夜光貝

謹 賀 新 年

  令和辛丑元旦

喜界琉球祖、古衙南海春。 
僧都應解恨、釣嶼貢螺新。 

歳末年初遊奄美喜界沖永良部訪史跡。
喜界、太宰府外軍也。南進立琉球府、
西折撃洪武福建、益南進與西舶交易。 
令和03賀インターネット版

喜界、琉球の祖、古衙、南海の春。 
僧都、まさに恨みを解くべし、釣嶼、螺を貢ぐこと新たなり。 

歳末年初、奄美・喜界・沖永良部に遊び、史跡を訪ぬ。
喜界は太宰府の外軍なり。南進して琉球府を立て、
西折して洪武の福建を撃ち、ますます南進して西舶と交易す。
 


俊寛 喜界島 

夜久貝(夜光貝)

倭寇の琉球 (吉成直樹氏)
 琉球の三山を統一することになる思紹(ししょう)、尚巴志(しょうはし)が佐敷按司の時代に拠城としていた佐敷上グスクをめぐる問題である。なお、尚巴志が思紹の後を継いで佐敷按司になったのは1392年、21歳の時であったとされる(『中山世譜』)。
 琉球文化圏には、城壁で囲まれた大規模な城塞型の大型グスクと、尾根や台地の先端部地域を、堀を入れて本体と切り離して安全を保つ全国の中世城郭にみられる築城法を用いた「グスク」が存在する。佐敷上グスクは後者に位置づけられ、高石垣を伴わず、主に切岸と空堀で造った曲輪を主郭とする、全国の中世城郭様式による山城であるとされる(三木靖『鹿児島県奄美市 史跡赤木名城跡保存管理計画書』奄美市教育委員会、2015年)。
 佐敷上グスクは琉球的な城壁を伴うグスクは異なり、本土的な構造を持つ中世城郭であり、系譜の異なる構造物ということになる。こうした佐敷上グスクに類似する構造を持つ中世城郭跡は、奄美大島の赤木名グスク、喜界島の七城のほか、沖縄島北部地域の根謝銘グスク(大宜味村。謝名グスクとも呼ぶ)、名護グスク、親川グスク(名護市)をその代表にあげることができる。このほかにも国頭地方にいくつかの事例がある。
 佐敷上グスクは、14世紀後半を中心に16世紀までの年代が与えられているが、14世紀後半以降は沖縄島の各地で造営される琉球的な大型グスクの構造化(基壇建物の建造や大規模城壁の造営など)が進む時期であり、それと同時期に盛んに利用されていたことになる。壮大な城塞型の大型グスクが形成されていく時期に、中世城郭の構造を持つ佐敷上グスクを思紹、尚巴志は拠城としたのである。
 こうした中世城郭は、もちろん本土地域から渡来した技術者によって築城されたと考えられ、そこを拠点とする人びとも本土地域から渡来した人びとと考えられる。築城した技術者のみが本土地域の人びとであり、そこに拠っていた人びとは沖縄島社会の人びとであったとは考え難い。中世城郭跡の分布を考えても、琉球国の統一を成し遂げた思紹、尚巴志の出自はもともと本土地域であったと考えられる。
 従来の研究では佐敷上グスクのような中世城郭の様式を持つグスクには「土より成るグスク」などの名称が与えられ、琉球的なグスクの前代のものとされ、時間的前後に置き換えられたり、琉球型のグスクのカテゴリーの中に位置づける──この場合は立地の地形や地質などの違いが強調される──ことによって理解されてきた。
 なぜ、そのような理解の仕方になるのかを考えると、沖縄島社会の発展は「琉球王国」へと向かう単線的な発展を遂げたとする見方があったと言わざるを得ない。それは、多様な史資料を「琉球王国」にいたる過程に直線的に並べる思考にほかならない。その背景には「琉球王国」を絶対的なものとみなし、すべてはそこにたどり着くという歴史観があったことによる。こうした見方による弊害は、高梨修氏(奄美市立奄美博物館)、池田榮史氏(琉球大学)によって、つとに指摘されてきたことであった。

https://blog.goo.ne.jp/shigeta-nas/e/72021a70b7cf35cef06394222e29c62b
喜界島・鬼の海域―キカイガシマ考   福寛美  新典社
 俊寛流罪で有名な喜界島は、それぞれの時代に「鬼ヶ島」「貴海島」と陰陽、可否それぞれに呼ばれた歴史の背景を著者はその専門領域である「おもろさうし」と近来の考古学研究成果から読み起している。その背景には琉球王朝の変遷、さらに王朝のルーツを窺わせる倭寇の活躍を述べている。
 あまり良い読み方ではないが、私にとって本書で最も衝撃的な部分は南西諸島のシンボル・総称として“鬼界”と称された所以は死者の縁者がその肉を食べる風習があり、これは後に豚肉に変わったと言う記述。
 もちろん、ここで言う“鬼界”とは現在の喜界島を言うのではなく、当時の大和朝から見た南西諸島の概括総称と理解したい。
 かって、琉球では近い親族を“マシシオ・エーカ“、遠縁を“ブトブト・エーカ”と呼んだという。これを漢字で書くとマシシオ=真肉、ブトブト=脂肪。これは著者の節ではなく著名な琉球史家である比嘉春潮と伊波普猷の引用説として紹介している。
 10年程前に私の遠縁が“恐らく最後の洗骨”風習と奄美に墓参、“埋葬年が浅く腐肉がベト付き大変だった“と言うのを聞いたことがあります。南西諸島の食肉風習も死者への供養の意味もあったのではないか?
 こう書くとまた、南島の蛮風と思われがちですが、東京多摩に住む知人から「昔、多摩川縁でも似たような習俗があった」と周辺の古老から聞いたとのこと。

喜界島 城久(ぐすく)遺跡  但しぐすくは無い。
http://www.hainumikaze.com/kikaijima/gusuku.html
 グスクは大字名が城久とあるようにそのまんまグスク名である。鹿児島県神社庁のサイトによると、字名はノロの祭事を行う石垣で囲った地に由来するという。由来といい高台という立地といいグスクらしい性質を備えていると言える。
 城久における重要なものは城久遺跡群がある。城久遺跡群とは、喜界島の中央部にある城久集落を取り囲むようにしてある8遺跡の総称であり、9世紀から15世紀までの遺跡であります。遺跡群からは長崎産の滑石製石鍋、徳之島伊仙町のカムィヤキ壷、中国産の越州窯系青磁・華南系白磁・広東系白磁・古銭(北宋銭)などが出土しています。これは太宰府の遺物とよく似ており、城久遺跡群は太宰府の出先機関ではないかと言われています。
 最近の議論は更に進んでいるようで、では、何故喜界島にこのような遺跡群があるかというと、喜界島・奄美大島南方の島嶼世界の情報収集及び交易管理が目的である言われている。そして、交易品として重要視されていたのは琉球弧で産出するヤコウガイであるという。平泉の中尊寺金色堂にある螺鈿細工のように平安時代はヤコウガイが大量消費された時代でありました。
 したがって、奄美大島が見渡せて、防御に優れた地形である喜界島が太宰府による出先機関として選ばれ、更に急峻な地形に囲まれた城久が選ばれたのではないかという。
 なお、ヤコウガイとは熱帯域に生息する貝であるが、北限ギリギリの方が美しい貝殻になるとさる。したがって、生息域北限に近い奄美大島や喜界島が重要視されたのだろう(もちろん、琉球弧の中で大和に近いという点もあるが)。
 以上の説明は主に高梨修著「ものが語る歴史10 ヤコウガイの考古学」や福寛美著「喜界島・鬼の海域-キカイガシマ考-」に依拠します。