- 尖閣480年史 - いしゐのぞむブログ 480 years history of Senkakus

senkaku480 石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角にしてご使用下さい)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。

尖閣史の大間違ひ。ファックスと電子メール送りました。
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毎日新聞特輯ワイド係御中 ならびに谷野作太郎樣
石井望と申します。長崎純心大學で釣魚列島漢文史料を研究してをります。本日、貴紙の訪問録で

「せいぜい120--130年前の話です。それまで、あの海域は琉球、台湾、中国福建省などが共有する「生活圏」だったのです。沖縄の有識者の方々の間ではそのような考え方が強い。」
http://mainichi.jp/feature/news/20130827dde012010075000c3.html

http://stomach122.jugem.jp/?eid=1584

との谷野氏の言葉を目にしました。學術的に完全に誤りです。
谷野毎日

機動船出現以前に、帆船で尖閣海域を生活圏とした記録は一切存在しません。明治の古賀氏以前に漁業などの記録も一切有りません。琉球國からの朝貢船が「貿易圏」とした記録は數百度も有りますが、貿易圏だけで「生活圏」とするのは、完全に誤った擴大解釋です。

チャイナ側からは琉球國王の招聘により、琉球國公務員の水先案内で尖閣海域を數十度だけ航行し、記録しましたから、チャイナ人は客の立場になります。主は沖繩人です。

記録にもとづかぬ推測としても、季節風による航行ですから、尖閣海域に到達したら半年待たねば戻れません。だから朝貢も一年に一往復です。帆船時代に生活圏とすることは不可能と推測できます。

今の沖繩の有識者も、尖閣史を檢證せずに、その場限りのことを言ってゐるだけです。近代の沖繩研究者などでなく、しっかり漢文を讀む古典尖閣史研究者にご確認の上、誤りを訂正・撤囘して頂きたい。もしご必要なら私自身もご相談に乘ります。

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以上が送付した文です。谷野氏は元中華人民共和國駐在の大使ださうです。毎日新聞の情報は、正かなづかひの會の同志上村知己先生より知らせて頂きました。以下に毎日新聞の見出しと谷野氏の上下文の一部分を引用します。

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 ◇尖閣問題に乗っ取られるな 歴史的には日台中の「共通の生活圏」だった
 尖閣の問題については、日本は筋を通して対応していくことが重要です。しかし、あの島の問題に大切な日中、中日関係が乗っ取られるようなことがあってはならない。両国の政治リーダーたちがその思いを共有して知恵を出し、勇気を持って今のトンネルを抜け出してもらいたい。…

 尖閣について、あの島々は「古来、日本の領土」「古来、中国の領土」という硬い言い方は、私自身ちょっとひっかかります。中国は島の存在を認知していただけ。一方、日本は明治になって間もなく「廃琉(はいりゅう)置県」(いわゆる琉球処分)があり、1895(明治28)年に正式な手続きを経てこれを日本の領土としたわけです。しかし、それもせいぜい120〜130年前の話です。
それまで、あの海域は琉球、台湾、中国福建省などが共有する「生活圏」だったのです。沖縄の有識者の方々の間ではそのような考え方が強い。日本の領有権の問題は譲ることはできませんが、その上で日本、台湾、中国の間で「共通の生活圏」というやわらかい考え方を共有し、そこから何か解決の糸口を見つけることはできないものか、と思っています。

()

http://mainichi.jp/feature/news/20130827dde012010075000c.html

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:T3sbl38cPboJ:mainichi.jp/shimen/news/20130827dde012010075000c.html

https://archive.today/921O9

(毎日新聞、平成二十五年08月27日東京夕刊・特輯ワイド)

石垣市の島が日本チャイナを乘っ取るとは、石垣市民の名譽を損なふ大失言です。チャイナが「大切」で石垣は大切でないとも讀み取られます。石垣市民は怒らないといけません。

 

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追記。「古來日本の領土」とは、民間人で言ってゐる人は有りますが、日本政府は言ってません。日本政府の公式見解は、明治二十八年(西暦1895)に編入した日本固有の領土です。一方のチャイナ公式見解では古來チャイナ領土だとしてゐます。谷野氏が古來と固有とを混同するのは故意か否か。いづれにしろこれも大きな誤謬です。

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追記第二。

インターネット「生活圏 尖閣」檢索。

http://www.koubunken.co.jp/0500/0483.html

http://ww5.tiki.ne.jp/~people-hs/data/5743-4.html

http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=70

http://tokyopastpresent.wordpress.com/2012/12/05/

http://www.hilanokumiko.jp/web/03_taiwan/index_003.html

http://www.hibana.org/h351_1.html

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-211016-storytopic-11.html

 

 

 

チャイナ側の論理で、

「黒潮の激流ゆゑ沖繩の漁民は尖閣に行かれなかったが、

 臺灣からだと潮の流れを利用して往復しやすい」

などといふのが有りますが、誤りです。
近代以後では沖繩側から多數漁民などが行ってゐることは史料にある通りです。
近代以前の航海の史料では、潮の流れはほとんど話題にならず、
季節風が主な話題です。季節風が變はるまで數ヶ月待たねばなりませんから、
近代以前の尖閣で漁業は不可能で、チャイナ人沖繩人とも漁業の記録皆無です。

 

また、

「日本本土からとチャイナからの距離で、遙かに近いチャイナに説得力がある」
「100年前まで琉球ですら他國。沖繩本土から尖閣までも遠い」

などの説も有りますが、誤りです。

 

尖閣は沖繩の石垣島に編入されたのであって、

本土に編入されたわけではありませんから、

八重山諸島からの距離で比較すべきです。
與那國島から尖閣まで150KMで最も近い。
過去に溯れば、1534年の尖閣最古の記録の時、

與那國は琉球國領土でしたが、一方の臺灣はチャイナ領土外でした。
1534年時點で比較するなら、福州まで300kmと、大差がついてます。

 

かりに沖繩本島の距離で比較するなら、最東端の比較も入れるべきです。
最東端の大正島から那覇まで200kmほど、福州まで500kmほど。大差です。

 尖閣距離海上保安廳

 ▲海上保安廳ホームページの尖閣距離圖 

星條旗尖閣

八重山日報「八重山の危機は眼前に在り。安倍内閣が尖閣を見捨てる」

http://www.jfss.gr.jp/news/20130827/20130827.htm


(下)▽尖閣五百年、ゼロの歴史 ▽地元の意志表示を。 

http://www.yaeyama-nippo.com/2013/08/25/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AF%E7%9C%BC%E5%89%8D%E3%81%AB%E5%9C%A8%E3%82%8A-%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3%E3%81%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%82%92%E8%A6%8B%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%8B-%E3%81%84%E3%81%97%E3%82%90%E3%81%AE%E3%81%9E%E3%82%80/

リンク先の八重山日報もご覽下さい。

 

http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0130825.html

有料版もあり。

 

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八重山日報「八重山の危機は眼前に在り。安倍内閣が尖閣を見捨てる」(上)

 

▽九月上旬にも危機か ▽アメリカの都合  

http://www.yaeyama-nippo.com/2013/08/24/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AF%E7%9C%BC%E5%89%8D%E3%81%AB%E5%9C%A8%E3%82%8A-%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3%E3%81%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%82%92%E8%A6%8B%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%8B/

リンク先の八重山日報をご覽下さい。

 

http://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0130824.html

有料版も有り。

 

 

國際法で完勝、古文書でも完勝。しかしチャイナは尖閣の西の界を徹底無視
 

 第三囘電子文字はこちら http://senkaku.blog.jp/archives/1453605.html

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日本戰略研究フォーラム季報、第五十六號、平成二十五年四月、

「チャイナの尖閣主張、繰り返す類型あり」 (四) いしゐのぞむ

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

○『皇明實録』萬暦45(1617)年8月
  此の外の溟渤、華夷の共にする所なり。
  〔ここから外側の大洋は諸邦の共有だ。〕
東湧島について明の福建の外交官が皇帝に上奏した言葉である。尖閣航路は一本道なので、東湧から東の尖閣は無主地だと公式に述べたことになる。この史料は今年1月21日『讀賣新聞』夕刊及び22日『産經新聞』で報じられたが、チャイナ側から全く反駁が出なかった。昨年『産經新聞』の『石泉山房文集』の時とは雲泥の差である。『讀賣新聞』の流通量をチャイナ側が知らない筈は無いのに何故なのか。それは尖閣の西側だから徹底無視したのである。
○清・費錫章『一品集』
  黒溝に行き過ぐ中華の界
福建から那覇に向けて出航して、黒潮を渡ると「中華」(ここでは清を指す敬語)の領域が終ることを指す。私は最初うっかりこの黒潮が琉球近海かと思ったのだが、前後の句をよく見るとタイワン島の西北側海域である。非公式の漢詩ながら文化的な意義が有る。
○清・官製『重纂福建通志』・「葛瑪蘭廳」
  北、三貂に界し、東は大海に沿ふ。
これは非公式ながらタイワン島の宜蘭の行政域を示す。三貂は宜蘭の東北端の岬である。三貂から更に東北に海を越えると尖閣が有るから、尖閣は清の領外である。日本が尖閣を領有する24年前、明治4年の刊行書なので、公法上でも有効かも知れない。チャイナ公式見解では釣魚列島を宜蘭境内だとするが、誤りである。
 以上のやうに尖閣の西の界こそ重要であるから、前述[乙]の如く尖閣の東の漢文解法を細かに論じること自身が罠なのである。琉球境に「至る」「入る」でなく、チャイナ東限が尖閣の西に在ることを繰り返し訴へねばならない。

戰略forum圖


古文書は無効   
 以上諸史料の中で、大手紙に報道されたのは『石泉山房文集』と『皇明實録』だけだが、ともに皇帝への上奏文である。どうも新聞記者諸氏は、公式の上奏文は有効でそれ以外の民間記述は無効だと思ってゐるのかも知れない。
 これはチャイナ側反駁の[丁]、古文書は公法上で有効か否かの問題である。私は公法の素人ながら、上奏文が重要だとは思はない。古文書は百年も隔絶したら公法上で無効だらうから、公式と非公式とに二分すべきでなく、ただ尖閣をめぐる歴史と文化の材料として漢詩も上奏文もそれぞれ意義がある。公式か否かは重要性の一基準に過ぎず、非公式の漢詩でも航行中の記述こそ重要である。大手紙のやうに上奏文を重視すると、チャイナ側の今なほ古文書が法的に有効だとする論法にのせられる虞れが有る。
 『石泉山房文集』の報道から6日後、7月23日『産經新聞』「正論」欄所載文「尖閣で中国は法的に勝ち目なし」に於いて村井友秀氏が、チャイナ側の主張は古文書中の歴史だけにもとづくもので、日本の先占の法理に勝てないと喝破した。至言である。明の上奏文にせよ詔勅にせよ、古文書で領土を定めることなど有ってはならない。私自身もそのつもりで、歴史と文明の「いくさ」として史料を研究してゐる。
 それから更に4日後の7月27日の廉徳瑰女史の駁論(前述)では、村井氏の所説と私の研究とをならべて、「『産經新聞』は古文書が有効だと言ったり無効だと言ったり自己矛盾だ」と批判した。つまるところチャイナ側は古文書が有効だと言ひたいのである。
 しかし日本は公法で完勝するのみならず、古文書でも完勝できること、本稿でご理解頂けた筈である。リング上の正式な領有は最初から決着してゐるが、古文書の「いくさ」も「場外」の前提で受けて立つべきである。
(終)

 

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インターネットの文字檢索で索着できるやう、上の文章を電子文字で轉載しました。但し最終校正で微細な異同があるかも知れないので、リンク先を正版として下さい。

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

 

 

ヘーゲル常萬全2
  安倍政權は尖閣で「チャイナ主張の存在は認める」などの讓歩もしくは密約を計劃してゐます。原因は米國の壓力です(下の報道など)。どうしても讓歩するなら、尖閣でなく他の事で讓歩すべきです。尖閣の歴史上では西暦1534年からずっとチャイナはゼロなのです。ゼロの國が大騷ぎするからと讓歩したら、歴史的大罪となるのみならず、今後の外交の上でも惡しき前例となります。

 

時事通信、25年8月20日

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013082000028

尖閣問題、日中で平和解決を=米中国防相が会談
【ワシントン時事】ヘーゲル米国防長官は19日、ワシントン郊外の国防総省で中国の常万全国防相と会談した。会談後の記者会見でヘーゲル長官は、沖縄県・尖閣諸島をめぐる日中対立を平和的に解決するよう求めたことを明らかにした。

 ヘーゲル常萬全

 「中外の界」は、遠く清の領外なること自明。

 

 第二囘電子文字はこちら http://senkaku.blog.jp/archives/1453604.html

 

日本戰略研究フォーラム季報、第五十六號、平成二十五年四月、

「チャイナの尖閣主張、繰り返す類型あり」 (三) いしゐのぞむ

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

 

論法にのせられないために  

 この汪楫の名は『産經新聞』報道の中にも出てゐたことにご注目頂きたい。汪楫は漢詩集の中で「東沙山(馬祖列島)までが清だ」と述べるのだから、その同じ本人がはるかに東の赤嶼附近で記録した「中外の界」は、遠く清の領外なること自明である。「中外の界」まで全て清の領土だとする主張は成り立たなくなった。
 汪楫の東沙山の語は、昨年(平成24年)3月の拙著『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心刊)の中に載せてあり、極めて重要なので報道して欲しかったのだが、報道各社にどう持ち込んだら良いか分からず、忙しさにも紛れて抛置してゐた。7月に至り『石泉山房文集』に附録する形で報道されたことは幸ひであった。
 汪楫の東沙山の重要性は、「中外」の歪曲を否定したのみならず、尖閣への航行中の記録として述べたことに在る。他にも尖閣の西のチャイナ東限史料は多いが、航行中の記述は少ない。かくも重要な東沙山の記述だが、上述のチャイナ側四氏は全く反駁しなかった。尖閣の西側だから無視したのである。そして、いつもの論法で尖閣の東の『石泉山房文集』上奏文だけが大きな反響を呼ぶこととなった。

戰略forum圖
尖閣の西側の史料いろいろ  
 ここまで尖閣の西側のチャイナ東限史料を幾つか例示したが、他に主なものを解説しよう。
○明・黄承玄『盟鷗堂集』
   國王嚴禁し、一草一粒をも犯すを許さず。
〔長崎代官は明の領土を犯すなと禁じた〕
○明・曹學佺『湘西紀行
   大明の境界に入らず。〔明に進入しない〕
この二つは、元和2年(西暦1616年)日本から派遣された使節明石道友が、明の領土に侵入するのを禁じられた上で東湧島に到達し、自ら明の官員に向かって「明に侵入しません」と述べたものである。東湧の東側は明の領土でないと確認してゐたことが分かる。明治に尖閣を無主地と確認するよりも280年前の確認である。東湧は今の馬祖列島中の東端で、福建沿岸から僅か約40kmに位置する。
 280年の間に繋がりは無いのか。答へは、有る。まづ福州から那覇へ約30年に一度づつ渡航した遣使船では、福州出航直後は福建人が針路役をするが、タイワン島の西北側海域から早くも琉球人と交替する。かりにチャイナ領内もしくは勢力下であるならば、交替するのは不自然である。琉球側ではそこから先を無主地であると常に確認してゐた可能性が高い。
 第二に明治7年、日本がタイワン島に出兵した際、清側はタイワン島全部を領有してゐると主張し、日本側はタイワン島東部が無主地だと指摘した。明石道友と同じやうに清の領土を犯さぬための確認を明治政府も行なったのである。この談判の中で、官製地誌『臺灣府志』及び稀少漢籍『臺灣番社紀略』などが議論の材料になった。明治政府は代表的地誌のみならず稀少本まで研究してゐたと分かる。後述の『重纂福建通志』にも書かれる通り、地誌にはタイワン島内の清の領土がどこまでと明記してあり、尖閣は領外である。維新から間もない頃、早くもこのやうに清の領域を確認した以上、とりも直さず尖閣を無主地と確認したに等しい。それから21年後に確認の上で領有した際にも、明治7年の調査結果を利用しない筈が無い。明石道友と明治政府が同じことをしたのは決して偶然ではなく、尖閣の西側にチャイナ東限が存在したことは時代を超えた共通認識なのである。

  (つづく)

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インターネットの文字檢索で索着できるやう、上の文章を電子文字で轉載しました。但し最終校正で微細な異同があるかも知れないので、リンク先を正版として下さい。

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

 

 

 

   第一囘電子文字はこちら http://senkaku.blog.jp/archives/1453603.html

 

日本戰略研究フォーラム季報、第五十六號、平成二十五年四月、

「チャイナの尖閣主張、繰り返す類型あり」 (二) いしゐのぞむ

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

  
郭汝霖の東限の記録  
 類型の種明かしの前に、しばし類型の罠にはまって見せよう。同じ郭汝霖の渡航記録『重編使琉球録』をみると、福州を出航してから赤嶼に至るまでの間、どこで明の東限の外に出たとも書かない。尖閣まで明の領内だから書かないのだとチャイナ側は主張する。日本側は明の領土記録が無いのだから無主地だと主張する。
 あちらさんはチャイナ東限が記録されない限り全てチャイナ領土だといふ論法だから、こちらは逆に琉球西限を記述しない別史料を以て「東シナ海全域が琉球の領海だ」と主張できるだらう。しかし記録の無い議論をすれば水掛け論になる。議論になることによりチャイナ側にも一理有るかのやうに見えてしまふ。
 そんな議論をしなくても、東限の記録は確然と存在する。勅撰『大明一統志』の福建福州府の一節に曰く、
   東至海岸一百九十里。
〔東のかた海岸に至る一百九十里〕
と。福州府(福建の首府)は尖閣のほぼ正西方向にあたり、府境は尖閣航路への出航地である。明の地誌上の190里は西洋の約40kmか50kmほどにあたる。グーグル・マップでみると福州から正東方向に海岸までの距離は約45kmなのでこれと一致する。尖閣は更に正東に約300kmなので、領外の無主地と確定する。
 『大明一統志』で領土を「海岸まで」と明記するのは、福州以外の福建各地でも浙江省でも同じである。『大明一統志』以外の官製地誌も全て同じである。あまりにもあたり前すぎるので、昭和40年代からの尖閣の議論中に引用されることはなかった。昨年10月5日に『佐賀新聞』が鄙説を報じたのが最初の筈である。
 地誌諸本に明記される通り、「領土は海岸まで」といふのがこの時の人々の共通認識だったので、使節郭汝霖は航路上でわざわざ「領外に出た」と記録しなかった。出航したと記録すれば即領外に出た記録に等しいのである。附言すれば、もっと後の時代になると福建沿岸島嶼までチャイナ勢力は進出し、上述の東沙山などを東限と看做すやうになる。
 さらに同じ郭汝霖『重編使琉球録』では、復路で浙江の陸地の見える前日に曰く、
   漸有清水、中國山將可望乎。
〔漸く清水有り、中國山(明の陸地)まさに望むべからんとす〕
と。「中國」とは、ここでは明を中心と看做す敬語である。尖閣よりもはるかに西側の黒潮支流を出て、大陸附近の淡い海色を以て明が近いと認識したのである。この時は尖閣を通らなかったが、郭汝霖自身も東シナ海を明の領外と看做してゐたことはこれで確認できる。

戰略forum圖
チャイナ東限を無視する論法  
 罠にはまって見せようと言ひながら、あっさり論破してしまったわけだが、チャイナ側は常に尖閣の東側の琉球西限だけを大きく取り上げて、明・清の東限を無視する。昭和40年代からの類型的論法である。日本側は奥原敏雄・喜舍場一隆・尾崎重義といった論客が明及び清の東限の史料を早くから提示して決着をつけたのだが、それと同時にチャイナの論法にも逐一正面から反駁したので、議論が白熱してゐるやうに見えてしまった。文化大革命を生き延びたチャイナ人に、善良な日本人が勝つのは至難である。我々は尖閣の東側の史料に反駁せず、西の史料だけを大きく扱ふべきである。さうすれば東西二者の間は無主地だと子供にも分かる。
 『産經』報道の件に戻れば、郭汝霖『石泉山房文集』もまた尖閣の東側の史料である。これを報道に出したことは、私自身もチャイナ側論法にのる形を作って仕舞ったに等しい。チャイナ側の前述四氏は早速いつものやうに尖閣の東側の諸史料をならべ立てて反駁してきた。ならべた史料と主張を例示すれば、
○明・陳侃『使琉球録』
古米山(久米島)から琉球に這入ると記録するから、そのすぐ西の赤嶼まで明の領土だ。
○明・夏子陽『使琉球録』
那覇から福建への復路で、黒潮を離れると「中國之界」だと記録するから、古米山・赤嶼附近の黒潮から西側はチャイナである。
○清・汪楫『使琉球雜録』
赤嶼の東で「中外之界」を記録するから、赤嶼と古米山との間がチャイナと琉球との分界だ。
○琉球・程順則『指南廣義』
古米山を「琉球の西南方の界上の鎭山」と記録するから、そのすぐ西の赤嶼まで清の領土だ。
……といった具合である。これら琉球西限の記述を、チャイナ側は明・清の東限だと勝手に決めつけて、福建沿岸の東限を無視するのである。念のためこの四史料を解説すれば下の通り。
 陳侃と程順則(正しくは徐葆光)は、ともに古米山と赤嶼附近の琉球西限の記述であって、その議論につき合ってはならない。『大明一統志』などのチャイナ東限を示せば話は終る。
 夏子陽については、福建を望見する前日の記述であるから福建附近の黒潮支流である。それをチャイナの主張では勝手に移動して琉球附近の黒潮にすり替へたに過ぎない。
 汪楫の「中外(内外)の界」も、琉球の内外であってチャイナの内外ではない。琉球の西限とほぼ同じ古米山・赤嶼の海域での話だから、琉球の内外と看做すのがあたり前なのだが、チャイナ側は清の東限だと決めつける。徐葆光に「中山(琉球)の大宅、中央に居す」との漢詩もあり、琉球を中とするのは自然である。
 以上の如く、尖閣の東側の琉球西限の議論になると、そこをチャイナ東限だと決めつけ、次々に誤った史料をならべて、まるでチャイナ側が優勢であるかの如き虚相を造り出す。逐一反駁すればすむのだが、外野からみればチャイナ側にも一定の理が有るかに見えてしまふ。

  (つづく)

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インターネットの文字檢索で索着できるやう、上の文章を電子文字で轉載しました。但し最終校正で微細な異同があるかも知れないので、リンク先を正版として下さい。

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

 

日本戰略研究フォーラム季報、第五十六號、平成二十五年四月、

「チャイナの尖閣主張、繰り返す類型あり」 (一) いしゐのぞむ

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

 

 『産經新聞』の報道  
 尖閣危機うちつづく昨年(平成24年)7月17日、『産經新聞』第1面に尖閣列島の漢文史料の報道が出た。題して曰く「『明代から領土』中国の主張崩壊、明、上奏文、『尖閣は琉球』」と。記事中の新しい内容は二つ。第一に明から琉球に派遣された使節郭汝霖の『石泉山房文集』所載の上奏文に、
   琉球境に渉る、界地は赤嶼と名づけらる。
〔琉球の領域に這入った。分界地は赤嶼(大正島)と呼ばれる〕
と述べること。福州から那覇への航路上の記録である。明治以前の史料としては初めて尖閣列島東端の赤嶼が無主地でなく琉球の領土だったと解し得る。
 第二に清の使節汪楫が自作漢詩集で尖閣航路の旅を記録して、
   
東沙山を過ぐれば閩山の盡くる處なり。
〔東沙山を過ぎれば福建の陸地が終る〕
と述べること。東沙山は今の馬祖列島中の一島で、タイワン島の西北側に在る。閩とは福建である。福建から那覇への尖閣航路上に清(福建)の東限が存在したことが分かる。自作漢詩集の書目は『觀海集』である。
 二史料のうち汪楫の福建東限こそ重要性が高いのだが、記事の標題とならなかったのは何故か。それは本稿後半に述べよう。
漁船群
想像と異なる反響  
 この報道で事前に私は史料の額面通りの反響しか想像しなかったのだが、チャイナ側大手紙誌に次々に出た反駁は、懸命に史料の解法を歪曲するものだった。各標題は以下の通り。
○廉徳瑰「日學者豈可如此治學」(日本の研究者、誤った研究態度)、中共上海市委員會『解放日報』7月19日。
○劉江永「釣魚島、主權歸屬的歴史法理依據」、新華社『瞭望新聞週刊』2012年30期、7月23日。
○廉徳瑰「囘避史料談先占法理、日學者無法自圓其説」(史料を避けて先占の法理を語る、日本の研究に矛盾)、『解放日報』7月27日。
○高洪「日本所謂新史料恰恰證明釣魚島屬於中國」(日本の所謂新史料は逆に釣魚島がチャイナ領土だと示してゐる)、新華社『瞭望新聞週刊』2012年31期、7月30日。
○蔣立峰「釣魚島問題與中日關係」、社會科學院日本研究所『日本學刊』2012年5期(9月)。
 劉・高の二氏は研究者ながら政治的に活動する人物で、日本の『朝日新聞』にまで時々談話が載る。四人もつづいて反駁したのは違例であり、報道に慌てたやうにも見えるが、本心は絶好機と捉へたのだと私は見てゐる。四氏反駁の要旨は以下甲乙丙丁にまとめられる。
[甲]、石井は他の史料を知らない、もしくは無視してゐる。
[乙]、「琉球境に渉る」とは琉球境に向かって進むことを指し、琉球境に至ったわけではない。もしくは、至っただけで這入ってゐない。
[丙]、使節の郭汝霖は、航路に於いて福建側の東限に言及しないので、福建から赤嶼までは全てチャイナ領土だ。
[丁]、日本側は古文書を法的に無効としながら古文書を報道するのは矛盾だ。
 以上のうち[甲]に言ふ他の諸史料は多々有るが、日本の大手紙上の短い紙幅で引用できる筈もなく、言ひ掛かりに過ぎない。私が他の史料と併せ論じた解説文は、8月3日から7日まで『八重山日報』に「尖閣前史、無主地の一角に領有史料」と題して連載したので、ご興味有ればご確認頂きたい(インターネット版あり)。
[乙]の漢文解法については、チャイナ側の初歩的な誤りである。琉球境に渉りながら至らない筈が無いではないか。常識で分かることである。そして「入る」でも「至る」でも大差ないことは後述しよう。
 問題は[丙]のチャイナ東限及び[丁]の古文書の有効性だらう。これはこの時の反駁のみならず、40年前からの尖閣の議論に於ける彼らの歪曲論法の基本的類型なのである。如何なる類型か、それだけ分かればチャイナの主張は全て攻めずして破れるので、今から解説しよう。
(つづく)

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インターネットの文字檢索で索着できるやう、上の文章を電子文字で轉載しました。但し最終校正で微細な異同があるかも知れないので、リンク先を正版として下さい。

http://www.jfss.gr.jp/kiho%20ok/kiho56/17~21%20page.htm

 

栗山1
 孫崎氏、鳩山氏のほかに、最近は栗山尚一といふ人も尖閣棚上げ發言をしてゐます。安倍政權は尖閣棚上げ發言を幾つか外に出して國民の反應を見てゐる氣がします。國民が反撥しなければ、「尖閣のチャイナ側主張が存在することは認める」などの言ひ譯と引き換へに首腦會談を實現するでせう。

 さうでないならば、何故不必要な外交官を頻々と北京に派遣するのでせうか。北京からは誰も派遣されないではありませんか。

 尖閣の歴史をみれば、西暦1534年からずっとチャイナ側はゼロなのです。尖閣の遙か西方にチャイナ領土限界線の記録が有ります。西暦1400年代から1895年まで歴代ずっと記録があります。兩側の線の間の無主地です。その史實を安倍政權の要人は知るべきです。 http://ishiwi.iza.ne.jp/blog/list/2/ 二十世紀のこまごました話でなく、長い歴史を考へて頂きたい。  

 小泉時代の政冷商熱が良かったと思ひます。チャイナ經濟の動向次第では政冷商冷でも良いでせう。首腦會談の必要性がさっぱり分かりません。以下は栗山氏關聯を引用します。

 

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東京新聞25年8月4日

尖閣解決「棚上げ」しかない 日中国交正常化交渉を担当 栗山元外務次官に聞く
沖縄県・尖閣諸島をめぐる対立が続いている日本と中国の間で、ようやく対話に向けた動きが出てきた。日中は、1972年に国交正常化を果たしたが、この1年間は「過去最悪」と言われた。72年当時の交渉担当者だった栗山尚一元外務次官に、尖閣をめぐる交渉の経過や、中国とどう向き合うべきかを聞いた。 (編集委員・五味洋治)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kakushin/list/CK2013080402000107.html

 

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東アジア共同體研究所 世界友愛フォーラム(理事長・鳩山由紀夫)2013/07/09

「栗山尚一元外務事務次官が尖閣「棚上げ」を論ず」 
1972年当時、外務省条約課長として日中国交正常化交渉に携わり、後に外務事務次官も務めた栗山尚一・アジア調査会長が、「赤旗」7月3日付第3面の大半を費やしたインタビューで、尖閣諸島問題のいわゆる「棚上げ」について、「暗黙の了解」に止まっている「棚上げ」を定義してお互いがそれを守るよう明確な合意にすべきだと提言している。 

http://www.eaci.or.jp/news/detail.php?id=12

http://ch.nicovideo.jp/eaci/blomaga/ar284083

 

 

岩波書店紹介

  栗山氏は,佐藤・ニクソン共同声明を作成し沖縄返還に向けた対米交渉に深く関わり,日中国交正常化交渉においても日中共同声明の日本側原案を起筆するなど,外交史上の重要局面において大きな役割を果たしてきた人物です.

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0224060/top.html