- 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus

石井望。長崎純心大學准教授。電子メールishiwi@n-junshin.ac.jp (全角@を半角に)。 電話090-5084-7291。 日本安全保障戰略研究所研究員。尖閣精神文明を侮る勿れ。精神力の弱い日本はすでに敗色濃厚。氣合ひを入れろ。起死囘生のため我が悠久の尖閣史をNHK朝日等が日々報ずれば全勝だ。ノーベル賞五つ持って來い。

岸田南海トーク280917

「南シナ海トークライブ」の講師をします。
ともに語るのは岸田芳郎氏。
九月十七日土曜、午後六時半から二時間ほど。
會場:春日クローバープラザ(JR春日驛前)。
會場費雜費として一名五百圓。定員三十名。
お申し込みは、岸田芳郎電話 080-7982-0052 迄。
もしくはフェイスブックで申し込み可。
https://www.facebook.com/events/2102576256634616/
私本人へのご聯絡電話は、090-5084-7291(いしゐ)です。

内容見込(變更の可能性あり)
來場者と問答形式で15分間あまりのユーチューブ用ビデオ4本を撮影收録します。

一本目。7月12日南シナ海仲裁判決の辯護士。
アメリカのライクラー辯護士は、フィリピン辯護を擔任した。ライクラー氏は歴史資料をどう見てゐたか、岸田氏が直接取材した衝撃の中味。

二本目:7月12日仲裁判決の漢文史料。
判決は歴史主張を退けたと報導されたが、判決文の中で漢文史料は一種だけ間接的にしか引用されず、しかもチャイナに反駁しなかった。一方で西暦十九世紀の英軍水路誌は必ずしも精確なものではないが、幾度も引用された。事實上、チャイナの提示する漢文史料だけを無視したのが今度の判決であった。引用された漢文一種とは『元史』の北緯測定記録である。スカボロー礁の北緯を計測した記録だとチャイナ政府は主張する。それが全くの嘘であることを原文に即して暴く。

三本目。南シナ海二千年の虚構。
チャイナが二千年前に南沙を發見したとする根據は漢文『異物志』である。ところが『異物志』原文をよく見ると、外國の先進的な鐵甲船が南沙を發見したと書いてあり、チャイナ政府の御用研究者もそれをうっかり認めている。

四本目。自由討論。
ここが一番面白いでせう。


時間があまれば……
五本目。清國民間史料でも南沙は國外。
チャイナは色々な南シナ海の漢文史料を持ち出す。理解できないアメリカ人は、「歴史は尊重したいが國際法上は無効だ」と反駁してしまう。正しい反駁は「その歴史は全部嘘だ。例へば◎◎の史料の嘘は……」と逐一反駁することだ。例へば清国の「巴遊紀略」及び「南洋蠡測」には、南沙がチャイナ國外だと書いてある。

六本目。公式の歴史的領土はどこまでか。
明國清國の官製地誌には、領土は海南島までと書いてある。海南島以南は全てチャイナ國外である。フィリピンのカルピオ判事もこれを論據とした。尖閣でも同じことで、官製地誌には福建の領土は海岸まで、臺灣の領土は最北端の基隆まで、及び東北端の三貂角(さんてうかく)まで、東は臺灣中央山脈まで、と明記されてゐる。尖閣も南シナ海も國境線外であるが、チャイナは無視してをり、何故か日米の大メディアも取り上げない。


岸田芳郎氏。「博多空」社長。元福岡大學課外講座講師。テキサス太平洋博物館職員。報導:
http://www.sankei.com/west/news/150730/wst1507300055-n1.html
http://www.sankei.com/region/news/150919/rgn1509190011-n1.html
http://news.ltn.com.tw/news/world/paper/902541
http://b5.secretchina.com/news/15/07/31/582879.html

春日クローバープラザ




以下の内容は『八重山日報』連載「尖閣獺祭録」第六十八囘として、平成二十八年九月十七日(土曜)第五面に掲載されます。八重山日報電子版リンク:
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

尖閣西方の國境線の年代は、これまで明治元年圖(西暦千八百六十八年)が最も早いといふことになってをり、拙著『尖閣反駁マニュアル百題』の表紙を産經新聞及び百田尚樹氏・高山正之氏が取り上げてゐた。それをこのほど一年引き上げ 慶應三年(西暦千八百六十七年)と署するシュティーラー圖が見つかった。平成二十八年八月二十六日。

1868年刊、シュティーラー・ハンドアトラス。
初版製作者アドルフ・シュティーラーは西暦千八百三十六年に卒し、それ以後はシュティーラーの名を冠して、ペーターマンらが製作して版を累ねた。
内表紙標題:世界全地圖册
(Handatlas über alle Theile der Erde und über das Weltgebäude)
副題:西暦千八百十七年初版、西暦千八百六十七年五十周年記念版。
(erste Ausgabe 1817, Jubelausgabe 1867)
jubelは英語のjubilee即ち舊教のヨベル年、五十年ごとの祝祭年。
目次標題:「Adolf Stieler's Handatlas」
目次副題:Vollstaendig Ausgabe in 84 karten 1868
(西暦千八百六十八年八十四幅圖完備版)
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/toc/PPN638143047/1/LOG_0000/
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/thumbs/PPN638143047/1/
https://www.worldcat.org/oclc/846101544
グライフスワルト大學藏。
(大學名:Ernst-Moritz-Arndt-Universität Greifswald)
目録によれば2010年にインターネット公開。書誌公開か電子圖公開か不明。
https://lhgrw.gbv.de/DB=1/LNG=DU/PPN?PPN=638143047
電子圖像庫:Digitalen Bibliothek Mecklenburg-Vorpommern
(メクレンブルク・フォアポンメルン州電子圖書館)
43c番「支那高麗日本圖」。尖閣の西方に國境線。
下方欄外に1867と署する。PDF鮮明ダウンロード。
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/image/PPN638143047/69/
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/resolver?urn=urn:nbn:de:gbv:9-g-724708
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/content/?action=pdf&images=PPN638143047/00000069.tif&targetFileName=PPN638143047_69.pdf
51番「ポリネシア太平洋圖」も尖閣の西方に國境線。下方欄外に1868。
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/resolver?urn=urn:nbn:de:gbv:9-g-724886
http://ub-goobi-pr2.ub.uni-greifswald.de/viewer/image/PPN638143047/87/

1867StielerHandAtlas_ChinaKoreaJapan_Greifsward藏
 ▲支那高麗日本圖。グライフスワルト大學藏。

1868StielerHandAtlas_Polinesien_Greifsward藏
 ▲ポリネシア太平洋圖。グライフスワルト大學藏。右下方に尖閣。破線で圍まれてゐる。

 明治元年よりも一年でも早い圖を搜してゐたのだが、この電子圖像庫に氣づかなかった。いつインターネットに出たのだらうか。上記インターネット書誌に下の如く書いてある。
Veröffentlichung Angabe(版本概要):
 Greifswald Universitätsbibliothek, 2010(グライフスワルト大學圖書館、2010年。)
Umfang(範圍) :
 Online-Ressource (オンライン資源)
Technische Angaben(技術規格):
 TIFF, 400 dpi, Farbe; Digitalisierungsvorgabe: Primärausgabe
(tiff形式400dpi。着色。デジタル化初期値。初級版。)
これだけでは、西暦二千十年に該大學が購入收藏したの、書誌電子版を公開したのか、電子圖像を公開したのか、分からない。問合せる必要がありさうだ。

グライフスワルト大學は、地方の弱小大學ながら近年成功を收めたといふ。
http://www.bmkberlin.com/Germany/040427unigreifswald/text.html
それでも西暦1456年に創立されたのだから古い。
http://www.shanghairanking.com/ja/World-University-Rankings/University-of-Greifswald.html
日本の教育機關は中世まで寺院が中心であり、江戸時代中期からは儒家の藩校だ。熊本藩校再春館が、現代の大學に繋がってゐる最古であらう。戰國時代の文化的衰微が原因で歐洲ほど古い大學が續いてゐないのだらう。まあ世界最古の皇室と、世界最古の地上木造建築法隆寺があるから良いではないか。

記録:
http://archive.is/ViCRX
http://web.archive.org/web/20160826113729/http://senkaku.blog.jp/20160826stieler1867.html
http://web.archive.org/web/20160826114027/http://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/3/1/3108b9df.jpg

なほ、平成二十八年七月二十六日の本ブログで書いたが(八重山日報七月二十一日獺祭録第五十二囘掲載分)
http://senkaku.blog.jp/2016071863676758.html
シュティーラーの地元ゴータの「エルフルト・ゴータ歴史デジタル圖書館」に出てゐるのも、明治元年圖册である。東京大學藏本は明治二年圖册中に明治元年支那高麗日本圖が出てゐるので、ゴータ歴史デジタル圖書館公開本が一年早い。獺祭録第五十二囘及び七月二十六日ブログで兩版本を同一としたのは疎誤であった。ゴータ歴史デジタル圖書館公開明治元年圖册の「支那高麗日本」圖(43c)は、目録だけあって電子圖像は未公開である。
http://archive.thulb.uni-jena.de/ufb/rsc/viewer/ufb_derivate_00003764/SPA-2-000015_0004.tif
http://archive.thulb.uni-jena.de/ufb/receive/ufb_cbu_00006557#tab1
從って現在公開中はグライフスワルト大學藏本だけだ。七月にもインターネットを檢索したつもりが氣づかなかった。最近一か月以内に公開されたのだらうか。それとも私の疎漏だらうか。

他情報リンク:
http://www.abebooks.fr/servlet/BookDetailsPL?bi=15108991198

http://www.ebay.at/itm/401162073826

http://web.archive.org/web/20160918135647/http://www.ebay.at/itm/401162073826
http://archive.is/NFtuS

http://online.auktionsverket.se/1602/359960-classical-atlas-by-stieler-1867/

https://www.booklooker.de/B%C3%BCcher/Stieler+ATLANTEN-Hand-Atlas-%C3%BCber-alle-Theile-der-Erde-und-%C3%BCber-das-Weltgeb%C3%A4ude-Erste-Ausgabe-1817/id/A01R0LO101ZZh?zid=0c1a61015a14ec850e7ad1af5c64b8fd

http://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb314077700

http://trove.nla.gov.au/work/32814014?q&versionId=40076529




以上の内容は『八重山日報』連載「尖閣獺祭録」第六十八囘として、平成二十八年九月十七日(土曜)第五面に掲載されます。八重山日報電子版リンク:
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html



『大明一統志』に領土は海岸線までと明記してあるが、清華大學の劉江永氏が論文で「ただの海岸までの距離だ」とか言ふので、原文を讀んでないことが分かり、可哀相なので拙著書中では輕く反駁するだけにしたのだが、このブログ(リンク)
http://seizan.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17
http://senkaku.blog.jp/2016082565294962.html

のやうにデマを流す人がゐるので、原文の電子畫像を下方に掲載しておく。そもそも領土の記載は地誌の領域卷の通例であって、東西南北が揃ってゐる。珍しくもない。
http://senkaku.blog.jp/archives/35545379.html
http://senkaku.blog.jp/archives/36524369.html

海岸の距離だけだといふのはどこの一年生だらうか。詳しい場合には東南、西南、西北、東北も併記される。明國も清國も同じだ。最南は海南島までなので、南支那海全域は領土外だ。地誌明記の海南島の線についてはフィリピンのカルピオ判事も舉げてゐる。尖閣の西方のチャイナ領土線については、美根慶樹氏も書いて下さったが、
https://thepage.jp/detail/20150328-00000001-wordleaf?&page=2
更に詳細は下の論文に書いてあるのでご覽頂きたい。
 「尖閣釣魚列島雜説七篇」
『ことばと人間形成の比較文化研究、長崎純心大学共同研究報告書』所載、長崎純心大學比較文化研究所、平成二十五年三月刊。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/25825613.html
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024345623-00
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12817507

pdfファイルダウンロードはこちら。
http://www.academia.edu/15634808/
https://docs.google.com/uc?id=0B2MwcvRggQjpc0lScnduYmhUYkk

「問題發生でプレビュー出來ません」などの表示が出ても構はずダウンロードして下さい。

以下は電子畫像。ほんの若干例。
福寧州志疆域赤
 ▲福建の福寧州志・疆域。嘉靖刊。天一閣藏本の影印。赤色はコピー紙面に書き入れたので、原書を汚したりしてませんので、念のため。

大明一統統一公司本福州3
 ▲大明一統志。統一公司影印の天順刊本。





「尖閣の地理を調べると、やはり中国領」といふブログにコメントしました。
http://seizan.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17

いしゐのぞむ
 林子平『三国通覧圖説』では、臺灣島を黄色に、尖閣を桃色に塗ってゐます。臺灣附屬島嶼ではないことを示す史料です。チャイナ公式見解にも林子平『三国通覧圖説』を入れてゐるので、臺灣附屬島嶼か林子平か、どちらか一方をチャイナは放棄せねばなりません。詳細は新刊拙著『尖閣反駁マニュアル百題』(集廣舍刊、amazon等有り)及び鄙撰論文などをご覽下さい。
by いしゐのぞむ (2014-09-14 13:40)

いしゐのぞむ
「尖閣を知らなかった」といふのは誤りです。
同じ事を繰り返しお書きなので繰り返しますが、西暦1534年に陳侃が釣魚嶼海域を渡航したのは、琉球航海士の案内に從ったのだと自身で記録してます。奧原敏雄氏が最初に論及した有名な記録です。最古の釣魚嶼の記録が琉球人による水先案内ですから、釣魚嶼の發見命名者は當然琉球人だといふことになります。
 林子平圖は、臺灣島と尖閣とを別色で塗ってますので、臺灣附屬島嶼説を否定してゐるのです。
http://senkaku.blog.jp/archives/2258655.html
 「尖閣諸島の向こう側に国境を設定するには無理がある」とのことですが、尖閣の西方の國境線は、チャイナ自身が定めたものです。西暦1461年「大明一統志」に「領土は大陸海岸まで」と明記されて以後、1880年頃まで、多數の史料に類似の國境線が記録されてゐます。
詳細は『尖閣反駁マニュアル百題』、集廣舍。
http://www.amazon.co.jp/dp/4916110986
by いしゐのぞむ (2015-01-10 14:24)

kodomo
石井さんのご意見は2つとも誤りです。
冊封使船は、500人もが乗った大船です。航海士も沢山います。天文航法を用いていたとはいえ、水先案内人の補助は役にたったと思います。しかし、船員は200人ほどもいたでしょうから、30人の水夫を琉球が提供しても、手助け程度です。琉球人が操船したなどと言えるものではありません。しかも、琉球が提供した船乗りたちは、おそらく中国人です。琉球で、航海を担っていたのは、久米36姓と言われる技術集団ですが、明の皇帝から派遣された移民で、中国語と航海術を保持した中国人村を形成していました。久米36姓が琉球化すると共に、航海術が失われていったことが知られています。中国と沖縄では文化水準が違 いすぎます。
「大明一統志」には、「領土は大陸海岸まで」などと書いてありません。むちゃくちゃな読み方をあちこちで宣伝されても困ります。
by kodomo (2015-09-22 09:16) 

リンクも著書もお讀みでないやうですね。
  久米三十六姓は明國籍を離脱してゐたことが『明實録』に書かれてをりますので、琉球國人です。しかも陳侃の船の水先案内は琉球國王の公務として命じられま したから、個人の國籍以前にそもそも琉球國として公的にチャイナ船の水先案内をしたのです。著書『尖閣反駁マニュアル百題』をご覽下さい。
 「久米36姓が琉球化すると共に、航海術が失われていった」とする記録は、琉球福州間だけ除外する記述だと、とっくの昔に『尖閣反駁マニュアル百題』に書きました。讀んで下さい。琉球福州間を毎年往復するのに、針路を失ふ筈が無いではありませんか。
 尖閣海域では天文航法を使用してゐませんでした。「島嶼研究ジャーナル」の諸論文をご覽下さい。
 「中国と沖縄では文化水準が違いすぎる」とは單なる差別でせうか。水先案内は海域ごとに分かれますので、文化水準と無縁です。『日本一鑑』などの史料で分かる話です。拙著諸論文ご覽下さい。
http://senkaku.blog.jp/archives/13347226.html
 琉球人が擔任した「操船」とは、水先案内部分です。琉球人の「看針」とチャイナ人の「操舵」とは分業でした。拙著『釣魚嶼史三議』
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I027315769-00
をご覽下さい。
 「大明一統志」には、「領土は大陸海岸まで」と明記されてます。各地方志にも全て明記されてます。原文を勉強する氣が無ければどうにもなりませんね。拙著書及び論文を隈なく讀み盡くしてから、ご質問があればご聯絡下さい。


--------------
琉球列島



最後のコメントは本日書き入れましたが、ブログ主が承認掲載するかどうか分かりません。
少し詳しい情報は別途下リンクに書きました。
尖閣西方のチャイナ領土線 
http://senkaku.blog.jp/2016082565296541.html  
『大明一統志』に海岸線までと明記してゐないと……



.


夕刊フジ電子版、富坂聰氏論説(下方に節録)。とんでもない。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n2.htm

まづは私の反駁。
1、南支那海判決が沖ノ鳥島に不利になった。
 これは周知のことで、判決が太平島を岩礁扱ひしたのは何故なのか、訝る向きも多い。これについては私が臺灣で既に書いた。リンク:
(仲裁庭不反駁元國測緯之説,却罵「中國的臺灣當局」。風傳媒)
http://www.storm.mg/article/144427
要するに、太平島だけ大きいからと經濟水域を認めてしまったら、南沙海域が全て臺灣のものになってしまひ、現状が大きく變更される。仲裁裁判所としてはそんなことはできないので、「人工的に島の形状が變へられてゐる」などの道理を附會して、南沙全島一律に岩礁としたのだ。現實として、それ以外に判決の下しやうが無かった。沖ノ鳥島を始めとして、全世界の無人島の主權に惡影響は有るが、やむを得なかったのである。
 今後どうするか、世界各國が智慧を出すべきである。日本は沖ノ鳥島が不利だからと南沙で軟化するのは絶對有ってはならぬ選擇だ。富坂氏は要するに日本は南沙仲裁判決を全面支持するな、チャイナを少しばかり支持しておけといふ主張だ。とんでもない。

2、ロシアが尖閣に介入する。
 これは不可。何故なら尖閣は100%日本の領土であるからだ。南沙に諸國が介入するのは善。何故ならチャイナの領土ではないからだ。つまり根本的問題である。尖閣は確かに100%日本なのか否か。單に日本がさう言ひ張ってゐるだけなのか。富坂氏はその根本を等閑に付してゐる。何の理屈にもならない。
 チャイナの尖閣主張は全て歴史だけだ。明治二十八年編入の時點でチャイナのものだったといふ前提だ。我々は明治二十八年より以後について論爭しても何の役にも立たない。尖閣は要するに歴史の虚構と五百年の史實との爭ひなのだ。100%日本編入に向かって進んだ素晴らしい歴史を、わざわざ自分から無視する日本では、とても勝てない。
 100%の歴史が明らかになれば、ロシアの介入は100%惡であり、富坂氏の議論は1%の意義も持たない。富坂氏の前提は、南沙も尖閣も同じく係爭地だといふ認識だ。この人は孫崎氏の同類である。

3、大陸棚延伸論。
 國際法の話なので、詳しくは私には分からない。ただ富坂氏が誤魔化してゐるのは、大陸棚が領土を定めるのではないといふ點だ。大陸棚の上の島嶼を全て大陸國の領土とするわけではない。大陸棚を論ずる以前に、尖閣は日本の領土であるから、大陸棚の上に日本の領土が存在する。それだけのことだ。
 越南が大陸棚の上の島嶼が自然とそのまま全て越南領土になると主張してゐるのだらうか。そんなことは聞いたこともないし、かりに越南がさう主張しても日本が支持する筈も無い。越南が主張するのは大陸棚即領土といふことではなく、大陸棚の海洋的權利だらう。
 富坂氏は、尖閣が日本の領土と確定してゐないといふ前提で、大陸棚の延伸を持ち出してゐる。そもそも尖閣は日本の領土なのか否か、そこを誤魔化さずに論ずべきだ。富坂氏の文章は輿論を誘導しようといふ惡意がある。

4、西沙について。
 富坂氏は西沙と南沙とを故意に混同してゐる。これはチャイナの主張と全く同じだ。西沙は古典漢文史料の中では、越南とチャイナとの中間的な地、兩文化の末端の地であった。しかし現チャイナはそこを誤魔化して、
「西沙にチャイナの力が及んでゐたから全南支那海がチャイナのものだ」
と主張してゐる。
 しかし今度の仲裁判決などで問題が大きくなってゐるのは南沙だ。日本が反チャイナ陣營を支持してゐるのも南沙問題だ。西沙と故意に混同する富坂氏は、何を目的としてゐるのか。

5、後出し先出しについて。
 富坂氏は南沙主張に於いてチャイナが先、東南アジア諸國が後だと言ふが、何にもとづいてゐるのか。古典史料で言へば、南沙でチャイナはゼロだ。全て虚構だ。リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016070963121024.html
http://senkaku.blog.jp/2016070362768480.html
http://opinion.cw.com.tw/blog/profile/52/article/4458
http://senkaku.blog.jp/2016040257697412.html
http://www.peoplenews.tw/news/e226b0f0-698c-48c7-b914-17da65230fe4
http://senkaku.blog.jp/2016032257037201.html

 現代について私は一知半解ながら、南沙占領は中華人民共和國が最も遲い。遲かったがゆゑに、問題化を圖って主張したのは中華人民共和國が最も早い。それをどう尖閣にあてはめるのか。
 「尖閣は領土として確定した後にチャイナが主張し始めた」
 「南沙は他國の占領後にチャイナが最も早く主張し始めた」
この兩者を同列に扱ふ富坂氏は、矢張り尖閣主權が不確定といふ前提だ。不確定なのか確定してゐるのか、前提を誤魔化してはいけない。この人物は全く信頼できない。

 附記:チャイナが先に主張し始めたとは何のことかと思ったら、このビデオの6分50秒から。
https://www.youtube.com/watch?v=WJWI5Y0n768#t=6m45s
https://www.youtube.com/watch?v=WAvUpVxa5SM#t=6m45s
西暦1946年にチャイナが主張し始めたが、その時は越南は南北に割れてゐて、フィリピンは獨立してゐないからチャイナが最初だ、とのことだ。ちょっと待ちたまへ。その時は中華人民共和國はまだ建國してゐない。中華民國を算入するならば、越南がフランス殖民地だった時代の占領も算入せねばいけない。フィリピンの主張は西暦1952年サンフランシスコ條約で放棄された無主地だといふことだから、1952年以前に沈黙してゐたフィリピンも主張を開始してゐたに等しいから、同じく算入せねばなるまい。
 更に、ビデオの8分から。南沙で飛行場を建設してゐる五箇國の内、チャイナは四番目に建設したから、決してチャイナだけが惡いのではないとこれは現チャイナの主張をそのまま代辯してゐるが、それよりもちょっと待ちたまへ。富坂氏はチャイナが先だと言ひたいのではなかったのか。チャイナによる實効統治的進出は四番目に過ぎないではないか。論理を誤魔化さないで欲しい。


以下、富坂聰氏論説より節録。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n1.htm
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160824/frn1608241140001-n2.htm

【真・人民日報】南シナ海問題「敵の敵は味方」の単純な考え方は通用しない
2016.08.24
 フィリピンによるPCAの提訴の裁定が、めぐりめぐって日本の沖ノ鳥島の問題にも波及し、日本自身が膨大な海の権利を失いかねないことになったという問題が指摘されよう。
……もしロシアが「わが国にとって重要な輸送路だから」という理由で尖閣諸島の問題に介入しようとしたら、日本はその動きを仕方のないものだと受け入れるだろうか。
……西沙諸島(同・パラセル諸島)をめぐる中越の対立でベトナムが領有の根拠としているのは、「大陸棚延伸論」である。ベトナムに理があるなら、東シナ海で中国が主張する「(大陸棚の続く)沖縄トラフまでが中国のもの」が通ってしまうことにもなりかねない。
 また、「中国VSASEAN(東南アジア諸国連合)」の戦いでは、どうしてもASEAN側の主張が遅れたという背景がある。これも、日中の対立に当てはめれば、中国側の立場を後押しすることになる。
  現状を見る限り、日本は南シナ海の問題で明確にASEAN側に立っている。一方で、彼らが主張する「大陸棚延伸論」や「後出しジャンケン」については牽制する気配がない。東シナ海をめぐる日中間の衝突で、中国が同じ主張や手法を採用した場合、日本が不利にもなりかねないにもかかわらず、だ。


富坂聰


尖閣との關聯で、重要文化財「元禄國繪圖」電子版を見た。國立公文書館。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0300000000/0301000000/01

一般書籍中にしばしば引用されるが、大きな彩色畫像はインターネットで公開されてゐるのを初めて見た。門外漢の私にとって驚くべきはその精確性だ。内陸圖では一目で分からないが、海岸線や湖沼のある常陸・近江・薩摩・大隅・琉球などを見ればよく分かる(上リンク)。現代地圖とも見紛ふ程だ。伊能忠敬の百年前にこの水準に到達してゐた。それでも前作「正保國繪圖」よりも精確性を後退させてゐるのださうだ。下の琉球圖など、日本が琉球を完全に實効統治してゐたことを如實に感じさせる。

 ▼「元禄國繪圖」より、琉球國沖繩島。
元禄國繪圖沖繩島

 我々はこのやうな圖を、さして偉いものとも思はずに何となく見てゐる。それが日本では當り前なので有難味が無いのだらう。しかしその精確性は、隣の清國と較べれば違ひがよく分かる。康煕帝が宣教師に命じて作らせた全國地圖は、日本の國繪圖と比肩し得る精確性を誇るが、清國人自身の製作した清國地圖は、晩清期(光緒年間、西暦十九世紀末、二十世紀初)に至ってもほぼ中世と大差ない。
清光緒會典臺灣全圖_莫崇志繪
  ▲清光緒會典臺灣全圖 莫崇志ゑがく ウィキペディアより。

中世と大差ないからと貶めるつもりは無い。中世的風格をよく留める素晴らしい文化財ではないか。私は尖閣研究の關聯で清國製作の海岸線圖を常日頃から目にしてをり、逆にその古朴なる趣味を樂しむ程である。
 なほ、尖閣諸島は元禄國繪圖に掲載されてゐない。尖閣は少しづつ琉球のものとなりつつあったが、なほ公式には國外の無主地であったから、載ってゐないのは當り前だ。「載ってないからチャイナのものだ!」などといふ詐欺に引っかかってはいけない。尖閣に於いてチャイナはゼロである。

 下は清國人の『中山傳信録』から、沖繩島圖及び琉球諸島圖。西暦1721年刊。琉球の士人(しじん)の提供情報で製作された。元禄より後なのだが、精度はほぼ無いに等しい。清國は琉球を統治してゐないのだから精確な地圖を製作できる筈も無いが、製作する技術も無かった。
中山傳信録琉球地圖


中山傳信録琉球36島圖


八重山とは、石垣島を指すが、また古くから八重山諸島全域をも指す。

徐葆光『中山傳信録』卷四「琉球三十六島」の「西南九島」に曰く、
「八重山、一名北木山、土名彝師加紀、又名爺馬。
……以上八島,倶屬八重山、國人稱之皆曰八重山。」
(八重山、一名北木山、土名はイシカキ、又たヤマと名づく。
……以上八島、ともに八重山に屬す。國人これを稱して皆な八重山といふ。」
と。
爺馬(ヤマ)は「やいま」であらう。


 ▼徐葆光『中山傳信録』卷四「琉球三十六島圖」
中山傳信琉球三十六島圖



【博多女子のそこが聞きたか! なして、その地名?】(2) 新田原(にゅうたばる)
http://www.sankei.com/region/news/160819/rgn1608190042-n1.html
(産經新聞九州山口特別版)

 ■7世紀の丹生田(にゅうた)が語源か

 NEW田原? 宮崎県新富町に航空自衛隊の新田原(にゅうたばる)基地がある。「新田」という地名は全国に数多くあれど、それを「にゅうた」と読む地名はここだけ。その由来とは?

 〈つくし〉こん前、友達におかしかねえ、といわれた。曲芸飛行を行うブルーインパルスの話題から新田原基地になってね。その名前の「新」って、ずっと「NEW」と思っとったんよ。「英語と日本語を組み合わせて、しゃれとんな~」って言ったら「そんなわけ、なかろ?」って笑われた。もともと古い基地があって、戦後、基地が新しくなって「NEW」ってつけたんじゃなかと?

 〈めんたい犬〉新田原基地は戦前からある。昭和15年に旧日本陸軍の新田原陸軍飛行場として建設されて、戦後の昭和32年に改めて、航空自衛隊の基地になったんよ。

 〈つくし〉なら、なんで「にゅう」と読むと? そういえば、福岡県行橋(ゆくはし)市には「新田原(しんでんばる)」という地名があるっちゃね。これと区別するために「にゅう」って読ませたんかな。

 〈めんたい犬〉同じ九州とはいえ、行橋市と新田原基地は200キロ以上も離れとろうが。それに、基地のある新富町には、江戸時代から「新田村」という地区があるったい。自治体同士で合併を繰り返し昭和34年に隣の村と一緒になり新富町になったと。

 〈つくし〉私も新田原基地の広報担当者に聞いてみたんよ。そしたら、やっぱり時々、話題に上るんだって! 由来については確信はないみたい。でも、有力な説を教えてくれたんよ。基地の周辺の原野を開墾したことで「新しく水田をつくる」という意味の「新田」という字を当てて「にいた」と読んどったみたい。それが「にゅうた」に変化したんじゃないかって…。

 〈めんたい犬〉「にいた」「にうた」「にゅうた」…。確かに分からんでもないなあ。でも、総務省によると「新田」という地名は全国に1000カ所もある。このうち「にゅうた」と読むのは、なぜか新富町の地域だけ。根拠としてはちょっと弱いような気もするけど。

 〈つくし〉ちゃんと新富町役場にも取材したよ。役場にも「『NEW田原』なんですか」って問い合わせも多いみたい。

 生涯学習課課長補佐の有馬義人さんによると、新田という地名が最初に確認されたのはナント、鎌倉時代の建久8(1197)年だって。そのころに何があったかというと…

 〈めんたい犬〉ときの将軍に仕えていた武士(御家人(ごけにん))への報酬として土地を与えるため、鎌倉幕府が全国で水田面積の調査をしたんやな。

 〈つくし〉当時の資料によると、日向国(今の宮崎県)の土地の所有を示す帳面「図田(ずでん)帳」に「新田」という地名がある。読みは分からんけど、江戸時代に新田村と隣の村の境界線を示した図面が残っていて、そこでは「新田村」のことを「入田村」と書いていた。有馬さんは、それを「にゅうた」と読んだんじゃないかと推測しとった。

 遡(さかのぼ)って鎌倉時代から、「にゅうた」の読みが先にあり、「新田」や「入田」の漢字が後であてられたという説だね。

 〈めんたい犬〉なるほどよく分かったね。それは知らんかったなあ。でも、それがもし正解だとしても、そもそも、なんで「にゅうた」という地名になったんかな?

 〈つくし〉それはね、平安時代に編纂(へんさん)された「続日本紀」によると文武2年、西暦では698年に日向など4カ国から朝廷に「朱沙(しゅさ)」が献上された、とある。朱沙は朱色の顔料のことだね。古代日本では「丹石(にいし)」と呼ばれる朱色の顔料を使っとったんよ。新田原の近くの古墳群から出土した土器にもこの顔料が塗られていたんだって。

 有馬さんは、丹石の産地から「丹生田」(にゅうた、にうた)と呼ぶようになり、当て字に「新田」を使うようになったと推測しとるよ。

 〈めんたい犬〉お~、なかなか説得力があるじゃないか。同じ「新田」と書いても「にゅうた」と「しんでん」で、その由来はちごうとるんやな。

 〈つくし〉ハイカラな地名だと思っとったけど、調べてみると実は、古代のロマンも詰まった味わい深い地名なんだね。


新田原基地



本日掲載のうち、部分だけ轉載します。全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
『八重山日報』連載「歐洲史料尖閣獺祭録」第五十九囘 
「泰斗の名を冠し、尖閣は八重山の内、ドイツの地理學系列情報 ~西暦千八百四十七年 『リッター地理情報百科全書』(ドイツ)」

 私が尖閣古史を研究するのを理論武装の道具と解する人が多いが、必ずしも本意ではない。勝ち負けは必要だが、理屈で勝てば良いわけではない。報導によれば、尖閣附近のチャイナ公船が八日ぶりに全て退去したといふ。しかし相變はらず安倍政權は尖閣に自衞隊など公務員を常駐すらさせない。國際法でも兵力でも勝ってゐるのに、實際(じっさい)には勝ち切れてゐないではないか。
 韓國は竹島を要塞化し、インドネシアやベトナム等はチャイナ違法船を撃沈した。何故日本はそれができないのか。經團聯(けいだんれん)や米國政府が日本に自己抑制を求めてゐるからだと世間では推測されてゐる。確かに彼らの要求をはねのけるのは難しいだらう。はねのけるには何か安倍政權を強く後推しする最大の力が足りないのだ。それが歴史である。
 チャイナはそもそも尖閣を發見(はっけん)も命名もせず、水先案内を琉球國公務員に委ね、尖閣の遙か西方に明瞭なチャイナ國境線及び海防線が數百(すうひゃく)年間存在した。その歴史の細部について、ニューヨーク・タイムズ及び朝日新聞が第一面で百日間連載する。NHKスペシャル十囘連續(れんぞく)で尖閣古史を放映する。そこからがやっと出發點(しゅっぱつてん)だ。
 單(たん)に現代國際法で勝ったとか、日米安保條約の對象だとか、そんなチャチな話だけでは足りないのだ。學術にもとづく魂の歴史を人々が理解して、始めてオール日米・左翼右翼の九割の支持を得られる。その時やっと安倍首相は尖閣常駐を決斷(けつだん)できる。
 連載第五十五、五十六囘について、某保守系新聞記者の態度を五十七囘で批判した。そもそもニューヨーク・タイムズ及び左翼新聞がこの重大史實(しじつ)を載せなければ大した効果は無いので、某保守系記者には「今度の新情報については第一面上段右側掲載以外謝絶します」と最初に申し上げた。
 それでもなほ質問状などを寄越すので、私はグーグル地圖(ちづ)以外の全既出情報をわざわざ提示した上で、「これ以上の細かな點は掲載決定後にお答へします」と重ねて謝絶すると、捨てゼリフに曰く、「他社は載せる筈(はず)が無いし、わが社の地方版すら載せられない」といふ。最初から載せるつもりが無いなら多忙の身を邪魔しないで欲しい。
 この記者は、既出情報について繰り返し繰り返し否定的な問合せをしてくる。勉強する氣(き)など無いのだ。うるさくて私は身がもたない。これが保守系某媒體(ばいたい)のお寒い現状である。幸ひ八重山日報及び系列の媒體には尖閣古史をしっかり取り上げて頂いてゐる。實(じつ)に有り難いことだ。
 さて、本日の史料は……
 ……何はともあれこの時代の雜版百科全書に、またも尖閣を八重山とする記述が出現したのは喜ばしい。 保守系を以て自任する媒體なら、たかがこの程度でも第一面に掲載してくれて良い筈だ。
(全文は「新聞オンライン」をご覽下さい。)
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html
圖134_Ritter1847geographisch_statistisches_lexikon_p563Hoapinsu
 ▲圖134 『リッター地理情報百科全書』第五百六十三頁。
(Ritter's geographisch-statistisches lexikon)
ライプチヒにて、西暦千八百四十七年、
オットー・ヴィガント(Otto Wigand)氏刊。
「niedrig」:低い。「bewaldet」:樹木の茂る。
スタンフォード大學藏本、グーグル・ブックスより。


連載第五十七囘リンク:
http://senkaku.blog.jp/2016080964828825.html