- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 

 鳥取の青谷上寺地遺跡は、純粹彌生人ミトコンドリア(母系)の骸骨ばかり出土する特殊性で知られる。ところがその青谷の骸骨の核DNAのY染色體男系遺傳子は繩文が多いといふ可能性が報じられてゐる。篠田謙一教授。まだ研究が始まったばかりだ。もしこの方向性が濃厚になると、一萬五千年の繩文文明を守るのが男系だといふ話になる。
 皇室も、歴史的に見てほぼ全面的彌生人だと考へられるが、實は皇室のY染色體は繩文人なのかも知れぬ、といふ話になる。科學は日進月歩、一時の淺智慧で皇室を女系(=別系。例として藤原朝)に入れ替へてはならぬ、といふ噂が本當になるかも知れない。

平成31年3月3日、毎日新聞。
「弥生人、母系は渡来系、父系は縄文系か DNA分析で判明」
 国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告会が2日、同市のとりぎん文化会館であった。国立科学博物館の篠田謙一副館長が、まだ途中段階で不確かだと断った上で「(人骨の)父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」に多くが位置付けられると説明した。父系の遺伝情報が分かる「核ゲノム」分析の成果。全国初となる弥生時代の人骨の本格的なDNA分析だけに、約430人が興味深そうに耳を傾けた。昨年11月の初回の報告会では、母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」の分析により、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”が多いとされていた。
 当時の青谷地域では多様な遺伝グループが存在したと考えられ、日本人の起源の分析につながる可能性もあるという。今後はDNA分析を進めて各個体の特徴を調べる方針。【園部仁史】

 平成31年4月5日、産經。
「核DNAは30億からなるため解析には時間がかかり、解析結果が公表されたのは今年3月だった。サンプルとして選んだ6人分の人骨について核DNAを解析し、4人からY染色体の塩基配列データが得られた。そのハプログループは大半の3人が縄文系だった。ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが大多数だったのに対し、核DNAのY染色体の解析から父系は縄文系が多いという結果に。」


山陰中央新報。平成31年3月4日。
新たに父系の核DNAの分析結果について説明。父系も渡来系に偏ると想定して4個体のY染色体を分析したところ、3個体が縄文系で、渡来系は1個体だったとした。篠田副館長は「大陸系に偏ると思っていたが、そう単純なことではなかった」と述べた。


 鳥取縣による公式發表。平成31年3月2日の篠田教授らの講演を、3月15日に掲載したもの。「報告事項セ」。曰く、「男性4体のY染色体DNAが得られた。父系については3体が縄文系、1体は渡来系。」
https://www.pref.tottori.lg.jp/282754.htm

 事前預告と當日寫眞と散らしはこちら。
 第3回とっとり弥生の王国シンポジウム「倭人の真実 DNA・年代・環境 先端研究からのアプローチ」
1 テーマ 「倭人の真実 DNA・年代・環境 先端研究からのアプローチ」
2 主催   鳥取県埋蔵文化財センター
3 日時   平成31年3月2日(土)午後0時50分~午後4時30分
4 会場   とりぎん文化会館小ホール(鳥取市尚徳町101番地5)
5 内容
(1)記念講演1「DNAが語る青谷の弥生人」
 篠田謙一(国立科学博物館副館長・人類研究部長)
篠田謙一鳥取縣散らし青谷上寺地繩文1
篠田謙一鳥取縣散らし青谷上寺地繩文2
篠田謙一鳥取縣講演310302青谷上寺地繩文1
篠田謙一毎日新聞青谷上寺地繩文

男系の皇統と尖閣古史 西村幸祐『日本人に「憲法」は要らない』

 平成31年3月3日、NHKニュース。1:00から繩文。但し繩文が男系だといふ點を報じてゐない。肝心な處を報導しない自由といふわけだ。


 NHKサイエンスゼロ「弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(後半)」
 平成30年末の放送。7分から、繩文遺傳子。この番組ではまだ繩文が男系だとは言ってゐない。

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 つまり、彌生人だらけの青谷上寺地遺跡ですら、男系(の男女)は繩文だった。女が自力で渡來するとは考へにくいから、慣習として日本に運ばれて嫁入りして來たといふことになるだらうか。だとすると前提として、お嫁さんの供給元、即ち日本の覇權下、任那日本府のやうな場所が想定される。
 或は渡來する前から男女を問はず繩文Y染色體を持ってゐたとすれば、矢張り任那日本府附近から渡來したといふことになる。そして青谷のミトコンドリア彌生遺傳子はアジア各地から青谷に渡來したのではなく、任那で娶ったお嫁さんが既に新モンゴロイドの多元的混血だったといふことになる。
 なほ、古モンゴロイドが東ユーラシア全域を覆ってゐた時代の遺骨が青谷遺骨だといふ可能性は無い。それは時代を遡りすぎる。
 要するに、日本全體も青谷のやうに、男系によって繩文文明が守られて來たといふ可能性が出て來る。一見彌生顔だからとて、侮れない。皇室が天孫降臨の彌生系なら、わづか2600年あまりに過ぎない。皇室が出雲蝦夷熊襲を含む繩文系なら15,000年。全く異なる日本像、異なる國柄、異なる國體、異なるくにのかたち、となる。


關聯ブログ


一方、オウムの中澤新一氏がトンデモなことを書いてゐるらしい。
中沢新一「アースダイバー:二十一世紀の森の天皇」
女性天皇の誕生をもって、明治天皇にはじまる近代天皇制は、終わりをむかえる。そのとき北方ツングース的な男系原理にかわって、南方的・縄文的な双系原理が皇室の中によみがえり、文明開化や八紘一宇や経済大国などをみずから否定してのりこえていく、新しい『森の天皇』の生き方を象徴するものとなる。 



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律令には皇位繼承(皇太子)の規定が無い。そこで末端的條文から、あらぬ臆測が産まれた。養老令の繼嗣令に曰く、
「 凡皇兄弟・皇子、皆為親王、女帝子亦同。以外並為諸王。自親王五世、雖得王名、不在皇親之限。」
(凡そ皇兄弟・皇子は皆な親王となす。女帝の子も亦た同じ。以外は並びに諸王となす。親王より五世なれば、王名を得といへども、皇親の限に在らず。)
 (「令集解」卷十七所收逸文、國會藏、清原秀賢慶長寫本)
令集解卷17繼嗣令_清原秀賢寫本國會藏

と。これは親王を規定した條文である。皇位(皇太子及び繼承順位)について規定してゐない。しかし「親王は皇位を繼承する可能性があるから、この條文にもとづき女帝の子(女系男子)も皇位を繼承して良い」と曲解する人がゐる。
 しかし根本問題として、律令に皇位繼承を規定しないのは何故か。答へは二者擇一。
甲、瑣末事だから規定しない。
乙、あまりにも重大だから臣下の撰する律令では規定しない。
 勿論、正解は乙である。されば、律令の規定しない皇位について、親王規定の末尾に附記することは有り得ない。規定するなら堂々と親王規定の前に皇位繼承をかかげるに決まってゐる。それどころか明治憲法のやうに、律令開卷第一に天皇とは何か、規定するだらう。
 この「女帝の子」は皇位規定に附記されてゐるのでなく、親王規定に附記されてゐる。勿論、親王位がそのまま皇位繼承(皇太子)と完全同一だと規定したわけでもない。だから全卷劈頭でなく、中ほどに目立たず繼嗣令がある。「女帝子」三字は女系天皇を規定するのではない。律令は皇位・皇太子位を規定しない。
 なほ、女帝子を皇女・帝女と解するのは通じにくい。皇女もしくは帝女と書けば良いだけのことだ。明らかに「女帝之子」である。この時代は女帝が多かったためにこの規定が出來たのださうだ。

 さらにウィキペディアで勉強すると、上記「繼嗣令」末尾に曰く、 
「凡王娶親王、臣娶五世王者聽。唯五世王不得娶親王。」
(凡そ王の親王を娶り、臣の五世王を娶るはゆるす。ただ五世王は親王を娶るを得ず。)

 まづ、五世代離れたら皇籍を與へられず臣籍となる。そして親王を娶る(内親王を娶る)ことは四世代までの王(皇族)にだけゆるされ、臣籍の者は内親王を娶ることができない。つまり内親王は皇族としか結婚できない。よって内親王が即位して女帝となっても、その子は皇族男子の子なので、男系となる。
 なんだ、明白ではないか。愚かな私であった。これが明治になって「男系男子」條になったといふわけだ。男子のみならず、わざわざ男系と規定してゐる。

ウィキペディア「降嫁」。
曰く、内親王の結婚相手は律令の「継嗣令」では天皇もしくは四世以上の皇親に限るとされ、古代には非皇族との結婚はなかった。……幕末には和宮が将軍徳川家茂に嫁し、唯一武家への降嫁の例となった。……現代は皇室典範により、非皇族との結婚に際しては皇籍離脱が定められ、昭和天皇以降の内親王・女王は婚姻による皇籍離脱となっている。

 皇室典範では内親王が臣民に降嫁したら皇籍を離脱する。女性宮家とならない。古代律令の降嫁の禁を、近代皇室典範が變則的に復古したと言へる。たかが教授會で教授昇任規定ごときを變更するのとはわけが違ふ。普通の臣民でも、親族の繼承といふ重大事を、法律改正で簡單に變へられては困るし、まして皇室である。當り前なのであった。
令集解卷17繼嗣令2切_清原秀賢慶長寫本國會藏

 女系天皇と簡單に呼ぶが、要するに藤原の鎌足の血統が天皇になるといへば分かり易い。關白藤原氏が皇女を娶って皇位に就くといふことだ。それが容認されるなら平安時代に容認されてゐただらう。Y染色體がどうとかいふ淺智慧ではなく、ただ男系を續けて來た。藤原天皇を許容しなかった。それ以上でも以下でもない。この大きな歴史の前で、Y染色體論の怪しさは國民に支持されず、役立たないどころか邪魔になる。


參考:
「律令法における皇位継承--女帝規定の解釈をめぐって」
        宮部 香織     明治聖徳記念学会紀要 (46), 121-142, 2009-11
https://ci.nii.ac.jp/naid/40016924445
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f46-8.pdf
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/search.htm
 上は古來の諸説を極めて良く整理した論文。


無名氏「多摩遊覧Ⅱ」ブログ。ほぼ曰く、
「そもそも臣(皇族以外)男性が皇族女性と結婚することは条文のとおり禁じられており、女帝になる即位資格は内親王・女王しかもっていないので、女帝の子は皇族と決まっているのである。」


「皇位継承の在り方に関する管見 」 所功
「産大法学」39    2005-07   京都産業大学法学会
 これは「女帝子」を以て「女帝」容認としつつ、注8で「女系」を否定してゐる。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7gijisidai.html
 平成17年、小泉内閣の皇室典範會議にもこの論文がほぼそのまま提示された。所功氏は女系容認論なのだが、それは現状打開のために提示した議論に過ぎず、歴史的根據が無いことを自ら認めてゐる。


所功「皇位の男系継承史と女系容認論の検証」(『歴史読本』平成十七年五月号)
 ざっと見ただけだが、舊宮家復籍の是非を中心とする議論。歴史的に女系が容認されなかったことを所功氏も基本としてゐる。


 所功氏に反對するブログ。「川西正彦の公共政策研究」


「日本古代の家族・親族―中国との比較を中心として―」
成清弘和著 2001年4月刊    第5章「女性の社会的地位」
上記所功論文の注8によれば、この書は律令の「女帝子」條にもとづき
「帝は男帝と何ら変わるところのないものとして日本律令に規定されていた」
としてゐるとのこと。所功氏は成清弘和氏の誤りを證してゐる。
 今度念のため讀んでみよう。

 さてついでながら、側室が無いと男系男子が産まれないとの説が多い。それは近代以前ではその通り。現代では側室制度が廢せられた。ならば現代には現代科學がある。現代の方法を取るか、近代以前の方法を取るか。現代を取るならば科學。近代以前を取るならば側室。どちらも駄目では困る。どちらかにしないといけない。所謂不妊治療といふのは、三十歳を過ぎてから施療する場合が多いため、困難が多いことは世上で傳へられてゐる。若ければ人工授精は容易なのか。
 私は門外漢なのでそこは分からない。

參考:秋篠宮家を誹謗するなかれ。

男系の皇統と尖閣古史 『日本人に「憲法」は要らない』

五月四日追記。
 男系に女系を繼ぐことは、言はば平安時代から藤原朝になるやうなもので、文化的に皇統の意義を成しません。皇統が絶えるならば、皇統無き日本文明とは何か、それについて鄙見はどこかで詳しく書きたいと思ってますが、とりあへず、近世といふ區分は歐洲にも有りますから内藤湖南が勘違ひしただけです。封建制が早く消滅したのはフランスなどの先進國だけであって、イタリアドイツの封建制は明治維新前後までのこりました。しかも德川の鎖國禁教刀狩(琉球まで含め)はかなり中央集權にも近いもので、だからこそ廢藩置縣が滯りなく進んだわけです(琉球を含む)。明治維新で突然封建制から脱皮できるわけありませんよ。不埒な皇族といふのは昔からあったことで、大した問題ではありませんから、皇籍復歸は可能で、禁中公家諸法度で皇室を制禦したと同じ事は國民主權の現代でも可能です。つまり江戸時代と現代に共通性があります。徳川慶喜は諸侯共和制を意圖したので、共和制の下地は日本にもありました。
 明治維新以後の天皇は、祭祀の古俗のみならず近代國家統合へ象徴となって國民運動で崇拜されたわけですから、その國家神道150年の歴史を無視するのはまあ無理筋でせうね。
 素直な歴史觀では、彌生古墳時代ごろに日本の國家的統合を創始した皇室の功績は素晴らしい。しかし素直に歴史を解さず、歐洲の圖式と較べて遲れてゐるかのやうに言ってみたり色々と、要するに日本をけなしたがる文化人、心の底には凄まじい西洋崇拜が横たはってゐて、世界史を平明な眼で見ることができないのです。素直に見た時、歐洲各王朝の血統が次々に入れ替るさまは、戰國下克上のやうに怖ろしい。そこを統合的に乘り切った日本の素晴らしさを素直に感じることのできない人は、何なのだらうか。そして日本の統合性は同時に競爭の弱さを伴なふのも確かです。日本の統合性は何に由來するのか、島國、皇室、いや、、、あとは別の機會に。


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皇太子國務代行毎日新聞

新天皇陛下「国民と共に」思い継承 50カ国で親善深め 新たな公務模索
毎日新聞2019年5月1日 00時01分(最終更新 5月1日 01時07分)

 水問題への取り組みの原点は1987年のネパール訪問だった。ほんのわずかな水を求めて女性や子どもたちが集まる光景が忘れられないことを自らの講演で言及してきた。水と人の活動の関係を示す用水や防災施設などへの訪問を国内外で重ね、専門家が集う国際会議に参加してきた。
 03年に京都市であった「世界水フォーラム」で初めて講演し、07~15年には国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁を務めた。皇族として初めて米ニューヨークの国連本部で水をテーマとした講演もした。
 水問題を通じて人間のあり方に考えを巡らせる活動は世界に知られる。国連大学のデイビッド・マローン学長は今年3月、東京都内であったシンポジウムで「国際的な水の取り組みについて研究され、人々の注意を喚起することに尽力されている」とたたえた。

謹賀改元。令和改元ならびにご即位おめでたうございます。水重視、心強く感じます。北海道水資源保全條例
 の趣旨をよくご理解のことと伺はれます。そして淡水だけでなく海水も大切にされてゐる筈です。日本は海水とりまく島嶼國です。勿論、尖閣です。上皇陛下は平成三十年、日本最西端の與那國を去り際、與那國町長に「與那國を守って頂戴ね」と仰せられました。 
http://senkaku.blog.jp/2019042879700249.html

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https://www.youtube.com/watch?v=sqEcE49H8RI
 人民大會堂で「臺灣は古來チャイナだ」とするデマ碑文、永山英樹氏の遠隔取材に私も少々協力させて頂きました



 12分半から永山氏「古代の夷洲は臺灣だといふ説が有力」と言ってますが、有力とは言へないと思ひます。一例として分かり易いのが慕容理深ブログ「疑雲重重的夷洲」

 17分半から、16世紀東アジアの爭覇に日本も介入したのは、後期倭寇及び豐臣秀吉を指してゐます。つづいて葡萄牙人が臺灣を澳門の附屬地と主張したのは私も初耳です。基本的にポルトガル人の地圖では臺灣の地理的位置、島數、大きさ等まったく不明瞭で、そもそもポルトガル人はどこが臺灣なのか分かってゐない。
永山英樹チャンネル櫻人民大會堂臺灣屏風

 この屏風の原文は昭和46年、臺灣の行方が注目されてゐた時に公布されました。慌てて倉卒の間に成ったであらうことが見て取られます。
。人民日報、昭和46年10月23日第四面に掲載。
「台灣自古以來就是中國的神聖領土」
 台灣是我國東南沿海最大的島嶼。還在很古的時候,台灣與祖國大陸就有著文化上經濟上的密切關係。早在公元二三○年,三國時孫呉派將軍衞温、諸葛直,率甲士萬餘人,航海到
“夷洲”。“夷洲”就是現在中國的台灣省。澎湖在十二世紀南宋時已隸屬福建晉江縣,成為中國行政區的一部分。十三世紀中葉,當時的元朝政府在澎湖設立巡檢司,管轄台灣等島嶼,隸屬於泉州路的同安縣。從此,台灣正式列入中國版圖。明代以來,台灣、澎湖已是我國的海防要地。直到十六世紀,西方殖民主義者開始了在東方海上的角逐,日本也插足其間。還在一五五七年,葡萄牙竊據了我國的澳門作為根據地,其後即宣布台灣為澳門的附屬地,企圖侵占台灣。十七世紀,海上霸權轉到荷蘭、英國殖民者手裏,葡萄牙侵略台灣的野心沒有得逞。一六二四年和一六二六年,歐洲的殖民國家荷蘭和西班牙分別侵占我台灣省的台南和基隆,並以上述兩地為中心,擴大侵略活動,使中國領土台灣第一次被劫奪。此後,這兩個侵略者,在台灣北部展開了激烈的爭奪戰。一六四二年,西班牙人戰敗,退出了台灣。明朝末期,民族英雄鄭成功於一六六一年率領大軍進入台灣,在當地人民的密切配合下,很快趕走了荷蘭侵略者,收復了台灣。一六八四年清朝政府設台灣府,隸屬福建省的台灣廈門道。一八八五年,台灣正式建省,成為當時我國的一個行省。一千多年來,主要是祖國沿海的福建省、廣東省的移民,同台灣省高山族兄弟人民共同對台灣省進行了開發。現在,絶大多數台灣同胞講的語言,就是我國福建省的閩南話和廣東省的客家話。上述歴史事實説明:台灣很早就屬於中國的版圖,成為我國神聖領土不可分割的一部分,台灣省的高山族就是中國各民族中的一員,台灣同胞是偉大的中國人民的一個組成部分。到了十九世紀中葉鴉片戰爭以後,帝國主義列強、特別是美、日帝國主義,一直對我富饒的台灣省垂涎三尺,不斷加緊其侵略活動,圖謀奪取台灣,作為進一歩侵略中國大陸的跳板。一八九四年中日戰爭之後,腐敗的清朝政府,簽訂了不平等的“馬關條約”,台灣省被日本帝國主義強行霸占。在日本帝國主義五十年的殘酷殖民統治期間,台灣同胞爭取重返祖國懷抱的鬥爭從未間斷。他們英勇不屈,前赴後繼,同日本帝國主義占領者進行了可歌可泣的長期鬥爭,包括高山族人民在台中的英勇起義,較大規模的就有二十多起,先後犧牲達數十萬人之多。這一點,甚至美國國務院在《中美關係白皮書》中也不得不承認:“台灣人民受異族管轄五十年,因之歡迎中國解放。於日本占領期中,台灣人民最大之希望為重歸祖國”。

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令和元年五月一日追記。
臺灣を澳門の附屬地とする説は、西暦1947年の中華民國侵臺最初期の臺北市臺灣新生報社『民國三十六年度臺灣年鑑』「第三章歴史・第三節荷蘭盤踞時代」第B五頁に見えます。
 曰く、「一五八五年,以横臥於中國海上之臺灣為澳門之附屬地。」
と。
臺灣新生報社民國三十六年度臺灣年鑑歴史B5頁

これが指してゐるのは要するに1585年にポルトガル船Santa Cruz號が臺灣(小レケオ)西岸を航行した一件であらう。それ以外に考へられない。このサンタクルス號の航海については拙著『尖閣反駁マニュアル百題』第390頁で論及した。多分サンタクルス號航海記の記述を第二次大戰前頃の研究者が「マカオの附屬とした」云々と書いてゐて、それが切り取られて年鑑に採用されたのだらう。
 しかしサンタクルス號航海記ならびにその前後の史料を見直しても澳門の屬地とい語は見當らなかった。今度また確認したい。
 ただ、ポルトガル人が勝手に臺灣を自國領とするのは、1529年サラゴサ條約もあるので當然である。サラゴサ條約ではフィリピンより東のモルッカ諸島よりもさらに東を葡萄牙と西班牙との分界線と定めた。

 ともあれ、この年鑑が刊行されたのはまさしく228事件の年の六月。2月28日頃はまさに編纂校正中だったであらう。昭和46年の「人民日報」の作文者(新華社から委託された文化人か)は臺灣をよく知らないから、作文する時に年鑑のやうな書を引っ張り出して、繋ぎ合はせたのであらう。言はば暗黙の國共合作である。そのまま現在でも臺灣に關するチャイナ公式見解となって人民大會堂に置かれてゐる。

 參考論文:「ディルク・シナと日本」 'Dirck China' and Japan
        森 良和        論叢 : 玉川大学教育学部紀要, 103-119, 2012  
http://hdl.handle.net/11078/75
論文注17に引く、
「The Rutter of the Santa Cruz July 5, 1585―March 30, 1586.」 in Charles Boxer, 『The Christian Century in Japan 1549―1650』, Berkley & L. A., 1951, APPENDIX, pp. 406―414.(旧字仮名遣いの邦訳)東京大学史料編纂所編『大日本史料第十一編之七:正親町天皇,自天正十二年四月至同年七月』東京大学出版会, 1970年(覆刻版,原著1938年) , 625―636頁。この訳はオランダ語からの仏訳の重訳で,同書pp. 30―34にはその仏訳も所収されている。
https://archive.org/details/THECHRISTIANCENTURYINJAPAN15491650CRBOXER/page/n437
https://archive.org/details/THECHRISTIANCENTURYINJAPAN15491650CRBOXER/page/n439


この「臺灣はマカオの附屬地」説は近年も臺灣の中等教育の中にも出現してゐるやうです。
「台北市立松山高中九十一學年度第一學期第二次期中考」高二歴史科試卷(社會組)
一.單選題3.    16世紀以來西方殖民主義,開始在東方海上角逐,而何國宣布台灣為澳門的附屬地?(A)西班牙(B)葡萄牙(C)荷蘭(D)英國。

臺灣の歴代刊行の歴史教科書目録は、下リンクの「參考文獻」から索め得る。
郭淑美「高中歷史教科書研究-以臺灣史教材為中心(1948~2006)」
碩士論文、國立臺灣師範大學
一、教科書
◎統編本
1. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第一冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國43年8月再版。
2. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第二冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國44年2月再版。
3. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第一冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國53年8月再版。
4. 中學標準教科書歷史科編輯委員會,《中學標準教科書高中歷史(第二冊)》,臺北:臺灣省政府教育廳,民國53年12月再版。
5. 藍孟博,《興中教科書高中歷史(第一冊)》,臺北:正中,民國39年8月臺初版。
6. 藍孟博,《興中教科書高中歷史(第二冊)》,臺北:正中,民國40年11月臺再版。
7. 藍孟博、朱延豐,《興中教科書高中歷史(第三冊)》,臺北:正中,民國41年2月臺二版。
8. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:國立編譯館,民國60年8月初版。
9. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國61年1月初版。
10. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第三冊)》,臺北:國立編譯館,民國61年8月初版。
11. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國72年8月十二版。
12. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國73年8月初版。
13. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第二冊)》,臺北:國立編譯館,民國77年1月四版。
14. 國立編譯館高級中學歷史科教科用書編審委員會,《高級中學歷史(第三冊)》,臺北:國立編譯館,民國74年8月初版。

◎審定本
國中課本南一版:
1. 王秋原等編,《國中社會(第一冊)》,臺北:南一書局,民國91年5月初版。
2. 王秋原等編,《國中社會(第二冊)》,臺北:南一書局,民國91年11月初版。
3. 王秋原等編,《國中社會(第三冊)》,臺北:南一書局,民國92年8月初版。
4. 王秋原等編,《國中社會(第四冊)》,臺北:南一書局,民國93年2月初版。
5. 王秋原等編,《國中社會(第五冊)》,臺北:南一書局,民國93年8月初版。
6. 王秋原等編,《國中社會(第六冊)》,臺北:南一書局,民國94年2月初版。

國中課本康軒版:
7. 施添福等編,《國中社會(1上)》,臺北:康軒文教事業,民國91年7月初版。
8. 施添福等編,《國中社會(1下)》,臺北:康軒文教事業,民國92年2月初版。
9. 施添福等編,《國中社會(2上)》,臺北:康軒文教事業,民國92年7月初版。
10. 施添福等編,《國中社會(2下)》,臺北:康軒文教事業,民國93年2月初版。
11. 施添福等編,《國中社會(3上)》,臺北:康軒文教事業,民國93年9月初版。
12. 施添福等編,《國中社會(3下)》,臺北:康軒文教事業,民國94年1月初版。

高中課本審定版
1. 王仲孚主編,《高級中學歷史(下)》,臺北:大同資訊,民國89年2月初版。
2. 王建文等編著,《高級中學歷史(第一冊)》,臺南:翰林出版事業公司,民國95年8月初版。
3. 李孝悌編著,《高級中學歷史(下)》,臺北:龍騰,民國89年2月初版。
4. 林能士主編,《高級中學歷史(下)》,臺北:南一書局,民國89年2月初版。
5. 林能士主編,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:南一書局,民國95年8月初版。
6. 高中歷史教科用書編輯委員會,《高級中學歷史(下)》,臺北:正中,民國89年2月臺初版。
7. 許雪姬、劉妮玲編著,《高級中學歷史(下)》,臺北:三民書局,民國89年2月初版。
8. 陳國棟主編,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:龍騰文化事業公司,民國95年8月初版。
9. 陳豐祥、林麗月,《高級中學歷史(下)》,臺北:建宏出版社,民國89年2月初版。
10. 陳豐祥等編著,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:泰宇出版公司,民國95年7月B版一刷。
11. 薛化元編著,《高級中學歷史(第一冊)》,臺北:三民書局,民國95年8 月初版一刷。



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今日から冩眞家山本皓一氏の尖閣、 
 八重山日報。「新聞オンライン」有料電子版おすすめ。電子版はいつでもどこでも見られます。ふる新聞にならない。
yaeyama310429山本晧一

記者里永雄一朗氏は、とても活きの良い若手、活躍に期待してます。この取材の時、丁度私も石垣島で、山本氏と里永記者に少々お話を伺ふ機會があり、幸ひでした。山本先生は多分今頃、メコン河の取材に出發してゐるでせう。メコン河の水源をチャイナが強引に支配し、危機を迎へてゐる、その現場を撮るのが生涯最後の大仕事だとのことでした。

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 これは凄いです。陛下「與那國を守ってね」。今日の最大のニュース。  
  八重山日報。日本最西端の防人の意味。陛下は國防を憂慮してゐた。「讓位」を言ひ續ける陛下。橿原神宮を參拜した陛下。日本最愛國者だった。感涙。  

yaeyama310428第一面陛下與那國

 我那覇眞子さんも感動。  

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附記。そもそも、
http://news.livedoor.com/article/detail/16389288/
 實は氣性の烈しい陛下。その陛下が「與那國を守ってね」と仰せなのは、まさに國防です。與那國行幸は、單に臺灣を眺望するためではなかったのです。
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「銀ブラ」の学友、3度の衝突=陛下に胸ぐらつかまれたことも
2019年4月28日 21時17分   時事通信社
 30日に退位される天皇陛下が学習院高等科3年の時、東宮侍従らの目をかいくぐり一緒に東京・銀座の街を見物した「銀ブラ事件」の当事者の一人で同級生の橋本明さん=2017年死去=は生前、時事通信の取材に陛下の意外な一面を披露していた。学習院初等科から大学、その後も交流が続く中で、3度衝突したことがあったという。
 最初は戦後間もない中等科の頃。橋本さんの目には、将来皇位を継ぐ陛下の姿が頼りなく感じられていたという。ある日、陛下が帰宅した後、本人の開閉式机のボードの裏側にチョークで思いの丈を書き込んだ。
 翌日登校すると、机の前で、陛下が顔を真っ赤にして拳を握り締めていた。橋本さんの姿を確認すると、「消せ」と一喝。「こんなことをするのは君しかいない」「どうして直接言わないんだ」などとまくし立てたという。
 「何て書いたのかは覚えていないが、その出来事があってから、逆に距離が縮まった」と橋本さん。だが、共に籍を置いた高等科馬術部で2度目の衝突が起きる。
 主将だった陛下は風邪を引き、間近に控えた対抗戦のメンバーから外れていたが、直前に完治。学校側から「陛下に気付かれないよう、出場してもらう方法を考えてくれ」と頼まれた。選手だった自分が辞退するしかないと思い、当日、体調不良を理由に試合会場が見える裏山に身を隠した。
 イライラした表情の陛下。接戦で勝利を収めたが、後日、顔を合わせると突然「どうして来なかった」と胸ぐらをつかまれた。
 この時の経緯について20年ほどたったある日、第三者にポツリと漏らした。それが伝わり、二人きりの場で、陛下が切り出した。「なぜ、あの時、言ってくれなかったんだ」
 3度目は、陛下のご成婚の2日後に開かれた祝いの席。中・高等科時代の同級生が招かれていた。当時の宮内庁長官は国会で「ご成婚は恋愛によるものではなく、私どもが決めた」と答弁していたが、どうもふに落ちなかった。
 「どういう結婚なんだ」と陛下に尋ねると、「好きで結婚するんだ。両性の合意に基づくものだ」。既に共同通信の記者になっていた橋本さんは、許可なしで書かないという陛下との紳士協定を破って記事を配信、全国の地方紙に掲載された。
 後日、お住まいがある赤坂御用地を訪ねると、陛下は「何しに来た」と声を荒らげ、「2カ所、言っていないところがある」。帰るよう強く促されたという。その後も「どうして記事を出す前に電話して来なかったんだ。お前の顔なんか見たくない」と叱責された。
 翌1960年、東宮侍従長からお住まいに来るよう連絡があった。行かずにいると、また電話が入った。重い足を運ぶと、「水に流そう」。陛下は笑顔で手を差し伸べたという。 


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「日本人の源流 : 核DNA解析でたどる」
    斎藤成也著    河出書房新社 2017.11
研究の最前線を期待したが、全體として
あまり有益ではなかった。理由の一端は下方に。
齋藤成也日本人の源流表紙

齋藤成也日本人の源流琉球語

齋藤氏曰く、琉球語は大和政權により移殖された、
入れ替った言語だと。ちょっと待って欲しい。
大和朝廷はまあ二千年前後の歴史しか無い。
繩文文明は教科書の通り一萬五千年だ。
大和朝廷が言語を移殖したならば、彌生以後だ。
しかし遺傳子では琉球人は繩文人である。
つまり琉球の繩文語が彌生語によって滅ぼされて、
新たに今の琉球語になったのだといふ齋藤説だ。
その年代はいつごろだといふのか。
源爲朝から舜天王への十二世紀か。
それとも戰國の統一が琉球まで及んだ西暦1609年か。
それとも古墳時代か。
どの年代だとしても有り得ない。
沖繩に彌生時代は無く、
彌生文化はほとんど到達しなかった。
ぐすく時代は源の爲朝の頃から、
薩摩の勢力が強まる頃までだ。
西暦16世紀17世紀に薩摩がもたらした新言語が
琉球語だといふことは有り得ない。
さうなると、彌生語が移殖されたのは
ぐすく時代初期だけしか無い。
普通はそれを大和朝廷とは呼ばない。
朝廷は既に平安京に遷都した後だ。

源の爲朝のぐすく時代に移殖されたとすれば、
それまで繩文時代(貝塚時代)の沖繩人は
全く別言語だったといふ話になるのか。
しかし八重山諸島では沖繩本島からの統治が弱く、
緩やかな封建制であった。
その八重山に繩文血統が最も濃いのだ。
八重山語も日本語である。
緩やかな封建制で八重山に日本語が突如
強制的に移殖されたといふのか。有り得ない。

齋藤氏は、單にヤマトは惡い侵掠者で、
沖繩は被害者だと言ひたいのではないか。
惡儀は無くともさういふイメージを廣めてゐる。
科學者が歴史文化を語る時、この種の
天然ぼけ平和ぼけが實に多い。
興味だけが動機となってゐて、
歴史文化に對する愛着が無い。他人事だ。
南米に於けるスペインの虐殺史のままに
琉球でも言語が入れ替ったといふ空想だ。

常識で考へれば、繩文顔の多い沖繩人の言語は
繩文語である。それがほぼ一般的日本語と大差なく、
音韻對應だけで互換できるのだから、
要するに日本語は繩文語である。
齋藤氏はまづ繩文語と別系統の彌生語が存在
したといふ前提の根據を示してもらひたいものだ。
それからもう一つ注文。
アイヌ民族が極めて古いといふ前提で勝手に決めつけてゐる。
北海道繩文人がゐて、後に外からオホーツク遺傳子と
混合して、新しいアイヌ人が産まれただらうといふ、
ここ十年の研究成果を齋藤氏は認めながら、
何故かアイヌ民族が古いと決めつけてゐる。
こんなところから勝手なアイヌ先住民イメージが
散布され、アイヌ新法成立に至った。
ただこの書で唯一得られた貴重な情報は、
113頁、最近神澤秀明氏が北海道西北端の禮文島で
極めて状態の良い繩文人骨を多數得て、
新たな研究を進めてゐるさうだ。期待したい。
禮文島も繩文の領域であった。アイヌよりも先だ。


 もう黙ってられない。小室圭氏に對する一億總苛めをやめて欲しい。私ははっきり言って小室さんを應援してます。何故なら私は極右愛國自由主義者なので。しかし小室氏を支持すると發言すると、保守派からの總攻撃を食らふ。異常だ。
 次なる儲けの君の學校に外部から暴漢が立ち入られるとはひどい。未來の天皇を失ったら日本が終る。大阪教育大學池田小學校の再演を絶對に許すな。この種の暴漢は往々にして腦味噌が單純で、輿論の集中攻撃對象のところへ行って暴力を働く。今、俗世間が秋篠宮家を攻撃してゐることが、この犯罪の原因となってゐるのではないか。
 野村佐知代苛め、小保方晴子苛め。私は野村小保方支持だった。今度も小室支持。苦しい修行時代は私もよく分かるのです。そもそも小室氏の辯護士事務所が資金を支援してゐる。修了後の繼續勤務も決まってゐる。400人に一人の獎學金を得た。去年十月にビザ期限で歸國といふ噂もデマだった。今のところ、まっすぐに進んでゐます。ただものではないんですよ、この男。
 求婚もNHKリークでやむを得ずああなったのであって、小室さんはヒモになるつもりではない。真子さんが惚れてゐるのです。「惚れるだけの快男兒なのかも知れない」と、みなさん思はないのかな。眞子さんご自身の判斷を馬鹿にし過ぎてる。不敬だ。400萬がどうとか、貧窮家庭を蔑視する一億人。四百萬圓が返すべき筋のものでないならば、返すべきでないし、返せば逆に、をかしなことになる。借金して勉學とは、資本も無い男の立志傳そのものではないですか。
 百歩讓って小室氏が詐欺師だったとして、どうなんですか。眞子さんは降嫁して民間人になるのです。小室氏が皇室に這入るのではない。多少の醜聞があっても良いではありませんか。「降嫁先は大人しい男であって欲しい」といふ國民の願望も分かりますが、たまには快男兒がゐても良い。それが日本の活力といふものだ。かりに小室さんが詐欺師であれば、女系天皇論にとって大打撃といふ好効果もあります。
 小室支持を公言すると、小室さんみたいな人を好むと勘違ひされますが、人物としてはかな~り嫌ひです。ちゃらちゃらしてる寫眞も出たし。東アジア學の私があんなアメリカかぶれを好むわけありません。好き嫌ひでなく、もっと自由に行動できる日本にしないと、巨大なニッポン村として沈沒するだけですよと言ひたい。少々の醜聞で村八分にする空氣が良くないと思ひます。好き嫌ひで語れば、私にとって嫌ひなものはいっぱいあるし、小保方野村も人物としては嫌ひです。話が合ふはずがありません。大體私の日ごろの言動は、私の好き嫌ひからかな~り懸け離れてゐます。好き嫌ひは行動原則にならないよと言ひたい。だから村八分をやめませうと言ひたい。
 それに、依怙贔屓で特待生資格を取れるといふ臆測は學校制度をなめ過ぎてる。有り得ないんですよそんなの。噂に流される日本人が、尖閣の歴史のウソに勝てるわけがない。日本人よ、しっかりしろ。



 テレビ朝日。26日、東京・文京区のお茶の水女子大学附属中学校で、この学校に通われる秋篠宮ご夫妻の長男・悠仁さまの机に包丁のような刃物が置かれているのが見つかり、警視庁が捜査しています。
 捜査関係者によりますと、昼ごろに文京区大塚にあるお茶の水女子大学附属中学校で、悠仁さまの机に包丁のような刃物が置かれていました。悠仁さまのクラスが授業で教室を空けていた際、何者かが置いたとみられるということです。包丁のような刃物は2本あり、悠仁さまの机とその付近に置かれていたということです。学校の敷地にある防犯カメラには上下紺色の服にヘルメット姿の不審な人物が映っていて、警視庁が捜査しています。




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http://senkaku.blog.jp/2016052360434957.html

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木村太郎氏 小室圭さんを擁護「俺も男だっつって頑張ってるわけですよ」
4/26(金) 15:32配信  デイリースポーツ
 ジャーナリストの木村太郎氏(81)が26日、フジテレビ系の生番組「直撃LIVEグッディ!」で、秋篠宮家の長女眞子さま(27)と小室圭さん(27)との結婚問題について、米フォーダム大学で国際弁護士となるべく勉強中の小室さんを擁護した。
 番組では、秋篠宮さまと28年来の親交があるという毎日新聞の江森敬治編集委員が、小室さんへの苦言を「文春オンライン」に寄稿したことについて特集。秋篠宮さまと小室さんの齟齬(そご)について伝えた。
 「秋篠宮殿下のお気持ちをよく分かっているはずの小室さんが、なんで今こういう行動を取っているのかっていう、その真意がますますもってきて不可解」といぶかるMCの安藤優子に、木村氏は「俺も男だっつって、頑張ってるわけですよ」と明快に回答した。
 木村氏は「秋篠宮さんじゃなくて、眞子さんが求めてる亭主像っていうのはそうなんですよ」と推察。
 江森氏の記事を読んだという木村氏は「秋篠宮さんのスポークスマンみたいな立場で書いてる」と指摘し、秋篠宮さまの心情を「自分がこういうふうに問題を解決してから眞子と結婚しろと言ったのに、自分がアメリカに行ってアメリカの弁護士資格取って頑張るぞって言ったことがすごく腹が立ってるわけですよね」と推測した。
 木村氏は「それは彼(小室さん)の自由でありね、2人が決めることであってね、普通の親子で、父親が娘の結婚に反対してるようなもんでね。その立場を江森さんがただ弁解しているだけだと僕は思うけど」と主張。
 秋篠宮さまが解決を求めている小室さんの母親の金銭トラブルについては「お母さんの借金で、彼の借金じゃないんですよ。解決すべきはお母さんなんだ」と指摘した。
 江森氏の寄稿では、秋篠宮さまが小室さんに弁護士になることを求めておらず、パラリーガルのままでいい、結婚後は眞子さまと身の丈にあった生活をすればいいと考えているとされている。
 木村氏はこれについても「義理の父親になるかもしれない人物に相談しなきゃアメリカに留学できないってのも変な話じゃない?」、「僕が小室圭だったら、余計なお世話だって言いますね」、「一般のさ、娘と父親のことで考えてみて、娘のフィアンセが大したことになんなくてもいいよと、ディレクターになんなくてもいいよ、アシスタントディレクターのまんまでいいじゃないかっていったら、これは失礼な話じゃない?」と、たとえ話で小室さんを擁護。
 安藤は「結婚は個人と個人の問題だからっていう認識と、秋篠宮家っていう皇室から嫁ぐっていうことと、ちょっと私は事情が違うのかなって思うんですよ」と、皇室と一般家庭との立場の違いを指摘。「できるだけ環境を整えてきれいな下地を作ってきちっと土地をならしたところで、身の丈に合ったサイズの家を作って、幸せに暮らしてねっていうの、私は親としてごく普通の考え方なんじゃないかと思うんですけどね」と訴えた。
 木村氏は「眞子さんの意志っていうのが当然反映されるべきなので、この3人の中に眞子さん入るべきだと。3人でしっかり話をしたらどうですかと思っている」と、三者会談を提案していた。
https://www.daily.co.jp/gossip/2019/04/26/0012278005.shtml


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 平成末、アイヌ新法が成立した。アイヌでない人が自稱アイヌとなって税金をせしめるとか、色々な噂が飛び交ってゐる。私は專門外であるから、そこまで構ってゐられない。ただ、權威ある朝日新聞(下方に轉載)によれば、「アイヌ人は、外來者と日本人との混血である。先住民族ではない」といふ趣旨のことが、近年の研究で分かったさうだ。
 外來者は、武力を持ってゐたならば侵掠者である。まあ普通は武力を持たぬ筈はなからう。さればアイヌとは、日本を侵掠した人々の末裔である、といふ可能性が朝日の記事から濃厚に讀み取られる。どこからの外來者かと言へば、オホーツク文化圏の民族ださうだ。アイヌ語が日本語と全く繋がらぬ原因が、ここに求められる可能性を誰でも想像できる。
 そもそも前提は、日本の先住民は繩文人である。一萬五千年前に始まる最古の文明である。北海道の擇捉島から沖繩まで繩文遺跡が分布してゐる。北海道にはアイヌよりも先に繩文先住民がゐた。   
http://senkaku.blog.jp/2019041479579716.html
 その日本に二千數百年前、南方の水田稻作文化とともに彌生人が九州北部に侵入し、近畿地方に廣がった。現代の近畿地方人、お公家さん顔の所謂「彌生顔」の人々につながる可能性が高い。
 南方の水田稻作文化はチャイナではなく、非チャイナの長江文明であるから、彌生人はチャイナ人ではない。この點は忘れてはならないが、とにかく外來者であり、武力を持ってゐたならば侵掠者として彌生人が侵入した可能性が高い。神武東征の神話、出雲國讓りの神話などがその歴史を示してゐる可能性が高い。
 彌生人と繩文人とはかなり混血が進んだため、劃然と分けることは難しくなった。しかし幾分かの繩文顔、彌生顔としては痕跡を留めてゐる。繩文顔彌生顔はNHK教育テレビの科學番組でも使はれてゐる言葉だから、大學教員が使っても何ら問題は無い。
 東北地方も繩文人の地域であり、アイヌとの關聯が話題になるが、その前に南の繩文人について言及して置かねばなるまい。南九州から沖繩、八重山にかけて、繩文顔が多い。ただ沖繩本島には意外に彌生顔も多い。私のよく知る或る琉球士族の末裔はかなりの彌生顔である。
 ともあれその沖繩語、八重山語は全くの日本語であり、單語がほぼ一對一で日本古語に對應する。「めんそうれ」は「ご免候へ」である。遺傳子研究でも沖繩人は繩文血統を中心として、彌生血統を幾分か雜へてゐる。八重山はほぼ全部繩文血統である。但し八重山のほぼ完全な血統こそが彌生人なのだと主張する人もゐるが、どうだらうか。八重山人は明らかに繩文顔である。
 さて繩文顔の多い沖繩八重山が日本語なのであるから、日本語は繩文語であり、彌生語ではない。彌生人は日本に侵入したが、言語を奪って置き換へるには至らなかったといふことにならう。
 ところが、アイヌ語は日本語と全然異なる。日本語に繋がらない。繩文遺傳子の濃厚なアイヌ人が日本語に繋がらないのは謎であった。しかしオホーツクからの侵掠者が強烈に言語を奪ったのだと假定すれば、この謎は解ける。假定の話であって、確定するまでにはなほ長い研究の過程を經る必要があらう。
 如上の朝日新聞的假定にもとづけば、先住民繩文の日本に、西から彌生人が侵入し、北からオホーツク人が侵入した。挾み撃ちに遭ひながらも生きのこった先住民が繩文人である。私自身は父が千葉、母が諏訪であるから、繩文の血が比較的に濃いやうだ。近畿地方でも周縁部は繩文顔が多いやうに感じられる。
 そして西の彌生人は繩文語を奪はなかったが、北のオホーツク人は繩文語を奪った、と假定することができる。彌生人よりも苛烈な侵入の歴史があったのではないかと想像される。研究が待たれる。
 如上の假定にもとづけば、アイヌ人は先住民ではない。アイヌ人はあたかも侵掠者バイキングである。そもそもアイヌ文化は鎌倉時代に始まった。隨分と晩い歴史である。繩文一萬五千年の先住民の歴史とは較べものにならない新參者がアイヌである。如上の假定にもとづけば、アイヌ新法は誤ってゐる。少なくとも研究結果が確定するまで法的に先住民と認定すべきではない。

以下參考。 
 消えた北方民族の謎追う
 古代「オホーツク人」北大が調査
  朝日新聞 2009年2月4日11時2分
 古代の北海道北部に広がった「オホーツク文化」のことは、一般にほとんど知られていない。海岸近くに住居を構え、魚や海獣を捕らえ、犬や豚を飼った人々が、こつぜんと消えた。どんな人たちだったのか。そのナゾに遺伝子から迫る初の研究が、先ごろ北海道大でまとまった。オホーツク海周辺で人間が活発に動いたことを跡付けるもので、歴史書に記録の乏しい北方世界の新しい姿が浮かび上がる。
 オホーツク文化はサハリン起源と考えられ、古墳時代にあたる5世紀ごろ北海道に南下し、まず北部に広がった。次第に東部から千島列島まで展開するが、10世紀ごろ姿を消す。日本書紀に見える北方民族の「粛慎(あしはせ)」では、との見方もあるが、考古学・歴史学・民族学などの研究者が解明を試み、サハリンやシベリア、北方の島々の少数民族の名が様々にあがって、決め手はなかった。
   ■人骨の遺伝子分解
 北大総合博物館にある、オホーツク文化の遺跡で見つかった人骨78体を、増田隆一准教授(分子系統学)と大学院生の佐藤丈寛さんが調べ、37体からDNAの抽出に成功。ミトコンドリア遺伝子の塩基配列の特徴を分析し、オホーツク人は、今はサハリン北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフの人たちに最も近く、同川の下流域に住むウリチと祖先を共有するという結論を導いた。ともに人口数千人の少数民族だ。
 オホーツク人が注目されるのは、ミステリアスであるうえに、アイヌ民族形成のヒントが潜むとみられるからだ。
 弥生文化の時期にも稲作が普及しなかった北海道では、縄文→続縄文→擦文(さつもん)と独自の文化が展開した。アイヌはその流れをくむと考えられてきたが、縄文の系統には無い文化の要素も持つ。代表例は熊を使う儀式で、同じような習俗がオホーツク文化にもあったことが確認されている。
 増田准教授らはオホーツク人のなかに、縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプを確認した。北大の天野哲也教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」と、分析結果を評価する。
 では、オホーツク人に近いというニブフは、どんな民族なのか。札幌学院大の白石英才准教授(言語学)によると、ニブフ語は、近隣に似た構造の言語が見あたらない「孤立語」で、ニブフは系統不明の民族。帆を持つ舟を操り、漁労主体の生活だったようだが、近年はロシア化が進んで文化の独自性があいまいになっているという。
 今回の分析には、また、「弥生人の渡来など、日本列島へは移民の波が何度かあったが、オホーツク人の南下は、その最新のものだとわかる」(国立遺伝学研究所の斎藤成也教授=分子人類学)という意味もある。ただ、彼らが海を渡った理由の解明は、まだこれからのようだ。
   ■温暖化原因で南下か
 その理由について、北海道開拓記念館学芸員の右代啓視さん(考古学)は、気候変動、なかでも温暖化のためだと考える。オホーツク文化が北海道北部に到達した古墳時代末期は、現在より海水面が1メートルも高い温暖期で、この文化が広がった平安時代の初期には、年間の平均気温が現在より2~3度は高かったらしい。
 このころ、ユーラシア大陸の反対側では、バイキングと呼ばれた北方の人々が、温暖化を背景に人口を増やし、海へと乗り出して欧州各地を征服、緑の島だったグリーンランドにまで勢力を拡大した。日本列島の北でも、海を舞台にした同様の物語があったのかもしれない。
 最新の科学技術がもたらした分析結果は、気候変動への関心の高まりと重なって、そんな新しい歴史像を描き出そうとしている。(渡辺延志)
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參考2:「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」神澤秀明(国立科学博物館)
曰く「最近、アイヌの集団の形成には南シベリアのオホーツク文化人(5〜13世紀)が関与していることが、ミトコンドリアDNAの解析などから提唱されている。私たちの結果もそれを示唆しており、日本列島人の成立ちは単純な二重構造ではないこともわかってきた。
繩文人核ゲノム歴史神澤秀明

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參考3:「オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー」オホーツク觀光聯盟(北海道新聞か)。
 6月18日の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功。オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。謎に包まれたオホーツク文化が解明されることでオホーツク地域の魅力がさらに深まりそうだ。(以下北海道新聞から紹介します)
      アイヌ民族と共通性
 大学院理学研究員の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。
  一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
 どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこから受け継がれたのでは」と推測している。同大学院の加藤博文准教授(考古学)は「オホーツク人は、最後は消えたという表現がなされてきたが、アイヌ民族の形成にかかわった集団もいたことが示された。アイヌ民族の形成の多様さを遺伝子から指摘する研究成果だ」とみている。          
  ―オホーツク人―
  漁労や海獣猟を主とした海洋民で、5~13世紀にかけて道北・道東・サハリン南部を中心に海岸近くに多くの遺跡を残した。ルーツは明確ではなく、主に①アイヌ民族説②ニブヒ説③アムール下流域民族説④すでに消滅した民族集団説―の4説で論議が交わされてきた。同時期には、縄文人の流れをくむ続縄文人(紀元前3世紀~紀元6世紀)、擦文人(7~13世紀)が道内に暮らしていた。
オホーツク人_北海道新聞

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 參考4:「アイヌ人骨の自然人類学的研究とその課題」
    篠田 謙一    「学術の動向」 16(9), 2011
曰く、「得られた成果の周知は学問の世界に完結して、
当事者であるアイヌの人々に還元されることはなかった。
これらのことは研究者として率直に反省すべき点である。
 いくつかの先進国では先住民の遺骨を埋め戻すことで、
その責任を果たそうとしている。しかし、実は、
これはその地域に成立の歴史を持たない人々が考える解決の方法であって、
そのことが先住民の歴史も抹殺していることに注意する必要がある。
アイヌの人々も本土の日本人もともに日本列島に成立の基盤を
持っているという点で、日本の事情は他の諸国とは大きく異なっている。」
https://doi.org/10.5363/tits.16.9_83



「ミトコンドリアDNA からみた北日本の基層集団」
安達登  2012年 3月31日
新しいアイヌ史の構築 : 先史編・古代編・中世編 : 「新しいアイヌ史の構築」プロジェクト報告書2012
http://hdl.handle.net/2115/56120



「オホーツク文化とアイヌ文化の類似した特性」公益社團法人北海道觀光振興機構。


【武田邦彦】スゴいぞ!あなたが知らないアイヌ民族


 チャンネル櫻・アイヌ新法討論、
田中英道氏 オホーツク文化について。1:01:00-1:09:00