西暦1604年オランダ東印度艦隊のファンワルワイクWybrand van Warwyck(韋麻郎)が福建海防線に進出した際の根據地ジャワ島。漢文の耶婆提がこれに相當するとされる。東晉劉宋の間の法顯、印度からの復路に曰く、
到一國、名耶婆提。其國外道婆羅門興盛、佛法不足言。停此國五月日、復隨他商人大船。上亦二百許人、齎五十日糧、以四月十六日發、法顯於船上安居。東北行、趣廣州。
一月餘日、夜鼓二時、遇黑風暴雨。…(中略)…諸婆羅門議言、
「坐載此沙門、使我不利、遭此大苦。當下比丘置海島邊、不可爲一人令我等危嶮。」
法顯求檀越言、
「汝若下此比丘、亦竝下我。不爾、便當殺我。汝其下此沙門、吾到漢地、當向國王言汝也。漢地王亦敬信佛法、重比丘僧。」
諸商人躊躇、不敢便下。
(一國に到る、耶婆提と名づけらる。其の國、外道婆羅門興盛にして、佛法は言ふに足らず。この國に停まること五月日にして、復た他の商人の大船に隨ふ。上に亦た二百許りの人あり、五十日の糧を齎し、四月十六日を以て發し、法顯、船上に於いて安居す。東北に行き、廣州に趨く。一月餘日、夜鼓二時、黑風暴雨に遇ふ。…(中略)…諸婆羅門議して言はく、
「此の沙門を坐載するは、我れをして利あらず、此の大苦に遭はしむ。當に比丘を海島の邊に置くべし、一人の爲に我等をして危嶮ならしむべからず」と。
法顯、檀越に求めて言はしむ、
「汝ぢもし此の比丘を下ろさば、亦た竝びに我を下ろせ。爾らざれば、便ち當に我を殺すべし。汝ぢ其れ此の沙門を下さば、吾れ漢地に到り、當に國王に向かって汝を言ふべきなり。漢地の王も亦た佛法を敬信し、比丘僧を重んず」
と。諸商人躊躇し、敢へて便ち下さず。 (佛國記)

 耶婆提から東北に進めば廣州なので、耶婆提(Javadvipa)といふ梵語はジャワ(Java)島内の西部の大きな都市を指すやうだ。前人もさう解してゐるらしい。ジャワ島が大印度文明圏だったことが分かる。
 檀越(だんをち、施主、檀那)に求めた句は、原文では「法顯本檀越」で通じない。異本は「法顯檀越」に作るが、「本」が通じないので削除したのだらう。しかし本は求の形似の誤だとすれば通じるので、いま求に改める。求と解するのは前人に有るか否か、今度確認しよう。
 この文面から分かるのは、廣州往きの船中にチャイナ人がほぼゐない。この檀越だけがチャイナ事情を知るかのやうだが、自身チャイナ人ではないやうに見える。チャイナ人であれば法顯がさう書くだらう。船もチャイナ船ではなからう。
 もう一つ分かるのは、この時代のジャワ島は婆羅門教が盛んで、ほぼ印度文明圏に屬する。だからJavadvipaといふ梵名である。ジャワ島にはジャワ富士とも呼ぶべきスメル山(Sumeru)が今もある。須彌山、やはり印度文明圏である。イスラム到來以前の東南アジアは印度文明圏であった。二千年前に南沙諸島をチャイナ人が發見したといふのは嘘である。
 ついでながら、法顯は印度(北部)を中國と呼ぶ。チャイナ王を皇帝と呼ばず國王と呼ぶ。

Mount_Gunung_Semeru