尖閣グッズtakezo氏販賣301121
 上の寫眞は、尖閣を愛する炎の藝人たけぞう氏「尖閣グッズ販売」。寛永通寶の印字の何かの品物も賣ってるやうです。ついでながら、こちら領土室リンクに    
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/detail/s1890041600103.html
  寛永通寶の記録があります。尖閣領有前の明治23年に尖閣漁民(絲滿人)から塙忠雄といふ人が聞き取り調査を行なひました。その時に絲滿人らが差し出したのが寛永錢です。江戸時代の沖繩では寛永錢が流通してゐました。
 勿論、チャイナ船が琉球に來航した際にも琉球の寛永錢を見かけてゐて(李鼎元『使琉球記』に見える)、しかも寛永錢は清國でも流通してゐました。よって尖閣に寛永錢が有っただけでは100%の根據となりません。しかしチャイナ册封船が尖閣に停泊した記録はゼロで、しかもチャイナ側史料では「停泊できない」と五度も書いてますので、まあ寛永錢は江戸時代の日本人の上陸の痕跡でありませう。
 塙忠雄の調査史料は國吉まこも氏が發見し、國吉氏論文「塙忠雄と尖閣諸島」(温故叢誌66、平成二十四年)で
https://ci.nii.ac.jp/naid/40019489465
 論及されてます。後に私も論文「尖閣最初の上陸記録は否定できるか――明治から文政に遡って反駁する」(島嶼研究ジャーナル4-1、平成二十六年)
https://ci.nii.ac.jp/naid/40020882001
 の中で國吉論文を引いて論及しました。ついでながら塙の報告には、北小島らしき「離瀬」に「廣さ三疊敷」ばかりの洞窟があり、中に寢床があったと記録されてゐるます。少々慌て氣味の私は論文中で疊敷としてしまひました。
 さらについでながら、寛永錢について國吉氏は、薩摩船か、本土の南蠻貿易船の遺物だらうと推測してゐて、琉球に寛永錢が流通したことを前提としてゐないやうである。