明治十八年の沖繩縣令西村捨三の報告に、「清國"中山傳信錄"に既に釣魚臺を命名してある」との誤認説が載ってゐることは有名だ。"中山傳信錄"は江戸時代以來本邦で流布し、西村縣令にとって入手し易かっただらう。
 しかしその"中山傳信錄"は琉球の偉人程順則"指南廣義"にもとづいてゐる。釣魚嶼を釣魚臺に書き換へたのは『指南廣義』であること拙著舊作で述べた。"指南廣義"は程順則が清國で刊行し、明治前半では極めて稀覯であり、西村氏は"中山傳信錄"の引く"指南廣義"が誰の何の書であるか知らなかっただらう。『中山傳信錄』には『指南廣義』の著者が程順則だとは書いてゐない。
 明治年間に"指南廣義"の釣魚臺に言及したのは、明治十年伊地知貞馨『沖繩志』卷一である。
 伊地知も『指南廣義』の著者を録しない。『中山傳信錄』から重引したのだらう。『指南廣義』の古米(久米島)を『中山傳信錄』卷一及び伊地知『沖繩志』ではともに姑米に作るのがその一徴である。
 繼いで明治二十五年、文部省刊『日本教育史資料』第五册第四百四十七頁の程順則小傳(久米村の鄭章觀撰)に『指南廣義』の名が見えるが、
 釣魚臺には論及しない。
 西村捨三(及び調査した下僚)は以上について詳しく知らず、"中山傳信錄"の釣魚臺が清國の獨自の島名だと思ったのだらう。惜しい事だ。

伊地知貞馨沖繩志卷一切釣魚臺指南廣義b
  ▲伊地知貞馨『沖繩志』卷一


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