歴史の先後として異論が無い順次。
1、舊石器時代。2、繩文時代。3、世界五大文明。
繩文が先である。教科書でも繩文は今から一萬五千年前に始まる。ところが。
教科書繩文順次

 このリンクによれば、主要各社教科書は繩文を最後に置いてゐる。とんでもない。文部省檢定は何をしてゐるのか。しかも繩文を先に置く正しい教科書も檢定を通過してゐる。なぜ不統一なのか。このリンクが誤ってゐるのか私は確認してゐないが、多分この通りなのだらう。とんでもない。
 しかも、このリンクで「中國文明」とは何事か。長江文明が黄河文明と別個に生起したことは近年誰でも知ってゐる。長江文明はチャイナではなかった。何故黄河文明にだけ現代國家の枠組みをあてはめるのか。
 黄河流域では、裴李崗(はいりかう)文化が最も早いが、後のチャイナには繋がらない。チャイナに繋がる黄河文明は今から3400年前、漢字創製で始まる。漢字以前でも二里頭文化後半(今から約3700年前)から二里崗文化に承け繼がれた青銅器は、後の殷の青銅器と共通するが、但し殷墟で漢字が出土するのと異なり、二里頭(河南省東部偃師)・二里崗(河南省中部鄭州)では漢字が出土しないため、殷の城址に非ずとする説が有力である。また殷の前半と時期が重なるため、殷以前の夏にも非ずとされる。
 いづれにしろ黄河文明は二里頭文化を算入しても今から四千年前(紀元前二千年)に始まり、世界五大文明の中で最も晩い。一方、繩文文明は彌生に繋がり、現代日本に繋がる。島國ゆゑに變化が少なかったのが原因だから、自慢することではない。しかし事實は事實だ。繩文は先輩、チャイナは後輩。明確だ。
 
帝國書院教科書
 リンク先によれば、上の圖は帝國書院の教科書だ。繩文の中期までが切り捨てられてゐるのは賣國的精神の發露である。ただチャイナ文明を紀元前1500年(今から3500年前)創始とするのは、黄河文明に置き換へれば正しい。青銅器及び漢字の創始だ。ところがこの圖で、希臘文明が黄河文明よりもずっと後の紀元前800年となってゐる。をかしいではないか。希臘語が文字で標記されたのは漢字と同時期の線文字Bださうだ。紀元前1500年。文字出現だけで言へば希臘文明と黄河文明とはほぼ同時期に始まる。しかしあのトロイア遺跡は紀元前3000年だ。希臘が先輩で黄河は後輩だ。教科書は誤ってゐる。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NAMA_Linear_B_tablet_of_Pylos.jpg
線文字B

 なほ、青銅器で黄河文明よりもずっと早い馬家窯文化は、甘肅省。位置的に見て西方文明から青銅器が傳はったことは明らかだ。しかも後の始皇帝秦國は、ヘレニズムの影響下の衞星國家に過ぎない。
 西方文明が先輩であり、黄河文明は後輩であった。これを逆にする文明の大嘘が罷り通り、現代の一帶一路のウソとなってゐる。日本政府の政策にまで影響してゐる。これこそ歴史戰である。20世紀の慰安婦とか何とかを産經新聞は歴史戰と呼んでゐるが、淺い。あまりにも淺い。歴史の歴は歴代の歴。長くなければ歴史ではない。20世紀は歴史のうちに算へない。

追記。
 二萬年前の仙人洞(江西省)が繩文よりも古いといふ聲が出るだらう。仙人洞は長江文明だから、チャイナではないのでご安心下さい。その年代も現代チャイナの測定だから信頼できるのかどうか、ゆっくり待つべきだ。周圍の地層で年代を測定したらしいので、頼りにならない。
 長江文明は水田稻作の産みの親だから評價するが、チャイナではない。後にチャイナ殖民地になったのである。東南百越(長江文明)及び日本などの文化が存在しなければ、黄河文明の漢字は滅んでゐた筈だ。何故なら菅原道眞以後の北宋時代から、漢文の主流は長江流域以南となる。宋の著名古文家の内、歐陽脩、曾鞏、王安石は江西省の人。蘇洵、蘇軾、蘇轍は四川省の人。涑水相公司馬光だけが北方人だ。范仲淹は蘇州。黄庭堅も江西省。詩人晏殊も江西省。秦觀は揚州。林和靖は杭州。梅堯臣は宣城(安徽省)。
 北宋では程顥、程頤、張載、邵雍、といった形而上學だけが北方人を中心とした。しかし南宋になるとそれも福建の朱熹に移った。明國以後ではほとんど九割以上の文人が長江流域以南の人で、その内の半分ほどは呉越の人。長江文明無かりせば、漢文文明は滅んだのである。
追記2。繩文遺傳子、彌生遺傳子といふことがよく話題になるが、、、 
  例へばこのリンクは大陸の遺傳子について細かく分析してないので無意味。現代の朝鮮半島もチャイナ北方もかなりの雜種なので、何とも結論は出ない。「大陸」と一括りにして朝鮮半島から日本へ矢印を引くやうな粗雜な議論は無駄である。現代朝鮮語と日本語との間も全く近親言語ではない。稻といふ南方植物とともに水田稻作が來たことを考へれば、長江以南から彌生人が來た可能性が高い。チャイナ南方も人種は色々だから、細かな分析が無いと駄目。基本的には文化史を考へれば呉越(江蘇と浙江)から彌生人が來た可能性が高い。呉人と言ってもかなり民族移動してゐて、古代では山東半島南部も呉だった。基本的に淮水(淮河)流域は古代ではチャイナではなく、淮夷であった。夷といふ漢字はもともと海外を指すのでなく、淮水附近の民族を指した。

追記3。
 しばしば「五大文明は國家を形成したが、繩文に國家は無かったから文明の内に算へない」といった議論がある。そこには四つの問題がある。1、文明を年代で斷層して見える問題。2、國家といふ文化の傳播の問題。3、文明の條件の問題。4、文字記録の問題。
 1、文明を年代で斷層して見える問題。メソポタミアを最古の文明とする前提で議論する人は、メソポタミア以前の年代で切ることを拒否してしまふ。前提にもとづき結論を預設するに過ぎない。今から一萬年前で年代を切れば、五大文明は存在せず、繩文以外に雜多な文化が散在したに過ぎない。
 2、國家といふ文化の傳播の問題。國家といふ文化はメソポタミアで産まれ、西に埃及・希臘へ傳播し、東に印度・支那へ傳播した。傳播の遠近の問題があるため、國家といふ基準を先に前提としてしまへば、遠方の日本は必然的に遲れることになる。前提にもとづき結論を預設してはならない。
 國家は定義が難しいので、通常は都市の成立を以て國家の起源とする。ところが都市とは何か、聚落とどう違ふのか、となると、城壁を持つのが都市だとなる。この基準では、繩文のやうに異民族の侵入が無かった場合、城壁は築かれず、都市とならない。城壁基準を除外すれば三内丸山遺跡のやうな大規模聚落は都市である。
 3、文明の條件の問題。何を以て文明と看做すか、條件設定は必須である。統一的條件で文明の數を五つ乃至八つほどにしぼり込む必要はある。國家成立、農耕、文字、青銅、製鐵、など色々と基準は有り得る。私が提唱したいのは、同時代の最尖端であること、長期持續したこと、この二條件である。メソポタミア以後の年代で切れば、世界には先進文明が幾つか出現し、繩文は遲れを取る。しかしメソポタミア以前の人類にとって、文明とは何だっただらうか。その時代に未來であったメソポタミア文明は基準とならない。メソポタミア以前では、土器製造も立派な基準となる。今から一萬年前で斷代すれば、繩文土器は世界最尖端であった。且つ文明の長期持續といふ條件では、繩文が最長である。短く滅んだ文化は文明の内に算へない。よって斷言できる。「世界五大文明以前の文明は繩文だけであった。」
 4、文字記録の問題。文字記録を持つ文明は、詳細に實態が分かるので、歴史學に於いて文明として判定し易い。しかし文字はメソポタミアで産まれ、東西に傳播した。五大文明は全て文字を持つ。漢字もまた西方文明の文字の間接的影響下で産まれたと考へられる。從ってメソポタミアから遠い文明は文字を持つのが遲れた。文字出現以後の歴史を基準とすれば、繩文は遲れてゐる。しかし文字以前の時代を、文字以後の基準で見てはならない。文字以前では、繩文も世界文明に伍して負けない。
……とまあ、基準作りに苦勞するわけだが、簡單な基準を忘れてゐた。「繩文は世界最古にして現代まで繋がる唯一の新石器文化である。」。どうだ、これなら議論不要だらう。文明といふ語を使ふから怪しくなるのだ。所謂五大文明とは、要するに早期新石器文化ではないか。ならば繩文こそ主役なのだ。
五大文明Sanso_1687_Asia_Rumsey11438147
  ▲世界五大文明。ここに長江文明は加へて六大とせねばなるまい。