泰西の學術では人間をユマニタスhumanitasとアンソロポスanthroposとに分けて考へるさうで、要するに文明人と未開人である。人類學anthropologyの文化研究の根本的虚構性がこの用語でよく分かるので、うまい區別である。ところが、この區別を論じる人々が左翼ばかりなのである。日本では西谷修といふ人が中心らしい。
http://d.hatena.ne.jp/hatohebi36/20150101/1420094099



https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0263775816678620


 西洋では文明人と未開人とを區別・差別して來たことを反省して、文明と未開とを同一視するのが近年のお約束(ポリコレ)である。結果的には「未開人を尊重する」ことしかできない。尊重の仕方も二通りしかできない。
 第一に未開人が西洋文明を學ぶ機會を尊重する。
 第二に未開人が未開のままであることを尊重する。
要するにポリコレから一歩も出ない。

 これだけ讀んで、普通の日本人なら不快感を抑へ切れないだらう。日本人はもとのままで文明人である。日本人の存在そのものが上記區分を無効化してゐる。

 一方、梅棹忠夫「文明の生態史観」以來、文明史觀といふのが流行で、川勝「文明の海洋史觀」とか色々あった。西洋でもハンチントン「文明の衝突史觀」といふわけだ。文明が衝突するのだから、西洋以外の文明の存在を認めてゐるので、一歩前進である。しかし東洋音樂など文化的分野では相變はらず文明と未開といふ基準が幅を利かせてゐる。

 19世紀には進化論が流行した。文明の進化史觀である。進化論を知った東洋人は、東洋が淘汰される危機を感じた。一般的な進化論の印象は、唯一の勝者西洋と、それ以外の敗者といふ對立だ。
 しかしどうも敗者にも進化論的に存在意義があると近年分かって來た。生物多樣性である。それを文化にもあてはめて、文化多樣性diversityといふわけだ。かけっこで順位をつけない教育だ。結局またポリコレに戻ってしまふ。

 私の考へは、文明の競爭史觀だ。基本は進化論と同じで、競爭するのだから、勝者も敗者もある。ただ唯一の勝者で最終決定してしまふのでなく、敗者にも次の勝機がある。試合續行不可能な選手が刀を捨てたならばもう攻撃しない。所謂武士道みたいなものだ。南北アメリカ先住民は他文明との間に壓倒的な差がついてしまったので、攻撃せず、尊重するのが正しい。しかし試合できる文明とは徹底的に戰ふ。容赦しない。
 日本はそんな文明競爭の中で、敗北を幾度も喫しながらも常に立ち上がって戰ひ續けて來た。負けたくせに勝ったと言ひ張るのが中華思想だが、日本は違ふ。負けを認めながら立ち上がる。負け惜しみの大本營發表だけは、中華思想的で宜しくなかった。

「天行健にして、人以て自強してやまず。」
易經の語だが、あまり儒教的でなく、自然的だ。


嚴復


ついでに、イチロー選手の引退會見。
「アメリカでは僕は外國人ですから。このことは、外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。」

みなさんはこの言葉にそのまま人の痛みを感じたでせうか。私には逆方向で響きました。イチローさんほどの人にそこまで感じさせる國、それが先進國といふもの。日本も先進國ですから、他國人が日本に來た時に同じやうに感じるのは當り前であって、思ひやりを持ちつつも矢張り競爭であり、容赦は無用。容赦なき競爭世界に生きたイチローさんの言葉は、他の人が言ふ思ひやりや痛みとは違ふ、さう思って感動しました。


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