- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。



原口一博議員、本日令和四年一月十四日、石垣市尖閣開拓記念式典に出席。 

 私石井望も今日令和四年一月十四日午後、石垣市尖閣開拓記念式典出席を十二月に石垣市にお願ひし、事前に招待状を頂きまして、出席の上で、午前には新史料披露の預定だったのですが、沖繩縣が蔓延防止宣言のため、長崎純心大學で出張を却下されました。殘念です。史料は近日中に公表します。本日の盛典をお祈りします





グロチウスの尖閣 : 八重山日報より
    いしゐ のぞむ  
    人間文化研究 (19), 52-45, 2021-02 
https://ci.nii.ac.jp/naid/40022546022
 令和元年、及びそれ以前にも論及した件。豐臣秀吉がスペインオランダと聯合して、そこからグロチウスの國際法が産まれた。關聯のNHK番組で令和二年、インディアス古文書館の史料が紹介されたらしい。番組をまだ見てないので備忘。

NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~ (1)「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」
 世界各地で「日本の戦国時代」に関する発見が相次ぎ、大航海時代のヨーロッパと日本が強く結びつき、地球規模で歴史を揺るがしていた事実が明らかになってきた。第1集は、織田信長と豊臣秀吉の時代。ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そして背後にいたポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。それぞれの思惑と、しれつな駆け引きを描く。ナビゲーターは西島秀俊さん。
司会    西島秀俊   出演    前川泰之   語り    礒野佑子  
2020年6月28日放送  
 動き出す超大国 アジア征服の野望
 宣教師がスペイン帝国に宛てた機密文書がスペインのインディアス文書館に残されていた。当時明と呼ばれていた中国の征服が最大目標で、日本は有益な存在になるだろうと記されていた。宣教師は日本の軍事力を利用して中国を征服しようとしていたのだった。宣教師は1580年にキリシタン大名から譲り受けた長崎を支配下に置いた。この頃キリスト教は九州を中心に勢力を拡大していた。織田信長と宣教師の関係が緊張してきた頃に信長は部下の裏切りにあって討たれた。宣教師たちは信長の後継者として豊臣秀吉が有力だと考え、キリシタン大名らに豊臣秀吉に味方するよう進言していた。宣教師の狙い通りに豊臣秀吉が勝利し、政権中枢には多くのキリシタン大名が名を連ねることになった。秀吉の時代には日本のキリシタンは30万人を突破した。
キーワード インディアス総合古文書館織田信長豊臣秀吉長崎県
https://datazoo.jp/tv/NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB/1378093

NHKスペシャル戦国激動の世界と日本1秘められた征服織田信長宣教師


http://senkaku.blog.jp/2019092981107468.html
American Society of Comparative Law, Works in Progress Conference, Venue: University of Missouri.
 Registration 50 dollars, deadline 4th October (I hear from the office of the conference), because of lunch.

Ishiwi Nozomu presentation in Panel H, Room 206, 17th October, 2019, 14:15 pm – 16:30 pm  
[Title] 
International Dispute Resolution by China on the Far Westside of the Senkaku Islands 400 Years Ago

[Abstract]   The People’s Republic of China has argued that the Senkaku Islands have been under the jurisdiction of China for several hundred years, to which modern international law cannot be applied retroactively. According to its argument, the history of Senkaku Islands is not associated with modern international law. However, as early as 1604, Hugo Grotius established the international law, which was already relevant to the Senkaku Islands. 
   During the middle 16th century, the Wakou (Japanese pirates) was most active, their attacks on islands extremely close to the mainland caused problems for China; however, by 1580, China developed a concept of defence that reached the furthermost coastal Islands, including Toyu Island (Tang-in, Ta-gen, today's Dongyin in Matsu), Ukyu (Wuchiu) Island, and the Pescadores Islands, that is similar to today's concept of sovereign waters.
   In 1592, the Japanese Imperial Regent Toyotomi Hideyoshi intended to conquer the Spanish Luzon. During the Toyotomi era, ships were sent between Japan and Spanish Luzon to negotiate terms for the mutual trade. Toyotomi's attempt laid the foundation for the Red Seal Ships (shuinsen) trade system.
   In the early 17th century, the Netherlands advanced to the East Indies, the waters were caught in a battle for hegemony between Japan, the Netherlands, Spain, and Portugal. China was put on the defensive in the ocean, it just attempted to fight for sovereignty over the coastal islands along Fukken (Hokkien, Fujian) Province.
   The Dutch admiral Wybrand van Warwijck occupied the Pescadores Islands in 1604. The court of China discussed whether China should allow the Dutch to occupy Toyu Island as the alternative, just as the Portuguese in Macau. China eventually notified the Netherlands of its claimed domain of the coastal sovereign waters.
   Since the authorities of China thought the Dutch and the Spanish were allied, they mistakenly believed that the Dutch had traveled to Japan as the Spanish had. Ukyu Island and Toyu Island had been the outermost areas of Japanese hegemony before this time, located midway between the Pescadores and Japan; hence, the authorities of China thought that Ukyu and Toyu belonged simultaneously to the hegemony of Spain and the Netherlands. 
   Toyu Island was precisely the westernmost entrance to the Ryukyu Senkaku seaway for trading. The Fukken Authority was cautious of offering Toyu Island to the Dutch. The court of China repeatedly discussed whether the accolading ceremony of the Ryukyu Lord should be held in Fukken rather than in Ryukyu. That is because if the royal envoy sailed to Ryukyu, smuggling may occur that would benefit the coalition of Japan, the Netherlands, and Spain, whereby Toyu Island may be acquired as a fixed trading point; a similar event had occurred in Macau.
   It shows that van Warwijck’s advance to the Pescadores Islands triggered the intensive argument about Toyu-Senkaku-Ryukyu seaway. This argument served to clarify that Toyu Island was the forefront zone between Japan and China. In other words, van Warwijck isolated China from the most western entrance of the Senkaku seaway. The Senkaku Islands were located to the far east of Toyu Island, namely, far outside the sovereign waters of China. 
   At that time, Grotius's famous work "De Indis" (On the [East] Indies) proposed the first international principle of the free sovereign seas. He was concerned with the activities of van Warwijck, because some "domains" in the East Indies were preventing Dutch trade. In 21th century, the Oxford University Library discovered the ‘John Selden Map,’ which precisely portrays the whole East Indies region including Senkaku sea area. This should be one of the sources John Selden had collected in order to use it to refute Grotius.
   In 1622, Batavia governor-general issued an instruction to commander of the Formosa expeditionary force, mentioning a place "Tangesan", possibly refers to Tang-in, Toyu, or Ta-gen in the historical materials of the red seal ships. "San" is land or even island. We should proceed from this to continue the investigation. 
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 明國清國の對外的制度に於いて、屬國とは海側の外國を指す。琉球を屬國と呼ぶのも外國と同列である。陸側の諸國とは別扱ひである。海陸の中間の朝鮮と越南だけは、形式上は海外諸國(屬國、通市國、互市國)と同列だが、實質的には半ば陸側の諸國と同じくチャイナに統治された歴史もあった。以上については過去の拙作で幾度か言及したので、研究者はそちらをご覽頂きたい。
 
 從って、朝鮮を屬國と呼ぶ史料は、往往チャイナの外側としての側面を強調してゐる。世間の印象ではチャイナに統治された側面ばかり注目されるが、逆である。
 上記リンクに世間の論述例が多數集められて便利である。

明史朝鮮傳に曰く、
「朝鮮在明、雖稱屬國、而無異域内。故朝貢絡繹、錫賚便蕃、殆不勝書。」
域内はチャイナ國内。便蕃は頻繁(古語)。外側の屬國だが域内と同じだとする。朝鮮側ではこの類の記述を好むが、明國清國側ではあまり多見しない。

《中國與東北亞服飾文化交流研究》
2016年浙江大學出版社 竺小恩、葛曉弘。
第四章「朝鮮」二「明代對朝鮮的賜服」第96頁に、
呉慶元『小華外史』卷五を引いて、
「錫賚便蕃」を「錫賚使蕃」(蕃に使ひする)と誤植してゐる。
https://www.books.com.tw/products/CN11325909
 但し引用元は活字本である。
「小華外史 : 原文和譯對照」青柳綱太郎著
(古書珍書刊行, 第2期 第4輯-第5輯)朝鮮研究會, 1914
 活字本の上册第246頁らしい。
十九世紀の呉慶元『小華外史』原書を繙くと、この引文は卷五でなく卷二の第十七葉、朝鮮宣祖元年戊辰、西暦1568年に引く『明史』であり、便蕃と正しく書いてある。隷書を誤植したのか。
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri06/ri06_04074/ri06_04074_0001/ri06_04074_0001_p0064.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri06/ri06_04074/index.html

小華外史雖稱屬國便蕃


他に「使蕃」と誤植してゐるのが、 
 「淨土宗全書」第20册第268頁、檀林深川靈巖寺志。
http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=J20_0242
 ただこれは寺院志であり、華夷とは無縁の内容なので單なる誤植だらう。


關聯:
「Provincializing Korea: The Construction of the Chinese Empire in the Borderland and the Rise of the Modern Chinese State」
Yuanchong Wang 
 T'oung Pao, 105(1-2), 128-182. doi:
https://www.academia.edu/39770024




RCC 中國放送 

RCC広島城再建工事の貴重映像見つかる


特集 原爆で倒壊 広島城 再建工事の貴重映像見つかる  2022.1.7 17:04
 広島城(広島市)の周辺では、サッカースタジアムがまもなく着工します。そして、天守も被爆前の姿に復元される構想もあります。ことしも注目を集めそうな広島城…。およそ60年前の再建工事を記録した貴重な映像が見つかりました。  広島・廿日市市で木材加工などをしている山崎本社です。創業は大正時代の1921年。去年の末に創業100年となりました。
 「これが、いろんな資料でございますので…。」(山崎本社 林正史会長)
 会長の林正史さんは、100周年のタイミングで、保管していた大量の8ミリフィルムをデジタル化しました。
 「ぼくが小さいころに父親が撮った画像が8mm。非常に傷んでいたのでデジタル化した。今回、特に気になるのが、広島城の築城のときの絵がありましたので。」(林正史会長)
 まず映っていたのは、日めくりカレンダー。昭和33年(1958年)3月16日、この10日後が、再建工事の竣工日でした。
 ― これ、広島城ですね。
 「そうですね。だいぶできあがった状態で、足場がこんなに残っている状態。当時の足場っていうのは、丸太なんですよ。ああいうので組んであったんですけど、『藤田組』って書いてありますね。はい。今の『フジタ』(建設会社)ですよね。」(林正史会長)
 映っていたのは、復元工事中の広島城を北側から見た様子です。足場が組まれている様子がわかります。広島城の向こう側には、まだ高い建物がほとんど見えないこともわかります。看板に書いてある藤田組は、後の大手建設会社フジタのこと。当時、復元工事を請け負っていました。
 「この方がたは、どなたか、正直、よくわからないけど、これ、親父(正樹さん)なんですけど。」
 ― お父さま?
 「はい。たぶん藤田組の方か、同業者だろうと。」(林正史会長)
 映像には、内部の様子も撮影されていました。木造ではなく、鉄筋コンクリートで復元されたため、コンクリートの階段や内装が撮影されていました。
 「内面の壁もコンクリートの上に木を貼るとかね。あと、梁の部分もありますね。要するにこれ(木)は全くデコレーションですね。」(林正史会長)  一瞬、窓の外の風景も…。平屋の建物も見えます。鳥居が見えることから、今のRCCの玄関付近を撮影したものですが、当時は移転前のため建物がありません。そして、最後は一瞬、広島護国神社の様子も…。
 ― 映像はなぜ撮られた?
 「やはり父親として、特に広島城の部分については、たぶんプライドというか、こういう大きな仕事に関わらせていただいたというプライドというか、喜びで撮ったんだろうと。」(山崎本社 林正史会長)  林さんの会社は、父親の代まで広島城の北側のすぐそば、アストラムライン城北駅のあたりにありました。
 「ぼく自身も今、そちらにCOCO’S(ファミリーレストラン)がありますが、ちょうどそのあたりで生まれて育ったんですね。」(林正史会長)
 林さんの会社は、城に最も近い木材店として、広島城の復元に携わっていたのでした。建物が建ち始め、にぎわいを取り戻しつつあるころでした。
 「もう今は見えませんが、二葉山が見えましたので。今はちょっと想像できません。戦後の団塊の世代、なんかそういう悪ガキどもと一緒にこの辺で遊びまわっていて、車もあまりないから安心して遊べていた。」(林正史会長)
 広島城再建から数年後、同じ場所に建て替えた会社の屋上から、父親と見つめた広島の風景を林さんは今でも忘れないと言います。
 「父の頭にあったのは、やっぱり原爆で焼野原になった広島に対して、そういうふうな、まわりの景色がすごく復興してきたなという思いがあったのでは。」(林正史会長)
 広島城は今、木造での建て替えに向けて検討を進めようとしています。林さんは今回の映像を見て興味を持つきっかけにしてほしいと話しています。
 「カープもシンボルですし、原爆ドームもシンボルですけど、やはり歴史ある広島の街のシンボルとしてお城は残してもらいたいと思います。」(山崎本社 林正史会長)
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 広島市公文書館や広島城を管理する団体に話を聞きましたが、築城時の映像は見たことがないということです。広島城は、現在、建物や土台の強度を調査中です。木造復元について検討されますが、その前に三の丸に歴史資料も展示するにぎわい施設整備に向けた検討が行われることになっています。

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八重山日報 廣島大本營。 

八重山日報104彩_廣島城大本營R031226

  上の八重山日報で對馬を忘れてますね。刀伊の入寇、應永の外寇。それにオホーツク文化人も算入すべきかも知れません。
http://senkaku.blog.jp/2019042179638509.html

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  令和壬寅元旦  

千代金 

亞蘭匏島 刀鼓懷機泰久王 

神匠金麻六甲 春千代     

(和訓)亞蘭匏島、硫黄に覇たり。刀は鼓す懷機・泰久王。

神匠、金を嵌す麻六甲。春に逢ふこと千代、深く藏するを歎ず。 

 

亞蘭匏今作永良部。北山王子島。以硫黄豪。得秘劍菜津津三。即刀鼓。言刀聲大。後劍歸中山。而王相懷機。音近魏古。即越來按司。歴年遣使南貨易。登位為尚泰久  

(和訓)亞蘭匏、今、永良部に作る。北山王子、島に主たり。硫黄山を以て豪を致す。秘劍を得、名は菜津津三(なつづみ)なり。即ち刀鼓なり。言ふ刀を鼓して聲の大なるを。後、劍、中山王に歸し、而して王相懷機、音、魏古に近し、即ち越來按司なり。歴年南海に遣使して貨易す。位に登りて尚泰久となる。

 

現代語  

 尚王家の秘劍千代金丸を詠じる。

 亞蘭匏(えらぶ・あらんぽう)の島は硫黄で覇主となった。刀は懷機・泰久王のために打ち鳴らされる。神技の職人がマラッカで金を象嵌したのだらう。毎春毎年、千代にわたり深く藏せられて素晴らしい。

 亞蘭匏は今の永良部である。琉球北山王子が永良部の世の主(君主)となり、隣の硫黄鳥島の利權で富豪となった。永良部世主は菜津津三(なつづみ)といふ寶劍を秘藏したが、なつづみの語源は刀(な)の鼓であり、劍撃の大きな音を言ふ。後にこの劍は琉球中山王に歸した。王の宰相懷機は、字音が魏古(ごえく)に近い。即ち越來(ごえく)按司である。歴年東南アジアに遣使して交易し、王位に登って琉球尚泰久王となった。今の千代金丸は尚泰久王の秘劍として國寶に指定されてゐる。


千代金丸斜



八重山日報20210725-84貼徳之島出土サーベル琉球大航海遺物

  德之島 天叢雲劍。 

https://www.youtube.com/watch?v=zhANpq3AY14



 




細野豪志  
 沖縄の世論が自衛隊より中国人民解放軍の方が信頼できるということなら沖縄の防衛は難しい。しかし、多くの沖縄の人たちはそうは思っていないと私は考える。

尖閣史いしゐのぞむ  
 ちょっとまって。それ主權放棄宣言になってますよ。日本國の主權は、國民がどう思ふかでは定まってません。社會契約論は皇國に適用されず。憲法にもそんなこと書いてません。まづ沖繩が日本であることを、悠久の歴史で確認して下さい。私の研究がありますので必讀。
 もしかして主權在民のつもりですか。つまり國民投票次第で「日本國をやめます」とか可能だと。ところが天皇の地位は國民の總意で定まると書いてあって、總意の確認方法は無い。つまり自明にして永遠なので、投票とかでは犯せませんよ。
 それと憲法前文の主權が國民に存する、これも主權が自明であって、主權を「どう思ふ」で變更する規定ではありませんから、念のため。
 念のためもう一つ。日本の領土がどこからどこまでか、憲法では定められてません。領土を自明とするのが主權です。改憲しても領土變更はできません。

内閣官房尖閣巨文島





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 チンギスカン。
成吉思汗

新井白石『蝦夷志』
俗尤敬神、而不設祠壇。其飲食所祭者、源廷尉義經也。
東部有廷尉居止之墟。土人最好勇、夷中皆畏之。
 (奴兒干部門戸之神、似此間畫廷尉像者。) 

 俗尤も神を敬うも、而も祠壇を設けず、其の飲食に祭る所の者は、源の廷尉義経なり。東部に廷尉居止の墟有り、士人最も勇を好み、夷中皆な之れを畏る。 
(夷俗は凡そ飲食には乃ち之れを祝いて「オキクルミ」と曰う。之れを問えば則ち判官なりと曰う。判官は蓋し其の謂わゆる「オキクルミ」か、夷中廷尉と称する所の言なり。廷尉居止の地名を「ハイ」と曰い、夷中称する所の「ハイクル」は即ち其の地方の人なり。西部の地名にも亦た弁慶崎なる者有り。或は伝う、廷尉此より去つて北海を踰えたりと云う。寛永間、越前国新保の人漂いて韃靼の地に至る。是の年癸未、清主乃ち其の人を率いて燕京に入り、居ること歳余、勅して朝鮮をして送致して還らしむ。其の人曰く、奴兎干部の門戸の神は、此れ間々廷尉の像を画きし者に似たりと。亦た以て異聞と為す可し。)

兔でなく、奴兒干(ぬる燗)です。樺太北部の對岸。



https://www.digital.archives.go.jp/file/1239892.html



蝦夷志新井白石内閣文庫178-97寫本義經奴兒干





中華人民共和國官方承認維吾爾集中營是培訓中心。
此視頻中可以看培訓中心是什麼樣子。


 6:00 門牌標作職業教育中心、農牧民培訓學校,鐵絲網圍起來。
 14:30 爬越的鏡頭成為新聞。  
衛星地點大致符合。這是證據鏈之一。最終還是要看你關了哪些人。
反駁者見下: 
https://www.youtube.com/watch?v=Ro9kyS-NgAY



ウイグル強制收容所。監獄と區別がつきにくいけど、6:00から、鐵條網で圍まれた「職業教育中心」「農牧民培訓學校」は明らかに監獄ではありません。14:30からがニュースになってた部分です。