高濱清(高濱虚子) 昭和34年に卒す。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kyoshi_Takahama

著作權は死後70年。令和十一年に絶える見込み。
http://www.cric.or.jp/qa/hajime/hajime3.html

詩文の自署は高濱。
https://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/CKMR/CKMR-00387/CKMR-00387-04.jpg

しかし藏館の書誌はすでに高浜。
高濱虚子俳諧師2

如上、字形には法的權利(人格權、著作權)が無い。當然だ。姓名の字形も個人が定めるのではなく、國家の行政が作成した戸籍原本が正式標記となる。渡邊とか與謝野とか正字が今なほ使はれるのはそのためである。

個人として渡邊が良い與謝野が良いと言って戸籍原本標記をそのまま使ふのは、言論の自由の範疇ではない。ただ原本に忠實であるに過ぎない。他人が渡邊さん與謝野さんを渡辺さん与謝野さんと標記するのは法的にも人格的にも何ら問題ないし、一般慣例としてしばしば行なはれてゐる。

逆もまた然り。渡辺与謝野と略字で自署してゐる人に對して、通信で渡邊樣、與謝野樣と正字で宛名書きするのは何ら問題ない。正字が正字たることは、内閣告示でも保證されてゐる。略字で自署する人の戸籍原本は、通常は正字であり、略字ではない。「私の戸籍は正字だけど、略字を通名とするので、特別に略字で呼んで下さい」と言はれれば、特別扱ひする場合もあるかも知れない。

ところが、略字自署者の内で、私が正字で宛名書きすることに對して不快を表明する人もゐる。私は日本の規範的字形で書いてゐるのに、そんな表明は筋が通らない。規範そのものが不快だと思ふのは自由だが、それは規範を共有する日本國・日本文化全體に對して表明してもらひたい。私個人に對して不快を表明されることこそ不快だ。

私が正字を使用するのは、個人の人格尊重を求めてゐるのではない。正字だから、正しい規範だから使ふのである。正字が少數者(所謂マイノリティ)として滅びようとする今、法的權利をも主張して、「正字は言論の自由だ」と言ひ立てることも必要だ。だが本來は言論の自由のためではない。傳統文化にもとづく國家規範を求めてゐるに過ぎない。

なほ、字形でなく代用字の問題もある。それについては他日。