加治伸行氏が、儒家の禮學(祭祀)では主人と主婦が對義であると嘗て述べた。卓見である。古くは『禮記』及び『儀禮』に主人・主婦といふ名が見える。主人は妻の主なのでなく、家の主である。主婦もまた家の女主(ぢょしゅ)である。勿論、男を人と呼び女を婦と呼ぶのは男尊女謙だが、主人と奴隷のやうな甚だしい隷屬を示すわけではない。

『禮記』檀弓下に曰く、
「歠、主人・主婦・室老、為其病也、君命食之也。」
分かりにくい古典だが、孔穎達『禮記注疏』卷九に曰く、
「歠者、親喪三日之後、歠粥之時。
主人、亡者之子。主婦、亡者之妻。室老、家之長相。
此三者並是大夫之家貴者、為其歠粥病困之故、
君必有命食疏飯也。
若非三者、雖復歠粥致疾病、君不命食之。以其賤故也。」
と。
服喪の三日目、粥(重湯)ばかり歠(すす)って健康を害した場合、
故大夫の子(主人・喪主)・妻(主婦)・家老に對しては、
君主から飯を食へと命令する。この三者以外が粥で病んでも、
身分が低いので君主は食事するやう命じない。
つまり、主婦は身分が高い。
 これについて六朝の儒者熊安生曰く、
「檀弓云主婦、謂女主。」
と。『禮記』檀弓の主婦とは女主人(故主の妻)を指す。
 熊安生の禮記熊氏義疏は散佚してゐるが、馬國翰『玉函山房輯佚書』によれば、孔穎達『禮記注疏』卷四十四「喪大記」にこの佚文が見える。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/kanseki?record=data/FA001379/tagged/11192009.dat
 以上、禮記。以下、儀禮。

鄭玄注本『儀禮』卷十二「士喪禮・小斂・奠」に曰く、
「主人西面、馮尸、踊無算、主婦東面、馮、亦如之 」。
『儀禮』は圖を作成した人が多いので形象的に分かり易い。


(宋)楊復『儀禮圖』凡十七卷。卷十二「士喪禮・小斂・奠」。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558854/18


服部南郭『儀禮抄圖』凡十七卷。卷十二「士喪禮・小斂・奠」。
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i17/i17_02004/i17_02004_0003/i17_02004_0003_p0040.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i17/i17_02004/index.html

服部南郭儀禮抄圖早稻田切士喪禮小斂主婦東面

 要するに禮制の正室夫人が主婦だが、後に禮制以外にも普及し、筆記類に普遍的呼稱として主人(主翁)とならぶ主婦が概見し、祭禮とは關はらない。電子時代ゆゑにグーグル等で筆記類を搜せば種々見られるので今舉げない。奴隷の多かった大陸的社會では、主人と並び立つ主婦は、奴婢ではないと示す專名であった。
 そもそも正室の任務は今のやうな厨房と洗濯ではない。肉食の厨房は荒っぽいので、正室主婦は手づから為さない。衣服の洗濯も洗濯機の無い時代は庶民の仕事であった。また、教育は男子の正務とされ、結局主婦の仕事は刺繡(乃至機織り)と祭祀が主であった。
 『詩經』「采蘩」の毛詩序に曰く、「采蘩、夫人不失職也。夫人可以奉祭祀、則不失職矣。」よって主婦の正務は「蘋蘩」即ち祭祀に供へる植物を調(ととの)へることであった。清國乾隆年間の女流詩人袁杼の除夕詩に曰く、
「除夜分陰貴、關心看夕陽。……擔盒家奴走、蘋蘩主婦忙。兒童尋爆竹、榾柮暖壺漿。」
と。榾柮(こっとつ)とは炭火の木片だが、
https://kotobank.jp/word/-2039091
 ここでは薪火の役夫を指すだらう。擔盒は食器運び、ここでは厨房業務を指す。それぞれの役柄の中で、主婦は植物係である。正室夫人であるから優雅なものだ。
 日本でも正夫人の義は同じながら、奴隷と主人のやうな社會階層的基礎が無いので、單に婦女を尊重する意で主婦の名が普及し、庶民家庭の妻の總稱となった。チャイナ近代ではさほど普及せず、幾分か近代日本から輸入語彙として家庭主婦と呼ぶ。家庭を冠せずにただ「主婦」だけでは、正室を妾婢と對比するやうに感じられ、現代的意味を成しにくいためか、あまり使はれない。


「中國法史に於ける主婦の地位と鍵」 1・2。
= Legal Position of House Wife and Her Key in Chinese Legal History
 仁井田陞 『国家学会雑誌』61(4), 61(5)
    東京大学大学院法学政治学研究科    1947-10
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10219564
國會遠隔。


『中国法制史』 仁井田陞   岩波書店 1963
第十三章 家族法/p204
第六節 主婦の地位と鍵の權(シュルッセルゲワルト)/p244
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2996144
國會遠隔。長崎市立圖書館借り出し可。


加治伸行『沈黙の宗教 儒教』
第5章「儒教から見た現代」(7)「女性は虐げられてきたか」