- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。


 新石器舊石器といふ區分はユーラシア西部を基準としてゐて、繩文陶器(土器)文明に對應しない。同じく國民國家といふ言葉も歐洲を基準として産まれた現代語である。中世的な諸侯割據から、ほぼ民族ごとに國王を戴く王政を經て、民主制に至って國民國家ネーションステートが完成するのが標準的定義であるらしい。
http://www.y-history.net/appendix/wh1201-026_1.html
 歐洲に於ける諸侯割據の歴史が前提となってゐる。但し民主制の成熟しなかったイタリアとドイツは、西暦十九世紀後半から國王を戴きながらも國民國家の一種とされる。英佛が先に近代統一的な國家となり、世界二大強國となったため、獨伊は焦ってゐたのである。
 恰も獨伊と同時期に明治日本も近代化した。國民國家の進展を言ふならば、獨伊とともに日本を同列に論じるのが正しい。左翼論者は日本だけが絶對王政だとか牽強してゐるらしいが誤りだ。 
 獨伊は西暦十九世紀前半まで諸侯が割據してゐたが、日本は天皇と將軍のもとで諸侯の權限はさほど大きからず、ほぼ近代國家に近づきつつあった。日本が獨伊と同じ状態だったのは室町戰國時代である。中世歐洲は教皇の緩やかな權威のもとで諸侯割據してゐたが、中世日本は天皇の緩やかな權威のもとで諸侯割據した。その差は、歐洲多民族と日本單一民族とに在る。
 日本は東日本繩文人古モンゴロイド神別のもとに、數千年前に西日本繩文人新モンゴロイドO1b2皇別が融合し、國讓りと呼ばれる。兩者の融合は繩文時代中に當るので、融合後は單一民族と呼んで良いだらう。そこに古墳時代、百濟等から歸化したO2の人々は、O1b2に近い新モンゴロイドなので區別しにくく、諸蕃と呼ばれるものの、ほぼ單一民族中に融合してしまった。
 中世に至り、アイヌだけが外來民族として日本の單一性に加はった異民族である。言語も大和言葉ではない。しかしアイヌもまたDNA遺傳子では東日本繩文人にほぼ融合してしまった。
 つまり、日本は國民國家的な樣相を繩文文明期に既に形成してゐた。世界最尖端である。

戴冠式ビスマルク

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蓮舫議員(れんぽう)、箱根駅伝の沿道応援疑惑を釈明「宿の前でソーシャルディスタンスを保ちながら拍手での応援」
https://forest-life-japan.com/2022/01/03/

この記事は正しい。姓は謝、名は蓮舫だとすれば、蓮と舫とは連音となる。れんはうでなく、れんぱうが正しい。日本國籍を保持してゐるならば、戸籍は漢字だけで書かれ、讀音は法的に規定されない。よって正しい國語で讀むべきである。聯邦(れんぱう)と同音となる。「れんはう」と讀むのは自己申告に過ぎず、戸籍には規定されてゐない。本人の希望の通りに讀むべきか否かは、法的には人格權のやうなものだらう。その種の法律について私は何も知らないので何とも言へない。ただ「れんぱう」が違法とされない限りは「れんぱう」が正しい。逮捕起訴されない限り「れんぱう」と讀むべきだ。

箱根驛傳蓮舫青山



小川英文 2000c 「狩猟採集民」、「ナショナリズム」、「文明」 安齋正人編『用語解説 現代考古学の方法と理論III』: 131-141, 187-198, 227-234, 同成社
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kidlat/gyouseki/Nationalism%20in%20Archaeologydoc.htm
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kidlat/RecentActivities/GakkaiHapyou.htm
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kidlat/
 ナショナリズムのコンテクストのなかで歴史や伝統は国家という時空間において社会的に構築される。吉野ヶ里遺跡や三内丸山遺跡など「地方」の遺跡の発見が、日本全体の「輝ける、栄光の過去」(中川1996)として表象されるのは、一定の政治的意図として解釈できる。「地方文化」は国家に承認されるかたちで、公的な文化や歴史に組み込まれ、新たな国民国家の歴史として社会的に構築される。日本の政治的中心から比較的「周辺」に位置する両遺跡が「地方」の人びとによって「歴史の発見」として見出されるときには地方の文化アイデンティティ形成に寄与する。しかし、国家的なナショナリズムの政治的意図のもとで公的に承認された時点で、「地方」の歴史と文化は、国境で区切られた国家空間全体にまで押し広げられ、社会的に構築された「縄文文明」「稲作文化」という公的歴史観の先進性のなかに呑み込まれていく。

 ↑これ前提は日本古代に國家的な樣相が存在しなかったといふ前提。
日本全体の「輝ける、栄光の過去」が存在しなかったといふ前提。
古代日本が國民國家ではなかったといふ前提。
構築構築と言ってゐるのは、捏造と言ひたい處を少し遠慮したのだらう。
しかし、繩文文明が千島から八重山まで覆ひ盡くしてゐたことは
八重山日報及び本ブログで繰り返し書いた通りである。
對馬・稚内といふ近距離の海峽が境界線となってゐたことも先行研究がある。
近距離なのに文化的(言語的)境界線を形成し得たのは
繩文覇權といふ自衞的な武の文明の存在を想定しないと解し得ない。 
つまり原始國家的なる樣相が存在した。
神話にも國讓りとあるではないか。國が無ければ讓り得ない。
自分の分野で未解明のものは全部無と決めつけたいのが研究者の習性である。
小川氏がこれを書いた平成十二年の時點では千島八重山の繩文考古學は
ほとんど未着手の状態だったのに、未着手の部分を勝手に何も無かったと
決めつけるから、二十二年後に前提が全部潰え去って、方針轉換を迫られる。
改むるを憚る人ではないと期待したい。

用語解説現代考古学の方法と理論


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中世の山城は山頂附近を圍む渦巻状に築く。近世にも承け繼がれた。
石原氏追悼記事。
 建設中だった都営地下鉄12号線の正式名称を決める選考委員会が、一般から募集した案を基に「東京環状線」と決めたことが気に入らないという。12号線はJR山手線のような完全な環状ではなく「6」の字形。「なんでこれが『環状線』なんだ」と語気を強めつつ、石原さんは自分の意中の名前をこっそり教えてくれた。それが今の「大江戸線」である。

 さういへば大江戸線は外堀の外側を圍んで且つ六の字まで渦巻状ではないか。外堀通りに沿って外側に附設すれば必然的にさうなったわけだ。設計者は當然江戸城外郭を意識しただらうし、それを新任の石原氏も聞いてゐたのだらうか。大江戸線の命名は今に至るまで親しまれるヒット作となった。追悼。


江戸外堀

大江戸線










八重山日報談話連載(有料)でたびたび言及してゐるが、新モンゴロイドの「O1b2」父系Y染色體は西日本繩文人と呼ぶべきである。何故なら彌生時代開始よりも遙かに前に分岐したDNAだから。ブログでも以下諸リンク(無料)で言及した。
http://senkaku.blog.jp/search?q=O1b2

 O1b2西日本繩文人は、日本以外では雲南、ベトナム、インドネシアに分布する。中間のフィリピン、臺灣、福建などに分布しない。きっと數千年前に陸稻を攜へて一村の人が船で日本に渡來したのだらう。雲南からメコン河を下って越南へ。一部分がインドネシアにも渡った。

 そこで、納豆だ。納豆の原郷は雲南だとされる。
 中尾佐助。
 横山智。
納豆メコン河名古屋大學横山




 納豆は一般的に藁苞(わらづと)に豆。藁は稻。つまり繩文時代に陸稻とともに日本にもたらされたのが納豆ではないか。繩文納豆説は有力。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO30208400Y8A500C1000000/


八重山日報20211017彩色-94皇統y染色體



尖閣史料について殘念な文章を昨日見つけた。  

「釣魚嶼」が描かれた「琉球図」とその系統―明代史料『広輿図』を手がかりに(上)
青山治世  Vol. 74 No. 7  中国研究月報  2020年
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/7409

「釣魚嶼」が描かれた「琉球図」とその系統―明代史料『広輿図』を手がかりに(下)
青山治世  Vol. 74 No. 8   中国研究月報  2020年  
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/7418

いかにも新しい研究であるかのやうな書きぶりだが、新しさはほとんど無く、根據薄弱の臆説が多い。ご自身の評價を下げる結果にならないかと心配だ。以下に評しておく。

1、『廣輿圖』の琉球圖が鄭若曾の手に成ることは既知である。

2、『廣輿圖』の成書年も既知であり、『廣輿圖』に遡るかどうかは年代としては新説ではない。

3、(詳しく)
 鄭若曾の琉球圖が鄭氏『琉球圖説』系と胡松『廣輿圖』系との二系列に分かれ、王氏『三才圖會』が『廣輿圖』系に屬すると青山氏は主張してゐるが、そもそも現存の鄭氏『琉球圖説』系は康煕以後なので、萬暦中の『三才圖會』の時に二系列が存在した證據は全く無い。
 現存の鄭氏『琉球圖説』系の特徴を青山氏がまとめてゐるが、通常の感じ方からすれば、康煕中の鄭氏『琉球圖説』系は太平山及び宮壁を簡略化して描いてゐるに過ぎない。青山氏が萬暦までの古本を見ずに、萬暦までに既に簡略に描かれてゐたと臆斷するのは功を急ぎ過ぎだらう。
 青山氏が『三才圖會』を『廣輿圖』系列に分類したり、『三才圖圖』が『廣輿圖』から琉球圖を取ったとか主張するには、更に古本を見つける必要がある。今のところ根據薄弱の假説に過ぎない。そもそも他日その假説が證明されたとしても、どれほどの價値があるだらうか。

4、二系列の内、釣魚嶼から沖繩までの遠近を青山氏は議論してゐるが、小琉球の遠近に言及しない。小琉球の遠近の結果として航路途中の釣魚嶼の遠近が産まれる。

5、(詳しく)
私のブログに書いた『椿説弓張月』についてだが、
https://archive.fo/6Vy64
https://archive.fo/10Y7X
http://senkaku.blog.jp/archives/12663631.html
http://senkaku.blog.jp/archives/12494808.html
 保存してなかったので先程保存した。(但しツイッターやフェイスブックで年月日は確認できる)。
 ブログで『和漢三才圖會』にいしゐが氣づかなかったと青山氏は斷じてゐるが、單にいしゐが言及しなかったと訂正して欲しいものだ。『椿説弓張月』が二か所で『和漢三才圖會』に言及してゐることは、ブログのリンクの通りに氣づいてゐるのだが、私は全く重視しなかったのである。
 『椿説弓張月』では著者自身が『和漢三才圖會』を使ったとは明記されてゐなくて、「出でたり」「書きたり」としてやや距離を置く記述をしてゐる。そして「舊説新説」とも呼んでゐて、『和漢三才圖會』に限らず舊説は存在するかの如くである。
 一例として水滸後傳について、八重山日報談話連載「小チャイナと大世界」第四十八囘(令和二年十月二十五日)で言及したので、掲載日は青山氏よりも後だが、見て欲しい。
 我々の習性として、引書名が掲載されてゐる場合、そのまま信頼せず、中身を見る。中身を見ると確かに『和漢三才圖會』との共通點が見られる。さう確認することにしか私の關心は無いので、『椿説弓張月』に『和漢三才圖會』の名が注記されてゐることは私にとって全く重要ではなかったのである。氏の性急な議論はあたかも意圖して私を低く評するかの如くで殘念だ。
 なほ、尖閣史を議論するなら有料の八重山日報は必讀だらう。鄙説は八重山日報に始出するものが多いが、青山氏は一度も八重山日報に言及しない。また、『椿説弓張月』には下の文章でも論及したが、青山氏は讀んでゐないのだらうか。

長崎純心大學言語文化センター研究紀要第四號(平成27年)第六十二頁「尖閣胡馬島日清往復公文詳解竝雜録」。
https://id.ndl.go.jp/bib/027091700

明治26年、尖閣渡航に異議なし―――日清往復公文の共通認識  平成二十七年 島嶼研究ジャーナル  いしゐのぞむ 
http://www.naigai-group.co.jp/_2015/04/post-41.html

いしゐのぞむ「琉球尖閣近著雜録」、『純心人文研究』21、平成 27 年。
https://ci.nii.ac.jp/naid/40020360401
 この純心紀要をいま見直すと、『椿説弓張月』から『和漢三才圖會』の名の注記を引いてゐる。青山氏は讀まずにブログだけに頼って、「氣づいてゐない」としてゐる。インターネット世代の人なのだらう。私の諸研究は二百年後に評價が定まるので、青山氏に高く評價してもらふ必要も無い。私を高く評價しても誰の得にもならないからそれで良い。

6、『三才圖會』の「琉球國圖」が『廣輿圖』に遡ることを私が看過してゐて殘念だと青山氏は述べるが、遡るとは、系列か年代か。年代としては既知なので私は關心が無い。系列としては青山氏の二系列假説を私が先に思ひつく義理もない。私はその假説を認めるつもりも無い。後から殘念だとか看過してゐるとか評されても困る。
 また、歴史的な意義や重要性を看過してゐるといふのは私の主觀についてであるから、大きなお世話である。私は昨日青山氏の文章を見た後も、研究上で『廣輿圖』の重要性をさほど認めない。政治的主張として重要性を認めろといふ話ならば、それもお斷わりする。政治的にもさほど重要ではない。

7、『廣輿圖』の福建に尖閣が無くて琉球に尖閣があるのは、綜合的には意義あることで、それは陳侃以來一貫してゐる。チャイナ本土の地理の記述の中に尖閣は史上一度も存在せず、琉球附屬的な島嶼の記述には尖閣が多い。その早期の一例として『廣輿圖』には意義があるが、黎蝸藤氏も先に言及したので、青山氏の新しさは無い。また、チャイナ主張は尖閣が福建本土に屬するのでなく、臺灣に屬するのだから、政治的にも『廣輿圖』の意義は大きくない。況や『廣輿圖』の琉球圖には福建の梅花所が含まれてゐるのだから、益々意義は小さい。地圖中に釣魚嶼が出現したといふ基準ならば『日本一鑑』の方が早い。

8、青山氏曰く、
「釣魚嶼」が描かれた「琉球図」「琉球国図」として唯一現存する明代の文献は,明代後期に編纂された『広輿図』所載の「琉球図」のみであり,その歴史的意義は軽視できない、
と。しかし勿論唯一ではない。何を言ひたいのか意味不明である。或は青山氏は當初この認識であって、次第に諸書に覽及して慌てて論旨を大きく變へて行ったのではないか。

9、『廣輿圖』は「密集縮地」の圖法だから不精確で良いかのやうに青山氏は述べるが、そもそも「密集縮地」なる名稱は現代人が命名したのであって、要は測地的でなく中世繪畫的なのである。チャイナ製圖は測地的な技法にまで水準が高まらず、康煕末年に宣教師に製圖を依頼した。中世繪畫手法の獨自の文化的價値は否定しないが、それは價値觀の問題に過ぎない。

10、『廣輿考』は稀覯であり、その琉球圖に言及したのは確かに青山氏だけかも知れない。ただ、この種の類似史料は多いので、意義の大きさはどうだらうか。私の主觀としては『廣輿圖』の意義は大きくないので、まして『廣輿考』の意義も大きくない。著名學者海野一隆氏が研究してゐるから原書の價値まで高まってゐるといふこともあるまい。海野一隆氏が『廣輿圖』の研究に熱中してゐることも私はさほど評價しない。

11、他にも諸點あるが、長くなった。これ以上はわざわざ論じなくても良いだらう。以上につき、八重山日報に紙幅があれば談話連載で言及したい。



椿説弓張月琉球國之圖椙山藏
 椿説弓張月の第五囘の末尾、釣魚嶼を含む琉球國
圖:
http://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/dl/Yumihari/Mae/mae2/021tq.jpg
椙山女學園大學のデジタル。

下リンクは明國の『三才圖會』地理卷十三琉球國圖。萬暦三十七(西暦1609)年序の刊本。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574370/141

廣輿圖 萬暦七年刊本。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/toho/html/B029menu.html
 福建 
 琉球 

廣輿圖二卷  羅洪先    民國五十八年 臺北學海出版社 萬曆七年海虞錢岱重刊本景印  中國輿地叢書 

黎蝸藤著書『釣魚臺是誰的』より。
明代最廣為流傳的分省地圖冊《廣輿圖》中,福建的地界也根本不含釣魚臺[18]。因此,認為釣魚臺在明朝作為福建的一部分因而屬於中國只是一種一廂情願的猜想而已。
[18] 朱思本、羅洪先《廣輿圖》,學海出版社,臺北,1969,164-165頁。此書為羅洪先根據朱思本的《與地圖》改編而成,是最早和明代流傳最廣的中國分省地圖集。
https://dddnibelungen.tumblr.com/page/11

羅洪先《廣輿圖》 1566年刊本、ハーバード藏。 

續修四庫全書  第五百八十六册   史部
    廣輿圖  羅洪先 胡松增補   北京圖書館藏嘉靖中刊本  琉球を含まず。

米國議會藏《廣輿圖》 琉球なし。
  嘉靖三十七年南京十三道監察御史刻本。 1558年。

左圖右史之55:大明的東部海洋鄰國地圖——《廣輿圖.日本圖》
2016-08-27 梁二平     
 嘉靖四十年(1561年)時,胡松增補本《廣輿圖》(浙江、河南兩省圖書館有此藏本),增加了《日本圖》和《琉球圖》,此圖沒有畫方。
 此圖的右上角題名處刻有「崑山鄭子若著」的字樣,有專家認為清光緒年間刻成的《昆新兩縣續修合志》,明嘉靖時,崑山沒有「鄭子若」這個人,但卻有著名輿地學家鄭若曾之傳。明嘉靖末年,鄭若曾撰寫《籌海圖篇》,並有抗倭專論,所以,此圖應當「鄭若曾」所著。
https://kknews.cc/history/823qk4.html


廣輿考    (明)汪縫預   筑波藏。 
關西大學藏。 


興大中文學報(第5期)(117-124頁)劉兆祐:中國古籍刊本中的域外地圖-劉兆祐先生目錄版本學課堂講義  
今檢羅書各圖,在「日本圖」上注云:「崑山鄭子若著」,知《日本圖》取材自鄭氏。

作為中國現存最早的地圖集,《廣輿圖》的繪製動機,無人知曉
由 馬哥文史館 發表于 運動2021-07-10
https://hainve.com/sports/182435.html


広輿図を模倣した地図帖--広輿考・皇明職方地図・輿図要覧について
    海野 一隆
    大阪大学教養部研究集録 人文・社会科学 (20), 53-84, 1972-03
https://ci.nii.ac.jp/naid/40000303154

https://archive.ph/kWwIV


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美國《哈潑斯》雜誌  Harper's Magazine  
1819年美國《哈潑斯》雜誌製作的《琉球輿圖》,堪稱釣魚島自古是中國領土的鐵證。
《哈潑斯》雜誌依據法國耶穌會教士宋君榮的中國回憶錄製作的《琉球輿圖》,圖繪東經139-150度、北緯23-31度,閩省台灣與琉球之間海域島嶼,同樣明確指出釣魚島及其附屬島嶼不屬於琉球國。
https://www.newton.com.tw/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%BC%BF%E5%9C%96/3533335
https://baike.baidu.hk/item/%E7%90%89%E7%90%83%E8%BC%BF%E5%9C%96/3533335
https://www.chinatimes.com/newspapers/20130505000738-260301?chdtv
http://www.job853.com/MacauNews/news_list_show_macao.aspx?type=2&id=232205
宋君榮此图对钓鱼台列岛各岛的外文标示,是引用了中文和福建话的译音,只需参照早期西方传教士制作的中文与罗马拼音对照表,就能引証各岛名的外文标音是来自中文译音,像"su"就是福建 话"屿",像古浪屿,琉球群岛的岛名都是以island标示的,其被广泛的引用和流传,証明了外国势力早知道这些岛屿是已被中国人命名了;
 此图在1819年被美国哈勃斯杂志Harper's Magazine翻製出版,故流传较广,尤其在网络上关于此图的文章转载甚广;虽然图上没有标示国界,但从各岛名的语音构成,钓鱼台列岛与琉球属岛是有分别的,这也是一种说明.
https://cinacn.blogspot.com/2019/11/blog-post_28.html
https://cinacn.blogspot.com/2019/11/blog-post_28.html