野中育、水口清(平成19年)重要論文:
I.Nonaka,K.Minaguchi,N.Takezaki"Y-chromosomal Binary Haplogroups in the Japanese Population and their Relationship to 16 Y-STR Polymorphisms"
Annals of Human Genetics 71(4), 2007 

Hammer, Michael F.; Karafet, Tatiana M.; Park, Hwayong; Omoto, Keiichi; Harihara, Shinji; Stoneking, Mark; Horai, Satoshi (2006).
"Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes".
 Journal of Human Genetics. 51: 47–58. 
https://www.nature.com/articles/jhg20068


備忘。
父系(Y染色體)と母系(ミトコンドリア乃至全ゲノム)では繩文彌生比率が大きく異なる。父系は繩文優勢、母系は彌生優勢。問題は、父系Y染色體の繩文比率はどの程度か。八重山(宮古、先島、石垣島)が鍵となる。ややこしいのは、符號が新舊で異なるため整理を要する。インターネットで拾った圖でまあ問題ない筈だ。

↓新符號のY染色體分布。(但し後にまた改訂されたらしいので最新符號ではない。)
y染色體

↓舊符號のY染色體分布。
Y染色體分布

y染色體表_uncle_John

 D1b(舊D2)は、繩文で間違ひない。アイヌから東日本を中心として、沖繩本島まで分布する。今年發表された北海道禮文島の繩文人骨もD1bが大部分を占める。D系は日本以外では僻地のアンダマン諸島(D1b)とチベット(D)にだけ存在する。

 O2(舊O3)も、彌生で間違ひない。アイヌと八重山を除き、東アジアに廣く分布する。

 問題は、O1b2(舊O2b)(特にO1b2-47z)である。アイヌに存在せず、主に青森から八重山まで分布し、朝鮮半島にも分布する。八重山元教育長の玉津博克先生はこれが彌生だと仰せである。八重山の大部分がこのO1b2(舊O2b)である。崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)でも彌生だとしてゐる。玉津博克先生は八重山が彌生人の原郷なのだとする。また一般ブログで申し譯ないが、
 こんな處にもO1b2(舊O2b)が彌生だと書いゐる。

令和三年七月六日追記。
 先島(宮古八重山)のY染色體の大部分がO1b2(西日本繩文人)だといふ崎谷滿説が流布してをり、私もこれまで採用して來た。しかし確認すると崎谷説は誤りであった。宮古八重山のO1b2は通常と大差なく29.7%であった。先島については修正したい。
http://senkaku.blog.jp/2021070586222356.html
 以上令和三年七月六日追記。

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 さて、所謂繩文顔が大部分を占める八重山人が、彌生人だといふのは中々一般的に納得できない。八重山に較べれば、沖繩本島はさほど繩文顔でもない。今の沖繩本島人と今の八重山とどちらが古いかといへば、當然八重山が古い。何故なら沖繩本島には東日本繩文人遺傳子がかなりの比率を占めるが、八重山ではその比率がほぼゼロである。假に今の沖繩本島人が先に住んでゐたならば、彼らが八重山に移住する際に東日本繩文人遺傳子を持ち込むはずである。從って分かるのは、八重山人が入居した際にはまだ東日本遺傳子が沖繩に到達してゐなかったのである。
 八重山の血統は極めて古い。それほど古い時代でありながら、繩文よりも晩い彌生人が八重山人O1b2(舊O2b)となり、繩文人と混血しなかったといふのは考へにくい。逆に八重山で突然變異などで發生したO1b2(舊O2b)の人々が西日本全體乃至青森朝鮮南部にまで廣がって大勢力になったといふのも歴史的に考へにくい。
 しかもO1b2(舊O2b)はチャイナに全く存在せず、主に朝鮮半島にだけ存在する。(よく見ると東南アジア沿海部にも少し存在する。)朝鮮半島でも南部の全羅南道・慶尚南道に分布するやうだ。韓國の人もこれに關心が高い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:O1b2_M176.jpg
O1b2-M176_amazians
O1b2-47z_amazians
O1b2-L682_amazians
O1b2-F940_amazians
 この圖だとO1b2(舊O2b)の濃厚な分布は朝鮮半島最南端と日本海沿岸だ。朝鮮半島南部はもともと古代日本のほぼ領土であり、日本文化圏であった。日本海も竹島航路を通じて日本勢力圏であった(リンク)。
そこに日本特有のO1b2(舊O2b)が分布するのは自然である。それは彌生人なのか繩文人なのか。
 上記Hammer氏論文では、日本に特徴的なO1b2(舊O2b)の47z類は約四千年前からひろまったとする。彌生よりも早い年代だ。
 彌生人の定義にもよるが、基本的に水田稻作が彌生人の最大の特徴だとされるのは、日本史教科書の通り。ならば水田稻作の故郷とされる長江流域にO1b2(舊O2b)が一定程度は分布しなければ辻褄が合はない。
 しかし殘念ながら、O1b2(舊O2b)は長江流域に全く分布しないのである。最近二千年といふ短期に全滅するやうな虐殺でもあったのか。
 注目される青谷遺跡の父系Y染色體は繩文系と發表されたが、それが西日本のO1b2(舊O2b)なのか、東日本のD1b(舊D2)なのか、まだ發表されてゐないやうだ。まあ篠田謙一先生が「繩文だ」と言ふのだから、多分東日本のD1b(舊D2)なのだらう。
 これは呼び方の問題で、本土彌生人O1b2(舊O2b)、渡來彌生人O2(舊O3)、と呼び分ける人もゐるやうだ。その呼び方ではO1b2(舊O2b)は本土人で間違ひない。渡來系ではない。しかし日本本土人であれば、繩文人と呼んでも良いではないか。八重山は繩文顔なのだから。
 私の疑問と同じやうにO1b2(舊O2b)の起源に謎を感じる人はゐるやうで、インターネットでも幾つか出て來る。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm

 私は素人ながら、西日本のO1b2(舊O2b)は彌生でなく繩文だと暫定的に結論しておきたい。理由をまとめると、
1、長江流域に存在しない。
2、八重山で比率が極めて高く、東日本繩文人と混血しなかった。
3、八重山方言が全くの日本語であり、大陸南部の言語と無縁である。
4、八重山人は繩文顔である。
5、朝鮮半島南部と日本海沿岸にの日本勢力圏に一定比率で存在する。

 そして日本人のY染色體の三大勢力O1b2(舊O2b)及びD1b(舊D2)及びO2(舊O3)を分かり易くまとめると以下の通り。

甲、D1b(舊D2):東日本繩文人。
  北海道から沖繩本島まで分布。
  日本人の三割強。ほぼ日本固有種。
乙、O1b2(舊O2b):西日本繩文人(もしくは倭系彌生人)。
  主に青森から八重山まで分布、朝鮮半島南部と日本海沿岸に進出。
  日本人の三割強。ほぼ日本固有種。
丙、O2(舊O3):渡來系彌生人。青森から沖繩本島まで分布、大陸各地と共通。
  日本人の二割。大陸からの外來種。

 いづれにしろ(繩文であれ彌生であれ)、ほぼ日本固有と言って良い二種のY染色體がO1b2(舊O2b)及びD1b(舊D2)であり、兩者を併せると日本人の三分の二に達する。ミトコンドリア母系ではわづか一割ほどに過ぎない繩文人だが、父系の固有種(≒繩文人)は六割七割となる。顔が彌生めいてゐるからとて父系も彌生だとはならないのだ。
 さあどうする、皇室の父系を保存するのか。皇室の父系は清和源氏、桓武平氏などで大きな勢力分布を示す筈で、皇室自身が幾ら彌生顔だからとて、六割七割の固有種(繩文)父系から外れる筈があるまい。皇室の彌生顔は藤原顔、つまり皇室は母系のみ彌生だといふ可能性が極めて高いのだ。

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