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 「天才を潰し秀才を重用した日本型組織の末路 
 東條英機はなぜ石原莞爾より優遇されたのか」
 
作家茂木誠氏。駿台予備学校世界史科講師を兼任される。
https://toyokeizai.net/articles/-/296225
 石原は別として、とにかく所謂創業と守成の違ひについて論説。日本だけが守成の臣を重用して負けたといふ。その原因を日本の農耕社會に求めてゐる。試驗秀才の國なのだといふ。普遍的に言はれることだ。私も農耕民狩獵民といふ便利な言ひ方を時々使ふ。
 しかしちょっと、待って欲しい。試驗制度は近代世界共通である。なぜ日本だけが負けたのか。大規模區劃地での穀物生産も、日本では彌生時代から始まる。メソポタミアよりもずっと遲い。何故それが日本の特徴になったのか。
 正解は農耕狩獵ではなく、大陸と島國だらう。英佛海峽ほど近距離ならばローマ人も渡來するが、遠い日本には外からの侵奪が無かった。彌生遺傳子はほぼ母系ばかりであることが近年明らかになってゐる。
 遠距離の島國でもフィリピンや臺灣にはマレー諸民族が大量に渡來して民族爭奪の地となった。日本がさうならなかったわけは何故か。フィリピンや臺灣や他の島々と違って繩文先住民がゐて、文明度もかなり高かったため、やすやすと侵奪されなかった。さう考へるのが素直だ。日本だけの特殊性だ。その繩文領域に琉球も含まれてゐる。變動の少ない島國の社會であるから、創業の英雄よりも守成の忠臣が權力を握り易い。皇室の下で安定した日本の利弊兩面である。
 今後の日本は、繩文以來の古き良きものを守り、外敵を防ぐのが基本である。これは歴史のままであるから變へてはならない。しかし同時に内部で活性化する方法を制度的人工的に作り出すべきだらう。かなりの難題だが、成し遂げねば世界の中で負ける。
石原莞爾2

以下茂木氏原文。
https://toyokeizai.net/articles/-/296225
 「天才を潰し秀才を重用した」日本型組織の末路
東條英機はなぜ石原莞爾より優遇されたのか
2019/08/15 5:20
石原莞爾という「天才」を葬ってしまった帝国陸軍の組織の誤ちを教訓として生かすには?
 満洲事変を計画実行した軍人・石原莞爾と、陸軍大臣から首相に進み、日米開戦を決断した東條英機。天才肌である石原よりも、とくに大きな功績もなかった東條英機が、大日本帝国で優遇された理由とは? 先日、『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』を上梓した作家の茂木誠氏が、歴史をもとに「日本型組織が抱える病理」を明かします。
 太古の昔――森を出た人類は、大型の肉食獣が闊歩する危険なサバンナでの狩猟生活を始めました。五感を研ぎ澄ませて獲物が残したフン、足跡などのかすかな痕跡を追いつつ、茂みの向こうにいるかもしれない外敵の気配を察し、機敏に行動できなければ命の危機にさらされます。
 大きな群れでは移動が困難ですから、つねに数人から数十人単位で移動し、権力や定まった上下関係はなく、個々人が自己責任で行動する社会。このような生活を数十万年続けるうちに、「情報分析能力」「決断力」「行動力」に優れた個体だけが生き残り、人類はついに肉食獣を制して自然界の頂点に立つことになったのです。

農耕社会が作った「タテ社会」
 ところが小麦や米といった穀物生産が始まると、人類の社会は一変しました。川の近くに定住し、数百人から数千人単位で暮らすようになり、統率者のもとで役割分担が定まっていきます。農業生産は毎年やるべきことがほぼ決まっており、そのルーティンを墨守することが求められます。
 共同体内部での分業も進んでいき、上下関係も固定されます。それぞれの職分を守って、ほかの仕事には口を出さないという「タテ社会」が形成されていったのです。
 種まきや収穫をいつ始めるか、という「決断力」を問われるのは、統率者(首長)とその側近たち――彼らは異能者として「神官」とも呼ばれました――であり、共同体に属する大多数の者たちは、下された「決断」に従い、任務を粛々と遂行することだけが求められるようになったのです。
 もし、「首長の決断は間違っている。私には嵐が迫ってくるのがわかる。収穫はもっと早めるべきだ」などという者があれば、「命令に逆らい、秩序を乱す者」として処断されたでしょう。共同体の維持が目的化した社会では、個々人の「決断力」はむしろ有害とみなされるのです。

 ただし農業社会においても、戦争・天災などの非常時においては、慣例を破って大胆な決断をすることが求められます。毎年のように干ばつが繰り返された村が、もっと水のある新天地へ向けて移動を開始する、というような場合です。

 エジプトで、長く隷属民として扱われてきたユダヤ人が、モーセに率いられて「出エジプト」を敢行し、パレスチナに移住して大発展を遂げたのはよい例でしょう。モーセのような情報分析能力、決断力に富む指導者は、その決断を「神のお告げ」として人々に伝えました。

 このため彼らは神に近い存在とされ、ユダヤ社会では「預言者」と呼ばれました。農耕社会では普段抑圧されている狩猟民的な気質を持つ人物が、危機に際しては指導者として躍り出るのです。後漢末期に農民反乱を起こした張角、百年戦争時にフランスを救ったジャンヌ・ダルクも、このようなタイプの人間だったのでしょう。

狩猟民と農耕民の気質の違い
 統合失調症の研究で知られる精神科医の中井久夫さんは、狩猟民的気質を「分裂気質」、農耕民的気質を「執着気質」と位置づけました。臨機応変に高度な判断を要求される政治家や将官、企業経営者、あるいは芸術家などに向いているのは「分裂気質」であり、これとは反対に、決まったこと、与えられた任務を黙々とこなさなければならない官僚、大企業の社員、兵士に向いているのは「執着気質」となります。あくまで、これは役割分担であり、どちらが優れている、という話ではありません。

 直感的にすべてを見通す「天才」と呼ばれる人の多くは、分裂気質です。満洲事変を計画実行した軍人・石原莞爾はこの典型でした。これとは対照的に、コツコツと地道な努力を重ねて成果を上げる執着気質型の努力家は、「秀才」と呼ばれます。
 陸軍大臣から首相に進み、日米開戦を決断した東條英機は、まさに秀才でした。帝国陸軍の内部で東條と石原という2つの強烈な個性が衝突したのは、両者の気質を考えれば当然だったのです。

近代日本の陸海軍の母体になったのは、戊辰戦争で幕府軍と戦った薩摩軍・長州軍です。長州の高杉晋作、薩摩の西郷隆盛、土佐の坂本龍馬……「幕末維新の志士」といわれる人々は、大動乱を生き残るための危機対処能力に優れた分裂気質者が多かったようです。

しかし彼らは、新しい国家秩序の建設には不向きであり、その多くは志半ばでたおれました。明治官僚国家を建設したのは、大久保利通のような執着気質型の「秀才」だったのです。この時代に、高級官僚の養成学校として東京帝国大学が、陸海軍の将官養成学校として陸軍大学校、海軍大学校が創建されました。

とはいえ、「元老」と呼ばれる維新の功労者たちが明治期を通じて政権の中枢を掌握し、陸軍は長州出身者、海軍は薩摩出身者が要職をしめる「藩閥支配」が続きました。

日露戦争で旅順要塞を攻略した陸軍の乃木希典(第三軍司令官)は、萩藩の藩校・明倫館の出身。バルチック艦隊を壊滅させた海軍の東郷平八郎(連合艦隊司令長官)は薩摩武士独特の郷中(ごじゅう)教育――地域単位で青少年が自主的に武芸と読み書きを学ぶ――を受けて海軍士官となりました。彼らの才能はテスト勉強ではなく、まさに実戦の中で培われたものなのです。

なぜ東條英機は首相になれたのか
 このような「たたき上げ」に代わって東大・陸大・海大を出た学歴エリートが、官界や軍の中核を占め始めるのが明治後半からです。とくに戊辰戦争で幕府側についたため「賊軍」とみなされた東北地方の出身者が要職に就くためには、東大・陸大・海大を優秀な成績で卒業することが必須条件でした。

陸大の卒業生は1期につき50人前後。そのうち成績優秀者数名は宮中に呼ばれ、天皇から菊の御紋の入った軍刀を拝受するため、「恩賜軍刀組」と呼ばれました。こうなるとスーパーエリートで、将来は軍司令官のポストは確実、陸軍のトップである参謀総長、陸軍大臣、教育総監になることも夢ではありません。

「賊軍」の盛岡藩士だった東條英機の父・英教は、陸大を首席で卒業しながら長州閥に疎まれて陸軍中将止まりでした。その思いを託された息子・英機も「努力の人」で、2浪してやっと陸大に入学したのが大正元(1912)年。卒業時に恩賜軍刀組には入れなかったことを悔しがります。そのまじめさが先輩からかわいがられて順調に出世を重ね、参謀本部第一課長→満洲を管轄する関東軍参謀長→近衛内閣の陸相を経て、日米開戦の直前に組閣の大命を受けたのです

東條英機は、とくに何か大きな功績があったわけでもなく、与えられた職務をきちんとこなし、出世街道を駆け上っていった結果、たまたま日米開戦時に首相だっただけなのです。

国全体が対米開戦ムードに沸く中、その方向性を変えるだけの決断力も情報分析能力もなかった、というのが東條英機という人物の実像です。実務能力は高く、部下としては有能な「執着気質型の秀才」でしたが、非常時に国家の指導者たるべき人物ではなかったのです。

東條英機と対極をなすのが石原莞爾です。やはり東北の庄内藩(鶴岡)出身で、東條英機より3年遅れて大正7(1918)年に陸大を卒業、こちらは「恩賜軍刀組」です。成績は抜群に優秀なのですが、士官学校時代から教官を罵倒する、授業をサボるなどの問題行動が多く、その一方で神道や日蓮宗に傾倒し、未来予知を行うなど、いわゆる典型的な「分裂気質型の天才」でした。

天才を「殺した」大日本帝国の末路
 昭和恐慌の中、政党政治は腐敗し、経済失政を重ねました。石原莞爾ら、軍の中堅幹部は「昭和維新」を掲げて軍事政権を樹立し、統制経済と満洲の植民地化による景気回復を計画します。関東軍の参謀に配属された石原らが計画、実行したのが満洲事変(1931年)でした。

石原の構想では、満洲事変は「序の口」でした。欧州諸国が没落するなか、アメリカが台頭して西洋の覇者となる。アジアでは日本だけが強国として独立を保っている。20世紀の後半に、太平洋の覇権をめぐって日米は必ず激突する。この戦争は航空機を用いた殲滅戦となり、世界最終戦争となるだろう。これに備えて日本は、これ以上戦線を拡大せず、満洲の開発を進めて力を蓄え、アメリカを圧倒できる国力を持たねばならぬ――。

この遠大な構想を抱いて東京の参謀本部に戻った石原は、盧溝橋事件を口実に中国戦線をむやみに拡大しようとする現場指揮官をたしなめ、近衛首相にも中華民国との和解を進言します。しかし戦略的な平和主義に転じた石原は参謀本部内で孤立し、関東軍参謀副長として満洲に送り返されてしまいます。事実上の左遷でした。何でも自分でやってしまい、根回しを苦手とするのも分裂気質の特徴です。

関東軍参謀長として石原の上司となったのが、不幸なことに東條英機でした。慣例を墨守するだけの東條に対し、石原は「無能」呼ばわりし、激怒した東條は石原を罷免。その後も閑職に追いやられ、日米開戦の直前に予備役にさせられました。引退を強制されたのです。

皮肉なことに、20世紀後半の日米開戦を「予言」した石原ではなく、石原の戦略をまったく理解できなかった東條が首相になりました。この実務家が、「もう決まったことだから」と、時期尚早の日米開戦に踏み切り、20世紀の半ばで大日本帝国を崩壊させました。この結果、300万人の同胞が命を落としたのです。

日米開戦の原因は複合的で、日本だけに非を求めるのは誤りです。しかし、開戦直前のあの決定的な時期に、石原莞爾という「天才」を自ら葬ってしまった帝国陸軍の組織的過誤は、教訓として語り伝えるべきでしょう。この問題は日本型組織の病理として、企業経営者にも大きな教訓となるはずです。
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關聯:

鬱陵島ー竹島ー隱岐ー青谷、彌生時代の航路。

父系は繩文、母系は彌生。最新DNA研究。

鳥取の青谷遺跡の繩文Y染色體の最新研究 

第七章「父系でたどる人類の旅路」(Y染色體)を削除。

皇室親族からも繩文系か否かほぼ確定できる。

律令の禁令。女帝は皇族としか結婚できない。女性宮家は禁を犯す。

小室圭氏に對する一億總苛めをやめて欲しい。 
http://senkaku.blog.jp/2019042779694039.html
別系藤原氏。皇帝輪流做、明年到我家。

皇室史專門家・所功氏が科學を惡用してゐる。