- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

或る人のインターネット・コメントに曰く、
「素晴らしい発見に感謝します。ただ現在の国境問題に明王朝とか歴史を出してしまうとその時点で日本側が負けてしまいます。言わずもがな中華人民共和国は大東亜戦後成立の国家。明かに尖閣諸島は日本領です。そもそもそれを向こうが歴史問題にすり替えようとしている戦術に日本が乗せられていると思います。明国と中華人民共和国は国家としての継続性はありません。もちろん資料としては大変重要だと考えますが、中共の策略に嵌まってしまう可能性があると危惧します。かつて漢民族の領土で…という話になるのならば、エジプトはローマに返還、イランはマケドニアに返還、ロシアはモンゴルに返還なんてバカげた話になります。批判をしている訳ではなく心より応援しておりますが、説明をひとつ誤ると、国民がその論理で自縄自縛することにも成りかねないかと心配しております。」

私の返信は以下の通り。

「明王朝とか歴史を出してしまうとその時点で日本側が負け」。
あなた方みんな、いい加減にして下さい。もう五年、私も怒りますよ。

「向こうが歴史問題にすり替えようとしている戦術」。
違ひます。日本が歴史を語ってます。政府公式見解は40年前から「歴史的にも法的にも日本の領土」となってます。

「明国と中華人民共和国は国家としての継続性はありません」。
では國家として以外の繼續性はどうなんですか。尖閣に於いてチャイナ文化が存在したのですか。馬鹿げてる。

「中共の策略に嵌まってしまう可能性」。
研究の中身を見なさい。どこにその可能性が有るのか具體的に指摘せず、幽靈を怖がるみたな、それでも堂々たる日本人ですか。

「エジプトはローマに返還、イランはマケドニアに返還、ロシアはモンゴルに返還」。
では尖閣はかつて一度でもどこかの國の領土だった可能性があるのですか。中身も見ずに何を言ってるのですか。チャイナの戰術にはまってるのはあなた自身だ。

「説明をひとつ誤ると、国民がその論理で自縄自縛」。
現在まさしく自繩自縛してますよ。あなた自身が典型例です。

要するに日本は尖閣の歴史を避けるべきだと仰せでせう。歴史を避けねばならない領土、それが尖閣ですか。尖閣なめんなよ。

アレクサンドロス


もう四年半にもなりますが、産經新聞。全國版第二十面。平成二十五年一月二十二日。これが三浦按針と濃密な繋がりを持ってゐたのです。

産経2013年0122全國第20面

下は九州版第二十四面。
02a産経2013年0122九州第24面


尖閣周辺は「海防対象外」 中国・明王朝の歴史書に記述
2013/01/22   産經新聞
 中国・明王朝(1368~1644)が1617年に作成した公式文書で、明が国防の対象海域を、福建省から東約40キロ沖合の東湧島(現台湾・馬祖列島の東引島)までと定め、沖縄・尖閣諸島周辺海域は防衛対象として想定していなかった可能性があることが21日、長崎純心大の石井望准教授(漢文学)らの調査で分かった。
 記述があったのは、明王朝の歴史書「皇明實録(こうみんじつろく)」。この中に、福建省の海防の高官・韓仲雍(かんちゅうよう)が1617年8月、長崎から明に来航した明石道友(あかしどうゆう)に告げた内容を記録していた。
 この中で、韓仲雍は福建省沿岸から約40キロの東湧島など馬祖列島や近隣の島々を列挙した上で「この外の溟渤(めいぼつ)(東側の海)は華夷(中国と諸外国)の共にする所なり」と述べた-と記されていた。
 石井准教授は「『華夷の共にする所』とは、各国の船が自由往来できる場所という意味であり、海防範囲外だということだ」と指摘している。
 中国の楊潔チ(よう・けつち)外相は昨年11月、ラオスでのアジア欧州会議で「中国は明代の600年前から釣魚島(尖閣諸島)を支配している」と発言している。
https://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-11455895515.html

下は長崎新聞第二十面。
長崎新聞20面2013年0122



https://www.youtube.com/watch?v=EGolgKQhWTY




.

「甦る朱印船大航海時代、三浦按針は尖閣を見た」、八重山日報連載全七囘。平成二十九年七月二十日から二十六日まで。刊行後の單日ご購入はリンクから。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

特に第五、六、七囘は、尖閣西方海域のチャイナ限界線と三浦按針との關はりを論じました。領土に關心をお持ちの場合は是非ご覽下さい。

miura_anjin_rensai7

關聯リンク

https://pbs.twimg.com/media/DFI5iXBU0AEkCNA.jpg



----------------------------
扶桑社表紙


http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
『中国が反論できない 真実の尖閣史』
石平 (著), いしゐのぞむ (史料監修)    ¥ 1,512(税込)

我那覇眞子女史 29/6/14國聯演説。 
https://www.youtube.com/watch?v=EmO3y5q5VM0
 





そして29/6/16我那覇・依田兩氏歸國聯合記者會見。二十九分から、私のオランダ・琉球・朱印船・尖閣の挨拶ビデオを放映。
https://www.youtube.com/watch?v=a2fD23WTdOw

29分から私の挨拶ビデオ放映につき、ユーチューブの下方コメントで、「しろうま」さんがまとめて下さってます。
「29:00から、長崎純心大学の石井望准教授が尖閣についてのお話をされてます。
・江戸幕府がオランダ使節に宣布した御条目
・朱印船時代の尖閣地図
 御条目第5条で琉球は日本に属するのでオランダは邪魔をしてはならぬと述べる。上記を叢書したものが1800年代までに英・独・仏・蘭語で活字出版されている。
 朱印船尖閣地図は精度の高さが伺える。精度の証明は下記の三点。
1台湾最北端よりも高緯度に尖閣が位置する。
2台湾北方三島と尖閣との間がかなり隔絶している。
3尖閣が与那国島よりも経度でやや東に位置している。
これら三条件は現在のGoogleMapでも共通。尖閣の位置は偶然その位置に書かれたのではなく補足する古文書も存在する。一方19世紀以前のヨーロッパ製の地図では三条件を満たす地図は皆無。
 これらの歴史的事実はあまり認知されておらず、日本の検定教科書に採用すべきだと石井准教授は主張されてます。尖閣の日本帰属の正統性を主張する上で、非常に大きな武器となるでしょう。


下は同じ記者會見映像です。音聲鮮明。
https://www.youtube.com/watch?v=A-Q9Iqe66PA


https://www.youtube.com/watch?v=sGfE2StqiRc
こちらは32分から。


使用した元の挨拶ビデオは下リンクで鮮明にご覽頂けます。
https://www.youtube.com/watch?v=tJitG_LaN1I


同日記者會見で記者諸氏に配布した資料は以下の裏表一枚です。

ジュネーブ歸國會見メッセージ1

ジュネーブ歸國會見メッセージ2


------------------------------
扶桑社表紙

http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
『中国が反論できない 真実の尖閣史』
石平 (著), いしゐのぞむ (史料監修)    ¥ 1,512(税込)

「甦る朱印船大航海時代」、八重山日報連載第三囘。七月二十二日。ご購入はリンクから。
http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html
miura_anjin_rensai3

七月二十日「八重山日報」第一面で既報の通り、三浦按針の朱印船は、西暦千六百十七年七月二十二日に尖閣南北小島を「トリシマ」として望見し、地形を記録した。今日がまさしくその四百周年記念日であった。今日も忙しく暮れてしまひ、餘す所わづか二時間を切った。四百周年のその日に連載第三囘で地形記録の詳細を述べることができたのは歴史的因縁となった。

南北小島のリンク
http://www.panoramio.com/photo/79775132


http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

渡嘉敷蜥蜴八重山日報290718

http://www.shimbun-online.com/titlelist/yaeyamahontoban.html

八重山日報のスクープ、完全獨自報導。
他社は全く報じてゐない。
八重山日報は他社を輕く超えてゆく預感がしてきた。
報じられた論文は下記PDFで公開されてゐる。
http://www.ahr-journal.com/OA/pdfdow.aspx?Sid=20170203
「On the Live Coloration and Partial Mitochondrial DNA Sequences
in the Topotypic Population of Goniurosaurus kuroiwae orientalis
(Squamata: Eublepharidae), with Description of a New Subspecies
from Tokashikijima Island, Ryukyu Archipelago, Japan」
著者:Masanao HONDA  Hidetoshi OTA

四川省成都の『アジア爬蟲類兩棲類研究』に掲載された。
http://www.ahr-journal.com/en/Corp/50.aspx

四川省といふ生物多樣性に富んだ地域だからだらうか。
しかし世界的知名度は全く無い刊行物だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Category:Herpetology_journals
誌名そのものがグーグルで93件しかヒットしない。
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%22Asian+Herpetological+Research%22&start=90

日本にも著名誌はある。
http://herpetology.jp/CurHerp/
http://herpetology.jp/publications/bhsj_j.php
.
なぜ著名誌はこの貴重な論文を載せなかったのだらうか。
かりに學術でなく社會的要因で排除されたならば惜しいことだ。
私の論文も著名誌に中々投稿できないので、
同じ要因があるのかも知れないと、勝手に心配する。
しかしそれを獨自に報じた八重山日報の眼力には敬服する。


----------------------------

扶桑社表紙

http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
『中国が反論できない 真実の尖閣史』
石平 (著), いしゐのぞむ (史料監修)    ¥ 1,512(税込)

琉球新報
https://ryukyushimpo.jp/hae/prentry-190248.html
コラム「南風」 琉球語のなかの中国語
2012年4月20日 09:35
 琉球語には多くの中国語があると信じられている。ここでいう中国語とは、中国から直接琉球に入った言葉を指す。沖縄の研究者も言うのだから、そうだろうと漠然と思っていた。そこで、確信を得るためにこの状況について調べてみた。
 時に研究は当初の予想を裏切る。先行研究は極めて少なく、そこで挙げられる例を言語学的にみると、直接中国に由来しない例が数多く含まれていた。調べれば調べるほど、否定的な結果が出た。ツハーラ(チュハーラ)は、本家の中国語にそうした表現が存在しない。シーミーは確かに中国に由来する習俗だが、言葉は中国語(チンミン)より日本語(セイメイ)との関連が強い。ハーリーも習俗自体は中国起源だが、琉球語の発音に対応する言葉が本家中国語には存在しないのである。
 結論として琉球語に残る中国語はサンピン茶の「香片」など料理や食材に関する語彙(ごい)に限られる。実際、圧倒的多数は、まず本土が中国から受け入れて日本語化した語彙を、改めて琉球語が受け入れたものである。三母音化等の変化で琉球語と本土方言との対応がわかりにくくなった結果、語源不明の言葉の由来を、中国語に求めたのだろう。
 当初の考えと研究結果が異なり、それが一般の期待に反する場合、どう振る舞うべきか。研究する者としては、結果をありのままに出すことが求められる。批判を恐れ、一般の期待に迎合すれば、ボクが存在する意味はない。されど親切に教えてくださる方に、面と向かって否定するのも気が引ける。
 ではなぜ琉球語に多くの中国語があるという話が広まるのか。沖縄には中国との交流の証を言葉にも求める、また本土の影響より中国からの影響を好意的にみる傾向があるのではないか。もしそうなら、それこそが沖縄の特色だといえる。
(石崎博志(いしざきひろし)、琉球大学准教授)
http://kenkyushadb.lab.u-ryukyu.ac.jp/profile/ja.KRvq.eSw-SeTl9x09ouJKg==.html
.

參考:五十嵐陽介(2016)
「琉球語を排除した「日本語派」なる系統群は果たして成立するのか?
―「九州・琉球語派」と「中. 央日本語派」の提唱―」
国際日本文化研究センター共同研究会「日本語の起源はどのように論じられてきたか」、平成二十八年。
http://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=116897



下は佐藤優氏のプロパガンダ滿載なコラム。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/a4/084f6e2e44b80246797348b661199364.jpg

佐藤優琉球語

過去の歴史上に琉球語の正書法なるものは存在しませんでした。念のため。


 日本政府內閣官房領土室五月十二日公布資料,內載西元1819年琉球王親登上「魚根久場島」,為現知最早登島紀錄,較之西元1845年八重山導航員引導英軍提督登島紀錄提早二十六年。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf

 五月二十二日,社會科學院近代史研究所台灣史研究室副研究員李理在中國評論新聞網反駁說,魚根久場島是慶良間久場島,不是尖閣久場島。此說已被駁回,見下連結:
http://senkaku.blog.jp/2017053171152848.html
http://www.ssri-j.com/SSRC/island/ishi-13-20170602.pdf
 六月二十日,社會科學院同一位研究員又反駁說,西元1879年日清談判島嶼時,日本未把釣魚列島包含在八重山群島之中。
http://hk.crntt.com/doc/1046/7/9/8/104679856.html
http://www.sohu.com/a/150375158_817469

 很遺憾,此說仍然不構成任何異議。日本遲至西元1895年纔將之劃歸領土,西元1879年該列島還是無主地,地位未定,自然可以排除在八重山群島之外。西元1819年琉球王親登島,只顯示文化層面日本人進軍釣魚島的過程如此。相形之下,明國清國從未發現、命名、停泊、登陸、管轄、利用過釣魚列島。

 現舉五條紀錄,說明明國清國一向不能停泊該島。西元1534年,冊封使高澄東渡琉球,往返海程都遇到風浪,回國寫一篇《操舟記》,記載了水手謝敦齊的一句簡括之語:「琉球去閩萬里,殊無止宿之地。」亦即釣魚台航線無處可泊船。謝敦齊是漳州人,在琉球人導航之下,第一次去琉球,此語蓋實錄也。後來清國各冊封使往往加以引述,從不反駁。

 西元1683年,琉球國王尚貞上疏康熙皇帝,說冊封船隻離開福州沿岸小島之後,「中道絕無停泊之處」,徑直到達琉球,見琉球國《歷代寶案》。當時清國汪楫東渡琉球,途中目睹釣魚台,回國後寫《中山沿革志》,亦收錄此疏。汪楫是欽命冊封使,琉球國王多管閑事,說冊封使不能在釣魚台停泊,可是汪楫並不疑惑。

 乾隆間冊封使周煌東渡琉球,也目睹釣魚台,後作《琉球國志略》,同樣收錄此疏,並無微辭。

 嘉慶年間冊封使齊鯤、費錫章《續琉球國志略》云:「自閩出五虎門,至彼國姑米山,始有山可寄碇。」五虎門是福州河口的小島,姑米山是琉球久米島,意謂兩國中間的釣魚台無法停泊。這是冊封使親自寫的官方定論,不是琉球國王對天朝領土妄下論斷。
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/3197

-------------------------
以下是社科院研究員李理原文。

中國評論新聞
http://hk.crntt.com/doc/1046/7/9/8/104679856.html
http://www.sohu.com/a/150375158_817469
中評專論:釣魚島與歷史琉球國沒有任何關係    
   2017-06-20 00:21:50
  中評社香港6月20日電(作者 李理)5月12日,日本政府公布了一份報告,其中包括約670份關於釣魚島(日本稱尖閣列島)及日韓爭議島嶼獨島(日本稱竹島)的“新史料”。日本稱這些史料“佐證了日本對相關島嶼擁有主權的合法性”。此次公布的關於釣魚島的史料中,包括清朝18世紀中期“未將釣魚島列入領土範圍”的官方地圖,以及琉球王族1819年登陸釣魚島群島中久場島(史載稱“魚根久場島”)的文字記述。日本政府利用民眾對史料的不了解,又開始了彌天大謊。

   釣魚島在歷史上與琉球沒有任何關係。這在1879年日本的“分島案”中已經明確記載“宮古、八重山”的範疇不包括釣魚島。

   1879年3月,日本完全不顧清政府駐日公使的抗議,單方面強行實施針對琉球的廢藩置縣。日本政府任命鬆田道之為處分官,率警部巡查160人,又由熊本鎮台撥步兵一隊隨行,27日,向琉球王尚泰宣布日本政府的廢藩置縣令,強行要求琉球“騰出首里城”,藩王赴京,“交付土地、人民及官簿等其他各類文件”。次年9月,日本政府公然在琉球實行新審判和警察制度,實施海外護照制度,凡琉球人到中國必須請發護照。日本完全控制了琉球的內政與外交,從制度上斷絕了與中國的藩屬關係。

   琉球正式被日本吞並後,日本政府繞過意志堅定的何如璋,與北京政府直接交涉。李鴻章並不想因琉球而與日本失和並導致對立狀態,不主張對日興師問罪,恰值前美國總統格蘭特游歷亞洲中日兩國,李鴻章等便請格蘭特調停琉球問題。

   格蘭特接受了李鴻章、恭親王等要求其調停琉球問題的要求。到達日本後的格蘭特通過了解日本關於琉球問題的主張後提出“琉球三分案”,即將琉球中部的沖繩諸島,恢復琉球王國,南部的宮古、八重山群島,劃歸清國,北部的奄美群島,劃歸給日本。這個方案沒有得到日本的認可,在日本看來,北部的奄美島中的五個島嶼,實際上早就由薩摩藩統治,這樣的方案對日本來說沒有什麼益處,更沒有討論的價值。
 
  在修約的壓力下,日本政府又向清政府提出了琉球的新處理方案,即所謂的“分島改約論”,其大體內容如下:清國若應我之請求,我政府為敦厚將來親睦,可以琉球接近清國地方之宮古島、八重山島二島屬於清國,以劃定兩國之異域,永遠杜絕疆界紛紜。
  
   為了明確劃分區域,日本就“宮古、八重山”區劃進行了界定,其內容如圖所示:
    (圖從略)

   從以上檔案中所記載的其“宮古、八重山”的範圍,根本沒有釣魚島。故日本政府所謂釣魚島為“西南諸島”之說法,是無視歷史史實的謊言。那麼今天還公布史料說釣魚島屬於古琉球,完全是彌天大謊!

   (作者系中國社會科學院近代史研究所台灣史研究室副研究員)

中國社會科學院李理副研究員



三浦按針は、かつて全米で大ヒットした「將軍Shogun」の主役だった。しかし先日ジュネーブの講演でこの映畫に言及したら、誰も知らなかった。まあいいさ。近い内に分かる時が來ます。
http://www.crank-in.net/drama/news/23867
島田陽子出演のゴールデン・グローブ賞受賞ドラマ「将軍 SHOGUN」が再リメイク
2013年03月22日 14:18
 ジェームズ・クラヴェルの1975年のベストセラー小説「SHOGUN」を米FOXネットワークが再ドラマ化することが明らかになった。映画ニュースサイトThe Hollywood Reporterが伝えている。
 この作品は、17世紀初頭の日本に漂着した一人の英国人航海士が、天下取りの争いに巻き込まれていくさまを描く歴史大河ロマンドラマ。1980年に米NBC局が「将軍 SHOGUN」というタイトルで、リチャード・チェンバレン、三船敏郎、島田陽子らの出演でドラマ化するると、全米でミニシリーズとして「ルーツ」(77・79)に次ぐヒットを記録し、空前の“日本ブーム”をもたらしたことで知られている。日本では編集版が1980年に劇場用映画として公開され、1981年には全8話がテレビ放送されている。
 また「将軍 SHOGUN」(80)は批評家からの評価も高く、1981年のゴールデン・グローブ賞テレビ部門で作品賞、主演男優賞(チェンバレン)、主演女優賞(島田)の3冠を達成。同じ年のエミー賞でも作品賞、コスチューム・デザイン賞、グラフィック・デザイン賞を受賞。島田は、一躍、国際派女優の仲間入りを果たした。
 今回のリメイク版のプロデューサーには、映画「ソーシャル・ネットワーク」(10)のマイケル・デ・ルカとテレビ映画「エリザベス1世 ~愛と陰謀の王宮~」(05)のナイジェル・ウィリアムズが決定。FOXは「『SHOGUN』は世界中の何百万の人々を魅了する作品です。この歴史上ユニークでドラマチックな作品に新しい命を吹き込むことを大変うれしく思っています」との声明を発表している。
 島田が演じたまり子役に日本人女優が配役されるのか、早くも楽しみな作品になっている。全米放送は2014年の予定とのこと。
shogun將軍2


最高視聴率36.9%を記録したのだが。まあいいさ。
https://news.google.com/newspapers?id=c1ofAAAAIBAJ&sjid=1dgEAAAAIBAJ&pg=4612%2C2640694
Shogun視聴率1

Shogun視聴率2


shogun將軍

.
その三浦按針のものと見られる遺骨が平戸で發掘され、遺傳子を檢査される見込みと、各紙一齊に報じてゐる。リンク。
http://www.asahi.com/articles/ASK6X4HBJK6XTOLB00F.html
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170707-OYT1T50116.html
https://mainichi.jp/articles/20170708/k00/00e/040/190000c
https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/06/21/JD0055868962
https://mainichi.jp/articles/20170708/ddl/k42/040/542000c
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20170708-OYS1T50042.html
https://mainichi.jp/articles/20170628/ddl/k42/040/168000c
http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennaitopix/2017/06/28090033051720.shtml
https://mainichi.jp/articles/20170623/ddl/k42/040/212000c


朝日新聞にて本郷和人氏曰く、
「元は伝統的な華夷(かい)秩序の樹立を望んだ。だから幕府が対応を誤らなければ元寇はな
かった、というのが主流学説」
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015032200013.html

とのこと。主流かどうかは學界勢力の大小で決まるので何とも言へないが、この説が誤ってゐるのは確かだ。

まづ「傳統的」とのことだが、誰もが知る通り、遣隋使は隋の煬帝に對して「日いづる國」(東方の國)、「日沒する國」(西方の國)と、極めて自然な佛教的國際秩序を述べた。それから元朝の時まで日本は華夷秩序なるものに從屬してゐない。したがって傳統ではない。これは私のやうな素人にも明らかだ。

次に元朝までのチャイナに傳統的華夷秩序が存在したか、といふ問題だが、印度的(佛教的)秩序が東ユーラシアにひろがる以前には、確かに一定の傳統的「華夷形式」は存在したが、印度的秩序の廣がりとともに華夷秩序は衰微した。南北朝後半から隋唐までは印度的平等概念が主流であった。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA12099678
http://senkaku.blog.jp/2016032757304880.html

北宋からは中華思想の時代となるが、北宋はほとんど「華夷形式」すら實現できず、所謂燕雲十六州を中華が侵略することは妄想に過ぎなかった。南宋は所謂中原を失ったこと言ふまでもない。

以上で「傳統的」の嘘が分かるが、では形式的華夷秩序だけを受け容れれば蒙古襲來は無かったのか。比較の基準となるのが朝鮮及び越南である。朝鮮にも越南にも蒙古襲來は有った。本郷説にもとづけば、朝鮮及び越南も王が對應を誤らなければ蒙古襲來を避けられたといふことになる。

歴史に「もし」は無いが、一般論としては、征討可能ならば征討し、征討不能の場合は形式だけでも從屬せよと、言葉だけで服屬を迫るのが近代以前の世界標準である。そこで國により差が出るのは、征討可能か否か見極めの難しい場合に、積極策を取るか消極策を取るかだらう。元朝が東歐まで征討した積極派だったことは、我々素人の主流説である。

結論。元朝が形式的華夷秩序だけを求めたといふ「もし」説は、少なくとも現代日本の主流ではない。

本郷和人

寫眞:朝日新聞より。
http://www.asahi.com/articles/ASK75451WK75UPQJ006.html
安倍政治を歴史に喩へてゐる。


七月六日深夜附記。
「硫黄流通からみた海域アジア史―日本史とアジア史をつなぐ―2011」
    山内晋次    九州史学160号   ページ : 35-47
http://ci.nii.ac.jp/naid/40019011368
硫黄については私は更に門外漢なのだが、山内論文から見れば、逆に日宋貿易の硫黄路を阻絶することこそ蒙古襲來の目的だったといふことにならう。時間があれば服部英雄氏の著書を購入して比較檢討してみたい。

http://archive.is/FWwY1
http://web.archive.org/web/20170706135026/http://senkaku.blog.jp/hongou_genkou.html


註22。
『那覇市史』資料篇第2巻中4の126頁、408号文書。同頁の406号文書のように伊地知貞馨に対し与那原親方は、明治6年「琉球国体政体永久不相替、且清国交通是迄通被仰付候段先達テ外務卿并貴様ヨリ御達ノ趣」について「以後証拠」として文書による確認を伊地知に求めるのであるが、これに対して「清国交通是迄通被仰付候」については文書による確認を行なっていないので、進貢貿易を置藩後も積極的に公認していたとはみなし難い。


琉球処分論
『新・沖縄史論』(沖縄タイムス社1980.7.25)
安良城盛昭
------------------------
『新・沖縄史論』目次
第1部
 第1論文 前近代の沖縄歴史研究をめぐる2、3の問題
 第2論文 沖縄史研究の諸問題(その1)1古琉球の辞令書と日琉同祖論/2近世琉球の石高/3「旧慣温存」期の理解について
 第3論文 沖縄史研究の諸問題(その2)/1沖縄歴史研究と伊波普猷/2首里王府による祭祀の禁止と再編成
 第4論文 ユイの歴史的性格とその現代的意義/1沖縄のユイ/2世界史的規模で存在するユイ/3ユイの歴史的性格/4消滅の傾向にあるユイ/5/本来のユイのもとでの労働交換/6奥部落の現行ユイの特質/7ヴェラ・ザスリッチへの手紙/8奥農業の課題

第2部
 第1論文 古琉球の「さとぬしところ」/1「さとぬしところ」をめぐる批判と反批判/2『沖縄県旧慣租税制度』批判/3渡口説批判
 第2論文 進貢貿易の特質――転期の沖縄史研究――/伊波普猷の「唐一倍」説批判/進貢貿易の特殊構造
 第3論文 地割制度の遺構としての津堅島の短冊型耕地形態/1地割制度研究史からみた本稿の課題/2文献史料からみた津堅島/3津堅島の短冊型耕地形態
 第4論文 勝連間切南風原村における地割制度/南風原村の地割制度史料/南風原村の地割制度

第3部
 第1論文 琉球処分論
 第2論文 「旧慣温存期」の評価――金城篤・西里喜行氏の見解の吟味――/1金城=西里説の基本的枠組/2基礎的史実の検討/3「旧慣温存期」の沖縄統治策の推移
 第3論文 「旧慣温存期」の評価・再編――西里喜行氏の反論にこたえて――/明確に存在した明治政府の旧慣改革方針/明治政府と沖縄産糖/国税徴収額と国庫支出の県費
 第4論文 『沖縄県史』刊行の意義と残された課題/1『沖縄県史』刊行の歴史的前提/2『沖縄県史』の特徴と編輯上の問題点/3『沖縄県史』の琉球処分論・「旧慣温存」論の批判的検討

第4部
 附論1 沖縄歴史研究のこれまでと今後――新里恵二・安良城盛昭
 附論2 沖縄と歴史研究――転形期の課題を語る――高良倉吉・安良城盛昭
 附論3 九学会連合沖縄調査委員会編『沖縄-自然・文化・社会-』を読んで
 附論4 これからの沖縄研究

第3部第1論文「琉球処分論」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/arakimoriaki78.htm

はじめ

 明治12(1879)年に強行された琉球処分は、形式的にいえば、明治5(1872)年に置かれた琉球藩が沖縄県に改められたものであり、そのかぎりでは、明治4(1871)年に本土で実施された廃藩置県が、やや遅れて沖縄においても達成されたことを示している。しかしながら、この琉球処分を沖縄における廃藩置県として、形式的にだけ理解し、本土の廃藩置県と一括して処理するだけにとどまるならば、琉球処分にみられる全く異例ともいうべきその特殊性を、廃藩置県一般のなかに解消してしまうこととなり、琉球処分の理解について欠くべからざるその独自性・特殊性について認識する途を見失うこととなってしまうのである。
 すなわち、琉球処分が、本土の諸府県における廃藩置県一般と一括しては論じられない、その独自性=特殊性は次の4点によく示されている。
 第1は、その前史についての特殊性である。本土における明治2(1869)年の版籍奉還から明治4(1871)年の廃藩置県にいたる過程は、明治維新をして今日われわれの知る明治維新たらしめた決定的な政治過程であって、版籍奉還が廃藩置県という権力の実質的な中央集権の平和的な達成を可能ならしめた歴史的・論理的前提であり、その現実的出発点であったことは、明治維新史についての初歩的常識に属するといっても過言ではあるまい(1)。ところが、沖縄においては、廃藩置県の歴史的前提ともいうべきこの版籍奉還の歴史過程を欠如したまま、廃藩置県が強行されたところに、琉球処分の第1の特質が存在するのである。
 第2に、本土における廃藩置県は、各藩それぞれが千差万別の異なった内情をかかえていたにもかかわらず、そしてまた、?長土3藩から供出された歩騎砲3兵合計8000名の親兵=中央直轄軍の軍事力の存在を背景として実現されたとはいえ、ともかく、表だった反対=反抗なしに平和裡に実現されたところに1つの特質が存在するのであるが、琉球処分はこれとことなって、戰火こそ交えなかったが、明治政府の軍事力・警察力の行使による強圧によって、琉球藩庁主流の反抗を押しきって強行されたところに、その特殊性がよくうかがわれるのである(2)。
 さらに第3の特殊性は次の事実によく示されている。置県直後の明治13(1880)年、日清間で一応合意をみた分島改約案は、清国における欧米列強なみの通商権の獲得と引き換えに、古琉球以来数百年にわたって沖縄固有の構成部分であった宮古・八重山の両先島を清国の主催下に委ね、このことによって、琉球処分強行の結果生じた日清間の琉球をめぐる緊張の解消をあわせて図るものであったが、置県後の領土が外交上の取引の具となった事例は他に全く存在しないのである。この分島改約案は清国側の態度変更=拒否によって流産したとはいえ、このような沖縄分割案が実現寸前にまでいたったこと自体、琉球処分後の沖縄県の地位の特殊性を象徴的に示すものといえよう。
 第4に、琉球処分後の旧慣改革が極めて遅々たるものであったところに、沖縄における廃藩置県後の歴史過程のきわだった特質が存在するのである。すなわち、本土においては、廃藩置県後には明治維新をして維新たらしめた諸改革が雪崩をうって進行してゆくのであるが、沖縄では、教育面を除くと、その改革の歩みはまことに遅々たるものであって、日清戦争終了までは、改革の過程というよりは、ヒユ的にいえば「不改革であった」(3)といった主張を生みだすほどの特殊性が存在したのであって、明治23(1890)年に成立する明治憲法体制から、ほぼ明治年間全般(4)を通じて疎外されていた全国唯一の県としての特質が存在するのである。
 以上、4点にわたって、琉球処分=「沖縄における廃藩置県」を本土における廃藩置県一般によっては律しきれないその特殊性を指摘したのであるが、これらの特殊性がどの様な歴史的理由によって生じているのか、そしてまた、これらの特殊性の相互関連はどの点にあるのか、さらに、このような特殊性をもった琉球処分が、沖縄近・現代史の展開にどのような特質を賦与したのか、を究明し、明治政府の沖縄統治政策の歴史的変遷とこれに対する琉球藩庁=支配階級ならびに人民の対応を明らかにすることによって、琉球処分の歴史的意義を科学的に解明することが、琉球処分論の本来の課題であろう。
 ところで、琉球処分は沖縄近・現代を通ずる歴史の出発点であるだけに、沖縄歴史研究の開拓者でもあった伊波普猷以来、その実態と歴史的意義をめぐって、すでにさまざまな琉球処分論が提起されている。とくに1960年代に入って昂?してきた沖縄の本土復帰運動の展開にともなって、琉球処分の研究は飛躍的に発展し、琉球処分の歴史的評価をめぐって井上清・下村富士男・新里恵二氏の間に論争(5)が先ず生じ、この論争点を解明する学問的課題を継承した金城正篤・西里喜行・我部政男氏等の『沖縄県史』・『那覇市史』の琉球処分をめぐる諸論稿によって、琉球処分の歴史具体的過程が、その前史から日清戦争までのいわゆる「旧慣温存期」(6)までを含めて、すでに明らかにされている。
 しかしながら、ここ2、3年来、筆者が指摘・強調しているように(7)沖縄歴史研究は1つの転換期にさしかかっており、この点は沖縄近代史研究も例外たりえないのである。たとえば、琉球処分についての有力な見解の1つと目されてきた、『沖縄県史』『那覇市史』に公表された金城正篤・西里喜行両氏の論稿における、いわゆる「旧慣温存期」の史実についての両氏の具体的認識とその評価の両面にわたって、すでに筆者は詳細な批判を加えてきたのであるが(8)、両氏の見解には、再検討すべき余地が多く遺されているのである。
 このような研究状況の下で、筆者の琉球処分論を全面的に展開するには、なお若干の前提的予備作業の積み重ねを必要とするように思われる。というのは、筆者の金城・西里批判のなかで具体的に指摘しておいたように、今後の沖縄近代史研究には、発想そのものの転換が必要なだけではなく、一見明々白々で異論をさしはさむ余地がないかの如く見える基礎的史実についても、その洗い直し・再吟味を必要とする場合も多々存在すると考えられるからである。
 したがって、この小論では、与えられた紙数の制約も考慮して、筆者の琉球処分論を全面的=総括的に論ずるのではなく、これまでの沖縄近代史研究では全く看過されてきた2つの論点、すなわち、1つには、先に琉球処分の4つの特殊性を指摘した際に、その冒頭で先ず指摘した、版籍奉還なき廃藩置県、という論点と、2つには、琉球処分についての現代的通念の歴史的源流を、ソテツ地獄と琉球処分論、という視覚からさぐる論点、の2つの論点をとりあげることによって、全面的=総括的な琉球処分論を遠望しながら、これまでの琉球処分論ひいては沖縄近代史研究に発想の転換を促したいと考えるものであるが、さらに、琉球処分の歴史的評価についての井上清・新里恵二論争を批判的に検討し、この論争の止揚をはかることとするが、関連論文として「<旧慣温存期>の評価」(1977年・「沖縄タイムス」紙掲載・本書第3部第3論文)「<旧慣温存期>の評価・再論」(1977年「沖縄タイムス紙掲載・本書第3部第3論文」)「<沖縄県史>刊行の意義と残された課題」(「沖縄史料編集所紀要」第3号所収・本書第3部第4論文)を参照・併読していただければ幸甚である。

一 版籍奉還なき廃藩置県

 先に、琉球処分の特殊性を示すものとして四つの特質を指摘したのであるが、そのうちの第2から第4の三つの特質は、真境名安興(9)・太田朝敷(10)以来の沖縄近代史研究によって繰りかえし指摘・強調されてきたところであるが、第1の特質として本稿が指摘した、版籍奉還の過程を欠いたまま廃藩置県が強行されたという論点は、これまでの沖縄近代史研究によって、戦前・戦後を通じて全く取り上げられることのなかった視点であるだけでなく、私見によれば、この第1の特質が第2の特質を生み出し、さらに、一面では、第3・第4の特質を媒介的にもたらしたという意味で、琉球処分の特質を考える上で要ともいうべき不可欠の視点と考えられるので、以下、この点についてやや具体的に論ずることとしよう。
 周知のように、幕藩体制下の琉球の地位はいわゆる「日支両属」(11)といわれてきたようにきわめて特殊なものがあった。琉球はたしかに島津の「領分」であり、そのかぎりにおいて、薩摩・大隅・日向諸県郡の島津領と同様に島津の領主権がおよんでいることは疑問の余地がなく、島津の実質的な支配下にあったのであるが、にもかかわらず、形式的には、琉球王は中国皇帝の冊封をもうけており、その意味から、島津の「領分」でありながら琉球は「異国」=「外国」(12)とみなされていたのである。島津藩に対する実質的な従属と中国皇帝に対する形式的な服属という特殊な状況(13)は、戦前いち早く伊波普猷が「王国のかざり」と指摘したように(14)、進貢貿易存続=維持の必要から生じているのであって、琉球は、長崎・対馬とならぶ鎖国体制下での幕府公認(15)の海外への窓口の一つであったのである。
 このような琉球の特殊な地位は、明治2(1869) 年の版籍奉還の時点でどのように処理されたのであろうか。
 これまでの沖縄近代史研究は、この点について全く考慮の外において、明治4(1871)年11月の訪欧米岩倉使節団の重要調査条項に 「琉球」(交際始末)がふくまれていることと、明治5(1872)年5月の井上馨による琉球帰属についての「建議」を視野のうちにおさめながら、廃藩置県直後の明治4(1871)年9~10月にかけて、琉球王府より在鹿児島の琉球館出向役人にあてた指令か、あるいは、明治5(1872)年正月の奈良原幸五郎・伊地知貞馨の琉球遣使から、琉球処分の前史を説きおこすのが通例であった。
 僅かに、真境名安興が、戦前にその『沖縄現代史』のなかで、

    (1)「是より先幕府の末路より維新に至りし政変が、如何に沖縄に於て観測せられしかといふに、慧敏なる沖縄の政治家は当時外国船?々渡来して外国関係を生ぜしより、夙に世界の気運に鑑み、我国の開国の巳むべからざるを察知し、延いて亦沖縄の政界にも何時か低気圧の襲来すべきことを予測せり。安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断して」(16)

いたと指摘し、さらに、

    (2)「当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張し、建策する所ありしも、当時の国論は之を腐儒迂人の言として一顧を与えられざりきといふ。又彼は、本土の事情を知らしむる為に、初めて当時の新聞紙を尚泰王に奉りたるに依り、益々世人の指弾を受けたり」 (17)

と戦後の沖縄近代史研究が深めようとしなかった、興味深い史実を紹介しているにとどまっているのである。
 ところで、版籍奉還は、本土の全ての藩主がその領内の土地・人民に対する支配権=領主権を天皇に返上することを意味するものであって、このような大名の個別領主権の天皇への返上=[権力の観念的・形式的中央集権化] が、先にも指摘したように、論理的・歴史的前提となってはじめて廃藩置県という実質的な中央集権が達成されたのである。したがって、版籍奉還は、慶応3(1867)年の将軍徳川慶喜による大政奉還を、法的に一歩進めたかたちで再確認し、本土の大名の全領主権を天皇の権力の下に集中したことを意味するものであって、したがってまた、版籍奉還の行なわれた明治2(1869)年には、版籍奉還とあい前後して、諸藩が外国と直接通商=交渉してきた幕末政争期以来の外交上のアナーキー状況に終止符がうたれ、外交権が明治政府の下に掌握されてゆく注目すべき歴史過程が存在するのである(18)。すなわち、幕末開港以後の倒幕過程で、西南雄藩を中心に多くの藩が西欧列強と直接の外交・通商交渉をもち、軍艦・大砲・鉄砲等の武器類が藩内の特産物を引き当てに購入=輸入され、藩によっては多額の外債をかかえる状況が存在したのであるが、明治2(1869)年の一連の措置は、諸藩の外債を明治政府が引き継ぐとともに、外交・通商権を諸藩より取り上げ、明治政府のもとに集中的にこれを掌握したのであった。
 このようにして、明治2(1869)年は、内政・外交の権が明治政府に掌握されていく重要な年であり、版籍奉還はその象徴的事件というべきものなのである。
 さてこの明治2(1869)年の版籍奉還に際して、琉球王国はどのように処理されたのであろうか。
 この点についての具体的検証は全く今後の課題というほかはないのであるが、その後の歴史的推移からみて、琉球は版籍奉還から客観的には除外されていたと考えるべき十分な根拠が存在するのである。以下この点を検討しよう。
 先にも指摘したように、琉球は薩藩領の一部分であって、したがって、島津氏の琉球領知は、代々の将軍による領知判物によって確認されていた(19)。したがって、本土の諸藩の通例を以てすれば、薩摩藩主島津久光の版籍奉還は、島津の琉球に対する明治2(1869) 年の島津久光の版籍奉還は琉球をも含んでいた筈である。しかしながら、その版籍奉還は、島津久光の琉球支配権の返上=放棄ではありえても、そのことが直ちに、琉球国王尚泰の琉球統治権の天皇への返上に必ずしも直結しないところに、当時の琉球の歴史的地位の特殊性が浮彫りされているのである。
 たしかに、琉球は島津の「領分」に属してはいたが、その国王尚泰は中国皇帝の冊封をうけ、琉球国に対する統治についても、島津の指令権・監督権を容認した上で、かつ、島津に対する一定の貢納義務を負うことを絶対的義務としてはいたが、王府は広汎な内政上の自裁を許されていたのである。かかる歴史的事実は、本土諸藩の通例を以てしては、その版籍泰還を論じられないことを暗示しているのであって、島津久光の版籍泰還によって琉球の版籍泰還が完了しているとは単純にみなし難いのである。
 事実、本土の廃藩置県後、薩摩藩が鹿児島県に移行するにともなって、一応鹿児島県の管轄下に置かれていた琉球王国を、明治5(1872)年、外務省の管轄下に移し、改めて琉球藩とし藩主ならぬ「藩王」という沖縄だけにみられる特殊身分=地位に琉球国王尚泰を任じ、さらに、副島種臣外務卿は、「御国体・御政体永久不相替」と上京した藩吏に約束しているのである。(20)そしてまた琉球藩設置後一応は、「先年来其藩二於テ、各国ト取結候条約、並ニ今後交際ノ事務、外務省ニテ管轄候事」(21)と琉球藩に指示しながらも(明治5年9月28日)、進貢貿易について、明治政府はこれを積極的に公認しないまでも(22)ともかく容認しており、明治7年(1874)年秋に沖縄を出帆した進貢船二隻には進貢使国頭親雲上外17名が搭乗しており(23)、翌明治8(1875)年3月一行は北京に現われ、明治7(1874)年10月31日の台湾事件についての日清和議成立以来、琉球の日本帰属の確定を信じて疑わない北京の日本公使館員を驚かせているのである。(25)
 以上の事実に象徴的に示される琉球藩の状況は、まさに版籍泰還以前の本土諸藩の状態に比定されるべきものであって、したがって、明治8(1875)年3月以降、明治政府はこのような琉球藩の半国家的=疑似国家的事態を解消するため積極的な行動を開始するのである。
 台湾出兵の大義名分を確保する必要上、すでに明治7(1874)年7月12日、琉球藩の管轄を外務省より内務省に移管(26)し終えていた明治政府は、明治7年10月31日の台湾事件の日清和議条約である「日清両国間互換条款」のうちに、遭難琉球藩民を「日本国属民」、台湾出兵を「保民義拳」と書きこむことに成功(27)したため、大久保俊通内務卿直々の出馬によって琉球藩の半国家的=疑似国家的実態の解消が図られるのである。琉球に「鎮台支営」を設立し、「藩治職制」を改革するなど国家権力の琉球藩における滲透をめざす明治政府のこのもくろみは、必然的に、琉球の半国家的=疑似国家的実態のシンボルともいうべき清国の冊封体制からの琉球藩の離脱―「支那へノ進貢・慶賀並彼ノ冊封ヲ請候儀被差止」・明治年号の採用―を基本目標としてともなっていた(28)。しかしながら、このような明治政府の企図は、琉球藩吏の執拗な抵抗によって容易に達成されず、「鎮台支営」の設置を始めとする内政面についての改革の了承は漸くえられたものの、清国の冊封体制からの離脱については、明治12(1879)年の琉球処分の時点まで遂に琉球藩の承諾をうることはできなかったのである。
 本土の諸藩の諸外国との直接通商=外交関係の成立は、たかだか安政開港以後の幕末政争過程においてはじめて発生したものであって、その直後通商=外交関係が絶たれるにいたった明治2(1869)年まで僅か10数年間の幕藩体制瓦解の過程における非常例外の事態であったのに対して、琉球の進貢貿易を中心とする清国冊封体制との関わりあいは、数百年の歴史の重みを負っていたところに、本土諸藩と琉球藩における本質的な相違が存在したのである。このようにして廃藩置県以前に、琉球「藩王」尚泰自身による自発的な版籍泰還が行なわれなかっただけではなく、明治政府のヘゲモニーの下における事実上の版籍泰還の達成―清国冊封体制からの離脱による明治国家への琉球藩の組込み完了―さえも実現できていない、という二重の意味で、琉球処分の前史の特質は、廃藩置県の前提としての版籍泰還の欠如として把握されねばならないのである。
 ところで、このような琉球処分以前の時点での版籍泰還の欠如は、何によって生じたのであろうか。
 一つには、これまで指摘してきた琉球藩の負っていた特殊な歴史的経緯が大きく作用していたことはいうまでもない。すなわち、日本の本土社会とは別個・独自に国家形成を遂げ、薩摩の琉球征服後も、島津の「領分」でありながら「異国」=「外国」であるという特殊な地位にあり、清国の冊封体制とかかわりあいながら進貢貿易を数百年にわたって続けてきたという歴史的経緯である。第二は、幕末期の琉球王府上層部を震憾させた牧志・恩河事件の帰趨が、王国支配層の保守・守旧派を強化し、宜野湾朝保・津波古政正のような開明派が少数派として孤立する状況を生み出していたことも考慮に入れるべきであろうが、さらに第三に、幕末・維新の動乱の渦中になく、その局外に安住しえていた琉球王府の特殊状況をカウントに入れて、この問題を判断すべきものと思われる。この点もまたこれまで具体的に論ぜられることのなかった問題であるので、以下簡単にふれておこう。
 本土における版籍泰還は、薩長土肥四藩主連名の「上奏」=提唱に始まるのであるが、その提唱が短時日のうちに本土の全藩主の274藩主すべてを捲きこんでしまったのは、次の二つの理由にもとづくものと戦後の明治維新史研究は明らかにしている。すなわち、その一つは、幕末政争・戊辰戦争による厖大な財政負担が、藩財政を建て直し不能の大幅赤字に追いこみ、過半の藩では藩体制の存続・維持がもはや不可能な状態にまで立ちいたっていたこと、したがって廃藩置県以前に自発的に廃藩を余儀なくされた藩が十数藩に及んでいること、その二つには、幕末以降激化の一途をたどった百姓一揆・世直し騒動の激発によって、民衆支配すら容易ではない政治的・社会的危機状況におちいっていたこと、これである。
 これに対して、琉球王国の事情は全く異なっていた。琉球王国が幕末・維新の激動の政局のなかで、まったく局外にあったこと、したがって戊辰戦争等の戦費の負担は一切存在しなかったのであって、僅かに、天保2(1831)年より嘉永5(1852)年の間に薩藩への貢米2800石の代納として砂糖75万斤の上納が強制され、文久2(1862)年より一時中断していた砂糖75万斤の代納が復活し、さらに元治2(1865)二年より砂糖代納22万斤の増額があり、結局貢米3600石の代納として、砂糖97万斤の上納という形で、不利な貢糖の代納強制によって経済的負担の若千の増大がみられたにすぎないのであって(29)、本土諸藩の幕末・維新期における支出の激増とは比較すべくもないのである。
 たしかに、琉球王国は、明治5(1872)年の琉球藩の設置前後の時点で、金4,848両・銀805貫目・銭346,835貫文余の薩藩に対する借金(30)の他、在鹿児島の琉球館出入の御用達よりの「高利付ノ借金」が20万両=20万円(31)存在していたのであり、その意味では琉球王国も財政赤字に悩まされていたのではあるが、前者は廃藩置県に際して全額返済を免除され、後者は、琉球藩設置の際に明治政府の斡旋によって東京の第一国立銀行の低利賃金に切りかえられ、琉球処分当時には、4万円の借金を残すのみとなっており(32)、琉球処分後、明治政府が引きついだ旧琉球藩負債は全体として11万6639円余(33)で、財政状況は、明治5(1872)年より明治12(1879)年の間に好転しており、財政難から、したがって上から、藩解体=版籍泰還を余儀なくされる状況は、琉球藩には存在していなかったのである。しかも、他方、琉球藩内においては、本土の諸藩を悩ました百姓一揆・世直し騒動の激発のような、下からの要因によって、藩体制の解体が必然化される状況も、「家内倒れ」「村倒れ」の農村荒廃にもかかわらず、全くといってよい程存在しなかったことは、これまでの沖縄近代史研究によって十分に確認されているのである。
 要するに、琉球藩では、上からの要因からみても、下からの要因からみても、版籍奉還が行なわれる歴史的条約は全く未然なのであって、このような事情が、先に指摘した、数百年間中国の冊封体制とかかわり続けてきた歴史的経緯と、藩庁中枢を守旧・保守派が握っていた政治的条件と結びついて、「版籍泰還なき廃藩置県」という琉球処分のきわだった特質が生じてきているのである。
このようにして、版籍泰還の実施をもたらさざるをえないような社会的状況にたちいたっていない社会展開の未熟さの故に、藩籍泰還を欠いたまま実現された廃藩置県が、琉球にとっては全く他律的なものとなって、明治政府が外から琉球藩を押しつぶしてしまう結果となったのは必然的といわねばならないのである。
 本稿冒頭で指摘した、琉球処分の四つの特質のうち、版籍泰還なき廃藩置県という第一の特質こそが、明治政府の軍事力・警察力にもとづく廃藩置県の強行という第二の特質を生み出したものであり、清国との外交上の合意を踏まえないで明治政府が琉球処分を強行したこと、さらに、琉球藩庁がいわゆる「日支両属」の半国家的=疑似国家的形態を清国の支援によって維持したいと清国に積極的に働きかけたこと、この二点を抜きにしては、第三の特質として指摘した明治13(1880)年の分島改約案は考えられない以上、この二点を媒介的にもたらしたのも、第一の版籍泰還なき廃藩置県であり、旧慣存続が長期間にわたったという第四の特質も、その基本要因に、琉球処分に反対する土族の脱清行動がからんでいるという事実からみても、第四の特質もまた第一の特質の延長線上において理解さるべき側面があることは、もはや多言を要すまい。
 すなわち、版籍泰還なき廃藩置県という第一の特質が、第二の特質を生み出し、一面では、第三・第四の特質を媒介的にもたらしているとみなす所以である。

二 ソテツ地獄と琉球処分論

 琉球処分について、はじめて歴史的評価を与えたのが「沖縄学」の父としての伊波普猷であること、そしてその評価が「琉球処分は一種の奴隷解放」(34)という一言に要約されること、以上の二点については、あまりにも周知の事実に属しているといえよう。
 伊波のこの琉球処分観は、その極く初期の述作『古琉球』初版(1911年)にほの見え(35)て以来、最後の著述『沖縄歴史物語』(1947年)にいたるまで、一貫して変えることはないのであるが、にもかかわらず、ソテツ地獄(大正9年の糖価暴落以降、昭和恐慌期まで十数年連続した慢性不況)のさかなの大正末期を境に、伊波の広い意味での歴史観は一大転換をとげるのであって、伊波の琉球処分観にも事実上の修正がこの時期以後加えられているのである。
 この転換については、比屋根照夫氏の「啓蒙者伊波普猷の肖像」(36)によって具体的な検討がやっと緒についたばかりであるが、ここでは、筆者の観点から、伊波の広い意味での歴史観の一大転換について具体的に指摘してみよう。
 まず第1に、アイヌに対する伊波の理解が、ソテツ地獄を境に大きく転換しているのである。たとえば、『古琉球』に収められている「琉球史の趨勢」(1907年)のなかで伊波は、
    「……ところが此琉球民族といふ迷児は2000年の間、支那海中の島嶼に彷徨してゐたに拘はらず、アイヌや生蛮みた様に、ピープルとして存在しないでネーションとして共生したので御座ゐます。……(中略)……アイヌを御覧なさい。彼等は、吾々沖縄人よりも余程以前から日本国民の仲間入りをしてゐます。併し乍ら諸君、彼等の現状はどうでありませう。やはりピープルとして存在してゐるではありませんか。不相変、熊と角力を取ってゐるではありませんか。彼等は一個の向象賢も一個の蔡温も有していなかったのであります。」(37)

とのべている。ここには部族的な歴史的発展段階にとどまっていたアイヌに対する一種の蔑視にもとづいた(熊と角力をとっている、という伊波の表現をみよ)、沖縄人・伊波のアイヌに対する一種の優越感が率直に表明されているのであるが、しかしながら、このようなアイヌに対する優越感は、伊波が一生求めてやまなかった、それぞれの民族・住民が個性ある発展を可能とする世界、すなわち、伊波をはじめ沖縄人を悩ませた、いわれのない本土人の沖縄差別を克服する志向、と両立する筈がないこともいうまでもない。他人を差別する人間は、本質的にいって、他人からの差別をはねかえしえないからである。
 ところで、このような伊波のアイヌ蔑視は、大正14(1925)年の時点では、伊波の脳裡から消え去っているのである。この年の「メーデの夜(38)」、伊波は感激の興奮さめやらぬていで、この年の3月29日のアイヌ学会において知己となったアイヌ青年違青滝次郎との出会いと交友について、「目覚めつつあるアイヌ種族」の一文を草している。そこでは、かつての、アイヌと沖縄人との違いという視点から、逆に、アイヌと沖縄人との共通性という視点が全面的におしだされているのである。伊波はいう。

     「我々の同胞も、アイヌと同じく、虐げられたものだが、日支両国の間に介在したお陰で、両文化を消化して、自家の個性を発揮させることが出来、その上幾多のよい示導者が輩出した為めに、漸く日本国民の仲間入りをして参政権まで獲得したが、300年間の奴隷的生活に馴致された彼等は、その為に甚しくその性情を傷つけられてヒステリックとなり、アイヌと同じように、外に対しては疑深いと共に、内に対しては兎角反目嫉視して、党争に日もこれ足らずたうたう共倒れの状態となり、今やその経済生活も行詰って、国家の手で救済されなけれぱならない羽目に陥っている。……(中略)……彼等の祖先は、私達の祖先がオモロをのこしたように、ユーカリという美しい詩をのこしてゐます。そして今日のアイヌの村落でも美はしい民謡が盛んにうたわれてゐるとのことです。……(中略)……私たちはこれまでアイヌを甚しく誤解してゐました。大方の人は彼等をその価値以下に見てゐるだろうと思います。どうか貴誌を介して、アイヌの真相を県下の教育家諸君に知らして下さい。これひとりアイヌの幸福ばかりではないと思ひます。」(39)(?点は筆者)。

 アイヌの幸福は沖縄人の幸福に連なるという伊波の言外の含みには、もはやかつてのアイヌ蔑視は、かき消えてしまっているのである。
 第2に、明治32(1899)~36(1903)年という20世紀初頭に実施された土地整理についての歴史的評価にも、大きな変化が生じているのである。
 大正6(1917)年の「読書余録」においては、伊波は、福田徳三の著書『経済学研究』に収められている論文「経済単位の発展に関する旧説と新説」を興味深く読んで、

    「原始の経済生活は、独立独存の個人で始るのでは無く、多数の血属が相合して作った共同生活で始り特に土地に対する関係は全然共有主義共産主義によって支配されたもので、それが個人所有個人耕作に移ったのは、数百年に渉る経済的発展の結果である。そして今日でもこの発展の行程はなお継続されつつあるので、つまり古往今来幾千年の人類の歴史は、要するにこの大なる経済単位が益々縮小して大家族となり、家となり、終に今日のやうな個人制度にまで発展して来た行程の謂に外ならない。そして個人を以て其の単位とせない所の生産共有の経済組織の著しい例は、現にスラヴ民族の間に見出されるのであるが、なほ他に類似の経済組織を有する民族は世界に沢山あるのである」(40)

と紹介しながら、
    「思ふに土地整理以前の沖縄の土地の制度も亦其の一列に過ぎないのであろう」(41)

と指摘し、
     「兔に角種々の方面から見て、沖縄では経済単位の発達の甚だ後れてゐたことがわかるのである。経済史の教へる所によれば、経済単位の縮少が徴細に進めば進む程、其の国民経済の生産力は発達するとのことだから、長年月の間社会上経済上共産主義的の状態にあって、個人性といふものが充分に発達せず、従って個人の責任個人の活力が重ぜられないで、人間の値段が甚だ低廉なる沖縄で経済上の進歩の遅々たる理由は茲にある。個人全盛の時代は経済的進化に欠く可からざる一段階であって、発展中の此の段階を経過せなければ、到底今日欧米諸国に於て見るやうな進歩した経済組織を見ることが出来ないから、経済政策の最大の職分はこの経済上凡ての進歩の根本である経済単位の発展を早めるにあるのである。かういふことを知った後で、福沢諭吉翁の思想と事業とを顧ると、今更のやうにその卓見に驚くのである。それから10年前奈良原繁県知事によって実行された土地整理なども経済史上有意義になってくるのである。成程明治政府は明治12年法制上では沖縄人を解放して、真正の個人性を喚起す可き位置に置いたが、経済上では土地整理によって始めて土地を解放して資本化して呉れたのである。是に於て百数年来の土地共有制は廃れて、土地私有制が起った。これとりもなほさず経済単位の発展を早めたもので、琉球史上の一大事件といはれなければならぬ。さうして男爵の銅像もその記念だと思って見たら目障りにもなるまい」(42)

とのべている。やや長文の引用を敢えてしたが、それは、ニュアンスをも含めて大正6(1917)年時点の伊波の土地整理観を正確に読者に伝えたかったためである。
 これに対して、僅かに5年後の大正11(1922)年に刊行された『古琉球の政治』のなかで、伊波は、
    「琉球に於ける地割制度が慶長役前からあった」(43)

と主張しつつ、
    「琉球人は参政権を要求する前提として共有地を分配して了ったが、これだけはどうにかして遺しておくとよかったのに!」(44)

と、大正6(1917)年時点の指摘とは全く逆転した主張に転ずるのである。この『古琉球の政治』の伊波の土地整理観は簡単にすぎるので、その後の伊波自身の言葉によってその真意を確かめておこう。この短かい主張の前段は、大正15(1926)年刊行の『孤島苦の琉球史』における、
    「……目醒めた被治者階級は、国政県政に参与する権利が未だ認められないことに気がついて、その代表者は、しばしば中央政府に参政権の附与を請願したが、法規上参政権は個人の納税額を標準とするが故に、沖縄県民の大多数に対しては、その個人的納税額を認めることが出来ないといふ理由で、その都度拒絶された。そこで彼等は之を獲得する前提として、建国以来採用し来った地割制度を廃止して、各個人の土地所有権並にその納税額を確認して貰ふこととした。かうして、土地整理の事業は、明治36年に於いて終了した。」(45)

の記述が対応しており、その後半は、昭和3(1928)年の『沖縄よ何処へ』の、
    「今となって考へると、吾々琉球人に取っては、参政権という美名を得て蘇鉄地獄に落ちるよりも、この特殊な土地制度を保存して置いて、徐ろに次の時代を待つ方が気が利いてゐたのではないか、といふ気がしてならない。それから私は、地割制度の為に貯蓄心の欠乏を来たしたといふ意見にも讃成しかねる。……(中略)……独立心の欠乏の原因に至っては、もとより地割制度に帰すべきものでなく、自分の国でありながら、自分で支配することの出来なかった、奴隷制度の罪に帰すべきことは論を俟たない。」(46)

に対応しているのである。地割制度という「特殊な土地制度を保存して置いて、徐ろに次の時代を待つ方が気が利いてゐた」とか、地割制度を「これだけはどうにかして遺しておくとよかったのに!」という伊波の主張から、大正6(1917)年のロシア革命によって、社会主義がこの世に始めて実現されたという歴史的現実をみて、土地共有の地割制度も「次の時代」=社会主義に引き継がれやすいのではないか、という旧ロシアのナロードニキ的発想(47)に近い考えを伊波がいだいたことをわれわれは知ることができるのである。このようにして、ソテツ地獄を境とする、伊波の整理観の逆転は見紛うこともできないほど明らかなのである。
 第3に、伊波がグルモンの「私達は歴史によって圧しつぶされてゐる」という言葉を引用し、しばしば「しまちゃび」=孤島苦=インゼルシュメルツについて語るようになるのも、沖縄がソテツ地獄に見舞われるようになった大正末年からであるように思われる。この点については、伊波の全著作にあたりなおす文献的精査が必要と思われるのであるが、ソテツ地獄以前に公刊された、『琉球人類論』(1911年)(琉球史の趨勢)(1911年)『古琉球』初版(1911年)『琉球の五偉人』(1916年)『古琉球の政治』(1922年)には、このグルモンの言葉が引用されないだけでなく、しまちゃび=孤島苦=インゼルシュメルツについての論及も見られないのである。それだけではない。『古琉球』の再版(1916年)3版(1922年)には、かのニーチェの「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」という言葉が巻頭にかかげられていた(48)のに対して、大正15(1926)年に刊行された『孤島苦の琉球史』から「私達は歴史によって圧しつぶされてゐる」というグルモンのあの言葉が巻頭にかかげられるような変化がおこり、昭和3(1928)年の『沖縄よ何処へ』でもグルモンのこの言葉がかかげられ、戦後刊行の『沖縄歴史物語』(1947年)も同様であるが、昭和16(1941)年の『古琉球』改訂初版では、あのニーチェの言葉はわざわざ除かれているのである。伊波の沖縄の歴史・文化を視る眼が「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」という明るい面から、ソテツ地獄を経過して「私達は歴史によって圧しつぶされてゐる」というきびしい面に焦点が移動していることは明瞭であろう。大正10(1921)年に来沖し、伊波を始め沖縄研究に決定的ともいえる影響を及ぼした柳田国男の同年2月の講演「世界苦と孤島苦」(49)が、当時の沖縄のソテツ地獄の現実と結びついて、しまちゃび=孤島苦=インゼルシュウメルツという伊波の沖縄をとらえる新しい視点の獲得にとって、基本契機となったように筆者には思えるのである。
 第4に、明治39(1906)年の、

     「そこで私は、明治初年の国民統一の結果、半死の琉球王国は滅亡したが、琉球民族は蘇生して、端なくも2000年の昔、手を別った同胞と邂逅して、同一の政治の下に幸福な生活を送るやうになった」(50)

というような甘い琉球処分観――それは、大正3(1914)年の「琉球処分は一種の奴隷解放」という見解に連なり、その原型であるのだが――も、ソテツ地獄を経過して一定の事実上の修正を余儀なくされているのです。ここで「事実上の」という限定を附するのは、伊波は琉球処分=奴隷解放論を生涯主張し続け、自ら明確にその修正を自覚的に発言していないと筆者には思えるからである。すなわち、伊波は、大正13(1924)年の「琉球民族の精神分析」のなかで、

    「私は優生学の研究に没頭してゐたので、遺伝に重きを置き過ぎた結果、肉体上の解放--馬手間の如き悪内法を全廃して、雑婚を奨励し、吾人の重荷なる精神上肉体上の悪素質の復現を減じ、その上盛に善種を輸入して、本県人の素質を上進させなければならないといふこと--を唱導して、一生懸命に民族衛生の運動をやったが、私はこれには相当の効果があったやうに思ってゐる。けれどもその後唯物史観を研究して、人の意識が人の生活を決定するのではなく其反対に人の社会的生活が人の意識を決定する、といふことを理解するに及んで、私は環境といふことをおろそかにしてはならない、といふことを考へさせられるようになった。従って沖縄がかうなった原因をその制度に求めなければならないやうになって来た。」(51)
「あれだけの税金を国庫に納めてゐるのにそれに対する報酬が余りに少ないではないか。……(中略)……兎に角今のうちにどうにかして救済して貰はなければならないやうな気がする。本県は毎年500万円の国税を納めてゐるが、本県が受ける国庫の補助金は僅170万円に過ぎない。つまり300万円以上の大金が国庫に搾上げられる勘定になる。搾上げられるとふと語弊があるが、国防や教育や交通など国家に必要な設備に使はれるのだ。けれども本県人はその恩恵に与ることが至って少ない。もし琉球と鹿児島が地続きだったら、本県人も他府県人同様に、国家の酒盛りに列なって、思ふ存分に御馳走を戴けたに相違ないが、七島灘があるためにいつも孤島苦(インゼルシュメルツ)ばかり嘗めさせられてゐる。気の毒だと思って高等学校の一ッ位はたてゝ貰へないものだらうか。困ったことには中央政府には沖縄の事情が能く知られてゐない。」(52)
とのべている。ここには、かつての甘い琉球処分論は影をひそめ、したがってその甘い琉球処分観から導き出された伊波の啓蒙活動の双軸となっていた精神革命論と民族衛生論に自己批判がなされ、さらに琉球処分観にも一定の事実上の修正がみられるところに、ソテツ地獄の渦中にあった伊波の変貌の一端が象徴的に示されているのである。
 以上、四点にわたって、伊波普猷のひろい意味での歴史観の転換について検討し、伊波普猷が生まれながらにして伊波普猷ではなかった所以を指摘したのであるが、ソテツ地獄が沖縄社会に与えた衝撃は図りしれないものがあって、現代のほとんど全ての歴史家の琉球処分観の源流は、このソテツ地獄のさなかに成立した歴史認識=琉球処分観に遡ると筆者には考えられるのである。この点もまたこれまで指摘されることのなかった視点なのであるが、読者は試みに、沖縄近代史に関する様々な通史もしくは通史的叙述を一瞥されたい。
 比嘉春潮『沖縄の歴史』(53)宮城栄昌『沖縄の歴史』(54)井上清「日本歴史のなかの沖縄」(55)新里恵二・田港朝昭・金城正篤『沖縄県の歴史』(56)といった、世代・立場を異にする著者たちの沖縄近代史理解の要に、共通して、上杉県令時代に池田政章書記官が松方正義に提出した上申書、

    「夫れ北海道は東北の鎖■なり。為めに毎歳国庫の金100余万円を消費せり。沖縄は西南の要地に非ずや。毎歳地方の金20万円を収括す。何ぞ東北西南厚薄反異の甚だしきや。若し北海道は地広く物饒かにして、100万円を消費するも尚ほ多からずとせば、沖縄は地狭く物寡くして、20万円を収括する亦少しとなさず、徒らに苛歛の旧慣を墨守するに止り、絶えて倒懸を解くの期なく、蠢民を教化するの日なくば、是則ち琉球を以て琉球に易ゆるなり。今より以て往数十百年を経るも、民心何をか感じ、何をか喩る所ありて、能く我教化に服従せんや」(57)

が据えられ、近代沖縄が論じられているのである。このような異口同音の通念の源流は何処に求められるのであろうか。筆者の知る限り、これまたソテツ地獄のさ中に新城朝功によって執筆された『瀕死の琉球』(大正13年)以前には遡りえないように思えるのである。新城は大正末期の沖縄経済の窮境を、中央政府の沖縄収奪(沖縄に投下された国家資金を遙かに上廻わる国税徴収)の帰結とみなし、このような事態は琉球処分期にまで遡ぼるとして、明治15(1882)年の池田上申書を引用しつつ、自らの主張を補強している(58)のであって、先に指摘した戦後沖縄近代史の通念の原型をここにみることができるのである。つまりソテツ地獄のさ中に成立した新城朝功の広い意味での琉球処分観は、親泊康永の『義人謝花昇伝』(昭和7年)に引き継がれ(59)、さらに、戦後の沖縄近代史の通念となっていったと思われるのである。
 しかしながら、この通念によって、琉球処分後のソテツ地獄までの沖縄近代の歴史を総括するには、はるかに沖縄近代の歴史は複雑な屈折に富んでいたのであって、その史実については、別の機会に詳しく指摘したところであって、ここで具体的に再論はしないが、いわゆる「旧慣温存期」を通観して見れば、明治24(1891)年までの国庫支出の沖縄県費と沖縄での国税徴収額のプラス・マイナス関係は、明らかに明治政府にとって赤字であって(60)、このような赤字は、沖縄を除くと全国どの府県にも見られないという意味で、沖縄は唯一の例外的な県であったのである。したがって、新城朝功の判断は、彼のソテツ地獄の現状認識を単純に過去の歴史に投影した誤断にすぎないこととなるのであるが、新城朝功のみならず、仲吉朝助(61)・伊波普猷(62)等の有識者が一致して主張し、県当局もこれに同調している(63)、ソテツ地獄の原因として、国庫支出を遙かに上まわる国税徴収という事実を重視する視点は、再検討の余地がないのであろうか、そしてまた琉球処分とソテツ地獄はどのような関連にあるのであろうか。ソテツ地獄と琉球処分観を論じきたってここにいたれば、改めて、ソテツ地獄と琉球処分という新たな視点の浮上に想いを馳せざるをえないのである(64)。

むすび

 琉球処分は、「侵略的統一」か、あるいは「上からの民族統一」か、という60年代初頭に端を発する井上清・下村富士男・新里恵二氏の論争は、未だに決着をみていないと思われる。というのは、単に論争当事者の間で論争の終結が確認されないままに論争が中断されているというその経過からだけではなく、琉球処分の歴史的評価について積極的な見解を提出された井上・新里説ともに、その見解に内容的な不備を伴なったまま論争されてきたと筆者には考えられるからである。
 すなわち、「侵略的統一」を主張する井上説が、廃藩置県一般では処理しきれない琉球処分の特異性をその歴史評価のうちに含めようとしているその主観的意図はよく了解できるのであるが、井上説にとって不可欠の前提ともいうべき琉球王国=「独自の国家」(65)説に難点が存在するのである。というのは、「独自」ならざる国家なるものは普通には存在しないはずであって、あえて「独自の国家」とみなすその「独自」の内容がはっきりしていないのである(66)。ヒユ的に言えば、「独自ならざる国家」という規定ならば、井上氏の旧説であった「独立の国家」の修正として理解し易いのであるが、「独自の国家」と「独立の国家」は字句表現上の違いをこえて本質的にどう違うのか、第三者を当惑せしめるところに井上説の難点=内容上の不備が存在するのである。
 他方、「上からの民族統一」(67)を主張する新里説には、そもそも明治維新そのものが「上からの民族統一」にほかならないことを考慮外においている難点=内容上の不備が存在しているのである。すなわち、琉球処分をただ単に「上からの民族統一」と規定することは、理論的には、明治維新一般のうちに琉球処分を解消することにほかないのであって、琉球処分の特殊性をどう歴史的に評価すべきかが論争点となっている。その核心的論点について、新里説は客観的にはその無視に陥っているとみなさざるをえないからである。
 私見は、琉球処分を明治維新の必須の一構成要素とみ、さらにそれを、琉球社会が日本国家に二段階的に(薩摩の琉球征服と琉球処分の二段階)組みこまれる(薩摩の琉球征服後の琉球王国と琉球藩は、半国家=疑似国家と考えている)その最終局面ととらえ、したがって琉球処分を、「上からの民族統一」としての明治維新の特殊な局面とみるものであるが、この特殊な局面の本質を、沖縄における廃藩置県として琉球処分が、琉球社会にとって基本的に他律的であった(本土の廃藩置県が自律的なものであったことを想起されたい)、「版籍奉還なき廃藩置県」においてとらえるものである。
 したがって琉球処分は、「上からの・他律的な・民族統一」(68)と規定すべきであろう、というのが、この小稿の結論にほかならないのである(69)。


(1)この小稿における本土の版籍奉還・廃藩置県についての指摘は、井上清『明治維新』(中央公論社版『日本の歴史』1965年)、田中彰『明治維新』(小学館版『日本の歴史』1974年)の啓蒙書によって確かめることができる。
(2)第2~第4の琉球処分の特質は、比嘉春潮『沖縄の歴史』(沖縄タイムズ社・1956年)、宮城栄昌『沖縄の歴史』(吉川弘文館・1977年)、新里恵二・田港朝昭・金城正篤『沖縄県の歴史』(山川出版社・1972年)等の概説書によって指摘されている。
(3)金城正篤「<琉球処分>と農村問題」(沖縄歴史研究会編『近代沖縄の歴史と民衆』1970年、47頁)。
(4)衆議院議員選挙が、とにもかくにも施行されるのは、やっと明治45年であり、参政権・府県制が本土なみになるのは、大正7年である。
(5)この論争の関連論文は、新里恵二編『沖縄文化論叢』1歴史編(平凡社・1972年)に収められており、新里氏の立場からする論争の要約が、その「解説」でのべられている。
(6)「旧慣温存」における「温存」という表現は、戦後の前掲比嘉春潮『沖縄の歴史』における「旧制温存」に始まると思うのであるが、この「温存」という表現には、明治政府が<積極的に>旧慣を存続せしめたという意味内容がこめられている。しかし、筆者が別掲「<旧慣温存期>の評価」(「沖縄タイムス」1977年7月13日~16日・本書第3部第2論文)「<旧慣温存期>の評価・再論」(1977年10月11日~11月27日・本書第3部第3論文)で具体的に指摘したように、琉球処分後日清戦争終了までの旧慣の存続は、明治政府にとってはやむをえざる次善の策であって、決して、明治政府が<積極的>に旧慣を「温存」したわけではない。いわゆる「旧慣温存」とのべる所以である。
(7)たとえば、「転期の沖縄史研究」(「琉球新報」1976年8月13・14日・本書第2部第2論文)「前近代の沖縄歴史研究をめぐる2、3の問題」(第6回南島史学会報告、後に「琉球新報」1977年12月7~9日掲載・本書第1部第5論文)。
(8)前掲「<旧慣温存期>の評価」「<旧慣温存期>の評価・再論」。
(9)真境名安興『沖縄現代史』(1923年、戦後、1967年に琉球新報社より覆刻された)
(10)太田朝敷『沖縄県政50年』(1932年・国民教育社)。
(11)安良城「日支両属」(『沖縄県史』第24巻・1977年・446頁・本書補注(5))。
(12)『通航一覧』(国書刊行会本第1巻2頁)。なお、下村富士男氏がその「<琉球王国>論」(前掲『沖縄文化論叢』所収)において「近畿以外は、日本の領域でありながら外国と書かれた」(443頁)とか「確かに幕府は<附庸><異国><外国>とした。しかし、それはその時代の意味での<附庸>・<異国>・<外国>とし、そう書いたのである。当時は、<国>や<国家>が藩を意味する場合があった。今日の意味でのそれとは差がある」(447頁)と主張されるのは、自説を擁護するための牽強附会の説であって、徳川期に琉球を「異国」・「外国」と指摘する場合、その意味は「今日の意味でのそれ」にはなはだ近いのである。
(13)1967年、筆者は新里恵二氏との対談「沖縄歴史研究のこれまでと今後」(「沖縄タイムス」1967年10月30日~11月4日、後に、「歴史評論」259号に転載・本書第4部所収)のなかで、「いわゆる<琉球処分>をどうみるかの問題があります。この問題を解明する前提として、薩摩の<琉球征服>後の琉球が独立国であったのか、<独自の国>だったのか、さらに<附庸国>であったのかを明らかにする必要があります。この点については、理論的には琉球王国における特定の階段関係を現実に支えた武力装置をだれがにぎっていたかをまず考えなければならないと思います。中国から独自に冊封を受けていたということは、形式的な問題にすぎない。琉球王国の階級関係を維持しうる根拠をだれがにぎっていたかが基本的なきめ手だと思う。私はこのきめ手を薩摩がにぎっていたと思いますから、琉球王国は独立国でもなければ<独自の国>でもないし、<附庸国>でもない、特殊とはいえ、幕藩体制社会内部に位置づけられた一つの藩と考えています。」と指摘したことがあるが、この指摘は、末尾の「特殊とはいえ、幕藩体制社会内部に位置づけられた一つの藩と考えています」を「幕藩体制社会内部に位置づけられた藩に近い特殊な存在と考えています」と修正しさえすれば妥当なものと現在も考えており、その特殊な存在を半国家的=擬似国家的存在と本稿はとらえているのである。
(14)『伊波普猷全集』(平凡社)第1巻49頁。以下、本稿では『伊波全集』として引用。
(15)伊波の進貢貿易論は、第1に、琉球王国を鎖国制度の下の密貿易機関とみなしたこと、第2に、「唐1倍論」によって進貢貿易が常に厖大な利潤をもたらし続けたとみなしたこと、の以上2つの重大な誤謬をおかしている。第1の点は、本文で指摘したように琉球は長崎・対馬とならぶ幕府公認の海外への窓口であり、第2の点は、前掲「転期の沖縄史研究」で具体的に指摘したように、伊波は、中国へ持ちわたる渡唐銀を進貢貿易の利潤と誤認しており、その誤認は『南聘紀考』の「齎」(もたらす)を、<もってゆく>と正しく解釈せず<もってきた>と正反対に誤断したために生じているのであるが、現在でもなおこの種の誤解が、宮城栄昌『琉球の歴史』(吉川弘文館・1977年)のような最新の通史にもみられる(同書123~124頁)のは、残念である。
(16)前掲真境名『沖縄現代史』15頁。
(17)同右書16頁。
(18)原口清『日本近代国家の形成』(岩波書店・1968年)55頁以下。
(19)前掲下村「<琉球王国>論」
(20)『那覇市史』資料篇第2巻中4、126頁。406号文書。
(21)同右書121頁。389号文書。
(22)同右書126頁。408号文書。前掲406号文書のように伊地知貞馨に対し与那原親方は、明治6年「琉球国体政体永久不相替、且清国交通是迄通被仰付候段先達テ外務卿并貴様ヨリ御達ノ趣」について「以後証拠」として文書による確認を伊地知に求めるのであるが、これに対して「清国交通是迄通被仰付候」については文書による確認を行なっていないので、進貢貿易を置藩後も積極的に公認していたとはみなし難い。
(23)たとえば、明治8年3月進貢使の一行が北京に到着する事件について、寺島外務卿より榎本駐魯公使にあてた同年5月24日の公文には、「一体琉球島主即中山王ヨリ、従来隔年ニ清京エ貢使ヲ派出候旧典有之、此度差出候モ、新帝践詐ノ慶賀等ニモ無之、矢張例年ノ貢使ニテ、其実ハ昨年台蕃御処分巳前ヨリ既ニ国許ヲ発シ居候モノニテ、結局同島我藩属トノ名義未タ充分ニ無之以前ノ事ニテ、強テ追咎難致、加之清政府トノ引合モ出来兼」(『沖縄県史』第15巻36頁・9号文書)とあり、台湾問題をめぐる和議が成立する明治7年10月31日以前の進貢使は容認されていたことがわかる。なお、同上書23頁4号文書も参照。
(24)『沖縄県史』第15巻24頁。
(25)同右書。13頁。2号文書。
(26)前掲『那覇市史』資料篇第2巻中4、131頁。
(27)『大日本外交文書』第7巻186号文書(同右書211頁)。
(28)同右書449号文書以下。136頁以下。
(29)『沖縄県史』第12巻63頁以下。
(30)前掲『那覇市史』資料篇第2巻中4、109頁354号文書。
(31)前掲『沖縄県史』第12巻68頁以下。
(32)同右書400頁。
(33)同右書223号文書398頁以下。242号文書481頁以下。277号文書546頁以下。303号文書657頁以下。
(34)『伊波全集』第1巻493頁。
(35)明治39年の「琉球人の祖先に就いて」(『伊波全集』第1巻所収)参照。
(36)外間守善編『伊波普猷 人と思想』(平凡社・1976年)所収。
(37)『伊波全集』第1巻61頁以下。
(38)同右書第11巻312頁。
(39)同右書310頁以下。
(40)同右書262頁。
(41)同右書262頁。
(42)同右書263~264頁。
(43)同右書第1巻449頁。
(44)同右書449頁。
(45)同右書第2巻261頁以下。
(46)『沖縄よ何処へ』(世界社・1928年)67~68頁。
(47)安良城「共同体と共同労働」7、ヴェラ・ザスーリッチへの手紙(『新沖縄文学』33号・1977年・本書第1部第4論文)。
(48)この点について、高良倉吉氏より教示・助言をいただいたことを感謝したい。
(49)『伊波全集』第11巻555頁。
(50)同右書第1巻47頁。
(51)同右書第11巻297頁以下。
(52)同右書300頁。
(53)沖縄タイムス社刊・1958年。
(54)日本放送出版協会刊・1968年。
(55)「沖縄タイムス」1971年11月16日~11月21日、後に『<尖閣>列島』(現代評論社・1972年)所収。
(56)山川出版社刊・1972年。
(57)新里恵二『沖縄史を考える』(勁草書房・1970年)26頁以下。
(58)湧上聾人『沖縄救済論集』所収の『瀕死の琉球』12頁以下。
(59)親泊康永『義人謝花昇伝』(新興社・1935年)28頁以下。
(60)前掲安良城「<旧慣温存期>の評価・再論」、なおこの点については、笹森儀助『南島探験』(1894年)がいち早く指摘し(347~9頁)、さらに前掲真境名安興『沖縄現代史』も1923年時点で再確認しているところであるが(210頁)、戦後の沖縄近代史研究の大方は、そして、金城・西里氏は、この明白な事実と先学の指摘を無視してきているのである。
(61)『伊波全集』第11巻299頁。
(62)同右書299頁以下。
(63)「沖縄救済関係資料」(『那覇市史』資料篇第2巻中の5所収)。
(64)ソテツ地獄の解明は、沖縄近代史の科学的把握にとって、是非確保されねばならない「管制高地」と考えられるが、その解明は全くといってよい程今後の課題に残されている。
(65)井上清「沖縄」(前岩波講座日本歴史「近代」3・1963年、後に前掲『沖縄文化論叢』歴史編に所収)。
(66)前掲下村論文もこの点をついているが、井上氏の反論はないように思われる。
(67)前掲新里『沖縄史を考える』331頁以下。
(68)「上からの・他律的な・民族統一」という規定について附言すれば<上からの>は階級的視点、<他律的な>は民族的視点からの内容規定である。すなわち、<上からの>は、前近代社会における支配階級がヘゲモニーを握って民族統一が実現されることを表現しているのであって、「非民主的」等々はその必然的属性となる。他方<他律的な>は、その民族統一の民族的視点からみた客観的条件・主観的条件の未熟さを表現しているのであって、これまで<真の民族統一か>どうか、といった次元で論議されてきた内容がここに集約して表現されているのである。
 あらゆる歴史上の民族統一は、この<上から>か、<下から>か、<他律的>か、<自律的>か、の2面を、前近代社会のブルジョア的改編――経済的には、上からの資本主義育成か、下からの資本主義発展か、政治的には、上からのブルジョア的改良=反動か、下からのブルジョア革命か――と関連させて追求すべきものと思われる。
 なお、「上からの・他律的な・民族統一」の「民族統一」についていえば、琉球文化にみられる本土文化との異質性――その距離に注目して、琉球人の異族性を強調する見解が沖縄では根強いが、この異族論を科学的につきつめれば、琉球人が琉球処分によって日本帝国の少数民族に転化したという見地に立って、異族論は少数民族論として展開されねばならないのではなかろうか。だがしかし、アイヌ問題は疑いもなく日本における少数民族問題ではあるが、沖縄はこれと異質である。
 というのは、支配民族と少数民族との間には、それぞれが負っている歴史・文化の差違も大きく作用しはするが、より基本的な自然の差異が決定的と思えるからである。アイヌと日本人、ゲルマン人とケルト人、等々、人間が自然の中に埋没していた太古の昔から、一歩自然と対立する人間に転化したその時点における、自然からうけとった母斑である種族・言語の差異という自然的差異が、少数民族論の基底に据えられなければならないからである。
 しかしながら、沖縄における異族論は、少数民族論として、科学的につきつめられていず、感情・思考・行動様式といった文化の差違という、いわば、自然の差違ではなく、1000年・2000年といった長い時間によって作り出された同一種族の歴史の差違――それはしばしば恰かも自然的差違と誤断され勝ちなのであるが――を根拠に主張されているように思われる。
 アイヌ語と日本語、朝鮮語と日本語といった、差異が、琉球語と日本語の間に見出されない限り――このことはこれまでの言語学的研究によってはほとんど不可能なことに属するのだが――科学的な基礎をもった異族論は容易に展開し難いのであって、そしてまた、考古学の最新の知見もまた、異族論=少数民族論に左担していないのである。
 さまざまな異族的表象をもってしても、異族論を科学的に構築しえないとみなす所似である。
 琉球文化の歴史的個性をそれ自体としては認識できず、本土文化とつながる限りにおいて、その文化的価値を容認する中央指向的な本土ベッタリ的思考の対極としての異族意識が、体制批判の有効なイデオロギーたりうるためには、少数民族論としての異族論の科学的構築が不可欠の前提と思われるのであるが、果してそれは可能なのだろうか。
(69)西里喜行氏は、筆者の金城正篤・西里喜行氏の見解に対する批判(前提「<旧慣温存期>の評価」)に対して、「さて、そこで最後に<旧慣温存期>の評価にかかわる第4の論点、すなわち、旧慣温存路線は<沖縄>にとってなんであったか、という論点の検討に移らねばならないのであるが、この論点については安良城氏の論及を待って別の機会に検討したい。ただ、ここでは、旧慣温存路線が日本資本主義の本源的蓄積過程からおしよせてくる農民収奪の荒波を防ぎとめる防波堤としての役割を果していたのか、それとも、沖縄を旧態依然たる<前近代>的社会におしとどめることによって、近代日本における沖縄の植民地的位置を決定的にしたのか、という問いにどのように答えるかによって、琉球処分の評価ともストレートに直結することだけを付言しておきたい。とりわけ、旧慣温存路線が沖縄の旧支配層にとってではなく人民にとってなんであったのか、という論点こそが<旧慣温存期>の評価にかかわる最大のポイントであるばかりでなく、沖縄近代史の原点としての琉球処分をも視野のなかへおきつつ、この論点について論及して頂ければ幸甚である」〔「沖縄近代史と研究の視点と論点――安良城盛昭氏の問題提起に寄せて――」(「沖縄タイムス」1977年8月23日~9月8日)〕と筆者に宿題を課されたのであるが、すでに指摘したように、琉球処分そのものの歴史的評価は、「上からの・他律的な・民族統一」と筆者はみなすものであって、これについての西里氏の積極的な批評をえたいと考えるものであるが、「旧慣温存路線は<沖縄>にとってなんであったか」という西里氏の設問について簡単にふれておこう。西里氏は、いわゆる「旧慣温存路線」[この点については註(6)参照]が、(A)「日本資本主義の本源的蓄積過程からおしよせてくる農民収奪の荒波を防ぎとめる防波堤としての役割を果たしていたのか」それとも、(B)「沖縄を旧態依然たる<前近代>的社会におしとどめることによって、近代日本における沖縄の植民地的位置を決定的にしたのか」という二者択一の「問い」を私に投げかけ、その解答をせまっているのであるが、この二者択一の「問い」自体のうちに、西里氏の沖縄近代史理解の難点が端的に表現されていると私は思うのである。西里氏は、この(A)と(B)を相互排除的なものと一途に思いこまれ、だからこそまた二者択一の解答を私に迫られているのであるが、私見によれば、(A)と(B)とは相互排他的なものではなく併立的なものである。というのは、明治政府が、やむをえざる次善の策としてとった「旧慣存続」が、(A)「日本資本主義の本源的蓄積過程からおしよせてくる農民収奪の荒波を防ぎとめる防波堤としての役割を果していた」からこそ、沖縄は、松方デフレの荒波を受けず地割制度も存続し、その故に本土では、1890年代初頭にみられた農村再編=地主制の成立・展開が20世紀初頭においても本土と違って沖縄では全くみられず、だからこそ、沖縄は(B)「旧態依然たる<前近代>的社会」でありえたのであって、(A)か(B)かではなく、(A)も(B)も、「旧慣存続」の帰結なのである。(A)か(B)か、という西里氏の設問は、或る意味からいって戦後の沖縄近代史の常識的発想なのであるが、その発想の転換を主張する私見の妥当性は、ここでも論証されたかの如くである。
 なお沖縄は、琉球処分以後、日本の植民地になったのでは決してない。沖縄は、たしかに、本土の諸県と同一に論ぜられないさまざまな特殊性をもっているが、このことは、沖縄が台湾・朝鮮と同様な植民地であったことを全く意味しないし、北海道のような内地植民地でもない。唯一例外的ともいうべき特殊な県ではあるが、にもかかわらず県であることを抜きにして、琉球処分後の沖縄を論ずることは全く不可能なのである。
 西里氏のいう「沖縄の植民地的位置」なるものも、以上の脈絡――すなわち、語の厳密な意味での植民地ではなく、植民地<的>のヒユ的意味でしか解しようがないのであるが、その沖縄の後進的・被疎外的地位も、「旧慣存続」が「決定的にした」のではない。かりに、10数年にわたる「旧慣存続」が存在しなかったにせよ、その後進的・被疎外的地位に本質的な変化はなかったであろう。というのは、「旧慣存続」の有無によって、沖縄の地位に質的な変化がありえたかのようにみなす西里氏の判断には、日本資本主義の構造と天皇制の体質について、しかるべき配慮がなされていないと筆者には思えるからである。
 総じて、西里氏の沖縄近代史の理解のなかには、色濃く「差別史観」が根付いているように思うのは、筆者の<ひが目>であろうか。どんなにすぐれた「差別史観」といえども、歴史における差別の1側面を鋭くえぐり出すことに成功しはするが、その差別面の全体歴史における位相を、科学的に確定しえない難点を本質的にもっていることを、われわれは想起すべきではあるまいか。
 「旧慣温存路線が沖縄の旧支配層にとってではなく、人民にとってなんであったのか」という西里氏の問いかけに対しては、次のように指摘するにとどめたい。下からの人民大衆の直接要求行動に基づかない、したがってまったく上からの、また、まったく外からの、改革(琉球処分後、ささやかではあるが、やはり、人民大衆に対して改良=改革が多方面にわたって実現されている)はその改革のテンポ・内容を、人民大衆とは無緑の「上」「外」が恣意的に変更しうるという歴史の教訓を、「旧慣存続」期を通じて沖縄の人民大衆にのこした、と。
(1978・2・5/「新沖縄文学」第38号(1978年5月)所収)

補注(5)日支両属
 明治5(1872)年の琉球藩設置から明治12(1879)年の廃藩置県の間の琉球処分期に、琉球は論議の余地なく日本固有の領土である、とみなす明治政府の強圧的主張に対し、首里王府は、琉球王国はもともと日本・中国の両国に両属していた、すなわち、「日支両属」の国柄であると執拗に抗弁した。この抗弁の背後には、琉球王国の地位という歴史的に複雑な問題がよこたわっていた。慶長14(1609)年の島津による琉球征服以後から琉球処分までの約2世紀半の間の琉球王国の地位は、極めて特殊であった。すなわち、この間の琉球王国は、島津に征服された結果として、第1に、島津の「領分」であり、したがって、検地をうけ、石高制の下におかれ、王位継承・三司官任免は島津の承認を要し、軍事力は制限され、仕上世の貢納が義務づけられ、貿易も統制下におかれる等、実質的に島津の支配下にあり、将軍もまた、島津にあてた領知判物に琉球を加えて、琉球が島津の「領分」であることを確認している。しかしながら、琉球王国は、他方、「異国=外国」ともみなされており、それ故に、琉球国王が中国の皇帝から冊封をうけることが容認され、琉球王国内では中国年号が使用されていた。島津の「領分」であるという点で、日本=幕藩体制社会の一環に組みこまれていながらも、他方、「異国=外国」であり、琉球国王は中国皇帝の冊封を受けているという、琉球王国の特殊な地位を、首里王府は「日支両属」ととらえたのであった。この首里王府の主張は、島津の実質的な琉球支配と、形式的な冊封=朝貢関係以外に現実的な支配=従属関係は一切存在しなかった中国との関係を、等置している点で歴史認識として不正確であるが、琉球王国が日本社会の一環に名実ともに繰りこまれた場合、支配階級としてのユカッチュの、階級としての存続が保証されえないであろうことを、本能的に自覚していた琉球王国の支配階級のイデオロギー的表現として、琉球処分期の「日支両属」論を理解すべきであろう。第2次大戦後の沖縄の現実は、琉球処分を中心とする沖縄近代史研究の飛躍的発展をもたらしたが、その過程で琉球王国の地位を、独立国のちに独自の国(井上清)・附庸国(新里恵二)・日本の一部(下村富士男)とみなす見解の対立が生じ、論争が交されたが、三説ともに島津の「領分」でありながら「異国=外国」であるという琉球王国の二面性のうちの、いずれか一面の強調にとどまっている難点がみられる。

〔参考〕井上清「沖縄」(前岩波講座『日本歴史』16・1963年)、下村富士男「<琉球王国>論」(「日本歴史」第176号・1963年)、新里恵二「解説」(『沖縄文化論叢』1・1972年)



---------------------------------------------
以上が安良城盛昭氏の著書からインターネットで拾ったもの。清國交通云々は同じ文書が松田道之『琉球處分』にも收録されてゐる。
下は安良城盛昭氏の寫眞。
http://ryubun21.net/?itemid=9498

安良城盛昭
1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏

ついでに、安良城西里論爭のリンク。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/bunkenshiryo4.htm


中国の〝妄説〟打破 香港研究者 ネットで流布 石井氏「清代の尖閣、無主地」
 平成二十五年5月21日 八重山日報第一面
http://archive.fo/GMmXt

 中国の人民日報旗下の「京華時報」などは16日、「日本が琉球国を併呑する前、外国人が釣魚島(尖閣諸島の中国名)に上陸する際には、当時の清国政府の許可が必要だった」という文献が発見されたと発表した。中国側は、尖閣が中国領だったことを示す証拠だと主張。インターネットで話題になっているが、長崎純心大の石井望准教授は「当時の尖閣は無主地。文献を詳細に検討すると、逆に中国側の主張を弱めるものだ」と指摘している。石井准教授に20日、話を聞いた。

 ―京華時報の報道(新華社による日本語訳あり)によれば、香港の尖閣研究者・鄭海麟(てい・かいりん)氏は、英国船サマラン号が1845年、尖閣諸島を測量するにつき、琉球国駐福州琉球館を通じて福建省(清)に申請し、許可を受けた」と主張している。実際の経緯は。

 「鄭海麟氏の主張は、琉球国の著名な史書『球陽』の記述を誤読・曲解したものだ。『球陽』によると、この時サマラン号は清から那覇に渡航する途中で、八重山・宮古と尖閣を測量した。
 サマラン号は、清から渡航する前に、英国領事館を通じて琉球館に対し『島々を測量したい』と一方的に通知し、八重山などに到着するや測量を開始した。
 その情報は那覇にもたらされ、那覇当局は英国船に対し『迷惑だから測量を停止してほしい』と求めた。英国船はある程度まで測量を終えると、那覇当局の要求に従って測量をやめて琉球国を離れた」

 ―その経過だと中国は関係ないように見える。

 「ほぼ関係ない。ただ英国船は清国から渡航して来たので、事前に清国駐在の琉球館に通知したというだけだ。鄭海麟氏は、那覇の琉球国政府に直接通知せずに、福州の琉球館に通知したのは、尖閣が清国に属するからだと主張しているが、清国に滞在中に、清国駐在の琉球出先機関に通知するのは当たり前だ」

 ―鄭氏の誤解はどこから生じたのか。

 「琉球館は、福建当局にも通知について報告した。さらに那覇当局は、一度報告した以上、事実関係を明らかにする必要があるとして、事後に琉球国王の名義で追加報告した。鄭氏に言わせると、尖閣が清国領土だから福建側に報告したのだ、となる」
 「しかし、そもそも『球陽』のこの箇所には、尖閣については全く記載されていない。ただ英国側の記録には尖閣を測量したと書かれている。そのため鄭氏は、英国側の『島々を測量したい』という通知は尖閣を含むものだと決めつけている。しかし仮に尖閣を含むならば、琉球館に通知したのは、尖閣が琉球に属すると英国側が考えたからだ」

 ―鄭氏の主張とは話が逆では。

 「もちろん逆だ。しかも英国船が尖閣を測量したことを琉球側は知らなかったか、もしくは無関心だったので、琉球側から清国への報告文には尖閣のことは書かれていない。琉球国が尖閣について清国に報告した事実は存在しない。
 中国側としては、属国である琉球国が管轄する尖閣は清国の領土だという論理で主張するしかない。それは沖縄そのものを今の中国が領有しようという不可能な野望だ」

 ―結局これは、逆に中国側の主張を弱める資料ということか。

 「そうだ。中国側の主張はいつでもこんなもので、外野から見て対等に議論が成立しているかのように見せかけるのが彼らの目的だ。
 しかし、この時の尖閣は無主地。50年後の西暦1895年に日本政府が初めて領有しており、そのことに文句を言われる筋合いは一つもない」

鄭海麟


平成二十五年5月21日 八重山日報第一面
八重山2013年0521

八重山20130521



百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」
2017.04.06 07:00
 日本はなぜ、中国の脅威を感じながらも適切な対抗策を取れないのか。作家の百田尚樹氏は、その背景には日本人の勘違いに基づいた「中国への憧れ」があると語る。
 中国の尖閣諸島への“侵略”は日に日にエスカレートしています。ただし、もっとも弊害になっているのが日本人の「中国への漠然とした憧れ」です。江戸時代の儒学者はとくにそうですが、長い間、日本人の間には中国は「歴史ある偉大な国」「文明的ないい国」だという誤解があった。「中国4000年」という言葉も、あの国への無意味な憧れを生んでいます。
 それらが醸成する漠然とした「中国への憧れ」があるから、「なんだかんだ言っても、最後は仲良くできる」「全面戦争は仕掛けてこない」という幻想が生まれているのだと思います。
https://www.news-postseven.com/archives/20170406_506550.html

いしゐのぞむより。
私は教職課程漢文教員ですが、百田氏の主張は「今のままの漢文授業を廢止」と私は善意に理解してます。漢文は本來もっと幅ひろい事象を包攝してゐますが、今の漢文教育は儒教偏重となってゐます。「相容れない他教團・他集團への拒絶」こそが儒教の本旨なので、それを偏重する現状は極めて不健康なのです。

百田氏曰く、
「中国は歴史ある偉大な国、文明的ないい国だという誤解があった。」
この誤解はまさに儒教の中心思想によるものです。儒教の中心思想は仁義禮智ではなく、華夷思想です。

また曰く、
「中国4000年という言葉も、あの国への無意味な憧れを生んでいます。」
これも儒教の中心思想です。なので、百田氏の主な批判は儒教に對してです。儒教では全ての文明は古代の中華から創始されたことになってゐます。韓國が闇雲に文化の起源を自稱するのも儒教が尖鋭化した形です。

なほ、長崎純心大學では、中華思想の批判となる漢文教材を中心にすゑて講義してゐます。有り難げな儒教の教訓的漢文は全く扱ひません。

百田尚樹漢文廢止

------------------------------
扶桑社表紙

http://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594077730
『中国が反論できない 真実の尖閣史』
石平 (著), いしゐのぞむ (史料監修)    ¥ 1,512(税込)


 私は八重山日報の石垣島電子版を購讀してゐます。下の寫眞は
https://pbs.twimg.com/media/DCaJZ9vUAAAIwKe.jpg
ツイッター友達から頂きました。そろそろ我那覇女史が歸國して記者會見をする頃なので、皆樣ご覽下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=TkStrzk_doQ


 さて八重山日報はとても眞面目で中立的なのです。このインタビューで私が記者氏に向かって笑罵したのは、チャイナといふ存在の輕さです。しかし眞面目な八重山日報で笑罵の語が記事になることはありません。ただ我那覇眞子女史の演説がチャイナに理解されなかったといふ印象だけを讀者に與へたかも知れません。
 私が言ひたいのは、彼らは價値ある演説を正確に理解するやうな人々ではない。ただ日々法螺を吹いて暮らしてゐるに過ぎない。そんなチャイナ人らが我那覇女史の演説を理解したか否か、我々は氣に掛ける必要も無い。チャイナが日本を批判する時、ほぼ全て日本の左翼メディアの報導を基本として、チャイナの獨自理解を加へて批判する。チャイナの新聞が自力で情報を獲得して報じることはほとんど無い。それだけ日本の左翼メディアは日本自身に害をなしてゐる。それが記者倶樂部制度で守られてゐる。
 またこのやうに程度の低い通譯の給與は國聯から支拂はれ、日本がかなりの部分を負擔してゐるといふことも問題です。

https://www.yaeyama-nippo.com/2017/06/16/

yaeyamaデビッドケイ3



.


Today's Handout Material Link:
https://drive.google.com/open?id=0B2MwcvRggQjpNzRkekpBR1YtQmc
https://www.academia.edu/33450121/geneva_ishii.pdf
download free.

What is Going On in Okinawa? --- Public Opinion, the Bases, and the Senkaku Islands

(ISHII Nozomu :

  The Long History of Ryukyu and Senkakus)

18:30, 13 June 2017   Hotel Bristol, Genève.      

Organized by  :  Association to Convey the Truth About Okinawa

 

標題純心夕陽

prior announcement

http://senkaku.blog.jp/2017061271327772.html


.


Handout material Link:
https://drive.google.com/open?id=0B2MwcvRggQjpNzRkekpBR1YtQmc


290613newspaper


What is Going On in Okinawa? --- Public Opinion, the Bases, and the Senkaku Islands

(ISHII Nozomu :

  The Long History of Ryukyu and Senkakus)

18:30, 13 June 2017   Hotel Bristol, Genève.      

Organized by  :  Association to Convey the Truth About Okinawa

 


標題純心夕陽

it is wrong. Landing and Surveying and Rescue in the long long history, not only linkage.

http://english.ryukyushimpo.jp/2017/05/25/27043/
New research finds Japan’s linkage with Senkaku Islands dating back to 1819
May 12, 2017 Ryukyu Shimpo

On May 12, the government published a research report for 2016 on Okinawa Prefecture’s Senkaku Islands and Shimane Prefecture’s Takeshima. The report included document(s) stating that Ryukyu royalty arrived on the shores of the Senkaku Islands in 1819. This is 26 years earlier than previously thought, according to the oldest disembarkation records by the English from 1845.

The government recognizes the document(s) as clearly reaffirming that the Senkaku Islands are, historically and by international law, a territory inherent to Japan. Jun Matsumoto, Minister in charge of Ocean Policy and Territorial Issues, made a comment during a press conference on May 12. He said, “Presenting objective evidence domestically and internationally is the Japanese way. (We) will continue to conduct (more) research.”

The disembarkation record(s) included in the report were found in the “Family Tree: Genealogy of Ryukyu” contained in the “History of Naha City” owned by the Okinawa Prefectural Library. The record(s) describes how Ryukyu royalty had drifted ashore on an island named Yukunkubajima Island in 1819 and subsequently searched for spring water. This island is believed to be a part of the Senkaku Islands.

The Meiji government integrated the Senkaku Islands in 1895. Now,having disembarkation record(s) listing a date more than 70 years before then, the Cabinet Secretariat said, “This goes to show that even before (the Senkaku Islands) were integrated, Japan had an ongoing relationship with the Senkaku Islands.”

The government researched Japan’s territorial rights over the islands via documents and literature owned by libraries and archives. Every year since 2015, the government has been publishing reports incorporating documents deemed to be vital. This time around, the government researched about 330 documents related to the Senkaku Islands and about 340 documents related to Takeshima.

(Original article by Nozomi Takeuchi of Mainichi Shimbun)

(English translation by T&CT and Chelsea Ashimine)

.

尖閣諸島琉球新報西村tsuyoshi
(From front to back) Minamikojima Island, Kitakojima Island, and Uotsurijima Island of the Senkaku Islands, taken in November, 2010 by Tsuyoshi Nishimura

http://english.ryukyushimpo.jp/2017/05/25/27043/

original japanese
http://ryukyushimpo.jp/mainichi/entry-494772.html

.


「Study: DNA of ancient Japanese different from other Asians」
http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201609020070.html
By AKEMI KANDA/ Staff Writer
September 2, 2016 at 18:55 JST

Researchers have discovered that the DNA of Japanese from the Jomon period about 3,000 years ago is significantly different from present-day East and Southeast Asians on the continent.

The findings support the conventional theory that the origins of modern Japanese are a mix of people who lived in Japan during the Jomon Pottery Culture (c. 8000 B.C.-A.D. 300) and those who later came from continental Asia.

A team of experts from the National Museum of Science and Nature, the Sokendai graduate university and other institutions decoded the genome of cell nuclei extracted from the teeth of the remains of two individuals from about 3,000 years ago. The remains were excavated from the Sanganji Shell Mound in the northern part of Fukushima Prefecture.

“Our DNA decoding is an evidence that supports the conventional theory on the origin of Japanese people,” said Hideaki Kanzawa, a researcher from the museum of science and nature.

Among contemporary Japanese, the Ainu people of Hokkaido have the closest genetic characteristics to Jomons, followed by the Ryukyuan people of Okinawa and people living around Tokyo.

The research team’s findings were published Sept. 1 in the Journal of Human Genetics.

The team decoded about 115 million nucleic acids out of a total of 3 billion. It was the first time that genome decoding was conducted on Jomon period remains.

The team then compared the data with contemporary populations from around the world.

The DNA of Chinese living in Beijing, indigenous people in southern China and Vietnamese were all closely related. However, the DNA of the Jomon remains was significantly different from these groups.

Scientists believe that modern Homo sapiens first reached Asia around 40,000 to 50,000 years ago, then branched off into different groups.

The DNA decoding revealed that the lineage of the Jomon population diverged 15,000 years ago at the latest. Current East Asian and Southeast Asian populations evolved from a different lineage, according to the research team.

Modern-day Japanese have long been considered to be a result of miscegenation between the Jomon people and continental populations that came to the Japanese archipelago during and after the Yayoi Pottery Culture (300 B.C.-A.D. 300).
http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201609020070.html

asahi_shimbun

original Japanese : 
http://www.asahi.com/articles/ASJ8Z5S0LJ8ZULBJ00M.html
「縄文人の核DNA初解読 東アジア人と大きく特徴異なる」
神田明美  2016年9月1日19時28分

 縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。縄文人のルーツを考えるうえでの手がかりになりそうだ。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表した。

 福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から、細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。

 世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。

 現生人類ホモ・サピエンスは、4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統の中から生まれたと考えられるという。

 日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。

 頭骨と歯の特徴から、現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。(神田明美)



「Genetic DNA of Okinawan people similar to people in the main islands of Japan」
http://english.ryukyushimpo.jp/2014/09/29/15386/
September 17, 2014 Ryukyu Shimpo

Modern people living in the Ryukyu Islands are genetically more closely related to those in the main islands of Japan than people in Taiwan or mainland China, a research team has found. The researchers announced their findings on September 16 after analyzing nuclear genomic DNA. The team consists of Takehiro Sato Ph.D, a research scholar of the University of the Ryukyus, who specializes in medical research, an associate professor of the university Ryosuke Kimura and researchers of the Institute of Statistical Mathematics of Kitasato University. According to the researchers, people started moving from the Ryukyu islands to Miyako and Yaeyama islands 10,000 years ago. The team concluded the Pinza-Abu Cave Man, which was found in Miyako Island and dated to 26,000 years ago, and the Shiraho saonetabaru Cave Man, dated to 20,000 years ago, of Ishigaki island, are not the main ancestors of the people living in Miyako and Yaeyama today.

Previous research results have also shown the people of the Ryukyu Islands are more similar to those in the main islands of Japan than mainland China or Taiwan from bones and DNA analysis of remains. However, this new analysis of nuclear genomic DNA got the same results.

The research results could help further study of the origin of the people of the Ryukyu Islands.

The team collected DNA from a few hundred of people from the main islands of Okinawa, Miyako and Yaeyama islands. The researchers analyzed 600,000 Single Nucleotide Polymorphisms in the human genome. The results showed the native people of the Ryukyu islands and those of Taiwan are in different genetic groups. According to the research results, the people of the Yaeyama islands are genetically not related to those living in Taiwan despite their geographical proximity.

A representative of the team said, “We analyzed the migrations of people of the Ryukyu Islands and Han in China after the Jomon Period. We found that it is highly possible that Minatogawa Man is not the main ancestor of the people in the Okinawa islands.” The researchers said further investigation was needed.

(English translation by T&CT)

ryukyu_shimpo

original Japanese : 
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-231707.html
現代沖縄人DNAの遺伝系統「日本本土に近い」
2014年9月17日 10:19
 琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員、木村亮介准教授、北里大学、統計数理研究所の共同研究チームが、現在の琉球列島に住む人々の核ゲノムDNAを解析した結果、遺伝的に琉球列島の人々は台湾や大陸の人々とつながりがなく、日本本土により近いという研究成果を発表した。

琉球大学が16日、発表した。また、沖縄本島から宮古、八重山諸島へ人々が移住した時期をコンピューターで計算した結果、古くても1万年前以降と推定。宮古のピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や石垣の白保竿根田原(さおねたばる)洞穴人(2万年前)は、現代の宮古、八重山の人々の主要な祖先ではないと結論付けた。
 これまで、骨や一部DNAの分析から、琉球列島の人々は中国や台湾より日本本土の人々と近いとする研究成果が発表されてきたが、今回、初めて全ゲノムを網羅した解析によって同様の結果が導かれた。今後の琉球列島の人々の起源を探る研究の一助として注目されそうだ。
 研究チームは、現在の沖縄、宮古、八重山諸島出身者数百人からDNAを採取し、ヒトゲノム全域に分布する60万個の単一塩基多型(SNP)を解析した。その結果、琉球列島の人々と台湾先住民は別系統の集団で、地理的に近接する八重山諸島の人々も台湾先住民との間に直接の遺伝的つながりがないと結論付けた。
 港川人についても同チームは「琉球列島の人々と漢族が分岐した年代が縄文時代以降であると推定されたことから、沖縄諸島の人々の主要な祖先ではない可能性が高いと思われる」と推測し、今後さらなる精査が必要としている。
.




「日本は國際法に逃げ込むな」「二千年の歴史の虚構を暴け」 
やっと言ってくださる議員が出現しました。山田宏議員です。
平成二十九年六月一日、山田宏議員國會質問。九分十五秒より。
https://www.youtube.com/watch?v=_scUI5EHea4#t=9m15s


誰もが待ち望んでゐたので、インターネットでは多數コピーされてゐます。
https://www.youtube.com/watch?v=5HxYDbwWdWM#t=9m15s


https://www.youtube.com/watch?v=erlAFIx1VV0#t=9m15s



下のビデオでは九分四十秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=idejlizatTI#t=9m40s


正規版リンクは
https://www.yamadahiroshi.com/pickup18.html
こちらです。


------------------
さらに併せてご覽下さい。南支那海二千年といふ歴史の嘘。
1  
http://senkaku.blog.jp/2016091565883977.html
2  
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
3   
http://senkaku.blog.jp/2016040257697412.html


上リンク三つは南支那海。一方の尖閣の歴史の嘘についてはこのブログ「尖閣480年史」の内に多數あります。
-----------------------------
 尖閣で日本ができる有効な方法は世界輿論を大きく轉換させることだけ。内外の輿論の九割が常駐支持となり、常駐しない安倍さんが強い批判にさらされれば、安倍さんは常駐します。支持率で動く人ですから。では輿論はどうしたら轉換するか。ルトワックさんとやらに良い智慧がありますか。多分ありません。有効手はただ一つ。歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることです。
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1617年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できます。國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではありません。



北村淳氏、いつもは鋭い論説だが、
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50147?page=5
今度のは單なる現状記述に終ってゐる。種切れである。南沙の歴史を
http://senkaku.blog.jp/2016091565883977.html
論じようとしないから種切れになるのだ。
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
北村氏は「九段線に根據無し」としながら、根據を論じない。南沙二千年といふ僞骨董屋の歴史を具體的に
http://senkaku.blog.jp/2016040257697412.html
論じない日米論壇は、實に實に愚かだ。

南シナ海米軍

北村淳「南シナ海問題、諸悪の根源は根拠のない九段線だ。トランプ政権がFONOPをようやく再開」 2017.6.1(木)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50147?page=5
(上略)……中国当局は、南シナ海の大部分に当たる「九段線」内の海域は「中国の主権的海域である」と主張している。その主張をもとに、「中国が主権を有する陸地から12海里内を航行使用とする全ての船舶は事前に中国当局から通行許可を得なければならない」(国際海洋法条約の規定に反している)としていることを忘れてはならない。




http://www.ssri-j.com/SSRC/island/ishi-13-20170602.pdf

 日本政府內閣官房領土室五月十二日公布資料,內載西元1819年琉球王親登上「魚根久場島」,為現知最早登島紀錄,較之西元1845年八重山導航員引導英軍提督登島紀錄提早二十六年。
http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf

 社會科學院近代史研究所台灣史研究室副研究員李理在中國評論新聞網反駁說,魚根久場島是慶良間久場島,不是尖閣久場島。
 李理研究員的說法在釣魚臺研究家鞠德源的著作中早就出現,三年前我已在論文中反駁過。道理很簡單,琉球王親登上的久場島無人、無水,隣近處沒有別島可呼救。而慶良間久場島與阿嘉島相隣,僅隔三公里,阿嘉島自古有人居住,可望見,可呼救。顯然不是琉球王親登上尋水的魚根久場島。


慶良間久場島

慶良間久場島2
 圖片借自「漕店」網。
http://www.souten-okinawa.com/tour/camptour/camptour.htm


以下是社科院研究員李理原文

中國評論新聞
中評關注:日本又撒彌天大謊來指鹿為馬
2017-05-22
http://hk.crntt.com/crn-webapp/touch/detail.jsp?docid=104679844
  中評社香港5月22日電(作者 李理)
 5月12日,日本政府公布了一份報告,其中包括約670份關於釣魚島(日本稱尖閣列島)及日韓爭議島嶼獨島(日本稱竹島)的“新史料”。日本稱這些史料“佐證了日本對相關島嶼擁有主權的合法性”。此次公布的關於釣魚島的史料中,包括清朝18世紀中期“未將釣魚島列入領土範圍”的官方地圖,以及琉球王族1819年登陸釣魚島群島中久場島(史載稱“魚根久場島”)的文字記述。日本政府利用民眾對史料的不了解,又開始了彌天大謊。

  日本方面曾強高,釣魚島與琉球的關係,最早起始於1873年,證據資料為收錄於“勵志出版社”與“刀水書房”聯合出版的《釣魚台群島(尖閣諸島)問題研究資料匯編》中的《向琉球藩轄內久米島等五島頒發國旗及律令的文書》。

  筆者在日本外交史料館找到其原件,其內容為日本明治政府在1872年10月單方面設立琉球藩後,於次年(1873年)3月6日,派外務省六等出仕伊地知貞馨,自行向琉球政府轄內久米島等五島,頒發日本國旗及律令書,其內容如下:

  琉球藩:無奈海中孤島,境界尚有不明之處,難以預料外國卒取之虞。此次,授與你藩大國旗七面,自日出至日落,高懸於久米、宮古、石垣、入表、與那國五島官署。此次交付與你為新制國旗,日後破損以藩費修繕。

  而琉球藩於同年(1873年)4月14日,向伊地知貞馨匯報:“懸掛於本職管轄內久米島及另外四島之國旗大旗一面、中旗六面,連同文書已順利交付完畢。”

  從上份資料的內容分析來看,明治新政府要求琉球將日本國旗所懸掛之五島,為“久米、宮古、石垣、入表、與那國”,而這五島本為琉球之附屬,其中的所謂的“久米島”與“粟國島、慶良間島、渡名喜島”構成一個島群,本為琉球三十六島之一部分。

  這裡的“久米島”就是此次日本公布資料中所謂的“久場島”(久場島位於慶良間群島的最西端,位於座間味島西南約七公里的海面上。其面積1.55平方公里,周長6.82公里。該島南北較長,呈四邊形,最高點"久場島之岳",高270.1米,是慶良間群島最高峰。)本為琉球的領土。

  筆者通過日本檔案了解到,“久米島”即日本所謂的“久場島”與“釣魚島”中的“久米赤島(赤尾嶼)”根本是兩個不同的島嶼。即使琉球王族真的於1819年登陸該島,也只是登上自己的所屬地,而不是中國的釣魚島群島中的久為赤島。以下日本檔案中所載地圖為證:

  “久米赤島(赤尾嶼)”與“久米島”的距離,相差達七十多裡,故將此份資料,作為琉球擁有釣魚島的最初證據,完全是偷梁換柱,以普通人對歷史地理的不了解,混淆視聽來達到指鹿為馬之目的。

  (作者系中國社會科學院近代史研究所台灣史研究室副研究員)

https://www.facebook.com/getoutdpp/posts/1297768263676874


昨日の一般社團法人日本沖繩政策研究フォーラム講座「琉球王族尖閣上陸史料の真相」の配布資料です。PDFはこちらから
https://drive.google.com/open?id=0B2MwcvRggQjpZThzUFNPQlNEYzA
ダウンロードして下さい。講座ビデオは後日ユーチューブより配信致します。
下は、講座でご紹介した對蘭條目五箇條の第五條琉球附則です。
通航一覽243阿蘭陀琉球

『通航一覽』卷二百四十三より。詳細はPDF及び後日のビデオをご覽下さい。
事前の講座預告は下リンク:
http://senkaku.blog.jp/290527ikebukuro.html

0527講座内閣官房半




魚釣久場南北航空sankeinews2

魚釣久場南北航空sankeinews1


尖閣諸島、久場島側から魚釣島を遠望する映像。
産經ニュースSankeinews、一分二十二秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=Wj5wYe0Mqsc#t=1m22s
標題「探訪 東シナ海尖閣諸島 空から見張る緊張の海」



久場島の映像は案外稀少です。兩島の距離の近さがよく分かります。
 .


0527講座内閣官房半


0527内閣官房公表尖閣史料徹底解説


緊急「歴史戦」講座
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム

琉球王族尖閣上陸史料の真相
~平成28年度内閣官房が公表した新たな尖閣領有根拠~

平成29年5月27日(土) 18:30~(会議室601・602)
◎場所:豊島区生活産業プラザ
◎參加費:無料  
【講師】
石井望《長崎純心大學准教授(漢文學)》

<講師からのメッセージ>
今年(平成29年)5月12日、内閣官房領土・主権対策企画調整室は、平成28年度に沖繩平和協力センターに委託して尖閣史料を調査した結果を公表しました。その中に西暦1819年に琉球王族が尖閣で上陸調査した記録が採用され、各社が一齊報導しました。これに對し、「琉球王族は日本人ではない」などの歪曲の聲が、チャイナからも日本國内からも揚がってゐます。そもそも日本人とは、歴史的に如何に定義すべきか。調査に從事した特別研究員個人として、この歴史戰こそ避けて通れぬ最大の要所だと心得て、史料の眞相を解説いたします。

(講演内容は個人見解であり、事業主及び政府を代表するものではありません。)

https://www.facebook.com/events/1957373301216487/


.