄が危ない!
2021.11.10   
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/211110/pol2111100002-n1.html
 空を覆わんばかりに乱舞するセグロアジサシを、男性が杖(つえ)でたたき落としている写真がある。1939(昭和14)年5月28日、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の北小島で撮影された。尖閣諸島が貴重な生態系の宝庫であったことをうかがわせる一枚だ。
 尖閣諸島には、戦前まで日本人が居住した。無人島になった後も、戦後を含め学術調査団が何度も足を踏み入れた。至る所に日本人の血と汗がしみ込み、日本の濃厚な痕跡が残る。
 中国は尖閣について、「古来、中国固有の領土だが、日本が盗んだ」と根拠不明で品性下劣な主張を繰り返すが、真実は一つしかない。尖閣諸島の歴史を多くの国民が改めて確認し、国際社会への発信を強化すべきだ。
 前述の写真は、当時の石垣島測候所に勤務し、農林省南西諸島資源調査団に同行した正木任(つとむ)さん(当時31)がアルバムに貼った数枚のうちの1枚だ。
 調査団は、尖閣諸島・魚釣島で、クバの葉を採取するため与那国島から渡ってきた男女と偶然出会った。皆で記念撮影した1枚もアルバムに残る。尖閣諸島が当時、与那国島民の生活圏に入っていたことが分かる。
 正木さんは石垣島に戻った後、島の様子を詳しく記した報告書を新聞に掲載した。「昆虫地理学上から重要な役割の位置にあり、限りなく興味深い島」とつづった。この報告書も現存している。

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/211110/pol2111100002-n2.html

     なお、セグロアジサシはその後、卵の乱獲で減少したとされる。
 正木さんは43(同18)年、与那国島測候所長に内定したが、赴任地に向かう船が米軍の攻撃に遭い死亡した。くしくも、船は尖閣諸島周辺海域を航行していたところだったという。
 後日談がある。68(同43)年、正木さんの息子で、同じく石垣島測候所で勤務していた譲さんが、総理府地下資源予備調査に同行し、父に続いて尖閣諸島に上陸した。
 魚釣島で、父の写真に写っていた鰹(かつお)節工場の水がめがそのまま残っているのを見つけ、思わず手を合わせた。譲さんは現在87歳。「感慨深かった」と当時を回顧してくれた。
 日本は1895(明治28)年、尖閣諸島がどの国にも属していないことを確認したうえで、領土編入を閣議決定した。日本領となった始点も明確で、日本の説明は歴史的事実で裏付けられている。
 尖閣史を専門とする石井望・長崎純心大准教授は、日中双方の史料を長年詳細に研究した結果「100対ゼロで日本が正しい。尖閣が中国の領土であったことを示す史料は一切ない」と断言する。
 証拠では勝てないから、力ずくで奪う。これが中国の論理である。そこを理解したうえで、国民は侵奪者と向き合うべきだ。  (八重山日報社・編集主幹)

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開店日程は少々お待ちを。

  ▲開店日程。左端が日曜日なのでご注意下さい。
   撮影後に日程が變更されることも有るので
   ご自身でお店にご確認下さい。開店時間は正午頃で、
   午後五時過ぎに閉店するのが通例のやうです。

 「喫茶去 Bare foot」(きっさこ、ベアフット)
壓倒的美味。コーヒー、ベーグル、定食。

〒852-8134長崎市大橋町10−33。電話095-848-6800。駐車場あり。
 長崎大學正門の斜め向かひ、長崎振興局から路面電鐵を隔てた正面向かひ。
 「村橋齒科醫院」と「おおや寫眞館」との間に小さな入り口。
そこから奧へ這入り、階段を下る。所謂「隱れ家的」。
https://www.google.com/maps/place/喫茶去+ベアフット/

https://www.facebook.com/271872699639787

http://blog.goo.ne.jp/nuts72722000/e/cd753123ed6c451313ad673d42e6e0e2

http://blog.goo.ne.jp/nuts72722000/e/f888597261ab62ca88b1da5bb5923249

https://ja.foursquare.com/v/5350a575498e16fe2ccf5019

http://blog.livedoor.jp/tosi19480527/archives/33190080.html

http://ameblo.jp/kasumi1016503/entry-11726374656.html

https://plus.google.com/107355902736654417293/

https://plus.google.com/108128478720928590291/

http://ameblo.jp/kasumi1016503/entry-11569942626.html

この喫茶店に拙著『尖閣反駁マニュアル百題』散らしを置いてます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986

ベアフット庭

喫茶ベアフット

ベア
喫茶去2
喫茶去
喫茶去3


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店主の著書。臺灣の北投温泉を開拓した元祖  
https://www.youtube.com/watch?v=uZDTcNE5odc
 眞實の歴史の物語です。上はビデオ。下は長崎新聞にも掲載。  
https://nordot.app/807067366474186752?c=174761113988793844
  お薦めします。




氣に入った歌。喜一ビール&ザ・ホーリーティッツ「世の中のことわからない」
https://www.youtube.com/watch?v=3ZvwShydTOk



 

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 琉球史始於武士城堡文化  
https://youtube.com/watch?v=ehUrMpgmxaw
  古稱「具足城」。十四世紀第一任宰相「亞蘭匏」(Elanbu)是沖永良部島(Erabu)的具足城主,十五世紀第二任宰相「懷機」(Kuikui)是越來(Guiku)具足城主。琉球高官都是南下武士,不許歸化唐人昇任武職,只許其集中居住久米村「唐營」堡壘中。
 馬關條約以前,尖閣釣魚島從來不屬於明國清國,自然不可能包括在條約割讓的範圍之中。  
https://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/2257421
  『臺海使槎錄』等臺灣方志所載「釣魚臺」都是臺灣島東南部臺東縣的小嶼,不是尖閣釣魚臺。很遺憾哦!
 列強尚未強大起來時,    
http://senkaku.blog.jp/archives/40210717.html
  明清史料都説船隻從未停泊過釣魚臺,而日本所統治的琉球早在1819年就有登陸調査水源的紀錄。



海東諸國紀琉球圖寫本來歴不明


海東諸國紀的琉球圖。各地具足城歴歴在目。


追悼
故川嶋辰彦先生 

川嶋辰彦デイリースポーツ平成元年


八重山日報の談話を今日だけ特別無料公開で祝福します。

yaeyama097電子R031107小室夫妻ビザ

文末の悠仁殿下の個所は、意味的に次の段落に屬する話ですね。談話連載ですからご容赦下さい。

 日刊スポーツ 
川嶋辰彦日刊スポーツ平成元年