律令には皇位繼承(皇太子)の規定が無い。そこで末端的條文から、あらぬ臆測が産まれた。養老令の繼嗣令に曰く、
「 凡皇兄弟・皇子、皆為親王、女帝子亦同。以外並為諸王。自親王五世、雖得王名、不在皇親之限。」
(凡そ皇兄弟・皇子は皆な親王となす。女帝の子も亦た同じ。以外は並びに諸王となす。親王より五世なれば、王名を得といへども、皇親の限に在らず。)
 (「令集解」卷十七所收逸文、國會藏、清原秀賢慶長寫本)
令集解卷17繼嗣令_清原秀賢寫本國會藏

と。これは親王を規定した條文である。皇位(皇太子及び繼承順位)について規定してゐない。しかし「親王は皇位を繼承する可能性があるから、この條文にもとづき女帝の子(女系男子)も皇位を繼承して良い」と曲解する人がゐる。
 しかし根本問題として、律令に皇位繼承を規定しないのは何故か。答へは二者擇一。
甲、瑣末事だから規定しない。
乙、あまりにも重大だから臣下の撰する律令では規定しない。
 勿論、正解は乙である。されば、律令の規定しない皇位について、親王規定の末尾に附記することは有り得ない。規定するなら堂々と親王規定の前に皇位繼承をかかげるに決まってゐる。それどころか明治憲法のやうに、律令開卷第一に天皇とは何か、規定するだらう。
 この「女帝の子」は皇位規定に附記されてゐるのでなく、親王規定に附記されてゐる。勿論、親王位がそのまま皇位繼承(皇太子)と完全同一だと規定したわけでもない。だから全卷劈頭でなく、中ほどに目立たず繼嗣令がある。「女帝子」三字は女系天皇を規定するのではない。律令は皇位・皇太子位を規定しない。
 なほ、女帝子を皇女・帝女と解するのは通じにくい。皇女もしくは帝女と書けば良いだけのことだ。明らかに「女帝之子」である。この時代は女帝が多かったためにこの規定が出來たのださうだ。

 さらにウィキペディアで勉強すると、上記「繼嗣令」末尾に曰く、 
「凡王娶親王、臣娶五世王者聽。唯五世王不得娶親王。」
(凡そ王の親王を娶り、臣の五世王を娶るはゆるす。ただ五世王は親王を娶るを得ず。)

 まづ、五世代離れたら皇籍を與へられず臣籍となる。そして親王を娶る(内親王を娶る)ことは四世代までの王(皇族)にだけゆるされ、臣籍の者は内親王を娶ることができない。つまり内親王は皇族としか結婚できない。よって内親王が即位して女帝となっても、その子は皇族男子の子なので、男系となる。
 なんだ、明白ではないか。愚かな私であった。これが明治になって「男系男子」條になったといふわけだ。男子のみならず、わざわざ男系と規定してゐる。

ウィキペディア「降嫁」。
曰く、内親王の結婚相手は律令の「継嗣令」では天皇もしくは四世以上の皇親に限るとされ、古代には非皇族との結婚はなかった。……幕末には和宮が将軍徳川家茂に嫁し、唯一武家への降嫁の例となった。……現代は皇室典範により、非皇族との結婚に際しては皇籍離脱が定められ、昭和天皇以降の内親王・女王は婚姻による皇籍離脱となっている。

 皇室典範では内親王が臣民に降嫁したら皇籍を離脱する。女性宮家とならない。古代律令の降嫁の禁を、近代皇室典範が變則的に復古したと言へる。たかが教授會で教授昇任規定ごときを變更するのとはわけが違ふ。普通の臣民でも、親族の繼承といふ重大事を、法律改正で簡單に變へられては困るし、まして皇室である。當り前なのであった。
令集解卷17繼嗣令2切_清原秀賢慶長寫本國會藏

 女系天皇と簡單に呼ぶが、要するに藤原の鎌足の血統が天皇になるといへば分かり易い。關白藤原氏が皇女を娶って皇位に就くといふことだ。それが容認されるなら平安時代に容認されてゐただらう。Y染色體がどうとかいふ淺智慧ではなく、ただ男系を續けて來た。藤原天皇を許容しなかった。それ以上でも以下でもない。この大きな歴史の前で、Y染色體論の怪しさは國民に支持されず、役立たないどころか邪魔になる。


參考:
「律令法における皇位継承--女帝規定の解釈をめぐって」
        宮部 香織     明治聖徳記念学会紀要 (46), 121-142, 2009-11
https://ci.nii.ac.jp/naid/40016924445
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f46-8.pdf
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/search.htm
 上は古來の諸説を極めて良く整理した論文。


無名氏「多摩遊覧Ⅱ」ブログ。ほぼ曰く、
「そもそも臣(皇族以外)男性が皇族女性と結婚することは条文のとおり禁じられており、女帝になる即位資格は内親王・女王しかもっていないので、女帝の子は皇族と決まっているのである。」


「皇位継承の在り方に関する管見 」 所功
「産大法学」39    2005-07   京都産業大学法学会
 これは「女帝子」を以て「女帝」容認としつつ、注8で「女系」を否定してゐる。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7gijisidai.html
 平成17年、小泉内閣の皇室典範會議にもこの論文がほぼそのまま提示された。所功氏は女系容認論なのだが、それは現状打開のために提示した議論に過ぎず、歴史的根據が無いことを自ら認めてゐる。


所功「皇位の男系継承史と女系容認論の検証」(『歴史読本』平成十七年五月号)
 ざっと見ただけだが、舊宮家復籍の是非を中心とする議論。歴史的に女系が容認されなかったことを所功氏も基本としてゐる。


 所功氏に反對するブログ。「川西正彦の公共政策研究」


「日本古代の家族・親族―中国との比較を中心として―」
成清弘和著 2001年4月刊    第5章「女性の社会的地位」
上記所功論文の注8によれば、この書は律令の「女帝子」條にもとづき
「帝は男帝と何ら変わるところのないものとして日本律令に規定されていた」
としてゐるとのこと。所功氏は成清弘和氏の誤りを證してゐる。
 今度念のため讀んでみよう。

 さてついでながら、側室が無いと男系男子が産まれないとの説が多い。それは近代以前ではその通り。現代では側室制度が廢せられた。ならば現代には現代科學がある。現代の方法を取るか、近代以前の方法を取るか。現代を取るならば科學。近代以前を取るならば側室。どちらも駄目では困る。どちらかにしないといけない。所謂不妊治療といふのは、三十歳を過ぎてから施療する場合が多いため、困難が多いことは世上で傳へられてゐる。若ければ人工授精は容易なのか。
 私は門外漢なのでそこは分からない。

參考:秋篠宮家を誹謗するなかれ。

男系の皇統と尖閣古史 『日本人に「憲法」は要らない』

五月四日追記。
 男系に女系を繼ぐことは、言はば平安時代から藤原朝になるやうなもので、文化的に皇統の意義を成しません。皇統が絶えるならば、皇統無き日本文明とは何か、それについて鄙見はどこかで詳しく書きたいと思ってますが、とりあへず、近世といふ區分は歐洲にも有りますから内藤湖南が勘違ひしただけです。封建制が早く消滅したのはフランスなどの先進國だけであって、イタリアドイツの封建制は明治維新前後までのこりました。しかも德川の鎖國禁教刀狩(琉球まで含め)はかなり中央集權にも近いもので、だからこそ廢藩置縣が滯りなく進んだわけです(琉球を含む)。明治維新で突然封建制から脱皮できるわけありませんよ。不埒な皇族といふのは昔からあったことで、大した問題ではありませんから、皇籍復歸は可能で、禁中公家諸法度で皇室を制禦したと同じ事は國民主權の現代でも可能です。つまり江戸時代と現代に共通性があります。徳川慶喜は諸侯共和制を意圖したので、共和制の下地は日本にもありました。
 明治維新以後の天皇は、祭祀の古俗のみならず近代國家統合へ象徴となって國民運動で崇拜されたわけですから、その國家神道150年の歴史を無視するのはまあ無理筋でせうね。
 素直な歴史觀では、彌生古墳時代ごろに日本の國家的統合を創始した皇室の功績は素晴らしい。しかし素直に歴史を解さず、歐洲の圖式と較べて遲れてゐるかのやうに言ってみたり色々と、要するに日本をけなしたがる文化人、心の底には凄まじい西洋崇拜が横たはってゐて、世界史を平明な眼で見ることができないのです。素直に見た時、歐洲各王朝の血統が次々に入れ替るさまは、戰國下克上のやうに怖ろしい。そこを統合的に乘り切った日本の素晴らしさを素直に感じることのできない人は、何なのだらうか。そして日本の統合性は同時に競爭の弱さを伴なふのも確かです。日本の統合性は何に由來するのか、島國、皇室、いや、、、あとは別の機會に。


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