「沖縄の電信電話事業史」
琉球電信電話公社, 1969.12, 1984.3
    正    続  2册  
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN12120038
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=6146411
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=6154849



本土・沖縄間の通信線の開設については、明治25年以来、沖縄県民から要望されていた。
そこで、軍用通信のかたわら公衆通信にも利用する目的で、鹿児島県大浜から奄美大島を経て、沖縄県沖縄島渡具知に至る約800キロメートルの海底電信線の敷設工事が行われ、明治29年(1896)8月13日に完成した。
それまで、電報の発信は、船便で鹿児島に運び、鹿児島から打電していた。受信は逆に鹿児島で受信して沖縄に船便を利用して配達された。県民40万人の不便さは想像を絶するもので、電信線の開通により文明の利器に浴することができた。
https://blog.goo.ne.jp/hiromasuda_fj/e/e02b6016b44502b1ef1d750f13498046





「明治二/同治八年己巳六月ヨリ翌九月迄在勤中 H 記在番浦添親方興力国吉親雲上」第 342 号について」深 澤 秋 人
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/43245/4/16320091-4.%EF%BD%90202.pdf
 重要。飛船記載あり。




在琉監察親報
琉球詰御裁許掛伊東仙太夫儀、飛船ニテ先月十六日那覇川致出帆、諸所汐掛、去ル十八日山川ヘ着船
辰十月廿三日
                 猪飼央
                 島津登
                 菱刈安房
                 島津石見
                 島津主計
 調所笑左衛門殿
 赤松主水殿
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/ok061009.htm
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/frame.htm
(一か月かかった)



学童疎開船『対馬丸』の撃沈
(『対馬丸』大城立祐/嘉陽安男/船越義彰・著 長新太・絵 理論社 1982年刊)
沖縄では、船出の日には出船「ンジフニ」の祝いをやる。
 つまり船を送ったあと、航路の平安を祈るために、その家には一家、親族、知人が集まる。
  だんじゅ かりゆしや
  いらで さしみせる
  船の綱とれば 風や まとも
     めでたい日をえらんだ この船出
   船の綱を とけば 風は はや まともに
 静かな中にも敬虔な祈りをこめた旋律のこの歌をうたう。
 老婆などは針突「手の甲のいれずみ」をした手をたたいて和する。
 船出から三日目、またつどいがある。無事に目的地に着いた祝いである。
 三日の航程といえば薩摩の山川港であろう。
 つまりこの三日の祝いは、王朝時代の「大和上り」「本土へ行くこと」の名残りである。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/tusima18.htm



「飛船使」。 那覇出航日不明。中山世譜附卷。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952218/1/vol05/3502.txt





1854年8月3日異国船の件の書付を持った久高島の人々で船頭内間ら15人が、くり舟五艘を組んだ飛船で那覇から薩摩藩へ向けて出発。風波が強いため、8月9日から10月10日まで大島で避難し、翌11日喜界島の平木村(荒木村か)に乗り入れ、成り行きを伝え、喜界島から拝借米で飯料や船具などを仕立てて11月2日に出発する(評定所文書9巻)。
http://yannaki.jp/kikaijima2.html


山口縣・富海(とのみ)
「朝日新聞」 平成28年5月27日
東に椿(つばき)峠、西に茶臼山が続く旧山陽道と港が近接した陸海交通の要衝として、古くから栄えてきた。明治維新が間近に迫った幕末には、幾多の志士たちが「飛船(とびふね)」を使って大阪に向かい、京都への上洛(じょうらく)を果たした。1700年代に登場した飛船は船乗り2人で、大阪に到着するまで5日間を要したという。
この海上輸送の手段があったからこそ、幕末の激動の時代が成り立ったともいえる。
街中には、歴史の名残が所々に顔をのぞかせる。
1864(元治元)年、英国留学中だった長州藩士、伊藤博文と井上馨が急きょ帰国し、山口に向かったことを記す「上陸記念碑」。
1863(文久3)年、志士たちを支援した公家の中山忠光が潜伏したという「大和屋政助船蔵」天璋院篤姫が江戸に向かう際、休憩に立ち寄ったという記録がある「富海本陣門」――などが残る。

富海船藏飛船山根氏復元
 山口富海船藏飛船山根氏復元



中世・近世に使われた「のろし」
『烽<とぶひ>の道』<青木書店>183-214頁・所収
               服部英雄
捕鯨や米相場での「のろし」は、すたれることは
なかった。目的・成果が「のろし」のコストにあうのかどうか。軍事・民事。そ
れぞれの目的とそれをめぐる状況に応じて、「のろし」は廃絶されることもあっ
たし、絶えず維持されていく場合もあった。
http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/noro.html




小根占では、藩政時代の天保9年(1838)に外敵の侵入に備えて、藩より大砲を借り受けて、さらには遠見番所を置き外船の通過あるごとに烽火をあげてこれを報じている
「薩摩藩における外城システム:指宿・小根占を中心に」
       森田 浩司
        人文地理学会大会 研究発表要旨 2002(0), 000020-000020, 2002
https://doi.org/10.11518/hgeog.2002.0.000020.0



「正保国絵図(琉球国(1644~48年)の「与論嶋」の記載文字をみると、「異国船遠見番所」がある。
http://yannaki.jp/yoron2019nen.html




知念村史. 第1巻 (資料編 1 知念の文献資料)
    知念村史編集委員会 編
    知念村    1983.12
飛船・水梢・帆船航海・漂流等関係資料/453
飛船・水梢・帆船航海・漂流等関係資料 解題/454
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9774902/253
 國會遠隔  




琉球国警備人員大島ヘ着帆之事実
二階堂右八郎其外御役々等乗船先月二十六
日山川致出帆候段ハ先便申越通候処同二十
九日ヨリ当月二日迄之間追々大島ヘ致着船
……飛船ヲ以別紙之通今日八ツ前右之一左
右相達候
 辰九月二十五日
                猪飼央
                菱刈安房
                島津石見
                島津主計
  調所笑左衛門殿
  赤松主水殿
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/ok064008.htm
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/frame.htm

「飛船」
https://www.google.co.jp/search?q=%22%E9%A3%9B%E8%88%B9%22%E3%80%80site:http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/


 琉球外国関係文書 二 弘化元甲辰(1844)年 1
琉球国那覇港ニ仏蘭西国軍艦渡来三大事請求及ヒ同国人(フォルカード)ヲ在留セシメタル始末
    弘化元年五月三日(フランス軍艦来航の飛船山川着)
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/ok020ind.htm
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/frame.htm



琉球列島における遠見台の研究 のろし通信ネットワークについて
 須貝慎太郎,  武者英二,  永瀬克己,  高梨潤一
日本建築学会学術講演梗概集E-2 建築計画2 農村計画 教育  (日本建築学会学術講演梗概集E-2 建築計画2 住宅計画 農村計画 教育)
巻: 2001  ページ: 177-178  発行年: 2001年07月31日
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902118963118409
https://www.aij.or.jp/paper/detail.html?productId=257615




中之島  
口之島や宝島と同様に津口番所、異国船番所、異国船遠見番所が併置されており、鹿児島城下より派遣された在番と横目が常駐していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E5%B3%B6_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C)

宝島の村には小宝島も含まれていた。口之島や中之島と同様に津口番所、異国船番所、異国船遠見番所が設置され、城下より在番が派遣されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%B3%B6_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C)




初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について
        弓削 政己
        沖縄民俗研究 (24), 57-66, 2006-03        沖縄民俗学会
https://ci.nii.ac.jp/naid/40015234026



 江戸時代後期から、明治・大正時代頃まで、大阪堂島の米相場を各地に伝えるのに「旗振り通信」が使われました。見通しの良い櫓や山の上に設けた中継所を次々と連絡して、手旗信号によって伝えていたのです。その通信所が設けられていた山が「旗振り山」です。
http://scicafe-2011.h.kobe-u.ac.jp/column/column1/column1_2.html




「琉球秘策」について(資料)
        黒田 安雄
        愛知学院大学文学部紀要 (13), p93-82, 1983
https://ci.nii.ac.jp/naid/110000042396



「夜明け前」
ケンペルはことに歌を歌うよう所望されてそのもとめに応じた。やがて道化は終わった。
 江戸を去る前、フウテンハイムの一行は暇乞いとして将軍の居城を訪ねた。その時、百人番で三十分も待たせられたあとで、使節は老中の前に呼び出され、老中は属僚に言い付けて例によって一場の訓示を朗読させた。訓示は主として彼らがシナ人や琉球人の船に妨害を加えてはならないこと、オランダ船にはホルトガル人および切支丹宗僧侶は一人たりとも載せて来てはならないこと、これらの条件を奉じて間違いない限りは商法自由たるべしというのであった。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91%E5%89%8D/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E9%83%A8%E4%B8%8A