連載83竹島隱岐青谷

 遺傳子の男女差から世界史が見える。
 平成31年3/2(土)、鳥取市のとりぎん文化会館で開催された彌生時代の遺跡に関するシンポジウム「倭人の真実」。篠田謙一御大の講演。青谷の彌生晩期の四具の人骨のY染色體の内、三具が繩文人であったことが、二年を經ても話題になってますが、繩文人にも種別があるので、どの種類かを確認したいと思ひつつも勉強せぬまま時を經てしまひました。最近インターネットを檢索してみると、出てゐました。
 篠田先生らの元の論文(下記)。青谷で採取できた核DNA六具の内一具は婦人。よってY染色體は五具。五具の内四具からY染色體採取に成功した。四具の内、二具が固有C1a1で、一具が東日本繩文D(=D1b)ですが、のこる一具のOは大分類だけしか檢出できず、下記乙のO1b2西日本繩文人(乃至固有彌生人)か、それとも丙のO2諸蕃(下記)か、分からないとのことです。Oはみな新モンゴロイドですが、O1b2ならばほぼ日本固有の新モンゴロイドです。
 つまり四名の内三名以上が繩文人で、のこる一名もO1b2西日本繩文人(=本土彌生人)であった可能性が十分にあります。四名中で三名半が繩文人といふことです。簡單に言へば青谷の女系は渡來人ばかり、男系は本土人ばかり。本土人が竹島航路を渡って大陸から女子を連れて來た歴史が、長く長く續いたのです。この日本を象徴するのが父系皇室です。かりに女系天皇となれば繩文一萬六千年の歴史が雲散霧消するのです。絶對にゆるしてはならない。

 C1a1は繩文固有種の中でも極めて稀なY染色體です。日本人のY染色體の中では全然主流ではありません。日本人のY染色體の三大勢力O1b2(舊O2b)及びD1b(舊D2)及びO2(舊O3)を分かり易くまとめると以下の通り。
甲、D1b(舊D2):東日本繩文人。
  北海道から沖繩本島まで分布。
  日本人の三割強。ほぼ日本固有種。『新撰姓氏録』の神別。
乙、O1b2(舊O2b):西日本繩文人(もしくは倭系彌生人)。
  主に青森から八重山まで分布、朝鮮半島南部と日本海沿岸に進出。
  日本人の三割強。ほぼ日本固有種。『新撰姓氏録』の皇別。
丙、O2(舊O3):渡來系彌生人。青森から沖繩本島まで分布、大陸各地と共通。
  日本人の二割。大陸からの外來種。『新撰姓氏録』の諸蕃。
http://senkaku.blog.jp/2020072783521463.html
 この甲乙が主流繩文人ですが、青谷のニ具のC1a1は主流から外れ、しかし固有性の更に高い繩文人です。それが青谷で半數を占めた。勿論、父系繩文、母系彌生といふ全國的傾向からは外れず、逆にその傾向が青谷で更に強いわけです。
 C1a1は下圖の紺色です。ほぼ日本にしか存在せず、但し近縁のC3(青色、新分類C2)はモンゴルシベリアに大規模に分布。まあ北方系繩文人なのでせう。しかし極北の禮文島の繩文人はD1bであり(下記神澤)、C1a1ではないのが驚きです。
Y染色體分布

 C1a1は極めて古いY染色體ですから、彌生晩期に青谷に渡來する筈は無く、もともと青谷に住んでゐた男どもでせう。勿論、繩文より以前には大陸から渡來したわけですが、古く遡れば全てアフリカです。C1a1はモンゴロイドではないらしいです。

 C1a1だとなると、シベリアの近縁種C2(舊C3)もあるので、大陸北方に進出した倭人の史料が俄然注目されます。倭人史料として著名な『水經注』と『山海經』(せんがいきゃう)です。戴震校四庫全書本「水經注」卷十四「大遼水」に曰く、
「其水又東北、入廣成縣、東注白狼水。白狼水北逕白狼縣故城東、王莽更名伏狄。白狼水又東、方城川水注之、水發源西南山下、…逕方城北、東入白狼水。白狼水又東北、逕昌黎縣故城西。…高平川水注之、水出西北平川、東流逕倭城北。蓋倭地人徙之案近刻訛作蓋委也人從之。
と。
 楊守敬『水經注疏』卷十四に曰く、
「東流徑倭城北、蓋倭地人徙之。朱(謀㙔)訛作「蓋委也人從之」、(朱謀㙔)箋曰、「蓋委以下六字有訛脱。」趙(一清)據孫潛校(本)、改作「蓋倭地人徙之」、戴改同。」
と。
 清國初期以前の古本は「蓋委也、人從之」に作る。委は倭の古體であり、且つ人徙之よりも人從之の方が通じやすい。徙ならば「倭地人」は古文としてくどい。倭地で斷句しても「人」は誰が徙ったのか通じにくく、倭城を倭地と釋するのも蛇足である。徙でなく從ならば二解釋可能。第一に酈道元 にとって委が馴染みの名であり、人偏が加はった倭城を釋して「人從之」(人從委)とする解。或は第二解としては「蓋委也、韓人從之」などの原文から韓が脱したか。しかし脱文を臆測すべきではない。第一の人偏の解が通じやすい。
 明國の朱謀㙔『水經注箋』卷十四、第二十三葉、電子50枚目。「蓋委也、人從之」に作りながら疑念を提起してゐる。これが孫潛の改竄に繋がった。
白狼水倭城朱氏水經注箋卷14第23葉公文書館

 全祖望校本は卷十七、蓋倭地人徙之に作る。校記は無い。全祖望は朱謀㙔の疑念と孫潛の改竄を採用したのである。
 楊守敬の引く清國初の孫潛『水經』校本は今未閲だが、趙一清『水經注箋刊誤』卷五に曰く、
「盖委也人從之、卷十四二十三頁十八行。箋曰、盖委以下六字有訛脱。一清按孫濳校、改作盖倭地人徙之。」
と。明國の朱謀㙔『水經注箋』が既に訛脱の疑念を示し、それを承けて清初の孫濳が「蓋倭地人徙之」の俑を始作したといふこと(孫濳校本は今未閲)。それを全祖望が採用し、趙一清も全祖望に從った。
 趙一清『水經注釋』第四册、卷十四、第二十四葉は「蓋倭地人徙之」に作り、校記無し。校語は『水經注箋刊誤』に出てゐる。

 清國の沈炳巽『水經注集釋訂訛』卷十四(四庫全書本)も「盖委也、人從之」に作り、「訛脱有らん」と注記する。沈炳巽は朱謀㙔『水經注箋』を襲ふのみ。
http://img.kanripo.org/general/skqs/wyg//WYG0574/WYG0574-0274c.png
https://www.kanripo.org/text/KR2k0059/014
 沈炳巽『水經注集釋訂訛』は四庫全書以外に傳本が無いが、四庫全書提要によれば嘉靖間の黄省曽の刊本を底本としてゐるとのこと。黄省曾刊本は國會マイクロあり。未閲。
https://id.ndl.go.jp/bib/027977768
 黄省曾に繼いで萬暦の呉琯校本二種、公文書館(史190-0001第三册, 291-0077第六册)。只今デジタル不調。
https://www.digital.archives.go.jp/item/4209657
白狼水倭城切水經注291-77呉琯校本卷十四第二十二葉
 上圖は291-77の呉琯校本、卷十四、第二十二葉(デジタル25番圖像)「蓋委也、人從之」に作る。
 次は近代の王先謙校本。引く所の官本の「近刻訛作」云々は、四庫全書の戴震の語。戴震は朱謀㙔の訛脱説を襲ひ、それまでの「近刻」を訛誤と斷じたのである。輕々しい自信過剩ぶりが見える。王先謙は諸説をまとめてゐる。 

 永樂大典の第11130卷(續古逸叢書第101册)は「盖倭也。人從之」に作る。
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=84774&page=2
 四庫全書提要に據れば戴震は四庫館臣として永樂大典水經注を閲し逐校したとのことなので、永樂大典が委を倭に作るのを是として孫潛校を取ったのだらう。委が倭の古字だといふ前提ではなかった筈だ。

白狼水倭城赤永樂大典11130水經注14



全祖望よりも前の黄晟校本『水經』、卷十四、第二十葉、電子69枚目。「蓋委也、人從之」は朱謀㙔『水經注箋』の疑念を引きつつも改めない。沈炳巽と同じ。
白狼水倭城赤黄晟水經卷14第20葉公文書館


孫潛(字潛夫)校『水經注箋』は今十六卷を存し、チャイナ國家圖書館に藏する。
https://kknews.cc/collect/zkpymgg.html

 結論。古本の「蓋委也、人從之」こそ正であること疑ひ無し。「蓋倭地人徙之」に作るのは清國の孫潛もしくは全祖望が祖であり、全の門弟趙一清『水經注釋』及び趙と同年代の戴震校四庫全書が全祖望を襲った。古書を輕々しく改竄した清國儒者の淺智慧だ。我々も自戒せねばならない。
 趙一清と戴震との間の水經注襲竊説については以下論文で賑やかだが、問題は清儒は自信家が多く、明國刊本を輕んじてゐたことだらう。

『東方學報』第3册(1933年3月)
戴震の水經注校定について     森鹿三

胡適手稿    胡適紀念館, 1966.2-1970.6
第1集から第6集の内容 : 討論水経注疑案
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN07869594
 (倭城に論及あるか要確認。)

「戴震の水経注剽窃問題における段玉裁の対処のあり方について」
  若松信爾   九州女子大学紀要 巻51 号1.
 http://id.nii.ac.jp/1267/00000010/
論文中に引く段玉裁曰く、乾隆皇帝は詩もて褒む、「悉心編纂、可爲中尉素臣」と。其の利を食する者、沾漑せらるること無窮なり。中尉の素臣とは御史中尉酈道元の訓詁の功臣を指す。乾隆皇帝の褒詩は『水經注』關聯でしばしば引かれる。「悉心編纂誠堪奬、觸目研摩亦可親。設以春秋素臣例、足稱中尉繼功人」と。御製であるから大きな話題となり、藝林の佳話として四部叢刊武英殿『水經注』序や、戴東原集卷一や、乾隆御製詩四集巻十九や、乃至は國朝宮史續編卷六十三にまで、また近代の戴震評傳の類に必ず引かれる。剽竊が何故非難囂囂となったかといへば、『水經注』によって御製の褒詩まで頂戴したからだらう。小保方晴子女史や小室圭氏が集中砲火を浴びるやうなものだ。

『清華學報』第27卷 卷 第 2 期   民國八十六年  胡適與《水經注》研究     呉偉明
http://thjcs.site.nthu.edu.tw/p/16-1452-41457.php
http://thjcs.site.nthu.edu.tw/p/406-1452-41457,r2973.php

 下は『水經注』諸本の解説記事。主に陳揆・稽瑞樓藏本。黄省曾と呉琯の刊本よりして既に校改を經てをり古寫本の原貌ではないとのこと。
上記古寫本の影印は、「明鈔本水經注」  國家圖書館出版社, 2018  
陳揆・稽瑞樓藏本(或著録為清人何焯、顧廣圻等校跋)。 重要。購入せよ。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB28079234

 靜嘉堂藏の明國古寫本はこれか。十萬卷樓舊藏。

「水經注珍稀文獻集成」 李勇先, 高志剛主編 巴蜀書社, 2017
全五輯。下に目録。  
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB27030466

   * * * * * *  

次に『山海經』の倭。南宋「路史」卷29「國名紀六」、
「登北、帝舜之三妃。傳多作癸北、『姓纂』又作癸比。經(山海經)云、國在鉅燕之南・倭之北。屬燕。」  
 三妃の下は國が脱落かも知れません。國在は登北國在です。

「山海經」卷十二「海内北經」:
「登比氏、…一曰登北氏。
蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。」
四庫全書は蓋の前で換行するので、蓋國といふ國名となってる。路史とは異なる。

 北方と近縁のC1a1でありながら、禮文島に見られない。きっと數萬年前、シベリアのC2(舊C3)が、繩文以前の極めて古い時代に竹島經由で渡來して、日本固有のC1a1繩文人となった。北海道經由ではない。後には竹島經由で大陸北方に進出してゐたため、『水經注』と『山海經』の記述となった。そして女子を連れて歸國するのが慣例となってゐた。海賊的な覇者に外ならない。それを示すのが青谷父系Y染色體である。C1a1は數萬年前の竹島航路を示す。凄い。

 生物學者はY染色體を重視せず、全ゲノムで人種を分析したがるやうですが、それは歴史を無視してゐます。そもそも世界史に於いて家系とは、父系です。母系の家系圖は基本的に存在しません。稀に母系から母系へつないだ家系があれば女人國として面白がられる程度です。
 家系とは父系であり、父系とはY染色體です。天皇家の家系を大切にするならば、それは生物學ではY染色體を大切にすることに外なりません。繩文人が大陸の女子を船で連れて來る悠久の歴史のゆゑに遺傳子の男女差が形成された。その絶好例が鬱陵島-竹島-隱岐-青谷航路であり、その象徴が父系天皇です。


鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土弥生後期人骨のDNA分析
        篠田 謙一        神澤 秀明
  国立歴史民俗博物館研究報告219號, pp.163-177, 2020-03。
page169にC1a1に論及。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN00377607
  PDFあり。

DNAからみた青谷上寺地遺跡の弥生人 (倭人の真実 : DNA・年代・環境 先端研究からのアプローチ)
         篠田 謙一        とっとり弥生の王国, 12-16, 2019
        鳥取県埋蔵文化財センター 
 國會あり。未複製。

神澤ほか(2016)「C6 礼文島船泊縄文人の核ゲノム解析」第70回日本人類学大会. 
 D1bと確定。


青谷紀行ブログ。 
韓國南部(舊任那)の勒島との共通性を舉げる。しかし勒島はDNAでなく出土品であり、半島東岸竹島航路説を否定することには全くならない。


ハーバードの日本人論  佐藤智恵著   中公新書ラクレ 2019   第3講義 日本人はどこから来たのか—遺伝学 古代DNA解析で迫る日本人の起源(デイヴィッド・ライヒ)
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB28309403
 一名の縄文人が毎世代全て弥生人と結婚すると、100%彌生人となるまで1600年かかる。弥生時代ではなく古墳時代AD400年代(倭が半島に進出した時代)から始まった。現在は繩文DNAが八割なので、まだ十割に至らないが、繩文人同士の結婚も含めればプラスマイナスしてほぼ古墳時代初期から渡來系彌生人流入。ライヒ氏の言ふ彌生DNAはミトコンドリアまで含めた全ゲノムを指すので、新モンゴロイドを全部渡來系としてゐるやうだ。新モンゴロイドの本土彌生人(本土系繩文人)も渡來系として扱ってゐるのだらう。
 古墳時代は百濟から大量移民の來た時期である。380年(応神14年)弓月君が127県の民18,670人を引連れて渡来、を皮切りに、終わりは660年代の百済遺民 数千人の渡来。 
 1600年前といふ説は『新撰姓氏録』の父系諸蕃O2に合致する。父系O1b2とC1a1はともに繩文だから、ライヒ氏の基準でも『新撰姓氏録』の基準でも外來彌生人とならないのだが、父系についてライヒ氏はどう考へるのだらうか。 
 ライヒ氏はイギリス古代人と比較したいといふ。イギリスでは先住民は絶滅した。日本ではどうか。まあライヒ氏を驚かすだらうことは、國讓しにより神別と皇別が共存し、イギリスのやうな絶滅と全く異なることだらう。
 初出:「DNA解析で日本人のルーツに挑む、ハーバードが注目する新しい日本」、中央公論 133(3)=1624:2019.3 p.24-26
https://id.ndl.go.jp/bib/029491626


交雑する人類 : 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
デイヴィッド・ライク著 ; 日向やよい訳
NHK出版, 2018.7  


「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログに曰く。
 (2)Y染色体
 父系を表すY染色体のハプロタイプについては、現在4体の分析が終わっているとのこと。そのハプロタイプは、Oが一体、C1a1が2体、Dが1体。このうちC1a1とDタイプは縄文系かつ日本列島に固有なタイプ。Oタイプはその大半が大陸の漢民族に含まれており渡来系とのことです。つまり、少なくとも4体中3体が縄文系ということになり、ミトコンドリアの分析結果とは相反する結果となりました。

ツイッターで或る人が、白狼水倭城の一名のC1a1が日本に渡來したと言ってゐるが、それでは説明がつかない。何故なら大陸北方にはC1a1とともに近縁のC2(舊C2?)が大規模に分布するので、C2が繁殖してC1a1が減少した原因が分からない。日本に渡來後にC1a1が産まれたとすれば説明はつきやすい。そして日本固有のC1a1が大陸に渡航し、倭城を作ったのである。


アムール河沿海の惡魔の門の父系y染色體はC2であるらしい。




「水經注珍稀文獻集成」 李勇先, 高志剛主編 巴蜀書社, 2017 全五輯。
 第一輯  
水經(漢)桑 欽撰 明正德十三年盛夔刻本
水經(漢)桑 欽撰 清乾隆五十七年王謨輯《增訂漢魏叢書》本
水經注(殘卷)(北魏)酈道元注 宋刻本
水經注(北魏)酈道元注明嘉靖十三年黄省曾刻本
水經注(北魏)酈道元注明萬暦十三年《山海經水經合刻》本
水經注(北魏)酈道元注(明)昊琯校明萬暦年間昊桂宇文樞堂刻本
水經注(北魏)酈道元注(明)朱謀(土韋)校明崇禎二年刻本
水經注(北魏)酈道元注清康熙四十九年烏絲欄鈔本
水經注(北魏)酈道元注(明)朱謀(土韋)箋(清)張惟馨重校 清乾隆古閩晏湖張氏勵志書屋據天都黄氏重校刻本  
水經注(北魏)酈道元注清乾隆十八年黄晟槐蔭草堂刻本  
水經注(北魏)酈道元注一九八六年臺灣商務印書館影印文淵閣《四庫全書》本 
水經注(北魏)酈道元注(清)戴震校清乾隆三十九年武英殿聚珍本 
水經注(北魏)酈道元注(清)戴震校清乾隆年問刻本 
水經注(北魏)酈道元注(清)戴震校清光緒二十五年廣雅書局據乾隆武英殿聚珍版重刻本
水經注(北魏)酈道元注民國八年上海商務印書館據涵芬樓武英殿聚珍本影印《四部叢刊》本
第二輯
全校水經注(清)全祖望撰清光緒十四年薛福成寧波崇實書院刻本
全氏七校水經注(北魏)酈道元注(清)全祖望校民國年問約園王氏依全氏原稿鈔本
合校水經注(北魏)酈道元注(清)王先謙合校清光緒十八年思賢講舍刻本
水經注(北魏)酈道元注(明)黄省曾編清光緒二十三年新化三味書室據長沙王氏本重刻本
水經注(北魏)酈道元注(清)王先謙合校附録(清)趙一清撰 民國二十五年中華書局倣宋聚珍活字排印《四部備要》本  
水經注(北魏)酈道元注清光緒三年湖北崇文書局刻本 
水經注匯校(北魏)酈道元注t清)楊希閔匯校清光緒七年福州昊玉田刻本
三、水經注輯録輯夫
水經一則(唐)佚名輯民國二十四年上海商務印書館《國學基本叢書》昊曾祺輯《舊小說》(乙集)鉛印本
水經注鈔(明)佚名輯 明鈔本

永樂大典本水經注(北魏)酈道元注(民國)張元濟輯民國十一年至二十七年《續古逸叢書》影印本
水經注摘鈔(北魏)酈道元注(清)馬曰璐輯清雍正八年馬曰璐鈔本
水經序補逸(清)盧文招撰民國十二年北京直隸書局影印清乾隆年間刻《抱經堂叢書·群書拾補初編》本
水經注佚文(北魏)酈道元注(清)王仁俊輯上海圖書館藏《經籍佚文》稿本
水經注寫景文鈔範文瀾編民國十八年樸社鉛印本
四、水經注研究
水經注箋(北魏)酈道元注(明)朱謀(土韋)箋佚名過録(清)何焯批校明萬暦年間李長庚刻本
水經注箋(北魏)酈道元注(明)朱謀(土韋)箋佚名過録王國維校語明萬暦四十三年刻本
水經注刪(明)朱之臣輯並評明萬暦年間刻本
水經注集釋訂訛(清)沈炳巽撰清乾隆翰林院鈔本
第三輯
水經注集釋訂訛(清)沈炳巽撰一九八六年臺灣商務印書館影印文淵閣《四庫全書》本
水經注釋(北魏)酈道元注(清)趙一清釋清乾隆五十一年小山堂刻本
水經注釋(北魏)酈道元注(清)趙一清釋一九八六年臺灣商務印書館影印文淵閣《四庫全書》本
水經注釋(北魏)酈道元注(清)趙一清釋清光緒六年會稽章氏重刻本
水經注釋(北魏)酈道元注(清)趙一清釋清光緒六年蛟川張氏花雨廔重校刻本
水經注箋刊誤(清)趙一清撰清乾隆五十一年小山堂刻本
水經注箋刊誤(清)趙一清撰清光緒六年會稽章氏重刻本
水經注箋刊誤(清)趙一清撰一九八六年臺灣商務印書館影印文淵閣《四庫全書》本
水經注箋刊誤(清)趙一清撰清光緒六年蛟川張氏花雨廔重校刻本
水經釋地(清)孔繼涵撰清光緒六年會稽章氏重刻本
水經釋地(清)孔繼涵撰清光緒十九年南陵徐氏刻《積學齋叢書》本
水經釋地(清)孔繼涵撰北京大學圖書館藏稿本
水經釋地(清)孔繼涵撰清乾隆年問孔氏芳杜軒謄稿本
水經注釋地(北魏)酈道元注(清)張匡學釋清嘉慶二年上池書屋刻本
水經注釋地補遺(北魏)酈道元注(清)張匡學釋清嘉慶二年上池書屋刻本
水經注圖說殘稿(清)董佑誠撰清道光二年刻《董方立遺書》本
水經注圖說殘稿(清)董佑誠撰清光緒六年會稽章氏重刻本
水經注圖(清)汪士鐸撰清咸豐十一年刻本
水經注西南諸水考(清)陳澧撰清道光年間刻《廣雅書局叢書》本
水經注圖(清)楊守敬纂清光緒三十一年觀海堂刻本
水經注疏要刪(清)楊守敬纂清光緒三十一年觀海堂刻本
水經注劄記(清)王闓運撰稿本
水經注疏要刪補遺(清)楊守敬撰清宣統元年刻本
第四輯
水經注疏(北魏)酈道元注(清)楊守敬纂疏熊會貞參疏一九五七年科學出版社影印鈔本
水經注疏(北魏)酈道元注(清)楊守敬纂疏熊會貞參疏日本京都大學藏鈔本
第五輯
水經注疏(北魏)酈道元注(清)楊守敬纂疏熊會貞參疏中國臺灣藏稿本
水經注正誤舉例(清)丁謙撰民國九年南林劉氏刻《求恕齋叢書》本
水經注洛涇二水補(清)謝鐘英撰清光緒十四年刻王先謙等輯《南菁書院叢書》本
水經綜要(清)鄧成編清鈔本
家藏手輯水經圖說(清)王廣齡王延齡撰清鈔本
全校水經酈注水道表(清)王楚材撰民國年問四明張氏約園刻《四明叢書》本
水經注引書考(民國)馬念祖撰民國二十一年《馬氏叢書》鉛印本
水經注版本考鄭德坤著民國二十二年鉛印本
水經注異聞録任松如編輯民國二十三年上海放智書局鉛印本