昨日の記事「繩文一萬五千年を否定できず、こっそり書き換へる教科書」に追記。

 しばしば「五大文明は國家を形成したが、繩文に國家は無かったから文明の内に算へない」といった議論がある。そこには四つの問題がある。1、文明を年代で斷層して見える問題。2、國家といふ文化の傳播の問題。3、文明の條件の問題。4、文字記録の問題。

 1、文明を年代で斷層して見える問題。メソポタミアを最古の文明とする前提で議論する人は、メソポタミア以前の年代で切ることを拒否してしまふ。前提にもとづき結論を預設するに過ぎない。今から一萬年前で年代を切れば、五大文明は存在せず、繩文以外に雜多な文化が散在したに過ぎない。

 2、國家といふ文化の傳播の問題。國家といふ文化はメソポタミアで産まれ、西に埃及・希臘へ傳播し、東に印度・支那へ傳播した。傳播の遠近の問題があるため、國家といふ基準を先に前提としてしまへば、遠方の日本は必然的に遲れることになる。前提にもとづき結論を預設してはならない。
 國家は定義が難しいので、通常は都市の成立を以て國家の起源とする。ところが都市とは何か、聚落とどう違ふのか、となると、城壁を持つのが都市だとなる。この基準では、繩文のやうに異民族の侵入が無かった場合、城壁は築かれず、都市とならない。城壁基準を除外すれば三内丸山遺跡のやうな大規模聚落は都市である。

 3、文明の條件の問題。何を以て文明と看做すか、條件設定は必須である。統一的條件で文明の數を五つ乃至八つほどにしぼり込む必要はある。國家成立、農耕、文字、青銅、製鐵、など色々と基準は有り得る。私が提唱したいのは、同時代の最尖端であること、長期持續したこと、この二條件である。メソポタミア以後の年代で切れば、世界には先進文明が幾つか出現し、繩文は遲れを取る。しかしメソポタミア以前の人類にとって、文明とは何だっただらうか。その時代に未來であったメソポタミア文明は基準とならない。メソポタミア以前では、土器製造も立派な基準となる。今から一萬年前で斷代すれば、繩文土器は世界最尖端であった。且つ文明の長期持續といふ條件では、繩文が最長である。短く滅んだ文化は文明の内に算へない。よって斷言できる。「世界五大文明以前の文明は繩文だけであった。」

 4、文字記録の問題。文字記録を持つ文明は、詳細に實態が分かるので、歴史學に於いて文明として判定し易い。しかし文字はメソポタミアで産まれ、東西に傳播した。五大文明は全て文字を持つ。漢字もまた西方文明の文字の間接的影響下で産まれたと考へられる。從ってメソポタミアから遠い文明は文字を持つのが遲れた。文字出現以後の歴史を基準とすれば、繩文は遲れてゐる。しかし文字以前の時代を、文字以後の基準で見てはならない。文字以前では、繩文も世界文明に伍して負けない。

……とまあ、基準作りに苦勞するわけだが、簡單な基準を忘れてゐた。「繩文は世界最古にして現代まで繋がる唯一の新石器文化である。」。どうだ、これなら議論不要だらう。文明といふ語を使ふから怪しくなるのだ。所謂五大文明とは、要するに早期新石器文化ではないか。ならば繩文こそ主役なのだ。

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 ▲世界五大文明。ここに長江文明は加へて六大とせねばなるまい。

 長江文明は水田稻作の産みの親だから評價するが、チャイナではない。後にチャイナ殖民地になったのである。東南百越(長江文明)及び日本などの文化が存在しなければ、黄河文明の漢字は滅んでゐた筈だ。何故なら菅原道眞以後の北宋時代から、漢文の主流は長江流域以南となる。宋の著名古文家の内、歐陽脩、曾鞏、王安石は江西省の人。蘇洵、蘇軾、蘇轍は四川省の人。涑水相公司馬光だけが北方人だ。范仲淹は蘇州。黄庭堅も江西省。詩人晏殊も江西省。秦觀は揚州。林和靖は杭州。梅堯臣は宣城(安徽省)。
 北宋では程顥、程頤、張載、邵雍、といった形而上學だけが北方人を中心とした。しかし南宋になるとそれも福建の朱熹に移った。明國以後ではほとんど九割以上の文人が長江流域以南の人で、その内の半分ほどは呉越の人。長江文明無かりせば、漢文文明は滅んだのである。