鳥取の青谷上寺地遺跡は、純粹彌生人ミトコンドリア(母系)の骸骨ばかり出土する特殊性で知られる。ところがその青谷の骸骨の核DNAのY染色體男系遺傳子は繩文が多いといふ可能性が報じられてゐる。篠田謙一教授。まだ研究が始まったばかりだ。もしこの方向性が濃厚になると、一萬五千年の繩文文明を守るのが男系だといふ話になる。
 皇室も、歴史的に見てほぼ全面的彌生人だと考へられるが、實は皇室のY染色體は繩文人なのかも知れぬ、といふ話になる。科學は日進月歩、一時の淺智慧で皇室を女系(=別系。例として藤原朝)に入れ替へてはならぬ、といふ噂が本當になるかも知れない。

平成31年3月3日、毎日新聞。
「弥生人、母系は渡来系、父系は縄文系か DNA分析で判明」
 国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告会が2日、同市のとりぎん文化会館であった。国立科学博物館の篠田謙一副館長が、まだ途中段階で不確かだと断った上で「(人骨の)父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」に多くが位置付けられると説明した。父系の遺伝情報が分かる「核ゲノム」分析の成果。全国初となる弥生時代の人骨の本格的なDNA分析だけに、約430人が興味深そうに耳を傾けた。昨年11月の初回の報告会では、母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」の分析により、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”が多いとされていた。
 当時の青谷地域では多様な遺伝グループが存在したと考えられ、日本人の起源の分析につながる可能性もあるという。今後はDNA分析を進めて各個体の特徴を調べる方針。【園部仁史】

 平成31年4月5日、産經。
「核DNAは30億からなるため解析には時間がかかり、解析結果が公表されたのは今年3月だった。サンプルとして選んだ6人分の人骨について核DNAを解析し、4人からY染色体の塩基配列データが得られた。そのハプログループは大半の3人が縄文系だった。ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが大多数だったのに対し、核DNAのY染色体の解析から父系は縄文系が多いという結果に。」

山陰中央新報。平成31年3月4日。
新たに父系の核DNAの分析結果について説明。父系も渡来系に偏ると想定して4個体のY染色体を分析したところ、3個体が縄文系で、渡来系は1個体だったとした。篠田副館長は「大陸系に偏ると思っていたが、そう単純なことではなかった」と述べた。


讀賣新聞。
<青谷上寺地遺跡>人骨の一部 渡来×縄文系  弥生後期 国立科学博など解析
2019/03/03 05:00
 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した弥生時代後期の人骨の一部は、母親が大陸にルーツを持つ渡来系、父親が日本在来の縄文系だったことが分かった。2種類のデオキシリボ核酸(DNA)を解析した国立科学博物館や県埋蔵文化財センターなどが2日、同市尚徳町のとりぎん文化会館でのシンポジウムで発表した。当時は大陸との間で人の交流が盛んだったことを示すという。
 DNAは、細胞の核にある染色体と、細胞質内のミトコンドリアにそれぞれ含まれており、中でも男性が持つ「Y染色体」は父親から、ミトコンドリアは母親から受け継がれる性質がある。同博物館の篠田謙一副館長らは昨年、遺跡で見つかった32人分の骨からミトコンドリアDNAを抽出。配列を調べ、31人が渡来系、1人が縄文系であることを突き止めた。
 今年はさらに、渡来系31人のうち、保存状態の良い6人についてY染色体のDNAを解析した。その結果、Y染色体が抽出できた4人中、3人は縄文系で、渡来系は1人だった。
 3人の母親は大陸から日本に渡ってから日本の男性と結婚したか、大陸で日本の男性と結婚後に渡来した可能性があるという。今後は分析する個体数を増やすなどしてルーツを詳細に調べる計画で、篠田副館長は「人口の増減や混血の状況、個体の特徴などを明らかにしたい」としている。
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20190302-OYTNT50109/

朝日。
父母から引き継ぐ核DNAを6人について分析した。その結果、男性5人、女性1人で、それぞれの遺伝的な違いは大きかった。男性特有のY染色体のDNA配列を調べると、縄文人系の配列が3タイプ確認された。核DNAの配列を現代の日本人や韓国人、中国人と比較すると、現代日本人のグループ内に位置した。
(朝日は四人から抽出といふ事實を報導しない自由を行使してゐる。「遺伝的な違いは大きかった」とは同族でないことを指すが、朝日は多樣性にこじつけてゐる。)


 鳥取縣による公式發表。平成31年3月2日の篠田教授らの講演を、3月15日に掲載したもの。「報告事項セ」。曰く、「男性4体のY染色体DNAが得られた。父系については3体が縄文系、1体は渡来系。」
https://www.pref.tottori.lg.jp/282754.htm

 事前預告と當日寫眞と散らしはこちら。
 第3回とっとり弥生の王国シンポジウム「倭人の真実 DNA・年代・環境 先端研究からのアプローチ」
1 テーマ 「倭人の真実 DNA・年代・環境 先端研究からのアプローチ」
2 主催   鳥取県埋蔵文化財センター
3 日時   平成31年3月2日(土)午後0時50分~午後4時30分
4 会場   とりぎん文化会館小ホール(鳥取市尚徳町101番地5)
5 内容
(1)記念講演1「DNAが語る青谷の弥生人」
 篠田謙一(国立科学博物館副館長・人類研究部長)
篠田謙一鳥取縣散らし青谷上寺地繩文1
篠田謙一鳥取縣散らし青谷上寺地繩文2
篠田謙一鳥取縣講演310302青谷上寺地繩文1
篠田謙一毎日新聞青谷上寺地繩文

男系の皇統と尖閣古史 西村幸祐『日本人に「憲法」は要らない』

 平成31年3月3日、NHKニュース。1:00から繩文。但し繩文が男系だといふ點を報じてゐない。肝心な處を報導しない自由といふわけだ。


 NHKサイエンスゼロ「弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(後半)」
 平成30年末の放送。7分から、繩文遺傳子。この番組ではまだ繩文が男系だとは言ってゐない。

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 つまり、彌生人だらけの青谷上寺地遺跡ですら、男系(の男女)は繩文だった。女が自力で渡來するとは考へにくいから、慣習として日本に運ばれて嫁入りして來たといふことになるだらうか。だとすると前提として、お嫁さんの供給元、即ち日本の覇權下、任那日本府のやうな場所が想定される。
 或は渡來する前から男女を問はず繩文Y染色體を持ってゐたとすれば、矢張り任那日本府附近から渡來したといふことになる。そして青谷のミトコンドリア彌生遺傳子はアジア各地から青谷に渡來したのではなく、任那で娶ったお嫁さんが既に新モンゴロイドの多元的混血だったといふことになる。
 なほ、古モンゴロイドが東ユーラシア全域を覆ってゐた時代の遺骨が青谷遺骨だといふ可能性は無い。それは時代を遡りすぎる。
 要するに、日本全體も青谷のやうに、男系によって繩文文明が守られて來たといふ可能性が出て來る。一見彌生顔だからとて、侮れない。皇室が天孫降臨の彌生系なら、わづか2600年あまりに過ぎない。皇室が出雲蝦夷熊襲を含む繩文系なら15,000年。全く異なる日本像、異なる國柄、異なる國體、異なるくにのかたち、となる。


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縄文人と弥生人
縄文系のDNAは都市部では全体の約25%程度を占める。しかし本州や四国の山間部では5割を占めている。弥生人に追われて山に逃げた縄文人という説に合致する。
日本人の男性は1万4千年以上前から日本列島に住んでいた縄文人と、縄文時代後期及び弥生時代に江南地方(揚子江沿岸)から移住してきた弥生人にルーツを持っている。両者のDNA比率はほぼ半々で、弥生系がやや多い。
Y 染色体はほとんど組換えを起こさず、父親から息子にそのまま伝わるため,男性の系譜の研究に役立てる事ができる。日本人のY 染色体は主として縄文系と弥生系からできており、この2 集団のY 染色体の違いは黒人と白人の差くらいに大きい。
日本人のY染色体は、旧石器時代から縄文時代に流入してきたC系統(4%)とD系統(40%)、縄文後期から弥生時代以降に流入してきたO系統(O1a 3%、O2a 1%、O2b 36%、O3 14%)とその他で構成されている。
C系統は南洋方面とシベリア方面、D系統は日本とチベットに分布し縄文人の主系統、O系統はO1aが長江中流域(楚)、 O2a(越)とO2b(呉)が長江下流域、O3が黄河流域(漢)やアジア各方面、その他が2%ほどを占めている。弥生期に流入したものはO2bが多い。O2bは江南から大勢が逃亡し、九州北部と朝鮮南部に定着した。
東北アジア系騎馬民族(C3c)は日本列島には入ってきていませんので、DNAで判断する限り江上波夫先生の騎馬民族列島征服説は成り立たちません。
また地方別に見ますと吉備(中国地方)に特徴があります。D系統(縄文系)が19%と低く、その分O1a(楚系)が19%と非常に高く、O3(漢系)も31%と非常に高くなっています。O2b(呉系)は平均より少し低くて31%です。これは縄文時代に江南人などが有明海と吉備に大勢やってきて住みついたという説の証明になると私は考えています。有明海周辺のDNAについては目下調査中ですが、吉備と似た結果が分かれば面白いと思います。有明海や瀬戸内の吉備の自然環境が揚子江(長江)と良く似ていたから定着したのでしょうか。
縄文時代と違って弥生時代の江南人が列島へ移住してきた原因は、戦国時代における戦争の結果でしょう。紀元前473年に呉王夫差は越王勾践に破れ、呉が滅亡します。呉人は北方にある山東半島の南(徐州)方面に逃れます。
越は紀元前334年に楚に滅ぼされます。越人は南方のベトナムや台湾方面に逃げるものと、北方の徐州方面に逃げるものに分かれます。越人に押された呉人は九州北部と朝鮮半島南部に逃れます。
楚は紀元前223年に秦によって滅ぼされます。秦の支配は厳しく、税や労役に耐えられなくなった越人は朝鮮半島西部に逃れます。楚人や漢人までもが朝鮮半島に逃れ、東部に住みつきます。その越人、楚人、漢人たちもやがて列島にも移住してきます。長江流域の楚人、呉人、越人は人種的には同類で黄河流域の漢人とは異なります。文化的にも大きく異なり、移動手段も南船北馬です。
全国制覇した秦も内紛と内乱で紀元前206年に滅亡。その後、楚漢戦争(そかんせんそう)が紀元前206年から紀元前202年の約5年間にわたり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で全面戦争となりました。またしても楚の敗北となり、前漢が成立。この時も楚人の一部が列島に逃れてきた事でしょう。
 このように江南人の列島への渡来は数百年かけて波状的にやってきました。列島内では、それぞれが争いにならないように住み分けていったと考えられます。列島の次に逃れていくところがないという環境の中で、争いは極力避けられたのでしょう。大陸での戦国時代に比べると、かなり戦いは減ったことでしょう。
 列島全体として縄文人も弥生人を受け入れ共生しましたが、縄文人の一部は殺されたり山間地方に逃亡したと考えられます。言葉は縄文語を基本として弥生語の単語も取り入れて大和言葉(日本語)となったのでしょう。
……
 土井ヶ浜遺跡は山口県下関市の響灘に面する西海岸沿いにある弥生時代の埋葬跡です。約2,100年前ごろからこの付近に移住してきた弥生人たちはこの丘陵地を墓地とするようになりました。そこから保存良好な弥生人骨が300体以上も装身具や土器を伴って出土しました。土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム館長で形質人類学者・医学博士の松下孝幸氏は「日本人と弥生人」の著書で次のように記述しています。
 土井ヶ浜弥生人の出土する人骨は、男性も女性も顔が細長く、鼻根部が扁平で、身長が高い。縄文人とは異なる容貌をしている。
 つまり渡来系の特徴であって、縄文の女性と混血した可能性は低い。これは吉野ヶ里でも認められる。従って彼等は男だけでやって来たのではなく、家族と一緒に列島に来て住み着いたと考えられるのです。
 長崎大学の「土井ヶ浜遺跡より発掘された弥生時代人骨のミトコンドリアDNA超多変領域の解析」によりますと「土井ヶ浜弥生人は2,500年前の中国山東省の古集団に類似した結果を示した。北部九州弥生人が現代日本人の集団形成に多くの遺伝的寄与をしていたのに対して、土井ヶ浜弥生人はそれほど多くの寄与をしなかった可能性が示唆され、明瞭な地域差の存在が明らかになった。」と報告されています。土井ヶ浜人は他の部族と交わらない閉鎖社会をつくっていたのでしょうか。


渡来人と縄文人の末裔、「共存」して弥生時代へ
      16/03/28 朝日新聞GLOBE  
 頭を東、足を西に横たえられた無数の人骨は、頭を少し上げ、大陸に続く海を見るかのように葬られていた。
 山口県下関市。響灘ぞいの丘陵地にある弥生時代の土井ケ浜遺跡は、中国大陸や朝鮮半島からきた渡来系弥生人の骨が300体以上も出た埋葬地跡だ。発掘現場はドームで覆われ、レプリカの人骨で出土当時の状態が再現されている。
 「中国大陸の戦国時代、戦乱を避けて逃げのびてきた人々だったのでは」。土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長の松下孝幸は、そうみている。
 土井ケ浜の人骨は背が高く、顔は面長で鼻が低く、のっぺりしていた。小柄で、顔の幅は広く、みけんの下がくぼんでいる縄文人とは明らかに違う。大陸からきた弥生人が縄文時代からいた人々と混血し、いまの日本人を形づくったとする説を裏付ける有力な根拠となった。ただ、松下は1982年の調査で、奇妙な頭骸骨(ずがいこつ)を取り上げた時のことをいまも覚えている。
「えっ、こんなのが出ていいのか」と声を上げた。
 300を超える骨の中で1体だけ、縄文人そっくりの顔のつくりをしていたからだ。「701号」と名付けられたその人骨は、渡来系弥生人の人骨と寄り添うように埋葬されており、松下は「共同体の一員とみなされていたようだ」と話す。
 長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。「701号」は、その仲間だったかもしれないという。
 松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホウラが使われていた点だ。この貝は琉球列島のサンゴ礁域で生息する。土井ケ浜の人々がゴホウラを求めて九州の西海岸を南下したとすれば、西北九州型の弥生人が水先案内人を務めた可能性がある。土井ケ浜にいた「701号」もその一人だったのではないか、と松下は推測する。弥生時代の地域交流を示唆する仮説だ。
  一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。
  九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。中橋は「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。
  国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東アジアでは少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。もし渡来系弥生人が縄文人を一方的に征服したのなら、縄文人由来のY染色体DNAは極端に減っていてもおかしくない。南米では、先住民を欧州系が征服した結果、欧州系のY染色体DNAが急増したという。
  縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。



一方、オウムの中澤新一氏がトンデモなことを書いてゐるらしい。
中沢新一「アースダイバー:二十一世紀の森の天皇」
女性天皇の誕生をもって、明治天皇にはじまる近代天皇制は、終わりをむかえる。そのとき北方ツングース的な男系原理にかわって、南方的・縄文的な双系原理が皇室の中によみがえり、文明開化や八紘一宇や経済大国などをみずから否定してのりこえていく、新しい『森の天皇』の生き方を象徴するものとなる。 



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