『與那國島圖誌』 本山桂川(けいせん)    郷土研究社    東京堂書店    昭和四年  
 第七十四頁より、スユリギ。スユリギとは、與那國の「ゆんた」(詠み歌)である。ユンタとは八重山民謠である。詠み歌の方音でユンタとなる。本山が記録したすゆりぎの劈頭に、與那國の北のクバシマが見える。





但し、本山はこれを譯する際に「クバの島」とした。固有名詞「クバシマ」だとは考へなかったのである。
 これより先、大正十四年に本山桂川著『南島情趣』は尖閣諸島に言及する。
本山桂川南島情趣尖閣圖切
 まづ卷首地圖は尖閣の名こそ記載せぬものの、尖閣の位置を描いてゐる。繼いで「序に代へて」の第二頁に曰く、「沖繩島に接近して西に粟國島、久米島を横ぎり、尖閣列島を過ぎて臺灣の北方……」云々と。
 されば、本山が與那國に二カ月間も逗留しながら久場島の名を知らなかったとは考へにくい。本山は詠み歌のくばしまを名詞とせず、クバ(蒲葵)の生える何らかの島と看做したのであらう。
 與那國の北には尖閣だけしか無いのだから、クバシマを名詞としないわけは、疑ふらく詠み歌が、クバシマの次句で「みやらび(乙女)と遊んだ」と歌ふがゆゑであらう。尖閣久場島で乙女と遊ぶとは考へにくい。
 名詞でないとしても、該當する北の蒲葵の島が尖閣以外に無い。さうなると、この詠み歌で北のクバシマはただの枕詞と看做さざるを得ない。すなはち、人里離れた尖閣に行くが如く、秘密裏に乙女と逢瀬を持ったといふ意の枕詞である。
 この本山桂川『南島情趣』の第百六十三頁「島のみやらび」の條にも 
 同じクバシマの詠み歌が載ってゐる。次の第百六十五頁では鳩間島の鳩間節に言及し、遊び女について語る。

 本山の原文摘録。
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豊年祭や字祭りなどの時に唱うるユンタをスユリギという。 次のとおりである。  
   スユリギ
ウシマギリウシマギリ
ニシマジマワタリミリ
クバシマニツタイイキ
ミヤラビバミカギヨウリ
カナサスバサザミヨウリ
ミヤラビヌカダヤ
スリバンタカダドス
カヌサスニホイヤ
ジンキヤラヌカダドス
ヤノトデヌカダヤ
バガシルデカダドス
 随分訛音や誤伝が多いようだか、意訳をすればこうである。
押し曲がり押し曲がり
北の島へと渡ってみ、クバの島へと渡って行き
島のみやらび(乙女)を娶れば、
みやらびの香は匂いよき草花のごとく香しく
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以上摘録。沖繩縣に西間島は無い。朝鮮半島にあるのみ。本山の「北の島」といふ語釋は正しいだらう。
 これについて尾崎重義氏の解釋がある。それは次囘補記しよう。

 さて、尖閣研究者の間で有名なインターネット匿名記事「senkaku-note・尖閣諸島問題Ⅰ」
http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
https://web.archive.org/web/20040830081459/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
がある。序文で2001年5月4日(金)と署してをり、
https://web.archive.org/web/20041012063758if_/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/headron.htm
インターネットはSat, 12 May 2001 10:14:44と刻印されてゐる。もう二十年前の記事だ。著者は國吉まこも氏でないことを私はご本人に確認した。その中でこの「すゆりぎ」の久場島について議論を以下に摘録する。 
http://homepage1.nifty.com/NANKIN/sakiname.htm
 https://web.archive.org/web/20040904082149if_/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/sakiname.htm
http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
https://web.archive.org/web/20040830081459/http://homepage1.nifty.com/NANKIN/
http://senkakujapan.nobody.jp/page089.html
https://web.archive.org/web/20130722192124/http://senkakujapan.nobody.jp/page089.html
http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=8
https://web.archive.org/web/20110827005005/http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=8
http://senkakujapan.jog.buttobi.net/page023.html
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:senkakujapan.jog.buttobi.net/page023.html
https://archive.vn/wip/2AMja

 歌の内容はざれ歌のようである。滑稽な内容となっている。役人が娘と恋におちてしまうが、そのことを妻に気付かれてしまい……というような歌である。一見すると、どうでもいいような歌に見えるがそうではない。
 ☆「ニシマジマ(北の島)、クバシマ」――ユンタのクバシマ
 与那国島図誌では「スユリギ」といい、南島情趣では「スユエギ」とされているが、同じ祭歌である。
 このユンタにでてくる「ニシマジマ(北の島)、クバシマ」とは尖閣諸島のことであろう。与那国から北にあるクバシマといえは間違いなく、そうである。
<参考図:プログ尖閣諸島の領有権問題管理人>
 この祭歌は与那国島の住民が尖閣諸島の存在を古くから知っていたということを示している。そして尖閣諸島の古名がクバシマである証拠となっている。
 クバシマについて記された史料は与那国島には残っていないようである。しかし口承された歌はそれと同じか、いや、それ以上の価値がある。
 ☆古い歌の形式
 歌の形式をみてみよう。本当に古いものであろうか?
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沖縄本島・奄美大島の最も古い歌謡は、五音の対句を次々と並べていく形で、それは共同体の唱え言葉に発して歌謡に引継いだものと思われる(-29)
この五音対句形の五音は、五・五音、五・四音、五・三音と揺れながら一句の音数が長くなったことは、ほぼ正確にたどることができる。(-30)
この五音対句形から、記紀歌謡の幾つかを連想する。五音の、そしてしばしば対句のある長歌形のものである。南島の五音対句形は日本文学の原初の部分と深くつながっているにちがいない。(-30)
――南島歌謡 小野重朗  1977年 日本放送出版協会
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「記紀歌謡の幾つかを連想する」と小野がいうのは印象的である。
 このユンタは確かに古い形式の歌である。
 内容をみても誤伝が多いと本山がいっているから、言葉が口伝えされているうちに崩れる形になっているのであろう。古いことを物語っている。
 明治大正期になってつくられたものではない。やはり人々は古くから北の島の存在を知っていたのである。
 この祭歌は非常に古いと推察できる。何世紀も前から歌われていたであろう。
 
☆神聖な祭
 どうでもいい滑稽歌ではないことは明らかである。
 どのような祭りの際に歌われたのであろうか。本山は次のように述べている。
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 十月十一月中日を選んで二五日間に亙り次々に字祭りが行われる。
久部良祭 漂着船のこの島に来たらざるを願う
浦祭   養豚、養牛のために願う
鬚川祭  婚姻者の末永からんことを願う
島仲祭  豊年満作を願う
帆安祭  旅行中の者の無事を願う
(-24)

――与那国島図誌  本山桂川 日本民俗誌大系1所収
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 本山が与那国の「字祭」について語っているところを、他の人々の報告と照合してみよう。古川博也の「与那国―島の人類生態学」〔1984〕には、以下のように記述されている。
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 旧十月の庚申の日から甲申までの二十五日間にわたり、マチリが行なわれるが、いわゆる村祭りとは様相を異にする。久部良祭といって巨人がいることを示すために大きな草鞋を海へ流す異国人退散祈願より始まり、浦祭り(家畜繁殖の祈願)・比川祭り(嫁取り・婿取りの祭り)・島仲祭り(豊作祈願)・帆安祭り(航海安全)と、全島にわたってつづき、最後の日のアンタドゥミ(神別れ)で終る。この祭りの期間をカンヌシテ(神の節)、カンタナガ(神の長い期間)とも言い、現在でもマチリの関係者はドモリヌ(牛や豚の肉)を口にしない。また、この期間中、タマ(玉)などの神器所有者によるタマハテ(神々の舞)が行われる。(-140-141)

――与那国―島の人類生態学 古川博也 1984年 三省堂
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                ↑
 ほぼ符合している。古川の調査は本山が来訪した年から半世紀以上も後に行われた。本山が、与那国島を確かに訪れたことがわかる。見聞したことを正確に記していると推定できる。「スユリギ」というユンタもきちんと記録されているに違いない。
 人類学者である古川は、本山よりもこの祭りについてより深く考察している。「マチリ」が他の村祭りとは全く違う、神聖な祭りであると確認している。与那国では極論すると、一年中、どこかで祭りがあるほどだというが、「マチリ」は別格の祭りだった。
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 ……全島人に牛や豚を屠殺することが禁じられている。御嶽ではツカサ(司)と呼ばれている巫女が黄色い神衣をまとって、神と交信しながら、この島の安泰を祈願する。昔は、この黄色い神衣に触れれば死ぬといわれたほど厳粛な儀式であり、現在でも、充分それがうかがわれる。(-136)
 
――与那国―島の人類生態学 古川博也 1984年 三省堂
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                ↑
 旧暦十月は苗代の種蒔きがはじまるという大事な月であった。その月の祭りである。  

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神と人、人と神との心をつなげる呪言が、(中略)、沖縄の島々には、呪詞や呪?的歌謡として今も生き残っている。(中略)うっそりと静もる御嶽(拝所)の中で、巫女によるひたぶるな呪詞のくり返しを聞くとき、理屈なしに神との交感を感じないではおれない(-125)
 
―― 沖縄の歴史と文化 外間守善 中公新書799 1986年
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                 ↑  
 「マチリ」はクバの生茂る御嶽で巫女が祈願をする大事な祭りであった。神官及び、これを助ける限られた人たちしか参加しない特別な祭であった。(琉球の宗教儀式は女性が司る。男性の立入りが禁じられる場合が多い。)
 屠殺が禁じられるということをみても普通の祭りとは「マチリ」が全然、違うことを物語る。祭のときに豚を食べるのは琉球の人たちにとっては大きな楽しみであった。
 やはりざれ歌ではなくて、神聖な歌である。
 この「マチリ」の際にうたわれる祭歌がどうでもいい歌であるはずがない。歌の文句からすると滑稽歌のように聞こえたとしても、神聖な歌であるはずである。島によっては祭りのさなかに神聖な場において、性の儀式のまねごとが露骨に行われる場合もあったと報告されている。しかし、これは聖なる儀式だったのであり、卑猥な意味があるのではない。中国には同じような風習がある地方がある。
 
 ☆クバシマの意味?
 本山はこのユンタにでてくるクバ島の意味を、島民から聞き出すことはなかった。実に残念である。本山にとってはそんな島のことはどうでもよかったであろう。当時は尖閣諸島問題は存在していなかった。本山が尋ねなかったのも無理はない。
 しかし聞けば与那国の人々はなんと答えただろうか。ただそれをいってもせんないことである。
 このユンタは本山が記録していなければ、残らなかった公算が大きい。記録が残ったことをもってよしとすべきかもしれない。もはやこのユンタは、伝わっていないようである。
 ただ残されたユンタを読めば、与那国島の人にとってクバシマが親しみのある島であったという事実がわかる。存在を古くから知っていたということもわかる。それで十分である。
 
  ☆まとめ
   倭族が与那国に居住し始めたのは琉明関係が始った年より遙か前であることは、いうまでもない。どんなに遅くとも、倭族が与那国に住みついたころに尖閣諸島にクバシマという名前がついたと推定できる。いやもっと早い。
 再三いうが、近代にはいってから与那国の漁民が島を発見したりしたわけではない。与那国から黒潮に流されれば自然に尖閣に着く。
 こういう事実とユンタを照らし合わせればクバシマが尖閣諸島の古名であることは疑う余地がない。古来からこの地域に住んでいた人達のつけた名が、今から五世紀前に外から入ってきた外国人のつけた名よりも、新しいはずがない。常識で考えてもわかることである。
 琉球名が先にあるのである。中国に尖閣諸島の原始的発見の権利は存在しない。このことが確認できる。
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以上摘録。  



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