- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。 御聯絡は長崎純心大學(FAX 095-849-1894) もしくはJ-globalの上部の「この研究者にコンタクトする」  http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901032759673007 からお願ひします。 


籌海圖編 .13巻 /明胡宗憲輯議 ; 明胡維極重校

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http://kosmos-ext.lib.keio.ac.jp/V3/glp_menu2.php?d=001982972
http://keio-opac.lib.keio.ac.jp/F/?func=direct&doc_number=001982972

書誌によれば曾孫胡維極の重校本は天啓四年の序を冠するとのこと。慶應藏本は天啓四年序なし。

籌海圖編卷一慶應藏胡維極校本釣魚嶼

卷一、臺灣北方諸島に夾まれた釣魚嶼。花瓶が化瓶となってゐる。

關聯:
http://senkaku.blog.jp/2018071876933684.html


「なほす」を修繕の義とするのが東日本、收納の義とするのが西日本。所謂網野史學を想起させる。但し細かく見ると……
なほす東西Jタウンネット


 東日本及び沖繩が共通して修繕の義に屬し、繩文血統の色濃い地域である。ただし南九州は遺傳子的に繩文が濃い筈だが、「なほす」の語義分布では彌生系となってゐる。これは神武東征及び大和武尊を想起させる。南九州は、人種としては繩文だが、天孫降臨及び熊襲征伐などで早くから大和朝廷に服屬した。一方の奧州及び沖繩は服屬が遲かった。その差が言語に表はれてゐると考へれば極めてよく符合する。
 また、山陽道の備前備中備後が繩文的であるのは、神武東征の經由地に過ぎなかった可能性を推測させる。司馬遷 『史記』に曰く、
  「徐福得平原廣澤、止王不來。」
  (徐福、平原廣澤を得て、とどまり王たりて來たらず。)
と。この平原廣澤にとどまったといふ記述は神武東征から橿原即位を想起させるが、吉備の國にとどまったのではない。勿論、備前備中備後が吉備氏の大勢力の地域だったことも關はってゐるだらう。廣澤とは橿原神宮の深田池ではないかとも言はれるが、大和盆地はそもそも葦原すなはち低濕地であった。葦原の中つ國を漢文で書けば平原廣澤にほかならない。
 また四國は日本史の中で主役ではなかったから、繩文的なるものが遺留したと解し得る。また出雲が彌生と異なる繩文であったことは、奧州方言との共通性や、出雲大社の存在からもしばしば言はれることだ。國讓りとは、戰爭でなく平和的融合の日本精神を想起させる。
 日本が繩文文明の國であったことは、ほぼ間違ひないだらう。今後の問題は彌生だ。彌生人はどこから來たのか。海外から來たのはほぼ間違ひ無からうが、水田稻作を持ち込んだのだから、黄河文明から來た可能性はほとんど無い。彌生人の遺傳子研究では黄河長江を區別する分析をあまり耳にせず、大まかに大陸から來たと言ふばかりである。
 徐福は山東省でも南部の人である。山東省は北部が古代の青州、南部が古代の徐州であり、徐福は姓の通り徐州に屬する。つまり所謂徐夷・淮夷の末裔と考へられる。南の呉の文化と繋がる地域である。伍子胥が子を寄託したことでも知られる。古代倭人も「呉の泰伯の後なり」と自稱した。さういった一連の繋がりの中に黄河文明は無い。
 水田稻作の長江文明はチャイナではなく、チャイナの殖民地である。それを混同して「彌生人は中國から來た」などと現代に投影するのは大間違ひだ。NHKはさういふ印象操作を即刻やめよ。




以下Jタウンネット。
http://j-town.net/nagasaki/research/results/263242.html?p=all
「なおす」の意味は、片付ける?修理する? 境界線はクッキリ
2018年7月27日 06:00
読者の皆様は普段「なおす」をどのような意味合いで使っているだろうか。
「なおす」の意味には、関東と関西で違いがあるとされる。関東では【悪いところをなくして正常に戻す、修理する】意味だが、関西では【収納する・片付ける】意味で使われるという。

群馬県出身の記者は「なおす」というと、もっぱら「修理する」といった意味合いで使っており、上京して関西出身の知人と話すまで、他の意味合いがあることを疑いすらしなかった。

Jタウン研究所では「なおす」の意味に地域差があるのか明らかにすべく、「『なおす』の意味は、片付ける? 修理する?」という質問で2018年6月4日から7月25日までの期間、読者アンケートを行った(総得票数2098)。果たして結果は――。
地域によってはっきりと分かれる
town20180726172724.jpg

全国的に見ると、「片付ける」51.6%が、「修理する」46.4%を上回る結果となったが、ほぼ拮抗しているとも言える。しかし、上の図を見ても明らかなように、地域によってどういった意味で使っているのかはっきりとわかれた。なお「その他」(2.0%)についても調べてみたところ、地域によっては、片付けると似た「しまう」の意味合いがあるようだ。

北海道、東北、関東、甲信越、北陸、東海地方では「修理する」と回答した人が大多数を占める結果となった。しかし、予想外だったのは、東京において「片付ける」が優位となったことだ。東京では「片付ける」50.5%、「修理する」47.6%、「その他」1.9%だった。

一方で中国、九州地方では「片付ける」と回答した人が大多数を占めている。両者が拮抗する結果となったのは島根、高知の2県だった。

岡山、広島、徳島、香川、愛媛では両者僅差の中「修理する」が上回る結果となった。 岡山(「片付ける」38.5%、「修理する」61.5%)、広島(「片付ける」43.9%、「修理する」48.8%、「その他」7.3%)、徳島(「片付ける」40%、「修理する」60%)、香川(「片付ける」40%、「修理する」50%、「その他」10%)、愛媛(「片付ける」33.3%、「修理する」66.7%)という割合だ。

「なおす」の意味がこれだけ分かれるとは。「これなおしておいて」と言われた時にとっさにどちらの意味が浮かんでくるか。それだけであなたの出身がわかってしまうかもしれない!?



私は韓國情報を持ってゐないので、
特段に韓國を嫌ふことはない。
ただ、下のニュースは韓國の大手紙です。
やっぱり、こんな國なのですか。
日本には島國根性と歴史的安定性などの特徴がある。
國ごとにそれぞれ特徴があることは否定できない。
韓國の特徴は何なのか。強ひて否定する必要はない。

http://japanese.joins.com/article/486/243486.html
ラオスダム決壊、4日前から兆候…「韓国職員53人は避難したが…」
2018年07月26日07時56分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
  SK建設が自社が建設に参加したラオスのダムの決壊について「ダムが崩壊したのではなく豪雨でダムが氾濫した」と釈明していたことに対し、「責任逃れ」という批判が出ている。実際にはダム決壊の兆候を把握していたという。
  25日(以下、現地時間)の仏AFP通信によると、SK建設側はダム上段部が流失したことを先週日曜日(22日)午前9時に発見したと明らかにした。ダム決壊の24時間前だ。SK建設側は「(発見後)直ちにラオス当局にこの事実を知らせ、村の住民を避難させ始めた」とし「豪雨によって補修作業が遅れ、補助ダムが決壊する危険が高まると、23日朝からセナムノイダムの水を放流するしかなかった」と釈明した。
  実際、現場にいた韓国人はあらかじめ避難して無事だった。CNNは24日、韓国人現場勤労者53人は全員が無事に避難していたと伝えた。
  しかしAFPによると、ダム崩壊の兆候はSK建設が明らかにした以前から表れていた。SK建設と共にラオスでダム建設に参加している韓国西部発電は「20日に中央ダムで11センチの沈下現象が見つかった」と韓国に報告した。AFPは韓国西部発電の今回の事件に関する日誌を入手したと明らかにし、韓国西部発電もダム崩壊の兆候を先週から認知していた可能性を提起した。
  実際、韓国西部発電のキム・ビョンスク社長は25日、国会の産業通商資源中小ベンチャー企業委員会で業務報告し、20日に沈下現象を確認したことを明らかにした。22日にはダム上段部10カ所で沈下が発生して復旧装備を手配し、23日午前11時ごろダム上段部が1メートルほど沈下し、この時から避難協力を要請して住民の避難が始まった、と説明した。
  ダム崩壊でラオスの7つの村が浸水し、数百人の行方不明者、7000人の被災者が発生した24日、SK建設は「ダムが崩壊したのではなくダムが氾濫した」と釈明したが、後にダムの決壊を認めた。SK建設は25日、公式的に立場を表明し、「セピアン-セナムノイ水力発電所の補助ダムの一部区間が短期間の集中豪雨で氾濫・流失してダム下流地域の村が浸水した。被害を受けたラオス現地住民と遺族に深い哀悼の意を表す」と明らかにした。
  韓国政府とSK建設は26日、ラオスに救援隊を派遣し、救援物資を送ることにした。

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BBC
https://www.youtube.com/watch?v=jNp9OtXcdZo



BBC
https://www.youtube.com/watch?v=0wtSV_BEf14

BBC Uygur 
https://www.youtube.com/watch?v=456eLnEdPbQ

BBC Uygur 
https://www.youtube.com/watch?v=zS0gZ8s3LeQ

NY Times
https://cn.nytimes.com/china/20160818/debate-flares-on-chinas-use-of-prisoners-organs-as-experts-meet-in-hong-kong/

PBS (USA)
https://www.youtube.com/watch?v=khpmkNfx0Rk

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NHK 
https://www.youtube.com/watch?v=KQNacrPKGG4
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NHK  Uygur
http://www6.nhk.or.jp/kokusaihoudou/bs22/feature/index.html?i=180719


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『籌海圖編』嘉靖刊本。國立公文書館藏。 
しばらく見ぬ内に電子公開されてゐた。以前部分的に撮影したのだが、中々綺麗にできなかった。今後このリンクで大助かりだ。ただし公文書館藏の嘉靖刊本は卷二の前半「使倭針經圖説・福建使往日本針路」が缺けてゐる。
 下は卷一「沿海山沙圖」のpdf34枚目。釣魚嶼が臺灣北方の鷄籠山・彭加山・花瓶山の間に在る。この釣魚嶼は尖閣ではない。當初私はさして疑はなかったのだが、尾崎重義氏がこれは尖閣ではないと強調するので、或る日はたと氣づいて、歴代の史料を精査すると、釣魚嶼を臺灣北方諸島の中に置く史料が一系列を成して、約半數を占めてゐた。偶誤ではない。チャイナ史料で釣魚嶼は尖閣として認識されてゐない。彼らは尖閣をサッパリ分かってゐない。詳細は私の過去の著述をご覽下さい。また今秋もこれにつき研究を發表します。
籌海圖編嘉靖本公文書館藏福七八釣魚嶼赤


ついでに汪楫の『使琉球雜録』もデジタルで出てゐる。
こちらはさほど重要でもないが、有り難い。今後このやうなものを入手する苦勞はかなり減って行くのだらう。ありがたや、ありがたや。

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尖閣五百年史上の主要な年月日。

第三推薦
西暦1534年陰暦5月10日(陽暦6月21日) 琉球職員が明國使節船をナビゲート。最古の尖閣記録。

第一推薦。
西暦1819年陰暦9月18日(陽暦11月5日) 日本人(琉球王族)が薩摩船で初の上陸、水源調査。内閣官房領土室の尖閣報告書に採用。
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku03.pdf

第四推薦
西暦1845年6月16日 八重山パイロットが英軍艦をナビゲートして上陸調査。

西暦1884(明治17)年、古賀が人を派遣して尖閣に上陸させる。月日不明。

西暦1885(明治18)年、古賀が人を派遣して尖閣で事業を開始。月日不明。

第二推薦
西暦1885(明治18)年10月30日、魚釣島に明治政府公式上陸調査。

第五推薦 
西暦1895(明治28)年1月14日、日本政府が尖閣を編入。

西暦1895(明治28)年、古賀自身が尖閣上陸探檢。月日不明。

西暦1896(明治29)年九月、古賀が尖閣拓殖の官許を得る。期日不明。

西暦1896(明治29)年、古賀商店が井澤彌喜太を雇用、尖閣に派遣。月日不明。

西暦1898(明治31)年5月24日、古賀商店の官許拓殖事業で番頭尾瀧延太郎が尖閣に向けて那覇港を出航。


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古賀については、いしゐのぞむ「尖閣最初の上陸記録は否定できるかーー明治から文政に遡って反駁する」島嶼研究ジャーナル4の1。
http://senkaku.blog.jp/archives/19685182.html
をご參照下さい。平岡昭利氏の論文は全部誤りなので信じてはいけません。

領土室ギャラリー魚釣島薄暮縮

島影は領土室尖閣ギャラリーより。
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/senkaku/gallery/index.html

このリンクのブログに、
「モンゴル帝国(大元大モンゴルウルスーいわゆる「元」)と向き合った「日本」は、中華の文化や品物を求めて多くの人々が大都をはじめとする元の都市に赴く。禅宗の僧侶であったり、商人であったりするのだが」

と書いてあったので、意見を投稿しようとしたのだが、文字認證がうまく行かないので、以下、自分の處に書いて置く。
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こんにちは。「中華の文化や品物を求めて多くの人々が大都をはじめとする元の都市に赴く」とのことですが、入元僧の大多數は長江流域以南で活動し、北京に行脚した稀少例が雪村友梅と、かの雪舟等楊(明國時代)くらゐに過ぎません。逆に教へる側ですから、基本的に北京が中華であらう筈がありません。勿論、今の北京政府は黄河中原文明とか北方こそ中華だと歪曲したいわけですが。
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以上が書き込み未反映の文。
 雪村友梅以外では、古源邵元といふ禪僧が嵩山少林寺で幾つも石碑が發見されて頓に著名となったが、大都にも行脚したといふ。關聯論文は下の通り。

入元僧古源邵元の軌跡(下)嵩山少林寺首座から京都東福寺住持へ
    佐藤 秀孝
    駒沢大学仏教学部研究紀要 (61), 73-140, 2003-03
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005387918
入元僧古源邵元の軌跡(中) : 嵩山少林寺首座から京都東福寺住持へ
    佐藤 秀孝
    駒澤大學佛教學部研究紀要 60, 199-240, 2002-03-31
https://ci.nii.ac.jp/naid/110001000970
入元僧古源邵元の軌跡 (上) -嵩山少林寺首座から京都東福寺住持へ-
    佐藤秀孝
    駒澤大學佛教學部研究紀要 54, 147-188, 1996-03
https://ci.nii.ac.jp/naid/110007014998
日本僧邵元の撰文せる嵩山少林寺の碑    常盤大定
    東洋学報 17(2), 228-252, 1928-10
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005699832


佐藤氏の「古源邵元の軌跡(中) 」の第223頁から邵元の大都行を述べる。續いて第225頁から、今一人「東洲至道」といふ日本僧が大都の寺に住持したことも述べる。言ふまでもなく、彼らは大都に求學したのでなく、高僧として教學を請はれたのである。大都に求學した日本僧は、まあゼロだらう。

大都に住した日本僧が少ないからこそ、彼らの事跡には價値がある。しかるに大都の中華文明にあこがれて多くの僧侶が留學したかのやうな虚構の宣傳に、日本人がころりと引っ掛かるのは何故だらうか。中華人民共和國が基本的にウソを國是とすると分からない日本人。あまりにも善良にすぎる。


雪村友梅漫畫

木宮日華大都


課題 6/6水曜と6/13水曜のいしゐのぞむ擔任の二度の授業の記録・概要を送信する。詳しく正しく理解できてゐれば高得点。
 なほ七月四日現在未提出者が多いやうです。必ずしも二度の授業に完全に一致せずとも、下の四種の中心教材(ビデオもしくは配布資料)をどれか一つ選び、それぞれ前半と後半くらゐに分けて、6/6と6/13計二つの備忘録(メモ)として送ってくれれば充分です。もう授業の記憶も薄れたでせうから、授業内容から外れても構ひません。受理確認は後日、七月末までにします。
送信先及び質問先:
 ishiwi@n-junshin.ac.jp 
この@を半角文字に入れ替へて下さい。文字を手打ちすると誤寫するので、複製して使ふこと。  

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中心教材のビデオ第一、平成二十九年四月純心講演。

https://www.youtube.com/watch?v=7jYCdpG92Ko


中心教材二、平成二十九年四月講演會 配布資料。
(ダウンロード保存して、大きなパソコンで閲覽すること。)   
https://drive.google.com/open?id=15wOEWbe9qyiMUAaajpy0ErimuG6pDOJ2


中心教材三、八重山日報記事 1604年にオランダ船が澎湖に來航。
(ダウンロード保存して、大きなパソコンで閲覽すること。)  
https://drive.google.com/open?id=1Dh15FeBHzKxhPBpZIlw7tNLxcaDzTcaA


中心教材四、平成二十九年一月講演會ビデオ。
 

 ビデオをスマートフォンで閲覽すると、契約によっては追加料金がかかるので、できるだけ大學もしくは自宅のパソコンで閲覽すること。  


電子字典
http://www.zdic.net/

鱧 はも








8:55



audio book  Timothy Brook



London The Selden Map and the Making of a Global City, 1549-1689
Robert K. Batchelor
344 pages | 43 halftones | 6 x 9 | © 2013

If one had looked for a potential global city in Europe in the 1540s, the most likely candidate would have been Antwerp, which had emerged as the center of the German and Spanish silver exchange as well as the Portuguese spice and Spanish sugar trades. It almost certainly would not have been London, an unassuming hub of the wool and cloth trade with a population of around 75,000, still trying to recover from the onslaught of the Black Plague. But by 1700 London’s population had reached a staggering 575,000—and it had developed its first global corporations, as well as relationships with non-European societies outside the Mediterranean. What happened in the span of a century and half? And how exactly did London transform itself into a global city?
          
London’s success, Robert K. Batchelor argues, lies not just with the well-documented rise of Atlantic settlements, markets, and economies. Using his discovery of a network of Chinese merchant shipping routes on John Selden’s map of China as his jumping-off point, Batchelor reveals how London also flourished because of its many encounters, engagements, and exchanges with East Asian trading cities. Translation plays a key role in Batchelor’s study—translation not just of books, manuscripts, and maps, but also of meaning and knowledge across cultures—and Batchelor demonstrates how translation helped London understand and adapt to global economic conditions. Looking outward at London’s global negotiations, Batchelor traces the development of its knowledge networks back to a number of foreign sources and credits particular interactions with England’s eventual political and economic autonomy from church and King.
          
London offers a much-needed non-Eurocentric history of London, first by bringing to light and then by synthesizing the many external factors and pieces of evidence that contributed to its rise as a global city. It will appeal to students and scholars interested in the cultural politics of translation, the relationship between merchants and sovereigns, and the cultural and historical geography of Britain and Asia.

Introduction: Translating Asia
The View from the Library
The Global City
The Question of Translation
The Subject of the Book
 
1. The Global Corporation
1553: The Joint-Stock Company
Redefining the Translator
The Cosmographic Break
Asian Demands: The Emerging Silver Cycle
 
2. National Autonomy
1588: Reading a Chinese Map in London
Translating “China” and “Giapan”
Exchanging Chinese Maps
The State and Sovereign Space
 
3. The Value of History: Languages, Records, and Laws
1619: John Selden, Hugo Grotius, and East Asia
Legal Relations: Opening London to Asian Trade
Asian Libraries in London, Oxford, and Cambridge
The Selden Map
 
4. The Image of Absolutism
1661: Taming the Rebellious Emporium
Asia and the Problem of Restored Sovereignty
Absolutism and John Ogilby’s World Picture
Brokering the Absolutist Image: Interventions from Bombay and Taiwan
 
5. The System of the World
1687: Global Revolutions
The Search for New Translation Methods
The Newtonian System
 
Conclusion: Asia and the Making of Modern London
Acknowledgments
A Note on Manuscripts
Notes
Index

Prof. Batchelor







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I will publish my research about Selden Map of East Indies within a few months.