尖閣開拓の初期、古賀氏が夜光貝を採取して財を成したことは良く知られるが、さらに良い話が江崎孝・山本皓一兩氏の文章に。

狼魔人日記 平成二十二年十二月十日。
尖閣諸島が、日本の国宝である奥州平泉の中尊寺と関わりがあるとか、日本の真珠王・三木本幸吉と縁が深い,さらには「卓球」という言葉は尖閣の2代目当主に端を発し、それが全国に流布した。

古賀辰四郎は尖閣に渡る前、石垣島の川平湾で日本の真珠王・三木本幸吉と共同出資で真珠の養殖を手がけ、貝殻細工の原料の夜光貝の輸出にも手がけ財をなした。 

昭和37年から始まる中尊寺の「昭和の大改修」では、貝殻細工の螺鈿の調達の話が京都大学を通じて古賀商店に舞い込んで来た。 当時沖縄の古賀商店は貝殻細工工芸・螺鈿では全国にその名を知られていたことがわかる。

二代目当主善次はテニスや卓球を沖縄に紹介したスポーツマンで、今でもテニスや野球に「古賀杯争奪戦」としてその名を残している。 ちなみにその頃2代目当主の善次は既に古賀商店の実務から遠のいており、商人というより沖縄の文化人としてベルリンオリンピックの見学に行き、その時沖縄紙の特派員を頼まれ、ベルリン報告記事を送信している。 

その時、当時「ピンポン」の名称に初めて「卓球」と」命名したのが善次だといわれている。 新聞の版組みにピンポンの活字が入らず困っていたところ善次の「卓球でよいだろう」との機転で以後、「卓球」という言葉がピンポンに代わって全国的に広まったという。 つまり「卓球」という言葉の始まりは沖縄の新聞、ひいては尖閣諸島の2代目の持ち主・古賀善次ということになる。

さて初代当主の古賀辰四郎が冒険心に溢れた野人の趣があるのに対し、二代目善次はお公家様の風貌を持つ文化人であり、中尊寺の大改修の話が舞い込んできた頃は、その事業のほとんどを番頭をしていた日高栄次郎の南海商会に引き継がしていた。名刺に肩書きの欲しかった善次は、南海商会の取締役の肩書きを使用していた。

さて、中尊寺の大改修の件だが古賀商店の仕事を引き継いでいた日高栄次郎が夜光貝の納入に奔走し、「大改修」を成功裡に終えることができた。 

石垣島の川平湾では今でも古賀辰四郎と三木本幸吉が手がけた真珠養殖が石垣名産の黒真珠となって輝いているし、奥州中尊寺には尖閣諸島の開拓者辰四郎の壮大な冒険心の結晶が中尊寺の螺鈿細工に化身して、今でも燦然と光り輝いていることになる。

チャンネル櫻沖繩支局、平成三十一年二月二十日、34:10より。

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尖閣を開拓した古賀辰四郎 (総力大特集 尖閣と領土を守れ!)
        山本 皓一        Will : マンスリーウイル (90), 264-271, 2012-06
 古賀家の事業は、昭和六年に魚釣島の払い下げが認められ、第二次世界大戦勃発後も続きましたが、昭和十九年頃になると、連合軍に制空権や制海権を奪われ、いよいよ油や食料など生活必需品などの輸送も困難となりました。涙を飲んで沖縄へ一時疎開をします。
 敗戦後、魚釣島は沖縄とともにアメリカの占領下におかれることとなりました。そして一九七二年に沖縄とともに返還され、その後は埼玉の資産家が古賀家より尖閣の島々を譲り受け、現在では日本政府が年間三~四千万円の借地料を払って、海上保安庁が管理する島となったのです。
 古賀家は善次に跡取りがなく、その後没落。辰四郎と共同出資で真珠養殖事業を行った大阪の御木本幸吉は、世界の真珠王「ミキモト」で名を馳せます。

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琉球眞珠社 石垣島の真珠養殖(戦前)
 1914年(大正3年)5月、御木本幸吉氏が石垣島登野城に事務所を開設し、名蔵湾観音崎と登野城美崎浜でクロチョウガイを使った真珠養殖に着手します。この事業には、石垣島で海産物商を営み、また尖閣諸島の開拓者として知られる古賀辰四郎氏が共同出資します。御木本氏は、かつて古賀氏から琉球泡盛を仕入れるなど、古賀氏とは旧知の仲にありました。当時、石垣島の古賀商店では、貝殻が貝ボタンの原料として需要があったヤコウガイやタカセガイとともに、クロチョウガイの買い入れも行っていました。
 名蔵湾の御木本真珠養殖場では、沖に向かって石積みの堤防を築き、その堤防内の海底で真珠母貝を養殖しました。そこで潜水作業をしていたのは三重県から来た海女たちで、石垣島の人々はその姿を物珍しそうに眺めたそうです。名蔵湾の養殖場は相次ぐ台風被害のため、崎枝屋良部崎へ移動することになります。古賀氏はこのころ共同経営から手を引きます。

ミキモト眞珠