ロシアと交渉すること自身に贊同できません。四島か二島かといふ問題ではありません。そこに「利」の問題があるならば、日本は孤立するアメリカを徹底的に助けて、クリミア、南支那海、ウイグルチベット南モンゴルなどなどの領土領域問題で全てロシアとチャイナの反對側に立つべきです。さうすればロシアとチャイナが孤立し、利を求めて日本にすり寄って來ます。何故逆に日本からすり寄るのでせうか。
 日本の教科書は、北方領土どうかうでなく、千島列島の繩文文化として堂々と取り上げるべきです。ここ數十年の繩文研究により、繩文文化領域と現代日本との一致度の高さが明らかになってゐます。その繩文の地を返還する筈のない、ロシアといふ國そのものの恐怖を理解させる教育が必要です。「沖繩そのものをアメリカが返還しない」くらゐの問題として意識せねばなりません。現在は單なる領土問題扱ひだから、ロシアとうまくつき合って返還してもらはうみたいな意見が出て來ます。

擇捉島繩文土器
擇捉島繩文土器2
   ▲擇捉島の繩文土器。

 考古學の成果としては、中部千島から繩文遺跡ありとのことです。または南千島の擇捉からが繩文だといふ見解もあるやうです。そして繩文を承けたアイヌ文化は北千島最北端の占守(しむしゅ)島まで及んでゐたさうです。カムチャッカ半島にもアイヌ人がゐたさうです。アイヌ語の起源は不明ですが、アイヌ人が繩文人であることは血縁的にも考古學的にも明らかになりつつあります。
 琉球と竝列すれば、繩文文化は沖繩本島と擇捉島まで。北千島と宮古八重山はその後の琉球文化とアイヌ文化。どちらも日本なのです。眞珠灣攻撃の出航地、單冠灣(ひとかっぷわん)は擇捉島中部です。繩文の祖地からアメリカに戰ひを挑んだのです。

日本を救った「占守島」の真実 ironna特輯  
https://ironna.jp/theme/435

「1945年、占守島…日本を分断から救った男たち」早坂隆   
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2637

池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い
https://ironna.jp/article/2415

上原卓、2013年祥伝社新書『北海道を守った占守島の戦い』

以下、千島列島の繩文文化について最新の論文。

千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(3)
特に北方四島の先史文化研究を中心に
    右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
    北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 3, 163-178, 2018
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol3/

千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(2)
特に北方四島の先史文化研究を中心に
    右代 啓視 , 鈴木 琢也 , スコヴァティツィーナ V.M.
    北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 2, 83-110, 2017
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol2/

千島列島における人類活動史の考古学的総合研究(1)
特に北方四島の先史文化研究を中心に
    右代 啓視 , 鈴木 琢也 , 竹原 弘展 , スコヴァティツィーナ V. M.
    北海道博物館研究紀要 = Bulletin of Hokkaido Museum 1, 53-72, 2016
http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/study/publication/bulletin_vol1/

「北方島文化研究會」2000年3月11日発足
第3回研究会(2001年1月27日)
「続縄文時代の骨角牙製釣針」 福井淳一  
「カムチャッカの調査報告」 右代啓視

「択捉島に 地元の子ら、縄文住居復元 考古学調査きっかけに」
会員限定有料記事 毎日新聞2017年6月13日 北海道朝刊
 北方領土の択捉島で昨年、日本の学術交流団体によって確認された縄文時代の遺跡について、現地の子供たちでつくる「先史文化探検隊」(26人)が結成され、遺跡の保存などに取り組んでいる。同島を含む北方領土の先史時代の研究は、日露の学術交流で2005年に始まった。今後の交流を進める環境づくりとして期待されている。今年度のビザなし渡航事業で、11日まで同島を訪れていた北海道博物館の学術交流訪問団(右代啓視(うしろひろし)団長)が記者会見で明らかに…

2016.7.24.釧路新聞
https://pbs.twimg.com/media/DjCFhjoUwAEKRhH.jpg
釧路新聞20160714國後繩文


「中華文明の考古學」飯島武次編  同成社, 2014.3
内:右代啓視 「北方四島の考古学的研究」.   pp.409-424.
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB15060302
長崎純心購入すべし。


「縄文の布 : 日本列島布文化の起源と特質」
尾関清子著  雄山閣, 2012.12 
(閲覽濟。pp.176-185「近隣地域の編布」章で、
 千島最北部占守島アイヌ編布を論じる。オホーツク文化。)


「縄文時代 : その枠組・文化・社会をどう捉えるか?」
山田康弘, 国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館, 2017.3 
(閲覽濟。繩文文化の北限は擇捉までとする。右代氏見解と異なる。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB23200236


右代啓視 2014講演 「新・千島紀行-発見された千島列島の先史文化-」.
函館市北方民族資料館、函館市文化・スポーツ振興財団.
右代啓視20141026新千島紀行発見された千島列島の先史文化

右代啓視新千島紀行

右代啓視「千島列島における人類活動史の考古学的総合研究」(3)
(北海道博物館研究紀要3,  2018)では、
右代啓視2014「新・千島紀行-発見された千島列島の先史文化-」について、
「確実に中部千島までは縄文文化晩期、続縄文文化の遺跡が存在すること、
さらにオホーツク文化は北千島まで拡がりをもつこと、
アイヌ文化はこの地域に特徴的にみられる内耳土器が
カムチャツカ半島南部まで拡がりをもつこと、
チャシ・コツは北千島まで拡がりをもつことを指摘してきた。」

と自ら述べる。講演であるが、詳細記録が公開されてゐない。
最初は講演でなく論文かと思って搜した。
函館市北方民族資料館に問合せた處、講演だったと分かり、
上の圖像も入手できた。しかし講演詳細記録が無い。
詳細の公開されないものを引用されると中々苦勞する。
今度右代先生ご本人から詳細記録を頂くべく問合せよう。


以下某個人頁より。
 千島列島における縄文遺跡の発掘から、北海道から伝播した縄文文化は、少なくとも列島中間に位置する新知島(シムシル島)まで及んでいることが分かっている。列島最北端の占守島(シュムシュ島)、その直南の幌筵島(パラムシル島)では縦穴住居、貝塚、北海道のオホーツク文化に属する遺物が発見されている。占守島の住民はアイヌ語を話していたことが分かっている。また、カムチャツカ半島南部では、寛永通宝、擦文文化、アイヌ文化に特徴的な内耳土鍋が発掘されている。これらのことから、縄文人やアイヌ民族は北海道から千島列島を渡りカムチャツカ半島南部まで入植していたことが分る。1696年にカムチャツカ半島南部に進出したロシア人は、この地で陶磁器、漆器、木綿服その他の高度な技術で作られた日本製品に接している。カムチャツカ半島南端に住むアイヌ民族を、後にロシアはクリル人と呼び千島列島をクリル諸島と名付けた。千島列島全島にアイヌ語の名称が付けられている。
http://afthistory.info/ryodo.htm